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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

葬儀・法事とは ブログトップ

暮れゆく人生を安心して生き抜く~ 「墓じまい」と真実の仏法 [葬儀・法事とは]


   
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今年の7月30日の『朝日新聞』に、
目を引く奇妙な写真と記事が掲載されていました。
その写真とは、一見、ただの岩石の山なのですが、
よく見ると石に人の名前や言葉が刻まれています。
それは、管理する人のいない、いわゆる無縁墓が撤去され
山奥に捨てられた残骸でした。

日本は少子高齢化社会からさらに進み、
今や少子多死社会へと突入しつつあります。
そのことがもたらす社会現象の一つとして、
墓じまい」問題が浮上してきたことを、
新聞はこの写真で示していました。
今月は、このことを通して考えてみましょう。

●忘れていませんか?
     墓や遺骨より大事なこと

墓じまいとは、故郷にある墓を撤去し、
遺骨を永代供養の合葬墓などに移すことをいいます。
理由はさまざまで、少子化で子供がいない、
いても女の子では跡を継いでもらえない、
跡継ぎはいるけれど遠方に住んでいる、などです。
だから自分が死んだら誰も先祖代々の墓を
管理する者がいないということです。
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墓の撤去など、遺骨を取り出して墓を解体し、
更地に戻すだけのことと思いますが、
そこに至るまでの過程が実は大変で、
多くの人がどうすればいいか悩んでいます。
具体的には、寺院の墓の場合、
200万円もの高額な金額を要求されるケースがあります。
また、古い墓の管理者からの「改装許可申請書」、
遺骨を移す先の霊園の「受入証明書」などを用意し、
自治体への手続きが要ります。
こうして金銭面での負担や手続きの面倒さに加え、
親族が先祖の墓をなくすことに反対し、
不義理を責められるなど精神的苦痛を味わうことも多いようです。

読者の中にも、墓じまいをするかどうかで
お悩みの方もあると思います。
本誌では、この「墓」の話題を通して私たちの心の根底にある
「迷い」について考えてみましょう。

親鸞聖人のみ教えから振り返ってみたいと思います。

●墓に行けば肉親に会える?

私たちは死んだ後、本当に墓の下に入るのでしょうか?
墓に遺骨を納め、毎年遠くから墓前までやってきて、
頭を下げたり線香を供えるのは、
墓へ行けば懐かしい人に会えると思うからでしょう。
大切な人がそこにいないのなら、
わざわざやってくる意味もなくなります。
このような、「墓や遺骨に死者の魂が宿っている」
という日本人に一般的な思想は、
古代神道や儒教や道教などが入り交じって
形づくられたものといわれています。
亡くなった肉親をしのび、
懐かしむ心情は人として当然ですが、
果たして「遺骨=肉親」なのでしょうか。
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「世界の光」と称賛される親鸞聖人は、
「私が死ねば、屍を加茂川に捨てて、魚に食べさせよ」
と、衝撃的なことを仰っています。

「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々」
               (改邪鈔)

川へ捨てれば墓に納める骨も残りませんから、
墓や遺骨を全く問題にされていないことが分かります。

良識ある人ほど「何てことを!」と驚く聖人の発言は、
私たちに何を教えんとされているのでしょう。

●肉体も脳も、すべては「私」の持ち物

そもそも、私とはどこにいるのしょう。
「これが私です」と指差しているのは、私の「体」です。
私たちの家や車、時計や指輪などは、
私たちの「持ち物」であるように、
自分の肉体、すなわち心臓や肺、胃腸なども、
やはり自分の所有物であって、
私そのものではないと仏教では教えられます。
骨もその人の持ち物であって、
その人自身ではないのです。

ですから、いかに慣習とはいえ、骨に特別な意味を持たせ、
遺骨の取り扱いいかんで
死んだ人の後生が左右されるように思ったり、
礼拝供養の対象にするのは、
昿劫流転の真実の自己を知らないところからくる迷いと、
仏教では教えられるのです。

「脳が私だから、死んで脳が消滅すれば無になる」
というのは唯物論者の主張ですが、
世界的に著名な脳外科ペンフィールドは、
「唯物論」の立場で脳の研究に生涯をささげた末、
脳と私とは別だと考えるほうが、
合理的だという結論に達しています。

心の働きはすべて脳の仕組みに帰するという
十分な証拠はない。
私は人間は2つの基本要素から成ると考えたほうが、
一つの基本要素から成ると考えるよりも理解しやすいと結論する

               (『脳と心の正体』)
ペンフィールドは、古くなった車を乗り換えるように、
「私」は数え切れないほどの脳を乗り換えてきたのだろうと、
推測しています。

私たちの肉体は80年か100年の「借り物」ですが、
「真の私」は肉体が滅びたあとも永遠に続くのです。
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●死出の旅路に
    連れはない

平生は、「死んだら無だ」と主張している人でも、
肉親や友人などの告別式になると、
途端に態度を変え、「冥福を祈ります」とか
「御霊前で謹んで申し上げます」
などと述べるようになります。
死んで何もなくなるのであれば、
「冥土の幸福(冥福)」も、「霊の前(霊前)」もありえないはず。
単なる周囲への配慮というだけでは済まされない、
何か神妙なものがそこにはあります。
それは一片の知性や理屈で死後の世界を否定してみせても、
本心では死後の実存を否定しきれないでいるからでしょう。

生まれた時が「人生列車」に乗った時。
駅に着くたび出会いがあり、別れもあり、
しばらく車内で一緒に過ごせても、
降りた先は一人一人が別々の道を歩まねばなりません。

「独り生まれ 独り死ぬ
独り来て 独り去る」
      (大無量寿経)

親や兄弟、子どもたちとスクラム組んでの
人生行路をしばらく楽しめても、
死出の旅路に連れはないと、お釈迦さまは説かれています。
「独り来て 独り死にゆく 旅なれば
つれてもゆかず つれられもせず」
の古歌のとおり、好きな人とも相添えず、
嫌いな人とケンカもできない。
墓石の下に遺骨を並べてみても、
先祖の霊が行儀よく納まっているものではないと、
お釈迦さまは教えられているのです。

●「私は墓の下にはおらん」
        と聖人

では「私」は死ねばどうなるか。
無になるのではないとするなら、どこへ行くのでしょう。

暗黒の世界よりも、明るい無量光明土でありたいのが、
全人類の熱願でありましょう。
親鸞聖人は、

「我が歳きわまりて、
安養浄土に還帰す」
     (御臨末の御書)

と宣言されています。
阿弥陀仏に救われた親鸞、
死ねば極楽浄土(無量光明土)往くから、
墓の下にはいないぞ

との明言です。
そのあとに、
「寄せては返す波のように、
極楽浄土からすぐさまこの娑婆へ戻ってくる。
無限に衆生済度の活動が始まるのだ」
とも仰せです。
極楽でのんびりなどしていないぞ。
この世に苦悩の人がいる限り、
寄り添って救わずにおれないのだ、との喜びの表明です。
ましていわんや墓の下などに、どうしておれましょう。
では、死ねば誰でも彼でも親鸞様と同じく、
極楽へ往けるのでしょうか。

それについて、親鸞聖人のみ教えを正確に日本中に伝えられた、
蓮如上人からお聞きしてみましょう。

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●えっ、「誰でも極楽」
      ではないの?

浄土真宗の門徒には、
「阿弥陀如来の呼び声は、南無阿弥陀仏の名号となって、
今この私に届いているから、
誰でも極楽へ往けることに気づかせていただきましょう」
というのが、親鸞聖人の教えと聞かされている人が多くあります。
誰もが死ねば極楽へ往って仏になれるというのは、
蓮如上人の『御文章(御文)』に反することで、
断じて聖人の教えではありません。

現在ただ今、信心獲得して往生一定(浄土へ往けることがハッキリすること)
の大満足に救われていなければ、
死んで極楽浄土へは往けないし、仏にもなれないのです。

さらに聖人は、信心獲得していなければ、
極楽どころか、取り返しのつかないことになると、
警鐘を鳴らされています。

「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎(のこ)すことなかれ」(教行信証)

吸った息が吐けなかったら、
吐いた息が吸えなかったら来世である。
後生は遠い話ではない。
死ねば、二度と同じ人身に戻ることは永遠にないのである。
今、この大事を解決しなければ、
いつできるであろうか。
永遠のチャンスは、今しかないのだ。
されば、刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔を残すことがあってはならない

死ねば二度と戻らぬのが人の一生。
だからこそ南無阿弥陀仏の名号を賜って(信心獲得)、
間違いなく弥陀の浄土へ生まれる身になりなさいよと、
聖人は生涯教えていかれました。

浄土に往生して阿弥陀如来と同じさとりを開いた人は、
還相の菩薩として、この世に戻り、
迷える衆生を救済する活動をせずにおれなくなります。
それは弥陀より賜った六字の名号(南無阿弥陀仏)の大慈悲心によるものです。
だからこそ信心獲得は、亡くなった方を幸せにする道でもあるのです。

「『親鸞閉眼せば賀茂川にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉親を軽んじて、
仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うに、
いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」
         (改邪鈔)

(「私が死ねば、屍を賀茂川に捨てて、
魚に食べさせよ」と、
しばしば親鸞聖人が仰ったのは、なぜか。
それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、
永遠の魂の解決(信心獲得)こそが、
最も急がねばならないことを教導されたものである。
されば葬式などを大事とすべきではあるまい。
やめるべきであろう

静かに墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得がたい機会になることは間違いありません。
「私も、死なねばならぬのか」と、
生死の一大事に触れて、
厳粛な思いになるでしょう。
葬式や墓参りを儀礼だけに終わらせず、
無常を見つめ、自身の一大事解決のために聞法し、
弥陀の救いにあう勝縁にしたいものです。
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葬儀・法事は何のため!? [葬儀・法事とは]

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(真実の仏法を説いておられる先生ご執筆の「とどろき」より載せています。)

葬儀・仏事は何のため?
誰にも聞けなかった仏教の“モヤモヤ”解消します。

(25年8月のとどろきを載せています)
セミの声を耳にしながら、
盆に家族親戚と墓参り。
夏の風物詩、恒例仏事ですが、
「この墓参りや法事で、
ご先祖さまは本当に喜んでいるの?」
と、ふと思うことはないでしょうか?

それは、伝統や形式を重んじる旧来の考えと、
私たちの心情・実情が、合わなくなってきている、
と感じる人が、昨今多いからです。
そこで今回は、私たちの身の回りで起きている
さまざまな仏事のトラブル、実例を見ながら、
仏教を説かれたお釈迦さまはどう教えられているのか、
その教えをものさしにして
「知っているようで知らない仏事」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
全国紙でも仏事が話題に
     驚きの事例あれこれ

近年、葬儀も墓も自由にしたいと、
これまでの形式を見直す風潮があります。
しかし、旧来、葬儀を取り仕切ってきた僧侶や寺院が、
そういう変化を受け入れられず、
問題が各地で起きているようです。

今年3月『朝日新聞』に、仏事に関する投書が続けて
掲載され、約1ヶ月にわたって議論が交わされました。
幾つかの内容を紹介しましょう。

【69歳男性から】

知人は、亡き父が
「葬儀はお金がかかるから、
戒名(かいみょう)も僧侶の読経も不要」
と言っていたのです。
手次の寺に納骨だけを依頼した。
ところが、
「当宗の習慣にのっとった葬儀をしなかったので、
埋葬できない」
と言われ、やむなく読経し、戒名をつけて納骨。
また、親友が亡くなった時、
その奥さんは友人葬をして
先祖の墓地に納骨しようとしたが、
同様の理由で寺から拒否された。
憤慨した奥さんは民間の墓地を買い、
先祖の骨ごと移した。


【74歳男性の体験】

21年前に、交通事故死した母の通夜でのこと。
僧侶から「大姉(だいし)」の戒名を贈るように言われた。
先祖は皆、信士(しんじ)・信女(しんにょ)だから、
それより上の「大姉」はつけられないと断った。
すると「祖父母と父にも居士(こじ)、大姉を
追贈すればいい。費用は400万円」と言われた。
母を失った悲しみに沈んでいた時に、
心を踏みにじられた気がした。
自分は、戒名も僧侶の読経も墓も不要。
私の骨は山野に埋めてもらったらいい。


大切な人の死
  “私はどうすれば?”

大切な人が亡くなったあとに、
何をすればよいのか、
とりわけ親には不幸してきた過去が思い出され、
悔やみます。

今更、何をすることもできないが、
何かせずにはいられない。
やり場のない心から、墓に酒や水をかけ、
語りかけながら、
好物を供え花を立てたりするのでしょう。

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亡くなった親や子供は、夫・妻は、
今頃どうしているのか、苦しんでいないか、
寂しい思いをしてはいないか、分かる手がかりもない。
死んだ後のことなど、勉強したこともないから、
ここは専門家の僧侶に委ね、
言われるままに法名をつけ、
葬式、納骨をするしかない。

近所の目もあるから、常識と外れたことはできない。
ほとんどの人がそう思い、形式どおり事を進めます。

しかし、亡くなった人の死を無駄にしたくない、
今からでもその人のために何かしたいという願いは、
本当にそれで、かなえられるのでしょうか。

正しい仏教を知れば、
どうすれば亡き人を幸せにできるか分かり、
前述のような問題もおのずと解決します。
お釈迦さま、親鸞聖人にお聞きしましょう。

お経は生きている人に説かれたもの

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第6巻には、
こんな場面がありました。

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あるお弟子が、お釈迦さまにお聞きしました。
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽へ往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」
その時、お釈迦さまは、無言で立ち上がり、
小石を一つ手に取られて、
池に投げ込まれました。
輪を描き沈む石を指して尋ねられたのです。
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、
と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか?」
質問に驚いて
「そんなことで、石が浮かぶはずがありません」
と答えた弟子に対し、お釈迦さまは
「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」
と説かれました。

読経で死者が救われるということは、
本来仏教にはありませんでした。

お経は、お釈迦さまが生きている人に
説かれた説法を記録したものです。

お釈迦さまは、死人に説法されたはずはないのですが、
どう間違ったのか、今日お経は、
死人のごちそうとまで誤解され、
それが常識になっているほどです。

お釈迦さまの御心を、親鸞聖人は明らかになされ、
生きている人が、生きている間に、
永遠の幸福になれる教えを説かれました。

葬儀・法事は仏法聞くご縁

では葬式や法事や読経などはしなくてよいのかと、
親鸞聖人にお聞きした女性に対し、
アニメではこのように教えられています。

聖人 「(葬式や法事は)多くの人が集まるよい機会だから、
    亡くなった人をしのんで、
    みんなで仏法を聞くご縁にしなければもったいない。
    それが亡くなった人の最も喜ぶことなんだからね

女性 「みんなで仏法を聞くことが、そんなによいことなんですか」

聖人 「そうだよ。仏法にはどんな人も本当に幸せになる、
    たった一つの道が教えられているのだからね。
    亡くなった人をご縁として無常を見つめ、
    真剣に後生の一大事を心にかけて、
    一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
    みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
    これほど尊いことはないのだよ

       (アニメ『世界の光・親鸞聖人』第6巻)

厳粛な葬式を縁として、はかない人間の命を観じ、
聞法精進すれば、得がたい勝縁となります。

また、法事もチンプンカンプンの読経だけで終わっては
詮がありません。
そのお経に説かれている教えを
正しく聞かせていただいてこそ、
意味があります。
仏教で教えられる、本当の救いを知って、
法事を幸せへの機縁といたしましょう。

仏事の“トラブル”
 その原因は何?
   
      親鸞さまの御心に立ち返る

仏法上の行き違いや誤解は元をたどれば、
ある“原因”に行き当たります。
真の仏法を勤めるに大切な「仏の教え」
を親鸞聖人からお聞きしましょう。

●蓮如上人の戒め

前章で取り上げたような門徒と僧侶の
“トラブル”は、実は今に始まったことではありません。

親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人の時代にも、
同様の記録が残っています。
蓮如上人は『御文章(御文)』に、
「門徒の方より物を取るを善き弟子といい、
これを信心の人といえり。
これ大(おおき)なるあやまりなり。
また弟子は坊主に物をだにも多くまいらせば、
わが力かなわずとも、
坊主の力にて助かるべきように思えり。
これもあやまりなり」
           (一帖目十一通)
と、寺の存続や自身の生活を優先して、
布施の大小で往生が決まるように説く
邪を戒められています。

同様のことは『歎異抄』にも書かれていますから、
親鸞聖人がお亡くなりになった直後にも、
すでにそういう者が多くいたのでしょう。
彼らは門徒を「わが弟子(自分の資産や所有物)と考え、
門徒が他の場所に行って仏法を聴聞すると、
財産を取られたように思って腹を立て、
折檻して、今度、別の場所で聞法するのを禁じてしまう。
これは自損損他(じそんそんた)である、
と『御文章』一帖目一通にも記されています。
僧侶が教えも説かず、門徒の聞法さえも妨げる。
何とあさましいことか、
と蓮如上人はこう猛省を促されています。

「皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、
また浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、
徒に明し空しく月日を送りて、
更にわが身の一心をも決定(けつじょう)する分も
しかじかともなく、また一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、
一句の法門を言いて門徒を勧化する義もなし。
ただ朝夕は暇をねらいて、
枕を友として眠り臥せらんこと、
まことにもって浅ましき次第にあらずや。
静かに思案を廻(めぐ)らすべきものなり

        (御文章二帖目十二通)
地獄に堕ちる後生の一大事を思わず、
浄土往生して無上の楽果を受けることをわきまえず、
日々をむなしく送り、真実の信心を獲得せず、
尊い聖教を開いて学びもせず、
一句の仏語を伝えて門徒を教化しようともしない。
ただ朝夕、世間事に明け暮れ、
暇さえあれば怠けてばかりいる。
まことにあさましい限りである。
よくよく深く受け止めねばならぬ

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善知識から聞く

仏法を聞かせていただく私たちは、
まずものさしとなる正しい教えをよく知ることが大事です。
そこで、教えを正しく伝えられる師(善知識)を
求めて聞かねばなりません。

「イヤァ、別に私は教えはどうでもいいんだ。
葬儀や法事さえしてもらえれば・・・」
と言われる方もあるかもしれませんが、
それでは先祖は喜びませんし、
自分のためにもなりません。
仏法は、誰から聞いてもいいのではないのです。
善知識について、蓮如上人はこう仰います。

「善知識の能というは
『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と、人を勧むべきばかりなり。(乃至)
されば、善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』
と言える使なり」

         (御文章二帖目十一通)

善知識とは仏教の結論である。
「一向専念無量寿仏」
(弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ)
一つを教え勧められる方であります。
すべての人の後生の一大事は、
弥陀の本願によらねば、
絶対に解決できないからです。

この「一向専念」の教えを蓮如上人は、

皆々心を一(ひとつ)にして、阿弥陀如来を深く
たのみまつるべし。
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、
ゆめゆめあるべからず

         (御文章四帖目十通)
誰人も心を一つにして弥陀を一向にたのまねばならぬ。
それ以外にどんな教えを信じようとも、
後生の一大事の助かることは絶対にないのだ

末代無智の在家止住(ざいけしじゅう)の男女たらん輩は、
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、
一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖目一通)
すべての人は一心に弥陀一仏を深くたのみ、
他の神や仏に心を向けてはならなぬ。
一向専念無量寿仏に救い摂られた人は、
どんなに罪が深くとも、
必ず弥陀は浄土に往生させてくだされるのである

と易しい表現で教えられています。

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無上の仏
 弥陀一仏を信じなさい

私たちを救ってくださる阿弥陀仏とは
どんな仏さまなのでしょうか。
地球上で最も尊いお釈迦さまが、
言葉を窮め(きわめ)、
褒め称えられる大宇宙最高の仏さまです。

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

         (大無量寿経)

阿弥陀仏のお力は、大宇宙最尊であり、
十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れたお力である

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無極なり

         (大阿弥陀経)
阿弥陀仏は十方諸仏の王である。
そのお力は十方諸仏の中で最も強く尊く、無限である

釈迦の説かれた一切経には、
このように至る所に阿弥陀仏を
称讃されていますから、
天台宗の僧・荊渓(けいけい)でさえ、
諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り
と言っています。

阿弥陀仏は、諸仏にズバ抜けたお力で、
われらの後生の一大事を
解決してくだされる唯一の仏なのです。
だから、弥陀一仏を信ずることが、
弥陀の弟子である諸仏方の
最も喜ばれることになるのです。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや

           (御文章二帖目九通)
阿弥陀如来は大宇宙の諸仏の先生である。
すべての仏は「早くわが師・弥陀に救われなさいよ」
と勧めておられるのだから、
我々が弥陀に救い摂られることが、
諸仏方の最も喜ばれることになるのである

お盆などの仏事は、この大宇宙最高の阿弥陀仏に向かい、
救っていただくご縁としたいものです。

   (8月号のとどろきより載せています)

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●「後生の一大事、
  必ず救ってみせる」

では、阿弥陀仏に救っていただきなさい、
と言われる「後生の一大事」とは何でしょう。

「後生」とは、死後、来世のことです。
死と聞けば遠い先のこと、
自分とは無関係のように私たちは思っていますが、
それは本当でしょうか。
5月、ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、
乳ガン予防のため乳房を切除したと公表し、
話題になりました。

母親や叔母をガンで亡くした彼女は、
自身もガン抑制の遺伝子に異変が見つかり、
乳ガン87パーセント、卵巣ガン50パーセントの
リスク(危険性)があると診断されたためです。
この手術で彼女の乳ガンの危険性は5パーセントになり、
多くがアンジェリーナさんの決断を称えました。
しかし考えてみれば、ガンのリスクは低下しても、
死ななくなったわけではありません。

100パーセントの未来に死が待ち受けている
事実は変わらないのです。
しかも、これは命あるすべての人に
共通の大問題ですから、
“自分は無関係”と安閑(あんかん)としていられる人は
一人もありません。

私たちも目前に死が突きつけられれば、
何を措(お)いても逃れたいと
必死で抵抗するでしょう。

絶対に死にたくない者が、
しかし絶対に死なねばならない。
これを人生最大の矛盾といわずして
何といいましょうか。

この生死の一大事、後生の一大事を
阿弥陀仏に救っていただき、
この世は絶対の幸福、
いつ死んでも弥陀の無量光明土(浄土)に
生まれる身になることが、
人間に生まれてきた唯一の目的なのです。
命尽きて、浄土で仏のさとりを開けば、
亡くなった肉親がもし六道で苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力で救うことができるのだよ

と親鸞聖人は仰っています。

真の仏事は、自他ともに
弥陀の救いにあう勝縁ですから、
その意義を正しく知り、
祖師の御心にかなった本当の
お盆を過ごしていただきたいと思います。

(25年8月のとどろきを載せています)

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タグ:葬儀 法事

亡き父母の恩に報いたい [葬儀・法事とは]

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(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 )  

「孝行のしたい時分に親はなし」

亡き父や母をしのぶほど、
“ああすればよかった・・・”
“こうもしておけば・・・”
と後悔したり、自分を責めたり。

いつまでも尽きぬ、そんな思いは、
仏法によって、計り知れない親の恩を知らされた
私たちにとっては、特に強いものです。

受けし両親の恩に報いるには、
どうすればよいのか。
亡き父母の最も喜ぶことは何なのでしょう。

アニメーション
『世界の光・親鸞聖人』を通して、
親鸞さまからお聞きしましょう。

●盛大な葬儀が死んだ人の
    ためになるって本当ですか?

「大切な人が亡くなるたび、亡くなった人々に
何をすればよいのか分からず困っていました。
寺の住職が、お通夜や初七日法事で説法しましたが、
内容が全く理解できず、
仏法を知りたいと思うようになりました。」

富山県のとどろき読者(60代男性)から、
先日、このような感想が届きました。
肉親や家族を失って初めて、
当たり前のように受けてきた
ご恩の大きさが知らされ、
悔やむ人は少なくないようです。

墓に布団もかけられず、
遺骨にご馳走を食べさせられもせず、
どうすればこの心が落ち着くか、
ご恩に報いるにはどうすれば・・・、
今からでもできることはないものか、

と思い悩まれる心情は、よく分かります。
では、亡くなった方の最も喜ぶことは何でしょう。
一般に、盛大な葬式や法事を勤め、
お経を読んでもらい、墓も立派にすることと言われ、
これが常識のようになっていますが、
本当なのでしょうか。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
の第6巻に、亡き父の葬儀を
どのように執り行うか悩んだ同行(良作とハル)が、
親鸞聖人に教えを求めている様子が描かれています。

(アニメ『世界の光・親鸞聖人』 今回の記事そのままの場面は、12:30ぐらいからです。)

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追善供養とは、死んだ人を幸福にすると
信じられている行為。
葬儀も法事もそのためだと思っている人に、
親鸞聖人は『歎異抄』にこう仰っています。

「親鸞は、父母の孝養のためとて念仏、
一返にても申したること未だ候わず」
“亡き父母の追善供養に、一回の念仏も、
一巻のお経も読んだことがない”

と告白されています。
4歳でお父さまを、8歳でお母さまを亡くされ、
聖人はどんなにご両親を恋しく思われたかしれません。
「孝心厚い聖人さまが、どうして?」と、
聖人のこの告白に驚く人は少なくないでしょう。
しかし、これは決して、親の孝行を軽視したり、
否定されているのでは、もちろんありません。
29歳にして法然上人に巡り会われ、
弥陀に救い摂られた聖人は、
盛大な葬式や立派な墓と、
死んだ人が極楽往生できるかどうかは
全く関係ないことを知らされて、
仰ったお言葉なのです。

●お釈迦さまのご教導

仏教を説かれたお釈迦さまご在世中の、
こんな話が伝えられています。

ある日、一人のお弟子が、
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽に往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」と尋ねた。
お釈迦さまは無言で立ち上がって
庭に出て行かれ、
小石を一つ拾って大きな池に投げられる。
沈んでいく石を指さされながら、
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと
言いながら回ったら、
あの石が浮かんでくると思うか」
「お釈迦さま、そんなことで石が
浮かぶはずがありません」
とお弟子が答えると、こう仰せになった。
「そうだろう。石は、石の重さで
沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」

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葬式や墓をいかに盛大にしても、
読経や念仏をどんなに多く称えても、
死んだ人の後生は変えられないことを、
お釈迦さまは説いておられるのです。

●「後生どうなるか」分からないと
 亡き父母の喜ぶことは分からない

では、後生は何によって決まるのか。
親鸞聖人はこう教えられています。

「死んで極楽浄土に往けるかどうかは、
本師本仏の本願に救われているかどうかで
決まるのじゃ」

本師本仏とは、大宇宙の諸仏方の先生である
阿弥陀如来のこと。
本願とは誓願のことで、
阿弥陀仏のなされているお約束を、
本師本仏の弥陀の本願といわれます。

阿弥陀如来は、すべての人の苦悩の元は、
死んだらどうなるか分からない、
後生暗い心であると見抜かれました。

そして、「暗い心を、明るい心にしてみせよう、
いつ死んでも極楽参り間違いない
往生一定の身(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

それは、死んだ後ではなく、現在ただ今、
平生の救いです。

ゆえに、

「平生の一念によりて往生の得否は
定まれるものなり。
平生のとき不定の念(おもい)に住せば
かなうべからず」
               (執持鈔)
浄土へ往けるかどうかは、平生の一念で決まるのである。
今、往生一定の身になっていない人は、
浄土往生できないのである”。

平生ただ今、弥陀に救われているか、否かで、
永遠の未来が決するのです。

この弥陀の救いの一念を、覚如上人は、
次のように表現されています。

帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり
臨終とおもうべし

               (執持鈔)

弥陀に救われ、後生明るい心が生まれた時を
「帰命の一念」といい、
その時に、苦しめてきた後生暗い心が
死んでしまいますから、
「娑婆のおわり臨終」と言われています。
親鸞聖人は、この「魂の葬式を急げ」と
生涯教え続けていかれました。

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●最も心をかけるべきは

だから、親鸞聖人の常の仰せは、

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし
              (改邪鈔)
私が死んだら、賀茂河へ捨てて
魚に食べさせるがよかろう

でありました。なぜ?と驚く私たちに、
その理由を続けてこう教えられています。

これすなわち、この肉身を軽んじて、
仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり

               (改邪鈔)
“弥陀の本願に救い摂られ、
魂の葬式(仏法の信心)ができたならば、
肉体の葬式や墓など、問題にならなくなる”

との御心です。

「いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず」
              (改邪鈔)

肉体の葬式に力を入れて、
最も大事な魂の解決(仏法の信心)を
忘れてはなりませんよ

と常に聖人は教えていられたのです。

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●喪葬仏事の意味

では、肉体の葬式は必要ないのでしょうか。
親鸞聖人はこう仰います。

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故人をしのんで仏法を聞くことが、
亡くなった人の最も喜ぶことであると聖人は
教えられています。

なぜでしょうか?
先祖や親の最も望んでいることは何か、
よくよく考えてみますと、
煎じ詰めれば、「子供たちよ、正しく生きてくれ、
真の幸福になってもらいたい」
ということではないでしょうか。
それは私たちが子供に何を望み、
願っているかを考えてみれば、分かります。
私たちが、子孫に切望することは唯一つ、
「正しく生きよ、幸福になれかし」であるからです。

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●真の孝行とは

では、正しく生き抜き、真実の幸福になるのは、
どうすればよいのか。
本師本仏の弥陀の本願を聞信するしかないと、
お釈迦さまは教えておられます。
阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、
後生暗い心が死んで、後生明るい心に生まれる、
往生一定、絶対の幸福、いつ死んでも
極楽往き間違いなしの身になることが、
最も親や先祖の喜ぶことであり、
ご恩に報いることになるのです。
これ以上の、先祖に対する供養も
親孝行もありません。
この最も大事な魂の葬式の勝縁になる
仏事であるならば、
大いに結構なことです。

「亡くなった人をご縁にして無常を見つめ、
真剣に後生の一大事を心にかけて、
一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
これほど尊いことは、ないのだよ」
聖人の仰せにしたがい、
喪葬を縁として、弥陀の本願を
聞き抜かせていただきましょう。
(弥陀の本願を聞き抜くということは、
弥陀の本願に救われるということ)

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ここに注目!

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平生に弥陀に救われ、
死ぬと極楽に往生し、仏になり、
地獄に堕ちて苦しんでいる
縁の深いもの(親、兄弟、子供、ペットをはじめとして)から、
仏の力で人間に生まれさせ、
自分も還相廻向(人間界に戻る)して
弥陀の救いに教え導くことが出来ると書かれています。
お釈迦さまや七高僧方のように。
ちなみに人間の住む惑星は
大宇宙には無数とあり、
生成しては消滅し、また違う惑星が生まれると説かれています。

 
   
      (最後の10行は、minsukeが書いています。)


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葬式や法事が仏教だと勘違いしていませんか!? [葬儀・法事とは]

今日の仏教は、葬式仏教となり、
本来の姿とかけ離れたものになっています。
あなたはそれが仏教だと
思っていませんでしたか?

●葬式って仏教と関係ないの?

仏教と聞くと、多くの人は葬式・法事・先祖供養を
イメージします。
しかしそれは、実は江戸時代くらいから
固まってきた日本の風習で、
仏教とは関係ありません。

ですから、
「今のお寺に仏教はない」
と言われるほどです。
そればかりか、
葬式などの迷信を
徹底的に打ち破られたのが、
実は仏教を説いたお釈迦さまなのです。
(お釈迦さまが仏教を説かれたのは、現在、生きている苦悩の衆生を
真実の幸福に導くためだったのです。)

それに関しては、文章中にその場面がありますので、
読んでいただければ分かると思います。(後半です)

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 (賀茂川)

今日、仏教界には、ひいきのひき倒し、というか、
親鸞聖人が現世の救いを
説かれたことを強調するあまり、
「釈尊や親鸞聖人は、死後のことは説かれなかった」
という人がいる。

確かに
親鸞聖人のみ教えの真髄は、
「この世で救われる」ところにある。

これを、「平生業成(へいぜいごうじょう)」
「不体失往生(ふたいしつおうじょう)」
「現生不退(げんしょうふたい)」という。

弥陀の本願に救われ、
この世が「心は浄土に遊ぶなり」
「光明の広海」となることは間違いない。

だからと言って、「死後を説かれなかった」と
脱線することは許されない。

釈尊(釈迦)や親鸞聖人は未来世の実在を
認められての上で、
現在の救いを教えられたのだ。

仏教の根幹は因果の理法であり、
因果の道理を離れて仏教はあり得ない。

一切の現象には原因がある。
原因なしに生ずる結果は万に一つもない。

この因果の法則は科学を初め、
あらゆる学問の大前提になっているが、

仏教では我々の生命に過去、現在、未来の
三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説く。
これを三世因果の教えという。

これこそ他宗教に対する
仏教の旗印といっても過言ではない。

我々の生命に三世があることについては、
否定する者も肯定する者もあるだろう。
来世を無とする説は唯物論、共産主義などで、
仏教では「断見外道(だんけんげどう)」、
または、「無の見(むのけん)」という。
一方、霊魂が不滅だから来世有りとする説は、
キリスト教やマホメット教など、
ほとんどの宗教の説くところであり、
仏教では「常見外道(じょうけんげどう)」
または「有の見(うのけん)」という。

仏教は無霊魂説である。
釈尊は固定不変な霊魂の実在を認めず、
業の不滅を説かれた。

即ち『阿含経』にある如く、
因果応報なるが故に来世なきに非ず(あらず)、
無我なる故に常有に非ず

と説かれ
「死後はない」とする断見外道も、
「死後には霊魂が存続する」とする
常見外道も否定しておられる。

インドで小釈迦、八宗の祖師とうたわれた龍樹菩薩も
常見外道(有の見)と、
断見外道(無の見)を徹底的に破られ、
業の不滅を明らかにされた。

親鸞聖人は龍樹菩薩の大活躍を『正信偈』に、
「悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)」
(龍樹菩薩はことごとく能く有の見、
無の見を打ち砕かれた)
と讃えておられる。
親鸞聖人も同じ立場に立っておられるのだ。


●不滅の業と来世

では、
業が不滅だから来世があるとは、
いかなることであろうか。

業とは中国の語で、
サンスクリット(古代インドの言語)で
カルマといい、
元来「行為」の意味である。

行為は残る。
一種の勢力となって残る。
その業力は因となって果を結ぶ。
善因には善果、悪因には悪果あり。
ここに厳粛なる因果業感(いんがごうかん)の
理法が成立つ。
我々は日々、口、体、そして心で
数え切れないほどの行為(業)を重ねている。
その無数の業は
目に見えない業力となって存続する。
業は物質でも精神でもない。
今生の身心は離散しても業は残る。
この業は次生の身心を生み出す。
今生の身心と次生の身心とは
同一のものではないが
業が両者を連鎖している。

玉突きの時、白玉の速力とその方向は
必ず赤玉の動く方向と速力を決定する。
だから赤玉と白玉とは同一のものではないが
その間に密接不離の関係があるようなものである。

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仏教では、業力は「阿頼耶識」という
識(こころ)に蓄えられる
「蔵」という意味であるから、
阿頼耶識を「蔵識(ぞうしき)」ともいう。
天親菩薩は阿頼耶識を、
「暴流の如し」と言われた。
「暴流」とは滝のことだ。
遠方から見れば滝は一枚の白い布を
垂らしたように見えるが、
接近してみれば、
激しい水の落下で時々刻々と変わっている。
かくて不滅の業力は、流れ流れて、
因果相続して窮(きわ)まりなく、
今生の果報尽きても来世の新たなる果報を引き、
幾度も生死輪廻止むことがないのである。

万物は輪廻する。
車輪の果てしなく繰り返すようなものである。

仏教では、人間は生まれ変わりすると説く。
それも犬や猫や馬になったりするのだが、
それは本当かという質問をたびたび受ける。
我々は過去ではいろいろのものに生まれ変わったと思う。
犬や猫の気持ちがよく分かる。
言葉こそ通じないがその気持ちはよく知られる。
彼らの気持ちがよく分かるのは、自分もいつの世にか、
犬や猫であった証拠ではないか。
そう考えると牛の気持ちも分かるし、馬の気持ちも分かる。
トンボや蝶の気持ちも分かるし、
カタツムリやトカゲや蛇の気持ちさえ分かるような気がする。
我々は過去で何にでも生まれていたと思われるのである。

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今日の生物科学では人間受胎の現象を
詳細に説明しているが、
なぜに私が、特定の父母の間に生まれ、
男女、貴賎、賢愚、美醜などを持たねばならなかったか
という本質問題になると沈黙する。

いわんや父母未生の以前の世界のことになどは
研究することもできない。
仏教は、ここに峻厳な因果の大道理に立脚して
永遠不滅の業があると説き、
その不滅の業が内因となり、
父母を外縁として我々の存在を説明する。

ゆえに特定の父母に受生したのも、
貴賎美醜をもったのも、
偶然でもなければ神の命令でもない。
自業自得である。

即ち自己の立場を生み出したものは
かつて自己の意志によって造った業なのである。

同じ父母から生まれながら、
兄弟姉妹の相違するのも
各自の過去の業因のためであり、
兄弟よく相似しているのは
父母という外縁の同一によるものなのだ。

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●仏典を貫く教え

三世因果の教えは今日、
誰もが純粋に仏説と認める
小乗経典の『阿含経』より始めて、
大乗経典の『涅槃経』に至るまで、
仏教経典を一貫する。
したがって、前世、あるいは来世の存在もまた、
仏説であることは勿論である。

『応報相応円珠経』には、

「その時、世尊、諸々の比丘(びく)に告げたまわく、
もし殺生の人多習多行せば地獄の中に生ぜん。
もし人中に生ずるも必ず短寿を得ん。
不与取を多習多行せば地獄の中に生ぜん。
もし人中に生ずるも銭財に多難ならん」
ここでは、十不善行と十善行の
三世因果が明白に示されている。

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『雑阿含経』には、

「もし、命終の時、この身はもしくは火焼せられ、
もしくは塚間(つかのま)に棄てられ、
風に飄(ひょう)され、日に曝(さら)さるるとも、
久しくして塵末(じんまつ)となるとも、
心意識は久遠長夜に正信に薫(くん)ぜられ、
戒、施、聞、慧に薫ぜられる」
とある。、
肉体が滅んでも、心意識が久遠長夜に
続いてゆくと説かれているのだ。


●親鸞聖人と三世因果

かかる釈尊の教えをそのまま、
生涯かけて明らかにされた方が親鸞聖人である。

聖人が三世因果の教えに立脚して
弥陀の本願を説かれたのは、
当然すぎるほど当然のことだ。

『教行信証』などから、親鸞聖人が、
三世について書かれたものを列記してみよう。

もしまた、このたび疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば、
かえりてまた昿劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん

         (教行信証総序)

ひとたび人身を失いぬれば、
万劫にもかえらず

       (教行信証行巻)

昿劫」「万劫」ともに、
果てしない未来世を表している。
「この逆を犯す者は、身壊れ(やぶれ)、命終えて、
必定して無間地獄に堕(だ)し
」 
        (教行信証信巻)

「身壊れ、命終えて」の後に、
つまり死後に「必定して無間地獄に堕し」と言われている。
死後の地獄である。

未来世の浄土往生についてもハッキリと言われている。

この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし

          (末灯鈔)

「地獄、極楽はこの世のこと、
と親鸞聖人は教えられた」
と主張する人は間違いである。

今日、真宗の人々が最も読む『歎異抄』においても、
死後の実在を前提とした親鸞聖人のお言葉が多い。

一切の有情は皆もって
世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。
いずれもいずれもこの順次生に
仏に成りて助け候べきなり

              (歎異抄第五章)

名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、
力なくして終わるときに、
彼の土には参るべきなり

        (歎異抄第九章)

来生の開覚は他力浄土の宗旨(しゅうし)、
信心決定の道なるが故なり

        (歎異抄第十五章)

「『浄土真宗には、今生に本願を信じて、
彼土(かのど)にして覚を開くとならい候ぞ』とこそ、
故聖人の仰(おおせ)には候いしか

        (歎異抄第十五章)
『歎異抄』に記されてる「順次生」「彼の土」「来生」
いずれも「未来世」のことであることは明らかだ。

釈尊や親鸞聖人が業の不滅を説き、
三世の実在を教えておられたことは
以上の通りである。


●過去と未来を知見

では、かかる三世が如何なる因果関係によって
成立しているのだろうか。
そのことについて
釈尊は、
『因果経』に明らかにご教示しておられる。

即ち、
「前世の因を知らんと欲すればその現在の果をみよ、
後世の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」。

いわゆる現在世の苦楽、禍福などは、
過去世の善悪の業報であり、
現在世の善悪の業はまた、
未来世の苦楽禍福を生み出す。
個人の禍福は偶然でもなければ
神の摂理でもなく、
まったく自業自得である。
よって三世因果の理法は、
過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因より発するのだから、
現在の自己の上の無限の過去と
永遠の未来とを知見できることを教えている。

では我々の未来に何が待っているのか。


●死後は地獄か極楽か
     厳然たる後生の一大事

死後の世界は、厳然としてある。
釈尊も親鸞聖人も、
明確にそう説いておられる
ことを、
前章で述べた。
それは、希望に満ちた明るい「極楽浄土」であろうか、
暗黒の苦しみの「地獄」だろうか。
「地獄」とは、中国の言葉である。
サンスクリットで釈尊は、「ナカラ」と仰った。
それを中国で「地獄」と翻訳したが、
「苦界」(苦しみの世界)という意味である。

「ジゴク」は、この世にも死後にもあると
教えられるのが仏教だ。

インドネシアの暴動や、ドイツの超特急事故の現場は、
多くの遺体が横たわり、
さながら地獄の様相であったろう。
悲惨で救いようのない様子を、
この世のジゴクと言う。
また、借金地獄に堕ちている人もあれば、
受験地獄に苦しんでいる学生もある。
不安な暗い心で、
生きる目的のない日々を送っている人も皆、
ただ今からジゴクへ堕ちている人である。
「私ほど業な者はない」
と他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸が絶えないから、
ほとんどの人は、すでにジゴクへ堕ちていることになる。

『大無量寿経』には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)

と説かれ、
今が苦悩の絶えない人は、
必ず死後も地獄の苦を受けると教えられた。
未来は、現在の延長である。
現在が闇の生活なら、
死後もまた闇の地獄へ堕ちて
苦しまねばならない。

では、
死後の地獄とはどんな世界か。
『賢愚経』に釈尊は、

「如何なる喩えをもってしても、
地獄の苦は説けない」

と仰った。
強いて、「教えたまえ」
と願い出た仏弟子に、
「朝と昼と夜と、それぞれ百本の槍で
突かれる苦しみをどう思うか」
と尋ねられた。


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お弟子は、
「一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
一日三百本で突かれる苦しみは
想像も及びません」
そのとき釈尊は、豆粒大の石を御手にとられ、
「この石と向こうの雪山(せっせん)と、
どれほど違うか」
とお尋ねになった。
「雪山」とは、ヒマラヤ山である。
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子たちに、

本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
ジゴクの苦はあの雪山の如し

と仰っている。

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大衆に地獄の実在を教えることは、
魚に火煙を知らせる以上に困難であり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難だったと思われる。

こんなこととは知らずに、虎皮のフンドシに鬼や、
地獄の釜をそのまま事実と思って嘲り、
疑っているのは、幼稚な仏教観である。


●“冥福を祈る”心理
     感情は死後の世界を肯定

「ご冥福をお祈りします」
の「冥福」とは、仏法の言葉である。
「冥土の幸福」を略したものだが、
「元旦や、冥土の旅の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし」
という一休の歌にもあるように、
「冥土」とは、死後の世界を言う。
「冥」には、「かたあかり」という意味がある。
スダレのように、片側からはよく見えるが、
反対側からは見えないことを表す。
死後の世界からは、
この世の我々の様子は手にとるようにわかるが、
私たちには、死後の世界のありさまがわからないから、
冥土といわれる。
「冥福を祈る」とは、
故人の死後の幸福を祈ることになるから、
肉親や知人・友人が亡くなったとき、
すべての人が使う言葉と言ってよかろう。

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平生は、死後の世界なんかあるものかと、
せせら笑っている人でも、
肉親や知人が亡くなると、たちまち殊勝そうな顔で、
「ご冥福をお祈りします」
と言い出す。
共産主義を信奉している国の人たちは、
死後の世界を認めないはずだが、
大統領などが死去すると、半旗を掲げ、
国葬をとり行うではないか。
クレムリンの「赤の広場」の裏手には、
旧ソ連の歴代書記長の墓があり、
花がそなえられているという。
死後がないなら、死体はただの肉塊となり、
墓も葬式もいらない。
思想的矛盾と言わねばならない。
自他ともにインテリと認める人は、
概して死後の世界を否定し、
またそれが知識人の証明であるかに
思っていることが多い。
科学者には、その傾向が顕著であろう。

しかし、ひとたび肉親などの死にあうと豹変して、
平生の信念はどこへやら、
「心から、ご冥福を・・・」
と弔辞を読んでいる。

あるいは泣きながら
「静かにお眠りください」という人もいる。
生前、その人の好きだった食べ物や酒などを墓に供え、
語りかけている光景も目にする。
周囲の人も、何の不審も持たない。
死後がなければ、
「冥土の幸福」を祈る理由もなく、
まったくナンセンスになってしまう。
「安らかに眠る」ものもなく、墓も必要ない。
これは、死後の世界を否定しきれない感情が
私たちにあるからであり、
しかもその世界は、暗く苦しいものであると、
予感しているのである。

死んで極楽浄土に往っている人の、
冥福を祈るだろうか。
暗い世界に沈んでいるのではないかと
思うからこそ、
「幸せになってください」と願うのである。

一片の知性によって、
死後の苦界を否定してみても、
死んだ親などが苦しんでいるのではと思うのは、
そう思わずにおれなくする
実存があるからという平凡な真理を、
かみしめねばならぬだろう。

地獄があるかないかは、知識の問題である。
死んだ後が恐ろしい、助かりたいという気持ちは、
人間の問題である。
死後の世界を恐れる心は、
「地獄なんてないだろう」
という知識くらいで清算されるワケがないのだ。

●必堕無間の一大事

一歩、後生へと踏み出すと、
真っ暗な心が出てくるではないか。
今晩死んでも、覚悟はよいか。
いやーな思いになるのを、
「後生暗い心」という。

その心を抱えて死ねば、地獄である。
釈尊は、「必堕無間」と説かれ、
「必ず地獄へ堕ちる」と仰った。

中国の善導大師は、
「ひとたび泥犂(地獄)に入りて長苦を受くる時、
始めて人中の善知識を憶う(おもう)」

と説かれている。

親鸞聖人が、
「もしまた、疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん」
と仰ったのは、
暗い心(疑網)を抱えたまま一息切れれば、
気の遠くなるほど長い間、
苦患に沈まねばならぬ
という意味である。

これを、「後生の一大事」という。
「後生」とは死んだ後。
取り返しのつかない大事件が惹起するから、
一大事だ。

人生の目的は、
この一大事の解決以外にない。
ではどうすれば、
後生の一大事は解決できるのか。
それは仏法を聞き、
阿弥陀如来の本願に
救い摂られるしかないのである。

ゆえに釈尊は、仏教の結論として、
一向専念無量寿仏」と説かれ、

親鸞聖人も、
一向専念の義は、往生の肝腑(かんぷ)
自宗(仏教)の骨目なり

と仰った。

仏教は何のために聞き、何を達成するのか、
よく知って、一日も早く、
目的を完遂させていただかねばならない。

●成仏と読経の関係は?
     池に石を投ぜられた釈尊

少し前の資料だが、国民生活センターによれば、
平均の葬儀費用は、249万円で、
内訳は次のようになっている。
葬儀社へ・・・87万円
寺へ・・・・・48万円
飲食費・・・・31万円
香典返し・・・72万円
その他・・・・11万円
盛大な葬式を求める背景には、
死者への追善供養を重視する考え方がある。
死んだ家族の「霊」は、どこへ行ったのか。
一般には、極楽とか天国と思われているが、
そんな楽しい世界へ行っているなら、
「霊を慰める」必要は全くない。

生きている人間の方が、
慰めてもらいたいぐらいだろう。

やはり何となく、死者は暗黒の世界で
苦しんでいるように思うのだ。

それで、お金をかけた葬式をしなければ、
「死者は成仏できないのでは」と考え、
張り込んで、できるだけ長いお経を
読んでもらおうとする。

あるとき釈尊に、一人のお弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、
死人が善い所へ
生まれ変わるという人がありますが、
本当でしょうか」
と、尋ねた。

釈尊は、黙って小石を一個拾われ、
近くの池の中に投じられる。
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さし、
釈尊は、
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、
浮いてこいと
唱えながらまわれば、
石は浮いてくるであろうか」
と、反問されている。
お弟子が、
「石は浮いてきません」
と答えると、
「そうであろう。
石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
だから、どれだけ周囲の者が
『浮いてこい』と繰り返しても、
浮かび上がるはずがない。
人間もまた同様だ。
人はそれぞれの罪悪の重さによって、
死後に生まれる世界が定まるのだ。
この世の者が、経文を読んでも、
死人の運命が変わるはずがない」
釈尊は、読経や儀式で死者が
救われるのではないと教えられたのだった。

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●追善供養されなかった聖人

さらに親鸞珍しき法をも弘めず、
如来の教法を、われも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」
と、無我に仏教を相承(そうじょう)なされた
親鸞聖人は仰っている。
「親鸞は父母の孝養のためとて
念仏一遍にても申したること未だ候わず」

          (歎異抄第五章)
“この親鸞は、死んだ両親の追善供養のために、
一度の念仏も称えたことはない”
と言われるのである。
念仏も称えたことがない、とは、
もちろん、孝養のための読経をしたり、
線香をたてたり、
花を供えることもなかったということだ。

それでは、親鸞聖人は不孝な方であったのか。
そうではない。
4歳で父君、日野有範卿(ひのありのりきょう)と別れられ、
8歳で母君、吉光御前(きっこうごぜん)と
死別なされた聖人は、
人一倍、親恋しいお心が強かったに違いない。
また、「恩を知らざる者は畜生に劣る」
と知恩、感恩、報恩を厳しく教えられる仏教を求められ、
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、

「如来大悲の恩徳は
身を粉にして報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」

と、恩徳讃を歌われた聖人である。
深重なる仏恩、広大なる師恩に感泣なされた聖人が、
阿弥陀如来、善知識・法然上人についで、
大恩を感じておられたご両親の魂の行く末を
案じられないわけがない。

読経や念仏で、ご両親を救えるなら、
どれだけでもなされただろう。
しかし、それは救いにはならないという、
釈尊のご教導に従われ、
聖人は追善供養を一切、なされなかったのだ。

そもそも経典は、釈尊が苦しみ悩む人に説かれた教えを、
お弟子方が書き遺したものである。
死人に説法なされたはずがない。

あくまでも、現在、生きている苦悩の衆生を
真実の幸福に導くための経典なのだ。

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●葬式・法事を勝縁に

では、葬式や法事や読経は
まったく無意味なのだろうか。
それは、勤める人の心にかかっている。
厳粛な葬式で、わが身を反省して罪悪と無常を感ずれば、
有り難い勝縁となる。
また法事も、よく分からない読経のみで
終わっては所詮がない。
そのお経に説かれている
真実の教えを聞かせていただいたり、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』を皆で聴聞して、
ますます信心決定せねばならぬと知らされてこそ、
意味があるのである。

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ。
御心得あるべく候」
            (御文章一帖目八通)
蓮如上人のお言葉を深くかみしめ、
葬式、法事も勝縁に、
人生出世の本懐に向かわねばならない。

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●肉体より魂の解決を
     「賀茂川にいれて魚に与うべし」

「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」 
            (改邪鈔)
賀茂川は、京都に流れる有名な川である。
京に生まれ、京で晩年を過ごされた親鸞聖人には、
馴染みの深い川であっただろう。
その賀茂川に入れて、
自分の亡骸を魚に食べさせてやってくれよと、
聖人は仰っている。

驚くべきお言葉だ。
遺骨を大切にしたり、葬式や法事に力を入れる風潮と
正反対だからである。

このお言葉は、種々に味わうことができるが、
まず一番は、
遺体の後始末や肉体の葬式よりも、
魂の解決こそが
急がねばならないのみ心であろう。

我が祖師・親鸞聖人は、
阿弥陀仏に救い摂られた一念をもって、
魂の臨終であり、心の葬式だと教えられた方である。

『愚禿鈔』には、
「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」
と仰せられている。
「信受本願 前念命終」とは、
弥陀の本願を信受した一念に、
迷いの命(こう劫より流転を重ねてきた自力の心)が
死んでしまうことである。
だから「命終」である。

覚如上人は、この体験を、
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
           (執持鈔)
と喝破なされている。
平生のとき、善知識のお言葉に導かれ、
阿弥陀仏に帰命した一念に、
(阿弥陀仏に救われたときにという意味です。)
娑婆(しゃば)の終わり、
心の臨終を体験させられる。
だから、生死の断頭台に、
生首を突き出す覚悟で
聞かねばならぬときが、必ず来る。
そのとき、「南無阿弥陀仏」の仏心をいただいて、
「あら尊(とうと)
   地獄の底が
 極楽の
   門であったか
      涙こぼるる」
と生まれ変わる。

親鸞聖人は、この「六字のまこと」をいただく体験を、
「即得往生 後念即生」と仰っているのである。
迷いの心が死んだとき、往生を得る。
この世の往生だから、不体失往生といわれる。
その時に、即ち生まれる。
一念で生まれるから、「後念即生」という。
「信受本願 前念命終」と、
「即得往生 後念即生」とは、
文章に表せば前後ができるが、
体験は一念同時。
これを、信心決定、信心獲得というのである。

この魂の臨終、心の葬式こそ大事であり、
信心決定した人は、
もう葬式は終わっているから、
肉体の葬式は、もはや問題でなくなる。

仏教の根幹は、因果の大道理である。
一切は、みな因果の道理に従って成立し、
変化する。
蒔かぬ因(タネ)は生えぬが、
蒔いた因(タネ)は必ず生えるのである。
阿弥陀仏に救い摂られた聖人は、仏智により、
善因善果 悪因悪果 自因自果の
因果の道理に狂いなしと知らされた。
だから、
「賀茂河にいれて魚に与うべし」のお言葉には、
「なんと今まで多くの殺生をしてきたことか、
食うたら食われるのが因果の道理、
せめて死んだら食べて貰おう」
という深信因果もあったにちがいない
と思われる。

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●罪悪感と大慈悲心

三番目には、徹底した罪悪感が窺(うかが)える。
一生造悪、曽無一善で
出離の縁有ることなしの親鸞に、
葬式や墓などとんでもない、
もったいないという深い懺悔もあったであろう。

最後に、親鸞聖人の大慈悲心が汲み取れる。
信心決定した人はみな、宇宙最高の功徳である
「南無阿弥陀仏」の名号と一体となる。
親鸞聖人が、
「五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」
       (正像末和讃)
と言われ、蓮如上人が、
「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主に成るというは、
信心を獲ることなり」
     (御一代記聞書)
と仰せになっている通りである。

親鸞聖人には、
「この『南無阿弥陀仏』と一体の肉体を食べて、
いずれの世にか、魚にも仏縁あれかし」
の度衆生心(どしゅじょうしん)もあっただろう
と拝察される。

人間のみならず、衆生一切の救済を念じられる親鸞聖人の
大慈悲心を彷彿とさせられるではないか。
それにつけても、葬式や墓番を任務のように
心得ている仏教もあるが、
この金言を何と味わっているのであろうか。

親鸞聖人の悲憤が聞こえてくるようだ。


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