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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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前の10件 | -

「それは本当の仏教じゃないのよ」 [なぜ生きる]

「それは本当の仏教じゃないのよ」

「葬式仏教」といわれて久しく、
僧侶の務めは「葬式や法事」と考える人も多いでしょう。
そんな仏教観を持つ人に、
仏さまの教えをよく知る人は訴えます。
「それは本当の仏教じゃない」
では、真実の仏法とは何を教えられているのでしょう。
親鸞聖人からお聞きします。


真実の仏法は「平生業成」

●「仏法嫌い」は
     どうしてなの?

「いいかげんにその歌やめろ!
坊主に何を吹き込まれたのか知らんが、
あいつらは金の亡者だぞ。
おっとうが死んだ時も
『たくさん金を払えば長いお経をあげてやる』だの、
『極楽に行ける』だのなんて言いやがったんだ!」
普段から熱心に聞法し、
「恩徳讃」を口ずさむ妻・千代に、
こうまくしたてる仏法嫌いの了顕。
“それは・・・”と言いかけた千代を遮り、さらに言う。
「本堂が雨漏りするとか、門が壊れたとか、
何だかんだと言って門徒から金を集めるそうじゃないか。
断ったら『墓を持っていけ』と脅された奴もいるらしいぞ」
「それは本当の仏教ではないのよ。
あなたも、蓮如さまのお話を聞けば分かるわ」
千代の言葉にも、了顕は承服しなかった。

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約500年前、浄土真宗を日本全国に弘められた蓮如上人と、
その弟子、本光房了顕の史実を描いた
アニメーション映画『なぜ生きる・・・蓮如上人と吉崎炎上』
冒頭の一場面です。


幼くして父親を失った了顕は、
葬儀の際の僧侶の一言で、「坊主は大嫌い」になりました。
「僧侶は葬式や法事で金儲けする者」との思いを、
彼はここで吐露しています。
今日も、仏教に同様のイメージを持っている人は多いでしょう。

●批判される仏教界
   “教えを説かない僧侶たち”

最近、流通王手のアマゾンが民間業者と提携して、
葬儀・法事への僧侶の手配のチケットを販売し、
イオングループなども同様の安価なサービスを展開して
好評を得ています。
注目されるのは、今まであいまいだった
「お布施」の金額を明確に打ち出した点です。
ところがこれに、全日本仏教会が、
「お布施本来の宗教性を損なう」と苦言を呈し、
議論の的となりました。
様々な意見が見られます。

“アマゾンの試みは、よくも悪くも
法要や戒名の金額の不透明さに一石を投じている”
と語る人は、こんな経験をしたそうです。
父親の49日が終わって納骨の時、
僧侶が挨拶もそこそこに左手を出してお礼を要求してきた。
しかも彼は、もらうものをもらったら遺族を急がせ、
読経が終わるやそそくさと帰宅。
思い出話も法話もなかったといいます。
一方で、アマゾンのようなサービスは心が失われており、
葬儀や法事はそんなもんじゃないと感じる、
という人も。
中には仏教のあり方を問う、こんな意見もありました。
“そもそも仏の教えを伝えない人を
仏教者(僧侶)と見なすことはできない。
人々に教えが届いていれば、こうはならない。
大衆が知りたいのは仏教界の論理ではなく、
仏の教え、心の救いだ。
何もしない人にお金を渡すことに異を唱えるのは仕方がない”
ここで言われているように、
問題は「教えを説かずに布施を要求すること」です。
仏教を説かれたお釈迦さまは、死者のための葬式をされたことは
一度もなかったといわれます。
常に、生きた人間に救いの法を説かれたのです。
葬儀や法事は本来、親しい人の無常をご縁に仏法を聞かせていただくために
開くのであり、その説法へのお礼が「お布施」なのです。
「教えの有無」が大事であり、正しい教えを聞いた人ならば
「布施」の心がおのずと起きるものです。

●本当の仏教とは何でしょう?

正しい教えを知らずに腹を立てる了顕に、
妻の千代は、
「それは本当の仏教じゃないのよ」
と諭していますが、本当の仏教とはどんな教えなのでしょうか。
映画のご説法で、蓮如上人は第一声、こう仰います。

蓮如上人 「皆さん、親鸞聖人の教えはただ一つ。なぜ生きる、
       『なぜ生きる』の答えでした」

私たちが人間に生まれてきたのは何のためか。
その答え一つを説かれたのが親鸞聖人であると明言されています。
親鸞聖人はそれを、主著『教行信証』冒頭に
「難度の海を度する大船」に乗ること、
とズバリ仰っています。

釈迦の金言
  「人生は苦なり」

「難度の海」とは、苦しみの絶えない人生を、
荒波の絶えない海に例えられているのです。
フランスの思想家、ルソーは、
「人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、
最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎていく。
しかもその間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる」と言い、
ノーベル文学賞の戯曲家、イギリスのバーナード・ショーは、
「人生は苦しみである。そして2人の人間の唯一の相違は、
その人の味わっている苦しみの程度の差に過ぎない」
と語っているように、
多くの著名人も人生は苦しいところだと述べています。
仏のさとりを開かれた大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦さま)は、
「人生は苦なり」
(人は生まれてから死ぬまで、苦しみ続けなければならぬ」
と道破なされ、その実態を「四苦八苦」で教えられています。
次の八つです。

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初めの「生苦」とは生きてゆく苦しみ。
これを「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」と
具体的に教えられています。

「愛別離苦」とは愛するものと別離する苦しみをいいます。
政治資金の不在使用で辞職した前東京都知事は、
週刊誌で始まった追求から世論が高まり、
恋々と固執した知事のイスを追われた。
身から出たサビとはいえ、
泣くほど愛着した地位から引き離されるのは辛かったでしょう。
大切な人や物を失う痛みは、筆舌に尽くし難いもの。
永年連れ添った伴侶や親、子との別れを味わって、
悲嘆されている方もあるでしょう。

次の「怨憎会苦」とは、怨み憎むものと会わねばならぬ苦しみ。
イヤな奴、と聞けば、幾人かの顔がすぐに浮かぶ。
そんな相手と会う不快さです。

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「亭主元気で留守がいい」と笑い飛ばせたのは過去のこと。
夫の在宅がイヤでイヤで高血圧やうつなど
体調を壊す妻が多くあるようです。
「主人在宅ストレス症候群」なる病名までついています。
一方、NHKの「クローズアップ現代+」によると、
“すぐキレる妻が怖い”という夫がなんと47パーセント。
妻は自分が働いているのに、家事や子育てを手伝わない夫に
イライラしているのですが、夫は妻が何を怒っているのか
分からないので会話もできず、退社後も帰宅せずに繁華街を、
何時間もさまよう。
そんな夫が増えているといいます。
愛した人がストレスの元とは、まさに愛情一如。
その人にとっては結婚が「怨憎会苦」の始まりだったのかも。

「求不得苦」は、求めているものが得られない苦しみのことです。
女性3人のアイドル「パフューム」が
“最高を求めて終わりなき旅をするのは、私たちが生きているから。
夢に向かって遠い先まで、前を見て進もう”
という内容の応援歌を発表した時、
メンバーの一人がこう紹介しています。
「今回の新曲は一言で言うと、ものすごい苦しい歌です。
勇気が出るといえば、出るんですが・・・」
有名になり、多くの曲をヒットさせているパフュームですが、
これからは日本だけでなくアジア、欧米へ進出する。
大きな夢を追い求める、その厳しい過程を思うと
「ものすごい苦しい歌」という本音が思わず出たのでしょう。

「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
七つ、八つ・・・もっともっとと、
死ぬまで「夢のまた夢」に取りつかれ、
私たちは“六つか(難)し”の「難度の海」を泳いでいるのです。

●「死ぬまで求道」がいい?

スポーツや音楽、科学、医学、芸術など、
人間の全ての営みに完成はありません。
それを「死ぬまで求道」といいます。
多くの人は礼賛する言葉ですが、よく考えれば、
100パーセント求まらぬものを、
死ぬまで求め続ける、というおかしなことにならないでしょうか。
求めるのは「求める」ことが前提のはず。
死ぬまで求まらぬと知りながら求め続けるのは、
去年の宝くじを買い続けるようなもの。
“それでいい”とどうして言えるのでしょうか。
「求める」のは苦しいこと。
「死ぬまで求道」の人生は、そのまま死ぬまで
苦しみの絶えない難度の海なのです。
しかも人生には、すべての人が避けられぬ
「老苦」「病苦」「死苦」が必ず訪れます。


「老苦」は肉体が古びていく苦しみ。
若いつもりがいつの間にやら随所に衰えが来ます。
幼い頃、なぜ祖父母が眼鏡を外して小さい文字を見るのか、
全く理解できなかったが、自分が老眼になるとよく分かる。
老いの嘆きは1000年以上前の『古今集』の時代から、
いずこでも常に変わらないのだと知らされます。

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「老いらくの
来んと知りせば 門鎖して
なしとこたえて 会わざらましを」
(このように「老い」が来ると知っていたら、門を閉ざし
「用のある者はない」と言って会わぬようにしたものを)


「とどめあえず
むべもとしとは 言われけり
しかもつれなく 過ぐる齢か」
(とどめられず、まさに「疾し(年)」とはよく言ったもの。
かように人の気も知らず、「齢」は過ぎゆくものだなぁ)
長寿がかなった高齢社会の現代は、
老老介護や老後破産など、老苦はより深刻になっていようです。

「病苦」は病の苦しみです。
「やまいだれ」に「丙」と書くのは、
どんな病気も当事者には甲乙つけがたい苦痛だから、といわれます。
6月に亡くなったボクシング元世界ヘビー級チャンピオン、
モハンメド・アリさんは、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”
華麗な戦いが多くの人を魅了しましたが、
彼の引退後の半生は、42歳から晩年まで
パーキンソン病との闘いでした。
並外れた身体能力も病一つで奪われ、
歩行もままならなかったといいます。

「死苦」は問答無用、「死ぬほどつらい」とよく口にしますが、
この100パーセントの未来が、
私たちの人生を巨大な不安で覆っているのです。
蓮如上人はこう仰せです。

未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し
」(白骨の章)
どこにも千年万年、生きている人を聞かない。
人生は実に短い。

朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず

                  (白骨の章)

朝元気な人が、夜にはポックリ死んでしまうこともよくあること。
次の世に旅立つ時は、妻も子供も兄弟も連れにはなってくれない。
この世のもの何一つ、持ってはいけないのです。

●絶対の幸福に救う大船あり」
     親鸞聖人の断言

親鸞聖人は「こんな四苦八苦の難度の海に苦しむ私たちを、
そのまま乗せて絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土まで渡す大船があるのだよ」
と断言なされています。
阿弥陀仏の本願によってつくられた船ですから、
「大悲の願船」と聖人は仰っています。

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阿弥陀仏とは、お釈迦さまが紹介された仏さまです。
大宇宙には地球のような世界が無数に存在し、
それぞれに仏さまがまします。
その大宇宙の諸仏方が異口同音に、
「われらの本師本仏である」
「最高無上の師の仏だ」
と仰ぐお方が阿弥陀仏です。
阿弥陀仏が、
「どんな人をも
必ず絶対の幸福に助ける」
という本願(約束)を建てておられます。
このお約束を果たすために、
阿弥陀仏がつくられたのが大悲の願船なのです。

この大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福になるために、
私たちは生まれてきた。
これが「なぜ生きる」の答えであります。

●「永遠の命が救われる」

では、大悲の願船に乗せられる、とはどんなことでしょうか。
映画『なぜ生きる』で蓮如上人はこう仰います。

蓮如上人 「阿弥陀仏の救いは、肉体の救いとは比較にならぬ、
        永遠の命が救われるご恩ですからね、
        無限に大きくて深いものなのですよ」

大悲の願船に乗せていただけば、
四苦八苦に蹂躙される肉体の救いではなく、
「永遠の命が救われる」と言われています。
このことについて親鸞聖人からお聞きしましょう。
ご自身が大悲の願船に乗せられた時の歓喜と感謝を述べられた
『教行信証』総序のお言葉です。

噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
全くこれは、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、幸せになることはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを)

「噫」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きとよろこびの、
言葉にならぬ言葉です。
「弘誓の強縁」とは阿弥陀仏の本願のこと。
“難度の海に苦しむ人々を、必ず大船に乗せて絶対の幸福に救う”
という強烈なお約束をいい、
その誓いどおりに、大船に乗ったことを、
「真実の浄信」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった、と知らされますから、
「親鸞、果てしない過去から、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返してきた。
永い間迷い苦しみ、救いを求めてきたのだ。
その多生にもあえなかった弥陀の救いに今、あえた、
億劫にも獲がたいことを今、獲たのだ」
と言われているのです。
ここでいわれる「あう」は「値う」と書き、
過去無量劫、果てしない魂の歴史の間にも、
かつてなかったこと。
これから未来永劫、二度とないことに「値った」ことをいいます。
多生億劫の間求めても値えなかったことに値えたかた
『噫』と驚嘆せずにいられなかったのでしょう。
山高ければ谷深し、救い摂られた山が高いほど、
後生の一大事に戦慄し、こう嘆息もされています。
「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん」
弥陀の大船を疑って乗らぬ心を、ここでは「疑網」と言われ、
「もしまた今生も、大悲の願船を疑い、
乗船せぬままで終わっていたら、未来永劫、
苦しみ続けていたに違いない。危ないところであったなぁ」。
合掌瞑目し、法悦に包まれる聖人が、
まぶたに浮かぶようです。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

「まことだった!本当だった。絶対の幸福に救い摂り、
必ず極楽浄土に渡してくださる弥陀の願船、ウソではなかった。
皆々、乗船してもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、大悲の願船の厳存を知ってもらいたい」
弥陀の救いはこの世の肉体の問題ではない。
まさしく「永遠の命を救っていただいた」という美しい感激に
満ちた告白であることが知らされます。
だからこそ、「身も粉に、骨砕きても」という恩徳讃の心になるのです。

●平生の一念に乗せられる

この大悲の願船には、いつ乗せていただけるのでしょう。
映画で蓮如上人は、こう教えられています。

蓮如上人 「それは、平生、生きている、今のことですよ。
       今この大船に乗せていただき、どんなことがあっても
       変わらぬ絶対の幸福になることを、
       『平生業成』と親鸞聖人は言われています」

「平生業成」とは親鸞聖人の教えを漢字四字で表した言葉です。
「平生」とは死後ではない、「生きている今」のこと。
「業」とは人生の大事業。
これこそ「なぜ生きる」の答えであり、
大悲の願船に乗じて絶対の幸福(往生一定)になることです。
私たちに、これ以上大切なことはありません。
「成」とは「完成、達成する」ということです。
“人生には、これ一つ果たさねばならないという大事な目的がある、
それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ”
と親鸞聖人は教えられていますから、
「平生業成」は聖人の教えの一枚看板といわれるのです。
「仏教」と聞くと、地獄や極楽などの死後物語ばかりと
思われているのが悲しい現実です。
その誤解を正し、弥陀の救いは“今”であることを
鮮明になされた方が親鸞聖人なのです。

「漂泊とは、たどりつかぬことである。
たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、
『たどりつく』ことなどはないだろう」 (旅の詩集)
作家・寺山修司が言うように、果てなき夢を求めて
難度の海を漂泊する者は、
どこにでも「たどりつく」ことはない。
ゴールなき「死ぬまで求道」では永遠に救いがありません。
親鸞聖人は、「なぜ生きる」の答えがある、
この世でハッキリ絶対の幸福に救われる時がある、
と断言されているのです。
弥陀の大船には平生の一念に、乗せていただけるのですから。
こんな水際だった鮮やかな救いは、
阿弥陀仏の本願にしかありません。
真剣によくよく弥陀の本願を聞いて、
一日も早く「平生業成」の身にならせていただきましょう。


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共通テーマ:資格・学び

すべての命が“金メダル” [なぜ生きる]

9月にブラジル・リオデジャネイロで
開催されたパラリンピックでは、
多くのアスリートが自らのハンデをも力に変え、
熱戦を繰り広げました。
パラリンピックの金メダルを獲得できるのは、
ほんの一握りの選手だけですが、
お釈迦さまは、
「生まれ難い人間に生まれてきた、
そのすべての命に金メダルとは
比較にならぬ価値があるのだよ」
と仰せです。
どういうことでしょうか。
お聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「唯我独尊」
    全人類へのメッセージ

仏教を説かれたお釈迦さまは、
今から2600年前、インドで活躍なされました。
そのお釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされて
天上天下 唯我独尊
と宣言されたといわれています。
これはどんな意味なのでしょう。

まず「天上天下」とは、天の上にも、
天の下にも、この大宇宙広しといえども、
ということです。
次に「唯我独尊」。
これは一般に大変誤解されている言葉で、
「この世でいちばん偉くて尊いのは、
ただ私一人である」
とお釈迦さまが威張られているお言葉だと
思っている人が多いようです。
だから他人を見下げてうぬぼれている人を、
「あいつは、唯我独尊的なヤツだ」
などと言います。
しかし、お釈迦さまのような方が
そんな思い上がったことを仰るはずがありません。
「我」とは、お釈迦さまだけのことではなく、
私たちすべての人間のことをいわれているのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命、という意味です。

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ですから「天上天下 唯我独尊」とは、
私たちすべての人は、人間に生まれなければ決して果たせない、
たった一つの聖なる目的があって生まれてきたのだ

と教えられているお言葉なのです。
老いも若きも、男も女も、貧しい人・富める人、
健常者・障害者、賢愚を問わず、
この世に生まれた目的は、万人に共通してただ一つである。
その尊い使命を果たすべく生まれた人命はすべて
「地球より重い、尊厳な命なのだ」と明らかにされたのが
仏教なのです。

●役に立たない命は
      意味がないの!?

ところが「唯我独尊」の誤解からも分かるように、
お釈迦さまの教えを正しく知る人はなく、
人命軽視の痛ましい事件が相次いでいます。
中でも人々に大きな衝撃を与えたのが、
今年7月、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件でしょう。
重度の障害を抱える19名の命を奪った元職員の男は、
「障害者は社会を不幸にする。いなくなればいいと思った」
と犯行の動機を語っています。
こんな彼の考えには、当然、メディアも有識者も、
世間中が反発しました。
「すべての命に意味がある」
「いらない命などない」
私たちの社会は、この前提で一応、成立しているからです。
ところが、正面切って
「では私たちの命にどんな意味があるの?」
「なぜすべての命が尊いと言えるのか?」
と問われると、説得力のある答えを示すことはできるでしょうか。
たちまち窮してしまうのではないでしょうか。
男の暴論をきっかけに議論が煮詰まることもなく、
間もなく始まったリオ五輪のニュースで
事件はかき消されてしまった感があります。

それどころか、インターネット上では、
男の主張に賛同する声が少なからず上がっていました。
それらの意見に共通するのは、命の価値を
「社会の役に立つか、立たないか」の尺度だけで見ている点です。
寝たきりや重度の障害でどんな生活活動にも従事できない
“社会の役に立たない人”は、他人の手を煩わせてまで生きる意味があるのか?
いなくなったほうがいい、と考えているのでしょう。
「皆、精一杯生きているのだから、
その命を奪ってはならない」
と反論してみても、
心から納得させることはできないのではないでしょうか。

●自分自身に突きつけられる大問題

男の主張に「何とひどい!」と憤慨している人も、
同じ心が全くないと言い切れるでしょうか?
現在、ロングラン上映中の映画『なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上』で、
主人公の青年・了顕が、そんな私たちの姿を見せてくれています。

了顕は、寝たきりの母・キヌと、
身重の体で義母を介護する妻・千代との3人暮らし。
やがて生まれる子供を生きがいとしていましたが、
不幸な事故で突然、妻子を失ってしまいます。
薄暗い部屋で、母親を横目にため息をつく了顕。
「かわいそうにね。千代も、おなかの子も・・・」
息子を心配して優しく声をかける母に、
「おっかぁなら、よかったのにな」。
吐き捨てるように言い残し、外へ出ていった。

“なぜ寝たきりの母親ではなく、
未来ある妻子が死なねばならなかったのか・・・”
彼の胸に去来したであろう思いを、
私たちは他人事として流せるでしょうか。
了顕も私たちも、重大な事実を見落としがちです。
それは、今は「若い、健康だ」と言っていても、
いつ事故や病で不自由な体になるか分からない、
ということです。
朝、元気でハツラツだった人が、
夕方には寝たきりの病人や障害者になって他人の世話になる。
たとえ寝たきりや重い障害を抱えるまでにはならずとも、
「年寄笑うな、行く道じゃ」。
“明日はわが身”で、誰しも年を重ねれば、
肉体は若い頃のようには動かなくなり、
社会の第一線から退くことにもなります。
本誌読者からも、こんな声が寄せられています。


「70歳でリタイアして、これからの人生をどう生きるかと
真剣に考えた時、全くお先真っ暗で、
何を目的にしたらよいか分からず、
悶々としていました。
情けなく、苦痛でなりません。
そんな状態が何ヶ月も続きました。」
          (72歳男性)


「年を取り、体力も衰え、少し農作業しても疲れ、
病院も内科、眼科、歯科、泌尿器科等々、
定期的に受診していますが、
健康や家庭など将来のことを考えると不安ばかり」
            (84歳男性)


「若いときから看護師として一生懸命働き、
人様のお世話をすることが大好きで、
それを生きがいとしてきました。
でも今は体力もなくなり、体も不自由になり、
皆さんのお世話になっています。
何もできなくなった自分のふがいなさが悲しく、
寂しい思いをしています」
            (86歳女性)


「老人介護の仕事をしています。
お年寄りが『生きていても仕方がない』『生きる意味がない』
などと寂しくなるようなことを時々言われるのですが、
よい励ましの言葉が見つからず悩んでいます」
             (57歳女性)

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社会に貢献できなくなり、年金や医療費をもらうばかりの立場になった時、
「私の生きる意味とは何なのか?」
そう問う内なる声に驚かされる。
そんな時、「役立たず、早く死ね」と言われて承服できるでしょうか。
この無慈悲なヤリは、必ず自分自身にも突きつけられるのです。

ある人は、事件をこう指摘しています。
「容疑者は障害者施設に入ったことで
『人間とは何か』『生きる意味とは何か』という根本的な問いを
突きつけられたのではないか。
そして、その問いを乗り越える説明を
手に入れることができなかったのではないか」
たとえ他人の手を借りねば生きられなくなったとしても、
私たちの生きる意味とは何なのでしょうか。

●私たちの「独尊」とは?

冒頭で示した、
「天上天下 唯我独尊」
というお釈迦さまのお言葉は、老若男女、
賢愚美醜、貧富、健常者・障害者の差別なく、
万人に共通な目的のあることを教えられています。
ではお釈迦さまが「独尊」と言われる、
たった一つの目的、「なぜ生きる」の答えとは何か?

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

如来所為興出世 唯説弥陀本願海
(如来世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんとなり)

釈迦がこの世に生まれられた目的は、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説くためであった。

と断言なされています。
釈迦は阿弥陀仏の本願一つを説くために生まれられた。
そして、私たちすべての人は、この弥陀の本願一つを聞くために
生まれてきたのです。

弥陀の本願において、釈迦と私たちの出世本懐(人生の目的)は
一致しています。
では阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。
映画『なぜ生きる』で、蓮如上人のお弟子になった主人公・本光房了顕が
法友とこんなやり取りをしています。

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女性A「本光房さま。阿弥陀さまとお釈迦さまは、
    同じ仏さまさまなんでしょう?」
了顕 「いやいや、全く違う仏さまなんですよ」
男性A 「ありゃ、そうか?わしゃ今まで、てっきり同じ仏さまと
    ばかり思っておったが・・・」
了顕 「蓮如上人が今日、懇ろに教えてくださったじゃありません  か。大宇宙には大日如来とか薬師如来とか、たくさんの仏さまがおられるが、それらの本師本仏が阿弥陀如来さまなんだと」
女性B 「ということは、本光房さま、お釈迦さまも阿弥陀さまのお弟子さんというわけですね」
了顕 「そのとおりです」

“ありゃ、私も今まで阿弥陀さまとお釈迦さまは
同じ仏だと思っていた”という方もあるかもしれません。
地球上に出現された仏さまは、お釈迦さまお一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
それぞれの世界に仏さまがおられる。
その諸仏方の先生が阿弥陀如来であり、
大日如来や薬師如来、釈迦如来は皆、
阿弥陀仏のお弟子だと教えられています。

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その本師本仏の弥陀如来が、十方衆生(すべての人)を
相手に誓われたお約束が「阿弥陀如来の本願」です。


それは、

「どんな人も 必ず絶対の幸福に救う」

との内容で、十方衆生(すべての人)を、
どんなことがあっても変わらぬ絶対の幸福に救い摂り、
来世は必ず弥陀の浄土へ生まれさせる、
という命を懸けたお約束です。

この阿弥陀仏の救いについて、親鸞聖人は『正信偈』に
こう仰っています。

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
(凡・聖・逆・謗斉しく〈ひとしく〉廻入すれば、
衆水〈しゅうすい〉の海に入りて一味なるがごとし)
 
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人生の目的を完成した人は、
才能の有無、健常者・障害者、人種や職業、貧富の違いなど関係なく、
万川の水が海に入って一味になるように、
すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ。

「凡聖逆謗」とは、凡夫(凡)も聖者(聖)も、
五逆(逆)の罪人も法謗(謗)の極悪人も、
の意味で、「すべての人」のこと。
「斉しく廻入すれば」とは、阿弥陀仏の本願に救われたならば、
ということで、
「衆水」は、あらゆる河川の水です。
万川には、大小、清濁、いろいろあるが、
ひとたび大海へ流れ込めば、
海水の一味に溶け込むように、
一切の分け隔てなく弥陀は万人を救い摂ってくださるのだよ、
と仰っているのです。
このことを室町時代の蓮如上人は『御文章』に次のように仰せです。

抑、その信心をとらんずるには、
更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、
男子も女人もいらず、(略)されば安心という2字をば、
『やすきこころ』と訓めるはこの意なり。
更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、
極楽に往生すべし。
あら、心得やすの安心や。
又、あら、ゆきやすの浄土や
」(御文章2帖目7通)

ここで「安心」や「信心」」と言われているのは
弥陀より賜る「他力の信心」のことです。
他力の信心を獲るには、全く何の条件もなし。
この他力の信心を獲て、本願のとおりに絶対の幸福に救われ、
永久の迷いを断ち切っていただくことが、
私たちが人間に生まれてきたたった一つの目的(独尊)なのだと
教えられています。

●同じものを頂くから、同じ幸せになれる

知恵や才能、学問や体力などは十人十色、
一人として同じ人はありません。
そんな千差万別、億差丁別の人のすべてが、
一味平等の世界に救い摂られるのはなぜなのでしょう。
それは、弥陀より賜る「信心」が同じだからです。
例えていえば、財布と紙幣のような関係です。
西陣織の金襴の財布と100円で売っている木綿の財布があり、
それぞれ一万円札が入っているとします。
金襴の財布は高級感にあふれ、木綿の財布は粗末なものですが、
中身の一万円札の価値は少しも変わりません。
同じ日銀発行の紙幣だからです。
財布は、人それぞれ異なる知恵や学問などを例えたもの。
親鸞聖人や蓮如上人は金襴の財布、
そんな知恵や才能もない私は木綿の財布です。
しかし阿弥陀仏より賜る他力の信心(南無阿弥陀仏)は、
どんなに受け取った人の知恵や学問に相異があっても、
全く変わりはありません。

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阿弥陀仏は、
「すべての人を平等に絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土へ生まれさせる」
という本願を果たすために、
「南無阿弥陀仏」の名号を創られました。
だから、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
万人を救う偉大なお力があります。
私たちには、弥陀よりこの南無阿弥陀仏を賜って、
絶対の幸福(往生一定)に救い摂られるのです。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も、
浄土真宗の正しい御本尊は南無阿弥陀仏の名号だと教えられ、
生涯、御名号しか本尊となさいませんでした。
根本に尊ぶべきは、名号・南無阿弥陀仏なのです。

●最後の一瞬まで、
     全員にチャンスあり

阿弥陀仏の救済の対象は十方衆生(すべての人)ですから、
差別は一切ありません。
それだけでなく、臨終の迫った寝たきり状態の人をも救うために、
「聞く一念に救う」と誓われている。
これを、「一念往生」といいます。
「一念」とは1秒より短い時間の極まりです。
覚如上人(親鸞聖人の曾孫)は、こう教示されています。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって本願とせば、
いのちの一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす

             (口伝鈔)

阿弥陀如来の本願は、今、臨終という最も短命の人を
救うことに焦点を当てられている。
もし3秒かかるような救いでっは、1秒しか命のない人は助からない。
一念の救いこそが、弥陀の本願の最も大事な特徴なのだ。

こんな一念の救い(一念往生)は、
大宇宙で弥陀の本願にしかありません。
この一念往生こそが、弥陀の救いの「肝要」であり
「淵源(えんげん)」だと覚如上人は言われています。
「肝要」も「淵源」も、仏教で最も大事なことを表す言葉です。
このように阿弥陀如来の救いは極速の一念ですから、
手遅れということは絶対にないのです。
“私は物覚えが悪いから、足が不自由だから、
耳が聞こえないから、年を取ってしまったから、
こんなに重病だから、阿弥陀様に救っていただけないだろう”
と思っている人もあるかもしれませんが、
とんでもない。
どんな難聴者も、最後の一息まで永久の幸福に
救い摂られるチャンスは尽きませんから、
決してあきらめてはなりません。
弥陀の不可思議の願力によって、
聞即信の一念に南無阿弥陀仏を賜れば誰もが、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
「地球より重い“尊厳なる生命”を今、獲得せり」
と生命の大歓喜を味わうことができるのです。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
一切の計らいを捨てて、弥陀の本願を聞信いたしましょう。


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親鸞聖人が教えられたほんとうの「大往生」 [なぜ生きる]

親鸞聖人が教えられた
      ほんとうの「大往生」

浄土真宗では毎年、親鸞聖人のご命日(11月28日)を
中心に「報恩講」が開かれます。
誰もが知りたい「なぜ生きる」の答えを、
明示してくだされた聖人のご恩に報いる集まりです。
真宗の年間行事でも、特に大事なご法縁ですから、
古来、篤信(とくしん)な人は、他の用事を差し置いても
必ず参詣していました。
今日、平成の私たちが聖人の深きご恩を知り、
感じ、報いるには、まず教えをよく知ることが大事です。
今回は報恩講をご縁に、
聖人の教えを聞かせていただきましょう。

●死ねば誰でも
     「往生」できるのですか?

世界的なヒット曲『上を向いて歩こう』(歌・坂本九)
の作詞者として知られる永六輔さんが、
7月に亡くなりました。
永さんといえば、約20年前、
200万部超えのベストセラーとなった『大往生』が有名です。
その執筆動機を、「まえがき」にこう述べています。
かつて回答者を務めていたラジオの
子供電話相談室」で、
「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの」と質問され、
絶句したことがある。
その子の疑問に答える本にしたい、と。
そして本の最後に、
「人は死にます
必ず死にます
その時に
生まれてきてよかった
生きていてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを
大往生といいます」
と記しています。
“生まれてきてよかった”という喜びと感謝で
人生を終えるのが「大往生」であり、
質問した子への答えだと言いたかったのでしょう。

●「往生」の誤解いろいろ

それほど売れた『大往生』ですが、
20年たった今も、往生の本当の意味を知らない人がほとんどです。
例えば、「隣のお婆さん、今朝往生したそうな」
「台風で電車が立ち往生した」
「車が突然、故障して、往生した」
など、「死ぬ」「動けなくなる」「困る」の意味で
使う人が少なくないのです。
本来「往」にも「生」にも、
そんなマイナスな意味はありません。
「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ「往(ゆ)」き、
仏に「生」まれること。
これは親鸞聖人の教えの重要なキーワードですから、
よく知っていただきたいと思います。

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終末期患者の心のケアの重要性を、
8月下旬、NHKの『クローズアップ現代+』が
「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
というタイトルで特集していました。
死に直面すると、
「死んだらどうなるのか」
「私の人生の意味は?」
という切実な問いが、患者の心に湧き起ってきます。
これを「スピリチュアルペイン」といいます。
「生命の根元にかかわる深い痛み」であると、
本誌2月号で、真野鋭志医師のコメントとともに取り上げました。
この深刻な「スピリチュアルペイン」を、
患者はこれまで、“家族に心配をかけたくない”
“医師の手を煩わせたくない”などの理由で、
なかなか口に出せなかったといいます。
それが今、人生の最も重要な問題として、
正面から取り上げられつつあるのです。
仏教では「死んだらどうなるか分からぬ心」を、
「無明の闇」とか「後生暗い心」といわれ、
苦しみの根本と教えられています。

真の往生は、この暗い心が破られ、
「後生明るい心」にならなければできません。

番組では、このような終末期患者の心を専門的にケアする
「臨床宗教師」の取り組みを通して、
すべての人に宗教が必要であると訴えていました。
しかし、患者の死後のイメージに同調することで、
死の不安や恐怖を和らげることはあっても、
肝心の“どうすれば往生できるのか”に、
明らかな答えは示されませんでした。

●「往生」は今、定まる

これについては親鸞聖人は、
こう断言されています。
“どんな人でも、大宇宙最尊の本願に救い摂られれば、
必ず無量光明土(極楽浄土)に往生できるのだよ”と。
阿弥陀仏とは、大宇宙にまします
諸仏方の本師本仏(先生)である仏さまのこと。
本願とはお約束のことで、
阿弥陀仏は、次のように誓われています。

「すべての人を
   必ず絶対の幸福に助ける」

「絶対の幸福」とは、現在ただ今、
いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)と
ハッキリ定まった大安心のこと。
浄土に往生するのは肉体の死後ですが、
往生が確定するのは、この世で弥陀の本願に救い摂られた時なのです。
それを親鸞聖人は、
「信心の定まるとき往生また定まるなり」
             (末灯鈔)
と教示されています。
この阿弥陀仏の本願を聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、
「難度海を度する大船」と仰っています。

●荒波絶えぬ人生の海

「難度海」とは、苦悩の波の絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人が、荒波の絶えない海に例えられたお言葉です。
人生、苦悩の波間から、こんな嘆きの声が聞こえてきます。
「10年前に妻をガンで亡くし、65歳で退職、今は独り暮らしです。
2年前に私も宣告を受けました。
手術は成功しましたが、余命は少ないので、
趣味があってもむなしく、毎日の食事、ガランとした自宅にも嫌気が差し、
マンションから下を見れば飛び込みたい気持ちになることも・・・」
「人間関係、親子関係、孫の教育などで、
胃が痛くなるほど苦しく、パニックになりそうです。
『なぜ生きる』と考えると涙が出ます」
私たちは生まれると同時に、
空と水しか見えない大海原へ放り出されたようなもの。
30年以上、助産婦を務めたある女性が、こう語っていました。
「赤ん坊が生まれて、私たちがまずするのは、
お母さんの体内から出たばかりの赤ちゃんの顔を覆っている
ヌルヌルのものをきれいに拭き取ること。
そして息ができるようにするのです」
ヘソの緒を切ると、母親から酸素が来なくなりますから、
赤ん坊は自分で呼吸しなければならない。
オギャーと泣きながら、赤ん坊は必死に呼吸し、生きようとする。
荒海を泳ごうとしているのです。
しかし、どこへ向かって泳ぐのか。
どんなに一生懸命に泳いでも、方角の立たぬまま、
むやみやたらに泳いでいれば、
やがて心身ともに力尽き、土左衛門になるのは明らかです。
ここで、映画『なぜ生きる』の蓮如上人のご説法をお聞きしましょう。

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蓮如上人「みなさん。私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です。
少しでも元気がないと『頑張って生きよ』と、
励ますでしょう。
だが、少し考えてみれば、おかしなことです。
やがて必ず死なねばならないのに、
なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。
おかしな話ではありませんか。
この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、
親鸞聖人なのですよ。
親鸞聖人はね。どんなに苦しくても、生きなばならぬのは、
私たちには、とっても大事な目的があるからだと、
懇ろに教えられています。
その肝心の、生きる目的を知らなければ、
生きる意味がなくなるではありませんか、みなさん」

●「あなたの生きる目的は?」

ここで蓮如上人が仰る、
生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる
とはどんなことなのでしょう。
そもそも私たちは、何を目的だと思って生きているでしょうか。
「あなたの生きる目的は?」
と聞かれたらどう答えますか。
例えば子供なら、学校に通って勉強するとか、
友だとと遊ぶことだと思っているでしょう。
中にはいじめられて、学校に行きたくない、いっそ、
「早く卒業したら幸せになれる」と思って
ガマンしている子も少なくないようです。
現在、不登校は全国で12万人に上るといわれています。
“子供は無邪気”“気楽でいいよな”と大人は思っていますが、
子供は子供なりに苦しみ悩みながら生きているのです。
ようやく学校を出て、青年になると、
関心は「異性」に向く。
勉強、趣味、遊び、どんな時も、
男は好きな女の前ではカッコよくふるまいたくなる。
多くの小説やドラマが恋愛をテーマにしているのも、
誰もが
恋人ができたら幸せになれる」
と思っているからでしょう。
適齢期になると、いよいよ「婚活」に力が入る。
「結婚したら幸せになれる」
と金剛のごとく信じ、気の合う相手を求め、
“キミと一緒なら、金も財産も、何も要らない”
とのろけてプロポーズ。
結婚して子供が生まれれば、今度は育児中心の人生に。
母親だけでなく、育児能力の高い父親「イクメン(育児男子)」
が最近は増えました。
「子供が立派に育ったら幸せになれる」
と夫婦で一心に我が子の成長を願い、
子育てに手間、ヒマ、お金をかける。
教育費のために仕事に励み、マイホームを夢みて今度は、
「家が持てたら幸せになれる」
と、さらに仕事に熱中していきます。
そうして家族や会社に身をささげて退職。
加齢で身体が衰えると、
健康維持や病気の快癒に心を砕くようになる。
健康になったら幸せになれる」
とリハビリに精を出す。
いよいよ最後は、
「子孫に財産を遺せたら、オレの人生も意味があったのかな」
と、一生を総括しようとする。

●人生には
    いろんな「坂」がある

このように人生が進むにつれ、
「生きる目的」と思っているものも変わってきますが、
求める苦労は坂道を上るように続くと、
都はるみさんは「夫婦坂」で歌っています。

「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」

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人生にはいろいろな坂がある。
その都度、上り切った満足や安心はありましょうが、
喜びは一時のもので、すぐまた新たな急坂を、
ヨロメキながらも上っていかねばなりません。
どこまで頑張って坂を越えたら、
本当の幸せが待っているのでしょうか。
キリのない登坂の人生を古歌に、

「越えなばと 
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり」

と歌っています。
このように、時の経過とともに変化するものは「生き方」「生きる手段」であって、
人生の真の「目的」ではないと、仏教では教えられます。
難度海でいえば、丸太や板切れを求める「泳ぎ方」の問題なのです。
蓮如上人が先のセリフで、
「私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。
泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です」
と喝破されているのはこのことです。
本当の生きる目的は「なぜ生きる」の答えを知らぬ私たちが、
常に問題にしているのは、より大きな丸太に
“どうたどり着くか”坂なら“どう上るか”、
人生なら“どう生き延びるか”の方法・手段なのです。
その生き方の指南役が、政治や経済、科学や医学、
芸術やスポーツなどといえましょう。
人は皆、「どう生き延びるか」に全知全能を傾けているのです。

●生きることは
     “ムダな抵抗”か

しかし、私たちが忘れてならないのは、
すべての人は、どんな生き方をしても、
やがて必ず死なねばならぬということです。

立て籠もり犯の周囲を取り囲んで、刑事が説得する。
「おまえは包囲されている。
無駄な抵抗はやめて出てきなさい」
もう逃げ場はない。早くアキラメて投降せよ、と。
私たちの営みは、つまるところ「生き延びる」ための努力ですが、
勝ち切ることのできない、必ず「死」によって敗北する闘いです。
この厳粛な事実にぶち当たった時、
冒頭で紹介した子供の質問、
「必ず死ぬのに、なぜ生きるの?」
に、大人も絶句するのです。
苦労して坂道を上り続けた人生の終末が、
「ああ、苦労の連続だったなぁ。報われない人生だった」
で幕が下りては、何と悲しいことでしょう。

それは人生の「目的」と「手段」を取り違えたがゆえの悲劇です。
では真の人生の「目的」とは何か。
この問いに、明らかな解答を示されている方が、
親鸞聖人なのです。

 「大悲の願船に乗じて
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、
衆禍の波転ず」
    (教行信証)

聖人の顕示された大悲の願船(阿弥陀仏の本願)に、
今、乗せていただき、「ああ、なんと素晴らしいことなのか」
と生命の歓喜を獲得する。
これが「なぜ生きる」の答えであり、唯一絶対、
万人共通の人生の目的なのです。

この目的を知って初めて、
「生きる」という手段に意味が生じますから、
映画の中で蓮如上人は
「肝心の、生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる」
と仰っているのです。

●願うべき未来は「浄土往生」

はかない人生の実相が身にしみて知らされた人は何を感ずるか。
蓮如上人は『御文章』に、こう仰せです。
「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつの間にかは年老の積るらんとも、覚えず知らざりき。
然るに、其の中には、然りとも或いは、
花鳥・風月の遊びにも交わりつらん、
また歓楽・苦痛の悲喜にも遇いはんべりつらんなれども、
今にそれとも思い出すこととては一もなし。
ただ徒に明し、徒に暮らして、
老の白髪となり果てぬる身の有様こそ悲しけれ。
されども、今日までは無常の烈しき風にも誘われずして、
我が身ありがおの体をつらつら案ずるに、
ただ夢の如し。
今に於いては、生死出離の一道ならでは、願うべき方とては、
一もなく、また二もなし」
             (御文章4帖目4通)

目指すは「生死出離の一道」のほかにありません。
死ぬことを「旅立つ」「他界する」とよくいわれます。
今生の旅を終え、後生(来世)へ旅立つことです。
仏教では、私たちの肉体はこの世限りだが、
三世を貫いて流れている不滅の生命があると説かれています。
「三世」とは過去世、現在世、未来世のこと。
過去世は親、現在世は私、未来世は子供という三世代の意味ではなく、
私たち一人一人の生命が三世を貫いているのです。
日頃は、“来世などあるものか”と言っている人も、
いよいよ死が近づくと、とても無になってしまうとは思えず、
死後の世界を否定できないのは、
深い人間性からくるものです。
来世を認めぬはずの共産思想家の周恩来が臨終、
肉体の苦痛にあえいでいると、
盟友の毛沢東が見舞って励ました。
周は、“今は苦しいが、もうすぐマルクスに会える”
と言ったといいます。
自らの信条に従えば、出ようのない言葉ですが、
死の巌頭に立ち、後生を予感して、
こう言わずにおれなかったのでしょう。
私たちが人間に生まれてきた目的は、
この世だけでなく、三世にわたって変わらぬ多生の目的なのです。

「噫(ああ)、弘誓の強縁は多少にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし」
            (教行信証)
(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、
多生億劫の永い間、求め続けてきた
歓喜の生命を得ることができた。これは
全く弥陀の強いお力によってであった)

かつて体験したことのない驚きと歓喜を、
「噫」と感嘆されています。
「弘誓の強縁」とは、“すべての人を絶対の幸福に救う”
熱烈な弥陀のお力をいいます。
弥陀の救いは、この世、一生だけの問題ではなかった、
過去無量劫、果てしなく生死生死を繰り返し、
未来永遠に流れていく不滅の生命の根本解決であったと知らされるから、
「多生にも値(もうあ)いがたし」「億劫にも獲がたし」と言われているのです。
これは決して夢物語ではない。
弥陀の強縁によって、誰もがその身に救われるのだと、
聖人ご自身が大悲の願船に乗じられて仰ったお言葉を、
最後にもう一度、お聞きしましょう。

「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍に波転ず。
即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、
大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべし」
             (教行信証行巻)

大悲の願船に乗せていただいたら、
つらく苦しい人生が、千波万波きらめく光明の広海に浮かぶ人生に、
ガラリと転じ変わった。
一念で無明の闇(死んだらどうなるかハッキリしない、後生暗い心)
が照破され、後生明るい心になって、
一息切れると同時に、無限に明るい極楽浄土に往生し、
弥陀同体の仏になるのだ、と仰っています。
この世で絶対の幸福に救われた人だけが、
本当の「大往生」ができるのです。

その身に早くなるよう、
真剣に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

それが親鸞聖人の深いご恩に報いる真の報恩講となるのです。


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無常こそ阿弥陀仏に救われる縁となる! [なぜ生きる]

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読者の皆さんからのアンケートによると、
伴侶や肉親、友人知人の無常が本誌購読のきっかけ、
という方が大変多く見られます。
「年を重ねていく自分。
母、弟と死別した悲しみや、二人はどうしているかという心配、
自身が来世に旅立つ不安がありました」
           (愛知県 60代女性)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、
まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。
今回は、まず、わが子との痛切な別離を乗り越え、
人生の喜びを見いだした読者を紹介しましょう。

●「あの子が身をもって
       導いてくれた」
     愛息との突然の別れ

石川県かほく市の黒田まゆみ(仮名)さんは、
10年前、最愛の子息を15歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています。」
と述懐する別れとは、どんなものだったのでしょうか。

異変は突然訪れた。
中学3年の秋、部活動を引退し、
受験を目前に控えた長男は、原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると、すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから、
大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。
血液検査の数値が異常に高いと医師は、
難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して2日目まで意識があったが、
その後、昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、
10日後、息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーも、あんなに努力して、
頑張っていたのに、なぜこんなことに・・・
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと、毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で、祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにはおれなかった。

●『なぜ生きる』
  タイトルに引かれ


心の傷は癒えぬまま、数年後、
今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日、
心は優れず、“やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”
の問いが胸につかえていた。
そんな黒田さんに年若い主治医が、
「本でも読まれませんか」
と持ってきた書物の中に、
『なぜ生きる』のタイトルがあった。
心引かれ、“ぜひ読みたい”と手に取ると、
中には、幼少時から親しんだ親鸞聖人の教えが詳しく説かれていた。
続いて『歎異抄をひらく』を手にする。
『歎異抄』がどんな書物かも知らなかったが、
これも親鸞聖人の教えであり、
「生きる意味」が教えられていることに驚いた。
一層詳しく聞きたいと、退院後、勉強会に参加し、
どんな人も救われる弥陀の本願を知らされた。
「息子が身をもって仏法に導いてくれたと思います。
あの子のためにも真剣に求めたいと思っています」

●真の人生の意義とは

「夢の世を
あだにはかなき 身と知れと
教えて還る 子は知識なり」
(知識・・・弥陀の本願を伝える教師)
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に、
人生の意味を問い、
仏法を求めて救われてみれば、
夭逝のわが子は善智識である、と歌っています。
古来、逆縁に泣く親は数知れず、
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に、
愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が
次女を死なせて(略)
この度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)
特に深く我心を動かしたのは、
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中(こちゅう)の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、
此処には深き意味がなくてはならぬ、

人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる

では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。

今回はそれを、室町時代の蓮如上人が書かれた
『白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。

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冒頭の一文、
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり

からお聞きしましょう。

●苦しみ漂う人生

まず“人間の浮生なる相をよくよく見てみると”
と仰っています。
「浮生」とは「浮いた生」と書くように、
水面に漂う浮草のような一生のこと。
人間の実相をこう表現されているのです。
どこから来て、どこへ行くのか、
生きる意味も分からぬ根無し草。
何を手に入れても、どこかしら不安で、
私たちはひょうたんの川流れのように根拠のない生を、
フワフワと日々、過ごしているのではないでしょうか。
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気楽な人生はどこにもなく、皆、生きることに必死です。
果たしてどこへ行くのでしょう。
全国紙の人生相談には毎日、
さまざまな人生模様が描き出されています。
“50代のシングルマザー。
寄り道して仕事の帰りが遅くなると、
同居の母が嫌味を言う。母から自由になりたい。”
“40代主婦。幼少時から人見知りの激しい中3の次男が、
学校に行きたがらない。
高校受験も近いのにどうしたら・・・”
など、人の数だけ苦悩があることが知らされます。
50代の独身女性からはこんな相談も。
「母と弟を相次いで亡くし、一億円以上の遺産を相続した。
だが大金を得たと喜ぶより、
人生の指針を失ったように感じて戸惑っている。
どんな心持で暮らせばいいのですか」
“私なら諸手を挙げて歓迎するのに”
と思う人も多いでしょうが、大枚を手にすれば、
自身も周囲も平常心ではいられない。
好事魔多しで、思いもかけぬ事態に襲われることもある。
宝くじの高額当選で人生を誤る人が多いのも、
生きる目的が分からず、本当の金の使い道を知らないからでしょう。

続いて、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり
」。
「始中終」とは始め、中、終わりのこと。
人生まだ始まったばかり、と思っていたのが、
すぐに中程に差しかかり、あれよあれよと終盤へ。
人の一生は幻のようだ、と仰せです。

40代男性の、こんなつぶやきがありました。
「10代の頃、応援していた同い年の女性アイドルが、
久しぶりにCM出演していたので、
オッと思って見てみると、なんと<白髪染め>のCM。
そうだよな、彼女もデビュー30年。
気だけは若いけど、オレも・・・」

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●夢の如く過ぎ去る時間

「一生過ぎ易し」
人生の速さを、古今の人々はさまざまに表現しています。
有名な能の『邯鄲』は中国の古典に題をとった演目。
「一炊の夢」ともいわれる故事です。

田舎の青年・盧生が人生に迷い、
有名な僧侶を訪ねて教えを請おうと旅に出た。
途中、邯鄲という町の宿屋で休憩していると、
女主人が仙人からもらったという枕を出して、
粟の炊ける間に一休みするように勧めた。
やがて、眠りかけた盧生を楚国の役人が迎えに来る。
どうしたわけか、帝が彼に譲位したいという。
驚きつつも彼は王位に就く。
有為転変も味わいながら、栄耀栄華を極め、
気づけば50年の歳月。
波乱万丈の一生だったなあ、と思ったその時、
女主人に起こされた。
粟飯がようやく炊き上がったということだった。

●終幕・・・・・行く道

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず

5月下旬、俳優の今井雅之さんが54歳の若さで亡くなりました。
演劇に情熱を傾け、男気ある言動が人気でしたが、
死の一カ月前、ガン闘病を告白する記者会見には、
やせ衰えた彼の姿が。
かつての精悍な風貌は消え、人前もはばからず
「悔しい、悔しい」と涙を流すインタビューが胸を打ちました。
若い終幕に惜しむ声は絶えませんが、
遅かれ早かれ、皆行く道であります。
しかも人間は貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ、そねみ)
の三毒の煩悩にまみれ、生きるためとは言いながら、
数限りない殺生を繰り返している。
誰もが抱え切れぬ悪業を背負って生きているのです。

人生、夢幻の如し。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と知らされれば、
「私の後生はどうなるのか?」
と問わずにおれなくなるのです。


●弥陀を一心にタノメ

この『御文』の最後に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり

と、蓮如上人は、真の生きる目的を教えられています。
「誰の人も」とはすべての人のこと。
「はやく」は、明日なき命の私たちだから、
一日も片時も急げと言われています。
「後生の一大事」とは、生ある者、必ず死す。
死んでどこへ行くのか、ハッキリしないこと。
後生とは無関係な人は一人もありません。
万人共通の一大事であり、
これを生死の一大事ともいいます。

この生死の一大事を解決し、
「どんな人も、必ず極楽浄土に往生させてみせる」
と誓われているのは、大宇宙最高の仏さま、
無上仏ともいわれる阿弥陀仏だけなのです。


その阿弥陀仏の誓いを、蓮如上人はこう教えられています。

「弥陀仏の誓いましますようは、
『一心一向にわれをたのまん衆生をば、
如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』
といえる大願なり」    (御文章二帖目九通)
「すべての人よ 一心に我をたのめ
どんな悪人も
必ず絶対の幸福(往生一定)に救い摂る」


との偉大な誓願であります。
蓮如上人が『白骨の章』の最後に
「阿弥陀仏を深くたのめ」
と言われているのは、私の生死の一大事は、
この阿弥陀仏の本願によらねば救われないからなのです。

弥陀たのむ一念に往生一定、絶対の幸福に救い摂られたならば、
来世は必ず極楽浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることができる。

これこそ人界受生の本懐(人生の目的)なのだから、今、
真剣に仏教を聞けよ、と教導されているのです。


●タノム=あてにする 力にする

では肝心の「弥陀たのむ」とはどんなことか。
蓮如上人の『御文章』には、至る所に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
と仰っています。
これは大変重要な、しかも誤解されているお言葉です。
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀をタノミ」
をほとんどの人は、他人にお金を借りに行くときのように頭を下げて、
「阿弥陀さま、どうか助けてください」
とお願いすることだと思っています。
ところが蓮如上人の教えられる
「弥陀をタノメ」
は、全く意味が異なりますから注意しなければなりません。
古来、「タノム」という言葉に「お願いする」
という祈願請求の意味は全くありませんでした。
今日のような意味で、当時、
この言葉を使っている書物は見当たりません。

それが「お願いする」という言葉に使われるようになったのは
後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、
「あてにする、憑(たの)みにする、力にするということ。

蓮如上人の仰る
「弥陀をタノム」
は、阿弥陀仏をあてにする、憑みにする、力にする、
という意味なのです。

もし蓮如上人が
「阿弥陀仏にお願いせよ」
と仰ったのなら、
「弥陀にタノム」
と書かれるはず。ところがそのような
『御文章』ば一通もありません。
常に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは
言われていません。これらでも明らかなように、
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
は、祈願請求の意味ではないのです。

浄土真宗で「タノム」を漢字で表す時は、
「信」とか
「帰」で表します。
「信」はお釈迦さまの本願成就文の「信心歓喜」を表し、
「帰」は天親菩薩の『浄土論』の「一心帰命」を表したものです。
阿弥陀仏に信順帰命したということは、
弥陀の本願が「あてたより」になったことです。
ゆえに親鸞聖人は、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる、
これを『唯心』という」    (唯信鈔文意)

(本願他力があてたよりになって、
自力の心のなくなったのを、唯心という)

と仰せになっています。蓮如上人も、
「一切の自力を捨てて、弥陀をタノメ」
と仰っています。
「弥陀をタノメ」
とは、自力の計らいを捨てよということです。
一切の計らいが自力無功と照破され、
「弥陀の五劫思惟は私一人のためだった」
と明知したのを、
「弥陀をタノム」
と言われているのです。
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蓮如上人の
「自力を捨てて、弥陀をタノム」
は、曠劫流転の迷いの打ち止めであり、
他力永遠の幸福に輝くときです。
だから他力になるまで他力を聞くのだと教えられています。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
弥陀をタノム一念に本願を聞きひらいて、
往生一定の身にさせていただきましょう。


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そうだ、お盆には仏教を聞こう。 [なぜ生きる]

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“お盆”は仏教なの?
日本の夏といえば「お盆」。
古来、この季節には先祖の霊が帰ってくるといわれます。
お盆とは仏典の『仏説盂蘭盆教』から転じた言葉です。
各地に残っている迎え火や送り火、
墓参りや盆踊りなど種々の風習も、
仏教から出たものと考えられており、
日本人の仏教観にも大きく影響しています。
お盆とはどんなことか、
私たちはどう過ごせばいいのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・
ある人からこんな話を聞きました。

毎年、お盆の前には父に連れられて、
先祖代々の墓に家紋入りの灯篭を立てに行きました。
「お父さん、何でこれ立てるの?」
「わが家の墓はここだぞ、という目印だ。
死んだじいさんや、ばあさんの霊が迷わんようにな」
「ふーん」
そんなもんかと思って聞いていました。
お盆の間、灯篭は明々とともり、
終われば、また片付けに行ったものです。

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お盆の前には迎え火をたき、
最終夜は盆踊りや送り火をする。
地方によってスタイルや呼び名は違いますが、
こんなやり取りが、日本の夏の風物詩となっているようです。
それらの慣習の根底には、先祖や死者の霊が、
お盆の期間中は帰ってくる、という考えがあります。
そして“これが仏教”と多くの人は思っています。
ところが、お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人の教えを聞かせていただくと、
こうした風習と仏教の教えとは、
相いれない部分があると分かってきます。

事実、前記のような慣習は、
浄土真宗には本来ありません。
なぜなら、平生、弥陀に救われている人は、
死ねば必ず浄土へ生まれて大活動するから、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
(親鸞、死ねば弥陀の浄土に還る)
と聖人も御臨末に仰って、
墓の下には戻ってこないのだ、と教えられています。
また、弥陀に救われていなければ、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、
まいた因に応じた結果を、後生、
永く受けなければなりません。
ですから親鸞聖人や蓮如上人は、
死者の霊が墓に帰ってきたり、
また出かけて行ったりできるものでは絶対ないと、
これらの俗信を打ち破っていられるのです。

●無常を念ずる勝縁に

ならば墓参りは一切不必要で、無意味なのかといえば、
心構えさえ正しければ故人をしのび、
自身の無常を念じる得難いご縁となりますから、
弥陀の救いに値う勝縁となりましょう。

この「無常を念ずる」とは、どんなことでしょうか。
「無常」とは「常が無い」と書き、
絶えず変化することをいいます。
私や私を取り巻く一切は、
一時として常住しないものばかりです。
五月に話題になった「金環日食」は
数百年に一度、見られるか否かの天体イベントでしたが、
太陽をはじめ宇宙が刻々と変動している証でしょう。
外界のみならず、私の肉体も心も、同様に無常ですが、
とりわけ生きている私の最大の変化は「死」ですから、
無常の「死」の意味で使われるのです。

●切々たる無常観

「死」を、自己の確実な未来とみていく無常観は、
仏法の原点です。
室町時代に活躍された蓮如上人は、
有名な『白骨の御文章』に、
人の世の無常を切々と訴えられました。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
(浮草のような人間の一生をよくよく眺めてみると、
人生とは何と儚く、幻のようなものか)

人の一生を、まず「浮生(浮いた草)」と仰っています。
根っこのない浮き草が
風に流され漂っているようなものということです。
この世のどんな成功者も、
財や物に恵まれている人も、
人生の本質は皆浮生だと教えられます。
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空言・たわごと・真実あることなし」
有名な『歎異抄』の親鸞聖人の仰せです。
「火宅」とは火のついた家。
隣から出た猛火が、まさに自宅のひさしに燃え移った時、
のんびり晩酌しながらテレビを見ていられるでしょうか。
人生が火宅のような不安に覆われているのは、
一切が無常だからです。

健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
私たちが日々求めている全ては、
今日あって明日なき幸せ。

太陽や月が刻々と動いているように、
絶えず変転しています。
手に入れた瞬間から、滅びに向かっていくものばかりですから、
「万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無し」とも
「浮生」ともいわれるのです。

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今なお、毎年多くの交通事故死があります。
京都で無免許運転の少年が居眠りして
通学中の子供の列を襲い、
格安高速バスの運転手が早朝、
居眠り運転で壁に突っ込む。
多くの命が犠牲となりました。
思わぬ自然災害も起きています。
5月、茨城で突然竜巻が発生し、
自宅にいた中学生が亡くなりました。
コンクリートの基礎ごと巻き上げられた家が、
逆さまに地面にたたきつけられたといいます。
自宅にいてさえも、突発的に命を落とす。
まさに「朝に紅顔、夕に白骨」で、
この世のどこに、100パーセント安全な場所がありましょうか。

●後生の一大事
    心にかけよ

誰もが逃れがたい無常を教えられた『白骨の章』の最後を、
蓮如上人はこう締めくくられています。

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

(死は万人に訪れる。だから、何人<なんびと>も早く、
後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いを頂きなさい

仏法を求める目的は、実にこの「後生の一大事」の解決にあり、
それは万人共通の問題なのだよと示されています。

では、「心にかけよ」と言われる
「後生の一大事」とはどんなことなのでしょうか。

人生を飛行機の旅に例えるならば、
誕生した時が離陸の時。
二十歳の人は20年前に、六十歳なら60年前に飛び立ったということです。
ひとたび飛び立った飛行機は一刻も止まらず、
猛スピードで飛び続けねばなりません。
では、人生という飛行機はどこへ向かって飛んでいるのでしょう。

「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」
禅僧・一休は女性の一生をこう詠んだ。
若くて楽しい娘時代。
箸が転んでもおかしい年頃ですから、
女偏に良いと書きます。
やがて見初められて花開く結婚、
家に入って嫁となります。
子を産み、どっしりたくましくなれば、
鼻高々と嬶です。
婆さんを待たずに病死や事故死する人もありますが、
幸せに生き延びても、必ず死を迎えることは変わりません。
男も呼び方が違うだけで、誰もが同じ道をたどります。
生きるとは、死に向かっていくということにほかならず、
飛行機なら必ず降りねばならぬ、ということなのです。

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ところが、そんな飛行機に乗っている私たちは、
「いずれ降りねばならないことは、分かっているけど・・・」
と言いながら、どこに向かい、どこに降りるのかハッキリせぬまま、
人生のフライトを続けています。
「差し当たり今は公私ともに順調。
そこそこ快適だし、このまま飛んでいけばいいんじゃないの?」
ところが、そんな快適な旅の最中に、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
皆様、当機は現在、上空1万メートルを航行中です。
しかし、目的地は分からず、着陸地も見当たりません。
燃料はあと5時間でございます。
それまでの間、皆様、映画やお食事、ゲームやショッピングなど
快適な空の旅を、ゆっくりお楽しみください・・・

こんなナンセンスな飛行機に、誰が乗り込むでしょう。
しかし、どこに向かって生きるか分からない人生は、
こんな不条理な飛行機の旅と、どこが違うでしょうか。

この「どこに向かって生きるか分からぬ不安」を
後生の一大事といいます。

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「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
        (徒然草)
(死の時期は順番を待たない。
死は前からだけ来るのではない。
いつの間にか背後に迫っているものだ。
人は皆、自分もいずれ死ぬと知りながら、
そうとは思わぬうちに、突然死んでいかねばならないのである

兼好法師が言うように、死は前後だけでなく、
上からも下からも、いつどこから襲ってくるか分かりません。
「あと○日」と余命宣告を受けた人だけが死んでいくのではありません。
生に酔いしれている私たちが、思っていないとき、
突然ドカドカと土足で座敷に上がり込んでくるのが死というものなのです。

●釈迦の結論は?

降りる場所のない飛行機のような不安を抱えた私たちが、
真に救われる道を、お釈迦さまはどう教えられているのでしょう。

それが仏教の結論である
「一向専念 無量寿仏」
の教えです。

「無量寿仏」とは、大宇宙の諸仏方に
本師本仏と仰がれている阿弥陀仏のこと。
その阿弥陀仏は、
「全ての人を、いつ死んでも
往生一定(必ず浄土往生できる身)に救う」
と誓われています。

この弥陀の本願(お約束)によらねば、
我らの後生の一大事助かる道は二つも三つもないのだ。
だから弥陀一仏を信じよ、とお釈迦さまは勧められているのです。

阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代不善の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つもあるべからざるものなり

         (御文章二帖)
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖)
阿弥陀仏をたのめば、どんな罪悪深重の者でも
必ず浄土往生できるのです。

そこで、肝心の「阿弥陀仏をたのむ」とは、
どんなことなのでしょう。

「たのむ」は今日「お願いする」の意味で使われますが、
「御文章」の「たのむ」は、
そんな祈願請求の意味ではありません。
「憑む」と書いて「あてにする」「たよりにする」「うちまかせる」
という意味なのです。

「私の後生の一大事、助けてくだされる方は、
大宇宙でただお一人、阿弥陀仏だけであった」
と自力のはからいを全て捨てて、
弥陀にまかせ切ったことを、「阿弥陀仏をたのむ」といわれているのです。

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、
皆ことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり」
           (御文章五帖)
朝から晩まで、はからい満足のために欲に追い回されて、
静かに自己の脚下を見る時がない。
忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要です。
一年に一度、静かにお盆の墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、必ず死なねばならぬのか」
と、生死の一大事に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
酔生夢死で終わってはならぬ。
必ずこの法を聞き抜くぞ、と、
聞法の勝縁とするならば、有意義なお盆となるでしょう。


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この命には意味がある [なぜ生きる]

(平成22年6月号のとどろきより載せています) 

 今、日本で介護を必要としている人は、
500万に上り、年々、増加の一途をたどっています。
避けられぬ老いや病、突然の事故などで、
だれもがいつ直面するか分からないのが「介護」です。

ちょうど一年前、本誌で特集したところ、
たくさんの反響を頂きました。
読者の中にも、
今まさに介護に携わっている方が少なくありません。

今回は、親鸞聖人の教えを心の明かりとし、
苦難を乗り越えている皆さんを紹介します。


・・・・・・・・・・・・
最近、全国紙の人生相談に、
60代の主婦が介護の悩みを率直につづっていました。

“10年前から夫は寝たきり。
初めは気丈に介護していたが、
先が見えず、気弱になって大声で泣きたくなる。
この先、どんな気持ちで介護し、
何を支えに生きればいいのか?”

同様の思いを抱く方も多いのではないでしょうか。
昨年6月号の特集では、仕事をしながら、
アルツハイマー病のご主人を介護する
岐阜県のカズコさん(仮名・63)
を紹介しました。
日常の悲喜こもごもをしたために、
「うちんひと(うちの人)」で始まる40もの句に、
“両親を看ていたころを思い出して涙した”
“今、私も同じ気持ちです”
と多くの共感が寄せられました。
作品の一部を紹介しましょう。

うちんひと じぶんだれだか わからない
うちんひと こどもみたいに だだこねる
うちんひと みはなされたわ むかんしん
うちんひと よそみばかりで わたしみて
うちんひと たまにはにっこり にくめない
うちんひと わたしがいれば いいわよね

懸命に世話をしているのに、当の夫は自分に「無関心」。
病のためとは知りつつも、やるせない思いになります。
それでも「私がいればいいわよね」と
気丈に介護されていました。
カズコさんがこの句を投稿して間もなく、
ご主人は入院。
昨年8月に届いたお便りには、

「もっと優しく、いろいろしてあげればよかったと、
一人になって悔やんでいます。
一人になってうれしかったのは最初の一ヶ月くらいでした。
今は毎日が寂しいです」。

肉体的にも精神的にも負担の大きい介護生活ですが、
介護する人もされる人も、
互いに支え合うかけがえのない存在なのです。

そのご主人が昨秋亡くなられ、
悲しみの中、カズコさんは続けて本誌で
仏縁を深めていかれました。

「なぜ生きるか。弥陀の救いにあわせていただくために、
私たちは生まれてきたと分かり、本当にうれしいです。
今までいろいろなことがあったけれど、
『とどろき』に巡り会い、いちばん大事なことが分かって、
ああ、やっと本当の幸せになれた、
そんな気持ちになれてよかったなーと思います」

本誌を知人に贈ったり、アニメ『世界の光・親鸞聖人』シリーズを
毎日のように見たりと、光に向かうカズコさんです。

●「心の休まる時がない」・・・在宅介護の現実

親鸞聖人の教えを心の支えとし、
介護に向き合う読者が石川県におられます。
川田郁恵さんは、20年来の本誌読者。
寝たきりの息子・浩さん(28)の介助に、
日々追われています。
3年前、交通事故で脳に大きな損傷を負った浩さんは、
手足も顔の筋肉も動かせず、
人の世話がなければ生きられません。
朝6時、郁恵さんの一日は、おむつ替えから始まります。
声を失った息子さんに語りかけながら、
体をふき、姿勢を変え、栄養食を胃に流し込む。
午前中の3時間、ヘルパーが来ているうちに、
買い物や家事を済ませます。
週4日は、訪問看護師や作業療法士が来て、
浩さんのリハビリを行います。
「手足を曲げたり伸ばしたり、
リハビリは相当痛いみたいです。
息子はいつもつらそうな息遣いになります」
夕食を取り、夜の10時半にオムツを替えると、
浩さんはやがて眠りに就きます。
しかし夜中も、呼吸器をつけたのどに痰がたまれば、
郁恵さんが機械を使って吸引しなければなりません。
24時間、郁恵さんの心が休まる時間はないのです。

●その日、母子の人生は一変した

事故に遭うまでの浩さんは、
司法書士を目指して勉学に励む真面目な青年でした。
趣味は音楽。
大学時代は軽音楽部でパーカッション(打楽器)を担当し、
仲間にも恵まれ、充実した日々を送っていました。
「盆や正月に帰省してきたと思ったら、
一日でとんぼ返り。
私が聞法を勧めても、『僕には音楽があるからいい』
と反発するんです」
転機が訪れたのは卒業後、実家に戻ってからでした。
家に置いてあった本誌を読み、
“音楽には完成がない。完成のある道を求めたい”
と自ら聞法に足を運んだのです。
それからは、離れた場所へも、自転車で通うようになりました。

平成18年11月。
その日、浩さんはひどく慌てて自転車を走らせていました。
やがて道の向かいに目的地が見えてくる。
車道を横断しようとしたその時、
スピードを出したトラックがすぐそこまで迫ってきた。

事故の知らせを聞いた時、何であの子が?
って思いました。
仏教では「まかぬタネは生えない」と教えられます。
どんな結果にも、必ず原因がある。
それは自分のまいたタネだと。
お釈迦さまがウソを仰るはずはないけれど、
“おっとりした性格で皆から好かれている息子。
何も悪いことなんかしていないのに、
なぜこんな目に・・・・”。
息子の運命を受け入れられませんでした。
いや、正直に言えば、今もそうです。

幾度の難手術に耐え、
一命を取り留めた浩さんでしたが、
脳に大きな損傷を負い、歩くことも話すことも、
音楽を奏でることも二度とできなくなってしまいました。
「でも幸いなことに、仏法を聞く耳は、残してもらったんです」
しかし病院では、他の患者に気兼ねして、
朝晩の勤行も仏法の話も落ち着いてできない。
聞法もできなければ、
ただ空しいだけの時が過ぎるばかり。
「こんなの耐えられない」
事故から1年4ヶ月、郁恵さんはついに決断しました。
在宅介護の道を選んだのです。

自宅なら勤行も仏法の話も心置きなくできます。
私は以前に介護の仕事をして、
ヘルパーの資格を持っているんです。
世話なら私にできる、って家族に啖呵を切りました。
ところがいざ引き取ってみると、
一日のやるべきことをこなすのに精一杯で、
仏法の話をする余裕はない。
ちょっと時間ができると、
自分の体を休めるのが優先になるんです。
“わが子にもう時間がないというのに、
自分がいちばんかわいくて、
息子のことは二の次、三の次。
世話ができるとうぬぼれていた・・・・”
そんな心が見えてきました。

間もなく浩さんのために、
自宅で仏教勉強会を開くことにしました。
日中は『朗読版とどろき』を流しています。
「仏法を聞いた後は、とても穏やかな表情をしています。
目がキラキラ輝いていて、法悦にひたっているみたいなんです」
在宅介護を始めて約2年。
浩さんの顔色も徐々によくなり、
「病院から来たばかりの時は、瞳が小さかった。
今は目から生きようとする意志を感じる。
病人の目じゃないですね」
と看護師やヘルパーが口をそろえて驚いているといいます。
中には、本誌を読み聞かせているうちに、
自分が読みふけってしまう看護師がいるそうです。

体は動かないけれど、
浩は看護師やヘルパーさんに仏縁を与えているんですね。
私も、息子から教えられることばかりです。
今まで、仕事で聞法の時間に間に合わないと
参詣をあきためていました。
しかし、どんなに聞法したくても、
自分では行けない息子の姿に、
健康など種々の縁がそろわなければ、
一度の聴聞のご縁には遇えないのだと分かったんです。
時間の長短じゃない。
気持ちが問題なんだ、と残り10分でも駆けつけるようになりました。
人間はもろいものです。
元気だといっても、いつどうなるか分からない。
今しか仏法は聞けませんね。

●最後の一息まであきらめない

今年3月、郁恵さんがとても驚いた出来事がありました。
事故以来初めて、浩さんが「号泣」したのです。
顔の筋肉を動かせない浩さんは、目を潤ませる程度。
ところがこの日、郁恵さんがベッドの傍らで
本誌を読み聞かせていると、
突然、浩さんの目から大粒の涙があふれてきたのです。
ふいてもふいても止めどなく流れ、
服やシーツを濡らしていきました。
郁恵さんが読んでいたのは、
18年8月号の巻頭特集。
富山の病院で起きた「呼吸器取り外し問題」をテーマに、
命の意味を問う内容でした。

18年の夏といえば、事故の前、
いちばん熱心に聞法に励んでいたころです。
当時もこの号を読んだと思います。
「延命に意味はあるのか」
いざ自分が寝たきりになって、
この問いが、初めてわが身の問題となったのかもしれません。
その特集の終わりのほうに、
「弥陀の救いはハッキリする。臨終息の切れ際でも」
と書かれてある。
命が他人の手にゆだねられている浩にとって、
これが唯一の希望です。

大宇宙の仏方の先生である阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず摂取不捨の幸せにしてみせる」
と誓われています。

「摂取不捨」とは、ガチッと摂め取って決して捨てない、
浄土往生間違いない幸せの身にすること。
それはあっという間もない「一念」で完成します。

この身になるために私たちは生まれてきた、
と教えられているのが仏教であり、親鸞聖人なのです。


覚如上人(聖人の曾孫)は、

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって本願とせば、
いのち一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」。
              (口伝鈔)

弥陀の大きな慈悲は臨終の迫っている人でも救い摂れるように、
最悪の人を主眼とされている。
救いは一念で完成する、
だから最後の一息まで絶対にあきらめてはならないよ、
と仰っています。

●人生には目的がある

介護の苦労も、明るい笑顔で語る郁恵さん。
最後に語気を強めてこう言われました。

息子が事故に遭った時、私は絶望しました。
親身に世話をするほど、
最愛のわが子なのに本心は分かってやれない、
心に寄り添うことができない寂しさ、
無力を痛感しました。
私も息子も孤独なんですね。
けれども、阿弥陀仏は絶望しておられません。
私たちの心を分かってくださり、
命がけで必ず助けると誓われています。
すべてに見捨てられても、阿弥陀さまだけは、
この子を最後まで見捨てられない。
そのことがありがたくて・・・。
“なのに、親の私が何を嘆いているんだ、
常に立ち上がっている親でなければ、
こんな体になった息子が浮かばれない”
とまた前向きな気持ちになれるのです。
人生には目的がある、この命には意味がある。
弥陀のご本願あればこそ、
浩も私も生きておれるんです。


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死が恐ろしいとは思えない!? [なぜ生きる]

(問) 死が恐ろしいとは思えない

一度は死ななければならないことは分かっていますが、
僕は死ぬことがそんなに恐ろしいとは思えないのです。
だから後生の一大事ということが分かりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答)

 かつて滅亡寸前の南ベトナムの指導者であったグエン・カオ・キが、
「最後の一兵まで、祖国を死守せよ」
と絶叫しながら、
燃えさかるサイゴンを尻目に米空母へ逃げ込んだとき、
「逃げた男を叱った男が、逃げて来たよ」
とアメリカ人に笑われました。
その後、彼はアメリカで酒屋のおやじをしていたそうです。
日本でも例外ではありません。
あの有名な特攻隊を送り出した将軍が、
自分で転任令を書いて逃げ帰った例もあります。
あるガンの専門医は、
「不治のガン患者には、ガンであることを本人にも家族にも
知らせずにおくと、5年以上生きられるが、
家族だけに知らせても生きる期間は2年は縮まる。
それが本人にも知らせると、一年も生きる人は少ない」
と報告しています。
戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
案外、平気で死ねるようにみえますが、
そんな感情は続きません。

●あの大石も死を恐れた!?

あの忠臣蔵の大石内蔵助が切腹の時、
腹を開き短刀は握ったが、
手がふるえて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、
彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、と伝えられています。
「手を一つ 打つにつけても 
討つという 敵のことは 忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の内蔵助には、
死は眼中になかったかもしれませんが、
そのような激情は永く続くものではありません。

●人間最大の悲劇

シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは、こわいことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは、『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と言っていますが、
すべての人間の最大の悲劇は、
遅かれ早かれ死なねばならないところにあるということでしょう。
「今までは
他人のことぞと 思うたに
オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」
と言って亡くなった医者があったといいます。
自己の死は動物園で見ていた虎と、
ジャングルの中で出会った虎ほどの違いがあるのでしょう。

EPSON179.jpg-1.jpg
「忘れていた、忘れていた、
やがて死ぬ身であることを・・・」
と呟き、死んだ文豪もあったと聞きます。
人間はみな死ぬ。
しかし、すぐに死ぬとは誰も思っていません。
それは本当に自分が死ぬとは思われないということでしょう。
だから、どれほど想像力をたくましくしても死の実態は、
死の直前まで目隠しをされているのです。

その目隠しをはずされた時は目隠しされていた時の、
それどころではないでしょう。
平生に弥陀の光明に照育されなければ、
後生の一大事は分からないことなのです。


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生きる意味(2) [なぜ生きる]

我々は、生きがいを生きる目的だと勘違いしてしまいがちです。
政治も経済も科学も医学も、
個人的なものであれば、妻子、財宝、お金、 趣味など
すべて生きがいであり、生きる手段です。
それを人生をかけてやる、人生の目的だと勘違いしてしまうから、
あっという間に人生は終わり、
こんなはずではなかった、求めるのが間違っていたと
泣いて死ななければならないのだと、
親鸞聖人は警告しています。
前回より、長南 瑞生著『生きる意味109』より載せていますが、
お釈迦さまの生涯教えていかれたことを、
親鸞聖人のご教導なされたことを、
分かりやすく解説してくださっていますので、
それを読んでいただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、③と④を載せています。

よくある間違い③
「他の誰かのために生きる」
       という考え

次の「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「人の役に立つため」などともいわれます。
ほとんどの人が自分のことばかり考えている中、
他の誰かのために生きようということですから、
「生きるのは成長するため」より
さらに素晴らしい考え方といえるかもしれません。

他の誰かというのは、具体的には、家族や子供のためとか、
まずは身近な人が思い浮かびます。
それがさらに、能力や徳がある人ほど、
身内以外の人のことも考え始め、
友人のため、会社のため、日本のため、
世界人類に貢献するためと、スケールが大きくなります。
一人の人の人生でも、
子供の時には自分のことしか考えていなかったのが、
成長して社会人となれば、その社会の一員として家庭を築き、
仕事や地域の集まりなどで、努力に応じて
社会に貢献する割合も大きくなっていきます。
素晴らしいことです。

ところが現実問題としては、60歳にもなれば、
子供も社会人として独り立ちし、
自分の主たる仕事も終わることがほとんどです。
さらに年齢を重ねていくと、だんだんと衰え、
やがてどちらかというと貢献というより、
社会や家族に世話になるようになっていきます。
それはとりもなおさず、「他人のために生きている」
とはいえなくなってくるということです。
『60歳からの「生きる意味」』という本には、
こう書かれています。

子孫を残すという生物本来の役割が終わっている以上、
「あなたは何のために生きているのですか?」と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。

現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。

「社会に役立たない人は生きる意味はない」とはいえません。
どんなすごい人でも、
やがて死ぬまでには周りの世話になるでしょうから、
「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「何のために生きるのか」の答えにならないことが分かります。
では百歩譲って、優れた人の中には、
それでも何らかのすごい力で、
家族や社会に貢献できる人もあるかもしれません。

では、そのあなたが貢献した相手は
何のために生きているでしょうか?
もし特に意味を持たない人のために生きてしまうと、
自分の意味もなくなってしまいます。

子供であれば、子供は何のためにいきているのか。
子供はそのまた子供のために生きているとすれば、
そのまた子供は何のために生きているのか・・・、
そのまたまたまた子供は何のために生きているのか?
分からないまま、子々孫々までずっと続いていってしまいます。
社会に貢献するなら、社会というのは人間のあつまりですから、
その人たちは、何のために生きているのか。
社会は、そこに生きている人が、
よりよく生きるためにあるのですから、
そうやってみんなで協力し、
助け合って生きていくのは何のためかが問題なのです。
このように、誰か他の人のために生きるとか、
社会に貢献することは、大変素晴らしい「生き方」ではありますが、
「生きる目的」ではない、ということです。

ここまでの3つは、最初の「①生きるため」よりは
「②成長するため」のほうが克己心が必要となり、
さらに「③誰か他の人のため」は利他心も必要になりますから、
だんだん立派な考え方になってきたのですが、
それでもいずれも「生き方」の問題であって
「何のために生きるのか」という問いの答えにはなっていませんでした。
次からは、一応、答えているものを見てみましょう。

よくある間違い④
「愛のために生きる」
      という考え

(最後は自分か相手のどちらかが死んで、
別れていかなければならない)

まず、「愛のために生きる」というのはどうでしょうか。
誰しも人生で一度は大恋愛を夢みますから、
「人を愛するため」といえば、子供から大人まで、
いちばん人気がありそうです。
これはかなり「生きる意味」の答えになる可能性が
高いのではないでしょうか。
自分だけではあまり意味が感じられない場合でも、
好きな相手から愛されれば、
自分の存在に大きな意味を感じることができます。
そんな心情をドイツの文豪ゲーテは、
このように描いています。

ロッテは愛している!私を愛している!
あのひとが私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値あるものとなったことだろう。
             (『若きウェルテルムの悩み』ゲーテ)

あの人に愛されたい!
そのためなら献身的な努力も惜しみません。
そうして自分のすべてを捧げて愛する人と一心同体になれれば、
夢のような陶酔感にひたれます。
その幸福感は、哲学者・伊藤健太郎氏の著書『男のための自分探し』に、

誤解を恐れずに言えば、「結婚」は人生の唯一にして最大の幸福です。
              (『男のための自分探し』伊藤健太郎)
とあるほどです。

ところがそんな幸せも、長くは続きません。
1970年、アーサー・ヒラー監督の名作『ある愛の詩』は、
不滅のロマンス映画として歴史にその名をとどめています。
大富豪の一人息子で、勉強もスポーツも万能のオリバーは、
ハーバード大学時代、図書館で知り合った貧しいお菓子屋さんの娘、
ジェニーと恋に落ちます。
あまりの身分の違いに、
卒業したら音楽を学びにパリへ行くというジェニーを、
オリバーは引き留め、父親の反対を押し切って、卒業と同時に結婚。
仕送りは打ち切られますが、音楽の夢をあきらめたジェニーが
小学校の先生をして学費を稼ぎ、
オリバーはハーバードの法科大学院に進学します。
食うや食わずの毎日で、時には大げんかをしてジェニーが
出て行ったこともありますが、最後には戻ってきて、
「愛とは決して後悔しないこと」と夫にほほえみかけます。
2年間の苦学の末、ついにはオリバーは3位の優秀な成績で卒業、
ニューヨークの法律事務所に高給で迎えられました。
喜んだ2人は、子供の名前を話し合うなどして、
これから始まる新生活を思い描きます。
ところがニューヨークへ来てすぐ、
ジェニーは白血病で、余命幾ばくもないと分かったのです。
オリバーは次々入るやりがいのある仕事を断って、
必死に看病しますが、ジェニーはみるみる弱っていきます。
その年の冬の、ある寒い日、ジェニーが病気だと知り、
オリバーの父親がかけつけた時には、
ジェニーは息を引き取った後でした。
「なぜ言わなかった!私が力になったのに」
父親の言葉を、うつろな目をしたオリバーがさえぎり、
「・・・愛とは決して後悔しないこと」
とつぶやくと、一人、ジェニーとの思い出の場所に行き、
じっと座り込みます。
家を捨て、家族を捨て、莫大な財産をも捨てて、
ただ愛のために大変な苦労をしてきたのに、
思いがけず、その愛する妻を失ってしまいました。
今までの苦労は何だったのでしょうか・・・。

「結婚」が人生最大の幸福であればあるほど、
それが崩れてしまった人に、
「続かないからこそ美しいんだよ」と言ってみても、
全く慰めになりません。

世界的な文豪・シェイクスピアは、
その厳しい現実を、実に美しく言い表しています。

やっと想いをとげたとなると、戦争とか、
死とか、病気とか、きっとそんな邪魔がはいる。
そして、恋はたちまち消えてしまうのだ、
音のようにはかなく、影のようにすばやく・・・
そうなのだ、夢より短く・・・
あの闇夜の稲妻よろしく、
一瞬、かっと天地の全貌を描き出したかと思うと、
「見よ!」と言う間もあらばこそ、
ふたたび暗黒の腭(あぎと)に呑み込まれてしまう、
それと同じだ、すばらしいものは、すべてつかのまの命、
たちまち滅び去る。
             (シェイクスピア)

このことを、仏教では、「会者定離」と教えられます。
出会った者は、必ず別れなければならないということです。
好きであればあるほど、ずっと一緒にいたいのですが、
必ず別れの日がやってきます。
別れの日は、事前に分かるときもありますし、
突然やってくる時もあります。
その時、愛する気持ちが強ければ強いほど、
別れの時の悲しみも大きくなります。

それは男女の間に限りません。子供でも同じです。
母親の子供を思う心は、この世で最も誠実で崇高だといわれます。
そんな子供も、やがて成長し、
20年もすれば必ず巣立つ時がやってきます。
今まで命のように育ててきた子供が自分の元を離れると、
心にぽっかり大きな穴が開いてしまいます。
空の巣症候群とまではいかなくとも、
すっかりがっかりしてしまうのです。
フロイトとともに、初期の精神分析に貢献した心理学者シュケテールは、
このように言います。

子供を挫折した人生の目的に置き換えることはできない。
われわれの人生の空虚を満たすための材料ではない。
             (シュケーテル)

たとえどんなに一緒にいることができたとしても、
最後は自分か子供のどちらかが必ず死んで、
別れていかなければなりません。
たいていは自分のほうが先ですが、
子供に先立たれる親もたくさんあります。
愛する子供に死なれた悲しみはどれほど大きなものでしょうか。

江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ちこがれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、
生まれて一年も経つと、他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、
あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれています。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、
天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、
さとはどんどん衰弱し、あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、
一茶はこう詠んでいます。

露の世は つゆの世ながら さりながら
            (小林一茶)
露の世は、露のようなはかないものと聞いてはいたけれど・・・。
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできない
むせび泣きが聞こえてくるようです。

このように、会者定離ということからすれば、
相手が子供であれ男女間であれ、
とても愛が生きる目的とは言ってはいられないのです。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思わざりけり」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次回は内容を変更します。
続きを読まれたい方は、
書店にて長南 瑞生著『生きる意味109』をお求めください。
出版社名は、一万年堂出版です。


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生きる意味(1) [なぜ生きる]

(『生きる意味109 長南 瑞生著』より載せています) 

●生きる意味とは、生まれてから死ぬまでに、
これ一つ果たせば人間に生まれてよかったと
大満足できる「生きる目的」といっても同じです。

●すべての人に共通する人生のプロセスは、
一休が「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んでいるように、
冥土への旅であり、死へ向かう行進です。
もし生きる意味や目的がなければ、
苦しんで死ぬだけの報われない人生になってしまいます。

●ところが仏教では
「生まれ難い人間に生まれたことを喜びなさい」
と教えられています。
それは、人間に生まれた時にしか果たせない、
尊い目的が存在するからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(主な内容)

生きる意味について、よくある7つの間違い

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう。

①生きるために生きる
(アニマルな生き方では、
あっという間に人生は終わってしまう。)

②成長するために生きる
(頑張って苦しみを乗り越え、
どこへ向かって成長するのか)

③他の誰かのために生きる
(子供が独立し、定年を過ぎても、そういえるのか。)

④愛のために生きる
(愛する気持ちが強いほど、
別れの時の悲しみは大きい)

⑤自己実現のために生きる
(やりたいことには限りがないが、
命には限りがある。)

⑥生きたあかしを残すために生きる
(人生かけて何かを残しても、やがて必ず消えてしまう。)

⑦生きること自体が大事
(人生マラソンを走っていくと、やがて見えてくるのは崖っぷち)

今回は序章と①と②について打ちたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう

では、人間に生まれてよかったと大満足できる、
本当の生きる目的とはどんなものなのでしょうか?
人生を真面目に考えている人は、
誰に言われるともなしに、
生きる目的の大切さに気づく場合がほとんどです。
あなたもすでに、
自分なりに考えたことがあるのではないでしょうか。
ところが人生の目的を考える時、
そこには間違いやすい落とし穴がたくさん待ち受けています。
それらの落とし穴は、一度落ちると、
間違った生きる目的を信じ込んでしまい、
なかなか抜け出すことができません。
そうなると「目的地がわからない」より、
名古屋から京都に行きたい時に、
「東京」を京都だと思いこんでしまったら、
どうなるでしょうか?

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逆方向ですから、今より目的地から遠ざかってしまいます。
車なら、下道ではなく高速に乗ったほうが、
より速く遠のいていきます。
ローマの政治家であり哲学者であるセネカが、

道が反対の方向に進みでもすれば、
急ぐことすらその間の距離をいよいよ大きくすることの原因になる。

と言っているとおりです。
名古屋から京都へ向かう場合には、
たまたま同じ方向の「大阪」を京都と思いこんだ場合でも、
京都の近くを素通りして大阪に行ってしまいますので、
やはり本当のゴールにたどりつくことはできません。
いかに正しい目的地の把握が大切かが分かります。
同じように、正しい「人生の目的」を見つけることが
難しい人の特徴として、
すでに自分で誤った結論に達し、信じ込んでいるため、
他人のアドバイスを聞けないことが多くあります。
自惚れ強い私たちは、東京を京都だと思っているのに、
それを間違いだとは言われたくありません。
もしそれが大間違いだと分かると大混乱しますし、
場合によっては「もう東京が京都なんだ!
名前だって似ているじゃないか!」
などと押し通したくなりますが、
それでは単なる愚か者で、自爆するだけです。
その間違った方向性は数え切れないほどあるのですが、
特に危険なものは、大きく分けると次の7パターンとなります。

あなたも、このうちのどれか、
もしくは複数を考えたことがあるのではないでしょうか?
これらはどれも、突き詰めていくと「どうもおかしいな」
と分かりますので、まず何を言わんとされているのか、
それが自分の人生では何を意味するのか、
よくご理解いただきたいと思います。
では、一般的に、「生きる目的」について
どんな間違いが多いのでしょうか?

よくある間違い①
●「生きるために生きる」
        という考え
  (アニマルな生き方では、あっという間に人生は終わってしまう)

「何のために生きていますか?」
と聞いてまず簡単に出てくる1つ目は、
「生きるために生きる」
というものです。
それは例えば、
「生きるのは何のため?
そんなことは考える必要ないんじゃないかな。
生きること自体が大事なんだよ。
人は生きるために生きているんだ」
といった具合に出てきます。
このように「生きるために生きる」というと、
何か深いような響きがありますが、
実際には何も考えていなかった人が急に聞かれて、
焦って出てきた答えにありがちです。
これに似た考え方としては、
「生きるためには、お金を稼がなければならない。
そのためには、仕事をしなけれなならない」
と、生きるために仕方なく働いて生きている人、
食べるために生きている人も、
結局は生きるために生きているということになります。
ところが、この「生きるために生きる」では、
実は、生きる目的に答えたことになりません。
それは、「受験勉強は何のため」と聞かれて、
「受験勉強のため」
と言ったり、
「科学の目的は?」と聞かれて
「科学の進歩のため」と言ったりしても、

答えにならないのと同じです。
それに気づいた人は、
「生きる目的なんか、考えなくても生きていけるよ」
と言うこともあります。
確かにそのとおり、
生きる目的なんか考えなくても生きていけます。
現に、生きる意味を考えている人も、
考えていない人も、みな生きています。
何も考えず働いて、お金を稼ぎ、子供を生んで育てます。
そんな人生のすがたを一休は、

人生は 食て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる
            (一休)
と詠いました。
毎日、食べては出し 食べて出し、起きて寝て、
台所と便所の往復、布団の上げ下ろし、
毎日が同じことの繰り返しです。
その間、人それぞれいろいろな仕事をして、
趣味やスポーツ、旅行などで楽しみますが、
本質的には食べては出し、起きては寝ての同じことを
繰り返しているだけです。
その間に、子供があっという間に成長して親となり、
その子供もまたあっという間に親となり、
その間に自分は年を取って死んでしまいます。

ところが、そんな食べては出し、
子供を育てるだけの人生なら、動物でもやっています。

動物というのは、本能的に生きています。
本能的というのはつまり、
欲を満たすためだけに生きているということです。
欲の心は人間にもありますので、
仏教では、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の
5つの代表的な欲を五欲といいいます。

EPSON167.jpg-1.jpg
人間も、何も考えず、五欲を満たして喜んでいるだけの
本能的な生き方なら、生きる意味も目的も、
特に必要ありません。
それでも生きていけますし、現代は、
そんな人が増えているともいわれます。
ところがそんな刹那的な快楽を満たすだけの
アニマルな生き方では、心からの安心も満足もないまま、
あっという間に人生は終わってしまいます。

それでは生まれ難い人間に生まれたかいがありません。
このように「生きるために生きる」というのは、
生きる目的を考えていないということですので、
さすがにこの本を読まれる方に、
そんな方はめったにいないと思いますが、
このような人生のすがたをありのままに見つめて、
初めて生きる意味、目的が問題になってくるのです。


よくある間違い②
●「成長するために生きる」という考え
  (頑張って苦しみを乗り越え、どこへ向かって成長するのか)

人生論を読んでいくと、「生きるのは成長するため」
というものに出会います。
例えば「人生は苦しみや悩みを通して
成長するための学校のようなものだから、
苦しみ悩みにも意味がある」
というものです。
この「成長」というのは、大体において、
肉体よりも、内面的な成長、人格形成といったものです。
ところが、少し考えると、何だかおかしいことに気づきます。
せっかく成長しても、やはりだんだん衰えて、
最後は死んでしまいますので、
「肉体の成長のために生きている」とか
「健康のために生きている」のと同じで、
その目的は達成できません。
最後は完全に崩れ去ってしまいます。
そこで、この問題を解決するためか、
スピリチュアルなどでよくあるのは、
死んでも何か魂のようなものが続くとして、
生きるのは「魂を磨くため」「魂の成長のため」
という考え方に行き着きます。
それが肉体であれ、精神であれ、
放っておいて成長するものではありません。
やはり、頑張ったり、努力したりする必要がありますから、
「生きるのは成長するため」というのは
「何も考えずに生きるために生きる」よりは、
ずっと立派なことです。
それは、「一生懸命生きる」とか、「ひたむきに生きる」
「前向きに生きる」「プラス思考で生きる」
「道を切り開いて進む」など、いろいろな表現でいわれます。

では、そうやって、頑張って苦しみを乗り越え、成長するのは、
どこへ向かってなのでしょうか。
確かに、一生懸命、何か目的に向かってひたむきに走っている人の方が、
のろのろ走っている人よりも魅力的です。
ところがそのひたむきに走っている人は、
何のために走っているのかが問題です。
野球やサッカーなら、確かに素敵でしょう。
しかし、あなたの鞄をひったくって、
捕まらないように前向きに一生懸命ダッシュしているとしたら、
素敵でしょうか?最悪です。
できる限り、のろのろ走ってほしくなります。
一生懸命ひたむきに走っている姿だけ見たら、
素敵だと思いますが、一体どこへ向かって、
どういう意味があって走っているのかが大事だということです。
同じように、弁護士としての成長と聞くと、
かっこいい感じがしますが、
悪の軍団のお抱え弁護士として成長されても、
一般庶民には困ります。
科学者としての向上も、普通は期待したいところですが、
目標が、安くて効果的な凶悪兵器の開発のためでは、困ります。
人に迷惑な、変な物は作らないでほしいのです。
ですから、ただプラス思考で、頑張ればいいのではありません。
頑張って何をするのかという目的が、
いちばんの問題なのです。

究極的には、それが生きる目的なのですが、
これまでのところ、ほとんど論じられていないのが現状です。

目的地が存在しないのは、スピリチュアル系でも同じです。
例えば「魂の成長」を唱える、飯田史彦氏の説を聞いてみると、
魂が成長していくと、どんどん苦しい試練がやってきて、
最後は学校の卒業試験のような、
最も苦しい試練がやってくると言います。
それを卒業すれば、また宇宙の別の場所で
成長のための試練を受け続けます。
一体どこに、そんな根拠があるのかと思ったら、
よりどころは催眠状態の人の証言でした。
なぜそれが根拠になるのか分からないので、
ある程度教養のある人には一蹴されそうです。
ですがここでは目をつぶって、
なぜ宇宙のいろいろな所で試練を受け続けなければならないのか
耳を傾けてみましょう。
するとかろうじて「宇宙自体が自らを成長させるため」
と説明します。
では最終的に、宇宙はなぜ成長したいのでしょうか?
飯田氏はこう言います。

なぜ、宇宙が「成長した」と願うのかといえば、
そこに理由などありません。
        (『生きがいの創造』飯田史彦)

これにはさすがの催眠状態の人も、答えられなかったようです。
このように「魂の成長」説を、誠実に聞いてみたとしても、
苦しい目に遭っても成長を求める理由や目的は、出てこないのです。
これでは結局、意味も分からず苦しみ続けなければなりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まとめ

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、②まで打ちました。
次回は③から読んでいただこうと思います。


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死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか? [なぜ生きる]

●死を考えずに明るく生きたいという人生観は間違いか?
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そのような人生観を持っている人がほとんどでないでしょうが、
真面目な人生観とはいわれません。
「今までは他人が死ぬぞと思いしに、
俺が死ぬとは、こいつたまらん」
と泣いて死んだ医者があったそうです。
人間一度は死なねばならない、
とはだれしも一応は合点しているのですが、
「自分の死」に直面した時は、動物園で見ていたトラと、
山中で突如出会ったトラほど違うのです。
EPSON067.jpg-1.jpg
「一度は死なねばならぬことぐらいは、分かっている」
と言いますが、
それは「他人の死」であって「自分の死」という大問題については、
千里先の雷か百里先の馬が転んだほどにも、
考えてはいないのです。
もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
平気で死ねるようにみえますし、
難病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいますが、
あれは極度の興奮で一時気が狂っているか、
死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのです。

四十七士の討ち入りで有名な大石内蔵助は、
腹を開き短刀は握ったが、
手が震えて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、といわれています。
「手を一つ打つにつけても討つという、敵のことは忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の大石には、
死は眼中にはなかったでしょうが、
そのような激情は続くものではありません。
シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは怖いことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と、言っていますが、すべての人間の悲劇は
遅かれ早かれ死なねばならないところにあります。
核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、
交通戦争だと騒いでいても、
所詮は死が怖いということではありませんか。
死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、
それに衣を着せ和らげたものと
対面しようとしているにすぎません。
しかしどんなに死を考えないように、
明るく生きようと努めてみても、
必ずやってくる「自分の死」から、
完全に目を背けることはできません。
麻酔薬は一時苦痛を和らげ、ごまかしてはくれますが、
麻酔がさめたら苦痛と対面しなければならないように、
やがて私たちはどんなことをしてもごまかすことのできない自分の死と、
自分だけで対面しなければならない時が、必ず来るのです。

ではなぜ死が恐ろしいのか。
それは、
「死んだらどうなるのか」
という未知の後生に入っていく不安があるから恐ろしいのです。
これを仏教では、「暗い後生」といい、
「一大事の後生」といいます。
親鸞聖人は、
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復(かえ)らず。
徒に(いたずらに)後悔を胎す(のこす)ことなかれ」
            (教行信証)
と教え、それゆえに蓮如上人は、
「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと
朝夕思いはんべり」
と、この一大事の後生の解決(信心決定)を急げと
叫び続けておられます。
この魂の解決をして、
死んでよし生きてよしの無碍の大安心へ雄飛しない以上、
あなたの求めていられる光明の人生は開かれません。
一切の人生苦の根源である死の解決こそ
一生参学の大事であり、
全人類究極の目的なのです。
しかもそれは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願力によらなければ
絶対に果たし得ない難中之難の大事です。
この一大事の後生の解決のできうる唯一の道を教える
真実の仏法を求めて、
真に明るい人生を心行くまで味わってください。


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