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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

南無阿弥陀仏 ブログトップ

南無阿弥陀仏にどんな力があるのか [南無阿弥陀仏]

 

本願の名号は正定の業なり(正信偈)

 

(阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、

すべての人を絶対の幸福に救うお働きがある)

 

「本願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことで、

十方諸仏の本師本仏、阿弥陀仏がなされているお約束のことです。

阿弥陀仏は、

「どんな人をも、

平生に絶対の幸福に救い、

必ず極楽浄土に生まれさせる」

と命を懸けて誓われています。

その誓いを果たされるために、弥陀が不可思議兆載永劫の長い間、

ご修行をなされて、完成されたのが「名号(南無阿弥陀仏)」です。

阿弥陀仏のお約束(本願)どおり、絶対の幸福に助ける力のある名号だから、

親鸞聖人は「本願の名号」といわれているのです。

 

この南無阿弥陀仏の絶大なるお働きを、

『正定業』と親鸞聖人は仰っています。

「正定」は「正定聚」の略で、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」。

「業」とは「働き」という意味ですから、

名号には、すべての人を絶対の幸福(正定)にする働き(業)がある、

と聖人は明らかにされています。

 

では、「正定聚」とは、どんなことなのでしょうか。

大切なことなので、詳しくお話ししたいと思います。

 

●「正定聚」・・・何があっても変わらぬ絶対の幸福

 

「正定聚」とは、さとりの位の一つです。

一口に「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで

全部で五十二の位があり、これを仏教で

「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど“力士”といっても、下は序の口から、

上は大関、横綱まで、いろいろの位があるようなものです。

五十二のさとりの位にも、それぞれ名前がついており、

最も高い位を「仏覚」(仏のさとり)といわれます。

これより高いさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。

その最高無上の仏覚まで到達された方だけを、

「仏」とか「仏さま」といわれるのです。

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「さとり」の位が一段違うと、人間と虫けらほど違うといわれます。

ハチやカエルに、テレビやパソコンの仕組みを説明しようとしても

不可能なのは、人間とは全く境界が違うからです。

同様に、凡夫(人間)と、五十二段の仏さまでは、

全く境界が異なります。

経典には、この五十二のさとりの階梯(かいてい)をのぼって、

仏のさとりを得るには、三大阿僧祇劫という気の遠くなるような

長期の修行が必要と説かれています。

その道を求める難しさは、“面壁九年”といって、

九年間壁に向かって座禅を続け、手足をなくした達磨大師が

三十段前後しかさとれなかったといわれることからも分かります。

 

長野県の善光寺の住職で、天台宗大勧進のトップである貫主は、

“生き仏”といわれてきました。

ところが今年6月、その82歳の“生き仏”様にセクハラ疑惑が

持ち上がり、テレビや新聞で大きく報じられました。

天台宗といえば、『法華経』に説かれる修行を実践し、

煩悩と闘ってさとりを得ようとする教え。

今日も残る「千日回峯行」という難行は、

12年間、山に籠もり、うち7年間は明けても暮れても、

峰から峰を歩き続ける苦行です。

修行者がまとう白装束は、行半ばで挫折すれば

自害する覚悟を示す死装束ともいわれ、

合計1000日間歩く距離は実に4万キロ、地球を一周するほどです。

この貫主も“100日間の苦行を成し遂げた”そうですが、

欲望むき出しのセクハラ行為は、“生き仏”どころではありません。

欲や怒り、ねたみそねみの煩悩に身を焼く人間の実態は

死ぬまで変わりはない、と親鸞聖人が仰るとおりです。

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「正定聚」は、「正定聚不退転」ともいわれ、

さとりの五十一段に相当する位をいいます。

いつ死んでも間違いなく(正しく)仏になれることに

定まった人たち(聚〈じゅ〉)ですから「正定聚」といわれるのです。

五十二段のさとりの中で、四十段までは油断すると

退転する(さとりが退く)「退転位」、

四十一段から上は、何があっても退転しない「不退転位」です。

 

ゆえに「正定聚」の身に救われた人は、

いつ死んでも浄土へ往って仏になれることがハッキリし、

何があっても変わらぬ絶対の幸福になれるのです。

 

蓮如上人はこのことを「聖人一流の章」の中で、

次のように教えられています。

 

不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。

その位を「一念発起・入正定之聚」とも釈し

             (御文章五帖目十通)

 

阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、

いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)とハッキリさせてくだされる。

平生の一念に「正定聚不退転」になれるのである。

 

このような平生明らかになる弥陀の救いを親鸞聖人は

「平生業成」と教えられ、『末灯鈔』に、次のように仰っています。

 

真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚の位に住す。

(乃至)信心の定まるとき往生また定まるなり  (末灯鈔)

 

平生、阿弥陀仏に救われ、真実信心を獲得した人は、

いつ死んでも極楽参り間違いない正定聚の身となる。

信心決定したその時、往生浄土が定まるのだ。

 

このように私たちが正定聚の身となり、

絶対の幸福(往生一定)に救われるのは、

すべて南無阿弥陀仏の名号のお働きによることを明らかになされたのが、

『正信偈』の「本願の名号は正定の業なり」のお言葉なのです。

 

●弥勒菩薩より幸せになれる

 

ところが私たちは、「生きている今、正定聚不退転(絶対の幸福)になれる」

と聞いても、あまりにもすごい救いなので、ピンときません。

そんな私たちに、親鸞聖人は、あの弥勒様より幸せになれるのだよ、

と次のように教えてくださっています。

 

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、

龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。

念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す     (教行信証信巻)

 

(本当にそうだったなあ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。

全く弥陀の誓願不思議としかいいようがない。

しかも、弥勒は五十六億七千万年後でなければ、

仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、

今生終わると同時に浄土へ往って仏のさとりが得られるのだ)

 

「真に知んぬ」とは、「明らかに知らされた」聖人の驚嘆です。

「私はそう思う」「そんな感じがする」「間違いなかろう」

というような、曖昧な憶測や想像ではありません。

では、何がハッキリ知らされたと聖人は仰っているのでしょうか。

 

「弥勒大士」とは、あと一段で仏覚という

五十一段のさとり(等覚)を得ている弥勒菩薩のことです。

「菩薩」とは、「仏のさとりを得ようと努力している人」のこと。

菩薩の中の最高位は五十一段の等覚です。

弥勒菩薩は、その等覚のさとりを開いていることを、

「弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に」

と言われています。

弥勒は、大変優れた菩薩として有名で、

世間には「弥勒様に助けてもらおう」と、

手を合わせている“弥勒信仰”も少なくありません。

ところが、その弥勒菩薩でさえ、あと一段のぼって

「仏覚」を開くまでには五十六億七千万年かかると、

お釈迦さまは説かれています。

そのことを聖人は、

「龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし」

と言われているのです。

「龍華三会の暁」とは、五十六億七千万年後のこと。

「無上覚位」とは、仏覚のことです。

 

菩薩の最高位である弥勒でも仏覚を開くまでには、

気の遠くなる長期間かかることを示されたうえで、

親鸞聖人は、

「しかし、弥陀に救われた人は、こうだ」

と驚くべきことを断言されています。

 

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、

臨終の一念の夕、大般涅槃を超証す」

 

「念仏の衆生」とは、「弥陀に救い摂られた人」であり、

聖人ご自身も「念仏の衆生」です。

「横超の金剛心を窮むる」とは、

「弥陀と同格の正定聚の菩薩に救われた」ことをいいます。

弥勒と肩を並べる身になったことだけでも驚きですが、

聖人はさらに、五十六億七千万年後でなければ

仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、念仏者は、

この世の命終わると同時に無上覚(仏のさとり)を超証するのだ、

と宣言なされています。

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このことをご和讃で次のように仰っています。

 

真実信心うるゆえに

すなわち定聚にいりぬれば

補処の弥勒におなじくて

無上覚をさとるなり

       (正像末和讃)

(弥陀に救われ、真実信心を頂いた一念に正定聚の位に入って、

弥勒菩薩と同格になる。そのうえ、死ねば必ず浄土へ往って、

弥勒より先に仏のさとり(無上覚)を開くのだ。

これほどの幸せがあろうか。)

 

聖人は、等覚の弥勒と比較されて、

「弥陀の救い」がいかにすごいか訴えられ、

「早くこの親鸞と、同じ幸せな身になってくれよ」

と念じておられるのです。

 

●誰でも“死んだら極楽”か?

 

さて、ここでこんな疑問に答えておかねばなりません。

 

「阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を完成してくだされたのだから、

すでに誰でも死ねば極楽に往けるのですか」

 

いいえ。そうではありません。

南無阿弥陀仏には、私たちを往生一定の絶対の幸福に救い摂り、

死ねば極楽に生まれさせる働きがありますが、

そのような南無阿弥陀仏が完成されているからといって、

「誰でも死んだら極楽」と思うのは大間違いです。

それはちょうど、いくら難病を治す特効薬ができていても、

のまねば病に苦しむ患者は治らないのと同じです。

患者がその薬をのんで初めて病気は治るのです。

どんなに優れた薬も、患者がのまねば効き目は表れず、

病は完治しません。

同様に、南無阿弥陀仏の名号を私たちが阿弥陀仏から

頂いて初めて、絶対の幸福(往生一定)に救われるのです。

 

先のご和讃でも、

「真実信心うるゆえに」

と親鸞聖人は仰っています。“真実の信心を獲る”とは

南無阿弥陀仏の名号を獲たことです。

死んで極楽に往けるのは、生きている今、

六字の名号を獲得した人だけですよ、

と釘を刺しておられることを見逃してはなりません。


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弥陀の救いは「破闇満願」 [南無阿弥陀仏]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
        (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことであると、
繰り返し述べてきました。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
“どんな人も 必ず絶対の幸福(往生一定)に救う”
という誓いです。
善人も悪人も、老若男女問わず、
絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
この阿弥陀仏の救いを表した仏語が「破闇満願」です。
「破闇」とは、闇を破ること。
闇とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」であり、
「疑情」といわれます。
この「疑情」こそが、苦悩の根元であると親鸞聖人は
『正信偈』に、こう教えられています。

還来生死輪転家  生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止  決するに疑情を以て所止と為す

「生死輪転」とは、「流転輪廻」ともいわれ、
安心、満足というゴールのない円周を、
際限もなく回り続け苦しんでいるさま。

私たちは家を離れて生きられないように、
苦しみから離れ切れず、迷い続けているので、
「生死輪転の家」といわれているのです。

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「還来」は、生死輪転(際限ない苦悩)の家を
行ったり来たりすることですから、
「終わりなき苦しみ」を表しています。
「生死輪転の家に還来することは」
とは、一言で、
「人生を苦に染める元凶は何か」
ということであり、親鸞聖人は、
次のように一言で答えておられます。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「決するに」とは、「これ一つ」という強い言葉。
「疑情ひとつ」が苦悩の根元であるとの断言であります。

●苦悩の根元、疑情とは?

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。

命懸けであなたを助けようと力尽くされている阿弥陀仏に、
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「阿弥陀仏は本当に私を救ってくださるのか」
「欲を起こしたり、腹立つ心を減らさないと、
助けてもらえないのだろう」
と、疑っている心が、疑情です。
この心一つが流転の元凶であり、
「無明業障という恐ろしい病」
とも言われます。

無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病
           (御文章二帖目十三通)

誰もが幸せを求めながら、
なぜ、心から生きる喜びが味わえないのか。
何をどれだけ手に入れても本当の幸福になれないのは、
「無明業障」という心の病にかかっているからだと、
蓮如上人は明らかにされています。

「心の病」といっても、
心療内科などで診断されるものではありません。
治療する精神科医も、自覚なしにかかっている病です。
この病気にかかっていない人は一人もありませんが、
これは、仏教をよくよく聞かなければ毛頭分かりません。

●無明業障の病が恐ろしい二つの理由

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる理由が二つあります。
○三世を迷わす苦悩の根元だから。
○自覚症状がないから。

一つ目の理由からお話しましょう。
この病は、「無始よりこのかた」と言われますように、
始めのない始め、過去無量劫からの魂の病です。
それは未来永劫にわたる大問題でもあります。
ですから蓮如上人は「無明業障の病」を『御文章』に、
「三世の業障」とも言われています。

闇=疑情=無明業障の恐ろしき病=三世の業障

「三世の業障」とは、三世を通し、私を苦しめているもの。
「三世」とは、過去世・未来世のことで、私たち一人一人に、
人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、
死んだ後の未来世あるのだよと、
仏教では教えられます。
年でいえば、去年なしに今年はないし、
今年なしの来年もありえない。

去年の今頃何があったのか、たとえ忘れてしまっても、
なかったのではない。
必ず、過去があって現在があり、未来へと続くのです。
おととい食べた物さえすっかり忘れている私たちは、
人間に生まれる前の過去世など知る由もありませんが、
釈尊は厳然と三世の実在を説かれています。
肉体の苦しみなら、せいぜい百年ほどですが、
「三世の業障」は、生まれる前から現在も、
そして死んだ後も苦しめる、全人類の永遠の生命の病なのです。
この「三世の業障・無明業障の恐ろしき病」を
治せる方はおられるのでしょうか。
蓮如上人は、こう仰せです。

ありがたの弥陀の光明や。
この光明の縁に値いたてまつらずは、
無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の
癒る(なおる)ということは、
更に以てあるべからあるものなり。
          (御文章二帖目十三通)

阿弥陀仏のお力(光明)によらなければ、
無明業障の恐ろしき病が治ることは絶対にないと教えられます。
無明業障の病を治せる方は、
大医王であられる阿弥陀仏しかましまさぬのです。

阿弥陀仏は、私たちを無明業障の病から
何とかして助けようとして、
南無阿弥陀仏という大妙薬をつくられました。

すべての人は、阿弥陀仏のつくられた、
この南無阿弥陀仏の妙薬を賜った一念で全快し、
絶対の幸福に救われます。

一念とは、一秒よりも短い時で、
時剋の極促をいいます。
蓮如上人は、
「阿弥陀仏から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えていただいた一念に、
過去、現在、未来の三世を通して苦しめる
無明業障の恐ろしき病は全快し、
同時に、絶対の幸福(正定聚・等正覚)に救われるのだ」
と、こう教えておられます。

この大功徳(南無阿弥陀仏)を、
一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向(与える)しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位(絶対の幸福)また等正覚の位なんどに
定まるものなり
                (御文章五帖目六通)

「南無阿弥陀仏」には、私たちの苦悩の根元を、
一念で断ち切るものすごい力がある。

その大功徳は人間の想像を絶すると蓮如上人は、
こう説かれています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり
             (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、
「たった六字の南無阿弥陀仏に、そんなに功徳や、
効能があるとは誰も思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六字だけでは心もとなく思えてしまう。
そんな迷いの心をお見通しの上で、こう続けられます。
「だが、南無阿弥陀仏の六字には、
最高無上、甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、底を見れば深さが知れぬ。
名号六字の大功徳は広大無辺で極まりがない」
偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
猫に小判、豚に真珠で、
私たちに名号の値を知る知恵がないからです。
正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の万善万徳がおさまっていることは明らか。
ですから、お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何憶年かかっても説き尽くせない」と言われ

親鸞聖人は、『正信偈』に「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海(大きな宝の海)」と言われています。
そんなすごい大功徳だからこそ、
三世にわたる苦悩の根元を一念で解決できる。
無明業障の恐ろしき病(三世の業障)を治す特効薬、
それが「南無阿弥陀仏」なのです。

●ハッキリする救い

この特効薬は、阿弥陀仏が与えてくださいますから、
「我等衆生に廻向しまします」と言われています。
「廻向」とは、「与える」という意味です。
南無阿弥陀仏の大妙薬を頂いた一念、
病は全快し、同時に正定聚(絶対の幸福)の身になります。
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことです。
いつ死んでも極楽往生に往って、
仏に生まれることがハッキリしますので、
往生一定とか往生治定ともいわれます。
阿弥陀仏の願いは、
私たちを正定聚(絶対の幸福)にすること以外にありませんから、
正定聚になった時、阿弥陀仏の願いが私たちの身の上に満たされます。
これを「満願」といいます。

○闇を破る(破闇)
=疑情を晴らす=無明業障の病(三世の業障)を全快させる
○願いを満たす(満願)
=正定聚(等正覚)にする=往生一定(往生治定)にする

このように「疑情を晴らし正定聚にしてみせる」
という弥陀の願いが、私たち(衆生)の身の上に満たされたことを、
「破闇満願」というのです。
私たちは苦しむために生まれてきたのでもなければ、
生きているのでもない。
「なぜ生きる」の答えは「破闇満願の身になるため」
一つです。

私たちは、そのために生き、働いています。
政治も経済も科学も医学も全ては、このためにあるのです。
苦しみの根元「疑情」を一念で晴らし、
この世から未来永遠に変わらぬ幸福を与える教えが仏教なのです。

●自覚症状なき病

無明業障の病が「恐ろしい」といわれるもう一つの理由は、
自覚症状がないからです。

肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。
例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、
放置する人が少なくありません。
しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に
さまざまな合併症を起し、命に危険を及ぼします。
「ガン」も、自覚症状がないことが多くあります。
特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、
気づいた時には手遅れというケースをしばしば耳にします。
早期発見・早期治療がなされれば治る病も、
自覚症状がないと手遅れになります。
同じように無明業障の病も(疑情)も自覚がありません。
まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると
思っている間は無明の病も分からず、
医者も薬も問題になりません。

「無明業障の病を治してくださる方は、
大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」
と勧める言葉も耳に入らない。

仏教の結論・一向専念無量寿仏
(「阿弥陀仏一仏を信じよ」という釈迦の金言)
も自分とは関係ないと思っているのです。

それがいよいよ心の臨終になると分かってきます。
念々に迫る無常に驚き、地獄一定の罪悪が知らされてくると、
後生の一大事助かりたい、という心があらわになり、
弥陀一仏に向くのです。

そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、
疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、
無明業障の恐ろしき病が全快、
この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、
薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、
「誠なるかなや、弥陀の本願」とハッキリするのです。

●どうすれば破闇満願の身になれるか

では、どうすれば破闇満願の身になれるのでしょうか。
親鸞聖人は
「聞思して遅慮することなかれ」。
仏教を聴聞(聞思)しなさいとご教示くださいます。
蓮如上人も、こう指南されています。

陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は
早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。
されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、
遅く開くる人もあり。
兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞するべきなり
                 (御一代記聞書)

陽の当たるところの花は速く咲き、
日陰の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、
弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。
聞法を怠れば日陰の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明に遇っても、
救われるのが速い人と遅い人があるのは、
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、
ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

一日も早く、破闇満願の身となり、
生命の大歓喜がわき上がるまで、聞法精進いたしましょう。


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南無阿弥陀仏って何だろう? [南無阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。
読み飛ばさず、せめて大きい字だけでも、一部だけでも読んで
少しでも理解してください。
お釈迦さまはものすごいことを教えられているのです。)

「南無阿弥陀仏」って何だろう?

Q1.念仏とは何ですか?

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

Q3.「南無阿弥陀仏」はどなたが、何のために、
   創られたのですか?

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか

Q5.どうすればいただけるのでしょうか

Q6.どのように聞けばよいのでしょうか?

親鸞聖人といえば
「念仏」(南無阿弥陀仏と称えること)を
連想する人が多いでしょう。
「お念仏の声を子や孫に」
「お念仏の喜び」などのフレーズが、
まるで浄土真宗であるかのように
語られているからです。
これでは誰もが
「念仏称えたら極楽へ往ける」と
誤解するのも、当然かもしれません。

では、そもそも念仏って、何なのでしょうか?
厄除け?それとも何かのマジナイ?
まずは次のページのアンケート結果をごらんください。

『とどろき』のメールマガジンを
購読されている皆さんを対象に、
「南無阿弥陀仏」とは何だと思いますか、と、
下記のような内容でアンケートを実施いたしました。

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普段から何気なく称えておられる方も多いでしょうが、
一体どんなことなのか、まずは各自の思いをお聞きしました。

『とどろき』で出会うまでは、
何も考えずに称えていました。
父親の真似をして・・・。

自分の思いがかなえてもらえるように、とか、
自分に嫌なことが起こらないように祈る時、
称えていました。

「南無阿弥陀仏」とは、亡くなられた方への供養、
亡くなられた方への栄養と思っていました。
お仏壇にお参りするときは、「南無阿弥陀仏」と称え、
残っている家族の健康を願っていました。

称えれば災いから逃れられるのかなぁ、と、
気休めのまじないのように思っていました。

よく心霊番組で、悪魔ばらいにお経を称えている光景が
映し出されていましたので、
その影響を受けていました。
墓の近くを通った時や夜中に怖くなった時に、
「なむあみだぶつ」と称えていました。

救われたお礼と聞いて、
「救われている実感がないのになぜお礼するの?」
と思いましたが、言葉が先で、
実体は後からついてくるということなのかと、
今は思っています。

「あぁ、私もそう思ってた」と共感されたり、
あれっと思われたり、いろいろでしょうが、
では親鸞聖人は、「念仏」について
どのように教えておられるのでしょうか。
次ページから問答形式で学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q1.念仏とは何ですか?

「念仏」とは、「口で南無阿弥陀仏と称えること」です。
「口声(くしょう)の念仏」とも、
「称名念仏」ともいわれます。
先に述べたように、
「念仏さえ称えていれば、誰でも極楽へ往ける」
というのは大きな誤りで、

500年前の蓮如上人の時代にも
同じ誤解が蔓延していたのでしょう、
こう糾(ただ)されています。

まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束(おぼつか)なきことなり

             (御文章三帖)

このような『御文章』は枚挙にいとまがありません。
蓮如上人はここで、
「『南無阿弥陀仏』とは何のことか分からず、
ただ称えている」のを「何の分別もなく」と誡められ、
それでは助かりませんよ、
早く「南無阿弥陀仏のいわれ」
を知りなさいと勧められておられるのです。

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そこで「南無阿弥陀仏」とはどんなことか。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示を頂きましょう。

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

「南無阿弥陀仏」とは何か、
蓮如上人は平易に明らかにされています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

       (御文章五帖)
南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、
我々を最高無上の幸せにする
限りなき広大な働きがあるのだ

「南無阿弥陀仏」を「六字の名号」と言われます。
この六字の中には、とてつもない働きがあることを
蓮如上人は、
「無上」「甚深」「広大なること極まりもなし」
と、表現を変え言葉を尽くして絶賛されているのです。

あまりにも凄すぎてピンとこない人もあるかもしれませんので、
具体的に比較して考えてみましょう。

日本には現在、個人金融資産は千四百兆円あります。
さて、かりにこれが全部自分の物になったら、どうでしょう。
まずはローン完済してスッキリ重荷を下ろしたい。
それから我慢していた海外旅行へ。
豪華客船で世界一周。
しかも高級スイートルームで。
それでもせいぜい数千万ですから、
さらに料亭通いでもしますか。
銀座で毎晩、100万円散財し、田園調布に豪邸、
軽井沢に別荘。
ヨーロッパ旅行に親族300人を連れて
何億円も“大人買い”する、
アラブの石油王をマネてみても、
まだまだ大丈夫。
考えてみると少し気が遠くなってきますが、
「南無阿弥陀仏」の真価は、
そんな金額に換えられるようなものじゃない、
と蓮如上人はここで仰っているのです。

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「無上甚深の功徳」ですから、
世界中のお金も貴金属もダイヤも、
全部かき集めたよりも桁違いに凄い値が、
この六字の名号の中にあるのだ、ということですが、
そう聞いて、「なるほど、よく分かりました」
と素直にうなずけるでしょうか。

そんなバカな、たった6つの字に、何で?
と訝る(いぶかる)私たちの心を見透かされて蓮如上人は、

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずか六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう

とズバリ指摘されているのです。

だがそれは、猫に小判、豚に真珠、
あなたに「南無阿弥陀仏」の真値を知る知恵がないからだ、
実は「南無阿弥陀仏」の六字は、
大宇宙の万善万行の結晶なのだと、
讃嘆されているのです。

親鸞聖人は、朝晩拝読する『正信偈』に
「功徳の大宝海」と褒め称えておられます。
両聖人とも、釈迦が教えておられることを、
「その通りであった」と知らされてのことです。

お釈迦さまが仏の大雄弁をもって
「南無阿弥陀仏」の功徳一つを説かれたのが、
7000余巻の一切経ですが、
それでも晩年に、

若し広説(こうせつ)せば
百千万劫にも窮め尽くすこと能(あた)わじ
             (大無量寿経)

「『南無阿弥陀仏』の功徳は、
何億年かかって説いても説き尽くせない。
80年の生涯では、大海の一滴も説けなかった。

と仰っています。
不可称・不可説・不可思議の功徳と言われて当然でしょう。

Q3.そんな「南無阿弥陀仏」を、
どなたが、何のために、創られたのですか?

それほど功徳のある「南無阿弥陀仏」の名号を、
では一体どなたが、何のために、創られたのでしょうか。

それについて釈迦や親鸞聖人は、
阿弥陀仏という仏が、苦しみ悩む私たちに
与えて助けるために、創ってくだされたのだよ

と仰っています。
幸せ求めて生きているのに、
なれずにいる私たちを見捨てておけず、
立ち上がってくださったのが、
阿弥陀仏という仏さまなのです。

地震や津波がまた来ないか。
株は暴落しないか。
就職できるのか。
会社が倒産するのでは。
将来、年金はちゃんともらえるのだろうか。
未来が不安で皆苦しんでいます。

これらの大事は、放っておけぬと私たちは必死です。
しかし、最も大きなものが「死後、どうなるかハッキリしない」
不安ですから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
嫌じゃ嫌じゃといいながら、
墓場へ向かって、皆行進している。
一日生きたとは、一日死に近づいたこと。
意識しようとしまいと、それが真実なのです。

死は100パーセント確実な未来であり、
今晩かも知れぬ大事です。
災害や事故で、一瞬で命が失われていく。
生と死は、つねに隣り合わせ。
今生と後生は、一息一息触れ合っています。
その後生が暗い「無明の闇」が、
今の生を暗くしているのです。

阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそ
私たちの苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、必ず浄土へ往ける
大安心の身に救ってみせる」
と、命を懸けて誓約されています。
これが有名な「阿弥陀仏の本願」であり、
この誓願を実現するために、
阿弥陀仏が創られた大功徳の結晶が
「南無阿弥陀仏」なのです。

いわば、私たちが「無明の闇」という
恐ろしい心の病で苦しんでいるのを、
阿弥陀仏という医師が
「何とかして治してやりたい、必ず助ける」
と誓われた、その熱願から創られた妙薬といえましょう。

だから、この六字の名号には、
“すべての人を幸福に救い摂る、
広大無辺の力があるのだ”
と親鸞聖人は、こう道破されています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

阿弥陀仏の創られた名号(南無阿弥陀仏)には、
果てしなき過去から我々を苦しめてきた無明の闇を破り(破闇)、
どんな人をも永遠の幸福にする(満願)働きがある

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本師本仏の阿弥陀仏が、
私一人を絶対の幸福に救うために、
五劫の思惟の末に本願を建てられ、
その願を果たすために兆載永劫のご修行をされた、
その大変なご苦労によって成就なされたのが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号であり、
これら経緯の一切を「名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」というのです。

そう聞いても、分析して価値を認めようとする
科学万能主義では、
荒唐無稽でしかないも知れませんが、
19世紀のイギリスの大化学者ファラデーは
学生たちにこう説いたといいます。

“母親の涙も、化学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、その涙の中には化学も分析し得ない
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ
”と。

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名号はわずか「南無阿弥陀仏」の六字だけれども、
「すべての人を絶対の幸福にしてやろう」
という阿弥陀仏の大慈悲心(仏心)の顕現なのです。

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、
      どうなるのでしょうか。

弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを
「信心獲得」というと、
蓮如上人は説示されています。

信心獲得すというは、第十八願(阿弥陀仏の本願)
を心得るなり。

この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり 

           (御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。
聖人はこう仰せです。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

       (高僧和讃)
どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、
心も言葉も絶えた幸せが、
その人の身に満ち溢れるのである。

蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念に、
永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、
こう言われています。

この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す
我等衆生に回向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

          (御文章)
過去・現在・未来の三世を通して
苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、
弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を
頂いた一念でぶち破られて、同時に、
絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである

正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、
等正覚ともいわれます。

事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、
壊れない、裏切らない幸せですから、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

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弥陀の救いは、信心一つ

「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」
とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」
と教えていかれました。

ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも
「唯信独達の法門」ともいわれます。

蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候

親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、
信心獲得ひとつであったのだ

と明言されています。

念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、
断じて親鸞聖人の教えでもなければ
浄土真宗でもないことが、
このご文一つでお分かりでしょう。

そこで初めの質問に戻りますが、
では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」
「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの
「念仏」は、救いたもうた弥陀への
感謝報恩(称名報恩)である
ことを、
聖人は『正信偈』に、

唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
他力の信心を獲た上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである

と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、心得べきなり

弥陀に救われてからの念仏は、
浄土往生が決定した大満足の心から、
その御恩に報いる念仏である

と明らかにされています。

この「信心正因、称名報恩」こそが、
親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。

ここまでの話をまとめましょう。

【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。

それは五劫という気の遠くなるような長期間、
熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、
聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、
広大なご恩徳に感泣さなれています。

【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願とは、
兆歳永劫の修行によって、
十劫の昔にすでにでき上がったものが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。

【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、
病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。

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【念仏】
病気を治して頂いたら、治してくださった医師に
対して出るのがお礼の言葉です。
そのお礼が「称名念仏」です。

顔中に飯粒をつけていても、
食べなければ腹は膨れず、餓死してしまいます。
何万遍礼を言っても、薬をのまずしては、
病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、
その上の御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、
「信心」一つで決するから、

蓮如上人はこう仰っています。

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一つに限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)
親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。
浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、
知るか、否かで決するのである

仏教で「肝要」とは、“これ以上大事なものはない”
という極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一(ひとつ)」
「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を
四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿(うが)っての懇ろな教導に、
間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』
は浄土真宗ではない、
『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、
聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を
感ぜずにおれないではありませんか。

Q5.ではどうすれば、
その名号を頂けるのでしょうか。

お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に
我々に満入する」
と説かれています。
「聞く一つ」で頂けるように、
阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。

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Q6.どのように聞けば
      よいのでしょうか。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれても、
その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、
不滅の幸せに輝くのである

尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、
蓮如上人はこう細説されています。

りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん

といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

        (御一代記聞書)

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至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』
と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、
聴聞に身も心も打ち込めば、
限りなく深い弥陀のお慈悲によって、
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である

これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、
信心獲得してお礼の念仏を称える身と
ならせていただくのです。
それこそが、親鸞聖人の最も喜ばれる
真の750回忌となりましょう。
(平成23年5月号のとどろきです)


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共通テーマ:資格・学び

弥勒お先ごめん! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり、)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
            (親鸞聖人・正信偈)


前回は、「本願名号正定業」の
一行についてお話いたしました。
これは、
「本願の名号は正定の業なり」と読みます。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことです。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のことですから、
本師本仏の阿弥陀仏が、本願に基づいて作られた
『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福に救う働きがあるのだ

といわれている、親鸞聖人のお言葉です。

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例えて言うと、
「阿弥陀仏の本願」とは、苦悩の人生の海を
明るく楽しく渡す船の“設計図”であり、
「名号」は、その“設計図”どおりに造られた「大船」である、
ということです。

「名号」の働きについて、今回も学びましょう。

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正定聚(しょうじょうじゅ)とは

「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」と言いましたが、
詳しく述べたいと思います。
「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。

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ちょうど相撲取りにも、下はフンドシ担ぎから
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二位のさとりには、それぞれ名前がついており、
中でも最高のさとりの位を
「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。

これ以上のさとりはないから、
「無上覚」ともいわれます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの
境涯の差があるといわれるのですから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、
死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。

今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にはありません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

中国で天台宗を開いた天台も、
「九段目までしか覚れなかった」と
臨終に告白していますし、
また、壁に向かっ9年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、
三十段そこそこであったと言われます。

仏の覚りを開くことが、いかの大変なことかが
分かります。

「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると
定まった人たちのことであり、
五十一段のさとりの位をいうのです。

絶対に崩れない位ですから、
「正定聚不退転」とも言われます。

「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、
ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。

“必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、
何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。

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阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた
「南無阿弥陀仏」の六字には、
どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に
救い摂る働きがある
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。

同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)
とも言われています。
多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、
どんなものでしょうか。
代々伝わる壷とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。
中には鑑定士から何千万と評価された
「お宝」もあるかもしれません。
「国宝」に指定された仏像や建造物、
「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。

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しかし悲しいかな、これらの宝は、
どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、
火事で焼けたり、洪水で流されたり、
盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、
一時的なものではないでしょうか。

「佐賀の会社役員、庭に埋めた3億6000万円盗まれる」
という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の80代の男性が、安全のために、
佐賀県にある自宅の庭に埋めていた
現金3億6000万円が盗まれていたことが明らかになった。
(中略)前年10月に盗難にあっていることに
気づいたという。
男性はその2ヶ月後に死亡している。(中略)
40年間にわたって、現金を容器に入れては
自宅の庭に埋めることを繰り返していたという。
男性は、銀行の金利が低いことから
手元に置いておく方がよいと考え、
さらに火事や地震の被害を避けるために
庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、
考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、
後生へは一円も持っていけない。
この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。

ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆されているのです。

蓮如上人も『御文章』に、
分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の
幸せにする絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、
天の際限のないようなものである」

まことだった!ホントだった!

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、
親鸞聖人ご自身が一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、
「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、
『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮めるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」という確信です。
「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、
「私はこう思う」などという想像でもありません。
体験して知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、
聖人の「真知(真に知んぬ)」です。
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」と
おっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。
「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。
いろいろな位の菩薩がある中で、
弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)
を開いていること
を、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。
あの面壁九年の達磨でも、30段そこそこであったのですから、
51段のさとりを開いている弥勒が、
いかに勝れた菩薩であるか、お分かりになるでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7000万年後に、仏のさとりを開く”

と聖人が言われているのは、
お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。
それは、56億7000万年後のことである」
と説かれているからです。

その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。

「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、
聖人自らのことです。

「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。
絶対壊れない幸福ですから、金剛心
(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)
と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような
長期間の自力修行によって、
さとりの位を一段一段上り、
ようやく51段まで到達したけれども、
「念仏の衆生」の親鸞は、
「南無阿弥陀仏」の働きによって、
一念で51段を高飛びさせられ
「正定聚」の身に救い摂られたのだ、

という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。

本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりを得られぬというのに、親鸞は、
今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

この世から未来永遠に救い摂る、
名号六字の働きを真知させられた聖人の、
大慶喜なのです。

救われたらハッキリする

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)と、
一般に使われる「信じる」との違いについて、
よく知っていただきたいと思います。

実は、「信じる」のは「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。
『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」
と、常識的には思われるでしょう。

ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、
疑う余地の全くないことなら、
「信じる」必要はありませんし、
「信じている」とも言いません。
「知っている」といいます。

例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、
火は熱いものだと「知っている」というでしょう。
火は熱いと「信じている」とは言いません。
そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、
想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、
信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、
疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。

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親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、
それらの「信じる」とは全く異なります。
「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、
「お念仏さえ称えていれば、
阿弥陀さまは極楽へ連れて行ってくださるだろう」
と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体となって、
「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、
実体験なのです。

蓮如上人も『御文章』に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
今こそ明らかに知られたり
この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

うれしさを昔は袖につつみけり、
今宵は身にもあまりぬるかな

とおっしゃっているのも、
「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、
絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。


ところが、「弥陀に救われても、
そんなにハッキリするものではない」
と嘯(うそぶ)いている人が少なくありません。

一念で51段を高飛びさせられて、
この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」
と仏覚を開く身になった人が、
「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。

何兆円どころでない大宇宙の宝を丸もらいして、
永遠の幸福に救い摂られたのに、
それが「自分には分からない」ということが、
考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、
「正定聚」とはどんなことかも、
「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、
知られていないだけなのです。

どうして、そんな働きが

「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
と言われている御心の一端を、解説してきました。
では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、
その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と開示されています。

「至心信楽の願」とは、
“すべての人を必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のこと。

その「至心信楽の願」を因として造られた結果が
「南無阿弥陀仏」だから、この六字の名号には、
私たちを「正定聚」にする働きがあるのだよ
と、
親鸞聖人は朝晩の勤行(おつとめ)で、
本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と教えられているのです。


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はかない幸せを求めるより、なぜ未来永遠の幸福を求めないのか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
で始まる『正信偈』は、
親鸞聖人が750年ほど前に書かれたものです。
なんとしても、すべての人に知ってもらいたいことがある。
『正信偈』を書かれた聖人のお気持ちのすさまじさは、
「恩徳讃」に歌われています。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

身を粉にしても、伝えたい。
それは如来大悲の恩徳だ。
骨を砕いても、知らせたい。
それが師主知識の教えなのだ

命を捨てても、伝えたかったこと。
それが一字一涙の『正信偈』となったのです。

親鸞聖人を最も尊敬し、
聖人の教えを信奉する我々は、
朝晩、勤行(おつとめ)で『正信偈』を拝読します。
聖人が、身を粉にしても、
骨を砕いても伝えたかった教えを、
直々に聞かせていただくご縁ですから、
朝晩の勤行がいかに大切か、お分かりでしょう。
しかしせっかく拝読しても、
意味が分からなければ、私たちの大きな損失です。
本願名号正定業」
この一行で聖人は、どういうことを言われているのか、
お話しいたしましょう。


これは、
「本願の名号は、正定の業なり」
と読みます。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。
「業」とは、「働き」。
「正定」は「正定聚」のことです
から、
意味は一言で、こうなります。
本願によってつくられた『南無阿弥陀仏』の名号には、
私たちを正定聚の身にする働きがある

では「正定聚」とは、どんなことでしょうか。

●「正定聚」とは

仏教でさとりといいましても、
一つや二つではありません。
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の位があります。

これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど、相撲取りといっても、
下はふんどし担ぎから上は大関、横綱まで
いろいろあるようなものです。

中でも最高のさとり、
五十二段目の位を仏覚といい、
これ以上のさとりはありませんから、
無上覚ともいわれます。

この地球上で仏のさとりを開かれた方は、
約2600年前、インドに現れたお釈迦さま、
ただお一人。
だから三大聖人、二大聖人といっても
常に最初に挙げられ、
世界最高の偉人と仰がれています。

「正定聚」とは、仏覚の一段下、
五十一段の位をいわれるのです。

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(等覚=正定聚)

有名な達磨大師は、インドで生まれ、
仏教を伝えようと中国に渡り、
120歳まで生きたと言われます。
達磨には手足がありません。
壁に向かって9年間、座禅を組み、
手足が腐るほどに修行したからです。

その目は、ものすごい形相でにらみつけていますが、
恐ろしい感じがしないのは、
厳しい修行にあきらめようとする自分の心を、
にらみつけている目だからです。
その達磨でも、開いたさとりは
30段ほどであったといわれますから、
仏のさとりまでは遠く及びません。

また、中国で天台宗を開いた、
天台という人がいます。
親鸞聖人が
「天台ほど頭のいい者は聞いたことがない」
と言われるほどの人物ですが、
臨終に、弟子から「師匠は何段までさとられましたか」
と聞かれて、
「五品弟子位(九段目)までしかさとれなかった」
と告白しています。


ところが親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
本願の名号には、いつ一日、
仏道修行したこともない私たちを、
この世で五十一段高とびさせ、
正定聚の身にする働きがあるのだよ

と、朝晩『正信偈』に、
驚くべきことを言われているのです。

●名号に救い摂られた
      聖人の叫び

その名号の働きによって救われた、
自身の喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の初めに、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
「無量寿如来に親鸞、帰命いたしました。
不可思議光に親鸞、南無いたしました」
と叫んでおられます。

「無量寿如来」「不可思議光」とは、
ともに本師本仏の阿弥陀如来のこと。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、意味はいずれも、
「救われた、助けられた」ということ。
「正定聚の身に救われた」ことです。
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ」
「阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と二度と繰り返されているのは、
何度でも叫びたい、命懸けても伝えずにおれない、
本当の幸福の厳存を、宣言しておられるのです。


●絶対に壊れない幸福

私たちが求めている幸福は、お金が欲しい、
いい人と結婚したい、立派な邸宅に住みたい、
といったことでしょう。
確かに一時満足できますが、
何かしらが忍び寄り、幸せは色あせ、
いつの間にか消えてしまいます。
また、ふとしたことで壊れてしまう
不安がつきまとっています。

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心底、私たちが求めているのは、
絶対崩れない幸福ではないでしょうか。
その絶対の幸福にしてみせる、
と誓われているのが、
「阿弥陀如来の本願」なのです。

「本願」とは、誓願であり、約束のこと。
阿弥陀仏は、無常の幸福しか知らず、
いつもガラスの不安におびえている私たちを、
絶対に壊れない幸福(正定聚)の身にしてみせる、
と誓われている。


だから、その誓いを果たすために作られた名号には、
すべての人を正定聚にする働きがあるのだ”

と言われているのが、
「本願の名号は正定の業なり」
というお言葉です。

正定聚のことを「正定聚不退転」ともいわれます。
「不退転」とは、壊れない、崩れないこと。
弥陀に救い摂られた満足は、
絶対不変ですから、「正定聚不退転」といわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」というのです。

その絶対の幸福に、南無阿弥陀仏の名号によって
救われたのだと、聖人は最初に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
ご自身のことを表明し、早く多くの人に、
こんな幸福のあることを伝えねばならぬ、
と筆を執られたのが『正信偈』百二十行なのです。

「南無阿弥陀仏」の名号を、
弥陀から賜るのは「一念」です。

親鸞聖人が「時剋の極促」
と言われるこの「一念」は、
アッという間もない、時間の際まりのこと。
これ以上短い時間はない、
という一念の早技で正定聚の身になれます。


蓮如上人はこれを有名な「聖人一流」の御文章に、
「一念発起・入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)」
平生の一念で南無阿弥陀仏を賜って、
正定聚になるのだ

と言われています。
しかも、寿命尽きれば直ちに浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開くことができる。
「南無阿弥陀仏」には、
そんな偉大なお力があるのです。

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●「われ一人、助けん」

こんな素晴らしい名号を作ることができるのは、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀仏だけです。

蓮如上人は、『御文章』にこう仰っています。

それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫んあり。
しかればここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して

大宇宙にまします仏さまは、皆お慈悲な方々ですから、
苦しみ悩んでいる私たちをご覧になられて、
何とか助けようとしてくだされた。
ところが、我々の罪があまりにも重く
助けることができなかった。

私たちは、諸仏に捨てられたのだと、蓮如上人は、
「諸仏の悲願に洩れて」
と言われています。

そこで、すべての仏に見放された罪深い私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏だけが、
「ならば私が助けよう」と立ち上がってくだされた
ことを、
「弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という
超世の大願を発して」
と言われているのです。

しかも阿弥陀仏は、本願の中に、こう誓われています。
「若不生者 不取正覚」
“もし生まれずば、正覚を取らじ”
「正覚」は仏のさとりのことで、
仏さまの命ですから、
「もし生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
というお言葉です。


例えて言うと、ある女性が、具合がおかしいので
医者に行くと、「間違いなくおめでたです。
ただ、大変な逆子。うちではどうにもなりませんので、
日本一の産婦人科医を紹介します」
大病院に行くと、「色々な子供を取り上げてきましたが、
こんな逆子は初めて。
アメリカに、世界一の医師がいます。
そこへ行くしかありません」
そう言われて、世界一の医者を求めて渡米した。
診察した医師は、やはり、
「今まで見たことない逆子ですね」と言う。
「でも大丈夫。私は一度も失敗したことはない。
必ず無事生まれさせてみせます」
それでも女性は心配そう。
その不安を晴らすために医師が、
奥さん、任せてください。
もし満足に生まれさせることができなければ、
私は医師の資格を捨てる。
医者の命を懸けて、必ず生まれさせてみせます」
と誓われたようなものです。

自覚していませんが、実は私たちは、
腹底に大変な逆子を抱えている。
その名前を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病
と『御文章』に何回も書かれています。

私たちが本当の幸福になれないのは、
この「無明業障の恐ろしき病」
にかかっているからなのです。

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なぜ有無同然なの?

お釈迦さまは「有無同然」と説かれました。
「有っても無くても、苦しんでいるのは同じ」
ということです。
幸福求めて生きているのに、
山積みの札束も、豪邸暮らしも、
理想の結婚も、心を満たしてはくれません。
無いよりは有ったほうがましだろうと
努力して手に入れても、
心の奥底から、それで本当に幸せか、と問われると、
まあこんなもんだよ、とやり過ごし、
ただ時が過ぎていく。

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見せかけの快楽に、だまし、だまされ、生きています。
合格、就職、出産、栄転、胴上げされて喜んだのも、
ああ、あれは夏の夜の花火・・・。
科学が進歩し、経済が繁栄し、医学の発展で長生きできれば、
幸福になれると思っているのも、幻想です。
あらゆる面で進歩したはずの今日も、
凄惨なニュースがあふれている。
心をなくした文明がどんなに発展しても、
有無同然の苦しみの現実は、変わりありません。

苦しみの元凶は、無明業障の恐ろしき病という
心の病だからです。
ところが、この病にかかっていながら、
そんな自覚は誰もありません。
よくよく仏法を聞かなければ、知らされない、
心の奥底の病なのです。

無明の闇・・・死後に暗い心

無明業障の「無明」とは、明かりがない、暗い心。
この心が問題なのです。

私たちは必ず死んでいかねばなりません。
嫌だ嫌だと言いながら、
死は何人(なにびと)も避けられません。
死ねばどうなるのか。
「何もなくなるよ」と言う人がいますが、
自分の子供や親が死んでも、そう思えるでしょうか。
冥福を祈る。
冥福とは、「冥土の幸福」ということで、、
冥土とは死んだ後の世界です。
死後があると思うから、
その幸福を祈るのでしょう。
しかも、幸福になっているのなら、
冥福を祈る必要もない。
どうも苦しんでいるのでは、と感ずるからこそ、
冥福を祈らずにおれないのです。
各地で慰霊をする。
慰めるべき霊がなければ、
慰霊の意味がないのですから、
死後も続く何かがあり、しかも慰めなければならない
状態だと思えばこその儀式です。
冥福を祈るのも、慰霊するのも、
死んだ人が私たちより苦しんでいるという
心情からではないでしょうか。

みな老後を心配して、年金問題に大騒ぎ。
しかし、老後で人生終わりじゃない。
一休が「世の中の、娘が嫁と花咲いて、
嬶としぼんで婆と散りゆく」
と言うように、おばあちゃん、では終わらない。
「散りゆく」先の死んだ後はどうなっているのか。
分からないではありませんか。
だから、心は真っ暗がり。
この後生暗い心を、仏教では「無明」とか、
「無明の闇」といわれているのです。

人は皆、この心をごまかしながら生きています。
それはちょうど、目をつぶったまま走っているようなもの。
目隠しして突っ走っている、といってもいいでしょう。

やがて、壁にドーンとぶつかります。
確実な未来がハッキリしない人生に、
本当の安らぎも喜びもありませんから、
これを「無明業障の恐ろしき病」にかかっている、
といわれているのです。

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●弥陀の崇高な願い

「南無阿弥陀仏」の名号には、
この無明業障の病を治す働きがあります。

いわば、難病を完治する薬が、
六字の名号といえましょう。
親鸞聖人は、それを次のように教えられています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたもう

「無碍光如来の名号」とは、
「阿弥陀如来のつくられた、南無阿弥陀仏の名号」
のことです。
「かの光明智相」とは、
「名号を、私たちに受け取らせようとする弥陀のお力」
をいいます。
「南無阿弥陀仏」の名号を命がけで完成された阿弥陀仏は、
それを私たちに与えようと、
命を懸けられておられるのです。

ところが私たちは、無明業障の病にかかっている
自覚すらありませんから、
薬を飲もうともしません。
名号を受け取る気がない、ということは、
仏法を聞く気がないということです。

仏法を聞いている人は、
なんとか名号を与えたいという阿弥陀仏のご念力によって、
引っ張り出されたのです。

言われてみればそうかなあと感じる人もあるでしょう。
その弥陀のお力を「かの光明智相」と言われているのです。

次に「無明」とは、無明業障のこと。
これは蓮如上人が「無始よりこのかた」の病と
言われているように、始まりのない始まり、
人間に生まれる前からの病ですから、
「長夜の闇」と言われています。
その「無明長夜の闇を破し」
とは、無明業障の恐ろしき病を治す、
ということです。
「南無阿弥陀仏」の妙薬で、この心の病気が全快した時、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
の生命の大歓喜がおきる。
無始より続く迷いの根元が断ち切られ、
この身になるための人生だったと、
大安心の明るい心になるのです。

「衆生の志願をみてたまう」
「衆生」とは、私たちのこと。
「志願」とは、望み、願い、希望のことです。
“ならば「衆生の志願」とは、「私たちの願い」のことで、
それを満たしてくださるのか”
と思われるかもしれませんが、違います。


私たちの願いは、食いたい、楽がしたい、眠りたい。
これ以外にありません。
弥陀は、そんな程度の願いを満たす、
と誓われているのではないのです。
果てしない過去からの「無明業障の恐ろしき病」
を一念で完治させ、未来永遠の幸福にしてみせる。
その弥陀の崇高な願いを、
私たちの衆生の上に、満たしてくだされるのだ、
と親鸞聖人はおっしゃっているのです。

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●親鸞聖人の
    「報恩講」とは

「報恩講」とは、11月28日の聖人のご命日を縁に、
「親鸞聖人のご恩に報いる集まり」
聖人に喜んでいただいてこそ、
まことの報恩です。
では私たちがどうすることが、
最も喜ばれるこのなのでしょうか。

それは、聖人が身を粉に骨を砕いても、
伝えずにおれなかったことを正しく知り、
そのとおりの身になる以外ありません。

一日も早く、「南無阿弥陀仏」の大功徳を獲得し、
いつ命尽きても
弥陀の浄土間違いなしの大満足の人生を、
心行くまで味わってください。

(平成19年10月号のとどろきから載せています。)


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阿弥陀仏に救われるとどれほどの喜びか! [南無阿弥陀仏]

 阿弥陀仏が作られた「南無阿弥陀仏」は
我々に受け取らせるために
大変なご修行をなされて完成されたものです。
自分とは関係ないものと思って、読んでいませんか?
架空のものじゃないんですよ。
阿弥陀仏が、生きている我々すべての人に
受け取らせるために作られたものなのです。
聞く一つで救い、極楽に往生させ仏にしてみせると、
弥陀は命を懸けて誓っておられるのです。

(若不生者 不取正覚がそれに当たります。 弥陀の第十八願)
我々はそれを信じることができず、
「南無阿弥陀仏」を受け取らずに
死んで、大苦悩の世界に堕ち、
昿劫の間、流転してきたのです。
今回は、その「南無阿弥陀仏」を受け取ると
どれほどの喜びなのか、
真実の仏法を説かれている先生の実際の体験より、
例えで教えてくださっています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(ここからは真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

『正信偈』冒頭に親鸞聖人は、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と、後生の一大事を解決され
絶対の幸福に救い摂られた大歓喜を、
叫び上げられています。

その喜びは余人の想像を絶するものがあります。
強いて例えれば、こうも言えるでしょうか。

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自分が死刑囚だとします。
宣告を受け独房に収監され、
執行日は今日か、明日かと
恐怖の日々を送っている私に、
「明日だ」と告げられる。
いよいよ13段の階段を上り、
黒い布を頭からかぶせられ、
首に縄をかけられて、
床が抜けようとしていた、まさにその時。
「その死刑待った!取りやめ!」
の一声で、執行を免れた。
それだけでなく、「その者に十億円を与えよ」
との命によって大金を受け取り、無罪放免、
自由の身になったとしたら、
その喜びはどれほどか。
「うれしいです」などという言葉では、
とても表すことができないでしょう。
何が何だか訳が分からず、
ただびっくり仰天するだけ、
に違いありません。
親鸞聖人が『正信偈』の始めに、
「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」
と叫んでおられる実体験は、
それどころではないのです。
100年や200年ぐらいではない永劫の苦患を逃れて、
100兆円や200兆円で買えない大宇宙の宝物を、
現在ただ今、丸もらいさせられた感激は、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くばかり。

「広大難思の慶心」
“広かったぞ!大きかったぞ!
想像を絶する驚天動地の慶びがあるぞ!”
と絶叫されて当然です。

かかる聖人の御心を知れば、弥陀の救いは決して、
「助かったのやら、助かっていないのやら、
分からん」
という曖昧模糊としたものでないことも、
お分かりになるでしょう。

「ではどうして親鸞、こんな身に
助けていただくことができたのか。
それは阿弥陀如来が大変なご苦労をなされて、
素晴らしいご本願を建ててくだされたからであったのだ

と感涙されているのが、次に、

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す。)
重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞こえん」と。)

と続くお言葉です。
その中、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
と仰っているのは、
「無上殊勝の願」の「無上」とは、「この上がない」こと。
大宇宙に恒沙の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀如来しかできない、
殊に勝れた約束ですから「無上殊勝の願」と称讃され、

「希有の大弘誓」とは、
「大宇宙に2つと無い、
すべての人と誓われた素晴らしいお約束」
ということ。
いずれも「弥陀の本願」のことです。
「弥陀が五劫の思惟をせられ、
“平生に、絶対の幸福に救い切る”
と、とてつもない願を発してくだされたなればこそ親鸞、
今、救い摂られることができたのだ」

と絶賛され、
「どうか早く皆さんも、弥陀のご本願、
聞き開いてくれよ、その他に助かる道は、
断じてないのだからね」
と、決死の聞法を勧めておられるのです。

●阿弥陀如来のお力

では、かかる「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
を建立された阿弥陀如来のお力とは、
一体どのようなものであるのか。
それを教えられたのが、次のお言葉です。

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

これはお釈迦さまが『大無量寿経』というお経に
説かれていることを、親鸞聖人が『正信偈』にそのまま
記されているところです。

「普放」とは、「普く放っておられる」ということ。
「阿弥陀如来は、
○無量光
○無辺光
○無碍光
○無対光
○光炎王光
○清浄光
○歓喜光
○智慧光
○不断光
○難思光
○無称光
○超日月光
これら十二の光を放ち、
塵刹(大宇宙に無数にある地球のような世界)
を照らして、一切の群生(すべてのひと)を
救ってくだされるのだよ」
と仰っているのです。

「光」とは、仏教で仏さまのお力を表されます。
世間でも、「親の七光り」という言葉があるように、
「力」を「光」と表現されることがありますね。
子にさほど力がなくても、
親の力によって、社長になったり議員になったり、
タレントになったりするのを見ると、
「あれは親の七光りだ」などと言うでしょう。
親の体から七つの光が出ているわけではありません。
「力」を「光」と表すのです。

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お釈迦さまが、本師本仏の阿弥陀如来のお力を、
先に列記したように十二に分けて教えられているのが、
「十二光」です。

次回から、詳しく解説していきましょう。


南無阿弥陀仏を頂くとは、どういうことか!? [南無阿弥陀仏]

阿弥陀仏が作られた「南無阿弥陀仏」は
我々に受け取らせるために
大変なご修行をなされて完成されたものです。
自分とは関係ないものと思って、読んでいませんか?
架空のものじゃないんですよ。
阿弥陀仏が、生きている我々すべての人に
受け取らせるために作られたものなのです。
 
聞く一つで救い、極楽に往生させ仏にしてみせると、
弥陀は命を懸けて誓っておられるのです。
それを信じず、
「南無阿弥陀仏」を受け取らずに
死んで、大苦悩の世界に堕ちていく人ばかりだから、
阿弥陀仏は悲しんでおられるのです。
(このブログは皆さんをおちょくっているのではないのですよ。
お釈迦さまは、我々を本当の幸福に導きたくて、
地球にお出ましになられたのです。
この大宇宙には、ガンジス川の砂の数ほどの諸仏方がおられ、
その諸仏方も皆、無数にある人間の存在する星々に現れ、
全ての人類を救うために、弥陀の本願一つを説いていると
阿弥陀経で教えてくださっているのです。
あと、仏さまにはウソはありません。人間界だけにしかウソはないのです。
天上界、畜生界にもウソはありません。
お釈迦さまは、弥陀の本願だけを説きたかったのですが、
皆さんと同じように、人類はみな、そんなものあるわけないと疑い、
信じないから
、まずは罪悪深重であることを分からせて、
弥陀に救われるための下準備が必要だったのです。
いろいろな善を説き、実際にやらせて、善ができないことを身をもって知らせるために、
いろいろなお経を説かれ、膨大な量になったのです。
そのことからも、弥陀の本願一つを説きに来られたのが分かるのではないでしょうか。

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(真実の仏教を我々に叫んでくださっている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
          (親鸞聖人・教行信証行巻)

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか

今回も、この親鸞聖人のお言葉について
お話いたしましょう。

●最高無上の宝とは?

「大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば」
とは、
「阿弥陀仏の大慈悲の願いによって
つくられた大きな船に
乗せていただいたならば、
明るく楽しい広い海に浮かぶ」
と親鸞聖人は言われています。

では、光明の広海に浮かんだ人生とは、
いかなるものか。
親鸞聖人は、「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず」
と教えてくださいます。
今回は、その
「至徳の風しずかに」
についてお話いたします。
まず、「至徳」とは、「至上の功徳」を
略したお言葉です。
「至上」とは「無上」、「功徳」とは「宝」ですから、
「至徳」とは、「無上の宝」という意味です。


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ここでいわれる「宝」とは何のことでしょうか?
世に「宝」といわれるものは色々ありますが、
その値を、お金の例で考えてみたいと思います。
最近発表された、長者番付の世界一は、
メキシコの通信王、カルロス・スリム・ヘル氏の
5兆6千億円でした。
「兆」とか「億」といわれても
なかなかピンときませんから、
細かい単位に分けて考えてみましょう。
もし、毎日100万円使ったとしたら
5兆6千億円を全部使いきるのに
どれくらいかかると思いますか?
答えは、「約15000年」。
毎日一億円使ったとしても、
約150年かかります。
まさに、「死ぬまで使い切れないお金」です。
これは、一年当たり、約1060億円の収入を
得た計算になり、
一日当たりだと約3億円!
5兆6千億円とは、それほどの大金です。
毎日、3億円が手に入れば、
「宝のような日々」で、
ほとんどの人が「これ以上すごいものはない」
と思われるのではないでしょうか。

●知恵がなければ、ネコに小判、ブタに真珠

しかし親鸞聖人は、
最高無上の宝は、南無阿弥陀仏なり
と言われています。
こう聞きますと、
「南無阿弥陀仏が最高の宝?
5兆円どころか、一万円札よりもありがたいとは
思えんが・・・」
という人も少なくないでしょう。

「南無阿弥陀仏」といっても、
ただの文字としか思えない人ばかりだからです。

そのことをお見抜きの蓮如上人は、
こう教えてくださいます。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

          (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、「『南・無・阿・弥・陀・仏』
と、たった六字しかないから、
そんなに功徳や、効能があるとは思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより
長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六文字だけでは心もとなく
思えてしまう。
そんな迷いの心境を蓮如上人はお見通しで、
こう続けておられます。
だが、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
最高無上で甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、
底を見れば深さが知れない。
六字の功徳は広くて大きく
天の極まりないようなものだ

言葉を尽くされての大絶賛です。

この偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
ネコに小判、ブタに真珠で、
私たちには、値を知る知恵がないからです。

正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の宝が全て収まっている
「南無阿弥陀仏」なのだと明らかなのです。

ですから、
お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何億年かかっても説き尽くせない」
と言われ、

親鸞聖人は、『正信偈』に
「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海」(大きな宝の海)
と言われているのです。

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●「南無阿弥陀仏」は、どんな宝?

では、「南無阿弥陀仏」には、どんな功徳があるのでしょう。
親鸞聖人は『正信偈』に
「名号正定業(名号は正定の業なり)」
と教えられています。
「名号」とは本師本仏の阿弥陀仏が創られた
「南無阿弥陀仏」のこと。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば、「絶対の幸福」。
「業」とは「働き」という意味ですから、
ここで、親鸞聖人は、
「『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだ

と言われているのです。

今、「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」
と言いましたが、詳しく述べましょう。
「正定聚」とは、さとりの位をいいます。
仏教では、「さとり」といっても、
低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど相撲取りにも、
下は褌担ぎ(ふんどしかつぎ)から
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、
最高の位を「仏覚(仏のさとり)」といわれます。
これ以上のさとりはないので、
「無上覚」ともいわれます。
さとりが一段違えば、人間と虫けらより違うと
いわれますから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、

死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
今日まで、この仏覚を開かれた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にありません。

これを、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

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中国で天台宗を開いた天台(智顗・ちぎ)も、
「五品弟子位(ごぼんでしい・十段よりも下の位)
までしかさとれなかった」
と臨終に告白していますし、
壁に向かって九年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行した禅宗の開祖・達磨大師でも、
三十段そこそこであったといわれます。

仏のさとりを開くことが、
いかに大変なことかが分かります。

「正定聚」とは、いつ死んでも間違いなく(正しく・まさしく)
仏になれると定まった人たち(聚・じゅ)のことであり、
五十一段に相当する位をいうのです。

「正定聚不退転」とも言われ、
「不退転」とは、崩れない、壊れない、
という意味ですから、まさに「絶対の幸福」
といえましょう。

それは、“必ず浄土へ往って仏になれる”
大満足の身となり、
「人間に生まれてよかった」
という生命の大歓喜を獲るからです。

「名号は正定の業なり」とは、
「『南無阿弥陀仏』の六字には、
私たちを『正定聚不退転』の幸福に
救い摂る働きがある」

親鸞聖人が、これ以上尊い宝はないのだよと
仰っておられるお言葉なのです。

●至徳具足の幸せ

しかも、親鸞聖人は、阿弥陀仏から
「南無阿弥陀仏」を丸もらいすると
「至徳具足の益」に生かされる、と教えられます。

「具足」とは、「一体」のこと。
「一体」とは、ちょうど炭全体が
真っ赤な火になったようなものです。
炭のままが火、火のままが炭となって、
どこまでが火か炭か、区別できません。
分けようにも分けられなくなったのが
「一体」です。

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サンドイッチならば、パンと、ハムとサラダなどが
分けられますから、一体とはいわれません。
これは「合体」です。
水と油を混ぜても一体にはなりません。
大悲の願船に乗せていただくと、
大宇宙最高の宝である「南無阿弥陀仏」
と私が一体になります。

この幸せを「至徳具足の益」といいます。
金や財、名誉や地位などは、
苦労して手に入れても、
思わぬ天災、人災で一瞬にして消え失せる。
どんな豪邸のマイホームも、
マッチ1本で灰になる。
形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、
やがて消えてしまいます。
たとえ毎日3億円が手にはいるようになったとしても、
失う不安が常に付きまとい、
死ぬ時には、一円も持ってはいけません。
これらの宝では、私たちは本当の安心や満足を
得ることはできないのです。

「南無阿弥陀仏」と一体になられた親鸞聖人は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
いつも満ちている無上の幸福に生かされた。
「不可称・不可説・不可思議の
功徳は親鸞の、身にみてり」
と、誇り高くうたいあげていられます。

今日が満足、ただいまが幸せ、
鳥のさえずる声は、天然の音楽であり、
四季の花の美しさは、この世の極楽の荘厳です。
真実の仏法を知らされれば、
世の財産家を羨む必要は、少しもない。
最後に笑うのは、極善無上の宝と一体となった
心の長者にほかなりません。

「至徳の風しずか」。
無上の幸せの風が静かにそよいでいるとは、
なんと素晴らしいお言葉でしょうか。
「聞く一つ」でどんな人もなれますから、
真剣に、聞法精進いたしましょう。


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