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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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蓮如上人にまた叱られる [蓮如上人]

(平成10年のとどろきより載せています)

本年(H10)は蓮如上人の500回忌とあって
大変な蓮如上人ブームである。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、説かないのか」
とお叱りを受けることになるだろう。

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                                (蓮如上人)

●後生の一大事を心にかけて   
       死んだらどうなるか?

とにかくすさまじいばかりの蓮如上人ブームである。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載中である。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説『此岸の花』の連載を終了し、
単行本として出版されている。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語がほとんど出てこない。

残念なことである。
蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教えが凝縮された『御文章』(御文)で確認してみよう。

蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで、五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

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五帖目二通
「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・・」
三通
「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通
「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、
必ず救いまします・・・」
七通
「・・・後生助けたまえ、と思う心一にて・・・」
八通
「・・・後生助けたまえ、と申す意なるべし・・・」
九通
「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通
「・・・後生を助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通
「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、
と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通
「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通
「・・・一心に後生を御助け候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通
「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、
一念にふかくたのみ・・・」
十九通
「・・・その他には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通
「・・・弥陀如来をひしとたのみ、
後生助けたまえ、と申さん女人をば、
必ず御助けあるべし・・・」

このように「後生」「後生の一大事」と
五帖目だけでもこれほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは病気や経済苦ではない。
後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えは全く理解できない。

●誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。

大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放していないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。
死後、未来世の実在を信じられない知識人がよく陥る誤りである。

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同様な考えのもとに
「釈尊は死後を説かれなかった」などと主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で三世の実在をご教示なされている。
一例を挙げよう。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」 
              (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。

もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも死んだ方がよほどよいことになる。
「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはこびると安易に自殺をする者が多くなってゆく。
後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、
それは今の一大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」
「女は男である」と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事

では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。

釈尊は一つの有名な譬で教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、
登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、
と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤さかまく深海、
しかも波間から三匹の毒龍が大きな口を開けて
旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。
ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。

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この旅人こそ万人の姿だと釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回っている。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。

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人間死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。

まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えたれたのは暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。

欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

●悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
例えば「殺生罪」。

仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。

殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、
消費者である我々が、業者に殺して肉を分けてくれと
頼んでいるのである。

自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと
同様の極悪人が我々の実態だ。

そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。

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後生の一大事は足下に迫っている。

今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。

しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。
ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかりを求めていると
釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

●後生の一大事の解決を
     一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定(けつじょう)すべし」
と教えられたのだ。

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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事とか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て、
確々(しかじか)とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というは是れなり」
       (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」
法然上人や親鸞聖人は
比叡山で徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。

そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと勧めてゆかれたのだ。

蓮如上人もただひたすら後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。
それを知らねば、蓮如上人ブームも空しいことになってしまう。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
        (御文章二帖目二通)

大意「信心獲得しなければ極楽には生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」
後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

●「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、大苦悩の地獄へ堕ちねばならない一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

ところが、「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。
一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心の異安心」と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
善知識方の信心とは違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。

●信心の有無で決する
    地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、十劫の昔に、
すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成なされた。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。これ大なる過りなり」
           (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂われをよく知らずば、
極楽には往生すべからざるなり」
           (御文章二帖目十一通)
「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、
六字名号を完成なされて仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われていることになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。
この世に現在生きている人の中に、
助かっている人と、いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」
          (御文章五帖目十一通)
「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
ご法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、
死ねば地獄行きの人と、二通りあるのだと仰有ったのだ。
仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、雑多な新興宗教の信者も含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。

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●聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀如来の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第1部)
に描かれているので、見ていただきたい。

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また蓮如上人は、
「毎月両度(二回)の寄合(法話)の由来は、
何の為というに、更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
           (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」

           (御文章四帖目十五通)
と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

           (御文章二帖目二通)
と厳しい。
先ほどの薬の譬喩にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば病気は治らない。

●往き易くして人無し
      矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。
「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候。
          (御一代記聞書)
御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心獲得しているのは、
一人かな、二人かな・・・」
と仰有ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句を継げなかったのである。
信心獲得していなければ、後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、『大無量寿経』に、
「易住而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、往きやすいけれども、
往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。
弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。
これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし』と言えるは、
この経文の意なり」と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰有った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

●「世間のヒマを欠きて聞け」
    聞き歩かなくてよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」
と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法いは明日ということはあるまじき」
          (御一代記聞書)

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「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰有っているのだ。

「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。
徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでもなければ、家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、蓮如上人は、示しておられるのだ。
「今日仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、
私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞けるあいだに聞きぬかねばならぬのだ。

●仏法に独断は禁物
     阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。

他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているかを
知らねばならないのと同様である。
太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎くんの苦労は水の泡となってしまったのである。
そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは、言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、
行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

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結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、
もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。
相手の願いをよく聞き、熟知することは、
人間相手でさえ、重要なのである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、独断は禁物。
阿弥陀仏の願いをよくよく聞かせていただかねばならないのである。

●火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
       (浄土和讃)
と仰有った。

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火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ、
との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、
雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、
と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えてられている。
①骨折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

●一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり」
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年たってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求めきれる道ではない。
今はこれまで」と、永遠のおいとまを願いでた。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがにつらい。
明詮は泣きながら寺を出た。
ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「このやわらかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、
断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めてゆけば、
必ず魂の解決ができるに違いない。」

奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。
何事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、
完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。
「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、真剣に求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が開かれると知らねばならない。

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さすがの一休も蓮如上人には勝てなかった! [蓮如上人]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)
 

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(蓮如上人)


あわれあわれ、存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

                     (蓮如上人)
哀れだ、不憫だ、死後では間に合わぬ、
生きている間に仏法を聞き求め、
みな一人残らず、信心決定してもらいたい

蓮如上人、最晩年に書かれたお手紙の一節です。

蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを
自分の考えを一切入れず、
一器の水を一器に移すかのごとく、
正確に全国に広められた高僧です。
親鸞聖人、蓮如上人のお二方のお叫びは、
みな一人残らず信心決定してもらいたい、
これ以外にはありませんでした。

信心決定とは、仏法を聞き求め、
平生のうちに阿弥陀仏の本願に救われ、
無碍の一道に出ることです。

無碍とは、一切の碍り(さわり)が、
碍りにならない世界をいいます。
死も碍りとならない不変不壊(ふへんふえ)の
絶対の幸福のことです。

名声、地位、権力、世の栄耀栄華も、
死の巖頭(がんとう)に立てば
三文の価値もない。
一切の喜びはくずれてしまう。

ところが、弥陀の本願に救われた喜びだけは、
死も碍りにならず、金剛不壊なのです。

信心決定せよ、無碍の一道に出よ、絶対の幸福になれ、
親鸞・蓮如両聖人に一貫したご教示です。

なぜ、それほどに。理由があるのです。

この信心を獲得せずは、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

                   (蓮如上人・御文章)
信心決定せずに死ねば、弥陀の浄土に往生はできず、
必ず、無間地獄に堕つるのだ。

これを後生の一大事といいます。
一大事の解決には弥陀の本願に救われるしかないから、
「一日も片時も急いで信心決定せよ」と説かれているのです。

真宗道俗の中には、これに反発して、
「阿弥陀仏は大慈大悲の仏、
我々を地獄に堕とされるはずがない。
信心決定した人だけを浄土に救うなどと、差別されない。
平等の慈悲を持っておられるはずだ。」
と猫も杓子も、みな死んだら極楽、
死んだら仏と思っている人が多い。

阿弥陀仏の慈悲は平等でありながら、
何故に救いに前後ができるのか。
その疑問を蓮如上人に投げかけたのが、
禅僧一休でありました。

蓮如上人にかなわぬ一休のトンチ

テレビで人気の「一休さん」
どんな難題も、しばらく座禅して
頭をポクポク叩いているうちにトンチが浮かび、
相手を負かしてしまう。
ところが、一休さんのトンチも、
蓮如上人にはかないませんでした。
同時代の二人は、大の仲良しでもありました。


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雀の生死

ある時、一羽の雀を握った一休が、尋ねました。
「おい蓮如、この雀、生きているか、死んでいるか」
「死」と答えれば、そのまま逃がし、「生」と答えれば、
ヒネリ殺すつもりなのです。
どちらに答えても負けです。
蓮如上人は、答える代わりに
近くの階段を二・三歩登られました。
「その質問に答える前に、当方の問いに答えよ。
私はこの階段をこれから、登るか、おりるか、どちらと思う。」
やはり答えれば、必ず負けます。
一休は、一本取られたのです。

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材木の上に立つ

蓮如上人が山科本願寺を建立しておられた時、
奇妙な坊主が、材木の上に立ち、
頭の上に草を載せて、ニヤニヤしている。
作業の邪魔と感じた大工が蓮如上人に申し上げた。

「それは一休だろう。
お茶を一杯持って行けば、退散する。」
蓮如上人のご指示通りにしたら、
「さすが蓮如」とお茶をガブッと飲み、引き上げた。

大工が訳を尋ねれば、蓮如上人、解説される。
「何の事はない。
木の上に人が立ち、頭に草を載せている『茶』という字を
分解してみれば分かる。(画像を見てください。)
一休は『お茶を一杯くれ』と言っていたのだ」


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七曲りの松

京都に、「七曲りの松」があった。
「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。
大徳寺住職・一休」
という立て札が立った。
金一貫文は、今日なら百万円である。
以後、松の周囲は人だかりで、
何とか一貫文をかせごうと、
人々は、松の木をまっすぐ見ようと努力した。
だが、一向に見ることができない。
ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。
「一休さんがウソを言われるはずがない。
どこからか見えるのであろう。」

蓮如上人が通りかかられた。
「また一休さんの悪戯か。
よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」
と、一休のところへ。
「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」
「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」
裏には、「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。
一休は蓮如上人には
すぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。

蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。
「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」
「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、
まっすぐに見るということだ。
曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようとしているから、
見ることができない。
曲がった松は、曲がった松と見るのが、
本当に、まっすぐ見るということだ。」

仏教の正見(しょうけん)を教えられたとき、
「さすがは蓮如上人」と人々は感服しました。


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●『御文章』を攻撃

連敗の一休、蓮如上人を一敗地に、
まみれさせようと『御文章』のあら探しを始めた。
やがて、「ここはどう考えても矛盾だ」との攻撃点を見つけ、
蓮如上人に一首送った。

阿弥陀には
まことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生 のみ助ける

              一休

「阿弥陀仏は平等の慈悲を持った仏と言うが、
『御文章』には『たのむ衆生は助けるが、
たのまぬ衆生は助けない』とある。
そんな差別をされる阿弥陀仏は、
まことの慈悲のない仏ではないか。
たのむ者もたのまん者も、みな助けてこそ、
まことの慈悲というものだろう。」

一休の言い分は、信心決定した人だけ助け、
それ以外は地獄に堕つるというのはおかしいという
真宗道俗と同じです。

この仏をたのまずは、
女人の身の仏になるということあるべからずなり

                     (五帖七通)

南無とたのむ衆生を阿弥陀仏の助けまします道理なり
                     (五帖九通)

これらの御文を、矛盾と感じたのでしょう。
一休の意地悪な心底は先刻ご承知の蓮如上人は、
歌には歌で答えられました。

阿弥陀には
へだつる心なけれども
蓋ある水に
月は宿らじ 

           蓮如上人

月は地上の如何なる水にも月影を宿す。
海、湖、川、池、汚れたドブ、草の露、更には肥溜めにすら、
自らの姿を映す。
だが、例外がある。
蓋のある水には月は宿らないのだ。
月が差別しているのではなく、
茶碗に蓋があるのが問題なのだ。
月が差別しているのではなく、
蓋がいけないのだ。

またしても一休、見事に切り返されてしまいました。


(お碗の中の水に月が映っている。)
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全人類苦悩の真因
      弥陀の本願を疑う心

阿弥陀仏は、今すぐにも助けたい一杯であるが、
我々が心に蓋をしてしまっているため、
阿弥陀仏の大慈悲心が頂けず、救われない。
蓋とは、阿弥陀仏の本願を疑う心、疑情(ぎじょう)です。
雑行雑修自力の心とも言います。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
                     正信偈

人生に苦悩が絶えず、一時幸福になっても、
再び、苦の人生に還ってきてしまうのは、
一体、何が原因なのか。
それは、疑情一つが、全人類の苦悩の真因なのだ。

普通、自分が苦しいのは、お金、財産、名誉、地位に
恵まれないからと考える人が多いです。
そうした迷見を釈尊は、「有無同然」と否定されました。

「有無同じく然り」、それらのものは、無くても苦、有っても苦、で、
苦しい点から言えば、同じなのだと、仰せられています。

ノーベル文学賞に輝いた川端康成氏の自殺は、
仏説を実証しています。

名誉、地位、財産、すべてを手中にしながらの、
ガス管自殺は、持てる者、
なお人生苦の渦中にあった事を雄弁に物語っているのです。

遠くは、戦国の世を統一し徳川三百年の礎を築いた
家康の遺訓にもうかがえます。
人の一生は重荷を背負うて遠き路を行くが如し
天下人の背になお、耐え難い重荷があり、
生涯が苦悩の連続であったと述懐しているのです。

財物や名声の欠乏が、苦の真因ではありません。
疑情こそ、全人類苦悩の根源と、
親鸞聖人は喝破なされたのです。

本当に助かるのだろうか? 
         疑情こそ、心の蓋
   阿弥陀仏の本願を疑う心とは


阿弥陀仏は、いかなる諸神、諸菩薩、諸仏よりも尊い、
最高無上の如来です。
阿弥陀仏が、諸仏の王、本師本仏と敬われる所以は、
建立された本願にあります。
本願は誓願とも言い、今日なら「お約束」です。

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて・・・」
親鸞聖人は『歎異抄』の第一章に、
本願に摂取された二十九歳の時の体験を
披瀝(ひれき)しておられますが、
本願とは、如何なるお約束か。

どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


平易に言えば、そうなります。

この本願を聞くと、
「本当に助かるのだろうか?」
「この世から、絶対の幸福に本当になれるのか?」
と、本願に対する疑いがおきてきます。

蓮如上人は、この疑いが、ツユチリ程あっても、
救われないと、仰っています。
疑情こそ、まさに蓋であり、これが破られない限り、
全人類は永久に苦しみ続けていかなければならないのです。

真宗道俗は、本願を疑っていながら、
気づかない人が多いのです。

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●「ひょっとしたら・・・」で信心が崩壊したお婆さん

昔、金沢に若年の頃から、
熱心に聞法していたお婆さんがいました。
六十歳も過ぎたある夜半、ふと目が醒めて
「今死んだらどうなる」と無常を感じたのです。
次の瞬間、心中に「ひょっとしたら、
地獄に堕ちるのではなかろうか?」
と後生の心配が生じてきました。
「ひょっとしたら・・・」が、ツユチリ程あっても助からん疑情です。
お婆さんはすっかり助かったつもりでいたのに、
ツユチリ程の疑いがあると知らされ、
信心が崩壊しました。

居ても立ってもいられない。
「このまま死ねば地獄、なんとかしなければ」
との思いで、京都へ旅立ちました。

京都である有名な布教使を訪ね、
胸底の不安を告白しました。

布教使、「お婆さん、私の質問に答えてみなさい」
「はい、何でしょうか」
「お婆さん、そのままじゃぞ」
「えっ、このままですか」
「ちがう、そのままじゃ」
「だから、このままですか、と聞いているんです。」
「ちがう」
「どこが違うのですか、さっぱり、分かりません」
「お婆さん、私が『そのままじゃ』と言ったとき、
なぜ『ハイ』と一言返事をせん。
『このままですか』の『か?』が、
疑いじゃということがわからんか」
「そうですか。『か?』がいけなかったのですね。
もう一度、お願いします」

もう正体ばれてしまっているのに、再度の挑戦。
「お婆さん、そのままじゃ」
「ハイ」と返事をして、あとは無言の行だ。
しばらく時間が経過したとき、
「本当に、こうやって、『ハイ』と言っておれば、
よいのでしょうね?」
と言ってしまった。
「ほら、また出た。その『ね?』が、疑いじゃ」

「どうしたら助かるのか」
「どう聞いたらよいのか」
「どうなったら」
これみな疑いであり、自力の計らいともいいます。
「一切の計らいを捨てよ」と聞かされて、
「計らうまい、計らうまい」と思っている、
それもまた計らいなのです。

●「自力は捨てもの」
        合点はたやすいが・・・

疑情ある間は、天皇、大統領といえども迷いの衆生です。
疑情は「雑行雑修自力の心」とも言い、
「雑行雑修自力の心を捨てて、
一心に弥陀に帰命」しなければ、
救われないのです。

自力は捨てもの、間に合わぬものと
合点するのはたやすいのですが、
実地の体験は、難中の難である。

後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わないか。
実際、全力を尽くして始めて出来ることか、できないことか、
可能か、不可能か、ハッキリ知らされます。


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例えて言えば、クラスで力自慢の小学一年の男子を連れて、
母親が、瀬戸物店へ買い物に行きました。
大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、
荷物を持って店を出ました。
瀬戸物は量の割に重いものです。
それを見て子どもが、
「お母さん、僕、それ持ってあげる、僕、力強いんだよ、
昨日もクラスの相撲で一番だった」と自分の力を誇示します。

やらせてみる

とてもとても子供の力で間に合うような品物ではないことは、
百も千も承知しています。
こんな重い物が、あんたなんかに持てますか、
落としたらどうするの」
頭から叱りつける母親は、余り、利口とは言われません。

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「そうお、坊や、そんなに強くなったの。
お母さん、うれしいわ、それじゃ、持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、
一度持たせてみせます。

落としたら大変だから、母親は密かに下に手を回します。
子供は誉められて持ったのだから男の意地だ、何とか持とうと
渾身の力で力んではみますが、とてもかなわぬ重荷と知らされ、
力尽きて、
「お母さん、やっぱり僕の力じゃ無理だ、早く取って!!
落とすよ、早く、早く」  
と、母親にまかせます。
子供は母親が荷物を下から支えていることを知らないから、
驚いて心から素直に母親にまかせるのです。

自力の心が廃った時、
     他力不思議に摂取される

後生の一大事の解決を目指し、真剣な聞法を重ねて行くと、
最後に、知ったもの、覚えたものも、学問も修養も、
すべて間に合わず、地獄は一定すみかぞかし、
と無間のドン底にたたき落とされた時、
自力間に合わなかったと、
雑行雑修自力の心が廃ると同時に、
他力不思議に摂取されるのです。

信心歓喜踊躍(ゆやく)とおどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらねば、
聞かないしぶとい私でございました。
どうしてこのご恩に報いようかと泣くより他にないのです。
これを弥陀たのむ一念といいます。
まさに心の蓋たる疑情が破られて、
阿弥陀仏の大慈悲が徹底する時なのです。

当流は、たのむ一念のところ肝要なり」 
              (御一代記聞書)

あながちにもろもろの聖教をよみ、
物を知りたいというとも、
一念の信心のいわれを知らざる人は、
いたずらごとなり

(御文章)

共に弥陀たのむ一念こそ、
真宗の肝要であることをご教示なされた、
蓮如上人のお言葉です。

                    (カット 太田 寿)


 


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仏教で一番大事なことが教えられていないのは何故? [蓮如上人]

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(蓮如上人)


15年前、蓮如上人の500回忌で、
大変な蓮如上人ブームであった。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、
説かないのか」とお叱りになるだろう。


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「後生の一大事を心にかけて」
     死んだらどうなるか?

すさまじいばかりの蓮如上人ブームでした。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が
上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載された。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説
『此岸(しがん)の花』の連載を終了し、
単行本として出版した。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語が
ほとんど出てこない。

残念なことである。

蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教え凝縮された『御文章』で確認してみよう。
蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

五帖目二通「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・」
三通「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、必ず救いまします・・・」
七通「・・・後生助けたまえ、と思う心一つにて・・・」
八通「・・・後生助けたまえ、と申す意(こころ)なるべし・・・」
九通「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通「・・・後生助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通「・・・一心に後生を御助け(おんたすけ)候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、一念にふかくたのみ・・・」
十九通「・・・その他には何れの(いずれの)法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通「・・・弥陀如来をひしとたのみ、後生助けたまえ、
と申さん女人をば、必ず御助けあるべし・・・」


このように「後生」「後生の一大事」と五帖目だけでも
これほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは
病気や経済苦ではない。
後生の一大事の苦なのである。
だから後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えはまったく理解できない。


誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。
大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放してはいないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。

死後、未来世の実在を信じられない知識人が
よく陥る誤りである。


同様な考えのもとに「釈尊は死後を説かれなかった」などと
主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに
仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で
三世の実在をご教示なされている。
一例をあげよう。

「因果応報なるが故に来世なきに非ず(あらず)」
             (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を
釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。
もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてもよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも
死んだ方がよほどよいことになる。

「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮き世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはびこると
安易に自殺する者が多くなってゆく。

後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、それは今の大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」「女は男である」
と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事


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では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、
取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。
釈尊は一つの有名な譬(たとえ)で教えられておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、登っても無意味、
虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、と足下を見た旅人は、
思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤逆巻く深海、
しかも波間から三匹の毒龍が、
大きな口を開けて
旅人が落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。


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ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かかが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。



この旅人こそ万人の姿と釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回る。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。
人間は死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。
まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えられたのは
暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。
欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
仏教では人間も他の動物、生き物もおなじく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、
五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない
悪逆非道な存在なのである。


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殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、消費者である我々が、
業者に殺して肉を分けてくれと頼んでいるのである。
自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日何回も殺人しながら
平然と生きているのと同様の極悪人が
我々の実態だ。


そのすさまじい罪悪が
未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。
後生の一大事は足下に迫っている。
今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。
しまった、
と後悔しても取り返しがつかないのだ。


ところが旅人はすべてを忘れて
蜂蜜ばかり求めていると釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類が朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の
起きることを知らないのだ。

後生の一大事の解決を
      一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、
「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に
極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」

と教えられたのだ。


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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、
八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることなのだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事だとか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て(おいて)、確々(しかじか)と
その信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く(たやすく)
遂ぐべきや。一大事というは是れなり」
           (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に
往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」

法然上人や親鸞聖人が比叡山で
徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。


そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、
信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと
勧めてゆかれたのだ。
蓮如上人もただひたすら
後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。

「この信心を獲得せずば、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

          (御文章二帖目二通)

大意
「信心獲得しなければ極楽に生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」


後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、
大苦悩の地獄へ堕ちねばならない
一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

これは前章で述べた。

ところが、
阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。

一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心(じゅっこうあんじん)の異安心(いあんじん)」
と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
歴代善知識方の信心と違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。


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信心の有無で決する
       地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、
十劫の昔に、すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成された。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、
それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。

「『十劫正覚の初より、
我らが往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。
これが大なる過(あやまり)なり」
             (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを
知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂(いわれ)を
よく知らずば、極楽には往生すべからざるなり」
            (御文章二帖目十一通)

「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、六字名号を完成なされて
仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われているということになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。

この世に現在生きている人の中に、助かっている人と、
いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌(ごしょうき)のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て(おいて)
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。
以て(もって)の外(ほか)の大事なり」
         (御文章五帖目十一通)

「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
御法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、死ねば地獄行きの人と、
二通りあるのだと仰ったのだ。

仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、
雑多な新興宗教の信者を含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故(ほご)にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。


聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた、
驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。


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また蓮如上人は、
「毎月二回の法話の由来は、何のためぞというに、
更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
            (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり」
           (御文章四帖目十五通)

と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
            (御文章二帖目二通)
と厳しい。

先ほどの薬の譬喩(ひゆ)にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば治らない。


往き易くして人無し
       矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。

「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と
御掟候(ごじょうそうろう)とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候」
            (御一代記聞書)

御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心決定しているのは、一人かな、二人かな・・・」
と仰ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句が継げなかったのである。
信心獲得していなければ、
後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、
『大無量寿経』に、「易往而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、
往きやすいけれども、往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。

弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。

これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往きやすくして人なし』と言えるは、この経文の意なり」
と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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「世間のヒマを欠きて聞け」
   聞き歩かなくてもよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法には明日(みょうにち)ということはあるまじき」
             (御一代記聞書)

「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰っているのだ。
「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。

徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでなければ、
家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、
蓮如上人は、示しておられるのだ。

「今日は仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞ける間に聞き抜かねばならぬのだ。

仏法に独断は禁物 
      阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。
他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているのかを
知らなければならないのと同じである。

太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎君の苦労は水の泡となってしまったのである。


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そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。

相手の願いをよく聞き、熟知することは、人間相手でさえ、
重要なことである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、
独断は禁物。
阿弥陀仏の願いを
よくよく聞かせていただかねばならないのである。


火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
     (浄土和讃)
と仰った。
火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ
、との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えられている。

①骨を折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後の不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、
少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只、仏法は聴聞に極まることなり」

昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年経ってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求め切れる道ではない。今はこれまで」
と、永遠のおいとまを願い出た。
師僧は思いとどまるよう説得したが、明詮の決意は堅く、
慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、さすがに辛い。
明詮は泣きながら寺を出た。

ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「この軟らかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、断念したが、
この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、根気よく求めていけば、
必ず魂の解決ができるに違いない」
奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。

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事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。

「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、
真剣に聞き求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が
開かれると知らねばならない。







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応援お願いします。(^^)

仏教・ランキング


命の速さ、知っていますか?(白骨のお文) [蓮如上人]

屈指の名文として名高い、
蓮如上人の「白骨のお文(御文章)」は、
さまざまな仏事法事で読まれています。
連綿とつづられた切々たる無常観は、
だれの心をも打たずにおきません。
この世は火宅無常。
いつ何が起きるか分からぬ世界です。

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(蓮如上人の白骨のお文)

(平成17年のことです)
今年四月、尼崎で起きた列車脱線事故は、
107人の命を奪い、
日本中に衝撃を与えました。
一寸先は闇。
一瞬で消えゆく儚い命を抱えるのは、
私たちも同じです。
流れるような美文で説き切られる
命の真実に耳を傾け、
古今の人類が忘れてはならない、
最も大切なことを聞かせていただきましょう。

敗戦から68年。
広島での被爆体験を描いた井伏鱒二の名作『黒い雨』で、
主人公が、後から後から運ばれる遺体を前に、
「白骨の御文章」を暗誦する場面がたびたび出てきます。
同じく原爆の悲劇をつづったマンガ『はだしのゲン』でも、
中学生のゲンが、生後まもなく死んだ妹を
荼毘(だび)に付しながら、
「白骨の御文章」を切々と読み上げるシーンが描かれ、
読者の涙を誘わずにおきません。

激しい無常を目の当たりにした時、
「白骨の章」が、人々の心をとらえるのは、
単に名文であるからではなく、
そこに古今変わらぬ、
人間の真実が説かれているからです。

お聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに

         すがっては裏切られる 
                  人の一生

初めに蓮如上人は、人間の有り様を「浮生なる相」と、
言われています。
人生はちょうど、水平線しか見えない大海原を、
あてどもなくさまよっている浮き草のようなものと、
仏教で教えられています。
波にのまれて苦しいので、
何かにすがらずにはいられない。
そこで、近くに浮遊する丸太や板切れを目指します。
丸太や板切れとは、健康や妻、子供、お金、
地位や名誉のこと。
すがるとは、それらをあて頼りにすることです。

常に何かをあて力にしなければ、
私たちは生きてはいけません。
妻は夫を、夫は妻を力とし、親は子供を頼りにし、
子供は親をあて力にして生きています。
その他、自分の体や命、財産や金銭、
家や名誉や社会的地位など、
何かをあて力にして人は生きているのです。

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なぜ、丸太や板切れに例えられるのでしょうか。
丸太や板切れはすがった時には、一時、
ヤレヤレとほっとしますが、やがて波にのまれ、
くるっと回って裏切ります。

いつまでも安心、満足を与えてはくれません。
浮いているからです。
金や名誉や地位も、手に入れた時は、
つかの間、私たちに安心満足を与えてくれますが、
長くは続かない。

やがて、私たちを裏切っていく。
だから丸太に例えられます。
裏切るとは、あて頼りにならなくなることです。

例えば、医者にかかったことがないという健康自慢の人が、
たまたま受けた健康診断で末期ガンにかかっていた
という話は珍しくありません。
これは、健康という丸太に裏切られたのです。
妻や子を不慮の事故や病で亡くし、泣いている人は
家族という丸太に裏切られたといえま
しょう。
○○会社の課長だ、部長だと言っていても、
突然のリストラにあって苦しんでいる人は、
枚挙にいとまがありません。
定年まで勤め上げても、
退職と同時に見向きもされなくなる。
これは地位という丸太に裏切られたのです。
浮いたものにすがっては、裏切られる。
そこでまた、別の丸太を求めてすがる。
どこまでいっても苦しみ続けて、死んでいく。
そんな姿を、蓮如上人は、
「浮生なる相」とおっしゃっているのです。

 凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり

            目的なき人生の儚さ

始中終とは、人生の始め、中ごろ、終わりということです。
禅僧・一休は、
「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
       嬶としぼんで 婆と散りゆく」
と言いました。
娘が嫁と花咲いて、お母さんからお婆さんになっていく。
これが、女性の始・中・終です。
いつまでも娘でいたいと思っても、
止まることはできません。
男性も呼び名が変わるだけで、皆、このコースを進みます。
「生きることは旅すること」と美空ひばりの歌にあるように、
人生はよく旅に例えられます。
旅人にとって最も大事なのは、行く先でしょう。
どんなものを食べるか、どんな服を着るかより、
もっと大事なのは目的地。
行く先がハッキリしていなかったら、
歩く意味がありません。
歩けば歩くほど苦しいように、生きれば生きるほど、
苦しみも多くやってきます。
目的なしに生きるのは、苦しむために生きるようなものです。
意味も目的もなく、最後死ぬために生きるのが人生ならば、
私たちは何のため生まれてきたのでしょうか。
なぜ人命は地球よりも重いといわれるのでしょうか。
蓮如上人は、“目的なしに生きる人間の儚さを知りなさいよ”と、
教えられています。

されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保べきや。

          あっという間の一生

いまだかつて、一万歳まで生きた人を聞いたことがない。
不老不死を追い求めた秦の始皇帝も、
50年足らずで死んでいます。
たとえ100年生きたとしても、一生は、
たちまち過ぎ去ってしまうのです。

その証拠に、戦争に負けて、60年たちますが、
「まるで昨日のことのよう」と、
体験者は口をそろえます。
振り返れば、だれもが、それまでに人生、
あっという間だったと思うのではないでしょうか。
これまでの50年があっという間なら、
人生100年になったといっても、あっ、あっ、と言う間です。
悠遠なる大宇宙の歴史から見れば、
まばたきする間もないのです。
一生過ぎ易し。
人の命の過ぎ行く速さを、お釈迦さまは、
このように教えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

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「例えば、ここの弓を射る名人が4人いるとする。
一人は東方、一人は南方、一人は西方、
もう一人は北方に向き、それぞれが同時に放った。
名人の放つ矢は目にも留まらぬ速さで四方に飛んだ。
そこに足の速い男がいて、サッと走り出したと見る間に、
4人が放った矢を捕らえてしまったとする。
この男の足は実に速いだろう」
「それは速いです。とても速いです」。
答えるお弟子に釈尊は、
「それよりも、もっともっと速いのが人間の命なのだよ、
命は実に足が速い」
と諭されたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日でいえば、私の命は目の前を駆け抜ける
F1レーサーより速く、
過ぎ去っているということでしょう。


我や先、人や先、
今日とも知らず、明日とも知らず、

      一大事は、「明日死ぬと思えぬ心」

「死」と聞くと他人のこと、
自分とは何の関係もないように思っていますが、
蓮如上人は、
「我や先、人や先」とおっしゃっています。
生まれたからには、いつか死なねばならないと、
頭では分かっています。
しかし、「明日、死ぬと思えますか」と聞かれたらどうでしょう。
まさか、今日や明日には死なないだろうと、
安心してはいないでしょうか。
なぜなら翌日になれば、また、
「明日死なない」と思う心だからです。
次の日になれば、
また明日も死なないだろうと思うのですから、
結局、「永久に死なない」と思っている。
それが私たちの本心です。

「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ
      眺めて通る 人も何時まで(いつまで)」
という歌があります。
鳥辺山とは、今日でいう火葬場。
その前を通る人が、
「いやあ、昨日も煙が立っていたが、また煙が立っている。
今日も人が死んだのか」
と眺めている。
しかし、いつまで眺めていられるのか。
自分が焼かれて、他の人がその煙を眺める時が、
必ず来るのだ。
死ぬのは「人や先、人や先」と思っていないでしょうか。
よく考えている人でも、
「人や先、我や先」まででしょう。
親しい人が亡くなると、
私もやがて死んでいかねばならない時があるのだと、
厳粛な気持ちになりますが、
それでも、人が先に死んで、
そのあとで私は死ぬと思っているのです。
しかし、その思いは正しいでしょうか。

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(平成17年のことです)
107人の命を一瞬に奪った尼崎列車脱線事故。
一人一人の悲劇が、『毎日新聞』に連載されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
運送会社に勤める34歳の女性は、
2人の子供を残し、他界した。
事故の前日、新しい自転車を買い、
子供を乗せる荷台を取り付けたばかりだったそうです

プロの照明家だった男性(34)は、
大阪狭山市に出勤途中だった。
配線がきれいで作業が早いと、
評価されていた仕事はまさにこれから。
家庭でも4ヶ月前に男の子が生まれたばかり。
死の間際、彼の目からは、
一筋の涙がスーッと流れたといいます。

兵庫県の美容院店長・30代の男性は、生前、父親に、
「近いうちに、独立して自分の店を構えるんだ、
父さんと母さんを立派なマンションに住ませてあげるんだ」
と、語っていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
無常の風に誘われた方々の中で、
一体だれが、朝起きた時、
これが今生最後の洗顔と思って泣いたことでしょう。
私たちと同様、今日死ぬなんて、
夢にも思っていなかったのです。

無常は私たちの思いや都合などと、一切関係がない。
「“人や先”ではありません。
私が先に死んでいかねばなたないのですよ」
と蓮如上人は教えられているのです。


おくれ先だつ人は、
本の雫・末の露よりも繁しといえり。

       雨のように堕ちてゆく人々

人が死にゆくさまは、雨の日に木の枝から
雫が滴り落ちるよりも激しいと仰せです。

お釈迦さまにある時、お弟子が尋ねました。
「世尊は一切の知人、
何事でも苦痛におぼしめすことはないのでしょう」
その時釈尊は、こうおっしゃっています。

「そのとおりだ。
しかし、ただ一つ苦痛に思われることがある。
刻々と縮まる儚い命を持ち、
念々に近づいている後生に驚かず、
雨の降るごとく地獄へ堕ちてゆく人々のことを思うと、
胸が張り裂ける思いがする。
私の苦しみはこのことだ

世界の年間死亡数は、6000万とも7000万ともいわれます。
今日1日だけで、何十万の死者が出ているか分かりません。
まさに雨が降るがごとくでありましょう。
時計が針がカッチンと時を刻む間にバタバタと数人が死に、
次のカッチンでまた幾人かが死ぬ。
そこにいつか必ず自分も入るのだ。


されば、朝(あした)には紅顔ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。

        死は突然やってくる

朝、「行って来まーす」と、元気に家を飛び出すのは、
「行って帰って来ます」と言っているのです。
「だから、おいしい晩御飯を用意しといてね」
という意味も含まれているでしょう。
しかし行ったきりで、帰って来れない。
そんなことが、新聞やテレビで
どれだけ報道されていることでしょうか。

八月になるたび、回顧される日航機墜落事故。
10代の娘2人を亡くしたある母親は、
事故後も2人のために玄関を開けていると語りました

「おもてで自転車がキイーッて止まったら、
あ、帰ってきたって」

           (吉岡忍著『墜落の夏』)

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あの夏の日、出かけて行ったきり、
帰ってこないとは夢にも思っていなかったのです。


既に無常の風来りぬれば、
すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて
桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集りて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず。

      一陣の風で消える

“人は病で死ねない。
だが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない”
といわれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徳川時代、谷風という有名な関取がいた。
ある日、所用があって野原へ差しかかると
向こうから小さな小僧がやってきて、
「関取、一番取ろうか」
と、途方もないことを申し出る。
「何じゃワシを日の下開山と知ってのことか」
「知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ」
「生意気な奴。さあ、どこからなりとかかってこい」
と大声でどなりながら取り組んだところが、
この小僧、なかなか腕力がある。
満身の力を込めたが、ついに谷風、
草むらの中に投げられて驚いた。
「やあ小僧、しばらく待った。
この谷風は天下無敵の日の下開山と、
われも人も許したものじゃが、おぬしはワシよりも一倍強い。
一体全体、おぬしは何者じゃ。
名前を聞かせてくれないか」
「私は谷風よりも強いわけじゃ。
あなたが谷風でも私は無常の風じゃもの」
と言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かつて名大関といわれた二子山親方も、
ガンに倒れ、過日、わずか55歳でこの世を去りました。
鍛え上げた肉体も、
無常の風の垣根にはならないのです。
一陣の風によって、
ろうそくの火がたちまち消えてしまうように、
私たちの命の灯もまた、
無常の風の前にはひとたまりもありません。

お釈迦さまは経典に、
「出息入息(しゅっそくにゅうそく)
不待命終(ふたいみょうじゅう)」
(出る息は入る息を待たずして命終わる)と、
説かれました。

ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、
全く別もののように考えています。
しかし、吐いた息が吸えなかったら、
吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、
その時から後生、一息一息が、死と触れ合っています。

これほど近いものはありません。
「無常の風」とは死の風です。
手術で助かったと言っても、死が少し後れただけで、
やがて死ぬときが来ます。
日本中の名医や看護師を集めても、どんな薬を使っても、
無常の風を止めることはできないのです。
テレビなどで、遺体に身内の人が取りすがる光景が映されます。
「口を開けて」「もう一度笑って」「もう一度何か言って」
どれだけ嘆き悲しんでも、どうしようもない、
永遠の別れがやってくるのです。


さてしもあるべき事ならねばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。

      すべての人の最期

どんなに大事な人でも、
いつまでもそのままにしてはおけませんから、
葬儀の相談が始まります。
野辺送りをして、火葬場の煙となったあとに残るのは、
一つまみの白骨でしかありません。
これが人間の本当の姿です。

生きているときは、これこそ本当だ、
間違いないものだと思って、
必死にかき集めた金も地位も、家族も、
一切を置いていかねばなりません。
あくせく働いた人生は一体何だったのか。
それまでの苦労に、どんな意味があったのか。
「無駄だった。バカだった、バカだった・・・・」
と、泣いて死んでゆく人生の末路を、蓮如上人は、
「あわれと言うも哀れ、おろかと言うも愚か」と、
悲しんでおられるのです。

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されば、人間のはかなき事は
老少不定のさかいなれば、誰の人も、
はやく後生の一大事を心にかけて

        万人共通の一大事

「老少不定」と言われるように、年の順に死ぬ、
ということは決まっていません。

若者の交通事故死も多くあります。
無常の前では皆、同い年。
だから、「誰の人も」と言われ、
後生の一大事の解決を急ぎなさいよ、
とおっしゃっています。

すべての人の行く先は後生です。
後生の一大事と無関係の人はいません。
浮世の丸太に心を奪われている私たちに、
後生の一大事を心にかけよ、
後生の一大事を忘れるな、と教えておられるのです。


阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。

         一大事、解決の道

後生の一大事の解決は、
本師本仏の阿弥陀仏のお力によるしかないから、
釈尊は、
「一向専念無量寿仏」
“阿弥陀仏一仏を信じよ”とおっしゃっています。

それを蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」と言われているのです。
早く弥陀にうちまかせ救い摂られよ、ということです。

阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず絶対の幸福に助ける」
との、とてつもないお約束をなされています。
たとえどんなことが起きても、
絶対に崩れることのない幸福を「絶対の幸福」といいます。
“すべての人を、あっという間もない一念で、
いつ死んでも極楽参り間違いない大満足の身に救う”と、
阿弥陀仏は誓っておられるのです。
世の無常を切々と訴え、“弥陀一仏を信じて、
早くこの一大事を解決し、
人と生まれし本懐を果たしなさいよ”というのが、
「白骨の御文章」に込められた蓮如上人の御心であります。

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何か感じるものがありましたら、
応援お願いします。(^^)

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人生の無常を切々と・・・(蓮如上人・白骨の御文章) [蓮如上人]

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(蓮如上人)

古今に稀な名文であり、仮名交じり文の文章の模範とすべきもの
蓮如上人の「白骨の章」を読み、
福沢諭吉は、こう感嘆したという。

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「白骨の章」は、浄土真宗の葬儀・法事の折りに拝読され、
『御文章』五帖八十通の中でも、特に有名である。

あまりに優れているため、他宗派でもこれになぞられた文章が
作られているほどだ。
蓮如上人は、ここで、何を教えているのだろうか。

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それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、
この世の始中終、まぼろしの如くなる一期なり

大意 浮き草のように不安な人生をよくよく眺めてみれば、
人の一生ほどはかないものはない。
生まれて、成長し、やがて年老いて死ぬ。
幻のごとく過ぎ去ってゆく。

人の一生を、まず、「浮いた生」と仰っている。
浮き草の根が池の地に届かず、風のまにまに漂っているような
不安な状態を表されたのだ。

●火宅無常の世界

親鸞聖人は、『歎異抄』に仰っている。
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
萬(よろず)のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」
「煩悩具足の凡夫」とは、欲や怒り、ねたみやそねみの止まぬ人間、
「火宅」とは、火のついた家のように不安な様をいう。
隣家から出火し、バチバチと音を立て、
猛火がまさに自宅の庇(ひさし)にまで燃え移ったとき、
ビールで一杯やりながらプロ野球を見ていられるだろうか。
電話でおしゃべりしていられるか。
家財道具を一つでも運び出そうと必死になっているか、
ただ慌てふためいているかのどちらかであろう。

人生を「火宅」と言われるのは、この世が「無常」だからである。
健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
何もかも、今日あって、明日はなき幸せではないか。

和歌山でのヒ素入りカレー事件以来、缶ジュースや健康飲料、
ソースなどへの毒物混入事件が相次いでいる。
(平成十年のことです。)
いつ、どこで、どんなものを食べさせられて、
死ねばならぬか分かったものではない。
十月には、兵庫県の19歳が6歳の子供をビルの6階から
突き落とすというショッキングな事件もあった。
「ここから飛び降りたら、人間は死ぬかどうか試してみた」
と供述しているそうだが、
ある日、突然、こんな事件に巻き込まれて、
我が子を失うかもしれぬ世相である。
そうなれば、昨日までの一家団欒が、
一夜にして悲しみの生活へと変わってしまう。

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大学合格の歓喜も1、2ヶ月もすれば5月病が襲い、
結婚の喜びも成田離婚と崩壊する。
株価は暴落、金融機関は信用を失墜させ、
職場にはリストラの嵐が吹いている。
何一つあてにならぬ、火宅無常な世界に、
煩悩具足の人間が生きているのだから、
不安のたえぬ、苦しみの人生になるのである。

この世の始中終」とは、人生の始まりと中と終わり。
女性の一生を、禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく」と歌った。
何をしても楽しいときだから、
女偏に良いと書く「娘」時代。
結婚すると、家から離れられなくなるから
女偏に家で「嫁」。
子供ができると、亭主を尻に敷いて、
家庭の実権を握り、カカア天下で鼻息荒くなるから、
女偏に鼻と書いて「嬶(かかあ)」。
そのころは、容色も衰えるから「かかあとしぼんで」。
最後は「婆(ばば)と散りゆく」。
よる年波で、女の顔に波のようにしわができるので、
女の上に波と書くという。
男性とて、同じである。

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●夢・幻の人生
    7、80年も瞬く間

日本の平均寿命は、男性が77.19歳、女性は83.82歳と発表されたが、
80年と言っても瞬く間。
これからの50年は長いように思うが、
過ぎ去った50年はあっと言う間ではなかったか。
70年、80年と言っても、一瞬のことなのだ。
アルバムを開いてみれば、あんなこともあった、
こんなこともあったと思い出すが、
霞がかかったような感じがする。
夢の世に夢見て
      くらす夢人が
 夢ものがたり
      するも夢かな

金じゃ、地位じゃ、名誉じゃと、
これこそ真実だと命がけで求めているが、
夢の中で夢を見ているようなものなのだ。
「私はこのためにこそ生きてきた」と、
何か一つでも満足できるものがあるだろうか。

「人間50年、下天(げてん)の中をくらぶれば夢まぼろしの如くなり」
人生を夢まぼろしと感ずるのは、
数え年49歳にて、天下統一の夢破れ、
本能寺の猛火のうちに自刃した信長だけではない。

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されば未だ万歳(まんざい)の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎやすし。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや

大意 どんなに長生きできても、
一万歳も生きた人は聞いてことがない。
一生は、たちまちに過ぎ去ってしまう。
誰か百年、この肉体を保つ人がいるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

今でこそ、百歳以上の長寿者が日本国内で一万人を超えたが、
現在の最長寿でも114歳。(平成10年のことです。)
200歳、300歳と生きた人はついぞ聞かない。
セミの命は、地上に出て一週間と言われるが、
人生80年とすると、セミの一日は、人間の10年に当たる。
「何と短い一生か。哀れなものよ」
と思うかもしれないが、
無量寿の仏さまの眼からご覧になれば、
100年といっても、セミと変わらぬ、はかないものなのだ。

●明日をも知れぬ命   
     次は、自分の番だ!!

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(しずく)、
末の露(つゆ)よりも繁しといえり

大意 後生へ旅立つのは我が先か、他人が先か。
今日とも、明日とも知れぬのが私たちの命である。
日毎に死ぬ人は、大雨のとき、木の枝先から滴る雨水、
枝をつたって下る雫よりも多いのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで、「我や先、人や先
と、まず、私が先に死んでゆくのだと仰っている。
ところが、「死」と聞くと、「他人の死」を連想し、
自分が死ぬとは思えない。
蓮如上人は、そうではないぞ、自分が先に死ぬんだぞ、
と私たちの迷った考えを打ち砕いておられるのである。

「鳥辺山
   昨日の煙 今日もたつ
      眺めて通る人も何時まで」
鳥辺山は、京都にあり、今日、
火葬場の代名詞となっている山である。
麓を通った人が、中腹から煙が上がっているのを見て、
「ああ、誰か死んで焼かれているんだなぁ」
と通り過ぎる。
翌日も、また煙が上がってる。
「今日も誰か死んだのか」
そのように見ていた人も、
いつまでも眺めてばかりはいられない。
やがて自分も焼かれ、他人に眺められるときがくるのである。

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今年も多くの有名人が死亡している。
30年連続「紅白」出場した島倉千代子さん、
桜塚やっくんが交通事故死、
歌手の藤圭子さん自殺なのか、マンションから転落死した。
坂口良子さんは昨夏再婚したばかりで、57歳の若さで急逝した。
「あの人も死んだか。この人も若いのに・・・」
と思ううちにも、墓場へ墓場へと行進している。
やがて自分も後生へと突っ込んでゆかねばならぬときがくるのだ。

釈尊にあるとき、お弟子が尋ねた。
「世尊、一切智人、みなことごとく知りわきまえておられます。
何事でもご苦労に思し召すことはないでしょう」
すると、釈尊は、
我が身には外に苦労はないが、
今も雨が降るほど人が死んで地獄に堕ちているのが、
さとりの眼に映っている。
それがこの釈迦の、唯一の苦しみじゃ

とお答えになっている。

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地球上に今日、70億人の人が生きているが、
1秒間に4、5人が死んでいるという。
1日に43万人、まさにドシャブリの雨のように
人が死んでいるのである。
カッチン5人、カッチン5人と、秒針が進む毎に、
自分の死ぬ順番が、迫っているのだ。
「いってくるぞ」と、朝、元気よく家を出て行った人が、
交通事故などで、見るも無惨な姿で帰宅することがある。
「行って」から帰って「来る」つもりで、
「いってくるぞ」と言うのだが、
もう「来る」ことはないのだ。

●無常からは逃れられぬ
      全人類は死刑囚

既に無常の風来たりぬれば、
即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李(とうり)の装を失いぬるときは、
六親・眷属(けんぞく)集まりて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず

大意 一度無常の風に誘われれば、
どんな人も二度と眼を開かなくなる。
一息切れたら、顔面は血の気を失い、
桃李の肌色はなくなってしまう。
肉親や親戚が集まって、どんなに泣き悲しんでも、
二度と生き返ってはこない。
無常の風とは、死のことだ。
冷たくなった人に取りすがって、
「死なないで。もう一度笑って。元気になって」
といくら叫んでみても、空しいだけである。

フランスの哲学者パスカルは言っている。
幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。
みな死刑を宣告されている。
何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されてゆく。
残った者は、自分たちの運命も同じであることを悟り、
悲しみと絶望で互いに顔を見合わせながら、
自分の番を待っている。
これが人間の状態なのだ

すべての人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚なのである。
「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、
逃れ難きは無常なり」
釈尊も、釈尊を殺そうとした提婆達多(だいばだった)も、
ともに死からは逃れられない、
と『御文章』に警告しておられる。

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●目的なき人生の悲劇
      何のために生きるのか

さてしもあるべき事ならねばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し(なし)果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり

大意 泣いてばかりもいられないので、
火葬場に送って荼毘(だび)に付せば、
ひとつまみの白骨が残るのみである。

・・・・・・・・・・・・・・・

今日までこの地球上に、おびただしい数の人間が生まれてきたが、
死なぬ人は一人もない。
みな、生死を繰り返しているのだ。
川面に泡ができ、しばらく流れて消えてゆく。
また、ポツンとできては消える。
人の一生は、その泡のようなもの。
泡が消えたからといって、誰が問題にするだろうか。
私一人いなくなっても、地球は何もなかったように、
回っている。

あわれというも中々(なかなか)おろかなり

大意 全人類は、哀れというも哀れ、
おろかというも愚かな人生の結末を迎えねばならないのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

何のために苦しい人生を生きてきたのか。
金を集め、財を築き、他人の顔色を見て、気をつかい、
「これは俺が働いて獲たものだ」
と執着しているが、臨終には、みな夢と化してしまう。
「まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、
三塗の大河をば唯一人こそ行きなんずれ」
     (御文章一帖目十一通)

死に直面すれば、生涯かけて築いた財産も愛した妻子も
何の喜びにもならない。
集めたものをみな置いて、
独り後生へと旅立ってゆくときが必ずくるのだ。
残された者が、ケンカしてまで形見を獲ても、
その者もまた、獲得したものをすべて置いて、
消えていく。
何のために生きてゆくのか、生きてきたのか。
人間に生まれた目的は何なのか。

目的なき人生は、なんと悲劇的なのだろうか。

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●老少不定の境界

されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば・・・」

大意 老いも若きも関係なく、いつ死ぬか分からぬ。
はかないのが人間の世界だから。

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて・・・」

大意 すべての人に必ず死は訪れる。
だから、誰もが、はやく後生の一大事あることを知り、
それを心にかけて仏法を聞き求めねばならない。

仏法を求める目的は、実に、
この「後生の一大事」の解決にある。
釈尊は、「必堕無間」と説かれ、
人間は死ねば必ず無間地獄に堕ちて、
八万劫という長年月、苦しみ続けねばならぬのだと
警鐘乱打なされた。

この一大事を知らぬから、安易に自殺するのだ。
死んだら楽になるのではない。
大変な苦しみの世界が待ち受けているのである。

●自殺者は大馬鹿者

釈尊ご在世中にも自殺者があったと見えて、
次のような話が残っている。
ある日、釈尊が托鉢の道中、
大きな橋の上で、あたりをはばかりながら
一人の娘が袂(たもと)へ石を入れていた。
自殺の準備である。

近寄られた釈尊は、優しくその事情を尋ねられた。
娘は外ならぬ釈尊なので、
一部始終を告白した。
「実は、お恥ずかしいことでございますが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後、見捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま見逃してくださいませ」
と泣き崩れた。

釈尊は、哀れに思われながらも、厳しく仰せられた。
「お前は何という馬鹿者なのか。
お前にはたとえをもって教えよう。
ある処に、毎日荷物を満載した車を引かねばならぬ牛がいた。
牛はなぜ自分はこんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめるものは一体何なのかと考えた。
そのとき、牛はこの車さえなければ苦しまなくてもよいのだ
と思い当たった。
ある日、猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまったのだ。
ところが、牛の使用人は、やがて、鋼鉄製の車を造ってきた。
今までの車の何百倍、何千倍の重さであった。
今となっては、どうすることもできない牛は、
軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。
お前は、その肉体さえ壊せば後は楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からないだろうが、
地獄の苦しみは、この世の苦しみくらいではないのだ

釈尊は、それから地獄の苦しみを諄々(じゅんじゅん)と説かれた。
娘は、初めて知る後生の一大事に驚き、
仏門に入って救われたとある。

「飛んで火に入る夏の虫」
虫はきれいな花と思って火に近づき、焼かれて死ぬ。
自殺者は、そんな虫と変わらぬ大馬鹿者なのだ。
限りないものを求めて苦しみ、
求まってもやがて裏切られて苦しんでいる。
現在の延長が未来だから、今、苦しんでいる者は、
また苦しみの世界に行かねばならぬのだ。
苦悩の者が、死んだ途端に極楽に生まれて、
楽になるのではない。

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お経には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
と説かれている。
現在の苦悩から、後生の無間地獄の苦しみへ入り、
今、暗い心で生活しているから、死ねば暗い世界へと
堕ちてゆかねばならぬのだ。

●十方諸仏の本師本仏
     阿弥陀仏を深くたのめ

阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり

大意 阿弥陀仏に救い摂られて、
ご恩報謝の念仏を称える身になってもらいたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

後生の一大事の救われる道は、
阿弥陀仏の本願を信ずる以外にない。
釈尊は、仏教の結論として、
「一向専念無量寿仏」
と説かれた。
阿弥陀仏一仏を信じよ、
と勧められたのである。

蓮如上人は、これを分かりやすく『御文章』二帖目八通に教えておられる。
「それ、十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人も、
空しく皆十方、三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
          (御文章二帖目八通)

大宇宙には、地球のような星があまた存在する。
地球上に釈迦如来が出現された如く、
仏が在す(まします)星が無数にある。
仏土といい、それらの仏方を十方諸仏という。
が、私たちが、あまりに罪悪深重なので、
それら十方諸仏は、とても助けることはできないと、
見捨てられたのだ。

「然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成(くおんじつじょう)の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
           (御文章二帖目八通)

助ける力をもたれているのは、それら十方諸仏の本師本仏、
先生の仏である阿弥陀仏一仏だけなのだ。

だから、ここで、蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
と仰ったのである。

●お礼の念仏を称える身に

今日、「たのむ」は、「お願いする」の意味で使われるが、
ここでは、「頼む」ではなく「慿む(たのむ)」。
「あて力にする」「たよりにする」「うちまかせる」
の意である。
自力の計らいがすべてすたったとき、
他力に帰する。
後生の一大事が解決できて、いつ死んでも弥陀の浄土間違いない、
大安心、大満足の身となれるのだ。
死も障りとならない幸福だから、
絶対の幸福という。
これこそ、人生究極の目的なのである。
真剣な聴聞により、必ず後生の一大事は解決できる。
一日も片時も急いで、一大事を解決し、
お礼の念仏を称えられる身に早くなってもらいたい、
というのが、
「白骨の章」にこめられた蓮如上人の願いなのである。


阿弥陀仏のご恩を知らされた人は・・・ [蓮如上人]

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如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
      (親鸞聖人)

浄土真宗で有名なこの恩徳讃は、
親鸞聖人が29歳の御時、法然上人に導かれて
阿弥陀仏に救われたみ心を詠われたものである。

「親鸞を真実の幸福に救い摂ってくだされた阿弥陀如来の大恩、
そこまで導いてくだされた師主知識(仏教の師)のご恩は、
身を粉にしても、骨を砕いても報ずべし、謝すべし」
と仰っている。

身を粉にすれば、骨を砕けば死んでしまうが、
露の命を投げ出しても報いねばならない、広大無辺なご恩を、
阿弥陀仏に、善知識に感じておられるのだ。
これは一人、親鸞聖人のみのことではない。
阿弥陀仏の本願に救われた人(信心決定した人)に、
等しく生ずる心である。

釈迦弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智恵に入りてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
      (親鸞聖人)

一命を投げ出しても、との激しい報恩の心は、他にない。
我々も人生の途上、種々の人々からご恩を受ける。
難病を救ってくれた医師、
命がけで愛育してくれた両親、
苦境に救いの手をさしのべてくれた友人、
このような人に感謝の心が湧くが、
死んでもご恩返し、とまでは思わない。
百億円もらっても、死んでもご恩に報いようとは思えない。
しかし、阿弥陀仏に救われたら、
この命投げ出しても、との恩徳讃の心になるのだ。

●生命を賭して報ゆ
    本光房了顕の殉教

恩徳讃が単なる形容詞ではない実例をあげてみよう。
800年前の浄土真宗の歴史は、
恩徳讃を地でいった先哲が多いが、
中でも強烈な感動を受けるのは、
本光房了顕の報恩殉教であろう。

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真宗8代目善知識・蓮如上人が、越前国(福井県)吉崎に、
御坊を建立して北陸一帯を布教しておられたときのことである。
蓮如上人61歳の文明6年3月28日。
吉崎御坊が門前の本覚寺より発した火のために類焼してしまった。
このとき、火の回りが早くて蓮如上人の居間に安置されていた
真宗の根本聖典『教行信証』六巻の中、
証の巻一巻だけは取り出すことができなかった。
上人はじめ一同は、宗祖聖人のご真筆を焼失しては一大事と案じたが、
時すでに遅く、手の施しようがない程に火が回っていて、
どうしようもなく、人々はただウロウロするばかりであった。


●燃えさかる火中へ

この時だ。
門弟の一人が脱兎(だっと)の如く、
燃え狂う火中に飛び込んでいった。
本光房了顕である。

もしここで『証の巻』が失われてしまったら、
末代の衆生の救いの道が閉ざされてしまう。
本光房は事の余りの重大さに驚き、
身の危険を思う暇もなく飛び込んでいったのだ。

渦巻く黒煙に方向を誤り、
焼け落ちる瓦に打たれて、なかなか進むことができなかった。
やっとのことで上人の居間にたどり着き、
机上にまだ無事に横たわっている一巻をしっかりつかんで、
さて出ようとしたときはすでに八方、
火の海、到底、脱出不可能になってしまった。
今はこれまで、と覚悟した本光房了顕、

「自分はどうなってもかまわないが、
この親鸞聖人のお命、
末代衆生の唯一の灯炬(とうこ)たるお聖教だけは、
何としても護り通さねばならぬ。
万一のことがあっては、如来聖人さまに対して、
また善知識蓮如上人さまに申し訳がたたぬ。

しかし、この炎の中で、どうしたら、ご真筆を護り切れるか」

●『証の巻』を内蔵深くへ

思案の末に、
「この方法しかない。我が血潮でお聖教が汚れるが、
それはやむを得まい」

と決心したのは、自らの腹を十文字に切って、
内蔵の水分をもって『証の巻』を火炎から護ろうという非常手段であった。

正座した本光房の脳裏に、蓮如上人との出遇い、
聞法の日々がよみがえった。
蓮如上人に最後の別れを告げる了顕であった。

「お師匠さま、本光房了顕、
阿弥陀仏の本願に救われた幸福者でございます。
もし、お師匠さまにお遇いできなければ、
この世も未来も、地獄でございました。
やがて死にゆく露の命、法(のり)のために捨つるは本望でございます。
必ず『証の巻』護り切り、お手許にお届けさせてみせます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」

静かに念仏を称え了顕は持参の短刀で腹を十文字にかき切って、
その中に『証の巻』をねじ込む。
さらにそれを護るように二つ折りになって倒れたのである。
「上人さまー。上人さまー」
了顕の声は容赦なくふり注ぐ火柱の中に小さく消えていった。

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●血染めの聖教

吉崎御坊はそのまま全焼し、
蓮如上人は『証の巻』と本光房了顕を失った二重の悲しみに
深く沈んでおられた。
一夜明け、ようやく猛火もおさまった焼け跡を片づけていた人々が、
上人の居間近くに、黒こげの死体を発見した。
本光房である。
無惨な遺骸をよくよく調べてみれば、
腹部あたりから血に染まった『証の巻』が発見されたのである。
『証の巻』は本光房の命と引き換えに護られたのだ。

蓮如上人は遺骸をなでながら、
「了顕よ、けなげであった。
如来の大悲を身を粉にして報じた汝の行為は、
親鸞聖人の教えのままの菩薩行であったぞ。
汝の精神は、汝が身をもって護ったこのお聖教と共に
永遠に未来の衆生を救い、
人々の幸せの灯炬となるであろう」

と、生ける人に対するごとく感嘆せられ、厚く葬られた。
本光房の墓は今も吉崎の地にある。
この『証の巻』は「腹ごもりの聖教」
または「血染めの聖教」と言われている。

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●未来永劫の一大事
     苦から苦への綱渡り

どうして阿弥陀仏に救われた人には身を粉にしても、
恩徳讃の心が湧き上がるのか。
それは、阿弥陀仏に、我々の未来永劫の後生の一大事を
救われるからである。

では、後生の一大事とは何か。
生ある者は必ず、死に帰する。
死ねばどうなるのか。
生きるためには仕方がないと、
罪悪を造り通しで生きている全人類は、
因果必然の結果として、死後、必ず無間地獄に堕ちて、
八万劫中大苦悩を受けねばならない。
これを後生の一大事という。

釈尊は経典に「必堕無間」と説かれ、

親鸞聖人は、

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなく受くとぞ説きたまう
         (正像末和讃)
と仰せられている。

後生未来が暗いから、臨終になると真っ暗な心になってしまうのだ。
『大無量寿経』に釈尊は、我々の流転の実相を
「従苦入苦 従冥入冥」と説示なされている。
「苦より苦に入る」とは、
この人生も苦悩の連続、死後も更に大苦悩の地獄に堕つる意である。
「冥(やみ)より冥に入る」とは、
臨終になれば後生が不安になり、暗くなり、闇に閉ざされてしまう。
そして、暗黒の後生へ入ってゆかねばならない我々の相(すがた)である。

●諸仏にも捨てられた

そのような我々衆生をご覧になって十方世界の諸仏、
諸菩薩、諸神が、大慈悲をもって助けようとしてくだされた。
しかし、我々の罪が余りにも重く、
諸仏、菩薩もサジを投げてしまわれたのである。

蓮如上人はこれを経典にもとづき、
次のようご教示なされている。
「それ十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人も
五障三従(ごしょうさんしょう)の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願にもれて捨て果てられたる
我等ごときの凡夫なり」
             (御文章二帖八通)
十悪五逆の罪人、五障三従の女人とは、
罪悪深重な我々のことである。
諸仏がアキれて逃げた我々の実相とは、
無常を無常とも思わず、悪を悪とも思わない。
地獄と聞いても皿一枚割ったほども驚かず、
極楽と聞いても千円札一枚もらったほどにも喜ばない。
後生の一大事を一大事とも思わない。
借金苦で寝られないことがあっても
後生の一大事が心配で寝られないということはない。
そのような煮ても焼いても食えないような
シビれ切った心を持っているのだ。

●阿弥陀如来一仏に

すでに三世の諸仏に愛想をつかされ、
逃げられてしまった我々だが、
そのような極悪人を、なお可愛いと、
救済に立ち上がってくだされた方が、
阿弥陀如来なのである。

蓮如上人にお聞きしてみよう。
「しかればここに弥陀如来と申すは
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば、
弥陀に限りて『われひとり助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を『平等に救わん』と誓いたまいて、
無上の誓願を発して、すでに阿弥陀仏となりましましけり。
この如来をたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つも有るべからざるものなり」
             (御文章二帖八通)
阿弥陀仏は諸仏菩薩の師匠であり、王である。
ゆえに、弟子の諸仏の手に負えない極悪人を、
阿弥陀仏ただ一仏が
「どんな人をも必ず、絶対の幸福に助ける」
と誓って下された。

●極悪人を助ける思惟
    気の遠くなる長年月に及ぶ

いかにして救うか。
阿弥陀仏が思惟(しゆい)に思惟を重ねられた期間は、
実に五劫に及ぶ。
一劫が4億3千200万年だから五劫とは、
気の遠くなるような長年月である。
そうして建てられた誓願が、阿弥陀仏の本願である。
これは真実である。

阿弥陀仏に救われた時には、
この五劫思惟のご恩徳を知らされる。

親鸞聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
たすけんと思召したちける本願のかたじけなさよ」
             (歎異抄)
と、感泣しておられる。

「阿弥陀仏の五劫思惟なされた本願は、
まったく親鸞一人を救わんがためだった。
限りない悪業をかかえている親鸞を助けようと
誓って下された弥陀のご恩の深重なることを知らされ、
泣かずにはおれない」

阿弥陀仏は「すべての人々を救う」と誓っておられるのに、
聖人は「親鸞一人がためなり」と味わわれた。
「祭りには 皆とは言えど 気は娘」という句がある。
祭りで娘の嫁いだ先へ招待に行くとき、
「皆さんでどうぞ、おいで下さい」と言うが、
内心は娘一人で来てもらいたいのだ。
そうした親の本心を知らず、娘だけでなく、
姑や小姑までがゾロゾロついて行ったら、
たちまち御膳の数が狂って、相手方に迷惑をかけてしまう。
親の本心はあくまで、娘一人が可愛いのである。
「すべての人を助ける」と言われる阿弥陀仏の本心を知らされた人は
「私一人が正客であった、かたじけない」
と叫ばずにはおれないのだ。

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●兆載永劫のご修行

しかも、阿弥陀仏のご苦労は五劫思惟にとどまらない。
続いて兆載永劫のご修行をして下されている。
五劫思惟の願と兆載永劫のご修行の関係をたとえれば、
願は船の設計図、兆載永劫のご修行とは、
設計図にもとづいての造船作業である。

これらの大変なご苦労も、
私一人を救わんがためのものであったと、
後生の一大事、阿弥陀仏に救われて、
いつ死んでも浄土往生まちがいなしの身になったとき、
初めて知らされる。

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親鸞聖人の生涯の師、法然上人は、
『大無量寿経』を念誦(ねんしょう)されるとき、いつも、
この五劫思惟、兆載永劫の御文に感泣なされていたという。
あるとき、弟子がそれをいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然房、十悪の法然房を助けんがために、
五劫の間、思惟して下されたと思えば、
お慈悲の程が身に沁みて、涙がこぼれる」
と仰せられたと記録に残されている。

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蓮如上人のお弟子として有名な赤尾の道宗にもこんな話がある。
道宗の体には、いつもところどころに傷や青いあざがあった。
それは、毎晩、寝床に48本の割木を並べていたからであった。
自分のようなしぶとい人間は、
布団の上に安楽に寝ておったのでは、
五劫思惟、兆載永劫と、
大変なご苦労をして自分を救い賜うた阿弥陀如来のご恩を
ご恩と思わず過ごしてしまう。
せめて眠りにくくして阿弥陀仏のご恩を
偲ばせていただこうと思っている

との道宗の自戒であった。

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●真剣な聞法を

八万劫中大苦悩の無間地獄に堕つる後生の一大事を助けていただき、
永遠の生命を頂いていつ死んでも、浄土往生。
そして弥陀同体の仏の覚を開かせていただくのだ。
露の命を法のために幾度捨てようとも
報い切れない広大無辺な阿弥陀仏のご恩を知らされ、
九牛(きゅうぎゅう)の一毛なりとも
報いようと全力をあげずにおれないのだ。
真剣な聞法に身を沈め、一日も早く、法然上人や親鸞聖人、
本光房了顕や赤尾の道宗のように
恩徳讃を心から歌える信心決定(しんじんけつじょう)の身と
ならねばならない。


釈迦の説かれた経典を読み破るとは・・・ [蓮如上人]

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(蓮如上人・親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すかのごとく正確に、日本中に広められた高僧)


浄土真宗でもっとも大切なことは、
信の一念である。
「信の一念」とは、平生に阿弥陀仏の本願に救い摂られて、
現在ただ今が、光明の広海、絶対の幸福になった瞬間の体験をいう。
「一念」とは、「時剋の極促」きわめて短い時間である。

蓮如上人は『御文章』の五帖目二通に、
「あながちにもろもろの聖教を読み、
物を知りたりというとも、一念の信心のいわれを知らざる人は
徒事(いたずらごと)なりと知るべし」

と仰せられ、万巻の仏教書を読破した大学者といえども、
阿弥陀仏に救われた信の一念の体験がなければ、
いたずら事
だと、言い切っておられる。

それをまた、
「それ八万の法蔵を知るというとも、
後世を知らざる人を愚者とす。
たとい一文不知の尼入道なりというとも、
後世を知るを智者とす」
と、五帖目二通で仰せられ、
釈尊の遺された経典のすべてを読破しても、
信の一念の体験がなければ愚者であり、
無学文盲の人といえども、弥陀の本願に救われて
「いつ死んでも浄土往生間違いなし」
と後生未来のはっきりしている人こそが、
真の智者である
と仰った。

信の一念を体験した真の智者には、
体験のない学者は到底、太刀打ちできない。

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一休さんは蓮如上人には勝てなかった!? [蓮如上人]

(蓮如上人)

Rennyo5_1


あわれあわれ、存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり
                     (蓮如上人)
哀れだ、不憫だ、死後では間に合わぬ、
生きている間に仏法を聞き求め、
みな一人残らず、信心決定してもらいたい

蓮如上人、最晩年に書かれたお手紙の一節です。

蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを自分の考えを一切入れず、
一器の水を一器に移すかのごとく、正確に全国に広められた
高僧です。
親鸞聖人、蓮如上人のお二方のお叫びは、
みな一人残らず信心決定してもらいたい、これ以外にはありませんでした。

信心決定とは、仏法を聞き求め、平生のうちに阿弥陀仏の本願に救われ、
無碍の一道に出ることです。
無碍とは、一切の碍り(さわり)が、碍りにならない世界をいいます。
死も碍りとならない不変不壊(ふへんふえ)の絶対の幸福のことです。
名声、地位、権力、世の栄耀栄華も、死の巖頭(がんとう)に立てば
三文の価値もない。
一切の喜びはくずれてしまう。
ところが、弥陀の本願に救われた喜びだけは、
死も碍りにならず、金剛不壊なのです。

信心決定せよ、無碍の一道に出よ、絶対の幸福になれ、
親鸞・蓮如両聖人に一貫したご教示です。

なぜ、それほどに。理由があるのです。
「この信心を獲得せずは、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
                   (蓮如上人・御文章)
信心決定せずに死ねば、弥陀の浄土に往生はできず、
必ず、無間地獄に堕つるのだ。

これを後生の一大事といいます。
一大事の解決には弥陀の本願に救われるしかないから、
「一日も片時も急いで信心決定せよ」と説かれているのです。

真宗道俗の中には、これに反発して、
「阿弥陀仏は大慈大悲の仏、我々を地獄に堕とされるはずがない。
信心決定した人だけを浄土に救うなどと、差別されない。
平等の慈悲を持っておられるはずだ。」
と猫も杓子も、みな死んだら極楽、死んだら仏と思っている人が多い。

阿弥陀仏の慈悲は平等でありながら、何故に救いに前後ができるのか。
その疑問を蓮如上人に投げかけたのが、禅僧一休でありました。


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