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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

葬儀・法事は何のため!? [葬儀・法事とは]

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(真実の仏法を説いておられる先生ご執筆の「とどろき」より載せています。)

葬儀・仏事は何のため?
誰にも聞けなかった仏教の“モヤモヤ”解消します。

(25年8月のとどろきを載せています)
セミの声を耳にしながら、
盆に家族親戚と墓参り。
夏の風物詩、恒例仏事ですが、
「この墓参りや法事で、
ご先祖さまは本当に喜んでいるの?」
と、ふと思うことはないでしょうか?

それは、伝統や形式を重んじる旧来の考えと、
私たちの心情・実情が、合わなくなってきている、
と感じる人が、昨今多いからです。
そこで今回は、私たちの身の回りで起きている
さまざまな仏事のトラブル、実例を見ながら、
仏教を説かれたお釈迦さまはどう教えられているのか、
その教えをものさしにして
「知っているようで知らない仏事」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
全国紙でも仏事が話題に
     驚きの事例あれこれ

近年、葬儀も墓も自由にしたいと、
これまでの形式を見直す風潮があります。
しかし、旧来、葬儀を取り仕切ってきた僧侶や寺院が、
そういう変化を受け入れられず、
問題が各地で起きているようです。

今年3月『朝日新聞』に、仏事に関する投書が続けて
掲載され、約1ヶ月にわたって議論が交わされました。
幾つかの内容を紹介しましょう。

【69歳男性から】

知人は、亡き父が
「葬儀はお金がかかるから、
戒名(かいみょう)も僧侶の読経も不要」
と言っていたのです。
手次の寺に納骨だけを依頼した。
ところが、
「当宗の習慣にのっとった葬儀をしなかったので、
埋葬できない」
と言われ、やむなく読経し、戒名をつけて納骨。
また、親友が亡くなった時、
その奥さんは友人葬をして
先祖の墓地に納骨しようとしたが、
同様の理由で寺から拒否された。
憤慨した奥さんは民間の墓地を買い、
先祖の骨ごと移した。


【74歳男性の体験】

21年前に、交通事故死した母の通夜でのこと。
僧侶から「大姉(だいし)」の戒名を贈るように言われた。
先祖は皆、信士(しんじ)・信女(しんにょ)だから、
それより上の「大姉」はつけられないと断った。
すると「祖父母と父にも居士(こじ)、大姉を
追贈すればいい。費用は400万円」と言われた。
母を失った悲しみに沈んでいた時に、
心を踏みにじられた気がした。
自分は、戒名も僧侶の読経も墓も不要。
私の骨は山野に埋めてもらったらいい。


大切な人の死
  “私はどうすれば?”

大切な人が亡くなったあとに、
何をすればよいのか、
とりわけ親には不幸してきた過去が思い出され、
悔やみます。

今更、何をすることもできないが、
何かせずにはいられない。
やり場のない心から、墓に酒や水をかけ、
語りかけながら、
好物を供え花を立てたりするのでしょう。

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亡くなった親や子供は、夫・妻は、
今頃どうしているのか、苦しんでいないか、
寂しい思いをしてはいないか、分かる手がかりもない。
死んだ後のことなど、勉強したこともないから、
ここは専門家の僧侶に委ね、
言われるままに法名をつけ、
葬式、納骨をするしかない。

近所の目もあるから、常識と外れたことはできない。
ほとんどの人がそう思い、形式どおり事を進めます。

しかし、亡くなった人の死を無駄にしたくない、
今からでもその人のために何かしたいという願いは、
本当にそれで、かなえられるのでしょうか。

正しい仏教を知れば、
どうすれば亡き人を幸せにできるか分かり、
前述のような問題もおのずと解決します。
お釈迦さま、親鸞聖人にお聞きしましょう。

お経は生きている人に説かれたもの

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第6巻には、
こんな場面がありました。

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あるお弟子が、お釈迦さまにお聞きしました。
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽へ往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」
その時、お釈迦さまは、無言で立ち上がり、
小石を一つ手に取られて、
池に投げ込まれました。
輪を描き沈む石を指して尋ねられたのです。
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、
と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか?」
質問に驚いて
「そんなことで、石が浮かぶはずがありません」
と答えた弟子に対し、お釈迦さまは
「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」
と説かれました。

読経で死者が救われるということは、
本来仏教にはありませんでした。

お経は、お釈迦さまが生きている人に
説かれた説法を記録したものです。

お釈迦さまは、死人に説法されたはずはないのですが、
どう間違ったのか、今日お経は、
死人のごちそうとまで誤解され、
それが常識になっているほどです。

お釈迦さまの御心を、親鸞聖人は明らかになされ、
生きている人が、生きている間に、
永遠の幸福になれる教えを説かれました。

葬儀・法事は仏法聞くご縁

では葬式や法事や読経などはしなくてよいのかと、
親鸞聖人にお聞きした女性に対し、
アニメではこのように教えられています。

聖人 「(葬式や法事は)多くの人が集まるよい機会だから、
    亡くなった人をしのんで、
    みんなで仏法を聞くご縁にしなければもったいない。
    それが亡くなった人の最も喜ぶことなんだからね

女性 「みんなで仏法を聞くことが、そんなによいことなんですか」

聖人 「そうだよ。仏法にはどんな人も本当に幸せになる、
    たった一つの道が教えられているのだからね。
    亡くなった人をご縁として無常を見つめ、
    真剣に後生の一大事を心にかけて、
    一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
    みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
    これほど尊いことはないのだよ

       (アニメ『世界の光・親鸞聖人』第6巻)

厳粛な葬式を縁として、はかない人間の命を観じ、
聞法精進すれば、得がたい勝縁となります。

また、法事もチンプンカンプンの読経だけで終わっては
詮がありません。
そのお経に説かれている教えを
正しく聞かせていただいてこそ、
意味があります。
仏教で教えられる、本当の救いを知って、
法事を幸せへの機縁といたしましょう。

仏事の“トラブル”
 その原因は何?
   
      親鸞さまの御心に立ち返る

仏法上の行き違いや誤解は元をたどれば、
ある“原因”に行き当たります。
真の仏法を勤めるに大切な「仏の教え」
を親鸞聖人からお聞きしましょう。

●蓮如上人の戒め

前章で取り上げたような門徒と僧侶の
“トラブル”は、実は今に始まったことではありません。

親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の時代にも、
同様の記録が残っています。
蓮如上人は『御文章(御文)』に、
「門徒の方より物を取るを善き弟子といい、
これを信心の人といえり。
これ大(おおき)なるあやまりなり。
また弟子は坊主に物をだにも多くまいらせば、
わが力かなわずとも、
坊主の力にて助かるべきように思えり。
これもあやまりなり」
           (一帖目十一通)
と、寺の存続や自身の生活を優先して、
布施の大小で往生が決まるように説く
邪を戒められています。

同様のことは『歎異抄』にも書かれていますから、
親鸞聖人がお亡くなりになった直後にも、
すでにそういう者が多くいたのでしょう。
彼らは門徒を「わが弟子(自分の資産や所有物)と考え、
門徒が他の場所に行って仏法を聴聞すると、
財産を取られたように思って腹を立て、
折檻して、今度、別の場所で聞法するのを禁じてしまう。
これは自損損他(じそんそんた)である、
と『御文章』一帖目一通にも記されています。
僧侶が教えも説かず、門徒の聞法さえも妨げる。
何とあさましいことか、
と蓮如上人はこう猛省を促されています。

「皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、
また浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、
徒に明し空しく月日を送りて、
更にわが身の一心をも決定(けつじょう)する分も
しかじかともなく、また一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、
一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし。
ただ朝夕は暇をねらいて、
枕を友として眠り臥せらんこと、
まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻(めぐ)らすべきものなり

        (御文章二帖目十二通)
地獄に堕ちる後生の一大事を思わず、
浄土往生して無上の楽果を受けることをわきまえず、
日々をむなしく送り、真実の信心を獲得せず、
尊い聖教を開いて学びもせず、
一句の仏語を伝えて門徒を教化しようともしない。
ただ朝夕、世間事に明け暮れ、
暇さえあれば怠けてばかりいる。
まことにあさましい限りである。
よくよく深く受け止めねばならぬ

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善知識から聞く

仏法を聞かせていただく私たちは、
まずものさしとなる正しい教えをよく知ることが大事です。
そこで、教えを正しく伝えられる師(善知識)を
求めて聞かねばなりません。

「イヤァ、別に私は教えはどうでもいいんだ。
葬儀や法事さえしてもらえれば・・・」
と言われる方もあるかもしれませんが、
それでは先祖は喜びませんし、
自分のためにもなりません。
仏法は、誰から聞いてもいいのではないのです。
善知識について、蓮如上人はこう仰います。

「善知識の能というは
『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と、人を勧むべきばかりなり。(乃至)
されば、善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』
と言える使なり」

         (御文章二帖目十一通)

善知識とは仏教の結論である。
「一向専念無量寿仏」
(弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ)
一つを教え勧められる方であります。
すべての人の後生の一大事は、
弥陀の本願によらねば、
絶対に解決できないからです。

この「一向専念」の教えを蓮如上人は、

皆々心を一(ひとつ)にして、阿弥陀如来を深く
たのみまつるべし。
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、
ゆめゆめあるべからず

         (御文章四帖目十通)
誰人も心を一つにして弥陀を一向にたのまねばならぬ。
それ以外にどんな教えを信じようとも、
後生の一大事の助かることは絶対にないのだ

末代無智の在家止住(ざいけしじゅう)の男女たらん輩は、
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、
一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖目一通)
すべての人は一心に弥陀一仏を深くたのみ、
他の神や仏に心を向けてはならなぬ。
一向専念無量寿仏に救い摂られた人は、
どんなに罪が深くとも、
必ず弥陀は浄土に往生させてくだされるのである

と易しい表現で教えられています。

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無上の仏
 弥陀一仏を信じなさい

私たちを救ってくださる阿弥陀仏とは
どんな仏さまなのでしょうか。
地球上で最も尊いお釈迦さまが、
言葉を窮め(きわめ)、
褒め称えられる大宇宙最高の仏さまです。

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

         (大無量寿経)

阿弥陀仏のお力は、大宇宙最尊であり、
十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れたお力である

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無極なり

         (大阿弥陀経)
阿弥陀仏は十方諸仏の王である。
そのお力は十方諸仏の中で最も強く尊く、無限である

釈迦の説かれた一切経には、
このように至る所に阿弥陀仏を
称讃されていますから、
天台宗の僧・荊渓(けいけい)でさえ、
諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り
と言っています。

阿弥陀仏は、諸仏にズバ抜けたお力で、
われらの後生の一大事を
解決してくだされる唯一の仏なのです。
だから、弥陀一仏を信ずることが、
弥陀の弟子である諸仏方の
最も喜ばれることになるのです。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや

           (御文章二帖目九通)
阿弥陀如来は大宇宙の諸仏の先生である。
すべての仏は「早くわが師・弥陀に救われなさいよ」
と勧めておられるのだから、
我々が弥陀に救い摂られることが、
諸仏方の最も喜ばれることになるのである

お盆などの仏事は、この大宇宙最高の阿弥陀仏に向かい、
救っていただくご縁としたいものです。

   (8月号のとどろきより載せています)

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●「後生の一大事、
  必ず救ってみせる」

では、阿弥陀仏に救っていただきなさい、
と言われる「後生の一大事」とは何でしょう。

「後生」とは、死後、来世のことです。
死と聞けば遠い先のこと、
自分とは無関係のように私たちは思っていますが、
それは本当でしょうか。
5月、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、
乳ガン予防のため乳房を切除したと公表し、
話題になりました。

母親や叔母をガンで亡くした彼女は、
自身もガン抑制の遺伝子に異変が見つかり、
乳ガン87パーセント、卵巣ガン50パーセントの
リスク(危険性)があると診断されたためです。
この手術で彼女の乳ガンの危険性は5パーセントになり、
多くがアンジェリーナさんの決断を称えました。
しかし考えてみれば、ガンのリスクは低下しても、
死ななくなったわけではありません。

100パーセントの未来に死が待ち受けている
事実は変わらないのです。
しかも、これは命あるすべての人に
共通の大問題ですから、
“自分は無関係”と安閑(あんかん)としていられる人は
一人もありません。

私たちも目前に死が突きつけられれば、
何を措(お)いても逃れたいと
必死で抵抗するでしょう。

絶対に死にたくない者が、
しかし絶対に死なねばならない。
これを人生最大の矛盾といわずして
何といいましょうか。

この生死の一大事、後生の一大事を
阿弥陀仏に救っていただき、
この世は絶対の幸福、
いつ死んでも弥陀の無量光明土(浄土)に
生まれる身になることが、
人間に生まれてきた唯一の目的なのです。
命尽きて、浄土で仏のさとりを開けば、
亡くなった肉親がもし六道で苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力で救うことができるのだよ

と親鸞聖人は仰っています。

真の仏事は、自他ともに
弥陀の救いにあう勝縁ですから、
その意義を正しく知り、
祖師の御心にかなった本当の
お盆を過ごしていただきたいと思います。

(25年8月のとどろきを載せています)

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タグ:葬儀 法事
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コメント 2

ちゅんちゅんちゅん

こんにちは!
法事のときしか顔を合わせない親戚。
多分 道で会ってもお互いわからないくらいで。
そんな法事を経験してきましたので
今回のお話はこたえました。
by ちゅんちゅんちゅん (2014-03-25 16:59) 

minsuke

ちゅんちゅんちゅんさん、コメントありがとうございます。
葬式、法事は後生の一大事の解決をするための勝縁にしないと
もったいないです。
人が死んだのを見れば、その命のはかなさが分かりますし、
白骨になるのを見れば、無常観が身に沁みます。
それによって、菩提心が起き、
五欲に振り回されてはかない幸せを追い求めるばかりでなく、
永遠に崩れない幸福になる道はないのかと考えることが大事なのです。
仏教はその方法を教えています。
阿弥陀如来に救われ、今生から絶対の幸福にしていただき、
死ねば極楽に往生し、
永遠の楽果を得させていただけることが人生の目的だと
この記事は教えているんですよ。
by minsuke (2014-03-26 01:43) 

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