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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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苦しいのは誰のせい!? [因果の道理]

苦しいのは
   誰のせい?

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新聞に人生相談が掲載され始めて100年がたつといわれます。
それだけロングランを記録するのは、
世の中がいかに様変わりしても、
次々やってくる人生苦悩の波は果てしないからでしょう。
苦しむために生まれたのか、そんなはずはない、
じゃあ何のために生きるのか。
見つからぬ答えに落胆し、アキラメながらも、
問い続けずにおれないのです。
そんな嘆きが、新聞紙上の人生相談から、
かいま見えます。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・
▲ある20代女性の悩み

容姿が悪く、学校ではいじめられ、
職場でもうまくいきません。
母は私に過干渉で、父はすぐ感情的に私を怒る。
こんな暗い性格になったのも両親のせいだと思う。
世の中は女性を容姿で判断し、
それで人生が決められてしまうからつらい。

人生にはこうした悩みが多く寄せられています。
なぜ自分はこんなつらい運命を背負って生きねばならないのか。
両親のせい?
学校のせい?
職場のせい?
それについて仏教はどう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●人の運命と因果の理法

仏教とは、約2600年前、
インドに現れたお釈迦さまが説かれた教えです。
仏教とも、仏法ともいわれます。

「仏教は因縁を宗とす。
一切法を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり」
             (維摩経)

釈迦一代の教えを貫く根幹は、
因果の理法であるとハッキリ教えられています。
「まかぬタネは生えぬ」
原因なしに結果が現れることは絶対になく、
「まいたタネは必ず生える」。
原因は厳しく結果を開くと教えられています。

人生の幸福と不幸という運命は一つの結果であり、
それには必ず原因があります。
では何が原因で人は幸福になったり、
不幸になったりするのか?
誰もが知りたいことでしょう。
それについて仏教では、

自因自果

と教えられています。
これは自業自得ともいわれ、自分のやった行為(業)が、
自分の幸・不幸という一切の運命を決定するということです。
しかも原因(行為)と結果(運命)の関係は

善因善果 
悪因悪果 
自因自果

と厳然と説き切られます。

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善い行いをすれば、善い運命(幸福)に恵まれ、
悪い行為は、悪い運命(不幸)を引き起こすということです。

ですから仏教では、幸せになりたいなら善行に励みなさい、
不幸や災難など悪い運命が嫌なら悪い行為は慎みなさいと、
「廃悪修善」を一貫して説かれるのです。

●因果の理法が
    「分かる」とは

この因果の道理については何度も本誌に掲載してきましたので
「 善因善果 
  悪因悪果 
  自因自果」
「廃悪修善」と幾度も聞けば、
「もう分かったし、覚えている。
他の話はないのか」
と思われる読者があるかもしれません。
「仏教ではそのように教えられていると分かった」
というのも「分かった」ですが、
それは一つの知識として知っているにすぎません。
仏教では、教えのとおり実践するようになって初めて、
本当に「分かった」というのです。

因果の道理を自己の人生に引き当てて、
そのとおり実践するのは容易ではありません。
だからこそ、お釈迦さまは45年間、
7000余巻ものお経を説き続けられたのです。

昔、儒教で有名な白楽天が鳥窠
禅師に、
仏教とはいかなる教えか問うた話は有名です。
鳥窠禅師がそれは

「廃悪修善」と答えると白楽天は、嘲笑しました。
「そんなことなら3歳の子供でも知っている」
すると鳥窠禅師は
「3歳の童子もこれを知るが、
80歳の翁も、行うこと難し」
と即座に答えています。
「行うこと難し」
とは、因果の道理を受け入れ実践する難しさを示したものでしょう。

●因果の道理を
    受け入れられない

まかぬタネは絶対に生えぬが、
まいたタネは必ず生える。
自身に起きた一切の結果は、
善いのも悪いのも、全て自分のまいたタネの結果なのです。
これをただの話として聞く分には、
誰も否定はしないでしょうが、
いざわが身に不幸や災難が降りかかった時、
自らまいたタネと本当に思えるでしょうか。

自因自果と受け入れられず、
「あいつのせいだ」
「こいつのせいだ」
と、苦しめた犯人探しをして、
その相手を恨み呪ってはいないでしょうか。

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次に挙げるのは本誌読者Mさん(80代男性)の体験談です。
Mさんは、子供の頃、寺の日曜学校で覚えた
『正信偈』の意味を知りたいと、
ずっと求めておられた。
本屋を探してもよい本に巡り会えなかったが、
14年前本誌を知り
「親鸞聖人のみ教えがこんなに分かりやすく教えてもらえるとは・・・」
と喜ばれ、それから熱心に聞法されるようになった。
ところがある日、Mさんは病魔に襲われた。
手術は成功したが、なぜか微熱が続く。
再度診察を受けると、医師は“すぐに入院してください”
と言うばかり。
詳しいことを教えてほしいと問いただすと、
麻酔注射の際、注射針からばい菌が脊髄に入ったようだった。
症状は次第に悪化。
レントゲン写真では脊髄が真っ白に写るほどうみがたまり、
激痛で天井を向いたまま動くこともできない。
夜も眠れず、地獄の日々は三ヶ月に及んだ。
揚げ句の果てに歩行障害が残り、
Mさんは病院に対して、怒りと恨みで燃えたぎった。
病院側が謝罪したが、腹の虫は収まらぬ。
訴訟を起こし、病院側と徹底的にやり合うつもりだったという。
しかし、ふとMさんは思った。
何千人もいる患者の中で、
なぜ自分だけがこんな目に遭ったのだろう?と。
病院側にミスさえなければ、
自分が今、障害者となって苦しむという結果はなかった。
だから、不幸の原因は病院のミスにある、
と誰しも思うだろう。
しかし、それだけではその不幸が今、
自分に起きた、という運命の原因としては、
不十分であることに気づいたのです。

たとえ、病院側に落ち度があったにせよ、
もし自分がこの病院を選ばなければ、
被害者とはならなかった。

自分にとっては、ある事件の一つにすぎなかったろう。
なのになぜ、それが今、自分の身の上に起きたのか?
医療事故自体は、病院側に責任があるから、
徹底的にミスの原因を究明してもらわなければならない。
しかし、その原因が分かっても、
私が被害者となった原因は分からない。
病院が私だけを狙ったのではないのだから。
医療事故に原因が必ずあるように、
その事故が私の身に起きたのにも原因があったはず。
それは何か?

私自身の過去の行いという原因と、
病院のミスという縁が結びついて、
「今」「ここに」このような結果が起きたのだと
「自因自果」の仏説にようやく思い至ったといいます。

●一切の事象に「因」と「縁」がある

これを「因縁和合」と説かれます。
因果の道理とは、正しくは因縁果の道理といい、
因と縁がそろって結果が生じます。
一例を挙げれば、田んぼに米ができるのは、
春先にまかれたモミダネが因。
しかし、モミダネだけでは秋になっても米にはならぬ。
モミダネに土をかぶせ、水をやり、
日光を当て、適度に温度など、
もろもろの条件がそろってモミダネが米となる。
この土や水や日光に当たるのが縁です。
因だけでも結果は起きず、縁だけでも結果は起きません。
因と縁が結びついて、初めて結果が生じるのです。
自分に因がなければ、
自身の上に結果が現れることは絶対にありません。

「病院さえミスしなければ、私はこんな体にならなかった」
と恨みたくなるのは、心情的に分かりますが、
それは縁と因をごっちゃに考えているからなのです。
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●「自因自果」と知らされ
     心がスーと和らいだ

Mさんは言われます。
「医療事故の原因は、病院側にあったとしても、
その被害者が、なぜ私だったのか?
その原因は病院側には求めようもない。
こんな結果を受けねばならなかった訳が、
自分自身にあったはず。
それが業というものなのでしょう。

自分の業が、今、このように現れたに違いない。
『私が悪かったのか・・・』
そう思った時、病院や医者への恨みで張り裂けそうだった心が、
ウソのように和らいだのです」
さらに、
「訴訟を起こし賠償金を得ても、
弁護士に多額のお金を払えば、わずかなお金が手元に残るだけ。
それで苦しみが解消するわけもなく、
そのためにかかる時間や労力が無駄に思えました。
こんな体で裁判に臨んでも命を縮める。
残された体力と時間、お金で仏法を聞き、
人生の目的を果たすことにかけようと思ったんです」。
訴訟の取り下げを家族に伝えると、
家族は仏法に関心を持たれたそうです。
Mさんは言います。
「今思えば、私が最初に仏縁を結んだ『とどろき』には
三世因果の道理が書かれてありました。
私は親鸞聖人の教えに救われたのです。
残された人生、今度こそ真剣に聞かせていただきます」

    ◆       ◆

今現に起きている苦しい結果は、
過去のタネまきにほかならず、
それはMさんのように、明らかに見るよりほかありませんが、
これから先は今からのタネまきで、
どうにでも変わっていきます。
因果の道理を深く知らされるほど、
善い結果が現れた時は、仏祖のご加護と感謝し、
一層善果が来るよう努力するようになります。
また、不幸が来ても、恨んだり呪ったりせず、
もちろん泣き寝入りするのでもなく、
これまでの自己の言動や心の持ちようを反省・懺悔して、
明るい未来に向かって努力精進するようになるのです。
順境には感謝と努力、逆境には懺悔。
順逆どちらでも、Mさんのように、
人生の真の目的に向かって一層聞法精進する勝縁としたいものです。


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不平等な運命を、仏教ではどう教えられているのですか? [因果の道理]

(質問)不平等な運命を、仏教では
              どう教えられているのですか?

「人はみな平等だ」といわれますが、
とてもそうは思えません。
裕福な家に生まれ、
容姿端麗でスポーツも勉強もできる優秀な人と、
貧しい家庭に育ち才能もない自分とは、
明らかに差別があります。
努力してもどうにもならぬことがあるように思いますが、
これも運命とアキラメるしかないのでしょうか。
こういうことについて親鸞聖人は、
どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
人間は平等であることを福沢諭吉は喝破しました。
白人も黒人も有色人も、
富豪も大臣もホームレスも、
一皮はいだら同じ人間であることに、
なんら違いはありません。

けれども現実は、人間ほど、
不平等、差別の激しいものはありません。
生まれながらの賢愚美醜、強弱貧富などの差別や、
各人の身に起きる様々な事象など、
千差万別、億差兆別、実に複雑怪奇であることは
認めざるをえない事実です。

金持ちの家に生まれる者もあれば、
手から口へのその日暮らしの家に生まれる者もあります。
頭の良い人、悪い人、健康な者、病弱な者、
同じ学校を出ても大學の教授になる人、
会社の部長、家業を経営する人、職業を転々と変わる者、
事業に失敗して自殺する者、妻を亡くする人、
交通戦争の犠牲になる人など雑多です。

このようにすれば、間違いなく、
こうなるだろうと思ってやったことが、
とんでもない結果になって、
この後どうすればよいか、
途方に暮れることもしばしばあるでしょう。
いくら真面目に仕事をしているからといっても、
必ず成功するというものでもないし、
悪人だからといって、必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、
悪人の成功者も少なくありません。

●正直者はばかを見る?

中国の顔回(がんかい)は、
孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折(ようせつ)しました。
盗跖(とうせき)という大泥棒は、
悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死にました。

この2人の人生を対照して孔子は、
「ああ、天われを亡ぼせり、天われを亡ぼせり」
と嘆息しています。

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このようなことは、
私たちの身辺にもいくらでもあって、
「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」
と、自暴自棄になる人やら、
「これはどうにもならない運命なのか」
と、アキラメ主義になる人もいます。
また、自分が不幸になると「あいつが悪い」から、
「社会が悪い」からと、
それらを怨む人も多いのです。

むろん、本人の注意や努力、環境や社会機構なども、
大いに私たちの運命に関係を持っています。
世の中の仕組みを変えることによって、
少なくすることもできるし、
無くすることのできる悲運もあるでしょう。

しかし、持って生まれた知能指数や性格など、
どうすることもできないものも多々あります。
なぜ、障害を持って生まれなければならなかったのか。
なぜ日本に生まれたのか。
なぜ昭和に生まれたのか。
なぜ、この親の子供として生まれなければならなかったのか、
なぜ、こんな子供を産まなければならなかったのかと、
悲運の原因を模索していますが、
結局は「分からない」とアキラメてしまいます。

三世を知るか否か

ここに仏教は、過去、現在、未来の三世の実在を説き、
それを貫く因縁果の大道理を示します。

私たちの現実は、限りなき時間と限りなき空間の上に成り立ち、
因縁果の道理に従って、過去、現在、未来と続くのですが、
現世だけしか知らない人間の目の届く範囲は
ごく限られています。
だから、現世だけの結果を見ただけでは、
原因のつかみようがないのです。

ただ、間違いないことは、
蒔かぬタネは絶対に生えぬということです。
結果があれば、必ず、
そうなる因と縁とがあってのことなのです。

頼山陽(らいさんよう)は、
釈迦と孔子と相撲をとって負かされている画を描いて、
仏教者の雲華院大含(うんげいんだいがん)に
「この絵に、賛をしてくれ」
と依頼した。
すると大含は、しばらく考えて、
孔子、三世を知らず、
釈迦顛倒(てんどう)して、これを笑う

と揮毫(きごう)したといいます。

人生を、今生だけにとらえて、
道徳倫理生活のみを強調する人も、
親鸞聖人の教えよりすれば、
無知蒙昧(むちもうまい)といわざるをえないでしょう。

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運命のしくみと仏法 [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


本誌編集部には、毎月多くの感想や質問が寄せられます。
今回は、昨年11月号の特集
「因果の道理~何が運命を決めるのか」
を読まれた方から届いた二通のお便りを通して、
より深く「運命のしくみ」について学びましょう。

(感想1)
「因果の道理」について分かりやすくまとめてあり、
よく理解できていなかったことも、
ストンと心に落ちました。
ですが、つらく苦しいことが重なると、
「どんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。
         (広島県・44歳女性)

(感想2)
私は過去にたくさんの過ちを犯してきました。
『とどろき』で「因果の道理」を知らされ、
現在の苦しみは、その結果と受け止めることができ、
心が楽になりました。
しかし業の深い私は、
未来にもっと大きな苦しみがあるのではないかと、
不安も感じています。
こんな私でも幸せになれるでしょうか。
         (岐阜県・28歳女性)

どちらも、昨年11月号の内容を
真摯に受け止められての感想です。
この号とご縁のなかった方もあるでしょうから、
まず、「因果の道理」についておさらいしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果の道理とはどんな教え?
 (昨年11月号のおさらいです。このブログには載せていません。)

「因果の道理」は、仏教の根幹です。
「仏教」とは、約2600年前、インドに出現された
お釈迦さまの一代の教えです。
「根幹」とは、根であり、幹のこと。
仏教を一本の木に例えたならば、
因果の道理は根や幹に当たります。
根や幹がなくなれば、木は倒れてしまいます。

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釈迦一代の教えは、7000余巻の一切経に
全て書き残されています。
その一切経を貫いている根幹の教えが因果の道理ですから、
この因果の道理が分からねば、
仏教も親鸞聖人の教えも毛頭、分かるものではありません。

因果とは、「原因」と「結果」のこと。
どんなことにも必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は絶対にありません。
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える。
これが「因果」ということです。

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道理とは、仏教で、三世十方を貫くものをいいます。
いつでも(三世)、どこでも(十方)変わらぬ真理です。
時や場所によって異なるものは、
道理とはいいません。

いつの世も、どの国でも変わらない。
地球上のみならず、たとえ宇宙に飛び出しても
間違いないことが「道理」です。

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仏教の因果の道理は、
特に私たちの幸福についての原因と結果の関係を
詳しく教えられています。

私たちが最も知りたいのは、
どうすれば幸福になれるか、ということでしょう。

幸福こそすべての人の願いであり、
人生の目的だからです。

これらについて、
お釈迦さまは次のように教示されます。

善因善果(善い因をまけば、善い結果が現れる) 
悪因悪果(悪い因をまけば、悪い結果が現れる)
自因自果(自分のまいた因の結果は自分に現れる)

因とは、我々の行為のこと、
果とは、我々に現れる種々の運命をいいます

(仏教では本来、運命とはいいませんが)。
私の身に起きる禍・福(幸・不幸)は、
すべて私の行為が生み出したものであり、
これに万に一つも例外はない。
これが仏教の説く因果の道理です。

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 (おさらいはここまで)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私がどんな悪いことをしたの?」
  つらい目に遭うと必ずこう思うけど・・・

寄せられた疑問1
つらく苦しいことが重なると
「私がどんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。

        ■      ■      ■

共感される人は多いでしょう。
苦しいことが立て続けに起きると、
「どうして私ばかりこんな目に?」「自因自果とは思えない」
と思う気持ちはよく分かります。

しかし、私に無関係なことが
私に起きる道理はありません。

しかも私のまいた種の結果が他の人へ行く「自因他果」や、
他人のまいた種の結果が私に現れる「他因自果」は絶対にない、

とお釈迦さまは教えられています。

受験戦争や就職難を勝ち抜くには、
自分が勉強し、面接を受けねばなりません。
周囲を励まし、応援も大切ですが、
当の本人の努力なしに、
合格も採用もありえないのは当然でしょう。

フーテンの寅さんに、こんなセリフがあります。
「おまえと俺とは別な人間なんだぞ。
早え話がだ、俺がイモ食って、
おまえの尻からブッと屁が出るか?」

      (松竹映画『男はつらいよ』第1作より)

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歌手の西城秀樹さん(59)は、
脳梗塞からの過酷なリハビリの心境を、
次のように告白しました。
「リハビリは全部つらいですよ。
体が鉛のように重いから、歩くだけでもつらい。(中略)
リハリビ中は根気しかない。
こんだけ根気あって、こんだけ努力するんだったら、
東大でもどこでも受かっちゃうよ(笑)」
苦痛に耐えて朝7時に起き、
最低1時間は公園を歩いた。
トレーニングに励むのも、ほかならぬ自分のため。
つらいからといって、他人にお金を出して
やってもらっても意味がありません。
オリンピックでのメダル獲得は、
選手自身が何年も練習に汗を流したたまものでしょう。

だから、自己の行為が自身の運命を生み出す
「自因自果」「自業自得」と
誰でも一応は納得していますが、
ひとたび不幸に見舞われた途端、
受け入れられなくなるのです。

どう考えても
「あいつのせい」としか思えない・・・・

例えば、こんな場合。
いつも飲んだくれのばくち打ち、
家庭内暴力を振るう夫によって、
気立てのよい奥さんが毎日苦しめられている。
彼女自身も、周囲の人たちも、
「あの夫のせいでひどい目に遭っている。
『他因自果』ではないか」
と思います。
しかし、これも間違いなく自因自果。
なぜでしょう。

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まず、因果の道理は正確には、
「因縁果の道理」であることを、知らねばなりません。
「一切法(万物)は、因縁生なり」(釈尊)
「全てのものは、因と縁が結合して生じたもの」
と、お釈迦さまは仰せです。

例えば携帯電話なら、一台あたり約600個の部品(因)と、
それらの組み合わせる作業(縁)によって完成(果)するように、
全ては「因」と、それを助ける「縁」がそろって
初めて生まれています。
私たちの運命も同じです。

どんな悪い男がいても、結婚さえしなければ、
奥さんの現在の不幸はありません。

そんな男の妻になったのは、
彼女自身が「好きになって結婚した」から。
その行為が原因で、今の不幸という結果となった。
夫は大変な悪縁ですが、原因はあくまで、
奥さん本人にあるのです。

「そんなの、結婚するまで分からないでしょ。
運が悪かったのよ」
と身の不遇を恨み、嘆き、
あきらめてしまう人は多いかもしれません。
しかしその「運」とは何か。
誰が決めているのか。

運命の原因は過去の自己の業(行為)なのだ。
そのわが身のまいた因を明らかに見なさいと
仏教はおしえられているのです。
他の女性は、その男のために苦しんでいないのですから、
その奥さんだけが持つ原因があって、
不幸を生み出しているのです。

では、悪い夫は無罪放免なのか。
もちろんそうではありません。
このようなダメ夫(悪縁)は、
種々働きかけて更正させる努力が必要なのは当然です。
どうにも無理なら、遠ざけたり、
いっそ縁を絶つ(離婚)方法もありましょう。
「他因自果ではないか」と思う人のほとんどは、
因と縁とを混同している場合が多いようです。
ここが分からないと、筋違いな恨みや呪いを抱いて
一生を棒に振る人もありますから、
よくその違いを知っていただきたいと思います。

悪い種まき
 忘れていませんか?

また、自因自果と思えぬもう一つの理由に、
過去の悪い種まきを忘れていることが挙げられます。

「善い種をまいているのに、不幸ばかりやってくる」
と不満を漏らす前に、
自分のまいた種を静かに振り返ることが大事、
と仏教では教えられるのです。

アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンに、
「貸し手は借り手より常に記憶がよい」
という格言があります。
お金を貸したほうは、
「あなたに、○年○月○日、○時○分、
あの場所で○円貸した」
と、死ぬまで覚えています。
ところが借りたほうは、
「あれ、そんなお金借りたっけ?」
と忘れがちです。
人間は、自分の都合のよいこと(善因)は、
しっかり覚えていても、
都合の悪いこと(悪因)は忘れやすい。
しかし、たとえ忘却しても、
まいたタネは必ず生えるのが因果の鉄則です。

私たちの肉体は、食べ物によって作られる。
食べた物(原因)の結果は、
5年も10年も後に現れるといわれる。
「簡単で、安く、おいしい」インスタント食品や
ファーストフードは好まれますが、
食品添加物が多く、害も多い。
安易にこれらを口にしては、すぐには体調不良にならずとも、
将来の病気の種にはなります。
ところが私たちは先週食べたものさえよく覚えていないので、
生活習慣病が発覚すると、
「なぜ、オレがこんなことになったのか」
と、診断結果に当惑するのです。

全ては自分の種まきに違いない。
他人が食べた物のせいでないのは明らかです。

そういうイヤな結果を変えたければ、
原因を変えよと因果の道理では教えられます。
「善因善果 自因自果」
は間違いありませんから、
努めて善い種まきに励みましょう。

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誰でもすぐに実践できる善い種まきを一つ紹介します。
仏教で教えられる「和顔愛語(わげんあいご)」です。

にこやかな笑顔と明るい挨拶が世の中を楽しくする、
と言われます。
わずかな心がけで、誰でもできる種まきから
始めてはどうでしょうか。

「そんなささいな種まきで、幸せになれるものか」
といぶかる人に、お釈迦さまはこんな例えで教導されています。

多根樹という大樹で有名な村へ、
お釈迦さまが赴かれた時のこと。
柔和な釈尊のお姿に接した貧しい主婦が、
昼食のために用意していた一握りの
「麦焦がし」を差し上げた。
釈尊は弟子の阿難に向かって、
「この女は今の善根によって、やがてさとりを開くであろう」
と仰った。
そばで聞いた女の夫が腹を立て、
「そんな出任せ言って麦焦がしを出させるな。
取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
と食ってかかる。

釈尊は静かに、
「あなたは世の中で、
これは珍しいというものを見たことがあるか」
と聞かれると、男は得意になって言った。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。
一つの木陰に500両の馬車をつないでも、
まだ余裕があるからだ」
「そんな大きな木だからタネは、ひきうすぐらいあるだろう。
それとも飼い葉おけぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。
ほんのケシ粒の四分の一ほどしかない」
と男は答える。
「そんな小さなタネから、
そんな大木になるとは誰一人信じないだろう」
と仰ると、男はムキになり、
「誰一人信じなくても俺は信じている」
と大声で反発した。

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ここで釈尊は言葉を改められ、
どんな麦焦がしの小さな善根でも、
やがて強縁に助けられて、
ついにはさとりを開くこともできるのだ
」。
当意即妙の対機説法を聞いた夫婦は、
直ちに仏弟子になり真実に生きたという。

(※対機説法とは、相手に応じて教えを説くこと)

「千里の道も一歩から」というではありませんか。
ちょっとした種まきの積み重ねで、
人生は大きく変わっていくものです。

「和顔愛語」以外にも、
仏教ではたくさんの善が勧められています。
教えをよく聞き、日々よい種まきに努めれば、
待つ春の慈光(じこう)に浴して、
満開の花があなたの心にも咲くでしょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こんな私でも幸せになれる?」
       「縁」の大切さを学ぶ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前半では、未来を変えるために
すぐ実践できる善い種まきを学びましたが、
すでにまかれた多くの悪因に
悩んでいる人もあるかもしれません。
しかし、

「どうせ、なるようにしかならない。これが人生よ」
と自暴自棄になる必要はありません。

ここでしっかり反省することが、「禅定」という、
これも善い種まきなのです。

過去を変えることはできませんが、
過去の種まきを反省し、正しい教えに従って、
ただ今から善い因(たね)を根気よく一生懸命まけば、
必ず人生は好転するのだよと、
お釈迦さまは励ましてくださいます。

次の質問から、特に縁の大切さについて話をしましょう。

寄せられた疑問2
業の深い私は、未来にもっと大きな苦しみが
あるのではないかと不安もあります。
こんな私でも幸せになることができるのでしょうか。


この疑問にお釈迦さまは、
どう教えられているのでしょう。
前述の通り、「因果の道理」とは、
詳しくは「因縁果の道理」で、
私たちの因が縁と結びついて結果を表すということです。

私たちの行為(因)を変えることによって
結果は大きく変わりますが、

縁によっても結果は大変わりします。

例えば、コシヒカリという名のモミダネを
新潟県の魚沼地方で育てますと、
全国でも有名で高値のつくおいしいお米になる。
ところが、そのコシヒカリのモミダネを
乾燥した国外へ持っていって育てても、
同じコシヒカリかと思うほど、
味が落ちてしまいます。
湿度や日照時間、水や土の質など育つ条件(縁)が変われば、
結果がガラリと変わるのです。

ある学習塾の先生が、中学生ほどの学力もない女子高生を、
難関の慶応大学へ合格させ話題を呼びました。
女子高生は「聖徳太子」を「せいとくたこ」
と読むような状態でしたが、
その先生の指導によって、
学力が一気にアップしたといいます。

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先生によって、勉強が好きになったり、
嫌いになったりした経験のある方も多いでしょう。
スポーツや芸術でも、指導者によって随分変わってきます。
本人の才能や努力はもちろん大切ですが、
その才能を育てる人(縁)もまた重要なのです。

学力アップを切望する人は、
教え上手な先生の塾に通ったり、
切磋琢磨するライバルがたくさんいる学校を選んだり、
スポーツ選手なら、コーチやチームなど、
向上できる環境を選ぶのです。


「朱に交われば赤くなる」。
親鸞聖人は、悪人には近づくなと
教誡(きょうかい)されています。

「『悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、
近づくべからず』とこそ説かれて候え。
『善知識・同行には親しみ近づけ』
とこそ説きおかれて候え」
  (末灯鈔)
(「悪を好む人には、できるだけ近づくな、
善知識や同行には親しみ近づくがよい」と説かれている

好んで悪に走る人からは遠ざかり、
本当の仏教を説かれている先生(善知識)や、
ともに仏法の話ができる法友は
大いに親しみ近づきましょう。

縁によって、結果が驚くほど変わってしまうものに
炭素という物質があります。

地球上に無尽蔵にある炭素は、
常温・常圧の下では、炭です。
ところが、大変な高温と高圧の下では、
なんと地上で最も硬く、高価なダイヤモンドと輝くのです。

元は全く同じ炭素とは、とても思えないでしょう。
縁次第で結果が大変わりする好例です。

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人生も縁次第

価値のない、無味乾燥に思える私たちの人生も、
縁次第で無限に輝く人生となる。

ヘエ、そんな縁があるのかと、疑問に思う人もあるでしょう。
親鸞聖人は、
「ある」と断言され、それは「
弘誓の強縁」だ、
と仰っています。

主著『教行信証』の冒頭のお言葉です。

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫(おっこう)にも獲がたし」
(ああ・・・、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求めてきた歓喜の生命を得ることができた

「弘誓の強縁」とは、
「どんな人も 必ず 絶対の幸福に救う」
と誓われた、阿弥陀仏という仏さまの本願のこと。

私もあなたも一人も漏らさず、
すべての人と交わされた約束
ですから
「弘誓(ひろい誓い)」と言われているのです。
人智を超えたその弥陀の本願には、
「幾多の生(多生)を経てもあえなかったが、今値えた。
気の遠くなるような長い間(億劫)にも得がたい絶対の幸福を、
今獲たぞ!」
と歓喜なされています。

幸せを求めながら悪業によって不幸へ突っ走る私たちを、
阿弥陀仏は、どこまでも追いかけ「堕としはしないぞ」と、
ものすごいお力で絶対の幸福に救い摂ってくださいます。

その阿弥陀仏の本願力は絶大ですから「強縁」と
親鸞聖人は仰り、その弥陀のお力をこうも讃嘆されています。

願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸も捨てられず
」(正像末和讃)
どんなに罪や悪が重くとも、心が散り乱れても、
阿弥陀仏の願力は無限だから、必ず救い摂られるのだ

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例えば、石は必ず水に沈みますが、
どんな大きな石でも、それを浮かばせることのできる
巨大な船に乗せれば、
水に浮かびます。

阿弥陀仏の本願の大船は、
どんな煩悩の巨魁・罪悪深重の私でも、
そのまま絶対の幸福に浮かばせてくださるのです。

弥陀の本願は弥陀の大慈悲心によって
つくられた船ですから聖人は、
「大悲の願船」とも記されています。
その「大悲の願船」に乗られた親鸞聖人は
「大悲の願船に乗って、光明の広海に浮かんだ」
と仰り、
どんな業の深い人も弥陀弘誓の強縁にあえば、
天に踊り地に踊り、一息一息が大安心・大満足でるのだと、
不思議な弥陀の本願力を私たちに伝えてくださいました。

では、どうすれば、そんな素晴らしい身に
生かされるのでしょう。

親鸞聖人のお答えは、
「聞思して遅慮することなかれ」
こんな私でも本当に助かるのだろうか、
阿弥陀さまのお力でも無理ではなかろうかなどと、
迷い計らい、もたもたせずに、
仏法をひたすら聞き抜きなさいよ
と、
聴聞の一本道を示されています。
「仏法は足で聞け」
と教えられます。
人生の幸せ、不幸せを左右する仏縁ですから、
遠くへ足を運んででも仏法は聞きなさいということです。
そのうち聞くつもりだ、
この仕事が終わったら聞こうなどと思っていたら、
あっという間に人生は終幕を迎えます。
いつ悪縁に引かれて聞けなくなるか分かりません。
今、すぐにでも聞法会場へ体を運び、
まことの弥陀の本願を大切に聞き求めましょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・
手記

厳しい「因果の道理」のバックには
弥陀の大慈悲がありました。

山森 貴さん(62・仮名)
誠実な人柄と、40年にわたる堅実な仕事ぶりを見込まれて、
経営者に抜擢されたという。
自宅には、500年前からのお仏壇があり、
蓮如上人直筆の御名号本尊がご安置されている。

ガソリンスタンドの経営者として多忙の中、
聞法に励んでいる山森 貴さん。
親鸞聖人のみ教えに出遇うまでは、
「人知れず消えてしまいたい。
そんなことばかり考えていた」
といいます。
一体、何があったのでしょうか。


年間約3万人ほどの日本の自殺者の中に入っていたはずの私が、
一枚のチラシを縁に、親鸞聖人と出会うことができました。

島根県雲南市の山奥に生まれました。
私が8歳の時、山で兄の切った大木が母の頭部を直撃。
頭の皮が剥がれ、悲惨な姿で、
私の目の前で母は息絶えました。
それから家の中は、母を亡くした父の悲しみと、
母を死なせた兄の苦しみで、
まるで鉛を抱えたような毎日でした。
母の死から五年、苦しみ抜いた兄は25歳で、
ある朝突然亡くなりました。
父も急な病で逝ってしまい、
私は20歳で天涯孤独となってしまったのです。

独りぼっちの私でしたが、やがて妻と出会い、
家を建て、3人の子供に恵まれました。

やっと人並みの幸福を手に入れたと思っていた矢先、
妻が腎臓を患い入院、7年の闘病の末、先立ってしまったのです。
末っ子が成人式を迎えた年でした。
妻と2人で過ごす老後、そんな夢ははかなく消え、
再び鉛のような重苦しいものが私の心を覆い、
自殺へと誘います。
「なぜ私だけこんなひどい目に。
どうせ私はみんなを不幸にする悪魔なんだ。
だから、今すぐ死んだほうがいい。
でも死ぬのは恐ろしい・・・」
鉛を抱えて13年、「もう限界」と思っていたその時、
一枚のチラシが届いたのです。
忘れもしません。
3年前の7月でした。
チラシの案内に従い、恐る恐る出かけた会場で、
アニメの親鸞聖人に出会いました。
「明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
ああ親鸞さまも、お父様、お母様と
悲しい別れをなされたのですね・・・。

●鉛の心も
私が生み出していた

翌月も聞法に出掛け、初めて「因果の道理」を
聞かせていただきました。
「自分の運命の全ては、
自分の行為が生み出したものである」
と仏教では教えられます。
えーっ、この鉛のような寂しさも苦しさも、
全部、私が生み出したと言われるんですか!
午前中の話があまりに身にこたえ、
「もうその話はやめてください!」
と、何度、手を挙げて叫ぼうかと思ったかしれません。
しかし、それに耐えて続けて聞かせていただくにつれ、
不思議なことに、永年抱えてきたあの鉛の心が、
まるで太陽に照らされた雪のように消えていったのです。
厳しい「因果の道理」のバックには、
温かい阿弥陀如来の大慈悲がありました。
聞法の場が、まるで母の懐にいるような、
懐かしい、温かい所となりました。
こんな幸せな日が来るなんて、
全く予想もしていませんでした。

今、母と父と兄と妻に、
心から感謝の言葉を贈りたいと思います。
「ありがとう、身をもって教えてくれたんだね。
私の後生の一大事を」
死ぬことばかり考えていた私が、
「なぜ生きる」の答えをハッキリ知らされました。
鉛の心を、聞法の喜びに変えてくださった阿弥陀如来、
親鸞聖人に心より感謝せずにおれません。
この阿弥陀如来の大慈悲を、何としても多くの人に
伝えなければなりません。
かつて私のように鉛の心を抱えた人が、
すぐそばにも、きっといるはずだからです。


 


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自利利他で行こう!しあわせの種まき [因果の道理]

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自利利他で行こう
     しあわせの種まき

プロローグ★しあわせのスイッチ

夜八時を少し回ったこと、
お店には、女性たちのにぎやかな笑い声が響いていた。
“疲れたおとなの充電基地”をうたい文句に、
家庭料理と飾らない居心地のよさが評判の、
和風ダイニング『ダンナ屋』。

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照明を落とした店内をぐるりと見渡したマリ子は、
奥のテーブルで手を振るケンジを見つけた。
「ごめんなさい。遅くなって」
「いや、ボクも今来たばかり」
ほとんど空のグラスを見ればウソと分かったが、
ケンジの言い方がおかしくて、自然と口元が緩んだ。
ケンジは学生時代の先輩であり、
よき相談相手でもある。

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「今日もまた何かあったのかい?」
「分かりますかぁ」
マリ子は向かいに腰掛け、近づいてきた店員に、
冷たいゴーヤ茶を注文した。
「いっつもトラブルが起きるんです。
すごくイヤな人がいて・・・」
「そうか、大変なんだね」
「ケンジさんの周りは、そういうことないんですか。
いい人ばかりで、うらやましいな」
そうでもないよ。ま、ボクはなるべく
幸せのスイッチを入れるようにしてるだけ

「何ですか、それ」
ケンジはすぐには答えず、問いかけた。
例えば一日の中で、他人のことを考えている時間の割合、
考えたことある?」
「ないですけど、半分ぐらいかな」
「じゃ、その中で相手に何かしてあげようと思ってる時間と、
腹を立ててる時間は?」
「うーん。九割方、怒ってるかも」
「つまり、相手に何かしてあげようと思っている時間は一割未満?」
「まあ、そうなります

ケンジはぐっとマリ子のほうに顔を近づけて、ささやいた。

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毎日ちょっとでも多く、人に何か与えられないか考える。
それが幸せのスイッチ

えー、よく分からないけど、と言って、
マリ子は首をかしげた。
ゴーヤ茶が運ばれてきた。
店員は、手際よく次の注文をとって立ち去る。
とりあえず二人はグラスを重ねた。
で、さっきの続きだけど。
お釈迦さまがね、“幸せになりたければ、
相手に与えることを考えなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら不幸になりますよ”
と仰っているんだよ

「えっ、お釈迦さま?」
ここからの時間は君にプレゼント、と言いながら、
ケンジは手帳とペンを取り出して、
さらさら書き始めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しあわせの
     原因と結果の関係

どうすれば幸せになれるのか。
私たちが一番知りたい、
運命の原因と結果の関係を教えられたのが、

善因善果
悪因悪果 
自因自果

という、お釈迦さまのお言葉です。
「善因善果」とは、善い種をまけば善い結果が現れる。
「悪因悪果」とは、悪い種をまけば悪い結果が引き起こる。
「自因自果」とは、善いのも悪いのも、
自分の現れる結果のすべては、
自分のまいたものばかり、ということです。

ここで「因(タネ)」とは、私たちの行いのこと。
「果」とは幸福や不幸の運命です。
幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難は、悪い行いが引き起こしたものである。

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神というものがいて運命を造ったのでもなければ、
先祖のたたりで不幸になるのでもない。
自分の運命のすべては、
自分の行為が生み出したものなのだ

と、お釈迦さまは教えられているのです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
善因は善果、悪因は悪果。
一度まいた種(行い)が消えることは絶対ありません。
私の人生をつくっているのは、
私の行為であり、因が変われば果も変わる。
運命は自分で変えられる、ということです。

幸せの種まき
    六度万行と布施

では、どんな種をまけばよいのでしょう。
お釈迦さまは、たくさんの善(諸善万行)を
教え勧められています。

しかし、あれも善、これも善と並べられても、
私たちはどれから手をつけてよいか迷いますね。
ちょうど、服を一着だけ買いに行ったのに、
何百着も並んでいると目移りして選べません。
そんな時、店員さんが気を利かせて、
数着候補を並べてくれると選びやすいでしょう。

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私たちが実行しやすいように、
お釈迦さまが、いろいろな善を六つにまとめられたのが、
六度万行(六波羅密ともいう)です。

その六つを挙げ、現代語で表現すると次のようになります。

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この六つに、数え切れぬほどの善がおさまっています。
しかも、どれか一つ実行すれば、
六つ全部したのと同じになるのが、六度万行の特長です。

中でも私たちがいちばんしやすいのが布施ですから、
お釈迦さまは、六度万行の最初に挙げられています。

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布施とは「施す、与える」こと。
広い意味で「親切」です。

布施を大きく分けると、財施と法施の二つになります。
財施とは、財を施す。
つまり、お金や物を人にあげることです。

恵む人は恵まれる。
生かす人は生かされる。
「幸せになりたければ、布施しなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら、
善果はきませんよ」
とお釈迦さまは仰います。

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「与えたら自分の分が減るではないか」と思うでしょうが、
違うんです。
あげた人も、もらった人も、ともに幸せになれる。
やってみれば分かりますよ。

もちろん、これだけ与えればこれだけ返ってくるだろう、
と計算してやるのは、
商売であって布施ではありません。

お釈迦さまは、布施の心掛けとして、
「三輪空(さんりんくう)」を教えられています。

「私が(施者)」
「だれだれに(受者)」
「何々を(施物)」
この三つを忘れるように努めよ、ということです。

相手の幸せだけを考えて種をまくのです。
心が大切なんですよ。

お金や財を持たない人でも、
気持ちさえあれば七つの布施ができますよ、
とお釈迦さまは「無財の七施」を教えられています。

無財の七施

眼施(げんせ)
優しい温かい眼差しで周囲の人々を
明るくすること。「目は心の鏡」。
和やかな光をたたえた目は、どんなに人を慰め、
励ますことでしょう。

和顔悦色施(わげんえっしょくせ)
優しい笑顔で人に接すること。
笑顔は周囲を和ませ、
トゲトゲしい対人関係もスムーズにしますね。

言辞施(ごんじせ)
優しい言葉をかけること。
例えば事故や災害に遭った人に、
心から「命が無事で幸いでしたね」
と気遣う人もあれば、
「修理費いくら?うわーバカみたい」
と傷に塩を塗る人もある。
あなたはどんな言葉をかけていますか。

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身施(しんせ)
肉体を使って人のため、
社会のために働くこと。
いわゆるボランティアです。
知人が車に大きめのゴミ箱を置いていた。
道路にゴミが落ちていたら拾うためという。
普通なら「だれか片付けるだろう」と思うところ。
「みんなのために、自分に何かできることはないか」
という心が行動に表れます。

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心施(しんせ)
心から感謝の言葉を述べること。
「ありがとう」
「すみません」
たった5字の音声が、職場や家庭を明るくする。
反対に、その一言がなくて
信頼を失ったことはありませんか。

床座施(しょうざせ)
場所や席を譲り合う親切。
乗り物の座席の取り合いや、
権力の座の奪い合いを見ると、
いかに床座施が必要か知らされます。
「他人に譲る気持ちを持つようにしよう」
といわれますね。

房舎施(ぼうしゃせ)
求める人、訪ねて来る人があれば
一宿一飯の施しを与え、
その労をねぎらうことです。

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このように心がけさえあれば、
どんな人でも、いつでもできる善が布施なのです。

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ただし、誰にでも与えればよいのではありません。
えば放蕩息子に金銭を与えればますます堕落しますし、
泥棒の手助けをしてよいはずがありません。

お釈迦さまは、布施の相手を「三福田」
と説かれています。

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最も敬うべき、ご恩を受けているお方は、
私たちを未来永遠に幸せにしてくださる阿弥陀如来です。

そして親鸞聖人や蓮如上人など、
その阿弥陀如来の御心を伝えてくださった方々。

また、生み育ててくださったご両親や学校の先生、
他にも陰に陽にお世話になっている方もあるでしょう。

悲田(ひでん)は、病やケガ、災害や貧困などで
苦しんでいる人のことです。

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農家の人が田んぼに種をまくのを見て、
あいつは馬鹿だなあ、
あんなところに種を捨てて、と思う人はないでしょう。
やがて芽が出て成長し実を結んだ秋の収穫は、
すべて農家のものになるからです。

ちょうどそのように、布施をすれば、
その福徳は布施をした人のものになり、
やがて大きな幸せの実を結ぶから、

布施の相手を田んぼに例えられているのです。

欲深い私たちは、金でも物でも、
与えるとつい損をしたように思いますが、
逆だと教えられます。

布施の功徳は、幸せとなって必ず布施した本人に
現れるのですね。

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法施とは法を施す。
つまり、人に仏法を伝えることです。
財は一代の宝、法は末代の宝」といわれ、
金や財は生きている間の喜びですが、
仏法には未来永遠の幸せが説かれていますから、
それを伝えることは財施に勝るしあわせの種まきだと、
お釈迦さまは教えられています。


思う存分話ができなくても、
仏法が説かれる場所へ人を誘ってあげれば、
それも法施です。

「こんな尊い教え、自分だけ聞いているのはもったいない。
みんなに聞いてもらいたい」
と、わが家を開放して法話を開いたり、
聞法道場をつくる。
これは、財施と同時に法施もすることになり、
その功徳は計り知れません。
昔から、自分の家で法座を勤めると、
その家の屋根に留まった鳥から、
床下の虫まで尊い仏縁を結ぶといわれています。

財施も法施も、ともにしあわせの種まき。
まいた種はほかのだれでもない、
全部あなたのものになるのですから。

●エピローグ★自利利他で行こう

「何だか幸せになれそうな気がしてきた」
そう言ってマリ子は笑った。
店に入ってきた時の疲れ顔は、
もうどこかへ消えてしまったようだ。
ケンジはほほえみながら、最後にこう付け加えた。
仏教では、自分さえよければ他人はどうでもいい、
という考え方を最も嫌われるんだ。
我利我利亡者といってね。
我利我利とは、自分さえ助かればいい。
他人はどうでもいい、という心。
そんな人が愛され、慕われ、
恵まれるはずがないでしょ?

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仏教は自利利他。
他人を幸せにする(利他)ままが、
自分の幸せ(自利)となる。
他人も生かし、自分も生きる。

これが自利利他の道なんだよ
「自利利他、か。ステキな言葉ね」
マリ子は弾んだ声で答えた。
ちょうど熱々の料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。
揚げ出し豆腐のほっこり煮と
『ダンナ屋』特製桜ご飯のセットでございます」
「うわっ、おいしそっ!」
おいしいですよー、と言いながら、
店員は二人の前にお膳を据えた。
「じゃ、改めて」
ケンジがグラスを手に取る。
マリ子もならった。
「自利利他で行こう!」
「乾杯!」
カラン、と、グラスの中で氷が揺れた。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記

無常を教えてくれた
    父のメッセージ
「いつまでも幸せが続くと思っていたのに、
無常の嵐が、何の前触れもなく吹いたのです」
清水さんが仏法を聞くきっかけとなったのは、
幼いころの悲しい出来事でした。
   石川県  清水 浩一さん(22・仮名)

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)を
つらつら観ずるに、凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
蓮如上人の書かれた「白骨の御文章」の冒頭です。
18歳の時、私は初めてこのお言葉を聞き、
心を打たれました。
そして、胸にしまっていたあの出来事を、
思い出さずにはいられなかったのです。

6歳の夏、その日は。父と私、3歳の弟とで
海水浴を楽しんでいました。
とても高い飛び込み台から、父は繰り返し頭から飛び込んでいました。
何度目だったでしょう。
飛び込んだ父が、海面からなかなか上がってきません。
最初は、私や弟を驚かそうとしているのだと思いましたが、
いつまでたっても上がってこないのです。
にわかに周囲が騒然とし、大人たちが海に潜って、
父を捜し始めました。
言いようのない不安。
私はどうしていいか分からず、
ただ待つしかありませんでした。
やがて、2、3人に抱きかかえられ、
海から上げられました。
人々が取り囲み、心臓マッサージがなされている。
救急車のサイレンが鳴り響きました。
「さてしもあるべき事ならばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり」  (白骨の章)
190センチもあった父は、ひとつまみの白骨に変わり果てたのです。
「大好きなお父さんは、もういない。
二度と会えない。一体、何が起きたのか」
幼かった私には、とても理解できないことでした。
一つだけ分かったのは、母の狂わんばかりの悲しみ。
泣き叫ぶその姿は、今も忘れることができません。

●衝撃的な出遇い

事故から12年後、大学生になった私は、
高校の友人に誘われて、初めて仏法を知りました。
そこで聞いたのが「白骨の御文章」です。
衝撃的な蓮如上人のお言葉は、
私の胸に深く刻まれました。
営々と築き上げたどんな成果も、
人生の幕切れで、ぐしゃりと握りつぶされる。
残るはひとつまみの白骨のみ。
31歳の父が、姿にかけて教えてくれたのは、
この仏説まことだったのです。
「一度きりの人生、後悔だけはしたくない」
そう強く願って生きてきた私が、
“人生で果たすべき唯一の目的”
を教える仏法に出遇えたのです。
仏縁に恵まれ、今の私があるのも、
母のおかげです。
父亡きあと、いちばん悲しみ、苦労してきた大切な母にこそ、
この素晴らしい聖人の教えを伝えたい。
離れて暮らす母に何度も手紙を書き、
『とどろき』を送りました。
けれども、なかなか伝わりません。
“人一倍苦労し、ずっと応援し続けてくれたのに、
なぜ伝えることができないんだ。どうしたらいいのか”
もどかしさを抱えながら、
気がつけば3年が過ぎていました。

●「聖人の教えは、最高よ」

ところが昨年の秋、
「あなたから、話を聞くようにするよ」。
母の突然の言葉に耳を疑いました。
「職場の先輩から言われたの。
『親鸞聖人の教えは最高よ。息子さんがどんな話を聞いているか、
あなたも聞いてみなさい』って」
母は職場で、ある女性の先輩をとても尊敬し、
悩み事を何でも相談しています。
その先輩の机に、ある日、『とどろき』が置かれていたそうです。
実は20年来の読者で、
しかも、よく仏法を聞きに行っていることが分かりました。
信頼する方の言葉が縁となり、
11月、母と祖母が初めて聞法会場に足を運びました。
その日は『歎異抄』第7章についてでした。
「難しいお話だったね」
と言いながらも母は、
「浄土真宗では、どなたに手を合わせるの?」
と尋ねてきました。
「阿弥陀仏だよ」
と答え、阿弥陀仏とお釈迦さまの関係は
先生と弟子であることなどを話しました。
家族で肩を並べて聴聞し、法を語り合う、
夢のような幸せな時間でした。
“お母さん、22年間、苦労して育ててくれてありがとう。
お母さんの子供に生まれて、本当によかった”
仏法に出遇い、心からそう言えます。
身をもって無常の真実を伝えてくれた
父のメッセージを心に刻み、
家族で光に向かって進ませていただきます。


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因果の道理を説かれた本当の目的とは!? [因果の道理]

 (minsukeが書きました)

皆さん、前回の記事「因果の道理」に関しては、
読んでいただけたでしょうか?
(読まれていない人は、「幸せの選択、不幸の選択、あなたはどっち!?」 )
お釈迦さまが因果の道理を説かれたのは、
この世、幸福に生きるにはどうすればいいかを
教えたかったからではありません。
この世の50年、100年など、
あっという間に過ぎ去ってしまいます。
無量寿の仏さまからすれば、
人間の寿命などカゲロウのようなものです。
仏さまであるお釈迦さまが地球にお出ましになられたのは、
そんな50年、100年の崩れるような幸せではなく、
未来永遠の崩れない幸福があるということを
教えるためだったのです。

1000年後も、1万年後も、
未来永遠に幸福になる方法を教えに来たのです。
つまり「阿弥陀仏の本願」に救われれば、
未来永遠の大生命をいただけることを
教えたかったのです。

因果の道理は三世(過去世・現在世・未来世)を貫きます。
この世だけで終わらないのです。
お釈迦さまは、我々の本当の姿を大無量寿経に
説かれています。

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)


心で、口で、体で、悪ばかり行い、
かつて一善もやったことがないのが
我々だと言われているお言葉です。
そんな者が一息切れたらどうなるでしょうか。

私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
悪ばかりやっていて、その業力が我々の本当の心である
阿頼耶識に蓄えられていくのです。

死ねば、その悪業が悪縁と結びついて、因果の道理により、
悪因悪果で我々に返ってくると教えているのです。

だから、必堕無間と言われ、
死んだら八万劫中、大苦悩の地獄に
堕ちるのだと説かれたのです。

(一劫とは4億3千2百万年。八万劫とは、その八万倍の長年月。
お釈迦さまの言われたのは1000年や10000年どころではないのですよ!
人間界は、悪縁がそれほどないので苦しまずにすむだけです。)

それを解決する方法は、
阿弥陀仏に救われるしかないのだ、
だから今生で、弥陀の本願を聞き抜けと
教えに来られたのです。

阿弥陀仏は、生きている今、
もう崩れない絶対の幸福に救い摂り、
死ねば極楽に往生させ仏にしてみせると、
命を懸けて誓われています。

「若不生者 不取正覚」と、
弥陀の18願に誓っておられるのです。
それも聞く一つで救ってみせると誓われているのです。
(なぜ聞く一つで救うと誓われたのか、
それは条件などつけたら誰も救えないからです。
悪しかできない、真実のかけらもない我々には何もできないことなど、
とっくの昔に見抜かれているのです)

我々は阿弥陀仏に救っていただくしか、
死後の地獄を解決する方法はないのです。

地上に出て1週間しか生きられないセミには、
10年、100年が分かりません。
我々は仏さまから見れば、セミのようなもので、
我々の生命は、始まりがなく終わりがないものと
教えられてもピンときません。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の
心が作り出す迷いの世界を巡っていて、
しかも、三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)ばかりで
苦しんできたことなど、知る由もありません。

(『涅槃経』には、
「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし」
人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多いと教えています。)

それは人間界に生を受けて、
その時にできた頭で考えるから分からないのだと、
お釈迦さまは教えられます。

仏とは、さとりの52段の一番上の仏覚を悟られた方です。
悟りとは、一段違えば我々凡夫と虫けらよりも
知恵が違うといわれます。
お釈迦さまは、我々とは52段も違うのです。
仏の知恵を体得されたから、我々が六道輪廻し、
生死を繰返し苦しみ続けているのが分かるのです。

(今回、参考に以下の記事を案内しておきます。
心の行いが一番重要なのです。
口や身体に命令をくだすのは心だからです。
口や身体は心の奴隷に過ぎないからです。

我々はみな極悪人である!
地獄行きの本性


幸せの選択、不幸の選択、あなたはどっち!? [因果の道理]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

競争社会にもまれながら、
たくましく生き遂げる人、
転落の人生をたどる人。

その差はどこで生じるのでしょう。
実は、たった一つのボタンのかけ違いから
始まっているのかもしれません。

イヤなことが起きた時、
あなたは「幸せの選択」をしていますか。
それとも、「不幸の選択」を・・・。

「ボク」と弁護士の物語から、
お釈迦さまの説かれた
「因果の道理」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■プロローグ
「共通の特徴」

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ボクがその弁護士に出会ったのは、
ある傷害事件がきっかけだった。
当時、仕事も恋愛もうまくいかず、
やけを起こしたボクは、
若い店員の態度にカッとなり、
突き飛ばして大ケガを負わせたのだった。
相手はだれでもよかった。
ただ世間を恨み、のろっていた。
本当はボクが苦しんでいることを、
だれかに分かってもらいたかったのかもしれない。
ひとしきり事情を聞き終えた彼女は
説教するふうでもなく、こんな話をしてくれた。

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「例えば事業で借金を抱えた時、
立ち直る人と立ち直れない人には、
共通の特徴があるの。
立ち直れないのは、
『国が悪い、法律が悪い、景気のせいだ』
と不満をぶちまけるだけの人が多い。

でも立ち直る人は、そういった状況を認めながら、
では自分にできることは何か、
と次の一手を打ち始めるんです」

「ふーん・・・。
他人や世の中のせいにしないってことですか
小さくうなずいて彼女は続けた。
他人のせいにする。
イヤなことが起きた時、だれもが陥る思考ね。
でもその一歩が、運命の方向を決定づけるのよ。
自分でも気づかぬ最初の一歩。
けれど一度踏み出したら容易には抜け出せない、
不幸の選択を・・・。

もっとも、私もあんまり偉そうなことは言えないけど、ね」
そう言って彼女は優しくほほえんだ。
「不幸の選択?
じゃあ、そこで別の選択をしたら・・・」
「そう。運命は決して偶然に
決まるわけじゃないんです。

お釈迦さまの説かれた
『因果の道理』って知っているかしら」
ボクは首を横に振った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが最も知りたくて、最も分からないもの、
それは「運命のしくみ」ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一本早い電車に乗って事故に遭うこともあれば、
わずか数秒乗り遅れて命拾いすることもある。
地震で家の下敷きになる人もあれば、
慌てて飛び出し、車にはねられる人もある。
「運命のいたずら」といわれますが、
人間の運命ほど不可解なものはありません。

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どうすれば幸福な運命が得られるのか。
不幸や災いは、どうして起きるのか。
その法則を明らかにされたのが、
お釈迦さまの説かれた「因果の道理」なんです。

■因と縁が和合して果を生じさせる

「因果」とは、原因と結果ということ。
どんな小さな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つも絶対にない

これはいつの時代、
いかなる場所でも変わらぬ真理であると、
お釈迦さまは教えられています。

だから何の原因もなしに結果が生じるという意味の
「偶然」や「奇跡」を仏教は認めません。

すべて必然であり、一つとして例外はないのです。
当たり前のようですが、ここは大切なところなので、
忘れないでください。
そこで、もっと詳しく、
結果の生じる仕組みを聞いてみましょう。

因果の道理は、
正確には「因縁果の道理」といわれます。

原因なしに起きる結果は絶対ありませんが、
因だけでは結果は生じません。
因に縁が結びついて、初めて結果が現れると
お釈迦さまは説かれています。


お米を例に考えてみましょう。
米はモミ種から作られますから、
米の因はモミ種です。
しかし、いくらモミ種があっても、
畳の上にまいていては何十年待っても、
米という結果は得られませんね。
土や温度、水や空気など、
いろいろな条件がそろって初めて、
お米が取れます。
仏教では、これらのものを縁といいます。

すべてのことは、因と縁が和合して、
初めて結果が現れる。

これを「因縁果の道理」といい、
「因果の道理」は縁を因に含んだ言い方なのです。

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■行為(業力)が運命をつくる

因とは、私たちの行いのことです。
「行為が運命を生み出す」

これがお釈迦さまの明らかになされた真理です。
どうして、行いが運命を生み出すのでしょうか。
その仕組みは、こうです。
行為のことを仏教では「業」といいます。
私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
その不滅の業力はすべて、
私の本当の心に蓄えられる。
そして縁と結びついた時、
目に見える結果(幸・不幸)となって現れるのです。
パソコンには容量に限度がありますが、
私たちの本当の心には容量は限界がありません。

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そこに、毎日造り続けている数え切れないほどの業力が
蓄えられているのです。

この本心は、遠い過去からはるかな未来へと
流れていく不滅の生命です。
80年か100年で滅びる肉体は、
永遠の生命の流れから見れば、
滔々と流れる大河の水面にポツンと生じ、
パッと消え去る泡のようなものにすぎません。
この不滅の生命に蓄えられた業力が、
縁と結びつき、私のさまざまな運命を生み出すことを、
仏の智慧によって明らかにされたのが、
お釈迦さまです。

あなたの運命は、あなた自身の行い(業力)が
生み出したものであり、
ほかのだれが与えたものでもないのです。

■行為に三つある。
中でも重いのが「心で思うこと」

一口に「行い」といっても、
仏教では三つあると教えられます。
「身、口、意の三業」といいます。
身業とは身体でやる行い。
口業とは口で話すこと。
普通「行い」と聞いて思い浮かべるのはこの二つですね。
ところが仏教ではもう一つ、意業を教えられています。
意業とは、心でいろいろ思うこと。
これも行いであるとお釈迦さまは説かれています。
例えば、外面には出さなくても深い悩み事で
体調を崩したり、好悪の感情が相手に
伝わったりすることがあるでしょう。
「思う」ことには「力」があるのです。
しかも
仏法で最も重視するのは、
身体や口の行いよりも心の行いです。

なぜでしょうか。
心で思ったことを身体で行い、口が言う。
心はあらゆる行為の元だからです。
火事に例えれば、心が火の元であり、
口や身体は火の粉。
口や身体は心の奴隷であり、
責任は心にこそあるからです。

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心で日々思っていることこそ、
私たちの運命を大きく左右していると
知らねばなりません。

お釈迦さまは、業力は大象100頭に勝ると教えられ、
何ものもあらがえなぬ強い力だと言われました。

親鸞聖人が尊敬されている中国の善導大師という方は、
自己の「心」を凝視され、こうおっしゃっています。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり

一日に八億四千回心が変わり、
いろいろなことを思っている。
それらすべて目に見えない業力となって、
あなたの本心におさまり、ぐいぐい、ぐいぐいと、
あなたの運命を生み出しているのです。

毎日心で何を思っているかを克明に振り返ることが、
この先の運命を知る大事な手がかりといえるでしょう。

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■イヤなことが起きた時、
他人のせいにする人はますます苦しむ

因と果について、お釈迦さまは、
善因善果
 悪因悪果
 自因自果

よい行いは、よい結果(幸せ)を、
悪い行いは、悪い結果(不幸や災難)を生み出す。

よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、
自分の行いが生み出したものである

と教えられます。
私たちは、よい結果がきた時は
「善因善果、自因自果」と素直に認められます。
では悪い結果がきた時はどうでしょう。
他因自果のように思うのは縁を恨んでいるのです。

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最初にお話した「因縁果の道理」を思い出してください。
「オレが苦しんでいるのは、あいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる
「他人」や「世間」は全部、縁です。

もちろん悪縁を避け、改善する努力は大切ですが、
運命はあくまでも、私の行為(業力)が因となって
生み出されることを忘れてはいけません。

そうやって他人を恨み、のろっている心も
業力となってあなたの本心におさまり、
それが口や身体の行いとなれば、
その業は善いタネでしょうか。
悪いタネでしょうか。

「秋葉原で人を殺します」
6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国で、
無差別に17人を殺傷する史上最悪の
通り魔事件を起こした犯人は、
犯行に至る心の道程をつぶさに
携帯サイトにつづっていました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家庭環境、雇用不安、格差社会、希薄な人間関係。
さまざまに原因は論じられますが、
未曾有の凶行まで彼を引きずり込んだのは、
彼自身のつくった業力に違いありません。
苦しみを他人のせいにする。
自分でも気づかぬ最初のその一歩が、
運命の方向を決めるものです。
しかも一度踏み出したら容易には抜け出せません。
男は自分の否定的な感情や不満を、
何千と携帯サイトに書きつづり、
慰めを求めました。

ところが結果は逆。
ほとんどが無視か挑発で、心の傷口を広げ、
さらに吐いた言葉が自分を縛る。

ネットが悪縁となり、ますます孤独を深めた
彼の思考と行動はエスカレートし、
最後とんでもないところまで行き着きます。

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「惑業苦(わくごっく)」という言葉を知っていますか。
「惑い」が「業」(悪い行い)を生み、
「業」が「苦しみ」を生む。
その「苦しみ」がまた「惑い」を生み、
さらに悪の「業」を造る。
このような輪をぐるぐる回って
地獄まで堕ちていくことを
仏教で「惑業苦」と言うんです。

無差別事件に及んだ若者も、
まさに惑業苦で苦しみが増幅され、
制御不能になっていったのではないでしょうか。

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●イヤなことが起きた時、
自分を反省し行いを変える人は幸せになる

反対に、苦しみがやってきた時、
過去の己のタネまきを反省し、
行いを変える人は必ず未来が開けてくるでしょう。

言うまでもなくそれは「自虐主義」とは違います。
「全部オレが悪いんだ。オレはダメな人間だ」
と自分を責め、落ち込むことではありません。
悪いタネまきをやめ、よいタネをまいていく。
向上に努力する。
身口意の三業を前向きに転じていく。
それが自分の行いを反省し、
行いを変えるということです。


ある会社の研修では、毎日の日誌「感謝」
という二字を入れる決まりがあるそうです。
ほんのささいなことでも、毎日何かに感謝する人と、
だれかを恨み続ける人。
結果が同じはずはありません。
かりに秋葉原の犯人が、携帯サイトに毎日、
ちょっとでもいい、
前向きな言葉を書き込み続けていたら
どうなっていたでしょうか。

全く別の人生が開けていたのではないでしょうか。

あなた自身の三業、特に心の中の思いが、
あなた自身の運命を生み出しているのです。

幸せの選択をするか、不幸の選択をするか。
すべては、あなた自身にゆだねられていると
いってよいでしょう。

■エピローグ
「ありがとう」

その日から、ボクの人生は少しずつ変わっていった。
イヤなことが起きるたび、
ボクは自分の言動を振り返り、
どんな小さなことでも改善点を見つけていった。
努力することが楽しくなった。
あの時、ボクに因果の道理を教えてくれた彼女の心を、
後で人づてに聞いた。

「もちろん、失意の人を励まし、
法的に支援するのが私の大切な仕事よ。
でもね、『自分の行いが自分の運命を生み出す。
あなたの未来はあなた自身が切り開いていくんですよ

というメッセージは、
それ以上にその人を助けることになると
信じています」

ありがとう。
ボクは心の中で、何度も繰り返した。

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タグ:因果の道理

子は大人の鏡 [因果の道理]

※人間の住む惑星は地球だけでなく、
この大宇宙には無数にあり、
ガンジス川の砂の数ほどおられる諸仏方が、
その星々に現れて、
お釈迦さまと同じように、
地獄に堕ちる我々を憐れみ、
人類の救われるただ一本の道
「阿弥陀仏の本願」を説かれていると、
お釈迦さまは阿弥陀経で
教えられています。
阿弥陀仏のお力はどれほどすごいのか(阿弥陀経)
六道輪廻から脱出できるのは、
仏教を聞ける人間界だけです。
そして、すさまじい罪悪ばかりしている我々は、
阿弥陀仏に今生で救われない限り、
来世は六道のうちの地獄界しか行き場はないと
お釈迦さまは教えているのです。
一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか!
一息切れると、なぜ一大事が起きるのか!

私の言わんとすることが分かられた人は、
至急、真実の仏教を求めましょう。
先生も我々も無常の身です。
早く「阿弥陀仏の本願」に救っていただき、
死ねばどうなるかハッキリしない心を
晴らさないと臨終に泣きますよ。
六道輪廻して、
何のために生まれ難い人間に生まれてきたのか、
分からなくなるのです。
サイドバーのアニメ上映会に行かれれば、
いろいろ案内してくださいますよ。


最後に蓮如上人のお言葉を載せておきます。
「後生の一大事」とは、死後永く地獄で苦しむことであると
明示されたお言葉ですが、
○後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいぞぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

                     (帖外御文)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ここからは真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

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少子化で子供の教育に関心が集まっています。
よりよく生きるには、勉強はとても大事ですが、
学問だけが教育ではありません。
「健やかに、真っすぐに生きてほしい」
このすべての親の願いを満足するには、
何を拠り所に子供に接し、
育んでいけばいいのでしょう?

・・・・・・・・・・・・・・・・
●“私自身がまず正す”ーーある親の述懐

「“もう、パパったら・・・”
人形でママごと遊びをしている娘の口調が妻そっくりで、
正直、ドキッとしました。
恥ずかしいやら、ほほえましいやら。
思わず家内と顔を見合わせました。

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幼い女児を持つ、ある父親の述懐です。
知らず知らず、自分の行いを子供がマネている。
こんな経験を持つ親御さんは多いでしょう。
ある大学教授はこう振り返っています。

「5歳の息子が、以前はだれが呼んでも
元気よく“ハイ”と返事をしたのに、
このごろ、とんとしなくなりました。
よく考えてみると、どうも私自身に原因があったらしい。
仕事に忙殺され、妻が呼んでもつい黙って
仕事を続けてしまう。
それを見習って子供は、返事をしなくなったようです。
そこで何とかこれを正そうとしたが、
さっぱり効果が表れない。
最後に、そして気がついたのです。
私自身がまず、ハッキリ返事をするのが一番と。

すると子供は、“ハイ”と元気に答えるようになり、
再び家の中に、明るさを取り戻すことができました」
まさに「子は親の鏡」
わが子の未来を思えば、まず親が行いを正す
大切さが分かります。


それは社会全般でもいえることでしょう。
昨年も食品関連など、多くの企業や団体のウソや不正が
噴出しました。
中でも大分県の教員試験での点数操作や増収賄は、
子供を預かる教育者による犯罪。
(平成21年のとどろきです)
その実態に暗澹たる気持ちになった人も
少なくないでしょう。
また、飲酒運転を取り締まる部署の責任者が、
酒酔い運転で検挙された事件もありましたが、
身を正し、模範となるべき人が、
種々の誘惑に負けてしまうのは情けない限り。
もちろんどの世界でも、立派に職務を
果たしている人がほとんどでしょうが、
不祥事は記憶に残りやすく、
子供への影響も大きいものです。

●勉強させるのだけが「教育」!?

そんな中、私たちが目の色を変えて取り組む
「教育」はどんなものでしょうか。
近ごろはビジネス誌の出版社が父親をターゲットに
教育誌を創刊していますが、
「あの有名校の評判は?」など、
メインの企画の多くは入試対策です。
ある期間、目標を定めて努力する受験は、
子供にも大切な経験になりますが、
学力だけにこだわると思わぬ結果を招くおそれもあります。

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昔から「知育」「体育」「徳育」の三つのバランスが、
子の生育に大切だといわれます。

特に徳育は、行動のもととなる心を育むもの。
知育や体育を支える人間の基礎です。
ところが、昨年の有名大学生による大麻使用や、
相撲部屋でのリンチ殺人など、
その基礎に、昨今はひずみが目立ちます。
「約束を守る」
「挨拶や返事をキチンと」
「正直に。ウソや不正をしない」
「相手を思いやり、親切に」
という心掛け、善い生活習慣を身につけることは、
多くの人が大切だと認識していますが、
一方で、なぜウソや不正はいけないのか、
どうして正直が大事なのか。
悪をやめ、善を心がける理由は何か、
の根本問題には、
なかなか目が向けられないようです。

もし子供にその意味を問われたら、
どう答えるでしょう。
心を清め、身を正そうとすることが、
自身の幸せとどんな関係にあるのか。

それを知ることが、頑張って生きる
原動力となるに違いありません。

●なぜ悪いことはいけないか。

悪事はなぜいけないのか、について考えてみましょう。
お店に行って欲しいものを見た時、
実際に手を出さないのは、
「店の人に叱られる」
「警察に捕まってしまう」
からでしょう。
ほかにも、
「親や大切な人が悲しむ」
「人の迷惑になることは、とにかくいけない」
などの理由を挙げ、“だから悪いことはできない”
と抑えます。
これらは一応、だれもが納得する考え方です。

しかし、それでは「バレず」「捕まらず」
「だれも悲しまない」なら、
何をしてもいいのか。
人に見られなければ、
行いはその場で消えてしまい、
悪行の報いは来ないのでしょうか。

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 昨年10月、大阪で、無断借用した会社の車を
飲酒運転し、はねた男性を3キロも引きずって
死なせた22歳の男が逮捕された事件や、
インターネットや携帯電話で
級友を中傷するいじめが横行し、
自殺者が出るほどになっているのも、
「知られなければいい。どうせバレやしないから」
という思考が始まりだと分かります。

確かに録画でもしなければ、
過去の行為を確かめられません。
しかし、人の目の有無で、悪の報いが来たり、
来なかったりするものでしょうか。

世の中には、だれも見ていないはずの悪事が露呈して、
苦しんでいる人がたくさんいます。
いかに周到に隠蔽しても、「頭隠して尻隠さず」
で馬脚は必ず現れる。
ことわざにも、
「天網恢恢(てんもうかいかい)にして漏らさず」
と、悪業は必ず報うことがいわれています。
古人の経験をもとに作られた至言ですが、
これには根拠があるのです。

●仏教の根幹 因果の道理

人類最高の偉人とたたえられ、2600年前、
インドで活躍されたお釈迦さまは、
私たちの行為と幸不幸には、
大変深い関係があるのだと、「因果の道理」
を教えられました。

「因果」とは「原因」と「結果」のこと。
すべての結果には例外なく原因があるということです。
いい成績を取る、思いどおりの仕事に就けるという幸せも、
ケガをする、人に嫌われるという災いも、
原因なしに起きた結果は、万に一つも、億に一つもありえない。
日常のどんなささいな事象にも、
原因が必ずあり、何か原因を作れば必ず結果が生じる、
と教えられています。

次に「道理」とは、「いつでも」「どこでも」間違いのないこと。
悠久の過去から永遠の未来に至るまで、
変わらぬ真理をいいます。
時代や国、地域によって違う憲法や法律、常識などは、
だから道理とはいえません。
因果の道理とは、原因があれば必ず結果が現れる、
すべての結果には必ず原因がある、
といういつでもどこでも変わらぬ真理なのです。
これを釈尊は、

善因善果
   (善いタネをまけば善い結果が現れる)
悪因悪果
   (悪いタネをまけば悪い報いが現れる)
自因自果
   (善も悪も、皆自分のタネまきによって果報が現れる)

と説かれています。
ここで「因」とは、私たちの「行為」をいい、
「果」とは「運命」(本来、仏教では使われない言葉ですが)
のことです。
善いことをすれば喜ばしい結果が、
悪いことをすればイヤな報いが来る。
善いのも悪いのも、自分に現れる運命はすべて、
過去の自己の行いによるのだ、と教えられます。

その「行為」に三つあると、仏教では教えられています。
これを「三業」といわれます。

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「業」とは行為のことで、
三業とは、
身業(身体の行い)
口業(口で言うこと)
意業(心で思うこと)
の三つをいいます。

私たちには、口や身体は容易に分かりますが、
心で思うことも「行為」であり、
自身にさまざまな果報をもたらすことは、
なかなか分からないことです。

しかし仏教では、口や身体は心の命ずるまま
動いているのであり、
心を火の元とすれば、口や身体は火の粉。
心の行いが最も重いのだと説かれています。

 殺(や)るよりも
劣らぬものは
   思う罪

実際、手にかけて殺すことは大変恐ろしいことですが、
それ以上に恐ろしいのは、思う罪なのだ、
ということです。

因果の道理に寸分の狂いもなく、
行為の果報は必ず自身に現れますから、
人に「見える」「見えない」は関係ありません。
たとえだれからも褒められず、とがめられなくても、
行為は目に見えない力となって残り、
応じた結果となって現れると
仏教では説かれているのです。

この教えをしれば、「バレなければ、何をやっても問題ない」
という誤った見解も、
「何を頑張ってもムダ」という自暴自棄な思いも
粉砕されるでしょう。

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  あれを見よ
深山(みやま)の桜 咲きにけり
 真心尽くせ 
  人知らずとも

深山に咲く桜が、「だれも見ていないから」
と手を抜くことなく、
力の限り花を咲かせているように、
人目の有無にかかわらず、
何事も真心尽くさねばならない。
因果の道理に従っていけば、
裏表無く努力する高潔な人格が
形成されるでしょう。

また、ズルや不正をして思い通りの結果を
得ればいいと思う人もあるでしょうが、
ズルや不正は悪い行いですから、
その報いは必ず受けねばならないのです。

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●悪を恐れ、
  善に向かう心がけ

だれも皆、不幸を恐れ、幸せを求めています。
それには大宇宙の真理である
因果の道理に従って
「悪を慎み、善を心がけなさい」
と廃悪修善を教えられているのが仏教なのです。

これを教えられたエピソードを紹介しましょう。

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昔、中国に、いつも樹上で座禅瞑想していた
鳥窠という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、
その樹下を通った。
奇妙な僧がいるので、ひとつ冷やかしてやろうと、
「坊さんよ、そんな高い木の上で、
目をつむって座っていては危ないではないか」
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
この坊主、相当偉いのかもしれぬ、
と見て取った白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、
貴僧の名を承りたい」
「私は鳥窠という名もなき坊主だ」
高名な鳥窠禅師と知った白楽天は、
かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いいところで貴僧に会った。
一体、仏教とはどんなことを教えているのか、
一言でお聞きしたい」
と頭を下げた。鳥窠は即座に、
「もろもろの悪をなすことなかれ。
つつしんで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
と答えた。白楽天、いささかあきれて、
「そんなことくらいなら、3歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥窠すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。

鳥窠禅師の大喝を、私たち大人は
どう聞けばよいのでしょう。
本当の幸せを知り、求めていくうえで、
「廃悪修善」は大切な心掛けです。
仏教を深く知らされるほど、
この「廃悪修善」の心は強くなります。

すべての人が幸せになれる真実の教えに従い、
悪を遠ざけ、光に向かう。

親が身をもってその心掛けを示すことが、
何よりの「こころの教育」でしょう。

この「因果の道理」は、お釈迦さまの説かれた
7000余巻といわれる膨大な
一切経を貫く、仏教の根幹であり、
大宇宙の真理なのです。
常に心にとどめ、生きる指針といたしましょう。


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(ここからはminsukeが書いています)

前回の記事、「我々はみな極悪人」を
読んでいただけたでしょうか。
それが納得できて、
今回の記事で因果の道理が分かれば、
それは三世(過去世、現在世、未来世)を貫きますので、
死ねばどうして大苦悩の世界に堕つるのか、
分かると思います。
身口意でした行いは、
すべて我々の魂である阿頼耶識に残り、
それがタネとなり、縁と結びついて結果が現れます。
人間界は悪縁が少ないので、
悪いタネまきばかりしていても、
あまり悪果が起こりませんが、
地獄界はそうではないのです。
悪縁ばかりなので、
すさまじいほどにしてきた悪のタネが、
一斉に芽を出すのです。
だから死ねば、大苦悩の世界に堕つると
教えられています。
更に、
以前に載せたものを以下に貼り付けますので
読んでみてください。

簡単に理解してもらえるのは、殺生です。
一日にどれほどの動物・昆虫を
殺しているでしょうか。
喜んで食べていれば、
同罪だとお釈迦さまは教えています。
(食べる人がいなければ、殺す人もいなくなります。
食べる者が、殺してくれと依頼したのと同じだからです。)

我々は生まれ変わり、死に変わりして、
人間界、地獄界、畜生界、餓鬼界、修羅界、天上界の、
心が作り出す迷いの世界の六道を
輪廻しているのです。
(我々は人間に生まれてからできた頭で考えているので、
過去世、未来世があるとは思えません。
それはちょうど、地上で一週間しか生きられないセミが、
春秋を理解できないのと同じです。
ましてセミは10年や100年などは、知る由もありません。
仏のさとりを開いて、仏智を体得されたお釈迦さましか、
六道輪廻は分からないのです。)

過去には、我々が殺されて
食べられたこともあるということです。
だから、虫や動物も我々の命も、尊さは同じです。
畜生(虫も含む)を殺すのも、人間を殺すのも同じ罪なのです。
ヒトラーは、600万人の人間を殺しました。
あんな奴は地獄に堕ちて当然だ、と思いますが、
我々も同じことをやっているのです。
まいたタネは必ず生える、
やった者に必ず返ってくるのです。<因果の道理>
だから、死ねば大苦悩の世界に堕つると
お釈迦さまは教えているのです。
それを解決するには、阿弥陀仏の本願に
救われるしかないのです。


運命を決めるものは何?釈迦が説き明かす因果の道理 [因果の道理]

運命を決めるものは何か、
       
釈迦が説き明かす、因果の道理

「因果の道理」を読んだ時、今の苦しみは、
自分の種まきが生み出したものと知りました。
結婚したのは自分であり、妻は縁、
“そうか、自分の種まきの結果なら、
受けていかなければ”
と思ったら、心が楽になったのです。


静岡県の寺井肇(仮名)さんの手記です。
寺井さんは、昨年二月に亡くなった妻・道子さの介護を
七年間続けました。
当初は、認知症の夫人の世話にすっかり疲れ切り、
“いっそ、一緒に死のうか”などと
恐ろしい考えもよぎったとか。
そんな寺井さんの心が、「因果の道理」を知り、
大きく変わったというのです。

この体験手記に、多くの読者から反響が寄せられました。
いくつかを紹介します。

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「介護とまではいかないが、入院した妻を、
毎日見に行き元気づけている。
『とどろき』を読み、なお一層、因果の道理が身にしみる」
            (兵庫県・60代男性)

「因果の道理がよく分かりました。
今の生活は過去にまいた種が生えてきたと思って、
つらい時は自分が刈り取って、
これから少しでもよい行いをして、
人生を送りたいと思います」
            (島根県・80代女性)

寺井さんの心を変えた「因果の道理」とは、
どんな教えなのでしょうか。


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いつでもどこでも変わらぬ真理

因果の道理は「仏教の根幹」です。
仏教とは、仏の説かれたみ教えをいいます。
2600年前にインドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳の12月8日に大宇宙最高の仏というさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
説いていかれたみ教えを、
今日、仏教といわれます。

その根幹とは、仏教を一本の木とすれば、
根や幹にあたる教えです。
根や幹が枯れれば、木は倒れてしまう。
因果の道理が分からなければ、
仏教は全く分からなくなる

ということです。

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まず、「道理」とは、三世を貫き、
十方を遍く(あまねく)真理をいいます。
「三世」は、過去世、現在世、未来世のこと。
「いつでも」という意味です。
2600年前のお釈迦さまの時代も、現代も、千年後も、
いつでも変わらないことを「三世を貫く」といわれます。
「十方」とは、東西南北上下四唯のことで、
「どこでも」ということです。
インドでも、中国でも、日本でも通用する。
たとえほかの星や宇宙の果てに行っても変わらないことを、
「十方を遍く」といいます。
このように、いつでも、どこでも変わらない真理を
「道理」といわれるのです。


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次に「因果」は、原因と結果のことで、
すべての結果には必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
仏教では教えられています。

大海原に飛行機が墜落し、
機体が回収不能になった場合でも、
“この事故には原因がなかった”ということはありえません。
乱気流の影響や操縦ミスなど、
必ず原因があったのですが、
究明できないので、原因不明となっただけ。
「原因が分からなかった」ということと、
「原因がなかった」ということとは、
全く違うのです。

すべてのことには、
必ず原因があって結果があるという、
いつの世、いかなる所でも変わらぬ真理が
「因果の道理」なのです。


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●原因と結果の関係

科学をはじめ、あらゆる学問は、
この因果の法則に立脚している
のですが、
特に仏教では、私たちの最も知りたい
幸福や不幸の原因と結果の関係を教えられています。
その原因と結果の関係について、
お釈迦さまは次のように教えられています。


善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果、悪因悪果」とは、
善い種をまけば善い結果。
悪い種をまけば、悪い結果が現れる、
ということです。


分かりやすく植物のことで例えれば、
畑にダイコンの種をまけばダイコンが、
キュウリの種をまけばキュウリが出てくる。
ダイコンの種をまいてキュウリが生えることも、
キュウリの種をまいてダイコンが出ることもありません。

まいた種と同じものしか生えてはこないのです。
ダイコンの種をまきながら、
“何が生えてくるのかな”という農家の人もないし、
キュウリが出たのを見て、“あの時、何をまいたかな?”
と迷う人もないでしょう。
まいたものを知れば、何が出てくるか分かるし、
出てきたものを見れば、まいた種が分かるからです。

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次に、「自因自果」とは、まかぬ種は生えぬ、
刈り取らなければならぬ一切は、
自分のまいたものばかり、

ということです。

自分が酒を飲めば自分が酔う。
友達が一生懸命、勉強しても、自分の成績は上がりません。
自ら努力して勉強しなければ、成績は上がらない。
まいたその人に結果が現れるのであって、
他人のまいた種の結果が
自分に現れたり(他因自果)、
自分のまいた種の結果が
他人に出る(自因他果)こともありません。


この場合、「原因」とは私たちの「行為」。
「結果」とは、本来、仏教では使わない言葉ですが、
分かりやすく言えば、「運命」のことです。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」。
善い行いは、善い運命(幸福)を、悪い行いは、
悪い運命(不幸)を生み出す
、ということです。
善いことをして、悪い運命が引き起こることもなければ、
悪いことをしたのに、善い運命が現れることもない。
善いのも悪いのも、
自分に現れる運命のすべては、
自分の行いが生み出したものなのだ

と仏教では教えられているのです。

だれもが、知らず知らず、この因果の道理を信じて
生活しているのではないでしょうか。

受験生が勉強に励むのは、志望の大学に合格し、
将来、少しでもいい仕事に就くためでしょう。
望む職を得たら、一生懸命、働く。
仕事のやりがいや、より多くの収入、
ゆとりのある生活を求めてのことです。
まじめに努力することが、よりよい人生を生み出すと
信じているからです。
どんな場合も、行為に応じた結果が現れる因果の道理を、
無意識にでも信じているのです。


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自因自果と思えない・・・

ところが一方で、
そう思えないことも世の中には多くあります。
あるところに、家事や育児もよくこなしている
非の打ち所のない周囲も認める奥さんがいた。
ところが主人ときたら、朝から仕事もせずに飲んだくれ、
妻の収入をギャンブルで使い果たし、
果ては暴力まで振るう、とんでもない男。
「気の毒な奥さん、あんなご主人さえいなければ、
これほど苦しまなくてもいいのにねえ・・・」
周囲も口々に言い、奥さん自身も思っている。
だれもが彼女に同情しますが、
これも自因自果なのでしょうか。

仏教ではやはり、奥さん自身が生み出した結果だと
教えられるのです。
どうしてでしょう。
確かに、夫は悪い男で、“彼さえいなければ”
と思うのも無理からぬことです。
しかし落ち着いて考えれば、周囲の人々の中で、
このように苦しんでいるのはこの女性一人。
ほかの人にない原因が、彼女だけにあったのです。
それはこの夫を好きになって、
結婚したということです。
こんな男が存在していても、結婚さえしなければ、
今の苦しみは生じなかったはず。
苦悩の原因を突き詰めれば、
ほかに男性はいくらでもいたのに、
よりによってこの男を好きになり、
結婚した奥さん自身の行為にほかなりません。

では、この夫は何の関係もないのか。
もちろんそうではありません。
ここで知っていただきたいのは、
「因果の道理」とは、正確には、
因縁果の道理」であるということです。


例えば、米という結果の因はモミダネですが、
畳の上にまいたのでは芽は出ません。
モミダネが米になるには、
土や水、日光、空気、肥料などの助けが必要です。
これらを縁といいます。
また逆に、土や水などの縁があっても、
モミダネがなければ米は得られません。
因だけでも、縁だけでも、果は生じない。
因縁が和合して初めて、結果が生じるのです。



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この夫は大変な悪縁です。
ですから言動を正すよう、働きかけることが大切なのは
言うまでもありませんが、
あくまでも原因は、彼を好きになって結婚した
奥さん自身にあるのです。



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また、こんな場合はどうでしょうか。
広い優先道路を帰宅中のAさんの車に、
交差する狭い道から一時停止もせずに
飛び出してきたBの車が衝突し、
Aさんは大ケガをした。
こんな時、“全面的に悪いのは、Bではないか”
と思う人は多いでしょうが、
これもやはり自因自果なのです。
なぜでしょう。
Aさんの前後には、多くの車がこの道を走っていた。
しかし、Bの車とぶつかったのはAさんのみ。
わずか数秒でもずれていれば衝突は免れたはずなのに、
なぜよりによってAだけが事故に遭わねばならなかったのか。
暴走車が突っ込んでくる瞬間に、
そこにいなければならなかった原因を、
Aさんだけが持っていたからであり、
自身の種まきによって、その時、
その場所に引きずり出されたのです。

狭い道から、一時停止せずに飛び出してきたBは悪い縁。
そのような悪縁をなくすよう、
厳重な取り締まりが必要なのは、
言うまでもありません。
しかし、事故に遭った直接の原因は、
あくまでもAさん自身にあった、ということです。


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●ナワをうらむ泥棒

私たちは、思わぬお金が儲かったり、
人から褒められたりと、
善い運命が訪れた時は、
「そうそう、オレが頑張ったからさ」
と因果の道理を素直に認めることができます。
ところが不幸な目に遭ったらどうでしょう。
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」
と怒り、周囲を恨んだり、のろったりしないでしょうか。

あまりにも不幸な時は、
「自因自果」とは思えずに、
「他因自果」と思う心が噴きあがります。

昔からそれを、
ナワをうらむ泥棒
といわれます。
御用となった泥棒がナワで縛られ苦しんでいる。
彼は、“オレを苦しめているのは、このナワだ”と考え、
恨んでいる。
果たしてその考えは正当か。
愚かで滑稽だとだれでも思うでしょう。
泥棒を苦しめているのは、
彼自身の犯した悪事にほかならないからです。
ところが、目先のことしか分からぬ泥棒は、
自分を苦しめているのはナワだと思い、
過去に犯した悪の行為の結果とは、
夢にも気づかない。
世の中にナワがどれだけあっても、
縛られるような悪事を働かなければよかったのに、
そうとは思えないのです。
しかし、この泥棒を笑える人はどれだけあるでしょうか。

今年2月、滋賀県の34歳の女性が、
娘の友人である幼稚園児2人を刺殺するという
衝撃的な事件がありました。
(平成18年のことです。)
「自分の子供が周囲になじめないのは、
ほかの子供のせい」
女性は動機をこう語ったそうです。
自身の苦しみの原因を、いたいけな子供に転嫁して、
殺してしまうとは、
まさに「ナワをうらむ泥棒」の姿そのものです。
「こんなところに嫁に来たから苦しいのだ。
隣の家ならよかった。仲人が悪い」
「あの時、あの人があんなことを言ったから、
今こんなふうに苦しんでいるんだ」
などと運命をのろい、他人を憎んでいる心はないか。
とんでもないものを恨んだり、
腹を立てたりしていないでしょうか。
因果の大道理を知らぬ愚か者はだれか。
振り返らずにおれません。


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●いつの時代でも

時代や立場が変わっても、
これは変わらぬ人間の姿でしょう。
お釈迦さまの時代にも、
こんなことがありました。

当時、四隣(しりん)に覇をふるった
マガダ国のビンバシャラ王は、
釈尊から教えを受けていたが、
ある時、あろうことか生んだ我が子・アジャセ太子によって
牢屋に入れられ、大変な苦しみを受けていた。
苦しむ王の心の声を察知なされ、
お釈迦さまは弟子のフルナと目蓮を遣わされる。

王は彼らに切々と訴えた。
「フルナ様。わが子のために、
なぜこんな仕打ちを受けねばならぬのか。
私、分かりませぬ。
あれほどあの子のことを案じ続けてきたのに。
今は憎しみばかりわいてくる。
どうしてこんなことになったのか。分かりませぬ。
私には、どうしても・・・」
「ビンバシャラ王殿、静かに、
お釈迦さまのご説法を、思い出してくだされ。
お釈迦さまは常にお説きくださいました。
『善因善果 悪因悪果 自因自果』。
まかぬ種は生えぬ。
刈り取らねばならぬすべては、
自分のまいたものばかり。
私たちの身に起きる一切は、
私たちのやった行為の結果であると。
深く、過去の行いを振り返ってみようではありませんか」
フルナ尊者の言葉に、王は思い出してみるが、
どうしても分からない。
フルナは言った。
「ビンバシャラ王殿。
よくよく思い起こしてくだされ。
子供欲しさに、韋提希夫人と修行者を
殺害したのはだれか。」
「ああ・・・」
ようやく王は気づく。
かつて永らく実子に恵まれなかった時、
妻・韋提希とともに迷った王は、
“奥山の修行者が死ねば太子が生まれる”との占いを信じて、
殺してしまう。
やがて身ごもった韋提希が、
修行者のたたりを恐れたため、
今度は生まれてくる子供を剣の林に
生み殺そうとしたのである。

一部始終を思い出した王に、フルナ尊者は語りかけた。
「ビンバシャラ王殿。
まかぬ種は生えませぬ。
今の地獄は、あなた自身が造られたもの。
それ以外のものではありませぬ」
「ああ、そうだったのか・・・。
いつも、お釈迦さまから
お聞かせいただいていたことなのに。
己のまいた種を忘れておりました・・・。
教えの通りであった。
今にして、お釈迦さまのみ教えが、身にしみ入りまする」
大地に五体を投げだし、王はさめざめと懺悔した。

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●幸せな未来は
   現在の自己が造るもの

今、自分が受けている結果のすべては、
過去の自分の種まきが生み出したものと知れば、
善果には感謝となり、悪果は反省、
向上の得難い勝縁になりましょう。

冒頭の寺井さんの手記にも、
“自因自果に間違いない”と知らされた時、
“心が楽になった”
とあります。
この真理に気づかれたからこその、
心の転換だったのです。


真実の仏法を知らされ、
因果の道理を信じている人は、
悪い運命に遭えば、
自己の過去の行為を懺悔し、
善い運命に恵まれれば、
より努力精進して無限の向上に
努めずにおれなくなってきます。
成功も栄達も皆、その人の努力精進の結果です。

厳正な因果の理法を知らず、
不平や愚痴を並べる者には破滅あるのみ。

現在の運命はかつての自己が創造し、
未来は今からの自己が造る
と分かれば、
乱暴な自暴自棄も、無気力なアキラメも吹き飛んで、
過去を反省し、よりよき明日に全力を挙げる、
強くたくましい人生が開けるのです。



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タグ:因果の道理

どうしたら幸せになれる、釈迦が説き明かした因果の道理 [因果の道理]

「六月に結婚すれば幸せになれる」
ジューンブライド(六月の花嫁)は西洋からの伝承ですが、
日本では古くから、結婚式といえば、
「大安」といわれてきました。
ふだんはそんなことを全く気にしない人でも、
結婚という人生の大事になると、
とたんに心配になってくるのでしょう。
幸せになりたい。
だれもがそう願っています。

ではどうしたら幸せになれるか。
幸福という運命は、何によって得られるのか。
みんなの最大の関心事にはっきりと答えられたのが、
お釈迦さまなのです。






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●ロケット打ち上げも神頼み

平成十七年二月、種子島の宇宙センターから、
日本の国産ロケットが打つ上げられ、
見事に成功しました。
前回の失敗から、一年三ヶ月ぶりのことです。
打ち上げの前日、関係者たちが、成功を祈願して、
島内の三つの神社を回ったと報道されていました。

実は、前回の打ち上げ前も、
同じ神社に行ったそうですが、
失敗したので、
今回は、回る順番を変えたといいます。

ロケット打ち上げの関係者といえば、
科学の最先端を行っている人たち。
しかし、今度失敗したら後がない、
という追いつめられた状況になると、
まさに、“困ったときの神頼み”で、
すがらずにおれなくなるのでしょう。

ふだんは、「信仰なんて自分には関係ないよ」
と言っている高校生も、大学受験が目前に迫ると、
神妙な面もちで、神社に行って、
柏手(かしわで)を打っています。
入りたい大学に合格できるか、
大学生になれるかの不安を
和らげようとしているのでしょう。

●占い産業が、盛んな訳

婚約が決まり、結婚式が近づくにつれて
深刻な不安に襲われる人が多く、
その心の状態をマリッジブルーといわれます。
本当に幸せになれるのかなあ、と心配になり、
中には、血液型、星座などで相手との相性を占って、
安心しようとする人もあります。
仕事で大きな決断を迫られた時、
社長や一国の大統領でも、
占い師に相談する人があるようです。
科学が発達しても、
占い産業は衰えるどころか、
ますます盛んになっています。

テレビをつければ、朝から星座別の運勢が流れ、
雑誌に占いのページを入れると
販売部数が増えるともいわれる。
最近は、占い付きの炭酸飲料や、
開運をうたう芳香剤なども、
売り上げが伸びています。
ここ数年間で、インターネットのホームページ上に、
動物占いや家電占いなど、
さまざまな種類の占いが氾濫するようになりました。

血液型占いによる性格判断の影響で、
学校のいじめが始まったり、
大人同士でも、人間関係が損なわれている、
という苦情も出ているほど。

根拠のない迷信だよ、と言いながら、
何となくほうっておけず、
テレビに流れる今日の運勢が気になってしまう。

それだけ未来が不安で、
幸せになるにはどうすればいいか
知りたいのでしょう。
しかし、未来の分からない暗い心は、
時にとんでもないものを信じてしまいます。

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あるところに、恵まれた三人の子宝が皆、娘で、
何とか息子が欲しい夫婦があった。
妊娠した妻の元に、ふと訪ねてきた男が、
「今度は、男と女、どちらをお望みですか」
と聞く。
「ぜひとも男の子」
正直に告白すると、
「私は神様のお力を得ている。
お気の毒だが、今度も女の子です。
しかし、今のうちに、神様に祈祷すれば、
男に変わらぬものでもない。
一回五千円、神様のお礼を。
だいたい、四、五回で済みましょう」
と言う。
半信半疑ながら、夫も喜ぶことだからと、
誰にも内緒で祈祷を頼んだ。

いよいよ満願の日、
いつものように夫の出勤後、祈祷師がやってきた。
ところが、忘れ物で途中で帰宅した夫、
見かけぬ男が妻の腹の上に御幣をのせて、
一心に呪文のようなものをとなえているので驚いた。

妻の打ち明け話を、黙って聞いていた夫は、
ちょっと外出すると言って、
まんじゅうのアンを抜いて牛糞を詰めて帰ってきた。
「これでもどうぞ」
どんな大波乱が、と案じていた男、
ホッとしてか、まんじゅうをがぶりとほうばった。
思い切り牛糞を食わされて激怒する祈祷師を、
「まんじゅうのカワ一枚中さえ、
分からなかったのか」
と夫婦ともに笑った。
男はコソコソと逃げ去ったという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たわいもない迷信に惑うのは、
心に光のない悲しさです。


運命が何によって決まるのか、
お釈迦さまは、
どのように教えられているのでしょうか。



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●七千余巻の教典を貫く真理

私たちの運命の法則を教えられたのが、
「因果の道理」です。

因果の道理は、仏教の根幹。
根幹とは、根であり、幹である、ということです。
仏教を木に例えますと、
因果の道理は、根っこであり幹にあたります。
根っこが無ければ木は枯れてしまいますし、
幹を切ったら、木は倒れてしまいます。
ですから、因果の道理が分からなければ、
仏教は一切分かりません。
仏教は七千余巻の一切経に
すべて書き残されていますが、
それら一切経を貫いている教えが、
因果の道理なのです。


「道理」とは、三世を貫き、
十方をあまねくものをいいます。
「三世」とは、過去世・現在世・未来世のことで、
三世を貫くとは、“いつでも”ということ。
「十方」とは、東西南北上下四惟のことですから、
十方をあまねくとは、“どこでも”ということです。
いつでもどこでも変わらないものを、
道理といわれます。

明治時代は正しいといわれていたが、
平成の今日では間違いとされるようなものは、
道理とはいいません。
また日本では正しいけれども、
アメリカや中国に行くと通用しない、
というものも、道理とはいえません。
いつの時代でも、
どこへ行っても変わらない事実を、
「道理」といいます。

仏教はそんな道理を、
二千六百年前から教え続けられているのです。
ですから、「世の中がこれだけ変わったのだから、
仏教も変えなければ」
という人が時々いますが、
その人は、仏説の何たるかを知らないのでしょう。
仏教には、いつでもどこでも変わらない
普遍の道理が説かれています。


●まいた種は、必ず生える

次に、「因果」とは、原因と結果ということです。
仏教では、どんなことにも必ず原因がある、
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
教えられています。


例えば、列車が脱線した、というのは結果ですが、
これには必ず原因があります。
スピードの出し過ぎとか、
線路の異常とか、必ず原因があって、
脱線という結果が起きたのです。
原因なしの脱線など、絶対にありませんから、
二度と事故が起こらないよう、
原因を徹底的に調査究明するのは当然のことです。

もちろん、原因が分からない、
ということはあります。
例えば、太平洋の底深く沈んでしまった飛行機を
引き上げることができず、
墜落の原因をそれ以上、調査できない、
ということはあるでしょう。
しかし、原因が分からないことと、
原因がないということとは、全く異なります。
この世のことはすべて、どんな小さな結果にも、
必ず原因がある。

財布を落としたという結果にも、
ポケットに穴が開いていたとか、
ボーッと歩いていたからとか、原因があります。

科学が、今日のように長足の進歩を遂げたのも、
原因追究の努力のたまものでしょう。
「結果には必ず原因がある」という因果律が、
科学の大前提なのです。

世間ではよく、「偶然こうなった」と、
原因なしに結果だけあらわれたように
言う場合がありますが、
それらも、そうなった原因を
見極めることができないだけであって、
因なくして成った果ではありません。

原因なしに起きる結果は絶対にないし、
原因があれば必ず結果が生じる。
平たい言葉で言いますと、
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える、ということです。


世の中にはさまざまな因果関係がありますが、
特に仏教では、私たちにとって、一番知りたい、
幸福の原因と結果の関係が、
詳しく教えられています。



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●運命はどのように決まるのか 
      お釈迦さまの解答

では、原因と結果には、
どのような関係があるのでしょうか。
お釈迦さまは次のように説かれています。

善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果」とは、善い原因は善い結果、
「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、
ということです。

善い種まきをすれば善い結果があらわれ、
悪い種まきをすれば悪い結果が起きる。
善い種をまいて悪い結果が起きることもなければ、
悪い種をまいて善い結果があらわれることもありません。

分かりやすく言いますと、
ダイコンの種をまけばダイコンが、
カボチャの種をまけばカボチャが出てくるということです。
ダイコンの種をまいてカボチャが出てきたり、
ナスビの種をまいてスイカが出てくることは絶対にない。

まいた種と同じものしか、生えてこないのです。
ですから、まいた種をみれば、何が出てくるか分かりますし、
出てきたものを見れば、何の種をまいたかが分かります。

次に「自因自果」とは、自分のまいた種は、
自分が刈り取らねばならない、
ということです。
他人のまいた種の結果が
私にあらわれるという
「他因自果」もないし、
私のまいた種の結果が
他の人に行くという
「自因他果」も絶対にないと、
教えられています。


●行為が運命を生み出す

ここでお釈迦さまが「因」といわれているのは
「行い」のことであり、
「果」とは「運命」のことです。

自分が勉強すれば、自分の成績が上がる。
勉強したら他人の成績が上がる、と思えば、
努力がバカバカしくなるでしょう。
酒を飲んで酔っぱらって怪我するのは、
飲んだ本人であって、
隣にいる人がフラフラになるということは
絶対にありません。

幸福という善い運命は、
善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難という悪い運命は、
悪い行いが引き起こしたものなのです。
善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、
自分のやった行為が生み出したものであり、
それは万に一つも例外はない

と教えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※三業
●身業・・体でやる行い
●口業・・口でやる行い
●意業・・心でやる行い

このうち、仏法では心が最も重視されます。
心はあらゆる行為の元であり、
心で思ったことを、
体が行い、口で言うからです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私が苦しいのは夫のせい?

しかし、世の中には、自分の種まきの結果とは思えず、
人のせいで苦しんでいるのではないか、
と見えるようなこともあります。

例えば、こんな夫婦がいたらどうでしょう。
働き者の奥さんは、家事や育児もソツなくこなし、
愛想もいい、近所でも評判の良妻賢母。
ところが、夫はろくに働きもせず、酒を飲み、
ギャンブルに明け暮れて、
妻の稼いだ分まで持っていく。
そのために奥さんが、
地獄のような苦しい生活を送っている。

このような場合、奥さんは悪くない。
夫のせいで苦しんでいるのではないか、
と言いたくなります。
他人のせいで自分が苦しむ、
他因自果のように思えますが、
果たしてそうでしょうか。
こんなひどい男がいても、
世間中の他の女性たちは、
この奥さんのような苦しみはありません。
つまり、この奥さんと他の女性たちとは、
結果が違うということです。

それは原因が違うからです。
この奥さんだけにあって、他の女性にはない原因があった。
そう、この男と結婚したということです。

世の中に、たとえこんなひどい男がいても、
結婚さえしなければ、
この奥さんは苦しむことはなかったでしょう。
周囲には、ほかにも男性はたくさんいたのに、
どうして、この男性を選んだのか。
奥さんは、こんな男を好きになって結婚した、
という自らの種まきによって、苦しんでいるのです。

もちろん、この夫は、奥さんの苦しみに全く無関係、
というわけではありません。
夫は、悪縁であったのです。


縁とは何かといいますと、
因が結果を生じるのを助けるものをいいます。

米を例に考えてみますと、まかぬ種は生えませんから、
米はモミ種なしには、生えてきません。
しかし、モミ種をいくら畳や床の上にまいていても、
米は取れません。
土や水、日光が必要でしょう。
空気や肥料などの助けがあって初めて、
米が収穫できるのです。
この場合、モミ種は因であり、土や水分、
日光などを縁というのです。


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すべてのものは、因と縁が和合して、
結果を生じます。
因があっても縁がなければ、
結果は起きません
から、
悪縁を減らす努力も必要でしょう。
しかし飽くまでも、因は自分にあり、
自因自果の道理には、寸分の狂いもありません。
自分の運命のすべては、
自分の行為の生み出した結果なのです。


●「縄をうらむ泥棒」 
     笑えるのはだれ?

私たちは、善い運命が来たときは、
「善因善果 自因自果」だと思いますが、
悪い運命がやってくると、
「悪因悪果 自因自果」とは思えず、
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」と、
他人を恨む心が出てきます。


「縄をうらむ泥棒」という言葉があります。
捕まって縄に縛られ、苦しんでいる泥棒が、
「オレが今苦しんでいるのは、
この縄のせいだ」と恨んでいる、
バカな姿を言った言葉です。

なぜ愚かなのか。
世の中にはいくら縄があっても、
他人の物を盗みさえしなければ、
縛られることはありません。
泥棒が恨むべきは、縄ではなく、
自分の悪い行いでしょう。

しかしこの泥棒を笑える人はあるのでしょうか。
「あの人のせいで、こんなに苦しんでいる」
「子供のために」「親があんなことを言ったから」
「こんな世の中だから」「社会が悪い」
などと恨んでいるのは、みんな縄を恨んでいる姿です。


私たちは、不幸な運命が来ると、
「私がいつ、
こんな目に遭わねばならないことをしたか」
と思いがちですが、
過去の種まきを忘れているだけなのです。

「火の車 造る大工は なけれども
     己(おの)が造りて 己が乗りゆく」
という歌がありますが、
火の車(苦しい状態)は、他人が造ったのではなく、
自分が造って、自分が乗っていくのです。

因果の道理に狂いはなく、
他因自果は万に一つもない、
と教えられるのが仏教です。

●光に向かって進む
      たくましい人生に

私の運命は、
神が造ったものでなければ、
印鑑や手相の善し悪しで
決まるものでもありません。

現在、受けねばならぬ一切の運命は、
自己がかつて創造したものであり、
未来の運命は、
これから自己が創造していくものです。


大安、仏滅などと書き込まれたカレンダーはありますが、
日に善悪があるのではありません。

お釈迦さまは、
「如来の法のなかに
吉日・良辰(りょうしん)をえらぶことなし」
“日に善悪はないのだ”と断言されています。
常に光に向かえば、「日々是好日(ひびこれこうじつ)」
と毎日がよい日になる。
逆に心がけが悪ければ、悪い日にもなるのです。
努力もせず待っていて
幸福がやってくるのではありません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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こんな話があります。

ある人が、十月の初めごろ、旅に出て東の国を通った。
涼しい風が、そよそよと稲穂を渡り、よく実って、
見渡す限りの黄金の波。
そばには農夫がニコニコ顔で、
のんきに仕事をしていた。
その後、またその国を通ると、
黄金の波は米俵と変わって、
家々の軒下に山と積まれている。
どの家からも、楽しそうな談笑が聞こえてくる。
旅人は、
「東の国は極楽だ。
苦労もしないで、あんなにたくさんの収穫があるのだ」
と、うらやましがった。
これを聞いた隣の人は、
「そんな国なら、一度行ってみたいものだ」
と、五月の初めごろ、東の国へと旅に出た。
すると、みんな泥だらけになって、
汗水流して働いている。
意外に思いながら、六月の終わりごろにも通ると、
頭から焼け付くような日に照らされ、
滝のように汗をだくだく流し一生懸命に働いていたが、
黄金の波も、山と積まれた米俵も見られなかった。
「隣の人にだまされた。
東の国は極楽どころか苦労為損(しぞん)の地獄だ。
ばかばかしい。」
プンプン怒りながら帰ってきたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

成功の裏には涙あり。
幸福な運命の裏には、
本人の涙ぐましい努力があるのです。
それを知らずに、結果だけを見て、
他人をうらやましがるのは、愚かなことです。

因果の大道理が分かれば、悪果が来たら、
自分の行いを反省し、改めようとします。
善果を得たいから、
全力で光に向かうようになるでしょう。
廃悪修善に努めずにはおれなくなります。
そして、迷信などに惑わされず、
過去を反省し、未来に向かって努力する、
たくましい人生を歩むことができるのです。




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