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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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独りぼっちの人生が底抜けに明るい人生になる [孤独な魂]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

「涙とともにパンを食べたものでなければ、
人生の味は分からない」
ドイツの詩人・ゲーテの言葉です。
肉親との死別、伴侶との別れ、老いていく体・・・。
年を重ねるごとに涙の数が増えていくのは、
世の習いでしょうか。

底知れぬほど寂しいところが人生のようです。
しかし親鸞聖人の教えに生かされれば、
無限に楽しい人生となることを、皆さんご存じでしょうか。

今回は、
お釈迦さまの有名な
譬え話を通して、
人生の原点を見つめてみたいと想います。

・・・・・・・・・・・・・・・・

今、団塊の世代は「同窓会」がブーム。
会社を定年退職し、
仕事のつきあいもなくなって思い出すのは、
青春をともに過ごした仲間たちのことでしょう。
「彼(彼女)は今、どんな人生を歩んでいるんだろう」
「初恋の人に、もう一度会いたい」
そんな人々の望みをかなえるべく、
幹事役を引き受ける「同窓会ビジネス」
まで登場しました。
久方ぶりの再会は、感慨もひとしおです。
しかしそこには紛れもなく、
数十年の歳月の足跡が刻まれています。
「お互い、年を取ったなぁ」
そう言って苦笑いする参加者たち。
「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの」 
         (森田公一とトップギャラン)
歌の詞にもあるように、
激動の時代を駆け抜けた今、
振り返ると、笑ったのも、涙したのも
夢のようではありませんか。
光陰矢のごとし。
人は老い、やがて死んでいかねばなりません。
そんな人間の、ありのままの姿を
教えられたのが仏教です。

中でも、
「これこそ論じ合う余地のない、
人間の真実の姿だ」
とロシアの文豪トルストイが絶賛したのは、
『仏説譬喩経』に説かれた、ある例え話でした。

●「人間の実相」の譬え話

ある日、お釈迦さまの法話会場に、
一人の王様が参詣しました。
名を勝光王といいます。
初めて仏法を聞く勝光王に、釈尊は、
人間とはどんなものかを、
次のような例えで説かれたのです。

・・・・・・・・・・・・

王よ、それは今から幾億年という昔のことである。
ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、
しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、
独りトボトボと歩いていく旅人があった。
ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、
点々と散らばっている白い物を拾い上げて
旅人は驚いた。
なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、
しかも多くの人間の白骨があるのだろうか。
と不気味な不審を抱いて考え込んだ。

そんな旅人に、間もなく前方の闇の中から、
異様なうなり声と足音が聞こえてきた。
闇を透かして見ると、
彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、
こちらめがけて、まっしぐらに突進してくるではないか。

旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。
自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、
あの虎に食われていったに違いない。
同時に旅人は自分もまた、
同じ立場にいることを直感した。
驚き恐れた旅人は無我夢中で、
今来た道を全速力で虎から逃げた。

しかし、所詮は虎に人間は、かなわない。
やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、
もうだめだと思った時である。
どう道を迷って走ってきたのか、
道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。
絶望に暮れた彼は、
幸いにも断崖に生えていた木のもとから
一本の藤蔓が垂れ下がってい
るのを発見した。

旅人は、その藤蔓を伝って
ズルズルズルーと下りたことはいうまでもない。
文字どおり、九死に一生を得た旅人が、
ホッとするやいなや、
せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、
いかにも無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。
まずは一安心」
と旅人が足下を見た時である。
旅人は思わず口の中で、「あっ」と叫んだ。
底の知れない深海の怒濤が絶えず
絶壁を洗っているではないか。

それだけではなかった。
波間から三匹の大きな竜が、
真っ赤な口を開け、自分が落ちるのを
待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐ろしさに、
再び藤蔓を握り締め身震いした。

しかし、やがて旅人は空腹を感じて
周囲に食を探して眺め回した。
その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、
最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓のもとに、白と黒のネズミが現れ、
藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。
やがて確実に白か黒のネズミに、
藤蔓はかみ切られることは必至である。
絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、
歯はガタガタと震えて止まらない。

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だが、それも長くは続かなかった。
それは、この藤蔓のもとに巣を作っていたミツバチが、
甘い五つの密の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。

・・・・・・・・・・・

釈尊がここまで語られると、
勝光王は驚いて、
世尊!その話、もうこれ以上しないでください
と叫びました。
どうしたのか
その旅人は、何とバカな、愚かな人間でしょうか。
旅人がこの先どうなるかと思うと、
恐ろしくて聴いておれません!

王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。
実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ

※世尊とは、お釈迦さまのこと。

えっ!どうしてこの旅人が私なのですか
いや、そなた一人のことではない。
この世のすべての人間が、この愚かな旅人なのだ

釈尊の言葉に、聴衆は驚いて総立ちになりました。

この例え話は、何を教えられているのでしょうか。
今回は、「旅人」と「秋の夕暮れ」について、
お話しましょう。

●幸せ求めての旅路
       ーー旅人

「旅人」とは、私たち人間のことです。
「生きることは 旅すること 終わりのないこの道」
     (秋元 康作詞「川の流れのように」)
こんな美空ひばりの歌を思い出される方もあるでしょう。

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古くから人生は旅に例えられてきました。
一カ所にとどまっていたら旅ではありません。
旅は、どこかへ向かって行くもの。
人生もまた、昨日から今日、
今日から明日へと、どんどん進んで行きます。

様々な人との出会いは、
そんな旅の大きな楽しみの一つです。
「旅は道連れ、世は情け」
しかしまた、
「会うは別れの始め」なり。
最愛の人との別れに、号泣した日もあったでしょう。

ビートルズの名曲「ロング・アンド・ワインディング・ロード」
(長く曲がりくねった道

には、こんな一節があります。
孤独な時も 何度かあった
泣いた夜も 幾夜かあった
きみには 決してわかりはしないけど
人知れず試みた道も 幾つかあった
そうして ぼくが辿り着いた道
それは あの長く曲がりくねった道
          (山本安見・訳)
旅の道中は、晴天の日ばかりとは限りません。
風雪の日もあれば、暴風に見舞われる日、
上り坂もあれば、下り坂もある。
曲がりくねった遠い道で、
途方に暮れたこともありました。

あざなえる縄のごとく、苦楽が交互にやってくる人生は、
旅によく似ています。
「泣いてはいけない。簡単にあきらめてもいけない」
とは、人気韓国ドラマ『チャングムの誓い』の名せりふですが、
自らの心にこう言い聞かせ、何度立ち上がってきたでしょう。
それは一筋に明るい日差しの降り注ぐ、
幸せを求めてのことに違いありません。

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●幸せのゴールはどこ?

ところが、
「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」

   (星野哲郎作詞「夫婦坂」)
と歌われます。
結婚すれば、お金があれば、
この坂さえ越えたなら幸せがつかめるのだと、
必至に目の前の坂を上ってみると、

そこにはさらなる急坂が、
「こんなはずでは・・・」
何度、驚き、悲しんだことでしょうか。

“ここまで来てよかった”の満足がなければ、
歩いた苦労は報われないように、
“生きてよかった”の生命の歓喜がなければ、
苦しむために生きているようなものでしょう。

人生は、決して、「終わりなき道」ではありません。
まして死ぬまで重荷を下ろせぬ悲劇などとは、
とんでもない。

真の人生のゴールを知ってこそ、
人間に生まれた喜びを心の底から味わえるのです。
「生きてよかった!」
と喜べる人生のゴールはどこにあるのか。
その解答が仏教なのです。

●やってくる黄昏の人生
      秋の夕暮れ

旅人が歩いていたのは、木枯らしの吹く、
秋の夕暮れでした。

日本ほど春夏秋冬鮮やかな四季のある国は
珍しいといわれます。
秋は、どことなく悲しい季節。
草木は枯れ、生命が大地に返る季節だからでしょう。
そんな秋の夕暮れに、
人生の寂しさが例えられています。

かつての幸せの象徴だった団地の一室で、
ひっそりと息を引き取り、
2、3ヶ月もたって発見される「孤独死」
が増えています。
しかも、その半数近くは、
65歳未満の中高年男性だといわれます。
死亡したある男性の机の上には、
ハローワークから取り寄せた20枚の求人票と、
負けても負けても走り続けた競走馬・ハルウララの馬券が
置かれていました。

「生まれる時は、みんなに祝福されて生まれてきて、
何がどうなって、だれにも見取られず独り亡くなったのか」
葬儀を終え、住人の一人がつぶやきました。

生きる気力を失い、部屋に閉じこもって
近所付き合いしない中高年者には、
複雑な事情を抱えた人も少なくありません。
過日も、次のような話を聞きました。

その男性は、72歳。45年間連れ添った妻に、
昨年の春、先立たれ、独り身となったそうです。
仕事を探し始めたものの、
高齢の彼を採用してくれる会社はありませんでした。
18年にわたる妻の介護もなくなり、
仕事も見つからないまま、
男性は町の公共浴場に足を向けました。
そこで一風呂浴び、広間のカラオケで、
生前、妻とよく歌った懐メロを歌うことに
楽しみを見つけたのです。
毎週、通っていると、顔見知りもでき、
弁当を分け合いながらの身の上話をするうち、
彼の話に涙を流してくれる人がいました。
男性も相手の話に涙することがあるといいます。
広間は歌と笑いと涙で大賑わい。
100歳のご老人とも友達になりました。
“皆と過ごすうちに、だれもが、
内に寂しく悲しい思いを秘めていることが分かった。
私一人ではないと知って、
少しだけ心に晴れ間が見えたよ”

その男性は、そう語ったといいます。

歌と笑いに交じる涙。
「心に晴れ間が見えた」と言っても、
それは瞬く間に暗雲立ち込める冬空と一緒で、
つかの間のことに違いありません。

●独りぼっちの旅

なぜ、人生はこうも寂しいのでしょうか。
その理由を釈尊は、
「独りぼっちだから」
と経典に、
「独生独死(独り生まれ、独り死し)
 独去独来(独り去り、独り来る)」
と説かれています。

人の一生は、初めから終わりまで、
連れがない独りぼっちの旅なのです。

そんなことはない。私には家族も、兄弟も、
友人もたくさんいると思われる方もあるでしょう。
しかし、多くの人に囲まれていても、
自分の心を本当に分かってくれる人は、
果たしているのでしょうか。

「親の心、子知らず」といわれます。
しかし、子の心も親分からずで、子供が何を考えているのか
分からないと悩むお母さん、お父さんが少なくありません。
血を分けた親子でさえ、分かり合えないお互いの心。
まして、元は他人の夫婦なら、なおさらかもしれません。
「永遠の愛」を誓った2人でも、擦れ違いだらけ。
一緒に映画を見た帰り道。
「この感動を分かち合いたい!」と思ったのに、
「それより、飯は?」と肩透かし。
安らぎを求めて一緒になったはずが、
分かり合えない寂しさは日ごとにつのり、
やがてあきらめに変わるのに、
それほど時間はかかりません。

やがて、子供たちが独り立ちしたある日、
「私も主婦を退職させてもらうことにしました」と、
ツッと差し出される一枚の紙切れ。
「分かってくれるはず」の思惑が外れたショックと、
自分だって妻のことを少しも分かっていなかったと
自責の念に駆られても、後の祭り。
こんな熟年離婚のケースが少なくありません。

●私一人がための本願

人は皆、一人一人それぞれの世界に生きています。
自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると
仏教では説かれています。

どんなに仲が良く、一緒に暮らしている親子、夫婦であっても、
お互いの心はかいま見ることも、
うかがい知ることもできません。

しかも心の奥底には、とても言えない、
言っても分かってもらえないものを抱えています。

もし知られたら、「そんなこと思っていたのか」
と相手は驚き、あきれ、
二度と口をきいてもらえないものを持っています。

「ある人には、何でも言える」というのは、
言える程度までならば、何でも言えるということです。
この悩み、苦しみのすべてを、
だれかに完全に理解してもらえたならば、
どれほど救われるかしれません。
しかし、それはかなわないのです。
肉体の連れはあっても、魂の連れがない。
だから人生は、底知れぬほど寂しいのです。

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そんな私の、孤独な魂を救ってくださるのは、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀仏しかおられません。

弥陀の本願に救い摂られ、
底知れぬ孤独地獄から解放された親鸞聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なり」

            (歎異抄)
“親鸞一人を救わんがための、弥陀の本願であったのか”
と感泣なされています。


弥陀の本願とは何でしょうか。
大慈大悲の阿弥陀仏のお約束のことです。
阿弥陀仏は、私のすべてを見通されて、
「苦しみ悩むすべての人を、
必ず、摂取不捨の幸福に助ける」
と約束なされています。

「摂取不捨」とは、文字どおり、“摂め取って捨てぬ”こと。
弥陀は、私たちを、ガチッと摂め取って、
絶対捨てられぬ幸福にしてみせる、
と誓われているのです。

果てしない遠い過去からさまよい続けてきた、
孤独で不安な魂が、その弥陀の誓いどおり、
大安心、大満足の心に生まれる時があるのです。

●大悲の願船の風光

弥陀の本願に救い摂られた法悦を、
聖人は海と船に例えて、こうも述べられています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず

             (教行信証)
大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
生きるとは何と素晴らしいことなのか”

これはまさしく聖人の、
キラキラ輝く乗船記といえましょう。

「大悲の願船に乗じて」とは、
「弥陀の誓いどおり、摂取不捨の幸福になった」
晴れやかな宣言です。
弥陀の救いは、決して曖昧なものではないのです。
暗い人生が、明るく転じた慶喜を、
「光明の広海に浮かびぬれば」と言われています。
「闇」に泣いた人だけに「光」に遇った笑いがあり、
「沈んで」いた人にのみ「浮かんだ」という歓喜があります。

「至徳の風静に」とは、
最高無上の功徳・南無阿弥陀仏と一体になった、
至福の世界のこと。
「衆禍の波転ず」とは、
ロクな因まき(たねまき)してこなかった親鸞だから、
因果の道理に狂いなく
不幸や災難の禍いはいろいろ押しかけてくるが、
それらが南無阿弥陀仏のお力で転悪成善、
ご恩喜ぶ因(たね)となるから不思議である。
かくて、順境でよし、逆境でよし。

これを、「仏凡一体」ともいいます。
仏凡一体とは、仏心凡心一体の略で、
仏心とは、阿弥陀仏の大慈悲心、南無阿弥陀仏のこと。
凡心とは私の心です。
一体とは、ちょうど炭に火がついて、どこまでが炭で、
どこまでが火か分けられない状態をいいます。

炭のように黒く冷たい私の心に、
火のように清浄で暖かい
阿弥陀仏の大慈悲心が徹底すると、
“仏離れて私なし。
仏凡一体と、燃え上がるのです。”

蓮如上人はこれを、
仏心と凡心と一つになるところをさして
信心獲得の行者とはいうなり
」    (御文章)
と教えられています。

いつでもどこでも、
限りなく温かい弥陀の大悲に包まれて、
安心一杯、満足一杯、
人生の醍醐味を心行くまで味わうことができるのです。

この広大な世界に生かされるまで、
本当の仏教を、聞き抜かせていただきましょう。
(本当の仏教を聞き抜くとは、生きている元気なときに、弥陀に救われること)

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体験手記
(底の知れぬ孤独な心で生きてきたという
林愛(りんあい)さんが、
台湾から手記を寄せてくださいました。
寂しい心の解決を求める林さんが、
心引かれたのは仏法でした。)

●この寂しい心を
   抱きしめて

「独生独死 独去独来」
お釈迦さまのお言葉が胸に響きます。
振り返れば、親鸞聖人のみ教えに出遇うまでの人生は、
「独り来て、独り去る」という
私たちの実相をわからせるための
ご方便と思わずにおれません。

私が生まれたのは台南(たいなん)という古い都です。
生まれてすぐに養父母にもらわれていった私は、
5歳で台北(たいぺい)へ引越し、
実の親とはその時が最後となったのです。
12歳の時、養母が亡くなり、
しばらくしてかわいがってくれた祖母も亡くなりました。
「死んだらどうなるのか」と思うと未来がハッキリせず、
不安で一杯になります。
何とも言えない、底知れぬ寂しい心があるのに
気づきました。
今思えば、私の寂しさは死に対する恐怖から
来ていたのだと分かります。

しかし、解決の道を教えてくれる人もなく、
漠然と生きるしかありません。
「実の親に会えば安心できるのでは」
と、台南を訪ねたこともありますが、
両親はすでに亡くなっており、
兄弟たちの冷たい態度にますます孤独感が深まりました。
日本語が分かる私は、日本の『釈迦』という映画を見て、
「仏教を聞けば、この不安が解決できるのではないか。
学んでみたい」
と思ったこともあります。
でも、台湾仏教はただ拝むだけで、
教えを説く人に出会うことはありませんでした。

そんな私が、何の不思議か、真実の仏法、
浄土真宗のみ教えに出遇い、『とどろき』を知ったのです。

大慈大悲の阿弥陀如来が摂取不捨と誓っておられる。
続けて聞かせていただくにつれ、
「この教えこそ、私の孤独な魂を助けてくださる」
と確信いたしました。
たった一人で泣き続けてきた孤独な魂を、
阿弥陀如来に抱き締めていただくまで、
求めさせていただきます。


 


ひとりぼっちの魂を救う弥陀の本願! [孤独な魂]

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

「日本の10代が世界で一番孤独を感じている」
最近、ユニセフのイノチェンティ研究所が発表した、
先進国の子供に関するレポートです。
インターネットで「孤独」と検索すると、
二千九百七十万件もの関連項目が出てきます。
それほど「孤独」は、
身近で関心の高い言葉になっているようです。

大人も子供も、漠然とした寂しさを抱えている。
それはなぜでしょうか?

......................................

●欲しいのは「同意」や「理解」

安らぎやときめきを感じ合える相手、
例えば、親、子、妻、夫、恋人、友人などの
いないのを「孤独」と感じる人が多いようです。
ではそれらの人と寄り添い、楽しい会話や、食事、
ゲームやスポーツなどをして、
喜びや楽しみを分かち合うことで、
孤独は癒せないものでしょうか。

触れ合いを通して、「自分を理解してほしい」
という願望を、大人も子供も、皆、持っています。
例えば、子育てで大事なのは、
子供の話をよく聞くことだと、
多くの育児書は書いています。
子供がしゃべれなくても、
目を見て話しかけたり、よく甘えさせ、
泣けばすぐ抱っこして
スキンシップするのが、子供の安心を生み、
自立を促します。
親がそれを怠ると、
ある時から子供は無表情になり、
心のトラブルが始まる。
「サイレント・ベビー」といわれる状態です。
甘えたい気持ちを封じ込め、
喜怒哀楽を表さなくなります。
「自分は甘える価値がないんだ」
という思いになるからです。

生まれたばかりの赤ちゃんでも、
「認めてほしい」という欲求があるのですね。

育児をする母親も、
夫や周囲に分かってほしいと願う一人です。
仕事を抱えながら、育児や家事が集中し、
悩みや焦りで押しつぶされそうなお母さんたち。

その声に耳を傾け、ともに悩み、協力していくことが、
最大の子育て支援だという専門家もあります。
熟年離婚の理由に、
育児期に夫が非協力的だったことを挙げる妻が
非常に多いそうです。

「子供が病気なのに連絡も取れず、酔って深夜に帰宅した」
「自分が病気の時に、何も助けてくれなかった」など、
ため込んだ不満の根本に、
「分かってもらえなかった」の思いがあるのでしょう。
相手に関心を持ち、分かり合おうと努める。
「私を理解してほしい」というのは誰も皆、
求めていることなのです。

●増していく
   孤独の渇き

ところが互いに理解しようと努めても、
さらに深い孤独感にさいなまれることがあります。
それを癒やそうと私たちは、
一層の努力を重ねます。
人間の営みは、底知れぬほど寂しく、
不安なこの人生を、何とか明るく楽しくするためのものと
いえないでしょうか。

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科学技術の進歩が、コミュニケーションにも
大きな変化を与えました。
携帯電話やインターネットはその代表です。
日本の携帯電話の契約件数はおよそ一億。
(平成19年の記事です)
老若男女、ほとんどの人が持っていて、
いつでもどこでも、
だれかとつながっていたい人が増えています。
携帯電話を通じたひんぱんなやりとりは、
かえって、ここに取り残された私の身体と、
そのなかに存在する『孤独な私』の姿を浮き立たせてしまう

(「新世紀考 携帯時代が深める孤独感覚」森岡正博)
時代が進んで便利になるほどに、
寂しさの渇きは深まっているのではないでしょうか。

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●“自分の存在”を
     知らせたい

男は難破して一人、無人島にたどり着いた。
耐え難い孤独から、ビンにSOSを詰めて海へ流す。
返事はしかし、一年たっても届かない。
こうなることは、うすうす分かっていたが、
彼は落胆を隠せなかった。
ところがある朝、信じられない光景が男の前に広がっていた。
手紙が詰まったおびただしい数のビンが海岸に押し寄せ、
打ち上げられていたのだ。
彼は悟った。
“孤独なのはオレだけではなかったんだ”

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今年、20年ぶりに再結成したイギリスのロックバンド、
ポリスが、『孤独のメッセージ』
(『Mwsseage In A Bottle』詞 スティング)
で歌っている物語です。
耐え難い寂しさの中、男が世界中に発したのは
「自分はここにいる」というメッセージでしょう。
海岸に打ち寄せる無数のビンを見て彼は、
孤独なのは自分だけではないと気づきます。
でも歌はここで終わり。
独りぼっちの心を、どう解決すればいいのかは
描かれていません。

無人島の岸でひしめくビン詰めの手紙とは何でしょうか。
現代ならさしずめ、電脳空間の海に漂うメールの類と
いえるでしょう。
あるいは、日々の思いを綴る「ブログ」といわれる日記や、
自分の「プロフィール(横顔)」
を面白おかしく過激に公開する「プロフ」
というサービスかもしれません。
そこには“自分の存在”を知らせたい
人々の声があふれています。
「だれか私に気がついて、私を愛して、
そして、この孤独を癒やして欲しい」
こんな心の叫びに、皆、
突き動かされているようです。

それはだれもが等しく抱えた、
行き場のない思いではないでしょうか。
いかに人や物、やりがいのある仕事に恵まれても、
心が独りぼっちで、無底の寂寥を感じている。
だれもが魂の連れを欲しているようです。


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●人は皆
   独りぼっち

仏教を説かれたお釈迦さまは、
“人は皆、独りぼっちである”
と厳粛な事実を教えられています。

『大無量寿経』というお経に、

独生独死 独去独来

たった独りで生まれ、たった独りで死んでいく。
来るも去るも、独りぼっち。
肉体の連れはあっても、
魂の連れはないのだとおっしゃっています。

私たちは、真の理解者を求めて
生きているといっても
過言ではありません。
すべてを分かってもらえたら、
心から救われたといえましょう。

しかし、そのような人はあるでしょうか。
自分が他人を完全に理解できないように、
私のすべてを完全に分かってくれる人もまた、
ありません。
なぜでしょう。

私たちは、一人一人が自分の心が生み出した
世界に生きているからだと、
仏教では教えられます。
自分が生み出した、
全く違う境界(きょうがい)に生きているから、
親子、夫婦といえども、
互いの世界を垣間見ることすらできないのです。
例えば同じ絵を眺めても全く同じに感じる人は、
一人もないでしょう。
それぞれの持って生まれた感覚、好み、経験など、
各人各別だからです。
では、私のすべてを理解し、
愛してくだされる方はないのでしょうか。
“この孤独地獄から救ってくださる方が、
ただお一人だけあるのだよ”と、
お釈迦さまはおっしゃっています。
それが、本師本仏の阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、私たちの本心を知り抜かれたうえで、
「そのまま救うぞ。おまえ一人の弥陀になる」
と誓っておられます。

すべての人は、この弥陀の本願によって、
孤独なこの魂を救っていただくために
生まれてきたのです。


親鸞聖人は29歳の御時、
この阿弥陀如来の本願に救い摂られ、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり

と喜ばれました。
宇宙最高の仏さまに救い摂られ、
底死ねぬほど寂しい人生が、
無限に楽しく、明るい、
素晴らしい人生に転じ変わったのです。

●だれも
   分かってくれない

寂しい心に一人泣いていたが、
親鸞聖人の教えによって、
幸せを喜ぶ身となった、「妙好人」といわれる人々が、
これまで数多くありました。

その中から、お軽(おかる)同行という女性を
紹介しましょう。

※妙好人とは、阿弥陀如来に救われている人のこと。
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カニの甲羅に似た山口県六連島(むつれじま)は、
海に迫る小高い山に、
数十軒が肩を寄せ合っている。
江戸時代末期のこの島に、
大森岩吉の次女として、
お軽は生を受けました。
幼いことから気性の激しい、
勝ち気な娘であった彼女は、
思ったことは遠慮なく口にし、行動に移す。
200年前の日本でそれは、
美徳とはなりませんでした。
早くに亡くなった姉に代わり、
年ごろとなったお軽は養子を迎えることになりましたが、
どの若者に縁談を持ちかけても、
体よく断ってくる。
調べてみると、「お軽の家へ婿に行かない」
協定が結ばれていた。
男勝りの性格が、「女のくせに」と反発を招いたのです。
そんな密約を、だれより驚いたのがお軽本人。
“だれも分かってくれないのか”という寂しさの一方で、
結婚への憧れは一層つのったことでしょう。

「連れさえあれば、
きっとこの心を分かってもらえるはず」
願いがかなって19の時、
向井幸七を婿に迎えました。
島の男たちは、「約束を破って、バカな奴」
「一生、尻に敷かれるぞ」と、
同情やら揶揄(やゆ)を浴びせ、幸七も、
「オレは泣く泣く、首に綱を巻かれて、
引っ張ってこられたのだ」
と言い訳して、お軽を疎んじました。
一方、お軽は一変して善良な主婦となり、
愛されようと必死で家庭を切り盛りして、
子宝にも恵まれました。

しかし、睦まじいように見えた夫婦関係も、
やがてほころびが見え始めます。
島で作った野菜を、
幸七が船で下関や北九州へ運んで、
行商し、一家は生計を立てていましたが、
次第に彼の足が自宅から遠のいたのです。
ある日、帰ってきた野菜船に幸七の姿が見えない。
仲間の、
「次の売り場を探してもらっているのじゃ」
の言葉を、お軽は疑いもせずに待ちましたが、
次の船でも帰らない。
「銭勘定のため、また残ってもらったんじゃ」
仲間はそう言うが、実は夫は、出先に女性を囲い、
入り浸っていたのです。
そうと知りながら、お軽に一矢(いっし)を報いるつもりで、
夫をかばう男たち。
知らぬはお軽ばかり。
だが、事はすぐに露呈し、
激昂したお軽は夫の胸ぐらをつかみ、
問い詰める。
幸七は白状しました。

●私一人のための
     弥陀の本願

幼いころから独りぼっちで、
適齢期にも寂しさを味わった。
結婚で、一旦は癒やされたかに見えたが、
今度は夫の不義によってより苦しむ。
一心に尽くした夫に疎まれる悲しさは、
身をよじるほどであったでしょう。
しかも島の者は皆、幸七を弁護し、
聞こえるのは自分への冷笑ばかり。
「だれも私を分かってくれない」
孤独な人生の救いを求め、
お軽は生まれて初めて仏門を叩く。
寺の住職・現道に事情を明かし教えを請うたのです。
あんたのためには、かえってよかった。
こんなことでもなければ、
仏法を聞くような女ではないからな、そなたは

歯に衣着せぬ現道の一言に怒ったお軽は、
そのまま家に帰ってしまったが、
それでも聞かずにおれなかった。
そんなお軽が真剣な聞法を重ね、
やがて仏法喜ぶ身となってから、
あふれる法悦を、多くの歌にしています。

(※仏法喜ぶ身とは、阿弥陀仏に救われたということ。)

阿弥陀如来を 殿御に持てば
娑婆の貧乏 苦にならぬ


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私一人の弥陀如来、魂の連れを得てごらん、
この世の苦労は苦にならぬ


変わり果てたお軽に驚き、
やがて幸七も仏縁を結ぶ。

その幸七夫妻と現道との、
こんな会話が伝えられています。

お軽が、現道に言った。
「この人が道楽をしたのは私には幸せでした。
それがご縁で、こうしてお慈悲さま(弥陀の救い)
にあわせていただけたのですから。
この人は私には善知識(仏法の先生)です」
すると幸七が、
「それを言われるとオレはつらい。
でもお前こそ、
お慈悲にあわせてくれた善知識だよ」。
「2人とも、こうして真剣に仏法を
聞いているからこそ、
私も仏縁にあわせてもらえる。
2人こそ私の善知識だ」
最後に現道はこう言い、
ともに喜び合ったといいます。

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底知れぬほど寂しいところが人生です。
それが信心決定すれば、
無限に楽しい人生となるのです。

(信心決定とは、阿弥陀仏に救われたことです。)
 


孤独地獄を救ってくださる方とは・・・ [孤独な魂]

世界一の長寿国となり、高齢化が急進する日本社会。
核家族の増加とともに、多くの高齢者が孤独を抱え、
寂しさをいやす心の支えを待望しています。
携帯電話やインターネットの爆発的な普及も、
孤独に悩む人々が、常にだれかとの
つながりを求めるからでしょう。

しかし、仏法は、「一人居て喜ぶ法」と、
蓮如上人はおっしゃっています。

底知れぬほど寂しい人生が、
無限に楽しい人生と大転換するのです。

●超高齢化社会へ
     老いと孤独

世界一の長寿を誇る日本。
少子化も急進し、このペースでいくと、
およそ10年後には、4人に1人が65歳以上の、
超高齢化社会に突入するといわれます。
(平成15年の記事です)

「老いてみて、孤独や不安に向かい合って生きる
重要さが改めて分かった」
かつて文部省で、学習指導要領の作成にも当たった
教育学者・上田薫さんは、
朝日新聞の連載「孤独のレッスン」で、
このように述べています。

氏は、82歳。
「私はいま元気ですが、やがてボケも骨折も起きようし、
限界は見えている。希望がない。
容赦のない生殺し、いや、いつ出られるか分からない牢獄です。
多くの老人が生かしようのない『ゆとり』の中にいる」

体験した人のみが知らされる実感でしょう。
氏の言葉は、さらにこう続きます。

「先哲の書物にはいろいろ書いてあるが、
この時代に通じるのでしょうか。(略)
宗教にしても、本当に有効なのか。
禅堂や修道院の世界もあるが、
日常の中で生身の悲しみや孤独と
どれだけぶつかっているか、考え直す必要がある。(略)
『教育基本法改正』などといっている場合じゃない。(略)
孤独や死や不安に人間や社会がどうかかわるべきか、
差し迫った問題がある」

世の識者たちも、孤独を生き抜く心の支えを
模索しているようです。

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●「死ねないから
     ただ生きている」
       阪神大震災と孤独死

“ウサギは寂しいと死んでしまう”といわれますが、
耐えがたい孤独に取り残された時、
生きる力を失うのは、ウサギだけではありません。
平成7年の阪神大震災では、
仮設住宅での孤独死が続発しました。
家族や住居を失い、たった一人取り残され、
一から頑張れと励まされても、
生きる力を持てない人が多いのが現実です。

震災からちょうど一年、
仮設住宅で独り暮らしをしていた40代の男性が、
焼身自殺を遂げました。
仕事もなく、酒に浸る毎日を送っていた男性は
生前、周囲にこう漏らしていたといいます。

「いまとなっては死ねないから生きているという感が強い。
夜眠ってそのまま目が覚めなかったらいいのに・・・
というのは自分だけではなく、
他にもずいぶんたくさんいるのではないか。
そんな本音を正直に話しても、
世の中は被災者の気持ちをなかなか分かってくれない。
助かったんだから贅沢を言うな、
あまったれたわがままを言うな、
といった類の言葉がはねかえってくるだけだ・・・」

           (額田勲著『孤独死』)


●福祉が充実すると、
    自殺率が高くなる?
      豊かな暮らしと孤独

福祉が充実し、生活に不自由がなければ、
老いの孤独は解消するのでしょうか。
福祉国家として名高いのは、
ノルウェーやスウェーデンなどの北欧諸国です。
国民の生活水準は、米英をしのぎ、
社会保障制度と社会施設は完備して、
ユリカゴから墓場まで、
生活上の不安は何一つないといわれます。
ところが驚いたことに、
自殺率が世界で最も高いのはこれら北欧諸国で、
高齢になるほど、その率は高くなるのです。
福祉が行き届いていても、
孤独の不安に耐えられないのではないでしょうか。

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名作として知られる映画「ショーシャンクの空に」の中に、
こんな場面があります。
終身刑で50年以上服役していた老人が、
70歳を過ぎて、釈放されました。
鉄格子の扉から外の世界へ解放された老人は、
どの町に行くのも、どの店に入るのも自由。
だれに監視されることもありません。
しかも、社会復帰を援助するため、スーパーでの仕事や、
アパートも、国から保証されていました。
にもかかわらず老人は、
数日後、アパートの天井からロープをつるし、
自ら命を絶ったのです。
服役中は話をする仲間もあり、
必要としてくれる人がありました。
しかし、壁の外では、家族も友達もいない、
独りぼっちだったのです。
自由な生活も、
孤独の寂しさを乗り越える力にはならないのでしょう。

●「妻はもう、どこにもいない」
      ある論客の自殺

どんな理性も論理も、
愛する人を失った悲嘆の前には、力を失うようです。
平成11年、日本最高の知性ともいわれた江藤淳氏が、
66年の生涯に自ら終止符を打ちました。
鎌倉の自宅で、倒れている江藤淳氏が発見されたのは、
慶子夫人を亡くして一年に満たぬ、7月の夜でした。
「家内の死と自分の危機を描き切りたい」
と筆を執った『妻と私』は、事実上の遺書といわれます。

「家内の命が尽きていない限りは、
命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を一人ぼっちにしない、
という明瞭な目標があったのに、
家内が逝ってしまったいまとなっては、
そんな目標などどこにもありはしない。
ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、
意味のない死に向かって
刻一刻と私を追い込んで行くのである。」

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やるせない哀感が描かれた手記は、
短期間に反響を呼びました。
だが、悲しみはいやされることなく、
激しい雷雨の夜、江藤氏は浴室で手首を切ります。
夜勤のお手伝いさんの通報で、
消防署員が駆けつけたが、
意識はすでにありませんでした。
自殺当時はしかし、「幼年時代」の連載を開始したばかり。
執筆活動も、生きるよりどころにはならなかったのです。
作家・高井有一氏は、死の2ヶ月前、
江藤氏のこんな言葉を聞いています。
「夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。
昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。
そこに、それまで居た人がいない。
この空白感が耐え切れない」

●父親が仕事から帰ってくると、
    茶の間の子供たちは・・・
         ーーー家族の中の孤独

家族に囲まれていれば、
孤独がいやされるとも限りません。
平成6年の国民生活白書を見ると、
老人の自殺率がいちばん高いのは、
三世代同居のケースでした。
独りぼっちの孤独も確かにつらいですが、
一緒にいて、相手にされない孤独は、
さらに耐えがたい苦しみを伴うようです。

学校でのいじめも、周囲からの無視が
いちばんつらいといわれるのも、
うなずけます。

「父帰る 茶の間の子供ら 部屋帰る」
きくちカン 
(第一生命 「大14回私が選ぶサラリーマン川柳ベスト100より)

笑い話のようですが、
仕事から帰ってきたお父さんが、
安らぎを求めた子供たちから、
疎まれ避けられるのは、
何とも寂しい話です。
定年後は「ぬれ落ち葉」「産業廃棄物」などと
揶揄(やゆ)され、
邪魔者扱いされるに至っては
悲劇というよりないでしょう。
家族とともにいても、孤独なのです。

●独り生まれ、独り死に 
    独り去り、独り来る

お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
「独生独死 独去独来」
と説かれています。

人は生まれた時が独りならば、死んでいく時も独り。
生きている間も独りぼっちなのです。
親や兄弟、友達や恋人など、
肉体の連れは、多くありましょうが、
魂は、寂しい、寂しいと震えています。

東京砂漠ともいわれるように、
大勢に囲まれるほどむしろ、
人は分かり合えず、
孤独を感じるものなのかも知れません。
大学のコンパや会社の飲み会で、
周りが盛り上がるほど、
なぜか、自分だけ居場所がないと感じた経験はないでしょうか。

親友や恋人を求めるのも、
皆、本当の自分を分かってほしいと思っているからでしょう。
心の奥底まで理解してほしいと思っています。
自分の本当の理解者を求めて、
私たちは生きていると言っても過言ではありません。

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すべてを理解されたら、私たちは救われます。
しかし、そのような人は果たしてあるでしょうか。
自分が、他人を完全に理解することができないように、
私のすべてを理解してくれる人もいないのです。
皆、心の中に、だれにも言えない秘密を持っているからです。
私たちは心のすべてを、
だれかに打ち明けることができるでしょうか。
これだけは人に言えないという秘密があるでしょう。
親兄弟にも恋人にも言えない。
60億の人があっても、
だれにも打ち明けられない秘密です。
この人になら何でも言えるというのは、
その程度までは言えるということです。
自分にさえ、気づいていない秘密があるのですから。

●誰もが、
  自分だけの世界に
      生きている

私たちは、一人一人、
自分の心が生み出した世界に生きていると、
仏教では教えられます。

夫婦といえど、
お互いの世界をかいま見ることはできません。

例えば、同じ絵画を眺めていても、
全く同じように感じる人は、一人もいないでしょう。
才能や知恵、趣味や人生経験などは、
各人各別だからです。

分かり合えない孤独な魂は、
何かでごまかさずにはおれません。
パチンコ、カラオケ、遊園地などの娯楽施設が林立するのも、
そのためです。
コンサートなどでワーッと盛り上がれば、
一時は一体感を得られますが、
後から、言いようのない寂しさに襲われます。

60年代を代表するアメリカのロック歌手・ジャニス・ジャップリンは、
“ステージの上では、あんなに一つになれるのに、
ホテルの部屋では、どうしてこんなに孤独なの”
と嘆いています。
彼女はやがて、麻薬中毒となり、死んでいきました。

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科学が進歩し、経済が繁栄しても、
人間の孤独は変わりません。
ケータイ、パソコン、インターネットなど、
世の中便利になりましたが、
寂しさは一層深刻なようです。
人は皆、心に無底の寂寥(せきりょう)を抱えています。
自分を取り巻く、さまざまな生きがいや娯楽は、
この底無しの寂寥を隠していますが、
ごまかしは決して解決にはならず、
魂はおののき、震えているのです。

●どんなに愛した人とも
      二度と会うことはできない

独りで生まれてきた魂は、
独りぼっちでこの世を去っていかねばなりません。

蓮如上人は、
「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず、
されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ」

「かねてから頼りにし、力にしている妻子も財宝も、
死んでいく時には、何一つ頼りにならぬ。
みんなはぎ取られて、一人で地上を去らねばならない」

と仰っています。

どんなに愛した人とも二度と会うことはできない。
生涯独りぼっちの旅ならば、
何のためにこの世に生まれてきたのか。
私の心のすべてを分かってくださる方は、ないのか。

孤独地獄から救ってくださる方が、
ただ一人だけあるのだよと、
釈尊はおっしゃっています。
それが、本師本仏の阿弥陀如来です。

●「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
        ひとえに親鸞一人が為なりけり」

わずか8歳でご両親と死別され、
天涯孤独の身となられた親鸞聖人は、
不安な魂の解決を求め、
9歳で比叡山天台宗の僧侶となられました。
しかし、20年のご修行の末、
「この山に私の救われる道はない」と下山され、
大徳・法然上人の教化により、
阿弥陀如来の本願に魂を救い摂られたのです。

峻厳(しゅんげん)火を吐く法然上人の
ご説法に遇われた聖人は、
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれた時、
「そのまま救う」
声なき声に全身を射抜かれ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」
と、躍り上がられました。

“親鸞の心の底まで知り尽くし、
摂取してくだされた方は、阿弥陀如来だけだった。
大千世界一の極悪人、苦悩の私が如来の独り子だった”、
弥陀の御心に感泣される、聖人の大歓喜です。

阿弥陀如来は、私たちの本心を知り抜かれたうえで、
“そのまま救うぞ”と誓っておられる。
すべての人は、この阿弥陀如来の救いにあい、
絶対の幸福になるために生まれてきたのです。

●諸仏菩薩から
    百重千重に護られる
   
ーーー必獲入大会衆数(ひつぎゃくにゅだいえしゅう)

『正信偈』に、
「必獲入大会衆数」(必ず大会衆の数に入る)
とあるように、大慈大悲の阿弥陀如来に救い摂られると、
大会衆の数に入り、心はいつも明るく楽しくなります。
「大会衆の数に入る」とは、
正定聚の菩薩の仲間入りをさせていただくことです。
正定聚とは、「正しく仏に成ることに定まった人たち」ということ。
つまり阿弥陀如来に救われた人は、
死ぬと同時に弥陀の浄土に往生し、
阿弥陀仏と同じ無量寿無量光の仏に成れるということです。
大会衆の仲間入りをするのは、
死んでからではありません。

生きている時に、広くて、大勢の人が集まっている、
にぎやかな世界、常に、釈尊や七高僧、
親鸞聖人や蓮如上人、往生された方々が、
語りかけられる世界に出させていただけるのです。

お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
「我が善き親友なり」といわれ、
“苦悩に満ちた世の中で、
難信の法をよくぞ聞き抜いた。
そなたこそ私の親友だ”
と、手を差し伸べてくださっています。

幼なじみ、同級生、仕事の仲間、趣味の友など、
友達はさまざまですが、
親友は、「喜びを倍にし、悲しみを半分にする」といわれる、
人生の貴重な財産でしょう。
つまらぬ人から親友になろうと
言われてもうれしくありませんが、
世界最高の偉人、釈尊に、
「私の親しい友よ」と呼びかけていただけるとは、
何という幸せでしょうか。

「信じられない」と思う人もあるかもしれませんが、
阿弥陀如来は、大宇宙の諸仏方が異口同音に、
“最高最尊の仏”と仰がれる仏です。

その師匠の阿弥陀如来に救い摂られた人だから、
弟子である釈尊は、「親友」と手を差し伸べられ、
大宇宙の諸仏方も、昼夜を分かたず百重千重に、
護ってくださるのです。

これを諸仏護念の利益といい、
聖人は『和讃』に、
「南無阿弥陀仏をとなうれば、十方無量の諸仏は、
百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して、
よろこびまもりたまうなり」
            (現世利益和讃)
と教えられています。
すべての仏方から、常に護られ、
大事にされるわけですから、
その弟子の菩薩や諸神から
守護されるのは言うまでもありません。

「南無阿弥陀仏をとなうれば、
観音勢至はもろともに、
恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩と、
かげのごとく身にそえり」

「南無阿弥陀仏をとなうれば、梵王帝釈帰敬す、
諸天善神ことごとく、よるひるつねにまもるなり」
          (現世利益和讃)

これらの方は、嫌々ではなく、
つきあいや仁義で護るのではありません。
喜び護るのだと、おっしゃっています。
だから他力の大信心を獲得すると、
あらゆる恐怖観念から解放されて明るく、
たくましく生き抜くことができるのです。

破天荒な肉食妻帯の断行で、仏教界や世間から、
八方総攻撃を受けられながら、
親鸞聖人に悲壮感はありませんでした。
「浄土の真宗は証道今盛んなり」
        (教行信証)
たとえ、周りに味方が一人もなくとも、
諸仏や菩薩に囲まれて、百重千重に護られている聖人の心は、
常に大安心だったのです。
それを蓮如上人は、
「信の上は一人居て喜ぶ法」
とおっしゃっています。

●仏法者に孤独はない
     ーーー苦しむ者ほど、重くかかる仏の慈悲

光に向かう仏法者に、孤独はありません。
阿弥陀如来と親鸞聖人が、いつでもそばに寄り添って、
励ましてくださるからです。
親鸞聖人は、

「一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり」
とご遺言なされています。

それは、阿弥陀如来に救われた人だけのことと、
思う人があるかもしれません。
如来の大悲は平等ですが、
苦しんでいる者にひとえに重くかかるのが、
仏の慈悲です。
衆生の苦悩をわが苦悩とされる親鸞聖人が、
苦しんでいる者を放置されるはずがありません。
苦しい時も、寂しい時も、悲しい時も、うれしい時も、
真実の仏法を求める者は、
常に如来聖人とともにあるのです。

聖人とともに、
たくましい人生を生き抜かせていただきましょう。


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