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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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親鸞聖人の教えと先祖のたたり [Q&Aシリーズ]

(質問)

世間では何か不幸や災難がおきると、
それは先祖のたたりだとか、
先祖の供養をしないからだとか言う人がありますが、
本当でしょうか。
親鸞聖人は、どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
不幸や災難を先祖のたたりだとか、
供養をしないからだとかいうのは、
全くばかげた外道の迷信です。

この世の一切のことは、
因縁果の法則で運行されているのが実相ですから、
不幸や災難に遭うのも、その人その人の、
過去に蒔いた業因によって招いた結果にほかならぬと、
釈尊は教えておられます。
無論、親鸞聖人も、全く同じように教導されています。
まかぬタネは、絶対にはえないのです。

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自分に現れた結果は、すべて自分のまいたタネからなのです。
自因自果に、絶対、狂いはありません。
だから逆境に遭えば、過去にまいた恐ろしい悪業を知らされて
懺悔し、二度と再び、そんな悪因をまかぬように努力し、
順境に恵まれれば、どんな悪果を受けても当然な私なのに、
こんなに恵まれるのは、如来聖人のご加護と感謝して生きるのが、
正法(仏法)を信ずる者の生活態度です。

●本当の先祖供養とは?

次に、先祖の供養についてのことですが、
古来、人情の美風でもあり仏教でも大切なことだと
説かれていますが、
本当の先祖の供養の仕方を知らないために、
多くの迷信の温床になっているのは甚だ悲しい実状です。

立派な墓を造ったり、盛大な葬儀や法事を勤めたりすることが、
なによりの先祖の供養だと思っている人の、
いかに多いことでしょう。
しかし、私たちが本気で先祖の供養をしようとする時は、
今までの習慣にとらわれず、
まず考えなばならないことは、
先祖の喜ぶことは何かということです。
先祖の供養の仕方はそれによって決まるのです。

なぜなら、先祖の心に反する言動に、
いくら大金を投じ、いかに苦労をしても、
先祖の供養にはならないからです。
最も先祖が、私たちに望んでいることを知ろうとすれば、
亡き先祖に聞かなくても、私たちが、
子供や子孫に一番、何を願っているかを
考えれば明らかなことです。
それは、正しく生きよ、幸福になれよ、
ということに違いはないでしょう。

されば、私たちの先祖も、私たちが、
正しく幸福に生きることを最も喜ぶに違いありません。

ならば、私たちが真実の仏法を求め、
弥陀より金剛の信心を獲得して絶対の幸福になり、
たくましく生きることこそが、
先祖の最も喜ぶ最高の供養となるのです。

「ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、
神通方便をもってままず有縁を度すべきなり」
           (歎異抄第五章)
(はやく、弥陀の本願を計ろう自力の心を捨てて、
浄土で仏のさとりを開けば、六道・四生の迷いの世界で、
どんな苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力で、縁の深い人々から救うことができよう)

この親鸞聖人のお言葉は、私たちの先祖に対する
真の追善供養のあり方をお示しになっていることを
知らなければなりません。


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仏教でいわれる5つの不思議とは!? [Q&Aシリーズ]

(弥陀に救われ、真実の仏法を叫んでおられる先生の書かれた
「とどどろき」より載せています。)

●仏教に5つの不思議が説かれていると聞きましたが、
どこにどんなことが不思議と説かれているでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5つの不思議は、特に弥陀の本願力不思議をたたえて
龍樹菩薩が説かれたもの。

「衆生多少不可思議」

多くの生き物が生まれ続いて尽きない不思議をいったもの。
少は意味のない助字。

「業力不可思議」

善悪の業力によって、引き起こされる果報に、
寸分の狂いもないことの不思議。

「龍力不可思議」

気象の変化の不思議なこと。

「禅定力不可思議」

聖者が修行によって永い寿命を保ったり、
現す神通の不思議をいったもの。

「仏法力不可思議」

これこそ弥陀願力の不思議で、
道理理屈を離れた摩訶不思議の境地は、
仰げばいよいよ高く広く、
虚空のごとく、心は十方世界に遍満する。

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●親鸞聖人が懐かしい

絶対の悪が絶対の善に救済されてみれば、
生死の苦海のままが光明の広海と転じます。
「不可称・不可説・不可思議の信楽」と、
叫ばれた親鸞聖人が懐かしい。
富も地位も、名誉も権勢も、しばしの間の装飾です。
払い落とせば自性の妄念しかありません。
悪に向かえば光る目も、善に向かえば眠ってしまう。
世間話は夜を徹するが、仏法の話はイヤになる。
夢の世といいながら、執着は微塵も離れず、
ツユの命と知りながら、真剣に報謝する気もない。

三悪道はい出しのやつは、
極楽を嫌って地獄を慕っています。

●底なしの慈悲

正定聚不退の現在も、蛇蠍かん詐、
我執我慢、放逸無慚の曲者で、
どこどこまでも地獄一定すみかぞかし。
こんなやつを大好きだとは、弥陀の慈悲には底がない。
堕つる私が弥陀の正客、聖者そこのけ善人後回し。
うれしい思いを頼りにもせず、悲しい心が心配にもならぬ。
称えた念仏を当てにもせず、忘れた失敗が障りにもならぬ。
信に信功なく、行に行功なし。
仏前で称えた念仏も、トイレで称えた念仏も、
無碍の世界に上下なく、円満である。
カラの念仏は、なお有り難い。
忘れがちの称名を、常念仏の行者とは、
身の置きどころもなく恥ずかしい。
泣いている。苦しいからではない。悲しいからでもない。
悪鬼羅刹が恵まれて、生かされるご恩に感じて泣くのが不思議。
楽して楽知らず、恩を恩と感じない逆謗の屍が、
横超の直道を猛進する時、善も欲しからず悪を恐れず、
苦しても苦知らずとは、不思議の中の不思議です。
まことに業海深きがゆえに願海深し。
われらの業海に名利の大山を映すがごとく、
弥陀の大願海に浄土の荘厳を映す。
月は降らずして水に浮かび、水は昇らずして月を宿す。
月は月にして水に宿り、水は水にして月を宿す。
求めたのやら求められたのやら、捨てたのやら捨てられたのやら、
取ったのやら取られたのやら、
信じたのやら信じられたのやら、
あるといえばある、ないといえばない。
何ともないが何とかある。
何とかあるが何ともない。

「餓鬼は、水を火と見候が、あわれに候。
自力執心の人が他力を知らぬが、悲しく候」
         (法然上人)
同じ事件の当事者でも、悲しむ者と踊る者、怒る人、泣く人、
喜ぶ人、立場によって見方が変わる。
世間は無料の人生劇場です。

他力不思議の世界へ出さえすれば、
「渋柿の シブこそよけれ
 そのままに かわらで変わる 味の甘さよ」
と逆境に微笑し、涙の中に輝く世界が拝めるのです。
「いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり」
      (高僧和讃)
親鸞聖人の驚嘆です。

「仏が仏にお成りになるのが何が不思議ぞ。
極悪人が弥陀タノム一念にて、無碍の一道に生かされ、
仏に成ることこそ不思議というものだ」
不可思議の仏智に生かされたうれしさには、
法雷の下、法剣をかざし、法鼓をたたいて武士の戦場に臨むがごとく、
真実開顕に、獅子吼せずにはおれないのです。

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親鸞聖人は、人間は死んだらどうなると教えているのか!? [Q&Aシリーズ]

今回の記事でも分かるように、
人間死ねば何もなくなると気軽に考えて、
生きているうちに死に対する準備を何もしなかったら、
大変なことになるとお釈迦さまは教えられているのですよ。
人間界はあっという間に終わりますが、
死後堕つる苦しみの世界は永遠に続くのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(問)
  親鸞聖人は
    人間死んだら、どうなると
       教えられているか

私は人間の生命活動は、全て物質現象だと思っています。
心も脳が生み出したものであり、
物質以外に「精神」や「魂」があるとは信じられません。
だから死後はないと思いますが、
親鸞聖人はどう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
あなたのような考えは、古代からあったもので、
決して珍しいものではありません。
人間の脳は、一千億以上のニューロン(神経細胞)が、
網の目状に結合して複雑なネットワークを形成しています。
唯物論者は心といっても、
この複雑なニューロンの働きにすぎないと主張します。

それに対して、ニューロンの研究で1963年に
ノーベル生理学・医学賞を受賞したエックルスは、
精神世界のすべてをニューロン活動のパタンにより
究極的に説明できる」と唱える唯物論は、
「迷信の部類」に入ると詳細に批判しています
(『脳の進化』)。
そして私たちの心は、肉体が滅びた後も残る
非物質的な不滅の存在だと主張しています。

また、世界的に著名な脳外科医ペンフィールドは、
患者の露出された脳に直接、電気刺激を与えて
何を感じたかを聞くという、特異な実験を繰り返し
二十世紀の脳研究に画期的な成果を残しました。

覆された唯物論

彼ほど生きた脳に触った人はいないといわれたペンフィールドは、
生涯、「心」は全てニューロンの働きで説明できるという
「唯物論」の立場で研究を続けてきました。
しかし最後に彼は、脳と心は別だと考えるほうが、
合理的だという結論に達しています。

脳の神経作用によって心を説明するのは、
絶対に不可能だと私には思える。(中略)
私は、長い研究生活を通じて、
なんとかして心を脳で説明しようと試みてきた。
そして今、これまでに得られた証拠を最終的に検討しているうちに、
人間は2つの基本要素から成るという説の方が
合理的だと考えられることを発見して、
驚異の念に打たれているのである
」(『脳と心の正体』)

ペンフィールドは、私たちの心は、
ちょうど古くなった車を乗り換えるように、
数え切れないほどの「脳」を乗り換えてきたのだろうと、
こう想像しています。
「心は脳にある特定の仕組みの働きと結びついている。
そして、数え切れないほどの世代にわたって、
心はどの人間でもこのように脳と結びついてきたのであり、
心の性格はある世代から次の世代へと
連綿と受け継がれていくことを示す有力な証拠がある」

私の奥にひそむ私

脳の研究に生涯を懸けた第一級の科学者が、
脳だけで心は説明できないと言っています。

世間では、人間の行動を大脳の働きのみに帰結して、
物事を割り切って考える人がありますが、
そんな人は五体が健全で、各器官の働きが正常で単調なために、
その裏側にある自意識を超えた働きを、
のぞきみるチャンスがないからです。
器官の働きを支える背景にまで、
思いが回らないのです。
今日の心理学でいう深層心理より、
もっと深い奥に潜む「本当の私」が分からないからです。
もし人間が、自意識の統制できる範囲のなかでのみ
生きていると思っていられるとしたら、
それは余りにも無知といわなければなりません。
もっと深く生命の実相を学び凝視してください。

私の未来を教える仏法

私たちの肉体は80年か100年の「借り物」ですが、
「真の私」は肉体が滅びた後も、
永遠に続くと仏法では教えられています。

“人間死んだら、どうなるか”
親鸞聖人の答えは、弥陀の救いに値わねば永く苦患に沈みますが、
平生、弥陀に救われれば、必ず、
無量光明土に生まれると常に明快に教えられています。

(無量光明土とは、弥陀の浄土)


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そもそも仏教って何ですか? [Q&Aシリーズ]

仏教とはそもそも何ですか?

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①仏教とは仏の説かれた教え

仏教とは、仏の教えと書くように
「仏さまが説かれた教え」をいいます。
では、この仏とは、どなたのことでしょうか。
世間では、「死ねば皆、仏」だと思い、
亡くなった人のことを「仏さま」と呼んでいますが、
もし仏=死人なら、仏教は、「死人が説いた教え」
になってしまいます。
死んだ人が、教えを説けるはずがありませんから、
これは大間違い、と分かりますね。
仏とは、
「仏のさとりを開かれた方」
をいうのです。

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②最高のさとりを仏覚という

一口にさとりといっても、低いさとりから高いさとりまで、
五十二の位があり、これを
「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから上は大関、
横綱までいろいろあるように、
さとりにも、ピンからキリまで全部で五十二の位があり、
それぞれ名前がついています。
その五十二のさとりの、最高の位を仏覚(仏のさとり)といい、
これ以上のさとりはありませんから無上覚ともいわれます。

さとりが一段違っても、
人間と虫けらほど境界(きょうがい)の差が
あるといわれますから、
五十二段の仏覚がいかに尊いものか、
分かるでしょう。

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③さとりとは何をさとるの?

さとりとは何をさとるのかといえば、
大宇宙の真理です。

真理といっても、数学的真理や科学的真理ではなく、
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
物は豊かになり、暮らしはずいぶん変わりましたが、
私たちは幸福になったでしょうか。
昔は大家族が多く、嫁と姑が人間関係の苦しみの代名詞でした。
今は核家族化が進みましたが、
職場や育児のストレスなどでやはり苦しんでいます。
平和な日本の空の下、イラク戦争より多くの人が毎日、
自殺しています。
これら苦しみの根本を解決し、
本当の幸せになれる道をさとられた方が、
仏さまです。

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④地球上でただ一人の仏さま

さとりを開くことを山登りに例えますと、
一合目より二合目、二合目より三合目と、
登れば登るほど見える景色は広がっていき、
最後、頂上まで登り詰めた時、
辺り一面を見渡すことができるように、
仏覚まで到達した方だけが、
大宇宙の真理すべてを体得できます。

今日まで、仏のさとりを開かれた方は、
この地球上ではお釈迦さましかおられません。

約2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳で仏のさとりを開かれてから
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれるのです。

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三願転入とはどんなことか [Q&Aシリーズ]

私のブログに何度も来られている方は、
もうそろそろ、本師本仏の阿弥陀仏のお約束が、
本当にあるのではないか、と思われた方がいいですよ。
いつまでも作り話のように読んでいたら、
臨終は恐怖ですよ。
お釈迦さまは、“因果応報なるが故に、来世なきにあらず”
と言われ、死んでもなくならないとハッキリ教えています。
後生(死後)があるのですよ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。

十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。


因果の道理は宇宙の真理、
善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。

知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。


二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。


そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。

また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。
法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。


十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようそこ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。


無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。

その体験を三願転入というのです。


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後生の一大事とは!? [Q&Aシリーズ]

(質問)後生の一大事とは、どんなことか

蓮如上人の『御文章』を拝読しますと、
後生の一大事といっても一つではないように
思われますが、
後生の一大事とは、どんなことなのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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(答え)
「後生の一大事」という意味から説明しましょう。
仏教では、来世を後生といいます。
誰しも、やがて死なねばなりませんが、
死ねば来世であり後生です。

死ねばどうなるか、“後生はどうなるか”は、
万人の大問題ですから、一大事といわれます。

その「後生の一大事」について、
阿弥陀仏の救いの前・後によって大きく分かれます。

往生浄土の一大事

弥陀に救われている人の「後生の一大事」は、
来世「弥陀の浄土に往き、仏に生まれる」という
一大事をいいます。

この後生の一大事が書かれている『御文章』のご文は、
次のようなものです。

他力の信心ということを詳しく知らずは、
今度の一大事の往生極楽は、
真に以てかなうべからずと、
経・釈ともに明らかに見えたり

         (『御文章』二帖)

今生で弥陀に救われねば、
来世に弥陀の浄土に生まれるという
一大事は成就できないが、
平生、弥陀に救われれば、
必ず、後生は極楽浄土に往生できると、
どの経典や経釈にも明らかに説かれている

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信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
諸共(もろとも)に今度の一大事の往生を、
よくよく遂ぐべきものなり

          (『御文章』一帖)
平生に弥陀に救われて、皆にも、
弥陀の不可思議の救いを伝えて、
ともに極楽浄土へ往き、
仏に生まれる一大事を成し遂げねばならない

これらのご文は、
今生で弥陀に救われた人の後生(来世)の
一大事を言われたものです。

阿弥陀仏を深くたのめ

もう一つは、弥陀に救われていない人の
「後生の一大事」を
『御文章』のご文で挙げますと、
次のようなものです。

後生という事は、ながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定(けつじょう)すべし

               (『帖外御文』)

後生の一大事とは、
未来、永く地獄に堕ちて苦しむことだから、
急いで一大事の解決を心にかけて、
阿弥陀仏の救いに値わねば(あわねば)ならない

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この「後生の一大事」について蓮如上人が、
切々と詳述されているのが有名な「白骨の章」といわれる
『御文章』です。

その最後に、こう慈誨(じかい)されています。
されば、人間のはかなき事は
老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」 (『御文章』五帖)


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仏法を聞くって大事なの? [Q&Aシリーズ]

1.仏法は何のために聞くの?

仏法と聞くと葬式や法事を思い浮かべ、
死んでから用事のあるものと思っている人が
多いようですが、それは誤解です。
仏法の目的は「抜苦与楽」。
生きている今、私たちの苦しみを抜き、
幸せを与えることにほかなりません。
人生は、苦しみの花咲く木といわれます。
借金、離婚、病苦、肉親との別れ・・・、
一つの悩みを解決してやれやれと思う間もなく、
別の苦しみがやってくる。
それら苦しみの元を断ち切り、
人間に生まれた本当の喜び、
満足を与えてくださるのが仏法です。

では、そんな幸せにどうすればなれるのでしょうか。

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2.正しい教えを聞くことが大切

本当の幸せになる道は、「聴聞よりほかにない」
と、お釈迦さまは説かれています。

聴聞とは「聞く」ことですが、
落語や漫才を聞くのではありません。
仏法を聞かせていただくことです。
親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。

昔は365日、朝昼晩と説法があった寺も少なくありません。
真宗の盛んな地域では、
「仏法聞けよ、仏法聞けよ」
と言われて育った人も多いでしょう。
もちろん、ただ聞けばよいのではありません。
正しい教えを正しく聞くことが大切です。

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3.どんな気持ちで聞けばよいか

また仏法は、居眠り半分、
あめ玉なめなめ聞ける教えではありません。

親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ

とおっしゃり、蓮如上人もまた、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
と、真剣な聞法を勧められています。

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4.命懸けで聞き聞きすると・・・

ある人が有名な布教使を訪ね、
「ご面倒ですが、後生の一大事、
一言お聞かせください」と言うと、
大喝一声、
後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。
自力の仏法者は、無量永劫、
修行しても解決できぬと泣いているのに、
一日や二日聞いて、助からぬという横着な心だから
信じられぬのじゃ。
変わったことを聞くのではない。
同じことを命懸けて聞き聞きすると、
聞こえてくださるのじゃ
」と答えたといいます。
このような聞法の大切さから、
弊社でも毎月、「聞法のつどい」を開催しています。

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闡提とは何か [Q&Aシリーズ]

(質問)真剣に仏法を求めていくと、
      見えてくる闡提の機とはどんなことか。

闡提(せんだい)とは梵語で、断善根(だんぜんこん)
の衆生のことで、無信と訳されています。
微塵ほどの善根のない者をいいます。
信順を因と為し、疑謗を縁と為し、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん

        (教行信証)
と親鸞聖人の仰せのように、
謗法(ほうぼう)の者はまだ多少とも助かる
縁手掛かりがありますが、
闡提だけは全く助かる見込みがありませんから

『涅槃経』には「死骸のごとし」と説かれています。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っておられる心です。

これは己の死を真面目に凝視して真剣に求道しなければ、
見えてこない心です。

(※謗法とは、仏法を謗ることです。)

ある所に、よく喧嘩をする菓子屋の夫婦がいました。
今日もささいなことで口争いとなり、
ついには亭主は女房を殺すと言い、
女房は殺すなら殺せ、と叫喚怒号となりました。
たまたまそこへ通りかかった寺の和尚が、
また始まったかと思って、
「どうしたんだ、あまり大きな声を出すと、
人が寄ってきて笑うじゃないか、ほれほれ、
あんなに多くの子供が見ているじゃないか、
やめなさい、やめなさい」
と仲裁に入りますが、亭主は頑として聞かない。

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「和尚さん、今日という今日は我慢ならねえ、
今日こそ、かかあをたたき殺してやる、
捨てておいてください」
女房も女房で、
「和尚さんほうっといてください。
さあ!殺せるものなら殺してみろ」
とかみつかんばかりに逆上している。
思案に暮れた和尚は、
「これほど止めても聴き入れぬなら仕方がない、
殺すと殺されると勝手にするがよからう」
と言って、店先の菓子をつかんで、
「さあよいか、おまえたちにこの菓子全部くれてやるから、
好きなほど持っていけ」
と子供たちに、どんどんばらまいた。
菓子屋の夫婦は驚いた。
「和尚さん、何をされる、そんなことされては、
私たち、明日から商売できんじゃないですか」
と和尚のところへ飛んできた。
「何!明日から商売、殺すとか殺されるとか言っていたのは、
おまえさんらではないか、今殺される人と、
殺して牢屋へ行く人じゃないか、してみれば、
おまえさんらに用事のない菓子じゃないか」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったそうですが、
私たちには感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。

見えてくる
    腹底の心

特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリと2つの心があることが分かってきます。
死に直面すれば、一切のものが総崩れになり
真っ暗な後生に泣かねばならないのではないかと、
上の心は焦っても、天王寺の鐘を
蚊が刺したほどにも思わぬ心が、
腹底に横たわっていることに気がつきます。

地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、
仏法に明日という日はないのだと切り込まれても
急ぎもしなければ慌てもしない、
仏法に向かったら金輪際動かぬ心が闡提の機というのです。

上辺の心は罪悪の恐ろしさに縮み上がって、
今死んだら大変だと後生の一大事にジリジリしていても、
下の心は悪を悪とも思わず、
業を業とも感ぜず、キョロン、トロン、ボーと
知らん顔しているのです。

あの人が死んだのかと驚いて
同情の涙は流しても、その心の底には、
自分はまだ死なない、まだ死なないと、
後生とも菩提とも思わず、
平気でせせら笑っている心が闡提です。

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因果の道理を整然と聞かせていただければ、
教えには何一つ欠点はありませんから、
頭は分かりすぎるほど合点承知しているのですが、
どうしても承知しない納得しないやつが、
腹底にドタ牛が寝ているようにビリッとも動きません。

一念で
   生き返る

打ってもたたいても浴びるほど聞かせていただいても、
うんともすんとも言わない心です。
素直に聴聞しようとすればするほどひねくれてくる心、
はしにも棒にもかからぬ心、
三世の諸仏があきれて逃げた心は
この心であったのかと泣かずにはおれない心です。

この死骸のような闡提の機が、
若不生者の念力に貫かれた一念で生き返り、
聞き切らんやつが聞かされ、
金輪際なれぬやつが成らされ、
「謗法闡提(ほうぼうせんだい) 
廻心皆往(えしんかいおう)」を体験される
から、
不可称不可説不可思議のご本願よと、
感泣せずにおれないのです。
(※若不生者の念力に貫かれるとは、阿弥陀仏に救われること)


タグ:闡提 謗法
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どんな気持ちで聴聞すればよいのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生のご著書「とどろき」より載せています。) 

(質問)どんな気持ちで聴聞すればよいのか

大変皆さんがお聞きになりたいことでありましょう。
釈尊出世本懐経である『大無量寿経』には、
大火有りて三千大千世界に充満せんに、
要(かなら)ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き・・・・

と教えられ、これを受けて親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり

蓮如上人は、
火の中を分けても法は聞くべきに、
雨風雪はもののかずかは

と、仏法は聴聞に極まるとおっしゃっておられます。
骨折ってきけ、衣食忘れてきけ、間断なくきけ
と教えた先徳もあります。

いずれもいずれも真剣な聴聞をお勧めになっているのは、
それだけ後生は一大事だからでありますが、

私たちは一匹の蚊ほどにも後生を一大事と思ってはいません。
一匹の蚊が攻撃してきても気になって眠れないのに、
後生が苦になって眠れなかったということがないのです。

他人の後生ではあるまいに、
なぜ、必ずぶち当たらねばならぬ己(おのれ)の一大事に、
こんなに鈍感で真剣に求めきらないのでしょうか。

その原因は2つあります。
まだまだ死なないと無常を遠くに眺めていることと、
地獄へ堕ちるような悪いことはやっていないと
己の罪悪に気がつかないからです。

無常と罪悪

道綽禅師は『安楽集』に次のような喩えを説いておられます。
たとえば、人有りて空昿(くうこう)の
はるかなる処に於て怨賊、
刀を抜き勇をふるいて直ちに来りて殺さんと欲するにあい、
此人ただちに走りみるに一河を度すべし。
未だ河に到らざるに即ちこの念を作さく。
我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
衣を著(つ)けて浮んとせんや、
若し衣脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
若し、衣をつけて浮かんには、また領全くし難きを畏る。
そのとき但一心に河を渡る方便をなすありて、
余の心想間雑(しんそうけんぞう)することなきが如し。
行者またしかり。
阿弥陀仏を念ずる時また彼人の渡るを念う(おもう)て
念々相次ぎ余の心想間雑することなきが如くせよ

後ろから剣を抜いて追いかけてくるとは無常の風の激しさを喩え、
前を見れば渦巻く怒涛で一歩も行かれない。
こんな人間が居眠りなんかしておれようか。
アメ玉なめていられようか。
この人の気持ちで仏法は聞かなければなりませんよ、
と教えられたものです。
衣を脱ごうとすれば帯が堅くて脱ぐことはできないとは、
にっちもさっちも動きのとれない罪悪に苦しんでいることを
喩えてあります。
そのまま飛び込めば溺れ死ぬことは明らかですから
地団駄踏まずにおれません。
このように無常と罪悪に責め立てられたものでなければ、
信心決定できないことを教えられたものです。
(※信心決定とは、弥陀に救われること)

世間の常識は習慣と経験とから生まれますが、
仏教ではこの習慣の中に常楽我浄(じょうらくがじょう)
の四つの迷いがあると指摘します。
(※常楽我浄の迷いとは、無常なのに常があると思っていること、
人生苦なのに楽だと思っていること、
無我なのに我があるとおもっていること、
不浄なのに清らかな心があると思っていること、
我々の心には真実のカケラもないため、正しく見ることができない。)
自己に後生の一大事如何と反省していくのは
「常に我あり」の常識を破っていくのです。
出る息は入る息を待たずと自己に問い詰めて、
一念一念恐怖のどん底をたたいて聴聞するのです。

心を凝視する

また、仏教は結果よりも原因をやかましくいいます。
於因説果(おいんせっか)といって、
原因の中に結果を論じます。
仏法を聞いても本を読んでも他人事として聞かず、
自己の上に照らして聞くことです。

そして、自分の心の動きに注意していくのです。
一日の中に何回も「ちぇっ」と不足に思う心が起きましょう。
その心の動きを凝視し、自分を掘り下げていくのです。

未来の結果は現在造りつつあるのですから、
この現在当体(とうたい)の一念に
後生の一大事如何と反省していくのです。

これを蓮如上人は、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」(白骨の章)
とおっしゃっていられるのです。


タグ:聴聞
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仏教の目的は何ですか? [Q&Aシリーズ]

(質問)仏教の目的は何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日、仏教と聞くと何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事で生き延びている葬式仏教、
おみくじやゴマをたいてゴ利益を振りまく祈祷仏教、
伽藍や大仏を売り物にする観光仏教・・・。
もちろんこれらは論外ですが
、中には、
仏教を道徳や倫理と兄弟のように考えて、
「仲良く生きていく方法を教えたもの」
と思っている人もあるでしょう。

だからケンカもせず、人の言うことは何でもハイハイと
聞く円満な人格者、角の取れた人間が
仏教信者だと信じています。
しかし、仏教はそんな修養の道具でもありません。
では、仏教を聞く目的は何でしょうか?
それは、後生の一大事の解決をするためです。

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(質問)後生の一大事とは何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・
蓮如上人は、『御文章(お文)』の至るところに、
「後生の一大事を思いとりて」とか、
「今度の一大事の後生」とおっしゃっています。
有名な「白骨の章」には、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」
とあります。
仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる教えです。

釈尊一代の教え、八万の法蔵といわれる一切経も、
この一大事を私たちにいかに知らせるか、
この一大事をいかに解決するかを
教えられた以外の何ものでもありません。

ですから、後生の一大事ということが分からなければ、
仏教は分からない。
これが仏教の出発点なのです。

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(質問)後生とはどんな意味ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後生とは、死後のことです。
後生と聞くと、カビの生えた古い言葉のように感じたり、
30年も50年も先のこと、
自分とは関係のないと思う人もありますが、
本当にそうでしょうか。
吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が、
もうその人の後生です。

だから、一息一息が取り返しのつかない価値を持ち、
吸う息、吐く息が後生と密着している。

こんな差し迫った現実問題はないのです。
「後の世と 聞けば遠きに似たれども 
知らずや今日も その日なるらん」(古歌)
のとおりです。

されば、蓮如上人は、
「仏法には、明日という日はない」とまで言われています。

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(質問)一大事とはどんなことですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一大事とは、取り返しのつかないことをいいます。
自宅が火事や地震に見舞われると、
私たちは、「一大事!」と叫びます。
確かにそれも大変なことですが、
後生の一大事と比べたら皆、
小事だと仏教ではいわれます。

取り返しがつくからです。
家ならば、建て直すこともできるでしょう。

釈尊はズバリ、「必堕無間」と経典に説かれています。
(必堕無間とは、死ぬと大苦悩の世界に堕つること、
六道の一つである地獄界)

親鸞聖人は、
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)」
             (教行信証)
とおっしゃり、“一息追(つ)がざれば次の生、
永久にもどらぬ人生となる”と、
警鐘乱打なされています。
この後生の一大事を解決することが、
仏教を聞く目的なのです。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以下の内容の記事も載せています。

西洋の文明の、物理学、哲学、心理学、経済学など、
どれほど進歩しても、2600年前にお釈迦さまの説かれた
哲理を証明するだけで、
今後進歩すればするほど、仏教に近づくだけであることが
書かれてある記事です。

西洋文明はお釈迦さまの手のひらをうろうろしているに過ぎない。


タグ:仏教の目的
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