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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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我々はいかに心で悪をやっているか! [罪悪深重]

この記事を読んで、心で悪をやって何が悪いのかと思われているかもしれませんが、
我々の本当の心である“阿頼耶識”に、心の行いがすべて業力(因)となって残り、
絶対に消えることはありません。(業力不滅)
縁が来れば、因縁和合して、結果が起こるのです。(悪因悪果)
今生で結果として現れなかったものは、
来世で現れるとお釈迦さまは教えられました。
(因果応報なるが故に、来世なきに非ずとも言われ、
業力は残るから、人間が死んだら何も無くなるということは
間違った考えですよ、来世で報いを受けて行くのですよと教えられた)
だから、悪ばかりやっている我々は、
死ぬと大苦悩の世界に堕ちなければならないのです。
(必堕無間と言われ、必ず無間地獄に堕在すると教えられた)
それを解決する方法を教えるためにお釈迦さまは地球に現れたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(ここからは真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、
乗せて必ず、明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回は「弥陀弘誓の船」について解説します。
「弥陀」とは、阿弥陀仏という仏さまのことで、
阿弥陀如来ともいわれます。
阿弥陀如来について、親鸞聖人の教えを
最も正確に伝えられた蓮如上人は、
こう教えられています。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なり
         (御文章二帖目九通)
今日、大宇宙に地球のようなものが
数え切れないほどあるのは天文学の常識ですが、
その大宇宙に数え切れない仏さまがましますと
お釈迦さまは説かれているのです。

これらの仏方を、「三世諸仏」とか、「三世十方の諸仏」
と言われます。

よく知られているのは、大日如来とか薬師如来、
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
皆、「三世十方の諸仏」の一仏です。

「本師・師匠」とは、師、先生ということですから、
阿弥陀如来は、大宇宙の無量の仏方の先生なのです。
大宇宙の仏方が、口をそろえて
「われらが師匠だ、尊い仏さまだ」
と絶賛され、合掌礼拝される仏さまが阿弥陀仏なのです。

逆から申しますと、大宇宙のあらゆる仏は、
阿弥陀如来のお弟子です。
地球のお釈迦さまも諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦は、先生と生徒、師匠と弟子の関係になります。

阿弥陀仏が見て取られた私たちのすがた

次に、「弘誓」とは、「弘い(ひろい)誓い」ということで、
十方衆生(すべての人)と約束されている弥陀の誓願のことです。
これ以上、弘い約束はありませんから、
「弘誓」といわれるのです。
約束は、相手をよく知らねばできません。
阿弥陀仏は、十方衆生をどのような者と見て取られたのか、
『御文章(御文)』にこう教えられています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

          (御文章二帖目八通)
私たちは、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方から見捨てられた者である

「諸仏に見捨てられるほどの罪を造った覚えはない」
と思われる方がほとんどでしょう。

では、十悪・五逆とはいかなる罪なのか、
まず十悪から説明いたします。

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。

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の十の悪です。

はじめの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは
心で犯す罪悪をいいます。

仏教では「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれ、口や身で犯す罪よりも
心で思う罪のほうが恐ろしいと教えられています。

最初の「貪欲」とは底の知れない欲の心をいいます。
欲の本性は、「自分さえよければよい」
という我利我利の心です。

普段は隠しているようでも、
切羽詰まった時に本性が顔を出す。

ガソリンスタンドの割り込みトラブルが多発し、
注意すると「急いでいるんだ!」と喧嘩が始まる。
JRの職員が「ミスを知られたくなかった」
と機械をハンマーでたたき折り、故障に見せ掛けた。
介護疲れで、「いい加減に死んでくれたら・・・」
の悪魔の心が噴き出る。

こう聞いて自分は絶対そんなことはないと
言い切れる人がいるでしょうか。

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追い詰められると、「邪魔者は消えてなくなれ」
と恐ろしい心が出てきます。
それでいてバレると、「仕方なかった」「あいつのせいだ」
と反省もない。
表面上は頭を下げても心の中は、
どうせ、見えない、聴こえない、ばれないからと、
まるで無法地帯ではないでしょうか。
パチンコに夢中になり、車中のわが子を熱中症で死なせる。
遺産相続をめぐって兄弟姉妹が
骨肉相食む(あいはむ)修羅場と化す。
実の娘に保険金を掛けて殺害する。
自分の欲望を満たすためには、親でも、子でも恩人でも、
どんな恐ろしいことでも考え、やってしまうのが
“人間”という存在のようです。
この欲が邪魔されると出てくるのが「瞋恚」、
怒りの心です。
うまくいかなければイライラし、弱い相手に当たり散らす。
どうして言うことをきかないのかとわが子を怒鳴る。
試合に負ければ、あいつのせいだ、
コーチのせいだとムカツク。
やられたら倍返しでやり返す。
全て自分の思いどおりにしたい我利我利亡者の欲望は
ちょっとしたことで妨げられ、そのたび、
瞋恚の炎が燃え上がります。
心のまな板の上で、あの奴、この奴と切り刻むのは、
「怒」という字にも表れています。
次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、うらみの心。
他人の成功を見ては、「あいつだけうまくやりやがって」
「いつもひいきされてずるい」と、妬み心が出てきます。
逆に、他人の不幸を目にすれば、
ごちそうを与えられたように瞳をランランと輝かす。

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いつも馬鹿にする上司、競っても勝てない同輩、
自分より優秀な後輩の失敗には、心の中で拍手喝采。

昔から「他人の不幸は蜜の味」ともいわれ、
脳科学でも証明されたそうです。
妬ましい人物に不幸が起きると、
脳の喜びに関する部分が反応する
実験結果が得られたというのです。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

     (悲歎述懐和讃)

親鸞聖人は、「死ぬまでやまぬ悪性だ」と言われ、
蛇やサソリを見たときのようなゾッとする心だと
告白なされています。

次に、これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語としかなりません。
さらに、身では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
(口や身の悪の詳細は以下にアクセスしてください)
殺生の限りを尽くしている者が救われるには!
ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま

このように、心や口や身で十悪を造り続けている我々は、
自分のまいたタネの結果で苦しみ続けています。
そんな私たちを放ってはおけぬと、
大宇宙の仏方が慈悲の心を起こされたのですが、
我々があまりに悪重く罪深いので、
とても助けられぬとサジを投げてしまわれた。

このことを『御文章』に、

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫(人間)なり

と書かれています。

「悲願」とは慈悲によって起こされた願いです。
その「悲願に洩れた」とは、
諸仏でも助けられなかったということで、
私たちからいえば見捨てられた、ということです。

肉体の病で例えるなら、
町医者に「もっと大きな病院で」と言われ、
大病院でも「私の手には負えません」と手を放され、
ついに、すべての医者に見放された重病人のようなものです。
しかも、その自覚が全くないので、なお救い難いのです。

ただ一人見捨てられなかった仏

ところが『御文章』には、続けてこう書かれています。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人(すべての人)をば
弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して

大宇宙のすべての仏に見捨てられた者なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
ただ一人立ち上がってくだされたのが
本師本仏の阿弥陀仏なのだ。
弥陀だけが“決して見捨てはしないぞ、必ず助ける”
と、世を超えた、大慈悲の願いを起こしてくだされたのだよ

と蓮如上人は教えてくだされています。

このことは、
お釈迦さまが『大無量寿経』というお経に説かれ、
親鸞聖人も『教行信証』に記されています。

その弥陀の誓願の原文は漢字三十六文字ですが、
今日の分かりやすい言葉に直しますと、
「どんな人も 我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

親鸞聖人は船に例えて、「弥陀弘誓の船」と仰り、
すべての仏が束になっても救えない極悪人を、
この世から絶対の幸福に救済する力を持っておられるのは
弥陀一仏
ですから、「弥陀弘誓の船のみ」
と教えられているのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくための人生

私たちは、苦しむために生まれてきたのでも、
生きているのでもない。
弥陀弘誓の船に乗せていただき、
“人間に生まれてよかった!”
の生命の歓喜を獲るために生を受けたのです。

弥陀の願船に乗せていただければ、
この世は絶対の幸せに生かされ、
来世は必ず阿弥陀仏の極楽浄土・無量光明土
(無限に明るく楽しい世界)に連れて行っていただけます。
まさに永の迷いの打ち止めであります。

生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

このお言葉は、溺れ苦しみ続けた生死の海を離れ、
一日も早く弥陀弘誓の船に乗って光明輝く世界に出てくれよ、
との親鸞聖人のやるせないお気持ちが込められています。

一生造悪値弘誓(一生悪を造れども、弘誓に値〈もうあ〉いぬれば)
至安養界証妙果(安養界に至りて、妙果を証せしむ)
              (正信偈)
一生造悪の極悪人ではあるが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、
弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を
開かせていただくことができるのだよ

仏法は聴聞に極まる。聞く一つです。
先哲は、苦労して聞け、真剣に聞け、
続けて聞けとも教えておられます。
身代わりは立ちません。
今ハッキリするのが、弥陀の救いです。
後悔を残さぬよう
弥陀の本願をツユチリの疑心もなくなるまで、
真剣に聴聞いたしましょう。


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本当の私を知る [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

本当の私を知る
  法鏡に映った真実の自己

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「あなたはだれ?」
と尋ねられたら、皆さんはどう答えますか。
「そりゃあ、『○○会社の課長の△△です』
と名刺を渡しますよ」
と言う人もあるでしょう。
でも、会社を退職してしまえば、
その肩書きもなくなってしまいます。
改めて、
「あなたはだれ?」と尋ねられたら、
何と答えることができるでしょう。
「うーん、元課長」
と言うわけにはいきませんね。
私とは何か。とても大切な疑問です。
そしてこれは、人間として生きていくには、
避けて通れぬ大きな問題なのです。

●幸せになろう
   としている「自分」とは

桜咲く春が近づき、大学受験や資格取得、
就職など、人生の新しいスタートに向かって、
準備している人が多いでしょう。
どんな仕事に就いたら、どんな人と結婚したら。
今までは仕事一筋の人生だった、さあ退職後は、
何をすればいいのかな。
悔いのない満足した日々を送りたい。
それには、どうすれば・・・。
人生の岐路に立たされた時、人は悩み、考えます。

仕事仕事で、生きてきた。
待てよ、このままで終わっていいのかな

という方も多いでしょう。
女性なら、
やれやれ、ようやく子育てが終わった。
でも、子供たちが就職、結婚して、家を出ていったら、
何だか寂しくなっちゃった。
あーあ、私の人生なんなのかしら

と、ふと疑問が生じる人もあるのです。
だれでも、幸せになりたいと望んでいます。
私らしく生きたい」
「私の人生、後悔したくない」
と、みんな言います。
では、肝心のその「私」とはどんなものでしょう。

就職のアドバイスでも、どんな仕事を選ぶかの前に、
「まず自分を知ることが大切」
といわれます。
自分というものを知らずして、
その自分が幸せになれる道を選べるはずはありません。

幸せになろうとしている主体である「私」について、
よくよく考えてみることが大切ではないでしょうか。

●もっとも
   大事な探し物

古来から、自分自身を知ることが
大事だといわれてきました。
「汝自身を知れ」とは、
古代ギリシャの時代からいわれています。

本当の自分を知らなければ、
本当の幸せにはなれないからでしょう。

仏典には、こんな話があります。

・・・・・・・・・・・・・・

お釈迦さまが一樹の陰に休んでおられた時、
近くの林で30人余りの貴公子が、
それぞれ妻を伴って酒宴を楽しんでいた。
その中で一人の独身男が、
娼婦のような女を連れていた。
ところが、みんなが疲れて眠っている間に、
その女が貴重品を盗んで逃げたのだ。
驚いた一行が林の中を徘徊して捜し回っていると、
座しておられる釈尊(釈迦)の姿を見た。
「世尊、怪しい女が通りませんでしたか」
と尋ねると、こう反問されたという。
事情はよく分かったが、その女を求めるのと、
汝自身を求めるのと、いずれが大事であろうか」
一同、迷夢から覚めた心地して、
説法を聞き、仏弟子になった、
と記されています。

・・・・・・・・・・・・・・・

かつて、バブルといわれる時代がありました。
株だ、土地だ、債権だ、と美酒に酔いしれ、
右肩上がりの景気のいい話に、
皆、我を忘れて、舞い上がったといわれます。
ところが、はじけてみると、こりゃ大変。
破産、倒産、リストラの嵐吹き荒れ、
人生そんなにいいことばかりではない、
自分というものを
しっかり見つめ直さなければならないぞと、
反省したはずでした。
今また、景気がじわじわよくなりつつあるといいますが、
今度こそ、浮かれず踊らず、
私たちは自分を見つめて生きていくのでしょうか。

●いつも一緒
   だけど見えない・・・

私のことは私がいちばんよく知っている、
と思う人も多いでしょうが、しかし、
「知るとのみ 思いながら 何よりも 
知られぬものは 己なりけり」
ともいわれるように、最も分からないのが、
実は、自分自身ではないでしょうか。

古今東西、我が身知らずを笑った話は多くあります。
その一、二を挙げてみましょう。

古代中国の蔡君謨(さいくんぼ)という宰相は、
長い見事なあごヒゲで有名でした。
天子から、そのヒゲを布団の中に入れて寝るのか、
外に出して休むのか、と聞かれましたが、
一向にハッキリした自覚がありません。
いい加減なことも言えず、一晩の猶予を願って、
早速、帰宅して試してみました。
しかし、夜具に入れると息苦しいし、
外に出しても都合が悪い。
長いあごヒゲを出したり入れたり、
夜明けに及びましたが、
結論は出なかったといいます。

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        ■ ■ ■
窃盗団が山中で宴会を開きました。
もちろん、盗品でないものは何一つありません。
中に輝く金杯がありました。
回し飲みをしているとうちに金杯がなくなったので、
親分株が立ち上がり、目を釣り上げてどなりました。

「さては、この中に盗人がいるな」
自分が窃盗団のボスであるのを忘れなければ、
言えないことに違いありません。

いずれも身につまされる話ですが、
キルケゴールは、自分自身を忘れるという、
最も危険なことが、世間ではいとも簡単になされていると
警告しています。(『死に至る病』)
キャシュコーナーに、
現金を置き忘れたとなれば大騒ぎしますが、
最も大事な自分を忘れていても、
ちっとも驚かないのです。

●口や体を動かす
  心のすがた

どうしてこんなに自分がわからないのでしょうか。
どんなによく見える目でも、
目そのものを見ることはできません。
同じように、私たちは、あまりに近すぎて、
自分のすがたを見ることができないのです。

近すぎて見えない自分を見るには、
鏡が必要です。

では、どんな鏡が、本当の私のすがたを
映してくれるのでしょうか。
お釈迦さまはご遺言に、
「汝らに法鏡を授けるであろう」
と述べられています。

釈尊の説かれた教えが仏教です。
その仏教を「法鏡なり」と言われているのは、
「私たちのありのままのすがたを
映して見せる鏡のようなものが仏教だ」
ということです。

鏡に近づけば近づくほど、
自分の姿がハッキリ見えてくるように、

仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、
自分の本当のすがたです。

大無量寿経』には、私たちのすがたを、

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)

とおっしゃっています。
仏教では、私たちを、
心と口と身の三方面から眺めますが、
中でも最も重視されるのが、心の行いです。

殺る(やる)よりも 劣らぬものは 思う罪
といわれ、口や体で造る悪よりも、
心で悪いことを思う罪はもっと重いのです。

なぜなら、口や体の行いは心の指示によるからです。
心は火の元、口や体の行為は、
火の粉に例えることができましょう。
火の粉が火の元から舞い上がるように、
体や口の行為は、心の表現なのです。

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では、心で、どんな悪を造っているのでしょうか。
釈尊は、「貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴」
と教えられています。

貪欲とは、なければないで欲しい、
あればあるでもっと欲しい、
という底の知れない欲の心をいいます。

釈尊は、食欲、財欲、色欲、名誉欲、
睡眠欲の五欲を教えられています。

■食欲

食欲とは、食べたいという欲です。
私たちは動物を食べるのを当たり前だと思っていますが、
動物たちは決して、人間のための生命とも、
当然の犠牲とも考えてはいないでしょう。

どんな生物でも、死にたくないのは、
私たちと変わらないはずです。
船上の魚がピチピチはねるのも、
首を絞められる鶏がバタバタもがくのも、
苦しいからでしょう。
人間とは何と残酷なものかと、
強くのろって死んでいるに違いありません。

ちょうど私たちが無実の罪で殺される恨みと、
少しも変わりはないでしょう。
しかし、毎日、私たちの食欲を満たすため、
どれだけ多くの生命が奪われているか分かりません。

■財欲

昔、3人の泥棒が大金を盗んで山頂まで逃げた。
山分けしようとした時、
一人が欲を起こした。
「腹ごしらえしてからにしようじゃないか。
オレは食べ物を探してくるからな」
と言って、町へ出かける。
空腹にあえいでいた2人に、異論はない。
町へ行き、買った饅頭をたらふく食べた泥棒は、
残りの饅頭に毒薬を注入する。
山に残った2人も、悪相談ができていた。
「アイツを片づけて、この大金を二分しよう」
町から帰った泥棒は、
「オレは、食べてきたよ」
と毒饅頭をそこに置き、がけの上から、
気持ちよさそうに放尿し始めた。
チャンスとばかりに2人の泥棒は、
足音忍ばせ近づき、谷底へと突き落とす。
「これで安心、食べてから分けよう」
毒饅頭を食べた2人も枕を並べてあの世行きだ。
山頂に残ったのは、盗んだ大金だけだったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

切りのない欲を満たそうとして苦しみ、
すべてを置いてこの世を去る。

人間の末路を象徴しているような話です。
財欲のために一級建築士が耐震データを偽造し、
韓国では、名誉欲のために
大学教授が論文を捏造して、
辞職を表明しました。

■名誉欲

名誉欲とは、他人からよく思われたい、
褒められたい、悪口言われると面白くない心です。
最近、“できると思わせる”ための
ハウツー本が注目を集めています。
“できる人になる”のは難しいけれど、
“できる人と見られたい”という心理からでしょう。
転職セミナーには、「できると思わせるポイント」
「人事担当者に会ってみたいと思わせる応募書類の秘訣」
などのテーマが並び、人気を呼んでいます。
「『やさしい男』に見せる法」「『知的な男』に見せる法」
などの目次が並んだ恋愛術の本も売られています。
年末には、「いいお嫁さんと思わせる帰省術」なる特集が、
婦人雑誌で組まれたりします。
(平成18年のとどろきです)
アンチエイジングも大人気です。
直訳すると抗加齢。
若く見られたい女性の間で注目を集めましたが、
最近は、男性にもブームが広がっているそうです。
退職後、美容外科に通い、月数万円をかけてシミの除去、
美肌効果のある点滴を受け、
ビタミン剤を服用している男性もいるといいます。
他人からどう評価されるか、皆、気にしているようです。

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●鎮火したと聞くとがっかりするのはなぜ?

これらの欲が妨げられると、
出てくるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。

「怒」という字は、心の上に奴と書きます。
あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられたと、
怒りの炎が燃え上がります。

離婚話にカッとなった男が、部屋に灯油をまき、
火をつけ、妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この愼恚の心のなせる業(わざ)でしょう。

怒ってもかなわぬ相手と知ると、
わき上がってくるのが、
ねたみ、そねみ、恨みの、愚痴です。

他人の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、
相手の不幸を喜ぶ、悪魔の心が出てきます。
災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤリとする、
恐ろしい心です。
「火事だ」と聞いて、火事場に向かって走っている途中に、
鎮火したと聞くと、がっかりします。
「旅先の火事は大きいほど面白い」
といわれますが、不謹慎であってはならない、
と思う下から、対岸の火事を楽しんでも、
悲しむ心が起きません。

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり

親鸞聖人は、ヘビやサソリを見た時のような、
ゾッとする心だと嘆かれています。

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●本当の私と
   最高無上の幸せ

法鏡で、本当の自分のすがたを
ハッキリ知らされた親鸞聖人は、

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

と助かる縁が断たれたと同時に、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり

            (歎異抄)
と歓喜踊躍なさっています。
“阿弥陀仏の本願は、ひとえにこの極重悪人の
親鸞一人を助けるためであった”

と躍り上がって喜ばれているのです。
「オレはそんなに悪いヤツではない」
とうぬぼれている人は、

極悪人目当てに救うと誓われた
弥陀の本願に相応できません。
地獄一定の門を通らねば、
弥陀の救いにあえないのです。

本当の自分のすがたを知らされねば、
本当の幸福にはなれませんから、
お釈迦さまは、一切経に、
私たちの本当のすがたを教えられているのです。


 


タグ:法鏡

親鸞聖人と「浦島太郎」 [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

春も間近になりました。
もう3月、
「あれ、この前、年が明けたばかりなのに・・・」
と感じておられる人もいるでしょう。
「月間カレンダーが日めくりのようだ」
とつぶやく声も聞こえてきます。
それほど、あっという間に過ぎ去ってしまうのが
人生なのだと蓮如上人は、
「この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」
(人の一生はまるで夢幻のごとく儚いものだ)
と仰っています。
そんな儚い人生を
私たちはどのように生きているのか。
その人間の本当の姿を描いているのが、
誰もが親しんできたおとぎ話「浦島太郎」です。
子供の話と侮るなかれ。

ここには、親鸞聖人のみ教えを学ぶ
私たちにとって大切なものが詰まっているのですから。

今回はその「浦島太郎」に学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気づかなかった、
  浦島太郎の大矛盾

日本人なら誰でも、子供の頃に「浦島太郎」の話を
聞いてきたでしょう。

漁師の浦島太郎が、浜へ漁に出かけると、
一匹の亀が大勢の子供たちに虐待されている。
かわいそうに思った浦島太郎は、
再三再四、動物愛護を説くが、
子供たちは一向に聞き入れない。
そこで彼は亀を買い取り、海へ放してやった。
亀は幾度も礼を言い、海中に姿を消した。

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数日後、彼が舟を浮かべて漁をしていると、
先日助けた亀がポッカリ浮かんだ。
「ご恩返しに、今日はよい所へご案内いたしましょう」
と、龍宮上へ連れて行かれた浦島太郎は、
乙姫様に迎えられ、山海の珍味でもてなされ、
限りない楽しみを味わった。
故郷に帰った浦島太郎が、
乙姫様から贈られた玉手箱を開くと、
モクモクと白煙が立ち昇り、
たちまち白髪の老翁になっていまったという。

話を終えた父母や教師から、
「浦島太郎のような、慈悲深い、
生き物をかわいがる心優しい人になりましょう」
と教えられたものです。
確かに、一切の生き物に慈悲をかけ、
命を大切にする心は、
子供たちに伝えていきたいものです。
ところが、浦島太郎の言動には大きな矛盾があることに、
気づいているでしょうか。

一つの命を助けた
    “善人”の限界

子供たちに金を与えてまで、
一匹の亀を助けた浦島太郎ですが、
その肩に担がれていたのは、魚釣り竿。

彼は漁師なのです。
その釣り竿で彼はこれまで
何百何千の魚の命を奪ってきました。
もし浦島太郎が本当に一切の生命を愛する善人ならば、
まず真っ先にするべきことは、
己の釣り竿をたたき折ることでしょう。

これまで何百何千の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人だと思うのは、
あまりにも早計です。

では、彼はその魚釣り竿を
放棄することができるでしょうか。
釣り竿には彼の生活の全てがかかっています。
折ればたちまち生きていけなくなる。
ここに善人たらんとする浦島太郎の限界があるのです。

一つの命を助けることはできても、
幾万の命を奪わずしては生きていけない。
これは一人、浦島太郎だけのことではなく、
私たちすべての人間の実相とはいえないでしょうか。

●生きるためには仕方がない?

約800年前、関東でご布教なされていた親鸞聖人のお弟子の
「入西房」は、元は日野左衛門という名の猟師でした。
彼は初め、大の仏法嫌いでしたが、
親鸞聖人から真実の仏法をお聞きして大変わりしたのです。

その時の問答が、アニメショーン『世界の光・親鸞聖人』
第4巻に描かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親鸞聖人と出会い、「ただ今この世で絶対の幸福になれる」
という阿弥陀仏の救いを初めて知らされた日野左衛門。
だが、首を横に振って、自嘲ぎみにこうつぶやく。

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日野左衛門 「しかしなあ。殺生ばかりしている俺なんかどうせ、
       縁なき衆生さ」

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親鸞聖人  「日野左衛門殿。あなたが殺生されるのは、
       肉を好んで食べる人が、いるからでござろう」
日野左衛門 「そうだが」
親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
殺生とは文字通り、生き物を殺すことです。
私たちは動物を食べるのを当たり前に思っていますが、
食べられる動物たちは決して、人間のための命とも、
当然の犠牲とも思っていないでしょう。
どんな生き物も死にたくないのは私たちと同じ。
船上の魚がピチピチはねるのも、
鶏が首を絞められバタバタもがくのも苦しいから、
死にたくないからです。

今話題の『進撃の巨人』(諌山創・作)というマンガには、
突如として現れ、圧倒的な力で
人間を捕らえて食い殺す巨人と、
人類との戦いが描かれています。

何とムゴイ、不条理な、
と思わず顔を背けたくなりますが、
目を転ずれば、動物の肉を喜んで食べている
自分の姿と重なるのです。

すべての人の
   例外ない種まき

仏教では「全ての生命は平等であり、
上下はない」と教えられます。
「生きるためには仕方がない」
と人間の命だけを尊しとするのは、
人間の勝手な言い分であり、
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。

その殺生に「自殺」「他殺」「随喜同業」
の3通りある、と仏教では教えられます。


初めの「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。

自ら命を絶つという一般的な意味とは違います。
浦島太郎や日野左衛門が、食べるために魚や鳥、
獣を殺すのは、この自殺です。


次に「他殺」とは、他人に命じて殺させることをいいます。
自分で直接手にかけなくても、
自分で殺したのと同罪になると教えられているのです。


「随喜同業」は、他人が殺生しているのを見て
楽しむ心があれば同罪ということ。

肉や魚の料理に舌鼓を打つのは、
「他殺」であり、「随喜同業」の罪を造っている姿です。

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この三つ、いずれも当てはまらないと
言える人はないでしょう。

“私は肉を食べません”と言う菜食主義の人も、
その野菜を作るために多くの虫を
駆除していることを承知しているでしょうか。

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たとえ生き物の肉を一切食べなかったとしても、
蚊に刺されれば思わずパチンとたたき潰す。
道を歩けば、どれほどの生物が
靴の下敷きになっていることでしょう。

いかに慎んでも、殺生と無関係な人はありません。
自覚しようと、いまいと、
すべての人が免れることのできない罪なのです。

「蜘蛛に生れ 網をかけねば
ならぬかな」    (俳人・高浜虚子)
蜘蛛が巣を張り、引っかかった獲物を捕らえる。
残虐だといわれることもあるけれど、
蜘蛛に生まれたからには、
そうして網をかけて餌を捕まえなければ
生きてはいけないのだ。

人間もまるで同じ。
おびただしい殺生をせずして生きられない、
深い業を持っているのです。

アニメ第4巻、親鸞聖人のご説法の続きをお聞きしましょう。

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親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です」
日野左衛門 「えっ?それじゃあみんな、殺生していることに
       なるじゃないか」
親鸞聖人  「いかにも。殺生せずしては、生きてゆけない。
       私たちの、どうにもならぬ、恐ろしい業なのです

日野左衛門 「そのとおりだ」
親鸞聖人  「すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、
       阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると
       誓っておられるのです

どうにもならぬ罪を抱える私たちを、
必ず救ってみせると誓われた阿弥陀如来とは、
どんな仏さまなのでしょう。

自己の罪悪に驚いた読者の手記に続いて、
後半で明らかにいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで体験手記をはさみます。


   殺生が生業(なりわい)の私
        救われる教えは? 
             富山県 西村 文男さん(71歳)

永年、調理師として勤めた新川さんは、
ある日、自己の姿に驚き、
仏法に救いを求められました。
どんなことがあったのか、聞いてみましょう。

私のこの手は40年間、調理師として
多くの生き物を殺してきた血染めの手です。
1日50匹以上、鯉を殺し、洗いを造る。
スッポンの首を切り、生き血をブドウ酒に入れ、
精力飲料として出す。
鰻は生きたまま引き裂く。
その他、客の注文に応じ、
多くの魚を殺すのが私の日課でした。
「西村のつくる料理はうまい」
そんな客の言葉は、料理人冥利に尽きます。
暴れる鯉に手こずる新米が歯がゆく、
「どけっ、俺がやる。よく見ておけ!」
ここは腕の見せ所、と得意絶頂の毎日でした。

                      血に染まった鬼

そんなある日、鯉料理200人分の注文を受けたのです。
外に設けた、にわか作りの流しで、
朝4時から100匹の鯉を次々と殺していきました。
向かいの山頂から朝日が私の周辺をまぶしく照らし、
何気なく窓に映るわが身の姿を見たとき、
そこには帽子から白長靴まで、
赤いペンキをかぶったように
血ダルマになった鬼が立っていました。
流しからあふれ出た鯉の血は、足下に広がり、
まさに血の池地獄さながら。
大きなポリバケツには、たった今切り落とした
鯉の頭がびっしり詰まり、
悲痛な叫び声を上げているかのように、
口をパクパク動かす。
「ああ、俺は何と残酷なことをやっていたのか!」

                            先輩の臨終

恐ろしさに包丁を投げだし、
手についた血を流さずにはおれませんでした。
夢か?
いや、恐る恐る見渡した地獄の光景は
紛れもない現実でした。
思わず目を閉じる私の脳裏に、
ガンに冒され
もがき苦しんで逝った先輩の顔が浮かびました。
「ワァ!魚が来る。魚が俺を突きにやってきた。
助けてくれ」
大声で泣き叫び、全身赤い傷で腫れ上がって、
息絶えました。
「俺にも必ず、臨終が来る」
そう気づいて、目の前が真っ暗になりました。
足元が崩れ落ちるショックを受け、
「もう二度とこんな仕事やらん」
と、職場から逃げ出したのです。
「母さん、助けて!」
気づけば、母の墓前で泣いていました。

       知らされた救いの道

恐怖におののく私に、父は、
「この本を読みなさい」
と一冊の仏教書を手に握らせてくれました。
貪るように私は読みました。
「この真実を知った者は、
二度とつまらぬ迷いに命をかけることはできない。
泣いても笑っても真実の道は一本きり。
ハッキリするまで求め抜くことだ

と、その本に呼びかけられ、
私はいても立ってもおれず、
聞法会場を探して走りました。
そこで初めて親鸞聖人の教えを
聞かせていただいたのです。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく

今まで造ってきた罪悪で火の車に乗せられ、
「地獄行き間違いなし」
の私を照らされました。
聞くほどに知らされるのは、
罪悪にまみれた血ダルマの私を、
一念で救い摂る無上仏(阿弥陀仏)のやるせなきお誓い。

今は亡き父と、因果応報を身をもって
教えてくれた先輩の死は、
私に仏縁を結ばせるご方便でした。
一生造悪の者を、そのまま絶対の幸福に救う
と誓われた無上仏の本願に信順したいと思うのです。

※一念とは、一秒より短い時間のきわまり

体験手記はここまで

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
悪にまみれた
  すべての人を
   必ず助けてみせる

「願力無窮(がんりきむきゅう)」に阿弥陀仏

悪の自覚もなく安穏(あんのん)に生きる
浦島太郎のような私たち。

その人間の実態を知らせ、
救わんとして説かれたのが真実の仏教です。

悪を造らねば
  生きてはいけない

浦島太郎は、魚釣り竿でおびただしい命を
奪っている自覚もなく、
一匹の亀を助けようと思いました。

同様に、恐ろしい自己の姿に気づかず、
善いことをしていると思って私たちは生きています。

しかし、西村さんのようにふと、
気づかされることがあります。
無邪気そうな子供が、サケの稚魚を放流し、
笑顔で手を振っている。
「大きくなって帰ってきてね」
やがて育って帰ってきたサケは、
釣り上げられ切り裂かれて
食卓を飾ります。
牛や豚に良質の餌を与え、
毛にブラシをかけてかわいがっていますが、
目的は殺して食べるためです。

生きた牛や豚や鶏を、自分の手で殺せる人は
どれだけあるでしょう。
屠殺場を見ても目を背けずにおれない。
まして手にかけて殺すなど、とても。

しかし私たちは毎日、そんな恐ろしいことを
誰かにやってもらって、肉を食べ、
殺生をし続けているのです。

「生命を頂いた分、一生懸命生きればよい」
と言われますが、どこへ向かって
一生懸命生きるのでしょうか。

蜘蛛が網をかけねば生きられぬように、
己の業界から抜け出せず、
罪悪を造らずしては生きられぬ
私たちの姿を親鸞聖人は、
このように仰っています。

悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のことくなり

悪のやまらない親鸞。心はヘビやサソリを
見た時のようにゾッとする恐ろしさだ


生きるために恐ろしいことや、
あさましいこともやらざるをえない。
何とも救われ難き身です。

そんなご自身の姿を
「一生造悪」(正信偈)
(一生悪を造り続けの親鸞だ)
とも仰っています。
そんな悪人と知り、悔い改める者なら殊勝ですが、
邪見憍慢(じゃけんきょうまん)の悪衆生」(正信偈)
で、うぬぼれて悪性のわが身を
正しく見ることができないのだ。

さりとて恐ろしい罪を犯している不安も払拭できず、
「生きるためには仕方がない」
と、言い訳せずにはおれない。
これが人間の限界なのです。

自覚なき極悪人を
  「われひとり助けん」

悪業をば恐れながらすなわち起し、
善根をばあらませども得ること能わざる凡夫なり

          (口伝鈔)
悪を恐れながら、悪しかできず、
善行をしようと思ってもできない人間である

息するままが悪の種まき、
地獄へ運ばれる悪性の身、
それを大宇宙最高の仏である、阿弥陀仏だけが
「われひとり助けん」
(私が必ず助けよう)
と立ち上がってくだされたと、
蓮如上人はこう仰っています。

十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人も、
空しく皆十方、三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
然れば、爰に弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」といふ超世の大願を発して

            (御文章二帖目八通)
十悪五逆の罪人とは、すべての人のこと。
古今東西のすべての人間は、
皆罪人だと言われています。
しかも日々の楽しみに心を奪われ、
罪を重ねている自覚がない。

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魚釣り竿でこれまで計り知れぬ殺生を重ねながら、
一匹の亀を助け、善人とうぬぼれる浦島太郎のごとく、
罪と教えられても、本人は恐ろしいとも思わず、
人生をアッという間に流して
酔生夢死(すいせいむし)するのです。

これを「無慚無愧の極悪人」と、
親鸞聖人は言われています。
「無慚」とは、自分に恥ずる心のないこと、
「無愧」は他人に恥ずる心がないことです。

悪にマヒし切った私たちですから、
大宇宙の仏方は“助かる縁手掛かりなし”
と見捨てられたのだ、と蓮如上人は仰っています。
だが、“そんな者は、絶対に救われぬだろう”
と絶望することはない。
その極悪人を「必ず救う」とただ一仏、
誓われた方がましますと、

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して、
已(すで)に阿弥陀仏と成りましましけり。
この如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つも、
有るべからざるものなり

           (御文章二帖目八通)
と仰っています。

その無限のお力を持たれた阿弥陀仏の救いを、
親鸞聖人はこう讃嘆されています。

願力無窮にましませば
罪悪深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

阿弥陀仏のお力は絶大で底無しだから、
どんな罪の重い者も助けてくださるのだ

阿弥陀仏の願力によって「罪悪深重」「散乱放逸」
の私と知らされた人のみが、
「願力無窮」「仏智無辺」の偉大な弥陀のお力に
感泣せずにおれない。

この阿弥陀仏に助けていただくよりほかに、
極楽に往生する道は二つも三つもないのです。

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玉手箱はもう開いている

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では、どうすれば弥陀に救い摂られるのでしょうか。
蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と教えられます。
阿弥陀仏の本願は、聞く一つで救うお約束なのです。

ところが、
“そうは仰るけれど・・・聞くだけで助かるのかしら?”
“私など救われないのではないか、難しいのではないか”
と、弥陀の御心を聞かず、はねつけています。
そんな私たちに、凡夫の愚かな知恵で
モタモタ思案せず、
ひたすら光に向かって進めと、
「聞思して遅慮することなかれ」
と親鸞聖人は教示されています。

もう玉手箱から煙は立ち昇っています。
人生の終着駅に着く前に、弥陀の本願を聞き抜いて、
決して後悔なきようにと、聖人は全身全霊で、
真剣な聞法を勧められているのです。

“阿弥陀仏のお約束、誠だった”
と信知させられるまで聞法精進いたしましょう。

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 親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願
に関して疑問に思われている方は、
クリックして記事をご覧ください。


心でやる悪&弥陀に救われたら煩悩はどうなる!? [罪悪深重]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば
至徳の風しずかに、
衆禍の波、転ず

          (親鸞聖人・教行信証

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか

今回は最後の行「衆禍の波、転ず」
についてお話したいと思います。

●不思議な弥陀の救済

親鸞聖人は、阿弥陀仏の大慈悲によってつくられた
南無阿弥陀仏の大船の乗せていただいても、
「衆禍の波」はやってくると言われています。
「衆禍」とは、“いろいろな禍い”
“様々な悪果”ということです。

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世間では、「阿弥陀仏に救われたら、
災難や事故などの禍いに遭わなくなるのだろう」
と思われています。
言葉を換えれば、
「弥陀に救われた人は、欲や怒りの煩悩は、
なくなるか、大きく減少するだろう。
悪も造らなくなって、その報いも受けなくなるだろう」
と誤解しています。

ところが、阿弥陀仏に救われ、
大悲の願船に乗せていただいても
煩悩は減りもしなければなくなりもしない、
だから衆禍の波も変わらない、
と親鸞聖人は言われるのです。

こう聞くと、「えっ、それで救われたことになるの!」
と驚かれたり、「読み間違えたかな」
と読み直される方もあるかもしれません。
しかし、親鸞聖人は、救われても、
煩悩は全く変わらないとハッキリ教えておられます。

煩悩あるがままで救われる不思議な弥陀の救済を、
明らかにされた方が、親鸞聖人なのです。

その不思議な世界を、親鸞聖人は、こう和讃されています。

有漏(うろ)の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり


「有漏」は「煩悩」の別名。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、
全部で百八つあります。

除夜の鐘を百八回突くのは、この煩悩の数からきています。

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代表的なものは、貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴の三つで、
これを三毒の煩悩といいます。


「貪欲」とは欲の心。
あれが欲しい、これも欲しい、ああもなりたい、
こうもなりたいという心で、
「成果を横取りしてでも儲けたい、褒められたい」
「ライバルを蹴落としてでも愛されたい」
「手抜きして少しでも楽したい」
と、何でも自分の思い通りにしたい自己中心的な心です。
欲を満たそうとして、どれだけ浅ましい心が
噴き上がってくることでしょう。


この欲が妨げられると出てくるのが「瞋恚」の心。
瞋恚とは怒りです。
あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられた、
コンチクショーと怒りの心が燃え上がります。
上司を、部下を、同輩を、怒りの心で切り刻む、
恐ろしい心が瞋恚です。

夫婦喧嘩で「死ぬ」「殺す」と修羅場になった発端も。
冷静に振り返れば、ささいでつまらないことなのですが、
一旦怒りの炎が点火すると、理性もへったくれもない。
散々辺りを焼き尽くし、焼け野原にボツネンと
たたずんで残るは後悔のみ。
まさに、「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」のです。

愚痴は、ねたみそねみの醜い心であり、
他人の不幸を喜ぶ悪魔の心。

不幸話が耳に入ると、「おかわいそうに」
と眼を潤ませながら、
「どうしてそうなったの?それでどうなったの?」
と興味津々。
自分でも知らぬ間に心が躍り、人気ドラマを見る以上に
ドキドキワクワクしてしまう。
不幸の度合いが深いほど関心も深まる醜い心、
それが愚痴です。

上辺は立派な善人を演じながら、
内面は、浅ましく、醜い心が渦巻いている。
このような心を「煩悩」といい、
ここでは「有漏(うろ)」と言われています。

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「穢身」は「穢い身体」ですから、
「有漏の穢身」とは、
「煩悩に穢れた肉体」「煩悩具足の身」ということです。
私たちは、心のドン底から噴き上がる煩悩のために、
どれほど身を焦がし、もだえ苦しんできたことでしょう。

煩悩さえなくなれば、心穏やかに過ごせるのにと
思わないではいられません。
しかし、親鸞聖人は、
「有漏の穢身はかわらねど
阿弥陀仏に救われても、煩悩は少しも変わらない)」
と断言されているのです。

●もし煩悩をなくさねばならないのなら

もし、煩悩をなくさねば救われないとすれば、
峻烈な修行が必要になるでしょう。
かりにそうなら、身体の不自由な方や、病床の人、
年配の方はとても救われないことになってしまう。

また親鸞聖人、法然上人、龍樹菩薩といった方々が
何年も血のにじむ修行に励まれても、
煩悩はなくせず、減りもしなかったと言われています。

今日でも、千日回峯行を成し遂げた人も
「残ったのは足跡だけ」と述懐しているのです。

煩悩の塊の我々が、
煩悩をなくすことなどできるはずがありません。

かといって無限の欲を満たそうとすれば、
死ぬまで不満は絶えず、苦しまなければなりません。
満たせもせず、なくすことも不可能な煩悩を前に、
私たちはどうすることもできない。
真の幸せはどこにあるのか。
あらゆる哲学、思想もここで八方塞がりです。

●煩悩あるがまま、心は浄土に遊ぶ

そんな中、親鸞聖人は、欲や怒りの煩悩を、
減らしも無くしもしないままで体験できる、
驚くべき幸福の存在を、

有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

と言われているのです。
これは、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快なのだ」

という宣言です。
『正信偈』にも、次のような例えで教えられています。

すでによく、無明の闇を破すといえでも、
貪愛・瞋憎(とんない・しんぞう)の雲霧、
常に、真実信心の天を覆えり。
たとえば、日光の雲霧に覆わるけれども、
雲霧の下、明らかにして闇なきがごとし
            (正信偈)
阿弥陀仏に救われ、
苦悩の根元である無明の闇が破れると、
欲や怒り、ねたみそねみの煩悩〈貪愛・瞋憎の雲霧〉以外、
何もない自己の裸形〈らぎょう〉が知らされる。
だが、雲や霧がどんなに天を覆っていても、
日光で雲霧の下は明るいように、
欲や怒り、ねたみの煩悩いっぱいあるままで、
心は浄土に遊んでいるように明るく愉快なのだ

「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
「瞋」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心。
「憎」は憎しみ・うらみ・ねたみそねみの愚痴の心です。
親鸞聖人は、この煩悩を霧や雲に例えて
「貪愛・瞋憎の雲霧」と言われています。
弥陀に救われる前は、
日光が出ていない夜の状態ですから、
暗い心を抱え、何のために生まれてきたやら
分かりません。
弥陀に救われた時、日光が闇を破って昼になり、
「人間に生まれてよかった」の明るい心に大転換します。

では、日光が出たら、同時に雲や霧もなくなるのでしょうか?
そうではありません。
親鸞聖人は、日光が出ても、
雲霧は常に天を覆ったまま(貪愛・瞋憎の雲霧、常に、
真実信心の天を覆えり)と言われています。
しかし、いかに雲霧の煩悩が天を覆っていても、
昼になれば、雲霧の下は明るいのです。
これが「雲霧の下、明らかにして闇なし」の一大宣言です。
煩悩の有無は問題ではない。
苦悩の根元、無明の闇が晴れたかどうかが肝心です。

煩悩(雲霧)あるままで救われた(闇が破れた)
世界があることを何とか知ってもらいたいと、
親鸞聖人は例えを駆使して
私たちに教えてくださっているのです。

●波乱万丈の衆禍の波、逆巻こうとも

このように、救われても煩悩具足の身は変わりませんから、
救われる前も、救われた後も、悪果はやってきます。
ですが、どれだけ衆禍の波が逆巻こうとも、
心が浄土に遊ぶ幸せは崩れることも
色あせることもありません。

29歳で弥陀に救い摂られてからの、
波乱万丈の聖人のご生涯を知れば、
これがいかにすごいことか、お分かりになるでしょう。
31歳、すべての人がありのままで救われることを
明らかにされるため、当時、
僧侶には固く禁じられていた肉食妻帯を断行なされ、

「堕落坊主じゃ」「破戒坊主」「色坊主」
「仏法を破壊する悪魔だ」と非難罵倒の嵐を呼んだ。

35歳、仏教の結論である「一向専念無量寿仏」
(阿弥陀仏に一向専念せよ、必ず絶対の幸福に救われる)
をあまりにも強調された
ため、
当時の権力者の逆鱗に触れ、
死刑判決を受けられた聖人は、
関白九条公の計らいで越後(今の新潟県上越)に流刑となり、

配所の5年、風雪に耐えておられます。
その後、関東へ移られてからは、
聖人の興隆を妬んだ山伏弁円が白昼堂々、
刀振りかざして殺しに来たりと、
たびたび命も狙われました。
還暦過ぎて京都へ戻られてからも、
83歳の時には自宅全焼の悲運に遭われ、
さらに84歳の、長子善鸞の義絶事件は、
人生最大の苦悩であったでしょう。
これら万丈の波乱は、紛れもなく「衆禍の波」が
荒れ狂ったご生涯でした。

そんな親鸞聖人が、「こころは浄土にあそぶなり」
と謳い上げておられるのですから、
驚く他はありません。

たとえ災難続きであろうと、心に欲や怒りが逆巻いていようとも、
ありのままで「念仏者は無碍の一道なり」

万人救済の道が、ここに開かれているのです。
私たちは、災難や事故に遭わないために
仏法を聞くのではない。
どんな目に遭っても永久に変わらぬ
絶対の幸せ者になるために聞くのです。


ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける

       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回もこの親鸞聖人のお言葉を解説いたします。
前回は、「弥陀弘誓の船」についてお話ししていました。
「弥陀」とは、すべての仏の師である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、“すべての人を
必ず絶対の幸福に救う”お約束。

阿弥陀仏は、全人類(十方衆生)を
相手取って誓われているのです。

相手を知らずして約束はできません。
阿弥陀仏は、約束の相手、十方衆生(すべての人)を
どのように見られているのでしょう。

『御文章(御文)』に分かりやすく、書かれています。

我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、
辱くも弥陀如来ひとり助けんという
誓願を発したまえり

           (御文章二帖目九通)
弥陀は私たちを、極悪深重の者、
地獄しか行き場のない者と見抜かれ、
「われ一人、助けよう」と誓われている。


前回から、仏教で教えられる十の罪悪を解説しています。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語(きご)
⑤両舌(りょうぜつ)
⑥悪口(あっこう)
⑦妄語(もうご)

身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は、口で犯す罪です。


人間関係の多くは言葉遣いによって決まるといわれ、
「言葉で人生は決まる」「大人の会話力」などの本が
世にあふれています。
確かに人は、ちょっとした言葉で傷つくもの。
容姿を悪く言われ、
落ち込んでいる娘を慰めようとした父親が、
「おまえ、人間は顔じゃないぞ」
と言うところを、
「おまえ、人間の顔じゃないぞ」
と言ってしまったり、
新人女子社員が電話で
「どちらさまですか」を
「何様(なにさま)ですか」
と聞いてしまったり、

妻をたしなめるため、
「バカモノ!」と言うべきところ、
「バケモノ!」と怒鳴って収拾がつかなくなったり、
そばで聞けば笑い話でも、
当事者たちは、言葉一つで修羅場が現出します。

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口で犯す、四つの悪

「口に四悪を好むなり」といわれ、
仏教では、口で四つの悪を造ると教えられます。
順番に見ていきましょう。

【綺語】
綺語とは、おべっか、へつらいの言葉。
「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮し仁(すくなしじん)」
という故事成語があります。
“口先だけうまいことを言ったり、
上辺だけ愛想よく取り繕って媚びへつらうさまは
誠実に欠ける”という意味です。
「口に密あり、腹に険あり」で、
甘い言葉の奥に、
金や出世の策略が巡らされています。

「下いびりの上へつらい」という言葉もありますが、
部下には毒舌、上司には甘言でこびる醜さは、
他人に見えても自分にはなかなか気がつかぬものです。

【両舌】
両舌は、二枚舌。
友達を仲たがいさせるもので「離間語(りかんご)」
ともいいます。
仲良しを見るとしゃくに触り、
一方には、
「あの人、裏ではこんなひどいことを言っているのよ」
と吹き込み、
もう一方にも同じことを言う。
初めは二人とも「まさか」と思いますが、
やがて疑心暗鬼が生じ、
関係がギクシャクしてくる。
それを見て、「しめしめ」とほくそえむ。
こんなのが両舌です。

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【悪口(あっこう)】
文字どおり、悪口のこと。
心無い一言や悪意に満ちた言葉は「舌刀」となって、
深く人を傷つけます。
昔、丹波(京都)に百歳を超えた老婆がいた。
「いちばん思い出深い話は?」
との問いに
「もう何もかも忘れてしまったが、
二十四回殺されたことだけは忘れられん」

どういうことか尋ねると、悲しげに老婆が言う。
「ワシの家では子や孫が先立ち、
二十四度の葬式を出した。
そのたびに参列者が、
『ここのばあさんと代わっておれば・・・』
と言ったのじゃ。そのつど、ワシは殺された」

言ったほうは無自覚でも、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
私たちも知らずに言葉で
どれだけ人を殺していることか。

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いじめでも、言葉の暴力が問題視されています。
特に、インターネット上は無法地帯。
十年以上、十数人から
殺人者扱いされ続けた芸能人もいる。
しかも、捕まった中傷者たちは、
「ネットの情報にだまされた。
自分も被害者だ」
「あなたは悪口言われただけではないか、
離婚した自分のほうがつらい」
と反省もなく、
「表現の自由」を振りかざす者もあった。
刑事から
「表現の自由なら自分の名前が書かれてもよいのか」
と問われると、
「芸能人はよいが、自分は一般人だから嫌だ」
と嘯いた(うそぶいた)といいます。
被害者は、中傷犯たちの顔写真を見て
「どこにでもいる普通の人」
という印象を持ったという。
匿名だと本性をむき出し、
辛辣な攻撃をする人間へと変貌する。

集団化もしやすく、安易に中傷サイトを見ていると
「語殺」の共犯者になりかねません。
その報いは一人一人が
受けていかねばならないでしょう。

【妄語】
事実無根のウソをつくこと。
「私はウソは申しません」と言った政治家があったが、
これほどの大ウソはありません。

「ウソつきの受ける罰。
それは、人が信じてくれなくなることだけでなく、
誰も信じられなくなることにある」
          (バーナード・ショー)
お釈迦さまは経典に、
「心口各異(しんくかくい) 
言念無実(ごんねんむじつ)」
と説かれています。

心で思うことと口で言うことはそれぞれ異なり、
いずれにも真実がない。
これが私たちの真実の姿だと教えられています。

あまりに私たちは平気でウソばかりついているので、
醜いという感覚が麻痺してしまって、
ウソをついているという自覚すらありません。

ちょうど、臭いトイレの中に長くいると鼻がバカになって、
臭いと感じなくなってしまうようなものです。

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命がけの弥陀の救い

このようにウソ偽りばかりの全人類は、
悪を造り続けながらも自覚がなく、
ほとりなき苦しみの海に溺れもだえています。
まさに自業自得。

諸仏から見捨てられても文句の言えない我々です。
そんな私たちを相手に、

若不生者 不取正覚
(若し生まれずは、正覚を取らじ)
もし、絶対の幸福(往生一定)に生まれさせることが
できなければ正覚(仏のさとり)を捨てる

と、命懸けて誓われた仏さまがおられます。
その仏こそ、すべての仏の先生である阿弥陀仏です。

このことを親鸞聖人は、こう和讃されています。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ

       (浄土和讃)

阿弥陀仏が「若(もし)」の一字に命を懸けて
「必ず救う」と誓ってくだされたからこそ、
諸仏にも捨てられた虚仮不実の私たちが、
絶対の幸福(信楽)に救われる。
平生の一念、絶対の幸福になった人は、
「人間に生まれてよかった」の大慶喜を獲(え)、
死ねば必ず弥陀の浄土・無量光明土に往って
仏に生まれられるのだ、との仰せです。

仏語に虚妄なし」
ウソをつかれぬ方が仏さま。

ましてや本師本仏の阿弥陀仏にウソはありません。
“我々凡夫の真実(まこと)は、真実がないのが真実
仏の真実は、真実があるのが真実”

真実(まこと)なき私たちは、
真実一杯の弥陀弘誓の船に
乗せていただく以外、
本当の幸せになれる道はないのです。

弥陀弘誓の船に乗ずる唯一の道

この弥陀弘誓の船に乗せていただくには、
弥陀の本願を聞く一つ。

ですから、親鸞聖人は、
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」
モタモタせずに弥陀の本願聞き抜けよ
と、今日もあなたのそばで念じておられます。
そして、「自分のような罪深いものはとても・・・」
「これだけ聞いてもダメだから・・・」
と悲しむ私たちに、

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしと悲しむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障重しと嘆かざれ
       (正像末和讃)

長い夜のような暗い心を晴らす光あり、
生死(苦悩)の大海を渡す弥陀の大船ましますから、
どんなに罪重く、さわり多くとも
「悲しむな」「嘆かざれ」と励まし、
押し出してくださっているのです。

「虚仮不実の私一人がための本願であった」
と悲嘆の涙が歓喜の涙に変わるまで、
阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただくことが
何より肝心なのです。


殺生の限りを尽くしている者が救われるには! [罪悪深重]

  (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

               (親鸞聖人)

果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

阿弥陀仏が見抜かれた約束の相手

「弥陀弘誓の船」の説明の途中ですので、
続けたいと思います。
「弥陀」とは、全ての仏の先生である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、
“すべての人(十方衆生)を必ず絶対の幸福に救う”
お約束のことです。

阿弥陀仏が見て取られた約束の相手、
十方衆生(すべての人)について
『御文章(お文)』に分かりやすく、
こう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、(乃至)
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

              (御文章二帖目八通)

弥陀は私たちを、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方(十方・三世の諸仏)から
見捨てられた者と見抜かれているのです。

十悪とは、仏教で教えられている十の罪悪をいいます。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語
⑤両舌
⑥悪口
⑦妄語
身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は身(からだ)で犯す罪を解説します。

【殺生】
一口に「殺生」といっても、
3通りあると仏教で教えられています。
○自殺
○他殺
○随喜同業(ずいきどうごう)
の3つです。

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最初の「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。
世間でいう、首をつって死ぬとか、
飛び降り自殺のような、
自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、
蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で動物を殺すことです。

「生きるためには仕方がない」「害を与えるから」と
私たちは毎日、どれだけの生き物を
殺していることでしょうか。

「他殺」とは、他人に依頼して殺させる罪。
直接殺さなくても、自分が殺したのと
同罪だと教えられています。

魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、肉屋さんに頼んで
牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
「他殺」の罪を犯していることになります。

「随喜同業」は、他人が殺生しているのを
見て喜ぶ心があれば同罪、ということです。

日々の言動を振り返れば、
殺生を犯さずには生きられぬ
自己の姿が知らされます。

動物虐待者をののしる、その口で・・・

以前、矢が刺さったまま泳いでいるカモが発見され、
一大騒動に発展したことがあります。

通称“矢ガモ”といわれ、連日テレビで報道されました。
痛々しい矢ガモの映像を見ながら、
「かわいそうに」「鬼の仕業だ」
「犯人をボーガンで撃ってやりたい」
と口々に言いながら、
その“口”で、何をしていたのか?

ある人は、“焼き鳥”を食べ、
ある人は、“北京ダック”を平らげ、
“カモ鍋”に舌鼓を打っていたのです。

動物を傷つけてさえ、
「鬼だ」「無慈悲だ」と言うのなら、
殺生の限りを尽くし、
うまいうまいと喜んでいるわが身は
何と評すればいいのでしょう。

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いとしのPちゃんを食べる?

「ブタがいた教室」という実話をもとにした映画があります。
ストーリーは次のとおり。
ある小学校の先生が、食べることを前提として
子ブタを飼うことを児童たちに提案する。
「いのちとは?」「食べるとは?」
という教育の一環として、
卒業までの一年間、26人の児童が
子ブタの面倒を交代で見ることになる。
「Pちゃん」と名づけた子ブタをみんなが可愛がった。
そしてその日がやってくる。
「育てた豚をみんなで食べる」日。

クラスのみんなでPちゃんのことを話し合う。
食べるか、食べないか、
みんなで泣きながら真剣に討論する。

そして結局は・・・みんなで食べた。
実際にこのような授業をすべきかどうか、
賛否は分かれましょうが、
生き物を殺して食べるとはどういうことか、
誰もが考えてみる必要はありそうです。

多くは、「生きるために仕方ない」と、
済ませてしまいますが、
「仕方ない」と「悪くない」は全く別です。
私たちは、殺生せずしては生きられない、
どうにもならない恐ろしい業を持っているのです。

【偸盗】
「偸盗」とは他人のものを盗むこと。
リンゴ泥棒、米泥棒、スーパーや本屋での万引きなど
様々な盗みが行われています。
警察庁によると、一昨年、万引きで逮捕や書類送検、
補導などされた人は95000人。
19歳以下の少年が26000人だったのに対し、
65歳以上は29000人と初めて高齢者が上回りました。
万引きが「少年の犯罪」といわれていたのは昔のこと。
年齢、男女を問わず、盗む罪がやみません。

盗みは物に限らない。
約束の時間に遅れるのは、
相手の時間を奪う時間泥棒です。

また、お経には、
「己にふさわしからぬものを用い、または食する」
のも偸盗罪と説かれています。

心の中で、あれが欲しい、これも欲しいと物色を続け、
偸盗罪を造り続けているのが
人間だとお釈迦さまは教えられます。

【邪淫】
「邪淫」とは、よこしまな男女関係。
ストーカーや不倫などの問題が
毎日のように報道されていますが、
人間は、幾つまで愛欲に悩まされるのでしょうか。

それを、大岡裁きで有名な大岡越前が
母親に尋ねると、
一言も語らず囲炉裏の灰を
火箸でかき混ぜているだけ。
釈然とせぬまま、その場を去った大岡越前。
後でポンと手を打って、
「なるほど、灰になるまでか」
と言ったという。
「世の人の心惑わす事、色欲には如かず。
人の心は愚かなるものかな」
とは、『徒然草』の吉田兼好の言葉。
科学だ、文明だといいながら、
人間幾つになっても、
邪淫の罪はなくならないようです。

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●極悪を 捨てず裁かず 摂め取る

心では貪欲・瞋恚・愚痴。
口では綺語・両舌・悪口・妄語。
身では殺生・偸盗・邪淫
の十の悪を造り続けているのが人間だと、
お釈迦さまは説かれています。

これが「十悪」です。

中でも口や身(からだ)をそうさせる
心の姿をよくよく見つめなさいよ、
と教えられるのが仏教です。

恐ろしいのは、十悪を犯しながら自覚がなく、
善人とうぬぼれているところにあります。

「夢の世は 罪を罪とも知らねども
         報わんときや 思い知られん」
罪を罪とも知らず、悪を悪とも思わず、
罪悪を造り続けていますが、
その報いは必ず受けていかねばなりません。

だから、苦から苦、闇から闇への
綱渡りを続ける私たち。
このままでは何のために生まれてきたのか、
生きているのか、分かりません。

そんな苦悩の悪衆生と私たちを見て取られ、
「我を信じよ。
どんな極悪人も、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているのが阿弥陀仏の本願なのです。

極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」
底なしの弥陀の大慈悲によらなければ、
金輪際助からないのが私たちであります。

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてからなずわたしける」

自分の行い(業)が生み出した自業苦(じごく)の海で
苦しみ続ける私たちが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
この世から絶対の幸福に生かされ、
死後必ず極楽浄土に連れていってもらえるのだよ、

との親鸞聖人の仰せです。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
              (歎異抄)
弥陀が五劫という長い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人のためであった。
こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか

弥陀のご本願、真剣に聞かせていただきましょう。


地獄行きの本性 [罪悪深重]

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出てくるカンダッタは、
地獄へ堕ちて当然の悪人だと思いますが、
我々の心とカンダッタの心は全然変わらないことを、
今回の記事では教えてくれています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

アニメ『世界の光・親鸞聖人』の第5部には、
後生の一大事を解決する道を
親鸞聖人にお聞きするため、
関東の同行が、京都へ向かうシーンがある。
第6部には、親鸞聖人が、それらの人々に
ご教化くださる場面がある。
歎異抄第2章に描かれたところだ。

今日では想像も及ばない過酷な旅を
敢行した理由は、
古今東西の全人類に、
一息切れたら地獄へ堕ちねばならない
後生の一大事があるからである。
仏法を聞く目的も、これ以外にない。

後生の一大事を生み出す
私たちの行為を、
お釈迦さまは、『大無量寿経』に、

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)

とある。
心と口と身体で私たちは、
悪の造り通しなのだ。

親鸞聖人は、ご自身のことを、
「罪悪深重」
「地獄は一定すみか」
とまで仰っている。

とくに仏教では心を重視するとも述べた。
心で造る悪として、
貪欲(欲)
愼恚(怒り)
愚痴(ねたみ、そねみ)
と教えられている。

その中でも欲の正体は、自分さえよければ
他人はどうなってもよいという我利我利の心である。

●小説『蜘蛛の糸』という小説がある。

ある朝、お釈迦さまが、
極楽の蓮池をのぞきこまれると、
八功徳水のはるか下に、
血の池地獄が見えたのである。
多くの罪人が、浮きつ沈みつ苦しんでいたが、
ひときわもがいていたのが、
カンダッタという男である。
仏の慈悲は、
苦ある者にひとえに重い。
助ける縁手がかりはないかとお釈迦さまが、
カンダッタの過去帳を開かれたところ、
生前のカンダッタは、強盗、殺人、放火などの連続。
ところが一つだけ、善行があった。
山道を歩いていたカンダッタが、
道を横切ろうとしたクモを、
いつもなら踏み殺すところだが、
その日だけはとび越えていったのだった。

微笑せられたお釈迦さまは、
蓮池に巣を作っているクモの糸を手に取られ、
血の池地獄へ垂らされた。
悶え苦しむカンダッタの頭上に、
銀色に光りながら、降りていったのである。
「こんな細いクモの糸では助かるまい」
とは思ったが、溺れる者は藁をもつかむ、
カンダッタが糸を握ると、ふっと体が浮いたのである。
「しめた!」
と思ったのは言うまでもない。
彼は糸を上り始めた。
もとより大泥棒のこと、こんなことは朝飯前である。
が、さすがに極楽までは遠く、
疲れて中途にぶら下がり、カンダッタは一休みした。
足下を眺めると、血の池が不気味に照り輝いている。
同時にカンダッタは、がく然とした。
一人でも切れそうな細い糸を、
何十何百の罪人が、あとからアリの行列のように
上ってくるではないか。

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カンダッタは足の指で糸をつかみ、
振りながら怒鳴った。
「お前らいったい、誰の許しを得て上ってきたのだ!
これはオレ一人のものだ!落ちろー!」
罪人たちは悲鳴を上げ、
再び地獄へ吸い込まれていった。
「さまあみろ」
とほくそえんだ刹那、
カンダッタの握っていたすぐ上で、
クモの糸はプツリと切れ、彼もまた、
血の池地獄へ沈んでいったのだった。
一部始終を見られてお釈迦さまは、
「自分さえよければ、他人はどうなってもよいという
我利我利の心が、
またしてもあの男を地獄へ堕としめたか。
助かる縁のない者だ」
と嘆息されたという。

これが小説の概要だ。

●人間の本性がむき出しとなった
    タイタニック号の悲劇

蜘蛛の糸』は芥川の創作だが、
我利我利亡者の人間の実相を表す実話がある。

世界中で記録的な興行成績を収めた映画
『タイタニック』に見てみよう。

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1912年4月10日、当時としては
最大の豪華客船であったタイタニック号は、
イギリスのサウサンプトン港から、
アメリカ・ニューヨークに向け出港した。
3年の歳月をかけて造られたこの船は、
当時としては画期的な2重構造の船底を持ち、
しかも船体は、15の防水隔壁で区分されていたため、
「不沈艦」だと人々は、かたく信じていたのだった。

ところが4日後(14日)の深夜11時40分、
北大西洋上で氷山と衝突。
沈没するとわかってから、翌15日の午前2時20分に
海底の藻屑(もくず)と消えるまで、
船内は狂乱の事態となる。
我先に救命ボートへ駆け寄る乗客を統制するため、
船のクルーが先導し、
まず女性や子供からボートへ乗せられた。
2223人の乗客・乗員のうち、
約半数しか乗れないボートをめぐり、
我利我利の正体露出の争いが
展開されたのだった。


あまり疲れていないときは、
満員電車でお年寄りに席を譲るにやぶさかでない。
が、2日酔いの朝や、仕事で疲れた帰りに、
自分の座席の前に老人が立ったら、
どのような心が動くであろうか。
「あっちへ行ってくれないかな」
「寝たフリしよう」
と思ってしまう。

余裕のあるときは
善人の仮面をかぶることはできても、
切羽詰ると、
自らを犠牲にして他人に尽くすことは、
なかなかできない。
我利我利だからである。


まして、死ぬか生きるかのときに、
他人を顧みる余裕があるか。
自分がタイタニックの乗客になって、
考えてもらいたい。

氷山の救命ボートが海上へ降ろされた。
定員65人のところなぜか、たった28人を乗せて。
徐々に乗る人の数が増えてゆくとは言え、
まだ空席がある状態で、
次々とボートが降下していった。

船体はますます傾き、興奮が高まってくる。
女装して乗り込もうとする男性や、
避難を誘導する立場にありながら、
逃げ出す者も出始めた。


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1時30分、ひときわ大きな悲鳴が上がった。
すでに定員いっぱいで降下するボートに、
乗客が飛び乗ろうとしたのだ。

航海士が銃を空に向けて発砲し、警告した。
残り少ないボートを求め、
乗客は傾いたデッキの上を右往左往する。
2時5分、最後のボートが離れた。
が、船にはまだ、1500人が残っているのだ。
2時18分、多くの生存者が、
船体が2つに避けるのを目撃。
重すぎた船首部分が、まず水没した。
さらに、ちぎれた船尾側が
垂直に立ったまま数分間過ぎたあと、
一気に沈み始める。
史上最高の豪華客船は、3773メートルの海底へ。

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海面にはまだ、救命胴衣をつけた多くの人が、
悲鳴を上げながら溺れている。

遠巻きに眺めるボートは20隻、
定員の半分も乗っていないものもありながら、
救助に行けば、溺れている人が殺到し、
ボートが転覆するのは目に見えていた。
生存者は、夫や同朋を見殺しにしたのだ。


小一時間が経過し、ようやく一隻のボートが、
海面を漂う人々へ、ゆっくりと近づいた。
多くの人は、冷たい海水のためにすでに絶命し、
わずか数名が新たに助けられたに過ぎなかった。
死亡者は1517名と推定される。
生存者は、706名であった。

●蛇蠍(じゃかつ)のごとき悪性

「自分が助からない」となれば、
他人を蹴落としてでも、
救命ボートに乗り込もうとするではないか。

また、幸いにボートで脱出できても、
海上に溺れる人々を、身の危険を顧みず、
助けにいけるだろうか。


親鸞聖人は、阿弥陀如来の光明によって
照らし出された我利我利亡者の自己を、
「悪性さらにやめがたし、心は蛇蠍のことくなり」
と仰り、

「蛇やサソリを見たときのような
ゾーッとする心を、親鸞は持っている」
と泣かれた。

また、
「さるべき業縁の催せば
如何なる振舞もすべし」
と告白なさって、縁さえやってくれば、
殺人をも犯してしまう悪性であると、
悲痛な懺悔をなさっている。
地獄へ堕在する一大事は、他人事ではない。
我利我利の本性を隠して、
善人ぶっているすべての人の後生にあるのだ。


我々はみな極悪人である! [罪悪深重]



(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

極重悪人唯称仏(極重の悪人は、唯、仏を称すべし)
                    (正信偈)

「極重の悪人」とは、「極めて罪の重い悪人」
ということです。
これはどんな人のことか分からないと、
親鸞聖人がこの一行でおっしゃっていることは、
毛頭分かりません。

仏教を説かれたお釈迦さまは、
お亡くなりになる時に、
「仏教は法鏡なり」とおっしゃっています。

「法」とは「真実」「本当の」ということですから、
「法鏡」とは、「本当の私の姿を見せてくれる鏡」
ということです。
仏教を聞き初めのころは、
法鏡から遠いところにいて、
自己の真実の姿を教えられても、
「それは私のことではない。自分は違う」
と思っています。
そして、「あの人に比べれば、私はまだましなほうだ」
と平気でいます。

ところが、だんだんと仏教を聞いていきますと、
鏡に近づいていくように、
自分の本当の姿が
次第に明らかに知らされてきます。
鏡に近づくほど、しわやら、あざやら、
醜いものが見えてくるように、
仏教を聞けば聞くほど、
自分の醜い姿が知らされてきます。

鏡の前に座っても、目をつむっていたり、
そっぽを向いていては、
鏡を見ていることにはならないように、
何十年も仏教を聞いていても、
本当の自分の姿を知らなければ、
仏教を聞いたことにはなりません。

では、仏教の法鏡に私たちの姿は、
どのように映し出されているのでしょうか。

●問題は、「心」にある。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、
次のように説かれています。

心常念悪(しんじょうねんあく・心常に悪を念じ)
口常言悪(くじょうごんあく・口常に悪を言い)
身常行悪(しんじょうぎょうあく・身常に悪を行い)
曽無一善(ぞうむいちぜん・かつて一善も無し)

仏は私たちを心と口と身体の、
三つの行為から見ておられます。

中でも、
「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
と教えられるように、最も重く見られるのは
心の行為です。
口や身体を動かすのは心だからです。

・・・・・・・・・・・・・・・
二人の禅僧が諸国行脚中、
小川にさしかかった。
美しい娘が、連日の雨で川が増水し、
とび越えられずモジモジしている。
「どれどれ、私が渡してあげよう」
僧の一人が、無造作に抱いて渡してやった。
途方に暮れていた娘は、
顔を赤らめ礼を言って立ち去った。
同伴の僧がそれを見て、
かりにも女を抱くとはけしからんとでも
思ったのか、無言の行に入ってしまった。
戒律のやかましい禅宗では、
女性に触れてはならないとされているからだろう。
日が暮れて、女を渡した僧が、
「どこかで泊まることにしようか」
と声をかけると、
「生臭坊主との同宿はごめんこうむる」
連れの僧は、そっぽを向いた。
「なんだ、お前、まだあの女を抱いていたのか」
件(くだん)の僧はカラカラと笑った。
連れの僧は、いつまでも抱いていた
心の生臭さを突かれて、
返す言葉がなかったという。

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問題は、その心にあるのです。
「よもすがら 仏の道を求むれば
わがこころにぞ たずね入りぬる」
親鸞聖人が高僧と仰ぐ、源信僧都の述懐です。
自己の真実とは、
「心の真実」が問われているのです。

その心は、欲や怒り、ねたみそねみが
とぐろを巻いて、
他人に言えない、恐ろしいことを
思ってはいないでしょうか。

●他人に言えないことを、思ってはいないか

一皮むけばウミ血が流れると分かっていても、
美しい女を見た時は、
邪淫の心が燃え上がっている、
と釈尊は説かれています。

あらゆる人は、つねに淫らなことばかり考え、
婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、
卑猥な行為を思いのままにしている。

我が妻を厭い憎んで、
他の女をひそかにうかがって
煩悶の絶えたことなく、
愛欲の波は高く寄せかけ、
寄せかけ、起つも座るも、安らかでない

仏典に説かれている刀葉林地獄(とうようりんじごく)
といわれるものは、
人間のこの愛欲の広海を描かれたものでしょう。

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この地獄へ堕ちた男がふと見ると、
天を摩(ま)すような大樹がある。
葉は刃のごとく鋭く、焔(ほのお)を吹いている。
樹上には好みの女が、満面の媚(こび)を浮かべて、
自分を招いているではないか。
罪人のかつての恋人である。
恋しさのあまり、居ても立ってもおれぬ男は、
前後を忘れて木に登っていく。
すると刀葉(とうよう)が降ってきて、
男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、
愛欲はいっそう激しさを増す。
ヤットの思いで近づいて、
さあ、満身の力で抱こうとすると、
忽然と女は消えうせて、今度は樹の下から声がする。
「あなたを慕ってここまで来たわ。
ねえ、早く来て抱いて」
とやさしく誘う。たかが一人の女のために、
火を吐く思いで登ってきた純情が、
いじらしく泣けてくるが、
愛恋(あいれん)の情ますます燃え盛り、
樹を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、
今度は逆に、上に向かって焔を吐き、
寸々分々に肉を徹し、骨を削る。
言語に絶する苦痛である。
ようやく地上に下りると、
だが、恋人の姿はそこにはない。
樹上からまたしても身悶えしながら彼を呼ぶ。
愛欲の広海は果てしなく、
限りなく登り下りを繰り返し、
苦しみ続ける地獄であると
説かれている。

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別れては恋しく、会えば敵同士となって
傷つけ合う。
満たされなければ渇き、
満たせば二倍の度を増して渇く。
愛欲の実態を表して余すところがありません。
「理性」と聞けば、近代哲学の父・デカルトが
思い浮かびますが、
彼もお手伝いの女性に子供を産ませ、
未婚の母にしています。

泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのが、
私たちの実相ではないでしょうか。

金が欲しい、物が欲しい、誉められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に私たちは、

どれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

あいつがいなければ、こいつがいなければ、
あの人が失敗したら、この人が死ねばと、

どれだけ人を、
心で蹴落とし殺しているでしょうか。

親であれ兄弟であれ、
子供であれ恩人であれ、

自分の欲のためには、
どんなことでも考えます。

遺産相続で、兄弟や親戚どうし、
骨肉相はむ争いは、
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが怒りの心。

あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられたと、
愼恚(しんい)の炎が燃え上がる。

交際していた女性の上司が
女性を中傷したことに腹を立て、
胸や腹を包丁で刺殺。
さらに、不倫が発覚して離婚を迫る
妻の首をネクタイで絞め殺し、
遺体を切断、山林に捨てた事件も、
怒りの心のなせる業(わざ)でしょう。


とても欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、ねたみ、そねみ、
うらみの心がわき上がってきます。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心が出てきます。

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毒舌家A・ビアスは、
幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感
と『悪魔の辞典』に書いています。
にわか雨にあって、
困っているのを見て喜んでいる。
犬にほえられ、うろたえている人を笑っている。
着飾った女性が車の泥はねで、
泣き出しそうなのを楽しんでいる。
火事場に向かう途中で、
鎮火したと聞くとガッカリする。
「旅先の火事は、大きいほどおもしろい」
不謹慎であってはならないと思う下から、
対岸の火事を楽しんでも、
悲しむ心が起きてはこない。

大きな事件や残虐性が強いほど、
視聴率は上がり週刊誌が売れるのは、
何を物語っているのでしょうか。

出世した、結婚した、新築など、
他人の幸せはみんなしゃくのタネ。
失敗した、離婚した、災難など、
他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。

思っていることは洗いざらい、
さらけ出したらどうでしょう。
悪魔と叫んで、みんな逃げ出すに違いありません。

●永遠に助かる縁なき者

善導大師といわれる偉い方でさえ、

一日のうちに八億四千の憶いあり。
念々になすところ、これみな三塗(さんず)の業なり

と言われています。「三塗の業」とは「悪」のことです。
このように、悪に染まった心の奴隷である口も身体も、
常に悪ばかり言ったりやったりするのは当然です。
だから一つの善もないのです。

これが、すべての人の本当の姿なのです。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「極重の悪人」
と言われているのは、
この法鏡に映し出された姿を
告白された言葉です。

『歎異抄』には、

いずれの行も及び難き身なれば、
地獄は一定すみかぞかし

とおっしゃっています。
「行」とは「善」のことで、
頭についた火をもみ消すように
善をしようと努めたが、一つの善もできない、
地獄より行き場のない親鸞であった、
と悲痛な告白をなされています。


「極重の悪人」とは、この「永遠に助かる縁なき者」
と、ハッキリ知らされた自己をいわれたものです。
このように弥陀の光明に照らし出された聖人が、
「こんな極重の悪人は、そのまま救いたもうた念仏を、
称えずにはおれないのだ

とおっしゃっているのが、
「極重の悪人は、唯、仏を称すべし」
のお言葉です。ですから、
「唯、仏を称すべし」
と言われているのは、
「ただ、念仏を称えなさい」
と言われている「唯」ではないことを、
よく知っていただきたいと思います。

念仏称えれば、極楽に往生できるのですか?


我々はどれほど動物を苦しめているか。 [罪悪深重]

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我々には後生の一大事があります。
一息切れたら、八万劫中大苦悩を受ける
お釈迦さまは説かれています。
大無量寿経で「必堕無間」と言われた言葉がそれです。

無間とは無間地獄のことで、
途切れることのない想像を絶する苦しみが
次から次へとやってきて、大苦悩を受けるということです。
一劫は四億三千二百万年だから、その八万倍の期間、
苦しみを受け続けると教えられました。

何故そうなるのか、どうすれば救われるのかを
教えるために地球にお出ましになられた仏様がお釈迦さまです。

(釈迦は過去に8千回、唯一救われる道である、
阿弥陀仏の本願を説くために、人間界に現れたと言われています。
大宇宙にはガンジス川の砂の数ほど諸仏がおられますが、
同じように別の惑星の人間界に姿を現して、弥陀の本願を伝えているのです。)



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仏の悟りとは何か&親殺しとは何か [罪悪深重]

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仏教とは、文字通り、仏の教えです。

仏とは、仏覚をさとった方を言います。

仏教では、低いさとりから高いさとりまで

52の位があると言われ、さとりの52位といいます。

ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから

上は大関、横綱までいろいろあるように

さとりにもピンからキリまで全部で52の位があり、

それぞれ名前がついています。

下から10段目が十信、20段目が十住、30段目が十行、40段目が十回向、

50段目が十地で、51段目が等覚、52段目がこれ以上の悟りはないので無上覚、

もしくは仏覚と言われます。

仏覚まで悟られた方を仏と言われるのです。

世間で死んだら仏と言いますが、

それは間違った使い方です。

三度の飯が美味しく食べられるうちに弥陀に救われた人でなければ、仏にはなれません。


では、さとりを開くとはどういうことか、説明します。

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