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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

弥陀の光明に2つあり! [阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)
                  (親鸞聖人・正信偈)

帰命無量寿如来
南無不可思議光

この有名な冒頭二行は、
親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました

と読み、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ。
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ

と叫ばれている聖人の告白です。

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阿弥陀如来については蓮如上人が、
ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり
」(御文章)
と、分かりやすく教えられています。
阿弥陀如来は、大宇宙のすべての仏方を指導する、
先生である

と言われているお言葉です。
大宇宙の仏方は、阿弥陀如来のお弟子なのです。
お釈迦さまも含めて大宇宙の仏方が皆、
阿弥陀如来のことを「本師本仏だ、われらが先生だ」
と尊敬し絶賛するのは、自分たちにはないお力を、
阿弥陀如来だけが持っておられるからです。

そのいろいろなお力に応じて、
阿弥陀如来にはたくさんのお名前があります。

中でもよく言われているのが、
「無量寿如来」と「不可思議光如来」
です
から、
親鸞聖人はこの二つのお名前を
『正信偈』の最初の二行に出されて、
「無量寿如来の阿弥陀如来に救われたぞ。
不可思議光の阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返されているのです。
同じことを二回言われているのは、
何度言っても言い足りぬ、どれだけ書いても書き尽くせぬ、
弥陀に救われた歓びの広大さを表されています。


では、その弥陀の救いとは、どんなことか。
救われる前と、救われた後とでは、
どう変わるのか。

それを親鸞聖人が教えられているお言葉が、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行です。

摂取不捨の利益

「摂取」とは、「摂取不捨の利益」のこと。
「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”をいいます。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を
「摂取不捨の利益」と言われるのです。

「絶対の幸福」といえるでしょう。

私たちは、健康から、子供から、恋人から、
友人から、会社から、金や財から、名誉や地位から、
捨てられはしないかと、毎日ビクビクしてはいないでしょうか。
彼女にフラれるんじゃないか。
メールの返信しないと仲間はずれにされるんじゃないか。
やっともらえた内定、取り消されたらどうしよう。
定年退職した途端に妻から離縁状を突きつけられたら大変だ。
病院から再検査の通知が来たが大丈夫かなあ。
うちの子が事故や事件に巻き込まれたらどうしよう、

薄氷を踏む不安にいつもおびえています。
楽しみも夏の夜の夢、幸せもつかの間の幻、
浜辺の砂に指で書いた文字のように
儚いものだと知っているからです。

たとえしばらくあったとしても、
やがて、すべてと別れる時がきます。

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まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
ただ一人こそ行きなんずれ

             (御文章)

いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、
いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りにならぬ。
誰もついては来てくれぬ。
すべてから見放され、独りぼっちでこの世と別れて、
いったい、どこへゆくのだろうか

咲き誇った花も散る時が来る。
死の淵に立てば、必死にかき集めた財宝も、
名誉も地位も、何もかもわが身から離散し、
一人で地上を去らねばなりません。

こんな悲劇の結末に向かっている私たちに、
死が来ても崩れない「摂取不捨の幸福」のあることを
明示されているのが、親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)

“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、
誰もが求める人生の目的なのです。

阿弥陀如来の光明に、二つあり

次に「心光」とは、阿弥陀如来のお力のこと。
「光明」ともいわれるのですが、
阿弥陀如来の光明の働きに、大きく分けて二つあることを、
よく知っていただかねばなりません。

「遍照(へんじょう)の光明」と「摂取の光明」
の二つです。

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「遍照の光明」とは、“遍く(あまねく)照らす”
とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている
阿弥陀如来のお力です。

アメリカ人にも中国人にもアフリカの人にも日本人にも、
古今東西の人々すべてに働いている。
またキリスト教を信じている人も、
イスラム教者も天理教の信者も。
みんなを照らしておられる阿弥陀如来のお力を、
「遍照の光明」と言われるのです。
この光明に照らされていない人は、一人もありません。

次に「摂取の光明」とは、「摂取不捨の幸福」に
救い摂る弥陀のお力をいわれます。

政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなど
あらゆる人間に営みは、幸福の追求以外にありません。
ストレスに耐えて働くのも、
資格取得や大学受験に励むのも、
スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、
いろんな健康法やダイエットを試したり、
合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや
食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、
よろこびや満足を求めてのことでしょう。
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しかも私たちは決して、“夢のまた夢”と
消える幸せのために生きているのではない。

一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福こそ、
私たちの願いであり、人生究極の目的です。


その「摂取不捨の幸福」に
一念で救い摂る阿弥陀如来のお力、
人生の目的を果たさせるお力を「摂取の光明」といわれ、
『正信偈』のここでは「摂取の心光」と言われているのです。

「一念」とは、何兆分の一秒より短い時間のこと。
弥陀の「摂取の光明」によって
「摂取不捨の幸福」に救い摂られるのは、
アッという間もない一瞬であると、
親鸞聖人は教えられています。

2つの光明の違い、分かれ目

この「一念の救い」に遇わせるまで、
何としても導かんと、
大宇宙のすべての人を照らして、
押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと
種々に働いてくだされている弥陀のお力が、
先に述べた「遍照の光明」です。

これを「調熟の光明」ともいわれます。
「調熟」とは、一念で人生の目的を果たすところまで、
私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくださること。

例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか・・・」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に・・・」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、
といえましょう。
シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、
どうしても要るのです。

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阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」
を与えることができるかと、種々にご苦労なされています。
仏(ぶつ)とも法(ほう)とも知らなかった私が照育されて、
無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、
仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。
そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、
私たちの心を調えてくださる、
その弥陀のお働きを「調熟の光明」といわれ、
これは大宇宙すべての人に
差別なく平等にかかっているお力ですから、
「遍照の光明」といわれるのです。

このように阿弥陀如来の光明には、
「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、
二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。

その違いを知らないと、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行が正しく読めないからです。

二つの光明の違いを一言で言えば、
「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、
「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。
ここが、まったく違うところです。

要の中の要

次に「常照護」とは、「常に照らして、護ってくだされる」こと。
一念で阿弥陀如来の「摂取の光明(心光)」に救い摂られた後、
弥陀のお力は途切れることなく、
ずっと護ってくだされるのだよ、といわれているのです。

これは「摂取の光明」に遇い
「摂取不捨の利益」に救い摂られた人(=信後)のことであって、

弥陀に救われていない人(=信前)のことではありません。

言葉を換えれば、親鸞聖人はここで、
弥陀の光明の働きを「遍照」と「摂取」の二つに分けられて、
その中の「摂取の光明」のことをおっしゃっている、ということです。
「摂取の心光(=摂取の光明)は、常に照護したまう」
と言われているのですから、明らかですね。
ゆえに、「平生の一念に摂取されたか、どうか」
こそが大問題なのだ
と蓮如上人も、こう断定されています。

たのむ一念のところ、肝要なり(御一代記聞書)

たのむ一念」とは、「弥陀に摂取された一念」
「人生の目的を完成した一念」のこと。

「肝要」とは「要の中の要」の意であり、
これ以上大事なものはないことをいわれます。

この「たのむ一念」こそ、地獄と極楽の分かれ目であり、
信前・信後の水際であり、自力と他力の分岐点であるから、
仏教で最も重い言葉を使われているのです。

ところが、この肝要がすっぽり抜けると、
例えば、「阿弥陀さまのお力は今ここに届いている。
だからみんな助かっている」などと誤る。
これは「遍照の光明」と「摂取の光明」との区別がつかず、
一緒くたにしているのです。
大事なところですから、重ねて申しましょう。
「遍照の光明」に照らされていない人は一人もありませんが、
「摂取の光明」に遇わねば「摂取不捨の利益」は頂けず、
死後、弥陀の浄土へも往かれません。
「誰でも彼でも死ねば浄土に往ける」のではない。

だからこそ親鸞聖人は、朝晩の勤行(おつとめ)で、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
とおっしゃって、
早く弥陀の『摂取の光明』に遇わせて頂きなさいよ。
平生の一念に、未来永劫の浮沈が決するのだからね」
と、現在ただ今の救いを強調されているのです。


 


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