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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

後生の一大事 ブログトップ

死を解決して100パーセント明るい未来を! [後生の一大事]

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まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
このゆえに人間に生まれることを喜ぶべし

               (源信僧都)

人間に生まれたことは大いなる喜びである、
と仏教では教えられています。

ところがせっかく人間に生を受けながら、
私たちはどれほど喜んでいるでしょう。
それどころか“なんで生まれてきたのだ”
と恨んでみたり、“つまらない人生、サッサと生きて、
サッサと死にたい”と思っている人も多いようです。
生まれたことを心から喜べないのは、
喜べなくさせているものがあるからです。
それは一体、何なのでしょうか。

●老後より確実な未来

PPKってご存じですか。
ピンピンと元気に老いて、病まずにコロリと死ぬ。
略して“ピンピンコロリ”という、
こんな言葉が、はやっています。
少子高齢化に伴い、このように考える人が増え、
年を取っても健康でいるための食生活や運動に、
注目が集まっています。
年金や医療制度については、国会でも喧々囂々の議論がなされ、
制度に対する国民の不審が選挙結果を大きく左右します。
4月に始まった「後期高齢者医療制度」なるネーミングが不評で、
「長寿医療制度」と名前を変えても、
国民の不安はなくならず、
「高齢者の切り捨てだ」
「年を取ったら死ねと言うことか」
と猛反発の声が上がりました。
納めた年金が本当にもらえるのか、
現行の制度で将来に対応できるのか、
誰もが関心を持っています。
老後の生き方を論じる書も多く出版されました。
最近は、独身者だけでなく、
既婚者も伴侶と死別すれば最期は独り、
ということで、死を迎えるまでの独りの生活に
関心が高まっているようです。

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ところが、その先はどうでしょう。
何も語られていません。

たまに死後に言及しているかと思えば、
遺品や遺骨の後始末のこと。
あたかも、電車を降りる時、
座っていた席をだれに譲るか論じているようなものです。
でも、電車を降りる人にとっての一番の問題は、
降りた自分がどこへ行くのか、ということではないでしょうか。

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若死にすれば老後はないが、
死は、すべての人にやってくる100パーセントの未来です。

室町時代の禅僧・一休は、

“門松は 冥土の旅の 一里塚
    めでたくもあり めでたくもなし”

と言いました。
「冥土」とは死後の世界で、
生きるということは、冥土へ向かって旅をしているようなもの。
一日生きれば一日死に近づく。
万人共通の厳粛な事実。

人生の全体が、何か黒々とした闇の中に、
否応なしに引きずり込まれていくような感覚を持っている人は
どれだけあるでしょうか。

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硫化水素の自殺者が後を絶ちません。
きっかけは、インターネットで、
楽に死ねる方法として紹介されたことでした。
しかし、硫化水素自殺を図り、
途中で外に飛び出した29歳の女性は、
「ネットに書いてあったのとは逆で、
本当に苦しかった。死ぬことが急に怖くなった」
と告白しています。

また、読者のMさんも、
仏法に出遇う前の体験を次のように記しています。

ネクタイで輪を作り、天井から下げました。
これでもう楽になれると、
輪の中に首を入れたとき、急に「死んだらどうなる?」
と真っ暗な心が出てきたのです。
考えもしなかった恐怖心でした。
「これは死ねない!」と思った瞬間、
体の重さでネクタイがちぎれ、
床にドスンとたたきつけられました。

想像していた死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあります。
「死んだら楽になれる」と言っている“死”は、
頭で想像している死であり、
襲われる恐れのない檻の中のトラを見ているに過ぎません。
山中で突如バッタリ出会った猛虎ではないのです。

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死を遠くに眺めている時は「死は休息だ」「永眠だ」
「恐ろしくない」と気楽に考えていますが、
いざ直面すると、死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのか全く分からない。
最も重要なことを、実は最もおろそかにしていたことに
愕然とし、お先真っ暗な状態にうろたえます。

仏教では、この「死後どうなるか分からない心」を
無明の闇とか、後生暗い心といわれるのです。

●今の私を暗くするもの

すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心であると仏教では教えられています。


なぜでしょう。
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。
三日後に大事な試験を控えている学生は、
今から心が暗くなります。
テレビでお笑いを見ていても、
“こんなことをしている場合じゃないのに・・・”
と落ち着かない気持ちになります。
五日後に生死にかかわる大手術を控えた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうや」
と言っても無理でしょう。
逆に一週間後に楽しい旅行が待っているとなると、
今から心がウキウキします。
毎日の仕事や家事は変わらなくても、
楽しい気分でやっているうちに、
いつも以上にはかどった、という人もあるでしょう。

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未来が暗いと現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
死後の不安と現在の不安は、
切り離せないものであることが分かります。
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

明るい太陽の下、視界がハッキリ開ける時は、
安心して車を走らせることができますが、
前方が深い霧に包まれていると、
だれでも走るのが不安になります。
高速道路のカーブの手前で、
スピードを上げる人はないでしょう。
曲がった先に何が待ち受けているか分からないからです。
後生暗い心とは、今が暗い心です。
確実な未来が分からぬ不安が、
現在の私を覆っているのです。

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『千の風になって』という歌が流行し、
「死別の悲しみが慰められた」
「死に対するイメージが変わった」
と言う人もあります。

しかし、私たちの感じ方で
後生の実態が変わるわけではないでしょう。

葬式でこの歌を流し、
一言の説法も無く終わった寺があったそうですが、
これでは仏教になりません。
たとえ一時、悲しみが薄らぎ、慰められたとしても、
必ず来る自己の大問題に対する解決にはなっていないのです。

現世でいいことをやれば魂のステージが上がって、
死後、今よりいい所へ行けると言う人もありますが、
本心から、そう思えるでしょうか。
だれかから言われて、そうかな、と信じているだけでは、
後生の不安はなくなりません。
あなたの心は本当にスッキリ晴れわたっていますか。
「死ねばどうなるのだろう」
「人生をリセットして、また人間に生まれ変わりたい」
「念仏称えているから、極楽へ往けるに間違いない」
「悪いことばかりしているオレは、
どうも地獄へ行く気がする」
後生ハッキリしない心は皆、後生暗い心です。
晴れたかどうか分からないのは、
まだ晴れていないからです。

●後生明るい心になる

この後生暗い心を破り、未来永遠の幸福にしてみせる、
と誓われているのが弥陀の本願であり、
その弥陀の本願一つを説かれたのが仏教なのです。

弥陀の本願とは、
本師本仏と仰がれる阿弥陀仏のなされているお約束のこと。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
とおっしゃっています。
「無碍の光明」とは阿弥陀仏のお力。
弥陀のお力は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
後生を明るくする、智慧の太陽なのです。

弥陀の光明によって無明の闇(後生暗い心)がブチ破られて、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”と心が一つに定まったことを、
「往生一定」
と蓮如上人は言われています。

いつ息が切れても浄土往生間違いなしと
「後生明るい心」が生まれるのです。

合格発表までの受験生は、大丈夫だろうか、
ダメだろうかと千々(ちぢ)に乱れて定まりませんが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
弥陀の救いは、
決してぼんやりしたものではありません。

また、人の話を聞いて納得し、
「もう助かっているんだ」「死んだら極楽に連れていってくださる」
と自分で信じることでもありません。
「今こそ明らかに知られたり」
と躍り上がる明らかな体験です。

「一念の信心定まらん輩は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし」
         (蓮如上人)

仏法を聞き求め、一念の信を獲て、
現在も未来も真に明るい人生を歩ませていただきましょう。

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葬式・法事で助かるのか!? [後生の一大事]

今日、仏教界には、ひいきのひき倒し、というか、
親鸞聖人が現世の救いを説かれたことを強調するあまり、
「釈尊や親鸞聖人は、死後のことは説かれなかった」
という人がいる。
確かに親鸞聖人にみ教えの真髄は、
「この世で救われる」ところにある。
これを、「平生業成」「不体失往生」「現生不退」という。
弥陀の本願に救われ、この世が「心は浄土の遊ぶなり」
「光明の広海」となることは間違いない。

だからと言って、「死後を説かれなかった」と脱線することは許されない。
釈尊や親鸞聖人は未来世の実在を認められての上で、
現在の救いを教えられたのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教の根幹は因果の理法であり、
因果の道理を離れて仏教はありえない。

一切の現象には原因がある。
原因なしに生ずる結果は万に一つもない。
この因果の法則は科学を初め、
あらゆる学問の大前提になっているが、
仏教では我々の生命に過去、現在、未来の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説く。

これを三世因果の教えという。
これこそ他宗教に対する仏教の旗印といっても過言ではない。
我々の生命に三世があることについては、
否定する者も肯定する人もあるだろう。
来世を無とする説は唯物論、共産主義などで、
仏教では「断見外道」、または「無の見(むのけん)
」という。
一方、霊魂が不滅だから来世ありとする説は、
キリスト教やマホメット教など、
ほとんどの宗教の説くところであり、
仏教では「常見外道」、または「有の見(うのけん)」という。
仏教は無霊魂説である。
釈尊は固定不変な霊魂の実在を認めず、
業の不滅を説かれた。

即ち『阿含経』にある如く、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、
無我なるが故に常有に非ず」

と説かれ、「死後はない」とする断見外道も、
「死後には霊魂が存続する」とする常見外道も否定しておられる。

インドで小釈迦、八宗の祖師とうたわれた龍樹菩薩も常見外道(有の見)と、
断見外道(無の見)を徹底的に破られ、
業の不滅を明らかにされた。
親鸞聖人は龍樹菩薩の大活躍を『正信偈』に、
「悉能摧破有無見」
(龍樹菩薩は悉く能く有の見、無の見を打ち砕かれた)
と讃えておられる。
親鸞聖人も同じ立場に立っておられるのだ。

●不滅の業と来世

では、業が不滅だから来世があるとは、
いかなることであろうか。

業とは中国の語で、サンスクリット(古代インドの言語)でカルマといい、
元来(行為)の意味である。
行為は残る。一種の勢力となって残る。
その業力が因となって果を結ぶ。
善因には善果、悪因には悪果あり。

ここに厳粛なる因果業感の理法が成り立つ。
我々は日々、口、体、そして心で
数え切れない程の行為(業)を重ねている。
その無数の業は目に見えない業力となって存続する。
業は物質でも精神でもない。
今生の身心は離散しても業は残る。
この業は次生の身心を生み出す。

今生の身心と次生の身心とは同一のものではないが
業が両者を連鎖している。

玉突きの時、白玉の速力とその方向は
必ず赤玉の動く方向と速力を決定する。
だから赤玉と白玉とは同一のものではないが
その間に密接不離の関係があるようなものである。

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仏教では、業力は「阿頼耶識」という識に蓄えられる、
と教える。

「蔵」という意味であるから、阿頼耶識を「蔵識」ともいう。
天親菩薩は阿頼耶識を、
「暴流(ぼうる)の如し」と言われた。
「暴流」とは滝のことだ。
遠方から見れば滝は一枚の白い布を垂らしたように見えるが、
接近してみれば、激しい水の落下で時々刻々と変わっている。
かくて不滅の業力は、流れ流れて、
因果相続して窮まりなく、
今生の果報尽きても来世の新たなる果報を引き、
幾度も生死輪廻止むことがないのである。

万物は輪廻する。
車輪の果てしなく繰り返すようなものである。
仏教では、人間は生まれ変わり死に変わりすると説く。
それも犬や猫や馬になったりするのだが、
それは本当かという質問をたびたび受ける。
我々は過去ではいろいろのものに生まれ変わったと思う。
犬や猫の気持ちがよく分かる。
言葉こそ通じないがその気持ちはよく知られる。
彼らの気持ちがよく分かるのは、
自分もいつの世にか、犬や猫であった証拠ではないか。
そう考えると牛の気持ちも分かるし、馬の気持ちも分かる。
蜻蛉や蝶の気持ちも分かるし、
カタツムリやトカゲや蛇の気持ちさえ分かるような気がする。
我々は過去で何にでも生まれていたと思われるのである。

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今日の生物科学では人間受胎の現象を詳細に説明しているが、
なぜに私が、特定の父母の間に生まれ、
男女、貴賎、賢愚、美醜などを持たねばならなかったかという
本質問題になると沈黙する。
いわんや父母未生の以前の世界のことなどは研究することもできない。
仏教は、ここに峻厳な因果の大道理に立脚して永遠不滅の業があると説き、
その不滅の業が内因となり、
父母を外縁として我々の存在を説明する。

ゆえに特定の父母に受生したのも、
偶然でもなければ神の命令でもない。

自業自得である。
即ち自己の立場を生み出したものは
かつて自己の意思によって造った業なのである。
同じ父母から生まれながら、
兄弟姉妹の相違するのも各自の過去の業因のためであり、
兄弟よく相似しているのは父母という外縁の同一によるものだ。

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●仏典を貫く教え

三世因果の教えは今日、誰もが純粋に仏説と認める
小乗経典の『阿含経』より始めて、
大乗経典の『涅槃経』に至るまで、仏教経典を一貫する。

したがって、前世、あるいは来世の存在もまた、
仏説であることは勿論である。

『応報相応円珠経』には、
その時、世尊、諸々の比丘に告げたまわく、
若し殺生の人多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも必ず短寿を得ん。
不与取を多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも銭財に多難あらん

ここでは、十不善行と十善行の三世因果が明白に示されている。
『雑阿含経』には、
若し、命終の時、この身は若しくは火焼せられ、
若しくは塚間に棄てられ、風に飄され、
日に曝さるるとも、久しくして塵末となるとも、
心意識は久遠長夜に正信に薫ぜられ、戒、施、聞、慧に薫ぜられる

とある。
肉体が滅んでも、心意識が久遠長夜に続いてゆくと説かれているのだ。

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●親鸞聖人と三世因果

かかる釈尊の教えをそのまま、
生涯かけて明らかにされた方が親鸞聖人である。

聖人が三世因果の教えに立脚して
弥陀の本願を説かれたのは、
当然すぎるほど当然のことだ。

『教行信証』などから、親鸞聖人が、
三世について書かれたものを列記してみよう。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴せん

        (教行信証総序)
ひとたび人身を失いぬれば、
万劫にもかえらず

        (教行信証行巻)
「昿劫」「万劫」ともに、
果てしない未来世を表している。
「この逆を犯す者は、身壊れ、命終えて、
必定して無間地獄に堕し」
        (教行信証信巻)
「身壊れ、命終えて」の後に、
つまり死後に「必定して無間地獄に堕し」
と言われている。
死後の地獄である。
未来世の浄土往生についてもハッキリと言われている。
「この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
         (末灯鈔)
「地獄、極楽はこの世のこと、
と親鸞聖人は教えられた」
と主張する人は間違いである。

今日、真宗の人々が最も読む『歎異抄』においても、
死後の実在を前提とした親鸞聖人のお言葉が多い。
一切の有情は皆もって世々生々の父母・兄弟なり。
いずれもこの順次生に仏に成りて助け候べきなり

            (歎異抄第五章)
名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、
力なくして終るときに、彼(か)の土へは参るべきなり

           (歎異抄第九章)
来生の開覚は他力浄土の宗旨、
信心決定の道なるが故なり

         (歎異抄第十五章)
「『浄土真宗には、今生に本願を信じて、
彼土にして覚を開くとならい候ぞ』とこそ、
故聖人の仰せには候いしか」
         (歎異抄第十五章)
『歎異抄』に記されている「順次生」「彼(か)の土」「来生」
いずれも「未来世」のことであることは明らかだ。
釈尊や親鸞聖人が業の不滅を説き、
三世の実在を教えておられたことは以上の通りである。

●過去と未来を知見

では、かかる三世が如何なる因果関係によって
成立しているのだろうか。
そのことについて釈尊は、
『因果経』に明らかにご教示しておられる。
即ち、「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、
後世の果を知らんと欲せば現在の因を見よ
」。
いわゆる現在世の苦楽、禍福などは、
過去世の善悪の業報であり、
現在世の善悪の業はまた、未来世の苦楽禍福を生み出す。

個人の禍福は偶然でもなければ神の摂理でもなく、
まったく自業自得である。
よって三世因果の理法は、過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因より発するのだから、
現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来とを
知見できることを教えている。

では我々の未来に何が待っているのか。

●死後は地獄か極楽か
     厳然たる後生の一大事

死後の世界は、厳然としてある。
釈尊も親鸞聖人も、明確にそう説いておられることを、
前章で述べた。

それは、希望に満ちた明るい「極楽浄土」であろうか、
暗黒の苦しみの「地獄」だろうか。
「地獄」とは、中国の言葉である。
サンスクリットで釈尊は、「ナカラ」と仰有った。
それを中国で「地獄」と翻訳したが、
「苦界」(苦しみの世界)という意味である。
「ジゴク」は、この世にも死後にもあると教えられるのが仏教だ。
インドネシアの暴動や、ドイツの超特急事故の現場は、
多くの遺体が横たわり、さながら地獄の様相であったろう。
悲惨で救いようのない様子を、この世のジゴクと言う。
また、借金地獄に堕ちている人もあれば、
受験地獄に苦しんでいる学生もある。
不安な暗い心で、生きる目的のない日々を送っている人も皆、
ただ今からジゴクへ堕ちている人である。
「私ほど業な者はいない」
と他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸が絶えないから、ほとんどの人は、
すでにジゴクへ堕ちていることになる。
『大無量寿経』には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)

と説かれ、今が苦悩の絶えない人は、
必ず死後も地獄の苦を受けると教えられた。

未来は、現在の延長である。
現在が闇の生活なら、
死後もまた闇の地獄へ堕ちて苦しまねばならない。

では、死後の地獄とはどんな世界か。
『賢愚経』に釈尊は、
「如何なる喩をもってしても、地獄の苦は説けない」

と仰有った。強いて、
「教えたまえ」
と願いでた仏弟子に、
朝と昼と夜と、
それぞれ百本の槍で突かれる苦しみをどう思うか」
と尋ねられた。お弟子は、
「一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」。
そのとき釈尊は、豆粒大の石を御手にとられ、
「この石と向こうの雪山と、どれほど違うか」
とお尋ねになった。
「雪山」とは、ヒマラヤ山である。
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子たちに、
「一本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
ジゴクの苦はあの雪山の如し」
と仰有っている。

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大衆に地獄の実在を教えることは、
魚に火煙を知らせる以上に困難であり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難だったと思われる。

こんなこととは知らずに、虎皮のフンドシの鬼や、
地獄の釜をそのまま事実と思って嘲り、
疑っているのは、幼稚な仏教観である。

●“冥福を祈る”心理
    感情は死後の世界を肯定

「ご冥福をお祈ります」
の「冥福」とは、仏法の言葉である。
「冥土の幸福」を略したものだが、
「元旦や、冥土の旅の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし」
という一休の歌にもあるように、
「冥土」とは、死後の世界を言う。
「冥」には、「かたあかり」という意味がある。
スダレのように、片側からはよく見えるが、
反対側からは見えないことを表す。
死後の世界からは、
この世の我々の様子は手にとるようにわかるが、
私たちには、死後の世界のありさまがわからないから、
冥土と言われる。

「冥福を祈る」とは、故人の死後の幸福を祈ることになるから、
肉親や知人・友人が亡くなったとき、
すべての人が使う言葉と言ってよかろう。
平生は、死後の地獄なんかあるものかと、
せせら笑っている人でも、肉親や知人が亡くなると、
たちまち殊勝そうな顔で、
「ご冥福をお祈りします」
と言い出す。

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共産主義を信奉している国の人たちは、
死後の世界を認めないはずだが、
大統領などが死去すると、半旗を掲げ、
国葬をとり行うではないか。
クレムリンの「赤の広場」の裏手には、
旧ソ連の歴代書記長の墓があり、
花がそなえられているという。
死後がないなら、死体はただの肉塊となり、
墓も葬式もいらない。
思想的矛盾と言わねばならぬ。
自他ともにインテリと認める人は、
概して死後の世界を否定し、
またそれが知識人の証明であるかに思っていることが多い。
科学者には、その傾向が顕著であろう。
しかし、ひとたび肉親などの死にあうと豹変して、
平生の信念はどこへやら、
「心から、ご冥福を・・・」
と弔辞を読んでいる。

あるいは泣きながら、
「静かにお眠りください」
と言う人もある。
生前、その人の好きだった食べ物や酒などを墓に供え、
語りかけている光景も目にする。
周囲の人も、何の不審も持たない。
死後がなければ、「冥土の幸福」を祈る理由もなく、
まったくナンセンスになってしまう。

「安らかに眠る」ものもなく、墓も必要ない。
これは、死後の世界を否定し切れない感情が
私たちにあるからであり、しかもその世界は、
暗く苦しいものであると、予感しているのである。

死んで極楽浄土に往っている人の、冥福を祈るだろうか。
暗い世界に沈んでいるのではないかと思うからこそ、
「幸せになってください」と願うのである。
一片の知性によって、死後の苦界を否定してみても、
死んだ親などが苦しんでいるのではと思うのは、
そう思わずにおれなくする実存があるからという平凡な真理を、
かみしめねばならぬだろう。

地獄があるかないかは、知識の問題である。
死んだ後が恐ろしい、助かりたいという気持ちは、
人間の問題である。

死後の地獄を恐れる心は、
「地獄なんてないだろう」という知識くらいで
清算されるワケがないのだ。

●必堕無間の一大事

一歩、後生と踏み出すと、真っ暗な心が出てくるではないか。
今晩死んでも、覚悟はよいか。
いやーな思いになるのを、「後生暗い心」という。
その心を抱えて死ねば、地獄である。

釈尊は、
「必堕無間」
と説かれ、「必ず無間地獄へ堕ちる」と仰った。
中国の善導大師は、
ひとたび泥犂(でいり・地獄)に入りて
長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う

と説かれている。
親鸞聖人が、
「もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん」
と仰ったのは、暗い心(疑網)を抱えたまま一息切れれば、
気の遠くなるほど長い間、
苦患に沈まねばならぬという意味である。

これを、「後生の一大事」という。
「後生」とは死んだ後。
取り返しのつかない大事件が惹起するから、一大事だ。
人生の目的は、この一大事の解決以外にない。
ではどうすれば、後生の一大事は解決できるのか。
それは、仏法を聞き、
阿弥陀如来の本願に救い摂られるしかないのである。

ゆえに釈尊は、仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
と説かれ、親鸞聖人も、
「一向専念の義は、往生の肝腑、
自宗(仏教)の骨目なり」
と仰った。

仏教は何のために聞き、何を達成するのか、
よく知って、一日も早く、
目的を完遂させていただかねばならない。

●成仏と読経の関係は?
    池に石を投ぜられた釈尊

少し前の資料だが、国民生活センターによれば、
平均の葬儀費用は、249万円で、
内訳は次のようになっている。
葬儀社へ・・・87万円
寺へ・・・48万円
飲食費・・・31万円
香典返し・・・72万円
その他・・・11万円
(平成10年9月号のとどろきより載せています)
盛大な葬式を求める背景には、
死者への追善供養を重視する考え方がある。
死んだ家族の「霊」は、どこへ行ったのか。
一般には、極楽とか天国と思われているが、
そんな楽しい世界へ行っているなら、
霊を慰める必要はまったくない。

生きている人間の方が、
慰めてもらいたいくらいだろう。
やはり何となく、死者は暗黒の世界で苦しんでいるように思うのだ。
それで、お金をかけた葬式をしなければ、
「死者は成仏できないのでは」と考え、
張り込んで、できるだけ長いお経を読んでもらおうとする。


あるとき釈尊に、一人のお弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、
死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、
本当でしょうか」
と、尋ねた。
釈尊は、黙って小石を一個拾われ、
近くの池の中に投じられる。
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さし、釈尊は、
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながらまわれば、
石は浮いてくるであろうか」
と、反問されている。
お弟子が、
「石は浮いてきません」
と答えると、
「そうであろう。石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
だから、どれだけ周囲の者が『浮いてこい』と繰り返しても、
浮かび上がるはずがない。
人間もまた同様だ。
人はそれぞれの罪悪の重さによって、
死後に生まれる世界が定まるのだ。
この世の者が、経文を読んでも、
死人の運命が変わるはずがない」
釈尊は、読経や儀式で死者が救われるのではないと
教えられたのだった。

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●追善供養されなかった聖人

「さらに親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来(釈尊)の教法を、われも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」
と、無我に仏教を相承なされた親鸞聖人は仰っている。
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏一遍にても
申したること未だ候わず」
         (歎異抄第五章)
“この親鸞は、死んだ両親の追善供養のために、
一度の念仏を称えたことはない”
と言われるのである。
念仏も称えたことがない、とは、もちろん、
孝養のための読経をしたり、線香をたてたり、
花を供えることもなかったということだ。
それでは、親鸞聖人は不孝な方であったのか。
そうではない。
4歳で父君、日野有範卿と別れられ、
8歳で母君、吉光御前と死別なされた聖人は、
人一倍、親恋しいお心が強かったに違いない。

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また、「恩を知らざる者は畜生に劣る」
と知恩、感恩、報恩を厳しく教えられる仏教を求められ、
阿弥陀仏に29歳で救い摂られ、
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
と、恩徳讃を歌われた聖人である。
深重なる仏恩、広大なる師恩に感泣なされた聖人が、
阿弥陀如来、善知識・法然上人についで、
大恩を感じておられたご両親の魂の行く末を案じられないわけがない。
読経や念仏で、ご両親を救えるなら、
どれだけでもなされただろう。
しかし、それは救いにならないという、
釈尊のご教導に従われ、聖人は追善供養を一切、
なされなかったのだ。

そもそも経典は、釈尊が苦しみ悩む人に説かれた教えを、
お弟子方が書き遺したものである。
死人に説法なされたはずがない。
あくまでも、現在、生きている苦悩の衆生を
真実の幸福に導くための経典なのだ。

○葬式・法事を勝縁に

では、葬式や法事や読経はまったく無意味なのだろうか。
それは、勤める人の心にかかっている。
厳粛な儀式で、わが身を反省して罪悪と無常を観ずれば、
有り難い勝縁となる。

また法事も、よく分からない読経のみで終わっては所詮がない。
そのお経に説かれている真実の教えを聞かせていただいたり、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』を皆で聴聞して、
ますます信心決定せねばならぬと知られてこそ、
意味があるのである。

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ。
御心得あるべく候」
       (御文章一帖目六通)
蓮如上人のお言葉を深くかみしめ、
葬式、法事も勝縁に、人生出世の本懐に向かわねばならない。

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●肉体より魂の葬式を
     「賀茂河にいれて魚に与うべし」

「親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」(改邪鈔)
賀茂川は、京都に流れる有名な川である。
京に生まれ、京で晩年を過ごされた親鸞聖人には、
馴染みの深い川であっただろう。
その賀茂川に入れて、
自分の亡骸を魚に食べさせてやってくれよと、
聖人は仰っている。
驚くべきお言葉だ。

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遺骨を大切にしたり、葬式や法事に力を入れる風潮と
正反対だからである。

このお言葉は、種々に味わうことができるが、
まず一番は、遺体の後始末や肉体の葬式よりも、
魂の解決こそ急がねばならないのみ心であろう。

我が祖師・親鸞聖人は、阿弥陀仏に救い摂られた一念をもって、
魂の臨終であり、心の葬式だと教えられた方である。
『愚禿鈔』には、
「信受本願 前念命終、
即得往生 後念即生」
と仰せられている。
「信受本願 前念命終」とは、
弥陀の本願を信受した一念に、
迷いの命(昿劫より流転を重ねてきた自分の心)が
死んでしまうことである。だから、
「命終」である。
覚如上人は、この体験を
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
           (執持鈔)
と喝破なされている。
平生のとき、善知識のお言葉に導かれ、
阿弥陀仏に帰命した一念に、娑婆の終わり、
心の臨終を体験させられる。

だから、生死の断頭台に
生首を突き出す覚悟で聞かねばならぬときが、必ず来る。


そのとき、「南無阿弥陀仏」の仏心をいただいて、
「あら尊(とうと)
   地獄の底が
 極楽の
   門であったか
      涙こぼるる」
と、生まれ変わる。

親鸞聖人は、この「六字のまこと」をいただく体験を、
「即得往生 後念即生」と仰っているのである。
迷いの心が死んだとき、往生を得る。
この世の往生だから、不体失往生といわれる。
その時に、即ち生まれる。
一念で生まれるから、「後念即生」という。
「信受本願 前念命終」「即得往生 後念即生」とは、
文章に表せば前後ができるが、
体験は一念同時。
これを、信心決定、信心獲得というのである。
この魂の臨終、心の葬式こそ大事であり、
信心決定した人は、もう葬式は、終わっているから、
肉体の葬式は、もはや問題ではなくなる。

二番目は、深信因果。
仏教の根幹は、因果の大道理である。
一切は、みな因果の道理に従って成立し、変化する。
蒔かぬ因は生えぬが、蒔いた因は必ず生えるのである。
阿弥陀仏に救い摂られた聖人は、仏智により、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理
狂いなしと知らされた。
だから、「賀茂河にいれて魚に与うべし」のお言葉には、
「なんと今まで多くの殺生をしてきたことか、
食うたら食われるのが因果の道理、
せめて死んだら食べてもらおう」
という深信因果もあったに違いないと思われる。

●罪悪感と大慈悲心

三番目には、徹底した罪悪感が窺える。
一生造悪、曽無一善で出離の縁有ることなしの親鸞に、
葬式や墓などとんでもない、
勿体ないという深い懺悔もあったであろう。

最後に、親鸞聖人の大慈悲心がくみ取れる。
信心決定した人は皆、宇宙最高の功徳である
「南無阿弥陀仏」の名号と一体になる。
親鸞聖人が、
「五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」
       (正像末和讃)
と言われ、蓮如上人が、
「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主に成るというは、
信心を獲ることなり」
       (御一代記聞書)
と仰せになっている通りである。
親鸞聖人には、「この『南無阿弥陀仏』と
一体の肉体を食べて、いずれの世にか、
魚にも仏縁あれかし」の度衆生心もあっただろうと拝察される。

人間のみならず、衆生一切の救済を念じられる
親鸞聖人の大慈悲心を彷彿とさせられるではないか。
それにつけても、葬式や墓番を任務のように心得ている仏教もあるが、
この金言を何と味わっているのであろうか。
親鸞聖人の悲憤が聞こえてくるようだ。


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人間の臨終には三段階ある! [後生の一大事]

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●三位の臨終

釈尊は我々に八つの心があると教えられた。
八識と言う。
眼識・・眼の心
耳識・・耳の心
鼻識・・鼻の心
舌識・・舌の心
身識・・身の心。体が触れたものを判断する。
意識・・思考、記憶等の心
末那識・・悪の根源の心
阿頼耶識・・我々の本心。後生へ流転していく

ここから、仏教では、人間の臨終には三段階あると教えられている。
これを三位(さんみ)の臨終と言う。

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●(第一段階)心明了位の臨終
   目、耳、鼻、舌、身の心が死ぬ

第一段階を、心明了位(しんみょうりょうい)の臨終と言う。
眼、耳、鼻、舌、身識、これらの前五識が、
まず、死を迎える。

しかし、意識はまだ、生きている。
母親の臨終で例えれば「ハハキトク」の電報を受けた、
東京に嫁いでいる娘が、懸命に実家に駆けつけ、
枕元で、「おかあさん」と大声で呼ぶ。
だが心明了位の臨終にある母親は、
耳識が臨終を迎えているから、
耳元で叫ぶ娘の声も、遠くで誰かが、
かすかに叫んでいるようにしか聞こえない。
「誰の声だったかな、聞いた覚えのある声だが・・・」
と思うが、ハッキリしないのだ。
眼識も臨終だからカーッと目を見開いても、
娘の顔はボーッとカスミがかかったようでハッキリしない。
目が死ぬ。耳が死ぬ。
鼻が、舌が、身が死んでゆく。
もう見ることも発声も、体も動かせない。
このように前五識がまず死んでゆく。

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●(第2段階)身体愛法位の臨終
          意識が死ぬ時

次が、第2段階、身体愛法位の臨終である。
これは、意識の臨終だ。
それまで、ハッキリしていた意識が死ぬ時である。
この時、3つの執着により、苦しむ。
これを三愛という。
いろいろなものに対する執着心から、
大変な3つの苦しみが生ずるのだ。


では、三愛とは。
①境界愛
自分の愛し続けてきた、妻子や家財等に対する執着である。
それらと別れることは大変つらい。

蓮如上人は仰る。
「まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、
ただ一人こそ、ゆきなんずれ」
           (御文章一帖十一通)
人間、死に際しては、それまで命がけに求めてきた財も
宝も何一つ持っていけない。
守り続けてきた妻子も、誰一人、連れてはいけない。
全く独生独死、独去独来、独り死んで行かねばならないのだ。
突然の火事で家屋や家財道具を失えば、
悲嘆に暮れるであろう。
しかし、土地はまだ残っている。
銀行に預金があり、家族も無事となれば、
再起も可能だ。
臨終は、それら一切を一時に失ってしまうのだ。
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然だ。

②自体愛
自分の身体ともいよいよ別れていかねばならない苦しみ。

③当生愛
死後どうなるか分からず、暗黒の世界に堕ちてゆく不安、
後生に対する恐れ。

身体愛法位の臨終では、これらの苦痛に攻められ、
七転八倒する思いなのだが、
心明了位の臨終が過ぎてしまっているから手足を動かせず、
声も出せない。

だから、本人は塗炭の苦にあっても、
外見から見れば、安らかな臨終にみえる。
表面上、あくまで静かに息を引きとったように見えるので
「うちのお婆さんは眠るが如く死んでいかれたから、
きっと極楽往生間違いないですよ」
などと言う。
外見だけから判断して、そう言う人が多いが、
実に無責任極まる発言で、
本人はキリキリ舞いをして苦しんでいても、
それが表現できないだけと知るべきだ。

●火の車、臨終に現れる
    自分の業が産み出したもの

仏教では、人間の臨終に、「火車来現」があると教えている。
火の車が、現れ来たる、というのだが、
この火の車とは、自己の業が産み出したものだ。
故に「火の車、造る大工はなけれども、
おのが造りておのが乗りゆく」
と詠まれている。
火の車を造る大工が地獄にいるのではない。
自分の業、が産み出したものに、
自分が乗ってゆくのだ。
ところが、火車来現も外部に伝える手段がない。
しかし例外的に、心明了位の臨終の終わり切らないうちに、
火車来現に出会う人がいる。

体が動き、声を発することができる時に、
火の車を体験するとなると、臨終の様相は一層、
悲惨になる。

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●M氏の体験

平成の現代にも火車来現を叫んで死んだ叔父の姿を通し
仏法を求めるようになった人がいる。

岐阜県在住のM氏である。
M氏の家庭は、熱心な真宗門徒で、
M氏が幼少の頃から父親、祖父が真剣に聞法していた。
M氏は成長するにつけ、仏法よりも、
立身出世、金儲けを生き甲斐とし、
働きバチのような日々を送っていた。
M氏の叔父に大の仏法嫌いがいた。
その人は、M氏の家族を誹謗し続けた。
「仏や、阿弥陀仏など、いない。
地獄や火の車など、おとぎ話だ。
この忙しい時に、M一家は、富山、滋賀まで仏法を聞きに行く。
何のために行くのだ。
仏法など聞いていても生きてゆけんぞ。
仏法など、クソ喰らえだ」
口汚く謗法罪を作り続けたその叔父が、
ガンで病床につき、急速に悪化した。
夜中に電話を受け、もう命が危ないと言う。
M氏と父親、祖父が病院に駆けつけた。

●断末魔の叫び

病室に入るなり、M氏の目は、
ベッドの上の叔父の異様な姿に釘付けになった。
叔父は、やせ細った両足を交互にふり上げ、
目は振子のように、何か恐ろしい物を見ている必死の形相で
「火が来た。熱い。熱い。
オレを隠してくれ。オレを隠してくれ」
と絶叫していたのである。
M氏は30分以上もそのような断末魔の叔父を
為す術もなく見つめるだけだった。
手で虚空をつかみながら、
あらん限りの声で「火が来た」と叫び続ける叔父の姿に、
「仏語に虚妄なし」仏説まことを知らされたと、M氏は言う。

声が枯れ、何とも言えない恐怖の形相で息をひきとった叔父の姿は、
余りにも強烈であった。
それ以来、仏法を求めずにおれなくなったと言う。
臨終の心相を釈尊は『大無量寿経』に説いておられる。
「大命、将に終わらんとして、悔懼(けく)交至る」
人生の最後には、生涯への後悔と、
未来への恐れが、交互に迫り苦しむ。

しかし、必死に叫ぼうとしても、叫ぶ力のないのが、
身体愛法位の臨終だ。

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●(第3段階)心不明了位の臨終
         阿頼耶識が次の世界へ

身体愛法位の臨終で意識が死に、
次に心不明了位の臨終に進む。

これは、阿頼耶識が次の世界に転生する。
これがまさに死の瞬間だ。

阿頼耶識の転生する迷いの世界は六つあり、
六道という。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界である。
源信僧都の『往生要集』に詳述されている。

●上の心と下の心
     聞法により知らされる

さて、仏教学者は、学問の積み重ねで、
我々の心の解明を目指すが、
仏法者は、聞法により、自己の本心を知らされる。
八識は、大別すれば、意識と阿頼耶識の2つの心に分けられる。
前五識は意識に従属し、
末那識は、阿頼耶識に支配されるからである。

仏法をきくことを聴聞というが、
聴聞を重ねていくと、
我々には二つの心があることが感じられてくる。
上の心と下の心、である。

上の心は、我々が、普通、「心」と言っているものであり、
仏教語で言えば「意識」である。
下の心とは、意識のはるか底に潜む心であり、
意識をもコントロールしている我々の本心、
「阿頼耶識」である。

そんな心の存在を現代人は知らない。
今日の心理学は、意識の下に潜在意識があり、
その更に下に深層心理があると教えている。
潜在意識すら、なかなか分からないので、
深層心理となれば、一層、難しい。
釈尊が2600年昔に説かれた我々の本心「阿頼耶識」を、
現代の心理学者はようやくつきとめ「深層心理」と名付けて
必死の研究を重ねているのだ。

ここでも仏智の深遠さが知らされる。

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「聴聞」の「聴」とは、
上の心、意識が、善知識の法話を聞くことをいう。
いわば人間の声を「聴く」のである。
真宗は「きくひとつで助かる教え」と言われるが、
この「聴く」ではない。
上の心でいくら仏法を聴いていても、
いよいよ臨終となれば、意識は肉体と共に亡んでしまうのだ。
本心、阿頼耶識が聞かなければ救われないのだ。

下の心が聞くことを「聞」と言う。
「聴」は千座、万座、何回でもできるが、
「聞」はただ一度。
「聞」とは阿弥陀仏の直のお呼び声を心のどん底に聞くことだが、
その時、心が大転換するから「廻心」という。
廻心の体験は、ある人で、一生涯にただ一度だ。
「一向専修の人においては、
廻心ということは、ただ一度あるべし」
        (親鸞聖人)
心のどん底の本心に聞かせるためには、まず、
その存在自体を知らねばならない。
それには、上の心で「聴」を重ねていくことだ。
下の心は、丁度、毛布を何百枚もかぶって昼寝しているような状態。
「聴」を重ねることによって毛布は一枚、また一枚とはがされていく。

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●我々の本心
    下の心の素顔

やがて、下の心がみえてくる。
みえてくる顔を表現すれば、テレーッ、キョロン、キョトン、
ポカン、ボーッと言う状態で、
上の心が真剣に聴いている時でも、
朝寝坊が目を覚ましたようなボーッとした顔だ。


「お前、そのまま今晩死んだら地獄へ堕ちるぞ」
と言われても、皿一枚割った程の驚きもない。
「救われたら地獄だぞ」と言っても、
千円札一枚もらったほどにも喜ばない。

「無常の世の中ではないか。今晩死んだらどうするのだ」
と無常観に迫られても、
「まだまだ死なん」とはねつける。

「生き物を殺して食べ、心中眺めれば、美しい女性を思い浮かべ、
浅ましいことを思い続けいるではないか。
憎む相手を心で切り殺しているではないか。
罪悪のかたまりが、お前の正体だ」と言われても
「殺して食べて何が悪い」と反発する。
地獄ときいても驚かず、極楽ときいても喜ばない。
仏法に向かえば、何の反応もなく、
死体にお灸をする如くである。
ウンともスンとも言わない。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰有った。
逆は親殺しを意味する五逆罪、謗は、仏法を誹謗する謗法罪。
我々の本心は、自分に都合は悪ければ、
大恩ある親でも「死んでくれたらよい」と心で殺してしまう。
五逆罪を造る。
仏法に向かえば、「地獄も極楽もあるか、火の車など、お伽噺だ」
と謗法の大罪を犯す。
まさに逆謗の屍である。
仏法に向かえば屍だが、世間事なら徹夜も厭わない。
飲みたい、食いたい、寝たい、楽したい、金儲けの話なら、
一晩中でも起きている。
そんな本心が、腹底にあるのだ。
仏法が有り難い、というのは上の心が感情的に喜んでいるのだ。
下の心は少しも有り難いと思っていない。

寺は照る照る
 道々曇る
  家に帰れば雨風だ

寺で有り難い話を聴いて、
涙を流して喜んでいる。
ところが、家路へ向かえば、そんな喜びはだんだん薄れ、
到着して、憎い嫁の顔見たら「あいつめ、こいつめ」
と怒りの煩悩一杯で、喜ぶ心など、
どこかへ飛んでいってしまう。
それを「家に帰れば雨風」という。
そんな繰り返しで、漠然と寺参りしているうちに、
たちまち老齢、たちまち棺桶だ。
聴とはきけても「聞」が難しい。

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○遇い難き法とは知れど
     この法を
 極難信と知るはまれなり
○善知識に遇うことも
教うることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
       (親鸞聖人)
よく「聞く」ことが難しいのだ。
しかし、必ず、「聞く」ことはあるのだ。

●雨だれの説法

『蓮如上人御一代記聞書』に
石に水で穴をあける教訓が語られている。
「いたりて堅きは石なり、
いたりて軟なるは水なり。
水よく石をうがつ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道、
何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、
聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候あいだ信を獲べきなり。
只仏法は聴聞にきわまることなり」

昔、音羽の明詮という僧がいた。
ある師について仏道修行に打ち込んだが、
どうしても、目的が達成されない。
悲観して師に暇乞いを申し出た。
ひきとめようにも決心は固い。
やむなく師は了解し、明詮は長年、修行した寺を辞した。
ところがその時、にわか雨に襲われ、やむなく、
山門の下に雨宿りをした。
その時である。
屋根から滴り落ちる水滴が、庭石の一点に続けて落ち、
見事に固い石に穴をあけていたのだ。
あのやわらかい水が、石に穴をあけるとは、
ああ、自分は間違っていた。
たとえ自分のような非才な者でも、
たゆまず修行を重ねれば、石に穴があくように、
目的達成できるのだ

雨だれから受けた説法を胸に師のもとに帰った明詮は、
一切を打ち明け、再び、精進し、
遂に音羽の明詮といわれる大徳になった。

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●屍を生まれさせる
     阿弥陀如来の本願力

我々の本心は、確かに「屍」。
この世もジゴク、未来も地獄の罪悪の固まりだ。

しかし必ず救われる。
なぜならば、阿弥陀仏の、
「若不生者 不取正覚」のお約束があるから。
「もし生まれずは、正覚を取らじ」と、
仏の命である正覚を担保に、阿弥陀仏が、
屍を生まれさせる、と誓っておられる。

その本願がまことだから、屍の心が、
大安心、大満足の絶対の幸福に生まれる時があるのだ。

阿弥陀仏の「そのまま助けるぞーっ」のお呼び声に
「ハイ」と返事をする時が「聞」と聞いた時である。
「こうにも聞こえにゃ、聞かぬがましか」と聞かん心に泣いて求めた、
山口県六連島のおかる同行も、
「たった一声聞いたのが
その一声が千人力
四の五の言ったは昔のことよ、
そのまま来いの勅命に
いかなるおかるも
    頭が下がる」
と、本心に弥陀の勅命が届いた喜びを述べている。
心のどん底、阿頼耶識が救われた体験を
信心決定といい
いつ死んでも浄土往生間違いない身となれるのだ。
ここに、全人類の救われるただ一筋の道がある。


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生死の一大事はいつ解決できるのか [後生の一大事]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

死後に無間地獄へ堕ちるという
一大事があるなどということは
夢にも考えていない人たちばかりです。
この一大事があることを知らずに自殺していく人、
五欲に追い回されて仏法を聞こうとしない人たちを
迷える者というのです。
仏法を修養の道具ぐらいに考えているのです。
(無間地獄とは、苦しみが途切れることなく、
4億3千2百万年の八万倍の長年月続く大苦悩の世界。
六道のうちの地獄界の一つ、六道はみな、心が生み出す迷いの世界)

●平生ただいま
    ハッキリする

これらの大衆の迷夢を打ち破り、
後生の一大事があることを
警鐘乱打するものが仏法なのです。

しかも、この一大事は阿弥陀仏の本願を信じた一念で、
ハッキリと解決できるのだ、と教えています。

(阿弥陀仏の本願を信じた一念とは、弥陀の本願にツユチリ程の疑いがなくなり、
弥陀に一念で救われたこと)


これを覚如上人は『執持鈔』に、
「然れば平生の一念によりて
往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」
とおっしゃっているとおり、
平生元気のよいただいま、
明らかに、この一大事は解決できるのです。

すなわち、いつ死んでも弥陀の浄土間違いなしと
大決定心がおきますと、無間地獄へ堕ちるという
一大事は全く解消いたします。

このように死んでよし、生きてよしの大安心、
大満足の心になったことを
信心決定とか、信心獲得したというのです。

かくて親鸞聖人のように、何ものにもおそれず、
たくましく生き抜けるようになるのです。
この真実絶対の仏法の開顕のためになら
身命をも惜しまず、
人倫の哢言(ろうげん)を恥とせず、
大衆の中に飛び込んで、
真実に向かって猛進する
たくましい人間像ができるのです。

●聞法の目的は
  生死の一大事の解決

このような点からいえば、
正にたくましく、明るく、強く、
正しく生きることを教えるものが
仏法ということができますが、

それは飽くまでも、仏法の大目的である
後生の一大事の解決ができたところから
生ずる副産物であって、
断じて仏法の目的ではありません。

我々が仏法を求めるのは、
飽くまで生死の一大事の解決のために求めるのですが、
その大目的がハッキリ達成できると、
この世も素晴らしい生き方ができるようになるという
付録もついてくるのです。

しかし、断じて付録を目的にして仏法を求めてはなりません。
そのような心がけで仏法を求めては、
決して付録もやってこないことを知っておくべきです。

●米とワラの関係

釈尊(釈迦)はこの関係を例えて、
「農家の人が田んぼを作る目的は米だが、
米が取れると必ずワラが取れてくるようなものだ」

と仰っています。

米は生死の一大事の解決、ワラは、明るく、
たくましく生きることに例えられたのです。
されば、仏法を求める人々は、
目的は、飽くまで後生の一大事の解決にあるということを
ゆめゆめ忘れてはなりません。

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命を懸けても、後生の一大事は解決せねばならない! [後生の一大事]

死ぬとどうなるのか分からない心を
無明の闇といいますが、
その心を晴らさずにそのまま死ぬと、
大変なことになります。
お釈迦さまは、“必堕無間”と説かれ、
後生(死後)、無間地獄に堕ちると教えられています。
(無間地獄とは、地獄の中でも一番苦しみの激しい地獄で、休む間もない大苦悩の世界)
その解決一つを心にかけて、
命がけで京へ旅した、関東の同行たちの話です。
(何故、地獄へ堕ちるのか、
我々は悪しかできないからです。
心で、口で、体で悪のし放題なのが我々です。
簡単に理解してもらえるのは、殺生です。
一日にどれほどの動物・昆虫を
殺しているでしょうか。
喜んで食べていれば、
同罪だとお釈迦さまは教えています。
(食べる人がいなければ、殺す人もいなくなります。
食べる者が、殺してくれと依頼したのと同じだからです。)
我々は生まれ変わり、死に変わりして、
人間界、地獄界、畜生界、餓鬼界、修羅界、天上界の、
心が作り出す迷いの世界の
六道を
輪廻転生しているのです。
過去には、我々が殺されて
食べられたこともあるということです。
だから、虫や動物も我々の命も、尊さは同じです。
畜生(虫も含む)
を殺すのも、人間を殺すのも同じ罪なのです。
ヒトラーは、600万人の人間を殺しました。
あんな奴は地獄に堕ちて当然だ、と思いますが、
我々も同じことをやっているのです。
まいたタネは必ず生える、
やった者に必ず返ってくるのです。<因果の道理>
だから、死ねば大苦悩の世界に堕つると
お釈迦さまは教えているのです。
それを解決するには、阿弥陀仏の本願に
救われるしかないのです。)

それに関する記事は以下にあります。

一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか!
一息切れると、なぜ一大事が起きるのか!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (ここからは、真実の仏教を我々に叫んでくださっている
先生の書物「とどろき」から載せています。 )
 

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たとえこの世が
火の海になっても、
解決せねばならぬは、
後生の一大事

    (関東の同行・平太郎)

(アニメ・世界の光・親鸞聖人)

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事の重大さに関東の同行衆は、
吹雪が吹き荒れる夜、
稲田の草庵に集まりました。
親鸞聖人のお弟子・性信房は村の人たちを前に
呼びかけます。
今こそ弥陀の本願を、
命かけてお伝えせねばならぬ時が来た

これ以上多くの人々を邪義に
迷わせてはならない。
真実を一層、明らかにする仏弟子の使命に
燃えたのです。

一方で、「念仏のほかに助かる道があるのか」
「本当に秘密の法文があるのでは・・・」
という拭い切れない不審を、
内心に秘める者もいたでしょう。
本当のところを、聖人に直接お聞きしたい。
この思いは次第に強まっていきました。

なぜ関東の法友たちは、
この騒乱を、これほど重く受け止めているのでしょう。
その理由を彼らは、
「事は、後生の一大事」
と言ってます。
「後生の一大事」とは、
「死んだらどうなるかの一大事」のことです。
“生ある者は必ず死に帰す”
と言われるように、
死は全ての人の確実な未来です。
では、死んだらどうなるか、
未来はハッキリしているでしょうか。
未来が分からぬまま生きるのは、
行く先が分からぬ飛行機に乗っているのと同じで、
そんなフライトを楽しめるはずがありません。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
後生暗いまま、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がないのです。
現在が暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇の世界へ入り、
苦しまねばならないことを、
お釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
           (大無量寿経)
と説かれています。

この後生の一大事を解決し、
極楽往生間違いない身に救う「往生極楽の道」
一つを、親鸞聖人は生涯明らかにされたのです。

●「往生極楽の道」
     ただ一つ

「往生極楽の道」とは、阿弥陀仏の誓願のこと。

大宇宙の仏方の師の仏である阿弥陀仏は、
こう約束されています。

すべての人よ“極楽浄土へ必ず往ける”
大安心・大満足の身にしてみせる


このお約束どおりに救われた人は、
この世から未来永遠の幸福に生かされるのです。

親鸞聖人が関東で20年間、
教え続けられたことは、
この弥陀の救い、
「往生極楽の道」以外にはありませんでした。

その聖人の教えを熱心に求めていた
同行衆ではありましたが、
内外からの非難に信仰が揺らぎ、
ここひとつ「往生極楽の道」をハッキリさせたいと、
燃え上がったのは当然でしょう。

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●命がけの聞法の旅

そんな法友たちに性信房は、
「京へ行って、じかにお師匠さまにお聞きしよう」
と訴え、一同は京行きを決意しました。
とはいえ、新幹線も電話もメールもない当時、
京へは歩いていくしかありません。
まさに命懸けの旅でした。

京都までは武蔵、相模など十以上の国があり、
片道一月、往復で二月かかったといわれます。
その間の宿代や食費等、多額の旅費が必要です。
道中には、箱根の山や大井川の難所があり、
山賊や盗賊もウロウロしています。
生きて帰れる保証など、どこにもありませんでしたが、
それでも行かねばならぬ聞法の旅でした。

平太郎をはじめとする関東の同朋たちは、

「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり」
      (浄土和讃)
たとえ、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、
必ず不滅の幸せに輝くのだ

※仏法を聞き抜くとは、弥陀の本願に救い摂られることです。

の聖人の常のご教導に従い、
それぞれが困難を乗り越えて、
決死の覚悟で京へと旅立ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詳しく載せてある記事はこちらです。

なぜ命がけで京都まで!?

 


一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか! [後生の一大事]

親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2行に
次のように書かれています。 

帰命無量寿如来
南無不可思議光

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」

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と、弥陀に救われた喜びを
叫ばれた聖人の大歓声であり、
その「救われた」とは、
「後生の一大事」のことであることを、
繰り返し述べてきました。


「後生」とは、一息切れた後。
「死んだらどうなるか」の大問題を、
仏教では「後生の一大事」といわれます。

私たちの百パーセント確実な未来ですから、

「誰の人も、早く後生の一大事を心にかけよ」
             (白骨の御文章)
と蓮如上人は訴えておられるのです。
「一大事」といっても、世間で使われる意味とは、
全く異なります。

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例えば自宅の全焼や会社の倒産などは、
確かに大変な出来事でしょう。
「一大事」と普通は思いますが、
それらはまだやり直しがきく。
火事ならば「焼け太り」もあり、
経営失敗から再起し
大成功する人もあります。
恋人にフラれた心の傷も、
時間が癒してくれるでしょう。
取り返しのつくことは、どんな深刻な事態でも、
仏教では「小事」です。

「一大事」とは、一度起きたならば、
二度と取り返しのつかないことだけをいわれます。

一息一息触れ合っている、この「後生の一大事」を、
親鸞聖人はこう説かれています。

呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。
この時さとらざれば、
仏、衆生をいかがしたまわん。
願わくは深く無常を念じて、
いたずらに後悔をのこすことなかれ

            (教行信証)

「一息つがざれば次の生である。
永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。
ただ今、救われねば、
いつするというのだろうか。
いつできるというのだろうか。
永遠のチャンスは今しかない。

刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔をのこさぬように」
永久に後悔する後生を一大事といわれ、
この一大事の解決を急げ
、とのご文です。

蓮如上人もまた、

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得(おんこころえ)あるべく候
           (御文章)

生きている時に、
「後生暗い心」が晴れなければ、
必ず後悔しますよ、
仏法は生きている間が勝負なのだ

とお叫びです。

では、なぜ後生に一大事が起きるのか。
「火の車 造る大工はなけれども 
己が造りて 己が乗りゆく」
私に現れる運命のすべては、
他の誰が生み出したものでもない、
全部わが身のまいたタネ。
厳粛な「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の大道理にしたがってのことであるのです。

(因果の道理に関しての記事は
以下にアクセスしてください。
運命を決めるものは何?

すなわち、まいたタネに応じた結果が、
まいた本人に現れる、
自業自得に寸分の狂いもない、

しかもそれは、現世のみならず
過去・現在・未来の三世を
貫いて成立している

だから後生未来の結果は、
現在の自己のタネまき(行為)を
徹見すれば分かる
のだと、
お釈迦さまは仰せなのです。

では、私たちは日々、
どんな行いをしているでしょうか。

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○心、口、体で犯す十の罪悪

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
貪欲、瞋恚、愚痴、綺語、両舌、
悪口、妄語、殺生、偸盗、邪淫の十の罪です。

初めの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは、
心で犯す罪悪をいいます。
仏教では「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪はもっと恐ろしいといわれます。


最初の「貪欲」とは、底の知れない欲の心。
金が欲しい、物が欲しい、
褒められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に、
私たちはどれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

「あいつがいなければ」「こいつさえ消えれば」
「あの人が失敗したらいいのに」と、
心で蹴落とし、殺してはいないでしょうか。
親子兄弟、友人、恩人、だれに対してであれ

自分の欲のためには、
どんなことでも平気で浮かんできます。

遺産相続で、兄弟や親戚同士、
骨肉相食む(あいはむ)争いは
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが「瞋恚(しんい)」、
怒りの心です。

「あいつのせいで儲け損なった」
「こいつのせいで恥かかせられた」
と、怒りの心が燃え上がります。

離婚話にカッとなった男が、
部屋に灯油をまき火をつけ、
妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この瞋恚のなせる業(わざ)でしょう。

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次の「愚痴」とは、ねたみ、そねみ、恨みの心。
欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、
ねたみ、そねみ、うらみの心が

わき上がってはこないでしょうか。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心。

災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、
心ではニヤリとする心です。
親鸞聖人は、ヘビやサソリを見たときのような、
ゾッとする心だといわれています。

これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語となります。
綺語」とは、心にもないお世辞です。
「両舌」とは二枚舌ともいわれ、
仲のよい人の間を裂いて、
仲悪くするようなことを言うこと。
「悪口」とは、中傷でありワル口のこと。
「妄語」とは事実無根のウソをつくことです。

これらの言葉で、
深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。

「『2ちゃんねる』さえなければ、と思った。
ネットの怖さをもっと分かってほしい」。
インターネット掲示板の誹謗で被害を受けた、
ある学校法人の学園長は、
いわれなき中傷に翻弄された二年間を
苦渋の表情で振り返ったといいます。
元生徒の父親の心ない書き込みに、
多くの者が「祭り」と称して便乗したものと確認され、
父親は罰金刑。
ネット上には、匿名を利用した
悪質な中傷があふれています。
言ったほうは自覚がなくても、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
面白半分の言葉が、どれだけの人を苦しめ傷つけ、
殺しているかしれません。

さらに、体では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
「殺生」とは生き物を殺すこと、
「偸盗」は他人のものを盗むこと、
「邪淫」はよこしまな男女関係をいいます。

このように、心や口や体で
十悪を造り続けているのが
私たちだと、教えられているのが仏教です。

(殺生罪に関しては以下にアクセスしてください。)
殺生罪

●親を殺す五逆の大罪

その「十悪」よりも重いのが「五逆罪」。
五つの恐ろしい罪のことですが、
中でも最初に挙げられているのが、
親殺しの罪です。
十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件が、
時々耳に入ってきます。
赤ん坊のころは、
お乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらったり、
離れていれば、いつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。

仏教では、このような親殺しの大罪は、
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる恐ろしい
「無間業」であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、このように手にかけて
殺すばかりが親殺しではないのだ
よと、

親をそしる者をば五逆の者と申すなり 
            (末灯鈔)
と言われています。
親をそしるのも五逆の罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」
などとののしるのも、親を殺しているのです。

また前述のとおり
教では、心を最も重くみられます。
一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔者扱いしているのは、
心で親を殺しています。

親が病気にでもなり
寝たきりになったらどうでしょう。
世話を嫌って、「邪魔だなあ」
「いい加減死んでくれたら」
という、とても他人にはいえない心が
噴き上がってこないでしょうか。


数年前、女手一つで、
四人の男の子を大学まで出させ、
一流企業に入社、
結婚させたお母さんの悲劇が
紹介されていました。


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その四人の兄弟夫婦が集まり、
年老いた母の面倒を誰が見るか、
ということで深夜まで激論したが、
誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。
その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、
翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。
手にかけて殺さずとも、
私たちは心でどれだけ親を
殺しているか分かりません。

●もっとも恐ろしい謗法罪

「五逆罪」よりも、もっと恐ろしいのが
「謗法罪」です。

謗法」の罪とは、真実の仏法を謗ったり
非難することをいいます。

なぜ仏法を謗ったり非難することが、
そんなに重い罪なのか。
それは、仏教はどんな教えかを知れば、
はっきりとお分かりになるでしょう。

今日も多くの人に尊敬されている
かの聖徳太子は、
有名な十七条憲法に、
仏教を「四生の終帰、万国の極宗」
と言われています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる
唯一絶対の教えであるということです。
聖徳太子が断言されているように、
古今東西のすべての人が救われる
たった一本の道が仏教ですから、
「万国の極宗」とも言われているのです。

親鸞聖人は、
「九十五種世をけがす、唯仏一道きよくます」
「ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄)
私たちを真に救いきる教えは
仏教以外にないぞ、
弥陀の本願念仏のほかに
助かる道はないのだよ

と、明言されています。
そんな仏教を謗り、
弥陀の本願念仏を非難することは、
すべての人の救われる
たった一本の道をぶち壊すことですから、
こんな恐ろしいことはありません。

それは何十億、何百億、幾億兆の人を
地獄へ突き落とすことになりますから、
これ以上重い罪はないのです。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう  

        (正像末和讃)

「最尊の念仏を謗る者の報いは恐ろしい。
必ず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて
八万劫という永い間、
ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、
経典に説かれている」

それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ばず、
あの人が死んだかと驚いて
一時は同情の涙が出ても、
自分は当分は死にはせぬと
平気でいる心が「闡提(せんだい)」で、
ドタ牛のように動かない。
頭は承知していても肝が承知しない。
道理は分かっても納得できない。
なんの不足もないのに満足がない。
分かって分からず、知って知らず、
急いで急がず、泣いて泣かず、
なんともかんとも言えないような奴が闡提です。
十悪・五逆・謗法・闡提。

照らし出された人間の実相を、
親鸞聖人は、次のように記されています。
「一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心無し」
「無始より已来、一切群生海、無明海に流転して、
諸有輪に沈没し、衆苦輪に繁縛(けばく)せられて、
清浄の信楽無く、法爾として真実の信楽なし」
            (教行信証信巻)
「然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、
生死海に漂没(ひょうもつ)して、
真実の廻向心無く、
清浄の廻向心無し」
            (教行信証信巻)
繰り返し、後生の一大事を
警鐘乱打されているのです。

これが単なる合点ではなく、
自身の実相として照らし出された時、
一切の助かる望みが絶え果てて、
必ず火だるまになって
必定地獄を実感させられる。

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

は、その時の聖人の悲痛な
叫びでありました。
同時に、
弥陀の呼び声を聞き
破闇満願させられて

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
            (歎異抄)


と躍り上がっておられます。
『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

「阿弥陀如来に親鸞、
いま救われた、助けられたぞ」
の叫びは、
この「後生の一大事」を救い摂られた時の驚き、
喜び、感動の告白なのです。

ですから、
「後生の一大事」が分からなければ、
この二行の意味がサッパリ分からず、
冒頭が分からねば、
『正信偈』は最後の行まで、
何を言われているのか
全く分からないことになってしまいます。
よくよく知っていただきたいと思います。

では、この極悪の親鸞が、
どうして救われることができたのか。
それは全く、阿弥陀仏のこのような
ご苦労があったからなのだ。
広大無辺なご恩を、喜ばずにはおれない」
と詳しく説かれているのが、次に、
「法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所」
と続くお言葉です。
それは、以下の記事を
読んでいただければ分かると思います。

法蔵菩薩(阿弥陀仏)のご苦労とは

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なお以前載せた人間のやる悪も参照してください。

人間のやる悪


一息切れると、なぜ一大事が起きるのか! [後生の一大事]

仏教は「後生の一大事」に始まり、
「後生の一大事」の解決で終わります。
だから、「後生の一大事」とは
どんなことか分からなければ、
仏教は何十年聞いていても、
本を何百冊読んでも、
毛頭、分かるものではありません。

ちょうど、風呂の栓をせずに
お湯を注ぐようなもので、
どれだけ蛇口を全開にしても、
一杯にならないでしょう。
注いだお湯はすべて排水口から流れてしまい、
無駄になります。
「王将」を抜いて将棋を指すようなもの、
といってもいいでしょう。
飛車角金銀、どれだけ駒を動かしても、
勝負はつきませんから、
それでは「将棋」とは呼べません。

同様に、「後生の一大事」を抜きにして、
仏教は始まりません。
仏教学者や僧侶を自認し、
どれだけ著書や講演で
それらしい話をしていても、
肝心の「後生の一大事」を説かねば、
仏教にはならないのです。

そのような話を幾ら聞いても、
曖昧模糊として、仏教はキリに包まれてしまう。
世間には、仏教とは似て非なる「仏教もどき」が
横行しているようです。

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親鸞聖人は、『正信偈』の冒頭2行で、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!”
“阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!”
と叫んでおられます。
「救われた」、「助けられた」と言われているのは、
阿弥陀如来の本願によって、親鸞、
「後生の一大事」の解決できたぞ!

と仰有っているのです。
だから「後生の一大事」が
どんなことか分からなければ、
親鸞聖人がどんなことを言われたのか、
サッパリ分からなくなってしまいます。

そこで、「後生の一大事」とはどんなことか、
一言で、
「人間死んだらどうなるか」。

ということです。
この大事を、お釈迦さま、親鸞聖人、蓮如上人は、
どのように教えられておられるのでしょうか。

●往き易い浄土だけれど、人がいない?

ほとんどの人が、「死んだら極楽浄土で仏になれる」
と思っているのではないでしょうか。
ラジオ放送で、ある人がこんな説教をしていました。
「お念仏は阿弥陀さまの、必ず救う、
決して捨てることはない、摂取不捨という
お慈悲のはたらきです。
既にこの私を包み込んでいる
阿弥陀さまのはたらきの、
真っ只中にいるのです」
なんだか、もう誰もが
救われているような気にさせる話です。
これが堂々と、公共の電波で
流されているのですから、
多くの人が
「念仏さえ称えておれば、死んだら極楽」
と聞き誤るのも、当然でしょう。

では、お釈迦さまは、どう教えておられるのか。
親鸞聖人、蓮如上人の教えは、どうなのか。
まず、
お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、

易往而無人
(いおうにむにん・往き易くして、人無し)

と説かれています。
弥陀の極楽浄土へは、
「往き易いけれども、往っている人が少ない」
という意味ですが、おかしいと思うでしょう。

「往き易い」のならば、「人が多い」はずだし、
「少ない」とすれば、「往き易い」とはいえないからです。
では、お釈迦さまの言葉は、何を意味するのでしょうか。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、
現在ハッキリ、阿弥陀仏に
救い摂られた人だけのことです。

これを親鸞聖人は、

真実の信心をえたる人のみ、
本願の実報土(じっぽうど)に
よく入ると知るべし
           (尊号真像銘文)

“真実の信心をえている人だけが、
浄土へ往けるのだよ”
と教えておられます。
「真実の信心をえた」とは、
弥陀の本願に救われたこと。
「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」とか
「信心決定(しんじんけつじょう)」ともいわれます。
「弥陀の本願」とは、
“必ず浄土へ往ける大満足の身に、
平生の一念で救い摂る”
という阿弥陀仏のお約束。

ですから、
苦しみの海を明るく楽しくわたす、
大きな船に譬えられます。
この本願の船に乗れば、人生が、
浄土への楽しい航海になるのです。
歩行の旅は山あり谷ありで難渋しますが、
船旅は船頭まかせで快適になる。
弥陀の本願の大船に乗れば、
大悲の風にうちまかせて
安楽の浄土に往けますから、
これほど「往き易い」ことはありません。

ではなぜ、
そんな「往き易い」浄土に、
「人が少ない」と言われるのでしょうか。
親鸞聖人の説明は、こうです。

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「易往而無人」というは、
「易往」はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑なければ往き易きなり、
「無人」というは、ひとなしという、
ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に
実報土に生るる人稀なりとなり 
         (尊号真像銘文)

「弥陀の浄土へは『往き易い』と、
釈尊が言われているのは、
大悲の願船(弥陀の本願)に
乗った人のことである。
弥陀のひとり働きで往く世界だから、
『易い』という言葉もいらぬ易さだ。
『人なし』と言われるのは、
大悲の願船に乗る人が
稀だからである」


蓮如上人の解説も同じです。
聞いてみましょう。


これによりて『大経』には
「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文の意(こころ)は、
安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども。
信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし

と言えるは、この経文の意なり
         (御文章二帖七通)

「安心を取る」も「信心をとる」も、
“弥陀に救い摂られて、本願の大船に乗ったこと”
ですから、意味はこうなります。
「弥陀に救い摂られ、大悲の願船に乗った人は、
浄土へは『往き易い』けれども、
大悲の願船に乗る人が少ないので
釈尊は、『往き易くして、人なし』
と言われているのである。

この「信心決定」している人が極めて少ないことを、
蓮如上人は悲嘆なされて、
『御文章』の至るところで、

「この一流のうちに於て、
確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、
いかでか報土の往生をば
容易く(たやすく)遂ぐべきや。
一大事というはこれなり」
             (一帖五通)
「近年、仏法は人みな聴聞すとはいえども、
一往(いちおう)の義を聞きて、
真実に信心決定の人これなき間、
安心も疎々(うとうと)しきが故なり」
         (四帖七通)
「おおよそ心中を見及ぶに、
とりつめて信心決定のすがた是(これ)なし
と思いはんべり。
大に(おおきに)歎き思うところなり」
           (四帖十三通)
と教戒され、
信心決定しなければ一大事だから、

この信心を獲得せずば、
極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

           (二帖二通)
とご勧化なさっていられるのです。
仏教は、この地獄必定の一大事に驚き、
この一大事の解決で終わる
ものですから、
この後生の一大事が分からなければ、
仏教は金輪際、分かるものではないのです

では、
どうして、私たちの死んだ後に、
このような一大事が起きるのでしょう。
その理由を、
仏教はどう教えているのでしょうか。


●仏教の根本教理は、因果の理法

仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えです。
約2600年前、インドに現れられたお釈迦さまが、
35歳で仏のさとりを開かれてから、
80歳でお亡くなりになるまで45年間、
説いていかれた教えを今日、
仏教とも仏法ともいわれます。

「仏教は因縁を宗とす。
仏の聖教は浅より深に至る。
一切法を説くに因縁の二字を出でざるを
以てなり」
          (維摩経・ゆいまきょう)

と説かれているように、
釈迦一代の教えを貫いている根本教理は、
「因果の道理」であることは、
何人(なにびと)も疑う余地はありません。

いわゆる、「まかぬタネは生えぬ」で、
原因なしの結果は絶対に認めないし、
「まいたタネは必ず生える」と教えます。
しかも、因と果の関係は常に
「善因善果 悪因悪果 自因自果」であることが
説き切られています。

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このように、「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の理法を離れて仏教はあり得ませんが、
それは単に現在一世にとどまらず、
過去・現在・未来の三世を貫いて
説かれているところに、
仏教の因果律の精粋(せいすい)があるのです。

これを三世因果といい、
仏教の旗印となっています。

だから「仏教を深信する」ということは、
「三世因果を深信する」ということです。

では、過去、現在、未来の三世は、
どのような因果関係によって成立しているのか。
『因果経』には、
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ。

と鮮明に説かれています。
過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因によって発現するのだから、
現在の自己の上に、
無限の過去と永遠の未来を知見できることを
教えているのが、
三世因果の理法です。

ゆえに仏教は、
現在の自己を徹見(てっけん)すれば、
自己の後生は分かる

と教えます。
現在の自己は、いかなる後生を生み出す因を
造っているのでしょうか。

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●現在の私は、いかなるものか

私たちは動物を食べるのを
当たり前だと思っています。
しかし食べられる動物たちは決して、
人間に食べられるのが当然だとは
思っていないでしょう。

どんな生き物でも、死にたくないのは、
私たちと変わらないはずです。

船に上げられた魚がピチピチ跳ねるのも、
鶏が首を絞められてパタパタもがくのも、
苦しいからでしょう。
人間とは何と残酷なものかと、
強く呪って死んでいるに違いありません。


ちょうど私たちが無実の罪で殺され、
肉体を食べられる恨みと
少しも変わりはしないでしょう。
お釈迦様は、全ての生命は平等であり、
上下はないと教えられています。

人間の命だけ尊いと考えるのは、
人間の勝手な言い分。
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。


一言で殺生といっても、
殺し方によって仏法では
三通りに分けられています。
「自殺、他殺、随喜同業」の三つです。

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○自殺

自分で生き物を殺すことを言います。
世間で言う、首をつって死ぬような、
自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、
蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で
動物を殺すことを「自殺」といいます。
「生きるためには仕方がない」
「害を与えるから」
と私たちはどれだけの生き物を
殺しているでしょうか。

○他殺

他人に依頼して
生き物を殺させる罪を言います。

自分は直接殺さなくても、
自分が殺したのと同罪だと教えられています。

魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、
肉屋さんに頼んで
牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
自分で殺さなくても、「他殺」の罪を
犯していることになります。

○随喜同業(ずいきどうごう)

他人が生き物を殺しているのを見て
楽しむ罪をいいます。

ある家で、仕掛けたカゴにネズミがかかったので
さてどう処分するか困っているところに
近所のおじさんが来たので、
「あんた、殺してよ」と奥さんが頼みました。
頼まれたおじさんは、
「よっしゃ」と引き受けて川へ行き、
カゴを水に沈めてネズミを殺しました。
水中でもがき苦しんでいくネズミを見て、
一緒に喜んでいます。
実際にネズミを殺したのは近所のおじさんですから、
近所のおじさんは「自殺」の罪を造っていますが、
頼んだ奥さんは「他殺」の罪、
見て喜んでいる者は、
「随喜同業」の罪を造っています。

また、殺されていった魚や牛の肉に
舌鼓を打って喜んでいるのも、
仏様の眼からすれば、
「随喜同業」の殺生罪です。

このように私たちは、
おびただしい殺生をせずしては生きられない、
深い業を持っているのです。

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ところが、この「殺生罪」も「十悪」の一つ。
「十悪」とは、私たちの犯す罪悪を
十にまとめて教えられたものですが、
その「十悪」より重いのが「五逆罪」であり、
「五逆」よりも恐ろしい罪が「謗法罪」であると、
仏教では教えられています。

「無間業(無間地獄へ堕つる罪)」といわれる、
「五逆罪」と「謗法罪」については、
次回載せたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なお以前載せた人間のやる悪も参照してください。

人間のやる悪


明白な地獄の実在 [後生の一大事]

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「仏教なんて聞かなくていい」とウソぶき、
眼前に迫る後生の一大事に耳を傾けない人が多い。
「死んだ後なんかない」
「人間死んだらそれまで」
といった安易な死生観に基づくのだろう。

しかし、思うと思わざるとにかかわらず、
必堕無間の一大事は厳然として、
我々の未来に待ち受けている。


「未来に地獄や極楽が、あるのないのと言うのは、
昔ならいざ知らず、今日ではオトギ噺(ばなし)ではないか。
そんなことどうして信じられるのか」

と冷やかし、仏法に謗難の唇をめぐらす者がいる始末である。


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このような発言を聞くと、
ウナギが生け簀の中で、
こんな話をしている情景を思い起こさせる。
「なぜ今日は、有象無象が沢山集まっているのだろう。」
「今日は、丑の日といって、
我々が人間どもの滋養分になって、
食われる日だそうな」
「本当に、そんな勝手なことをする、
人間という者がいるのか。信じられんなぁ」
「そんなこと言ったって、我々は、人間に食べられる
運命になっているのだそうな」
「誰も戻ってきて、そんなこと言った者はいないが本当か」
「そら、また、捕らえられて連れていかれたではないか」
「散歩にでもいったのではないか。そのうちに帰ってくるさ」
「引き揚げられると、頭に錐(きり)を立てられ、
背中を断ち割られるときの苦しみは、息もできないそうだ。
三つに切られて串に刺され、七転八倒の火あぶり。
恨み呪うているけれど、言葉が通じない。
料理している者も鬼なら、食べている者も鬼。
我々を八つ裂きにして食うそうな。
どうして帰ることができようか」



人間の会話も、同じことである。
「死んだら地獄へ堕ちて、鬼に責めたてられるのだ」
と聞くと、
「そんなバカなことがあるものか。
鬼でも蛇でもつれてこい。オレがひねりつぶしてやる。
地獄とか、鬼とか、誰か見てきた者がいるのかい。
地獄から戻ってきた者もいないではないか。
身体は焼けば灰になり、魂も同時に消えてしまうだけだ。
バカげたことにクヨクヨせず、
飲んで騒いで楽しんだらそれでよいのだ」
と、冗談言っている者やら、

「死んだら死んだときさ。
極楽には滅多に往く者がいないそうだから、
道中には草が生えている。
地獄には、道連れが多いから、
踏みにじられて草が生えていないそうだから、
草のたくさん生えている方に歩いたら極楽へ往けるそうな」
と茶化す。

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「地獄へいっても、私一人が苦しむのではない。
たくさんの人と一緒に苦しむのだから、
賑やかで楽しいではないか」
とゴマ化す者もいる。

船が沈没したとき、私一人ではない、
何百人も一緒だから苦しくないと、
言っていられようか。
水害で流される人、火災で焼け出される人、
大事な主人を失う人、独り子を亡くした人、
破産した人、行方不明になった人・・・。
世の中には、種々の苦難があるが、
そんな災難は、世間一般にあるのだから、
遭っても何とも思わない、
と言えるはずがない。
苦しむのは自分である。

こんなことを言っている人でも、
一緒に暮らしていた家族が突然息の根が止まって、
次の世界に運ばれると、
「待てよ。あの人は一体どこへ行ったのだろう。
また会う世界はないのだろうか。
人間は、どこから生まれてきて、死んでどこへゆくのか」
と、人生の根本的疑問はわいてくるのだ。



迷走する全人類

来た道も分からなければ、行く先も知らない。
アーで生まれて、ウンで死ぬ。
ヒョロリ生まれて、キュウと死ぬ。
その間、ただ、便所と台所の往復で、
勝った、負けた、取った、盗られた、増えた、
減った、得した、損した、と眼の色変えて、
息が詰まるまで走り続けるだけだ。

多くの人間が、押し合い、揉み合い、憎み合い、
名利栄達を得るために先陣争いをしているが、
何を達成するために走り続けているのだろう。
他人が走っているし、自分もジッとしておれないから走る、
といった調子ではないか。
目先の欲には馬車馬のように走っても、
確実な未来にはドタ牛のように動こうとしないのが
人間の実相である。


ではなぜ、私たちは死後を認めようとはしないのか。
その理由として、地獄絵図に対する誤解があろう。
地獄と聞けば、誰しも、青鬼、赤鬼、黒鬼が、
罪人をまないたの上で切り刻み、
また大釜に入れてゆでたりする
世界を想像し、
「そんなおとぎ噺のような世界があるはずがない」
と否定するのだ。
そのようなおどろおどろした地獄の説明を、
そのまま事実と思って誹謗するのは、
仏法の説き方への誤解であり、無知である。


誤解されている死後の世界
  地獄の釜を造った鍛冶屋は誰か

仏教の地獄とは、自分の心が生み出す世界で、
決して地下何万キロメートルにあるような
荒唐無稽なものではない。

ある門徒が、布教使に率直な疑問をぶつけたとき、
鮮やかな回答が与えられた。

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門徒「仏教では地獄があると言うが、
そんなものがあるとは、到底思えない」
布教使「あなたがあると思おうが、ないと思おうが、
地獄はある」
「それなら、鬼がいて、
罪人を釜ゆでにする
などということがあると言うのか」
「そうだ」
「それなら、地獄の釜を造った鍛冶屋は誰だ。
住所・氏名を知っているか」
「もちろん、鍛冶屋はおり、
住所も氏名も知っている」
「ならば、私に納得できるように話してもらいたい」
「鍛冶屋の住所・氏名はいつでも教えるが、
その前に一つ聞きたい。
あなたは恐ろしいものに追いかけられた夢を
見たことがあるか」
「それはある」
「その時、どの足で逃げるのか」
「それはこの二本足だろう」
「本当にその足で逃げているのだろうか。
夢見ている最中には布団の中で伸ばしているのではないか」
「そう言われれば、そうだ。
厳密に言えば、この足ではなく、
夢の中の私の足で逃げている」
「そうであろう。夢の中では夢の足で逃げ、
夢の中の手を振って逃げているので、
夢見ているときには布団に横たわっている体と、
自分の体が同時に二つある。
それが分かるだろうか」
「それは納得できる」
「それが分かれば、理解できると思うが、
仏教で説く地獄とは、
自らの悪業、罪悪が生み出す夢のような世界なのだ」
「何だ、地獄とは夢か」

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「『夢か』、という言葉には、幻、実態のないもの、
という響きがあるが、

夢が『夢だった』と分かるのは、
夢の覚めたときであり、
夢見ているときは絶対に、
それが夢とは分からない。

だから必死に逃げ回り、
覚めたときには汗びっしょりになっている。
夢の中では、みな実在なのだ。
忽然として山が崩れ、下敷きになる。
濁流におぼれて死にそうになる。
情景は千変万化するが、
夢の中では実在なのだ。

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地獄とは、自分の心が生み出した恐ろしい夢、
想像を絶する苦しい夢が八万劫中、
覚めることなく続く世界なのだ。
(八万劫とは、4億3千2百万年の八万倍の長年月)

しかし、地獄だけが夢ではない。
人間界もまた夢の世界だが、
今の我々は、
これが夢だとは毛頭思っていない。
それは夢の中にいるから夢だとは思えないだけだ。
人生もまた夢であることは
臨終になってみれば分かる。
人生はまだ苦しみの少ない夢だが、
地獄とは、大苦悩の夢の世界なのだ」



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「夢は分かったが、鍛冶屋の住所・氏名はどうなった」
「地獄の釜を造った鍛冶屋は自分自身だ。
自分の住所・氏名は誰でも知っている」
「どうして自分が鍛冶屋なのだ」
「昔から、『火の車造る大工はなけれども、
おのが造りて おのが乗り行く』と言われる。
火の車とは、苦しい状態を言うが、
これは自分の悪業が生み出したもの。
地獄も、各人の心が生み出し、
そこに各自が堕ちて苦しむのだから、
地獄の釜は、自分自身が造るのだ。

カイコが、白いまゆを作ってすんでいると、
養蚕業の人により、煮えたぎった湯の中に放り込まれる。
まゆの中のカイコは熱いから逃げようとするが、
まゆの壁に閉じ込められ、脱出できない。
そのまゆはかつて、自分の作り出したものなのだ。
カイコと同じく、我々は、自らの悪業で地獄を造り、
そこへ堕ちて苦しむのである」


このような説明を聞いた門徒はようやく納得したと言う。

明白に知らされる後生

世の中は、過去の原因によって、
現在の結果が現われ、
現在の原因が、未来の結果を生む。

過去といえば遠い昔のように思うが、
生まれる前も、去年も、昨日も、吐いた息までも過去であり、
未来といえば遠い先のようでも、
死んだ後も、来月も、明日も、入る息も未来なのだ。
一息一息が、過去や未来とふれ合っている。

未来が現在の延長だから
この世が極楽のようにならねば、
死後救われるはずがないのだ。

「人間死んだらそれまでよ。
死んだら何もなくなって楽になれる」
とは狂人の寝言でしかない。


聞即信の一念で、阿弥陀仏に救われたとき、
三世因果も後生未来の存在も
明らかに知らされる。
そこまでは、仏法を真剣に聴聞し
進んでいかなければならない。

親鸞聖人のご在世のときに、
関東で聖人から教え導かれていた人たちが、
京に帰られた聖人に、
田畑を投げ打って旅費を作り、
片道一月もかけ、
命がけで十余ヶ国の境を越えてまで
聖人に会いに行ったのは、
この恐ろしき後生の一大事の解決一つが
あったからなのだ。

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関連ある記事はこちら

臨終には三段階ある

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死後どうなる!釈迦が説く「後生の一大事」 [後生の一大事]

有名な『歎異抄』冒頭の、
弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と親鸞聖人は、
阿弥陀仏に救われたと言われています。

また、『正信偈』の冒頭2行でも、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と言われ、
親鸞、「阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ!」
と叫んでおられます。

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では、「何を」阿弥陀仏に助けられた、
と親鸞聖人はおっしゃっているのでしょうか。

「後生の一大事」を救われた、助けられた、ということなのです。
仏教は、この「後生の一大事」を知るところから始まり、
「後生の一大事」の解決で終わります。

ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、
仏法は何十年聞いても分かるものではありませんし、
親鸞聖人の『正信偈』は、一行も正しく読めません。
そこで今回は、「後生の一大事」について、お話いたしましょう。

後生の一大事とは、どんなことか

「後生」とは、一息切れたら後生です。
仏教と聞くと、「年を取ってから聞けばいいもの」
「若いからまだ聞く必要がない」と言う人があります。
後生は遠い先のことで、自分とは関係のないことだと
思っているのでしょう。
しかし、この世は「火宅無常の世界」(歎異抄)、
いつ何が起きるか分かりません。

当社近くの国道で早朝、凍結でスリップした大型トレーラーが、
寺に突っ込む事故がありました。
女性(23)の寝ている部屋の壁を突き破り、
ベッドの手前で止まったといいます。
運転手とも軽傷で済んだそうで何よりですが、
一歩間違えば・・・。

「まさか」は突然やってきます。
心臓マヒや脳梗塞、事故や震災など、
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
吸う息吐く息と触れ合っているのが、後生なのです。

だから後生と関係のない人は、一人もいないのです。
次に「一大事」とは、どんなことをいわれるのでしょうか。
仏教に、こんな話が伝えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ある時お釈迦さまは托鉢中、
大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。
自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、
早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、
相手がお釈迦さまと分かった娘は、
心を開いてこう打ち明けました。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、
今は捨てられてしまいました。
世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、
死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。
どうかこのまま死なせてくださいませ」
と娘は、よよと泣き崩れました。

その時お釈迦さまは哀れに思われ、
こう諭されています。
「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。
ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、
朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
つくづくその牛は思った。
なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。
そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、
牛は車を壊すことを決意した。
ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、
木っ端微塵に壊してしまったのだ。

ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、
頑丈な車でなければまた壊されると、
やがて鋼鉄製の車を造ってきた。
それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。
その車で重荷を同じように毎日引かせられ、
以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、
深く後悔したが後の祭りであった。

牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと
思ったのと同じように、
そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、
死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。
その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この話は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを、
お釈迦さまが教えられたものです。
これを「後生の一大事」といわれます。
この「後生の一大事」を解決することこそが、
仏教を聞く目的なのです。

苦より苦に入る

お釈迦さまは、唯一の真実のお経である『大無量寿経』に、
「後生の一大事」を、
「従苦入苦 従冥入冥」(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
とも説かれています。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
とおっしゃったお言葉です。

「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉で言いますと、「苦しみの世界」ということです。

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この世のジゴクというのは、何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗い日暮らししていることをいいます。
「人間に生まれてよかった」という飛び立つような生命の歓喜がなく、
ため息をつきながらぼんやりと日々を過ごし、
「こんな人生なら死んだほうがましだ」と心で泣いているのが、
この世のジゴクです。

自分の業(行為)が生み出す苦しみですから、
「自業苦」とも書きます。

蚕は自ら吐いた糸で繭に閉じこめられ、
湯玉に煮られて苦しむように、
心ない発言で人を傷つけ自らも傷ついたり、
暴力振るって妻(夫)に逃げられるなど、
「身から出たさび」の実例はあふれています。

多くの人が、お釈迦さまのいわれる「この世の自業苦」に
人知れず呻き(うめき)、悶えているのではないでしょうか。
このような、現在が心の暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗なジゴクへ堕ちて苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)と説かれているのです。

では、死後のジゴクとは、どんな世界なのでしょうか。
お釈迦さまは、「どんな言葉を使っても、ジゴクの苦しみは説けない」
と言われています。
それでは喩えでなりと、とお弟子が申し上げると、
お釈迦さまは、こんな喩えで教えられています。

「朝と昼と夜の三度、それぞれ100本の槍で突かれるのだ。
その苦しみを何と思うか」
と尋ねられました。
「わずか一本の槍で突かれてさえどんなに苦しいだろうに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」
とお弟子が答えるとお釈迦さまは、
小さな石を拾われて、
「この石と向こうのヒマラヤ山と、どちらが大きいか」
と突拍子もないことを言われる。
「それはそれは、とても比較になりません。
大変な違いでございます」
と答えると、
「毎日、三百本の槍で突かれる苦しみをこの石だとすれば、
ジゴクの苦しみはあのヒマラヤ山のごとしだ」
とおっしゃっています。

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これでは私たちに、地獄の苦しみを分からせることは、
私たちが犬や猫にテレビやパソコンの説明をするよりも、
大変なことであったに違いありません。
「地獄」と聞くと、虎の皮のフンドシの鬼や湯玉たぎる釜を想像して、
あざけったり笑ったりするのは、
苦しみを表す表現であることを知らないからです。
特にインテリを自負する人たちの中には、
「死後の地獄など架空の物語だ」と蔑視するのが聡明な知識人の証、
とさえ錯覚している人が多いようです。
相当の仏教学者や自称「親鸞聖人のファン」の作家でもそうですから、
いかに仏教を正しく理解するのが難しいか、
ということでしょう。

「地獄」とは、自分の業(行為)が生み出す実在の世界なのだと、
仏智を体得されたお釈迦さまは、説かれているのです。

弥陀のねらいは、平生の救い

大宇宙の諸仏の王である阿弥陀仏は、
このジゴクからジゴクへ綱渡りしようとしている私たちを、
「この世のジゴクも未来のジゴクも救い摂り、
永遠の幸福にしてみせる」という約束をしておられます。
これを「弥陀の誓願」といいます。

こんな凄い誓願は、ほかに絶対にありませんから、
親鸞聖人は「無上殊勝の願」とも「超世の悲願」とも言われているのです。

現在の延長が未来です。
現在の自業苦が救われなければ、未来の地獄は助かりません。
眼前の小川さえ渡れないのに、
どうしてその先の大きな河が渡れましょうか。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、
弥陀の誓願のねらいになっているのも、
お分かりになるでしょう。

阿弥陀仏の誓願不思議によって、後生の一大事を解決していただき、
いつ死んでも浄土往き間違いない「後生明るい心」に救い摂られたことを、
「正しい信心」とか、「信心決定」「信心獲得」といわれます。

「決定(けつじょう)」とはハッキリすること。
「獲得(ぎゃくとく)」とは、わがものになったこと。
これを「他力の信心」ともいわれるのは、
全く弥陀のお力によって頂くからです。
「他力」とは、弥陀から賜ること。
『歎異抄』の最初に、
「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」
と言われているのも、この「他力の信心」一つで、
後生の一大事の解決が果たされますから、

ただ信心を要とす」(『歎異抄』第一章)と“信心肝要”を説かれ、
聖人自作のお聖教では、

涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)
(浄土往生の真の因はただ信心一つである)

正定の因は、ただ信心なり」(正信偈)
(仏になれる身になる因は、信心一つだ)

と、“信心正因”を打ち出されています。

親鸞聖人90年の生涯、教えられたことは、
この「他力の信心」以外にありません
から、
蓮如上人は、
聖人一流の御勧化(ごかんけ)の趣は、信心をもって本とせられ候
祖師聖人御相伝一流(そししょうにんごそうでんいちりゅう)の肝要は、
ただこの信心一(ひとつ)に限れり

と、“唯心独達の法門”を宣揚(せんよう)され、
一日も片時も急いで信心決定せよ」(御文章)
後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし
」(帖外御文)
と訴えておられるのです。
それは死んでからではない、生きている「平生」に果たされるから、
「平生業成」といわれます。

「平生」に、「他力の信心」を獲得する一つで、
永遠の幸福になるという「人生の大事業」が、
「完成」するということです。

この解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対できませんから、
お釈迦さまは仏教の結論に、

一向専念 無量寿仏(大無量寿経)
「阿弥陀仏一仏に向かい、信じよ」

と説かれ、親鸞聖人は、

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
「永遠の楽果を得るか、永久(とわ)の苦患(くげん)に沈むか。
それは『一向専念無量寿仏』になるか、否かで決まる」

と断言され、
蓮如上人は、よく親しまれている「白骨の御文章」に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのめ
と、教えられているのです。

では、なぜそんな一大事が引き起こるのでしょうか。
このことが本当に分からねば、
『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
と叫ばれた聖人の大歓喜は、毛頭分かりません。
初めの2行が分からなければ、『正信偈』は最後まで、
全く分からなくなってしまいます。
それに関しては、以下の記事を読んでいただければ
理解できると思います。

一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか!

一息切れると、なぜ一大事が起きるのか!

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特に関連の深い記事は

仏教で一番大事なことが教えられていないのは何故?

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自殺する者はなぜ愚かなのか。 [後生の一大事]

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仏教では自殺者は大バカ者と言われます。

ある日、釈尊(釈迦)が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりをはばかりながら一人の娘が、
袂へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。

「お恥ずかしいことでございますが、
ある男と親しくなり、妊娠してしまいましたが、
その後、捨てられました。
世間の眼は冷たく、お腹の子供の将来を考えますと、
死んだほうがどんなによかろうと思います。
このまま、見逃してくださいませ。」

泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思いながらも、厳然と仰せられた。
「お前は何というバカ者なのか。
お前には譬えをもって教えよう。」


                                                  

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