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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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遇いがたき師主知識のご恩 [善知識]


如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
       (親鸞聖人・恩徳讃)
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法話の最後に歌われる親鸞聖人の「恩徳讃」。
短いお言葉に、私たちの人生を左右する
大切なメッセージが込められています。
その「如来大悲の恩徳(本師本仏の阿弥陀如来のご恩)」について、
昨年の11月号からお話ししてきました。
では、「師主知識の恩徳」とは、どういう意味なのでしょう?
すべての人にとって、とても大事なことですので、
今回から学んでいきましょう。

●師主知識とは?

「師主知識」の「知識」とは、“健康の基礎知識”といわれるような
「知識」ではありません。
この「知識」は仏教用語で、
「仏教を伝える先生」という意味です。
親鸞聖人が、師主知識に巡り遇えた感激を、
みずみずしく詠い上げられた、このような『和讃』があります。

真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき(親鸞聖人)

苦しみの根元は“疑情”と説く、
真の仏教の師(師主知識)に遇うことは、
難しい中にも難しい

「正しい仏教の先生・師主知識」にお遇いすることは、
希の中にも希であると、親鸞聖人は言われています。
こう聞かれると
うちの町にも坊さんはいる。
なぜ遇うのが難しいのだろう?」
と首を傾げるかもしれません。

確かに、日本の寺院数はコンビニの2倍、
約7万6000か所といわれます。
僧侶と名のつく人は、ほとんどの町にいるでしょう。
しかし問題は、
その人たちが、どのようなことを教えているか、です。
実態はどうでしょう。

●なぜ遇い難い、真の知識

数年前、NHKの『クローズアップ現代』で、
最近の寺について次のようなことが語られていました。
「お坊さんも世襲になってきて、
家業になってしまっている。
本当に仏教のことを信じているお坊さんは、
そんなに多いのだろうか」
「葬式、法事が『商品』のように扱われるようになったと思う」
「『生き残れるか仏教』というテーマで講師をやって、
さあ、皆さんどうですかとお坊さんたちに聞くと
『いやー、うちの寺の経営が』とか、
『檀家さんが少なくなってきて』と、
寺の経営のお話しをまず第一にします。
けれども、我々からすると、
『生き残れるか仏教』というのは寺が潰れるかどうかの話ではなくて、
これだけ苦しみの多い現代社会で、
果たして仏教は我々を救ってくれるのだろうか
(ということが問題なのです)」

また、このような統計も紹介されていました。

○仏教に良いイメージを持っている人・・・約90%
○寺に良いイメージを持っている人・・・・約25%
○僧侶に良いイメージを持っている人・・・約10%

そして、こう語られていました。
「(この統計結果を)一言で言えば、
お寺とかお坊さんは
仏教をやってないんじゃないかということですよね。
仏教にはいいイメージがあるわけだから」

実際、仏教と聞くと、何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事・読経ばかりの葬式仏教、ゴマを焚いたり、
柱にスリスリ触れば幸せになれるというゴ利益仏教、
数年に一度のご開帳と宣伝して伽藍や仏を見せ物にする観光仏教、
信仰より社会事業を重視して、
学校や幼稚園経営に奔走する事業仏教、
境内を駐車場に貸し、学校教師などになって衣食する二股仏教、
祖師や中興の法要にかこつけて、金集めする遠忌仏教などなど。

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もちろん、それらは論外ですが、
欲や怒り、ねたみそねみの煩悩を苦しみの元と教え、
それらにどう向き合えばよいかを説く僧は、
今でも少しはあるでしょう。
しかし、親鸞聖人は、
「真の知識とは、
『流転輪廻のきわなきは、疑情のさわりにしくぞなき』と、
説かれる先生のことである」

と明言されています。

実は、葬式を生業としたり、
倫理道徳を語るだけの僧侶は、
真の知識とはいわれないのです。
では、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
とは、どういう意味なのでしょう。

●きわなき流転輪廻

「流転輪廻」とは、同じところをグルグル回り、
果てなく迷い苦しむこと。
“真の安心・満足”というゴールなきレースが人生なら、
誰しも、死ぬまで苦闘を続ける悲劇で終わります。
室町時代の禅僧・一休は、こう歌いました。

「人生は
喰て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる」

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一生を煎じ詰めれば、台所で食べ、
便所で出す、寝たり起きたりのフトンの上げ下げにすぎぬ。
やがて子が親となって死んでいく。
「結婚や出産は人生のイベントにすぎなかった。
終わったら単調な日々が繰り返されるだけ」
「楽しいのはほんのしばらく。
スグに色あせ、幸福はすぐに、“スタートに戻る”」
と、
500年後の現代人からも、
変わらぬ「流転輪廻」の嘆きが聞こえてきます。
着実に重ねたのは年齢。
けれど、いまだに人生のゴールは見えてこない。
「『日暮れて、道遠し』とはこのことか」
と実感している人も少なくないでしょう。
ある新聞に、こんな記事が載っていました。
「特別に楽しいことも悲しいこともなく、
平々凡々に生きてきて、疲れもたまっているが、
子供の手も離れ、ようやくこれから私の人生に・・・
というところで、舅に先立たれた姑が家族に加わった。
手に入れたマイホームには、
ローンと積み増された『老い』だけが残された」
そしてこの主婦は、決意して12日間のヨーロッパ旅行に行ったが、
旅が終われば、また日常のため息に逆戻りしたといいます。

急速な科学の進歩により、生活は大きく変わった。
部屋には冷暖房、飛行機に乗れば7時間でアメリカへ。
無料の国際電話サービス。
トイレに行けばウォシュレットが心地よい。
昔と比較にならぬ豊かさと快適さを手にした。しかし、
「マリーアントワネットも馬車で移動したのに、
私は車だなんて、とっても幸せ」
「始皇帝はウチワで涼んでいたのに、
クーラーがある僕は何と幸せ者だろう」
と喜ぶ人がどこにあるでしょう。
かつての王妃や皇帝以上の幸せを手にしても、
今日は全て「当たり前」で、
幸せ感がどこにもありません。
まさに「有無同然」の仏説どおりなのです。

何ごとも原因を間違えれば大変で、治る病気も助からない。
腹痛も、胃潰瘍か、ガンか、神経性か、はたまた、
ただの食べ過ぎか、正しい診断がなければ、
的確な治療は望めず、苦しみは除かれません。
胃ガンを潰瘍と誤診したら命取り。
治療の先決問題は、だから原因の究明でしょう。

人生にむなしさや苦しみを感じる私たちも同じです。
趣味に没頭しても、自己啓発セミナーに通い詰めても、
成功を手にしても、なぜか底知れぬ寂しさ、
むなしさがなくならない。
「人間に生まれてよかった」
の生命の歓喜がないのはなぜか。
どんなに文明文化を進歩させても、幸せは進歩せず、
人類は、原因不明のまま、暗い森をさまよっているのです。

しかも、その迷いの深さは私たちの想像を超えています。
お釈迦さまは、
「人は皆、生まれては死に、生まれては死に、
果てしのない過去から生死流転の迷いを重ねてきたのだ」
と教えられています。

迷いの世界は大きく分けると6つあると説かれ、
これを六道とか、六界といわれます。
次の6つの世界です。

①地獄界・・最も苦しみの激しい世界。
      八大地獄が説かれている。
②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず、
      飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。
③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
      弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界。
④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。
⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
      迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。
これらの世界を、際限なく回る車輪のように、
私たちは輪廻してきたのです。

ここまでくると、どんな哲学者も思想家も、
苦悩の謎の解明はお手上げでしょう。
そんな中、親鸞聖人は、苦しみやまぬ相(すがた)
を、
「きわなき流転輪廻」と一言されたうえで、
その元凶を鮮明にされ、未来永遠の幸福になれる法を
説き開かれたのです。

一体、私たちの苦しみの根元は何だと、
親鸞聖人は教えられているのでしょうか。

●まったく意外な苦悩の根元の正体

私たちが最も知りたい、知らねばならない苦悩の根元を、
親鸞聖人は、こう断言されています。
「疑情のさわりにしくぞなき」(疑情一つである)
疑情とは「阿弥陀仏の本願を疑う心」のことです。

では阿弥陀仏の本願とは何でしょう。
大宇宙最尊の阿弥陀仏は、
「煩悩具足の者を絶対の幸福(往生一定)に一念で救い摂り、
来世は必ず極楽浄土へ生まれさせる」
と誓われています。
これが世に聞こえた「阿弥陀仏の本願」です。

「本願」とは「誓願」ともいわれ、
三大古文に数えられる『歎異抄』は
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
と書きだされています。
「煩悩」とは、あれが欲しい、これも欲しいという貪欲、
カッと腹立つ瞋恚、うらみねたみの愚痴などをいいます。
「具足」とは、100パーセントということですから、
「煩悩具足」とは、煩悩100パーセント。
煩悩でできているのがすべての人だ、
と阿弥陀仏は見抜かれ、
そんな「煩悩具足の者を救う」と誓っておられるのです。

親鸞聖人は、この阿弥陀仏の本願を大船に例えられ、
その大船に乗せていただいても、
私たちの煩悩は全く変わらない、と仰っています。
仏法を聞いたら、欲が減ったとか、腹が立たなくなった、
と思っているのは自分の本当の姿を知らないのです。
「煩悩は臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」
と親鸞聖人が仰るように、死ぬまで減りもしなければ、
なくなりもしない。
だから人間は「煩悩具足」、煩悩の塊と言われるのです。
「かわいそうだなぁ、せっかく人間に生を受けながら、
生命の歓喜を知らぬとは。
罪悪深重の己の実態も知らず、罪を重ねて、
またしても苦患に沈もうとしている。
とても放っておけぬ。見捨てておけぬ。
何としても助けてやろう」
と、大宇宙でただお一人立ち上がってくださったのです。

そして
「煩悩具足のそのままで、一念で大船に乗せて(絶対の幸福)、
必ず極楽往生へ連れてゆくぞ」
と誓われたのです。
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例えていえば、私たちは100トンの石。
そのままならば必ず水に沈む。
しかし阿弥陀さまは、その大石をそのまま大船に乗せ、
重さ100トンのままで水に浮かばせ、
向こう岸(極楽浄土)に渡してくださるのです。
この弥陀の願船に乗せていただけば、
この世から「往生一定」の身になる。
往生一定とは、いつ死んでも、極楽浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏に生まれるとハッキリした(一定)ことです。
大船に乗せていただけば、苦しみの六道から出離し、
2度と迷わぬ身になれるのです。

ところが、こう聞きましても、私たちは、
自分が煩悩具足とは毛頭、思えない。
そんな者が、煩悩具足のままで往生一定に救われるとは信じられません。
この「阿弥陀仏の本願を疑う心」のみを「疑情」といいます。
この疑情が晴れぬ限り、何が、どんなに恵まれても、
人生苦の根本はなくなりません。
弥陀の本願を疑っている限り、
自分が死んでどこに行くのか、さっぱり分からず、
生死流転を繰り返すからです。

そのことを親鸞聖人は
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
と仰っているのです。
これは、
「真の知識にはめったに遇えないそうですよ」
と他人事のように言われたのではありません。
「幸いにも親鸞、弥陀の誓願不思議を説き切られる師主知識、
法然上人にお遇いできた。
弥陀の広大な救いにあずかることができた。
ああ、なんと幸せ者なのか」
とのお言葉なのです。
誰しも、際もなき流転の真因を知り、
取り除いていただいてこそ、永久に輝く生命が開けます。
「仏法は聴聞に極まる」
仏法は「苦悩の根元は疑情」と説く真の知識(師主知識)から、
真剣に聞かせていただかなければなりません。


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仏教の本当の先生とは! [善知識]

善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
      (浄土和讃)
親鸞聖人のこのご和讃について、
二回にわたりお話してきました。
初めに、
「善知識に遇うことが難しい」
と仰っている「善知識」とは、
仏教を正しく教えられる先生のこと。
仏教とは約2600年前、インドで活躍された
仏陀・釈迦が説かれた教えです。
当然ながら釈迦は、地球上で初めて
仏教を正しく説かれた方ですから、
善知識の元祖ということになります。

これもすでに述べてきました。
その釈迦の教えられたことが
すべて書き残されているのが、
7000余巻の一切経です。
仏教とはどんな教えかを知るには、
その一切経をあますところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。

しかし漢字ばかりのお経、
しかも一字一句が極めて深遠な意味を持つ
仏語の連続ですから、
誰でも彼でも読めるものではありませんし、
正しく領解できるものではありません。

それをなされた方が、親鸞聖人です。
7000余巻以上ある一切経を、
何度も読み破られて、
「釈迦の教えられたことは、
これ一つであったのだ」
と、有名な『正信偈』に、こう断言されています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

釈迦如来が、この世に現れられて仏教を説かれたのは、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであったのだ

これは、朝晩勤行で拝読している、
『正信偈』のお言葉ですから、
そらんじている方もあるでしょう。
この二行で親鸞聖人は、
「仏教=阿弥陀仏の本願」であると、
大変なことを仰っています。

「阿弥陀仏の本願」ひとつ聞けば、
仏教すべて聞いたことになる、
7000余巻の一切経を読み破ったことになる、
ということです。

阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏(大宇宙にまします無数の仏方の先生)である
阿弥陀仏が、
どんな人も 平生に必ず救う 絶対の幸福に
と誓われているお約束のこと。

釈迦は、すべての人をこの「弥陀の救い」に
値(あ)わせること一つのために、地球上に現れ、
7000余巻の一切経を説かれたのだ
と、
聖人は「唯説」と言い切っておられるのです。

ですから、
仏教を正しく説く人・善知識とは、
言葉を換えれば
「阿弥陀仏の本願を正しく説かれる先生」
のことであり、

それは、「阿弥陀仏の本願によってのみ、
この世も未来も本当の幸せになれるのだから、
弥陀一仏を信じよ、早く弥陀の救いにあいなさい」
と、皆に教え勧める人をいうのです。

これを蓮如上人は、
善知識の能(使命)というは
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
と人を勧むべきばかりなり 

          (御文章)
と仰っていることも、詳しくお話をしてきました。

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
とは、釈迦が仏教を説かれた結論である、

一向専念無量寿仏
阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏に助けて頂きなさい
の教えです。
この「一向専念無量寿仏」を説くことが、
善知識の唯一無二の使命なのだと、
蓮如上人は言われているのです。

親鸞聖人も90年の生涯、「一向専念無量寿仏」
一つを明らかにされた方ですから、
『世界の光・親鸞聖人』アニメーション全六巻には、
この8字が60回以上も出ています。

第2巻にも、こんな場面がありました。

  ■    ■    ■

(辻説法される親鸞聖人)

EPSON133.jpg-1.jpg
親鸞聖人 「だから皆さん、私たちを、本当の幸福に助けたもう仏は、
       本師本仏の阿弥陀如来しかおられないのです

学者風の男 「それじゃ、わしらの信心している仏や神では、
         助からんと言うのか

町人A 「偏ったこと言うな!
親鸞聖人 「よく聞きなさい
町人B 「うるさい!
(と手で、親鸞聖人を突くが、聖人はぐっと
踏ん張られ、逆に数珠を持って前に出られる)
親鸞聖人 「いいですか、一向専念無量寿仏、
        これは大聖釈迦牟尼世尊の、至上命令です

町人C 「やかましい!
町人B 「うそつき!
親鸞聖人 「決して親鸞、勝手に言っているのではありません。
        いいですか、よく聞きなさい。
        一向専念無量寿仏・・・

(親鸞聖人を取り囲む群衆)
ナレーター 「親鸞聖人の、一向専念無量寿仏の強調は、
        すさまじかった。
        それは後世、親鸞聖人の教えを、
        一向宗としかいわなかったほど、
        阿弥陀如来一仏に向け、
           阿弥陀如来以外のすべてを捨てよ、
      という徹底したものであった

■   ■   ■    ■

また第3巻には、仏教史上最大の弾圧といわれる
「承元の法難」が描かれています。
住蓮房や安楽房はじめ、法然門下の4名が死罪となり、
法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ
流刑に処せられた事件です。

その真因は、法然上人も親鸞聖人も、
徹底して「一向専念無量寿仏」を叫ばれたことでした。

■   ■   ■   ■

(京都・吉水の本堂に集まった弟子たちが、
騒然としている)
弟子A 「これからどうなるのじゃろう」
弟子B 「れらいことになったのお」
(法然上人が、本堂に入ってこられ、
一同、姿勢を正して頭を下げる)
法然上人 「皆の者、住蓮房と安楽房のことは、ご承知か
弟子たち 「はい」
法然上人 「やがて、朝廷より我々にも、ご沙汰があるだろう
(弟子たち、顔を見合わせながら)
弟子B 「ま、まさか」
法然上人 「この法然も、決して、このままでは済むまい
(親鸞聖人が立ち上がられ)
親鸞聖人 「お師匠さま、たとえ、どのようなことがあっても、
       親鸞は、お師匠さまに従います

弟子A 「私も、地の果てまでも、お師匠さまのお供を致します」
(他の弟子たちからも、「私も」「私も」の声が上がる。
法然上人は、それらを見回して、「うん」とうなずかれる)

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親鸞聖人 「それにしても、お師匠さま。
       彼らは、己の怒りと恨みで、真実の仏法を破壊したのみならず、
       この世の正義も踏みにじり、住蓮房、安楽房を、殺害いたしました。
       公然と道理を踏みにじってはばからぬ無法者こそ、
       彼ら、権力者ではありませぬか。
       断じて親鸞、許すことはできませぬ!

(床下の権力者の密偵2人、この発言にうなずき合う)

親鸞聖人 「お師匠さま。親鸞、断固戦います!
       釈尊出世のご本懐、一向専念無量寿仏を、
     命の限り伝え切ります

密偵A 「おい、放ってはおけんぞ」
密偵B 「そうだ。吉水の奴ら、やる気だな」
(密偵2人、そっと草庵を抜け出していく)

(目を閉じて聖人の言葉を聞いておられた法然上人、
やがて)
法然上人 「よいか、皆の者。
       我ら仏法者にとって、命懸けて護らねばならぬのは、
       天下の掟でもなければ、世間体でもない。
      ましてや、名誉でも財産でもない。

       それは唯一つ、釈尊出世の本懐である、
     一向専念無量寿仏と、その布教だけなのだ

字幕 『一向専念無量寿仏』
弟子たち 「はい」
法然上人 「いずこの里に別れ別れになろうとも、
       これだけは忘れるでないぞ

弟子たち 「はい」
親鸞聖人 「はい」
(一斉に頭を下げられる)

■   ■   ■   ■
このように、「一向専念無量寿仏」の真実を
説き切られる方を善知識といわれるのですが、
そんな方は滅多におられませんから、
「善知識にあうことも、大変難しいことなのだ」
と聖人は、よき人・法然上人との邂逅(かいこう)を、
つくづく述懐されるのです。

そして、この「一向専念無量寿仏」のまことを、
微塵のまこともない私たちに教えることもまた、
鉄板の上にタネを蒔くような、
途方もない難事なのだと、次に、
「おしうることもまた難し」
と仰っているのです。

よくきくこともかたければ

せっかく善知識にお会いできても、
そこで留まっていては、もったいないことになります。
次に、「よく聞きなさいよ」と教えられています。

「よく聞く」とは、納得するまで
よくよく聞くことが大切だということです。

世間では「どんなことでも話せば分かる」といわれます。
“問答無用、斬り捨て御免”の時代もありましたが、
戦後、民主主義となり、
「どんなことでも話せば分かる。
お互い納得するまで話し合いましょう」
と言われています。
ところが、今日の政治や外交を見ても明らかなように、
どれだけ話し合っても分かり合えないのが
人間社会の実態です。

家庭内でもそうではないでしょうか。
男は女の気持ちが分からず、女は男の気持ちが分からない。
子供は親の心が、親は子の心が分からない。
家族でさえも分かり合うことは難しいのです。

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ましてや、赤の他人同士、政治家や異国の人々となると、
どれだけ話しても分かり合えないことは幾らでもあります。
この世のことでも、何でも「話せば分かる」
というものではありません。

しかし、親鸞聖人のみ教えは、よくよく聞けば、
どんな人でも「分かった」とうなずけることがあるのです。
ある妙好人は、
「合点できずば、合点ゆくまで聞きなされ、
聞けば合点のゆく教え」
と言っています。

銭の勘定もできず、『御文章』を逆さまに
読んでいた人だといわれますが、
そんな私でさえ、合点できた。
納得するまで聞きなさい
」と入っているのです。

「どれだけ聞いても分からん」と言うのは、
聞き方が足りないか、真剣に聞いていないからです。

仏教は、「だいたい分かった」という
曖昧な聞き方ではダメなのです。
ハッキリ納得できるところまで聞くことです。

信ずることもなおかたし

しかし、「よくきいて納得する」ことと「信ずる」こととは、
別です。

親鸞聖人がここで言われている「信ずる」とは、
「阿弥陀仏の本願に疑いが晴れて救われた」
ということです。

先ほどの妙好人は、続いてこう言っています。
「合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの、
合点せよとは口では言えど、不思議不思議の外はない」
「信ずる」とは、阿弥陀仏に救われて
「不思議不思議」と喜ばずにおれぬことを言われたのです。

この弥陀の不可思議の願力に救い摂られたのを、
「信心決定」と言われます。

阿弥陀仏のお力によって、いつ死んでも浄土往生間違いなしと
絶対の幸福になったことです。

ひとえにこの弥陀の本願力によらなければ、
私たちは絶対に救われないことを、
聖人は、

生死の苦界ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

       (高僧和讃)
“果てしない苦しみの海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀弘誓の船だけが、必ず、
乗せて浄土へ渡してくださるのだ”

どの和讃でも教えてくださっています。
自分の力で、船によじ登るのではありません。
そんな力のある私達ならば、諸仏は見捨てられません。
何の力もない私たち、それどころか、仏法に背を向けて、
またしても迷いの海に逃げ惑っている私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏のみが、
そのまま大悲の願船に乗せてくださるのです。
そして、必ず仏に生まれる身にしてくだされるのです。

一人一人が、親鸞聖人のみ教えを真剣に聞き、
不思議不思議の弥陀の救いにあうために
生まれてきたのであり、
生きていることを、決して忘れず、
一念の決勝点まで進ませていただきましょう。


 


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