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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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どんな極悪人をも救い切る弥陀の本願力 [阿弥陀仏]


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

       (正像末和讃)

阿弥陀仏には、どんな極悪人をも救い切る、
ものすごいお力があると教えられた親鸞聖人の「ご和讃」です。

●「願力」=「阿弥陀仏の本願力」

初めの「願力」とは、“阿弥陀仏の本願のお力”のこと。
阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏から本師本仏と仰がれる最尊第一の仏さまで、
釈迦の経典には、
   阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ、
と説かれています。蓮如上人も、

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや。
この謂を以て、よくよく心得べし

        (御文章二帖目九通)
と阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、
懇ろに教導されています。

次に「本願」とは、「お約束」のことです。
だから「誓願」ともいわれます。
本師本仏の阿弥陀仏は誰と、どんなお約束をなさっているのでしょうか。
阿弥陀仏の約束の相手は「十方衆生」。
十方とは仏教で大宇宙をいい、
衆生とは生きとし生けるものすべてのことですから、
古今東西のすべての人と弥陀は約束されているのです。
弥陀のお約束の相手に入らない人は一人もありません。
大日如来や薬師如来など、大宇宙に無数の諸仏がおられても、
「われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して」(御文章二帖目八通)くだされている仏は
阿弥陀仏だけですから、弥陀の本願のみを
「弘誓(弘い誓い)」といわれるのです。
その弥陀のお約束を平易に表現すれば、次のようになりましょう。

「どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に」

古今東西の全人類を、必ず絶対の幸福(往生一定)に救ってみせる、
と誓われているのです。
こんな素晴らしいお約束は他には絶対ありませんから、
『正信偈』に親鸞聖人は、「無上殊勝の願(この上ない殊に勝れたお約束)とも
「希有の大弘誓(大宇宙に二つとない素晴らしいお誓い)」とも言われています。

蓮如上人は『御文章』に阿弥陀仏の本願の偉大さを、
諸仏の本願と比較して、こう教えられています。

抑(そもそも)、諸仏の悲願に弥陀の本願の勝れましましたる、
その謂を委しく尋ぬるに、既に十方の諸仏と申すは、
至りて罪深き衆生と、五障・三従(ごしょう・さんしょう)の女人をば、
助けたまわざるなり。
この故に「諸仏の願に阿弥陀仏の本願は勝れたり」と申すなり

                    (御文章三帖目五通)

私たちは、極めて罪深い者(至りて罪深き衆生)であるから、
大宇宙の仏方は助けることができなかったのだ。そして次に、

さて、「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらざず助けたまえる大願なり

                    (御文章三帖目五通)
と言われています。

ここで「十悪・五逆の罪人」とは、
仏さまの眼からごらんになった古今東西の全人類の姿です。
“罪人”と聞くと、窃盗、横領、恐喝、殺人罪など、
法律を犯した人のことだと思われるでしょうが、
ここでいわれる「罪人」はそれだけではありません。
すべての人を“罪人”と言われているのです。
「警察に捕まるようなことはやっていないのに、
どんな罪を犯したというのか」と、反発したくなりましょう。
それは、仏教で説かれている「十悪」「五逆罪」を犯した罪人である、
と仰せです。

●全人類の罪・・・十悪

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
その中の一つ、「殺生罪」は生き物を殺す罪です。
人を殺せば刑務所行きだと誰でも分かりますが、
牛や豚、鶏や魚を食べたり、ハエや蚊を駆除したりするのは、
「仕方のないこと」と、誰も悪いとは思っていない。
しかし、どんな生き物も死が苦しみであることは
我々と変わりません。
捕まえた鶏がバタバタもがくのも、
漁船の甲板で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
それを「活きがいいなぁ」「こりゃ、うまそうだ」と、
人間は好んで食べる。
殺される生き物たちは、人間は何と残酷なものか、
と強く呪って死んでいるに違いありません。
お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」
と教えられています。
人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、
相手が動物でも虫でも、殺生は恐ろしい罪なのです。

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●全人類の罪・・・五逆罪

「五逆罪」とは、仏教で地獄行きの五つの恐ろしい罪をいい、
中でも最初に挙げられるのが親殺しです。
赤ん坊の頃は、昼も夜もお乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらいました。
病気になった時、寝ずに看病してもらった人もあるでしょう。
離れて暮らせば、「元気でいるか」「しっかり食べているの?」
「いい友達できた?」と、いつも心配してもらって、
私たちは成長してきたのです。
今年の八月、若手俳優が暴行容疑で逮捕され、
女優の母親が、多くの報道陣を前に謝罪会見したことが
テレビで報じられた。
38歳で生んだ息子は、アトピーやぜんそくもあって病気がち。
救急車で病院に連れていくこともたびたびあったという。
女優として働きながら、女手一つで育てた息子がようやく成人。
俳優として人気が出始め、まさにこれからという時の逮捕だった。
そんなことになっても、母親は、
「私はどんなことがあってもお母さんだからね」
と、警察署で面会した息子に語ったといいます。
わが子を慈しむ親心に、息子は何を感じたでしょう。

そんな大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。
ところが、親鸞聖人は、

親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)

と教誨(きょうかい)され、親をそしるのも五逆の罪なのだと
言われています。

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「うるさいな!」「あっちへ行け!」と暴言を吐くのは無論ですが、
「いつまで生きるつもりなのか」と、
年老いた親を邪魔に思うだけでも
親殺しの五逆罪だと戒められているのです。

果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。

ある生命保険会社が制作したCM。
画面には「2分9秒38」という時間が表示されている。
東京に上京し、家庭を築き、忙しくも充実した生活を送る男性。
仕事のことばかり考える毎日の中で、
時折、かかってくる母親からの電話。
「何?今、会議中だからさ・・・」
とすげなく切る。
両親が息子の顔を見に東京に来てくれる。
母親が畑の野菜で作った漬物を渡そうとすると、
苦々しい表情で、「これ持って得意先に行けないよ」
と受け取らない。近況を尋ねる両親に、
「悪いけど俺、時間がないんだ」
と、急いで立ち去る息子を母親が呼び止める。
「次はいつ話せるの?」
男性は、何を言っているんだ、という顔で、
「また、いつでも話せるだろ」と一言。
「2分9秒38」は、男性が3か月で両親と話した合計時間。
そのままの関係が続けば20年でたったの3時間しか
会話しないことになる。
親子のつながりを見直すことを訴えかけるCMだった。
四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、
自分がどれほど心をかけ、大事に思っているか。
会話さえも煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。
反省させられる内容でした。

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7月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組では、
介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートし、
大きな反響を呼びました。
認知症になった母親と同居し、
11年にわたって介護を続けている50代の男性は、
当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。
一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、
今は母親の年金で暮らしている。
「いちばんつらいのは自由がないこと」
「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」
と介護の苦衷を漏らす。
5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、
倒れている母親を前にして呆然と眺めていたという。
「このまま放置して、おふくろがいなくなれが介護が終わる。
やっと自由になれる・・・」
そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を
強く後悔しながら告白していました。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)

「縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ」と親鸞聖人は仰っています。
何をしでかすか分からない業縁を、どんな人も持っている。
私たちは、そんな「十悪・五逆の罪人」だから、
大宇宙の仏さまは、これではとても助けることはできぬ、
とさじを投げてしまわれたのです。

●「どんな極悪人も助ける」本願

では、我々は助からないのでしょうか。
そうではありません。蓮如上人の『御文章』を再度、
拝読しましょう。

「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらさず助けたまえる大願なり

              (御文章三帖目五通)

こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、
救わずにいられないと、ただ一人、立ち上がられた仏が
大慈大悲の阿弥陀如来なのです。
このようにして建てられた弥陀の本願を『歎異抄』には、

罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にてまします

と教えられ、阿弥陀仏は、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の激しい、
最も罪の重い極悪人を助けるために本願を建てられたのだよ、
と言われています。
そして、弥陀がどんな極悪人も救いお誓いを建ててくだされたからこそ、
親鸞は救われた。
無量の悪業をもった親鸞一人を助けんがためのご本願であった、
と聖人は、弥陀の本願力不思議に、こう感泣なされています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)

大宇宙の諸仏も見捨てた極悪の親鸞を、
救い摂ってくだされたのは、
弥陀の無限の本願力以外になかった、と知らされて、

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず

と、ご和讃に褒めたたえられているのです。

●「決して見捨てはしない」

仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

と仰っているのは、「仏智」とは、阿弥陀仏のお力のこと。
その弥陀のお力が「無辺」であるとは、限界がないということです。
「散乱放逸」とは、思いに任せて悪を、やりたい放題、
やり散らしている我々の実態を仰ったものです。
そんな箸にも棒にもかからぬ極悪人が十方衆生(すべての人)だから、
大宇宙の諸仏はあきれて逃げたのです。
しかし、弥陀はそんな私たちを、「決して見捨てはせぬぞ」と、
底なしの大慈悲心で無上の誓願を建立してくだされた。
その弥陀の本願力によって平生ただ今、
救い摂られたことを親鸞聖人は、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証)
ああ、阿弥陀仏の摂取不捨のお約束、
まことであったなあ

と宣言されています。

罪業は深重、散乱放逸で大宇宙の諸仏に
見捨てられた自己の真実と、そんな私を「必ず救う」弥陀の本願を、
疑いなく信知させられた表明です。
“十方衆生(すべての人)が極悪人とは、おかしい”
“諸仏に捨てられたって?そんな悪人とは思わない”
“私のような者は救われないのではなかろうか”
と思っているのは、すべての人を罪業深重・散乱放逸と見て取られ、
無窮の願力と無辺の仏智で「必ず助ける」と誓われた本願を、
真っ向から疑っている証です。
この本願に対する疑心を本願疑惑心とか、疑情とか、
自力の心、不定の心ともいわれます。

このような疑心がツユチリほどでもある間は
救われていないのであると、蓮如上人は、

これ更に疑う心露ほどもあるべからず
            (御文章五帖目二十一通)
と明らかにされています。そして、

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候
 
        (御文章一帖目六通)
本願に疑い晴れていなければ、
必ず、後悔するであろう

と教誡されています。

「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」と、
本願疑惑心(自力の心)が浄尽し、
絶対の幸福(往生一定)に生かされるまで、
仏法を真剣に聞かせていただきましょう。
    


 


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阿弥陀仏の本願 [阿弥陀仏]

IMG_20150524_0046.jpg-1.jpg(平成10年6月号『とどろき』より載せています。) 

都会の人は可哀想である。
満天に、無数にきらめく星空を、
スモッグのためになかなか見られないからだ。
そこへゆくと、このチューリップ企画本社ビルのある
富山県大島町などはよい。
見上げれば、雄大な世界に吸い込まれるかのように思える。
わずかな土地を奪い合い、裁判沙汰になったり、
戦争まで起こしている人間社会がバカらしくなるではないか。
大宇宙から見れば、地球は星クズの一つに過ぎず、
その中にうごめく人間は、なんと表現したらよいのだろう。
かまびすしく鳴くセミも、
地上へ出て一週間で死ぬと言われる。
日本人ならば人生八十年、しかし宇宙の生命と比べれば、
それがどうした。
セミよりもはかない、一瞬のできごとではないか。

「悠々たるかな天壌
遼々たるかな古今
五尺の小軀をもって
この大をはからむとす。
ホレーショの哲学、
ついに何等の
オーソリティに
価するものぞ。
万有の真相は
唯一言にして悉す。
曰く『不可解』。
我この恨みを懐いて煩悶
ついに死を決す」

明治36年5月22日、日光・華厳の滝に投身自殺した、
藤村操の遺言である。

IMG_20150524_0010.jpg-1.jpg-2.jpg

旧制一高で西洋哲学を学んでいた18歳の藤村操が、
巌頭の大樹の幹を削り、書き残したので、
「巌頭の感」と言われる。
二ヶ月後、滝壺で遺体が発見されると、
一大センセーションが巻き起こった。
明治初期、「デカンショー、デカンショーで半年暮らす」
とうたいはやされるほど、
西洋哲学は熱狂的に受け入れられた。
「デカンショー」とは、デカルト(仏)、カント(独)、
ショーペンハウエル(独)という高名な哲学者の名前から
作られた言葉である。
彼らの哲学を学んで半年、残りの半年は寝て暮らすという、
当時の学生気質だった。
ところが、西洋哲学を学んだ天才青年の結論は、
どうだったか。

「悠々たるかな天壌」
人間の存在に比べれば、あまりにも大きな天地自然。
「遼々たるかな古今」
はかない人間の寿命に比して、宇宙の歴史は悠久である。
「五尺の小軀をもってこの大をはからむとす」
五尺の身体で人生の意義を考えてみた。
「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」
西洋哲学は、私に何も教えてくれなかった。
「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』」
結論はただ一言、「人生は不可解」である。
この一瞬の人生、何のために生まれてきて、
なぜ生きるのか、生きねばならないのはなぜか。
「生きる目的は不可解である」と、
藤村操は言いたかったのだ。

以後、人生に悩む青年が後追い自殺を繰り返し、
4年間に185人もが、華厳の滝へ投身している。
「哲学を学ぶと自殺する」とまで言われ、
親は子に哲学をさせないようにしたという。

●伝染する自殺

藤村操の例からもわかるように、自殺は伝染する。
ペスト(黒死病)は、ネズミを媒介として大流行した。
自殺はマスコミが媒介する。
報道が自殺志願者を駆り立て、実行へ走らせるのだ。

昭和61年に、アイドル歌手だった岡田有希子が、
18歳で7階建てのビルから飛び降りたときも、
後追いと見られる遺書を残し、
少年少女が次々と自殺した。
この年の日本の自殺者は、2万5000人を突破している。

IMG_20150524_0010.jpg-0.jpg

さらには今年五月、人気ロックバンドのメンバーの自殺でも、
後追いが見られた。
それだけ、自殺志願は多いのだ。
1日65人に上る自殺者の陰で、
その4倍とも10倍とも言われる未遂があり、
さらに機会あらば自殺したいと思っている、
危険性の高い(ハイリスクの)人がいる。
これらの人が、有名人などの自殺を聞き、
「私も同じ場所で・・・」と思うと、
たちまち自殺の名所ができてしまう。
報道各社も、気を使っているようだが、
「『なぜ生きるか』が不透明」という、
人間存在の根底にあるテーマに、
斬りこむジャーナリストはいない。

●自殺者は大バカ者
    死後に待つ地獄の苦

仏教では、自殺者は愚か者と言われる。
ある日、釈尊が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりはばかりながら一人の娘が、
袂(たもと)へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。
「お恥ずかしいことですが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと、
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま、見逃してくださいませ」
泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思われながらも、
厳然と仰せられた。
「お前は何というバカ者なのか。
お前には譬えをもって教えよう。
ある所に、毎日荷物を満載した車を引かねばならない牛がいた。
牛はなぜ、こんなに苦しまねばならぬのか、
オレを苦しめるものは何かと考えた。
そのとき、この車さえなければ苦しまなくてもよいと
思い当たったのだ。
ある日猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまった。
ところが牛の使用人は、
やがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだった。
今までの車の何百倍、何千倍も重い。
牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。

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お前は、肉体さえ壊せば楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からぬだろうが、
地獄の苦は、この世の苦しみぐらいではないのだ」
釈尊は諄々と、地獄の苦しみを教えられた。

娘は初めて知る真実の仏法に驚き、
仏門に入って救われたという。

●星空の説法
    真に意義ある人生に

私たちの後生にも、
「必堕無間」
の一大事が待っている。

「必ず、無間地獄という苦しみの世界に堕つる」
と仰有った。経典のお言葉だ。
これを「後生の一大事」という。

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのか。
それは暗い心で、悪のタネまきしかしていないからである。
仏教の根幹は、因果の道理。
道理とは、三世を貫き(いつでも成り立つ)、
十方を普く(どこでも成り立つ)真理をいう。
何万年前も、何万年後も、
また宇宙のどこへ行こうとも、
因果の道理は正しいのだ。
因果とは、原因と結果のことで、
原因なしに現れる結果はありえない。
結果に対しては、必ず原因を追求するのが仏法である。
原因と結果の関係は、
善因善果 
 悪因悪果 
 自因自果

と釈尊が仰る。
善い行いをすれば必ず、善い結果が返ってくるが、
悪い行いには、必ず悪い結果が引き起こる。
自分のやった行為は、善きも悪きも、
自分に結果をもたらすから、
自業自得とも言われるのだ。

一息切れた後、堕ちねばならぬ地獄という悪果は、
間違いなく、わが身がまいたタネの結果である。

そして、後生の一大事を解決することが、
人間に生まれてきた目的だ。

いかに苦しくとも、自殺してはならない理由も、ここにある。
国会議員も日銀理事も、自殺してしまう。
銀行の貸し渋りで経営破綻に追い込まれれば、
妻子を残して中年男が3人、そろって首吊りしたではないか。

すべてこれらは、
「なぜ生きるか」の人生の目的を知らぬからである。
「天上天下、唯我独尊」
「天の上にも天の下にもこの大宇宙で、
唯、私たちに、たった一つの尊い目的がある」と、
釈尊は道破せられた。
私たちも同じように、生きる目的を持っている。
後生の一大事を解決し、
絶対の自由の世界に生かされることだ。
宇宙の真理である因果の道理に従って、
悪しかできぬ自己を徹見せねばならない。
後生の一大事の解決という大目的に向かってこそ、
一瞬の人生が、真に意義あるものとなる。
美しい星空が、悠遠な彼方より全人類へ、
生きた説法をしているのだ。

●2600年前、驚異の仏知見
    仏教の大宇宙観

古来、人々が夜空を見上げ、
輝く星々に思いをはせてきた大宇宙は、
我々の想像をはるかに絶する広大さである。
現在なら小学生でも知っているような銀河や銀河団などの知識も、
決して、昔からあったものではない。
概して言えば、近代科学が誕生した
16世紀以降の天文学者らによって得られたものだ。
だが、この天文学的知識を、
2600年前の昔に知見されていた方があった。
物理学者や天文学者らが驚嘆するような卓越した宇宙観を、
釈尊はすでに展開されていたのだった。

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ここで仏教の宇宙観を述べる前に、
人類の歴史を少し顧みよう。
近代科学は、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイらが
活躍した16世紀のヨーロッパで生み出された。
当時の西洋世界は、
キリスト教が人も思想も支配する社会であった。
当時の宇宙観は天動説(地球中心説)に立脚していた。
すなわち地球は宇宙の中心であり、
太陽などは、その周囲を回るという考えである。
この説は、『聖書』の字句に合致する理由で、
多くのキリスト教に信じられてきた。
ところが、科学が進歩し、望遠鏡が発明されると、
地動説を唱える天文学者が現れはじめ、
教会は、権力で彼らを徹底的に弾圧した。
コペルニクスの唱えた地動説に深く傾倒したジョルダノ・フルーノは、
宗教裁判のかけられ、7年間、投獄された後、
焚刑に処せられている。
同様に、宗教裁判で、ガリレオ・カリレイは地動説の放棄を命じられた。
しかも、残る生涯をフィレンチェ郊外アルチェトリにある自宅で
幽閉の身となって過ごさなければならなかった。
このように、教会の激しい抵抗を受けたのである。
しかし、今では、誰も地動説を疑う人はいない。

●天文学者も驚嘆

次に、仏教の宇宙観を示そう。
仏教では、人間の生息する世界(地球のような惑星)を、
須弥世界という。
その須弥世界が、千(無数の意)集まった世界を、
小千世界という。
その小千世界の千集まった世界が中千世界であり、
中千世界の千集まった世界が大千世界である。
これら小千世界、中千世界、大千世界を、
三千大千世界と称するのである。
さらに釈尊は大宇宙を、十方微塵世界と説かれている。
略して、十方世界ともいう。
例えば、
「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏
悉く咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ」
           (大無量寿経)
「光明偏く十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
         (観無量寿経)
などと用いられる。
ここで十方とは何か。
東西南北の四方に、北東、北西、南東、南西を加えて八方、
さらに上方と下方を加えると十方となる。
一般的に、東西南北上下四唯と呼んでいるものだ。
次に、微塵とは、文字通りに、微かな塵の意。
つまり、大宇宙は、東西南北上下四唯の十方に、
前述の三千大千世界が、
空中に塵が浮くように存在していると説かれているのだ。
何とも広大なスケールではないか。

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ここで対比のため、現代天文学による宇宙観を述べよう。
太陽の回りを、水星、金星、地球、火星などが、
それぞれの周期で回っている。
これを太陽系宇宙という。
太陽系は、自ら光を放って位置を変えない太陽のような恒星、
地球のように、その回りを公転する惑星、
さらには惑星の周囲を回る衛星(月)などで構成されている。
太陽系を直径200メートルの円とすれば、
地球は1ミリに満たぬ粒に過ぎない。
人類は、月に氷があるらしいとようやく分かったり、
せいぜい火星の表面を撮影しているに過ぎず、
太陽系さえも、未知なる世界である。
ところがさらに、地球109個分の直径をもつ太陽を
直径1センチの球とすると、
最も近い恒星(隣の太陽)ケンタウルス座アルファ星までの距離は、
約290キロ(東京~名古屋間)になる。
これだけでも、宇宙がいかに果てしないか、分かるだろう。
この広大無辺な宇宙空間で、
星は、一様に分布していない。
無数の星々が集まり、銀河と呼ばれる集団を作っている。
大宇宙には、アンドロメダ銀河や大マゼラン雲のほかにも、
無数の銀河が存在する。
我々の太陽系が属する銀河系も、その中の一つだ。
我々の銀河系は、直径10万光年で、
その中には、太陽のような恒星が2000億個ある。
さらに、銀河は集まって銀河団を作っている。
また、銀河群より大きな銀河集団の名称として、銀河団がある。
これら銀河群や銀河団は集合して、
直径3億光年ほどの超銀河団を形作っている。
しかしながら、150億光年といわれる大宇宙の広がりには、
まだほど遠い。
現代天文学は、仏教の宇宙論に酷似していると知らされる。
釈尊が、この大宇宙について説かれたとき、
当時、何人が理解できただろうか。

今日、目覚ましい観測機器の発展で、
ようやく十方微塵世界の概念が認識できたかどうかと思われる。
物理学者や天文学者が、
仏説の深遠さを驚嘆せざるを得ない理由は、ここにある。

●釈尊の師
   阿弥陀如来

次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、
無数の惑星があり、我々と同じような生命が存在と説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの仏がましまして、
真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来、仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類史上最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。
本師本仏の阿弥陀仏は、悪因悪果で必堕無間の十方衆生を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。

●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
       (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感涙なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3200万年の五倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。
親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで
落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる」
と仰せられたという。

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阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
御恩に報いようと恩徳讃の心になる。

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
      (親鸞聖人)
インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、中国では曇鸞大師、
道綽禅師、善導大師、日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も親鸞聖人と同じく
「弥陀五劫思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた歴史の生き証人である。

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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず

では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べておられる。
「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)
「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我等十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩に喘ぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら生きている衆生が限りなくいる。

これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。
そんな我々を大宇宙にまします無数の諸仏が
大慈悲心を起こして何とか助けてやりたいと
立ち上がってくだされた。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、十方衆生である。
諸仏は我々の「屍の心」にアキレテしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かってはウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。

●法蔵菩薩の願い

ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置していけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。
「しからば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられらる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
         (御文章二帖八通)
阿弥陀如来は、十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、大慈悲を起こして、
十方衆生救済に立ち上がってくだされたのである。

そのために、仏の位から、菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に自らの願いを申し出られた。
「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、
無常を無常とも思わず、悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走を見せて逃げているのだ。

そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、
十方衆生は、永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんなに苦難に身を沈めても後悔致しません。
どうか、助けさせてください」
法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人の人間が升でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を
体を濡らさずに取ってくるほどに難しいことだ。

しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まぬならば、
必ず、その目的を果たしとげ、
如何なる願いも成就せぬものはないであろう」
大海の水を汲み干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べられておられる。

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助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。
ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。

●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳

世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3200万年、五劫思惟とは、
その5倍の年月、考えに考え抜かれたということだ。

「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさずに手に入れる」
それを実行すれには、どうしたらよいか。
聞いただけで「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。
五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。

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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を完成してくだされたのである。
それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、
それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一段に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
          (正信偈)
と仰せられる。

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さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。

29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
      (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称不可説不可思議の大功徳」とは
勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。
「功徳の大宝海に帰入すれば」
         (正信偈)
「功徳の大宝海」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
          (執持鈔)
と、本願の名号と、行者が一体になった喜びを記しておられる。

妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
「頭叩いても南無阿弥陀仏、
手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、
お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏、
立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、
本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。
釈尊一代の仏教は、畢竟この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
      (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、唯
弥陀の本願海を説かんとなり)

●万人の終帰、弥陀の本願海

ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。
深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。
終帰・・・山の頂上に降った雨水は、渓流を下り、
湖に流れても、やがて川を下って大海に流れ込む。

苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに救いを求めるが、
真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。
弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。

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法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それには、どうすればよいのか。
「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」
      (親鸞聖人)
真剣な聞法あるのみである。


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返し切れぬ阿弥陀仏の大恩! [阿弥陀仏]

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如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
     (親鸞聖人)

阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報いきれない。
その弥陀の大悲を伝えて下された方々の
骨を砕いても済みませぬ

今回から親鸞聖人の『恩徳讃』についてお話しいたします。
仏教は「恩の宗教」ともいわれます。
人間の評価にも、
どれだけ恩を知らされているか(知恩)、
どれだけ恩に報いようとしているか(報恩)。
この心が強い人ほど素晴らしく、
恩を忘れ(忘恩)、
恩に背き(背恩)、
恩を仇で返す(逆恩)輩は最低とされます。

恩を知るは大悲の本なり、善業を開く初門なり。
恩を知らざるものは畜生よりも甚だし
(お釈迦さま)

恩知らずは犬猫畜生にも劣る、とのご教示です。
私たちのよく知る昔話や説話にも、
動物の恩返しを描いた「報恩譚」が多く見られます。
その一つを紹介しましょう。

豊前(今の福岡)の農民が畑仕事をしていると、
小さな卵を見つけた。
「このままにしておけば、犬に食われるか鳥にさらわれるだろう。
家へ帰って孵化してみよう」
昼は日光に当て、夜は抱いて肌で温める。
やがて生まれてきたのは、小さな蛇だった。

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「蛇は執念深いものとして嫌われるが、
真心もって養ってやれば、心が通じないはずはなかろう」
と、男は育てる決心をする。
巣を作り軟らかいエサに気を配り、
至れり尽くせりの世話をした。
蛇は次第に成長し、ほぼ言葉も理解し、
言うとおりに行動した。
そのうちに主人の足音をいち早く聞き分けて、
玄関に出迎えるまでになった。
ある晩、男が他家でご馳走になり、
ひどく酩酊して帰還した。
玄関に入ろうとすると、チカッ!と何か足に触ったと同時に
火のような痛みが走った。
見れば例の蛇である。 
「この恩知らずめ。卵の時から育ててやったのに・・・、
オレにかみつくとは何事だ」
男は激怒したが、やがて静かにつぶやく。
「よくよく考えてみれば、どうやら悪いのはオレのほうらしい。
おまえはいつものように迎えに出てくれたのに、
酒のためとはいえ、おまえのことを忘れて
イヤというほど踏みつけてしまった。
おまえは痛さに驚いて踏んだ足に思いっきりかみついた。
当然だ。許してくれ」
と言いながら男は、傷口の手当をして床に就いた。
翌朝、いつものように蛇の巣に行ってみると
姿が見当たらない。
よくよく捜すと昨夜主人にかみついた所に行って、
我とわが身にかみついて自害していたという。

蛇ですら、このようなことがあるのです。
たとえ、能力、知識、地位などがあっても、
人として「ご恩を感ずる心」を失っては
「畜生にも劣る」というものでしょう。

●親鸞聖人、報恩のご生涯

報恩の熾烈さで、仏教史上、
親鸞聖人に勝る方はないのではないでしょうか。

「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」
(阿弥陀如来の洪恩は、身を粉にしても報い切れない)
阿弥陀如来への熱火の報恩で聖人の生涯は貫かれています。
31歳、すべての人がありのままで救われることを身をもって
明らかになされるため、肉食妻帯を断行され、
破壊堕落の僧、悪魔、仏敵と罵詈雑言を浴びられた。
その非難の嵐の中を、

唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず(教行信証)

深い阿弥陀仏のご恩を思えば、
世間の悪口や非難などでためらってはおれない

と、ひたすら広大な仏恩に報いようと突き進まれました。
35歳、権力者の無法な弾圧で、
師匠の法然上人は土佐(高知県)へ流罪。
当初、死刑判決を受けられた親鸞聖人は、
越後(新潟県)流刑となり、念仏も禁止された。
その聖人が、こう述懐されています。

大師聖人(法然上人)、もし流刑に処せられたまわずば、
我また配所に赴かんや。
もしわれ配所に赴かずんば、
何によりてか辺鄙の群類を化せん。
これなお師教の恩致なり
        (御伝鈔)

法然上人が、もし流刑に遭われなかったら、
親鸞もまた、流罪にならなかった。
もし私が流刑に遭わなければ、
越後の人々に弥陀の救いを伝えられなかったであろう。
なんとありがたいことだったのか。
全ては恩師・法然上人のおかげである。

風雪厳しい新潟に赴かれての艱難辛苦(かんなんしんく)も、
弥陀の大悲を伝えるご方便と
静かにほほえまれるお姿が彷彿といたします。
その後、関東に赴かれ、
仏法嫌いの日野左衛門の門前で、
石を枕に、雪を褥に休まれ、仏法に導かれたのも、
白昼堂々、剣を振りかざして殺しに来た弁円にさえ、
「御同朋・御同行」とかしずかれ、
弥陀の本願を説かれたのも、
阿弥陀如来の大恩に報いるため以外にはなかったのです。

弥陀の本願の布教こそ最高の報謝と、
越後、関東で本願宣布に挺身された聖人は、
受けたご恩のあまりの深さに苦悶され、
ついに寝込んでしまわれることさえありました。
その時のご様子がアニメ『世界の光・親鸞聖人』第4巻に
次のように描かれています。

親鸞聖人59歳の時、高熱で数日苦しまれている。
恵信尼さま(奥方)が懸命に看病されるが
熱がなかなか下がらない。
長男・善鸞と末娘の覚信尼が心配し、
ご容体を問うと、恵信尼は首を横に大きく振られ、
「もう、4日になるのに、少しも熱が下がらないの。
どうしたのかしら・・・」。
3人とも、心配そうに親鸞聖人のお部屋のほうへ目を向ける。
その時、部屋でうなされていた親鸞聖人が、突然、
かっと目を見開いて叫ばれた。
「ああ、そうであったか!」
驚いた恵信尼さまが“どうなされました?”
と問われると、
「そうであったか・・・。
この深い阿弥陀如来のご恩を思えばなあ、親鸞。
泣きたいような、せつなくてのお。
じっとしてはおれんのだ。
身を粉にしてもと思うのだが、
やはり布教しかなかったと、
またまた思い知らされたのだ」。
聖人は問わず語りに述懐される。
「こんなことは17年前、上野国にいた時もあったのだが・・・。
あの時は、飢饉が続いてのお。
多くの人が路上で亡くなった。
何とかならぬかと、浄土三部教を千回読もうと願うたが・・・。
それがなあ、『自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩』の、
善導大師のみ教えを、親鸞おろそかにしていたことが、
思い知らされたのだ。
仏法を伝える以上の仏恩報謝は、なかったのになあ・・・」
「そうでございましたねえ」
うなずく恵信尼さまに聖人は、
「さあ、布教に出掛ける。用意を頼む」
と、蓮位房らお弟子を連れて布教に出発されたのである。

聖人の仰る17年前のことは
「恵信尼文書」という恵信尼公のお手紙に記されています。
聖人42歳の時、東国佐貫にご滞在中、
大飢饉で多くの餓死者が現れた。
あまりの惨状に、何とか救済できぬものかの思いやみ難く、
聖人は浄土三部経を千回読もうとなされた。
今日でも、読経で死人が楽になるという迷信は金剛のごとしだが、
当時はなおのこと、経典を多く読めば人の苦しみが救われる、
ということが常識となっていた。
ところが、4、5日読まれて聖人は、
「これは何事だ。
『自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩』ではなかったか。
他に何の不足があって、経典を読もうとしていたのか。
われ誤てり、誤てり」
と仰って、直ちに布教に旅立たれた、とあります。

自信教人信 自ら信じ、人に教えて信ぜしめることは
難中転更難 難きが中に、転(うた)た更に難し
大悲伝普化 大悲を伝えて普く化す
真成報仏恩 真に仏恩報ずるに成る

とは、善導大師の有名なお言葉で、
自らが信を獲る(弥陀に救われる)ことも難しいが、
他人を弥陀の救いまで教え導くことは、
もっと難しい。
だが、その最も困難な、弥陀の誓願を
一人でも多く伝える以上の仏恩報謝はない。
人間のなしうる最高の善なのだ。
だから、救われた人には最高報謝、
求めている人には最尊の仏縁になるのだ、
と教えられています。

全人類は、死の滝つぼに向かう船に乗って、
川下りしている。
船の中で儲かった、損した、好きだ、嫌いだ、勝った、
負けたと騒いでいても、最後は船もろとも、
真っ逆さまに後生へ飛び込んでいく。

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そんな絶体絶命の船旅を、少しでも長く楽しくしようとするのが
政治や経済、科学や医学、法律やスポーツなどである。
確かにそれらも大事だが、
滝つぼに落ちる以上の大事はないから、
これを仏教で「後生の一大事」といわれるのです。

そんな大問題を抱えた私たちを憐れにおぼしめされ、
やるせない大慈悲心から
「われ一人助けん」という願いを発されて、
極楽往きの大船「大悲の願船」を造ってくだされたのが
本師本仏の阿弥陀如来です。

この大船に弥陀のお力で乗り換え、
必ず極楽往生できる身になれば、
ただ今から未来永遠の幸福に生かされる。
後生の一大事を抱える全人類に、
この大悲の願船を伝えるほどの尊行はありません。
滝つぼに落ちる船の中でたとえ100億円与えるより、
もっと喜ばせることになるのです。

親鸞聖人の言動の全ては、
いかにしてこの「大悲の願船の厳存」を知らせ、
如来大悲の洪恩に報いるのかの
『恩徳讃』の御心から表れ出たものばかりで、
利害打算など全くありません。
「すべての人を、必ずこの大船に乗せ、
永遠の幸福に救い切る」
の弥陀の御心のままに御恩報謝の道を進まれるのは、
阿弥陀如来からお受けしたご恩が
あまりに広大無辺であるからです。
その深きご恩を親鸞聖人は『教行信証』の冒頭で、
こう述懐なされています。

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(あ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ

ああ・・・なんたる不思議か、親鸞は今、
多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
これは全く、弥陀の不可思議の本願力によってであった。
深く感謝せずにおれない。

阿弥陀如来の救い(弘誓の強縁)は
一世や二世の問題ではありません。
多生億劫という気の遠くなるような長期間、
苦しみ続けてきた迷いの打ち止めを、弥陀のお力一つで、
平生の一念に果たしていただいたのです。

よくぞ人間に生まれたものぞ。
よくぞ仏法を聞けたものぞ。
もし今生で弥陀の救いにあえなかったならば、
またしても親鸞、果てしない流転を続けていたに違いない。
危ないところを救われたと、感泣なされています。

人身受け難し、今、已(すで)に受く。
仏法聞き難し、今、已に聞く(お釈迦さま)

今、こうして人間界に生まれ、
仏法を聞かせていただけるのは、
決して当たり前ではありません。
まさに千載一遇。永遠のチャンスは“今”なのです。
聞法の場に足を運び、
尊い仏法を一言でも真剣に聞かせていただきましょう。


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弥陀から逃げ回っている者とは、誰か? [阿弥陀仏]

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓願にウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
阿弥陀仏の本願」のことです。

大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
“どんな人も必ず絶対の幸福に救う”
誓いです。

絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
摂取の「摂」は、逃げ回っている者を、
追いかけ、逃げ場のないところまで追いつめて救うこと

と述べてきました。
“逃げ回っている者”とは、
弥陀の本願を疑い続けている者のことです。

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そう聞きますと、
なるほど。あの人は、仏法のお話に誘っても断ってばかり。
確かに逃げてるなあ

とか、
夫は、地域の催し物や映画なら一緒に行くけど、
仏法は聞こうとしない。
うちの人も逃げ回っている

と、他人事のように思われるかもしれません。
しかし、阿弥陀仏は、
すべての人を「仏法を疑い、逃げ回っている者」と仰るのです。

「えっ!どうして仏法を聞いている私が?」
と認められない心が出てくるでしょう。

実は、その「私は阿弥陀仏を信じている。疑っていませんよ」
という心そのものが、疑い、逃げ回っている姿なのです。
なぜでしょうか。

信じる心も念ずる心もないのが私たち

阿弥陀仏は、
「すべての人は、煩悩具足で罪悪深重、
まことの本願を信ずる心も念ずる心もない」
と私たちを見抜かれています。

まことの心がカケラでもあれば、
そのまことの心でまことの本願を信ずることもできましょうが、
骨の髄まで煩悩に染まり切った私たちには、
まことを信ずる心は全くありません。

ゼロなのです。
だからこそ弥陀は、「信ずる心も、念ずる心もおこしてみせる」
と誓われています。

蓮如上人は、こう言われています。

信ずる心も念ずる心も、
弥陀如来のご方便より発さしむるものなり

          (御文章二帖目一通)

阿弥陀仏は、私たちを“煩悩の塊”、
つまり“不実の塊”だと見られている。
不実の者は、不実のことは信じても、
真実をはねつける。
それなのに「いや、私は阿弥陀さまを信じている」
とうぬぼれています。
それは「阿弥陀仏は、素直に信じている私をご存じないのでは」
と無上仏(阿弥陀仏)を疑っている心です。
弥陀の本願を疑い、背を向けて逃げる私たちは、
迷いながら迷いに気づかず、
疑いながら疑っていることに気づきません。
逃げ回って堕ちていく先は地獄。
何と哀れな者よ、とても見捨ててはおけぬと、
弥陀は何とか助けてやりたいと私たちを、
追いかけ回し、引っ捕らえて、
浄土往生間違いない身(絶対の幸福)に救ってくださるのです。

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苦しみがやまない原因は?

阿弥陀仏の本願を疑う心のみを「疑情」といいます。
人や物を疑う心とは違います。
この「疑情」こそが苦悩の根元だと親鸞聖人は、
こう教示されています。

還来生死輪転家(生死輪転の家に還来することは)
決以疑情為所止(決するに、疑情を以て所止と為す)
                               (正信偈)

まず「生死輪転の家に還来する」からお話しましょう。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを、
「生死輪転」とも、「流転輪廻」ともいわれます。
私たちは車の輪が回るように、
同じところをグルグル回り続けている。
そんな一生をトンチで有名な一休さんは、
こう歌っています。
「人生は
食て寝て起きて 糞たれて
子は親となる 子は親となる」
食べたら出す。
出しては食べる。
台所と便所の往復です。

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疲れた体を横たえたら、もう朝。
寝ておりたい。けれど仕事がある。
せわしなく一日が過ぎ、気づけばもう寝る時間。
布団の上げ下げの人生は、
まさに同じことの繰り返しではないでしょうか。
来る日も来る日も、「食て寝て起きて」の反復ならば、
「生まれてきてよかった」の満足などあろうはずがありません。

そうやって親になり、生まれた子供もまた、
おなじように親になる。
天下人、家康でさえ、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」
と告白しています。
苦しみの重荷を下ろせず、
果てしない流転の道(遠き道)を歩き続ける人生だった、
との嘆きです。
苦しみは、なぜ、やまないのでしょうか。

私はもう、釣りをしているよ。

「どんな和歌でも、これを下の句にすれば、
皆、納得する」
と室町時代の歌人がいう。
その言葉とは「それにつけても金の欲しさよ」。
試しに一つ。
「朝夕の飯さえこわし やわらかし 
それにつけても金の欲しさよ」
現代でもしきりに、
「もっと金があればなあ」の嘆きが聞こえてきます。
他にも、「マイホームが欲しい」
「もっと認められ、出世したい」
「恋人さえできれば」などなど。
ほとんどの人が苦しみの原因をそこらに見定めて、
それを得ようと、懸命に努力しているが、
果たして幸せになれるのでしょうか。
考えさせる小話があります。

レマン湖のほとりでスイス人が釣りをしている。
ところが全く釣れない。
しばらく見ていた日本人が、
「釣れませんね。いっそ底網をかけてバーッと取ったらどうです」
と提案した。
「底網かけて捕ってどうする」
とスイス人。
「市場で売れば大もうけできる」
「儲けてどうする」
「景色がいいからこの辺の別荘を買えばいい」
「別荘を買ってどうする」
「のんびり釣りでもすればいい」
すると、スイス人。
「私はもう、釣りをしているよ・・・」

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フィギィア・スケートの女王と持てはやされたキム・ヨナ選手。
オリンピック後のインタビューで、試合後に見せた万感の表情を
「ずっと我慢してきたことが涙となってあふれ出た」と説明した。
我慢してきたこととは?続けてこう語った。
「スケートを見るのも嫌になって随分たつ」
「競技や、翌日の練習の心配なく生活できること、
軽い気持ちで未来を考えて生活できるだけで今は快適」
「(パンなど)もう好きなだけ食べることができる」
世界トップアスリートが涙を流すほどの喜びは、
“普通の生活ができる”こと。
レマン湖の例になぞらえるなら、
こう言えるかもしれない。
「普通の生活なら、もうしてるよ」

今日、日本で最も権威ある文学賞の一つ「芥川賞」は、
芥川龍之助の業績をたたえて創設されたものですが、
芥川自身は「人生は地獄よりも地獄的である」(侏儒の言葉)
と胸のうちをさらけ出し、最後は自殺しています。
35年の一生でした。
文豪・夏目漱石も
「人間は生きて苦しむ為めの動物かもしれない」
と妻への手紙に本音を漏らしています。
金や地位、名声などを得ても、
苦しみはやみません。
人間の苦悩の根っこはもっとずーっと深いのです。

家を離れて生きられないように、
離れ切れない苦しみを親鸞聖人は「家」に例え、
「終わりなき苦しみ」を
「生死輪転の家に還来している」
と言われています。

親鸞聖人の明答

では、人生を苦に染める元凶は何でしょう。
親鸞聖人の解答は、驚くべきものです。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「疑情ひとつ」と断言される。
「決するに」「所止と為す」の断定には迷いがありません。
和讃にも、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
                 (高僧和讃)
と教えられ、苦悩(流転輪廻)がやまない(きわなき)原因は、
「疑情のさわりにしくぞなき」
と言われています。

「しくぞなき」も「これひとつ」の断定です。
「苦悩の根元は、これひとつ」の「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」のこと。
予想もつかぬところに、苦悩の真因があったのです。

この真実を一体、誰が知るでしょう。
この「疑情」が破れ、過去無量劫からの迷いを断ち切られた
親鸞聖人の魂の叫びが、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言(阿弥陀仏の本願)」
なのです。
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
第一巻の最後の場面で、
その喜びをこう告白されています。
不思議なるかなや、不思議なるかなや。
弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」
「あぁ、多生にも、値(あ)い難き本願力に、今値えたり。
億劫にも、獲難き真実の信心を、今獲たり」

本願、まことだった。まことだった

疑情が浄尽(じょうじん)し、
「露ちりほどの疑心」のなくなった人は、
二度と迷わぬ絶対の幸福に生かされる。
これを蓮如上人は、
「この心の露塵程も疑なければ、
必ず必ず極楽へ参りて、美しき仏とは成るべきなり」
と言われるのです。
この疑情を晴らすには、
阿弥陀仏の本願を聞くよりほかにありません。


おなじくアニメの第一巻で、法然上人はこう説かれています。

釈尊が、この世にお出ましになったのは、
阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、比叡での難行・苦行も、
京都・奈良で学んだ、華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、なりませんでした」
「泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、5回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救い摂られたのです」
「その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。よくよく聞いてください」

このように、アニメーション『世界の光・親鸞聖人』の中で、
親鸞聖人、法然上人といった方々が説法されていますから、
このアニメを見せていただくままが聴聞です。

苦しみ迷いの打ち止めをするには、人間に生まれ、
仏法を聞かせていただく以外ありません。
「弥陀の本願まことだった」と疑情が晴れ渡り、
必ず浄土へ往ける身になるまで、
阿弥陀仏の本願を、真剣に聞かせていただきましょう。


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他力とはどんなことか!? [阿弥陀仏]

自然即時入必定(自然に即の時必定に入る)
         (親鸞聖人・正信偈)
「自然」と書いて、仏教では“じねん”と読みます。
「自然に」と聞くと、
日光に照らされて洗濯物がいつの間にか乾くように、
仏法を聞いているうちに、
いつとはなしに救われていくのだと思いがちですが、
そうではありません。

親鸞聖人が「自然」と言われたのは、
「願力自然」のことで、他力、
すなわち阿弥陀如来の本願力を表します。

誤解、「他力=他人まかせ」

親鸞聖人といえば他力本願、
と多くの人が真っ先に思い浮かべるほど、
広く知られている言葉ですが、
この「他力」こそ、最も誤解されている
仏語の一つではないでしょうか。

二、三例を挙げましょう。

平成14年、サッカー・ワールドカップが開催されましたが、
日本チームが負けた試合について東京都知事が、
「だれかが出て行くだろうという、
安易な他力本願の希望的な結果」
と語っていました。
「三日坊主から抜け出そう」「大樹の陰から抜け出そう」
などの言葉を並べ、「他力本願から抜け出そう」
で締めくくったのは、某光学機器メーカーの広告です。
昨年の大手新聞スポーツ欄には、
「他力他力タカ(ダイエー)M1」の見出し。
他のチームの負けによって優勝が決まる状況を、
「タカ」に「他力」を引っかけて書いたのでしょう。

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このように他力というと、
「他人まかせ」や「無気力」という意味だと思っています。

いわゆる、「他人のふんどしで相撲を取る」ことや、
「他人の提灯で明かりを求める」ことのように
誤解している人が少なくありません。

そして他力の教えを聞く人といえば、
現実から目をそらし、
何かに依存する弱々しい人間を想像します。

他力の本当の意味は

しかし、無気力退嬰的姿勢と、真の他力とはまるで異なります。
それどころか正反対であることは、
他力に生かされた親鸞聖人のご生涯を知れば明らかでしょう。
聖人の肉食妻帯は有名ですが、
「堕落坊主」、「仏教を破壊する悪魔」
と嵐のような非難を浴びながら、

「すべての人が、ありのままの姿で救われるのが、
真実の仏法であることを知らせる縁になれば、
どんな苦もいといはしない」
と微笑していかれました。

権力者の無法な弾圧で流刑にまで遭われながらも、
人類救済の一本道、「一向専念無量寿仏」を叫び続けられ、

剣をかざして押しかけてきた山伏弁円にも、
「私が弁円の立場にいたら、同じく殺しに行くに違いない。
殺すも殺されるも、恨むも恨まれるも、
ともに仏法をひろめる因縁になるのだ」
と、手に数珠一連で会われた偉大な信念。
宗教を否定する共産主義者までも、
「たくましき親鸞」と脱帽せずにおれない
力強いものだったではありませんか。
あの聖人の、厳しさと自信、何者をも恐れぬ勇気。
その源泉こそが、他力であったのです。

では他力とはどんなことでしょうか。

「『他力』と言うは如来の本願力なり」 (教行信証)

と親鸞聖人が明言なされているとおり、
阿弥陀如来の本願力のみをいうのです。

他力の語源は仏教なのですから、
仏教の意味に従わねばなりません。
他力の「他」は弥陀に限るのです。

誤解、「他力=他人の力や天地自然の力」

ところが今度は、他人の力や天地自然の働きを、
阿弥陀如来の力と同一視する人もあります。

いわゆる太陽の働きや、雨や風や空気、
その他自然の働きや、
自分以外の人間の力などすべてを弥陀のお力、
他力と心得ている人です。

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しかし考えてみてください。
もしそれら自然現象を他力としますと、
弥陀が時によって、干ばつで人間を苦しめたり、
地震によって私たちの生命を奪ったり、
台風で人命を脅かしたり、財産を失わせたりする、
のろうべき悪魔になることがあることになります。

また、「年金とは他力なり」と講演した僧侶までいるそうですが、
もしそうなら、年金制度が変更されて困る人があれば、
阿弥陀さまに苦しめられるということになりましょう。
それらは自然の力であり、
人間の力と言うべきものであって、
他力と思うのは大きな間違いです。

もちろん、仏教では「恩」というものを教え、
私たちは、有情(人間や動物など心あるもの)・
非情(水・石・木・太陽など心を持たぬもの)
のご恩に生かされているのだから、
それらに感謝することが大切だと教えられています。
食料や衣服、住居を造る人があってこそ生きられます。
日光や空気、水など、なくてはならぬものに違いありません。
しかしそれらを他力としてはならないのです。

他力、それは無明の闇を破る力

では弥陀の本願力とは、どんなお力なのでしょうか。
親鸞聖人は和讃に、
無明長夜の闇を破し、衆生の志願をみてたまう」力であると、
鮮明に教えられています。

無明長夜の闇とは、
私たちの苦悩の元凶である暗い心のことです。

皆、苦を嫌い幸せを求めながら、
なぜ苦界の人生に沈むのか。
根本原因は「無明の闇」であると、
仏教で教えられています。

何のために生まれてきたのか、生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
分からぬまま冥土の旅を続けている私たちが、
死に直面すると真っ暗な心が現れます。

かの自然主義文学の闘将・田山花袋氏は、
「独り往くのかと思うと淋しい」
と言い、夏目漱石氏は、
「今死んでは困る」
と訴えています。
名作『金色夜叉』の尾崎紅葉氏の、
死に臨んだ『断腸の記』には、
微塵の明かりも見当たりません。
無心論者を自負した正宗白鳥氏は臨終に、
「アーメン」と叫んで周囲の人を驚かせ、
熱心なクリスチャンだった国木田独歩氏は、
「祈らずとも助くる神なきや」
と泣いて死にました。
海外では、有名なドイツのゲーテも、
「光が欲しい、光が欲しい」
と臨終につぶやき、フランスの無心論者ヴォルテールは、
「奈落が見える、恐ろしい恐ろしい」
と一点を凝視して息絶えています。
苦より苦に入り、冥より冥に入る」
の仏説のとおり、現在の延長が未来。
暗い心のまま死ねば、
後生は間違いなく真っ暗な一大事です。

生きている現在ただいま、この無明の闇をぶち破り、
明るい日本晴れの大安心にするお力こそが、
弥陀の本願力(他力)なのです。

衆生の志願をみてたまう力

衆生の志願をみてたまう」
とは、食いたい飲みたい楽がしたいの、
私たちの欲望を満たすと言われているのではありません。

永遠に変わらぬ幸福にしてやりたいという、
弥陀の崇高な志願を衆生の上に満たす、
ということなのです。

ですから、弥陀の本願力に救い摂られたならば、
生死の苦界が光明の広海と転じ、
苦しみの人生が歓喜あふれる人生に
大転換させられるのです。

人間に生まれたのはこれ一つであったと、
人生の目的が完成し、矢でも鉄砲でものファイトがわいて、
たくましい人生が開けます。

他力とは、この弥陀の威神力不思議をいうのであり、
それを「自然(じねん)」といわれているのです。

弥陀の救いほど速いものはない

「即時」とは、一念のことです。
親鸞聖人が、
「『一念』とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕す」
                (教行信証)
とおっしゃっているように、
弥陀の本願力によって無明の闇が晴れわたり、
大安心大満足に救い摂られる、
何億分の一秒よりも短い時間を一念といわれます。

昔、ある寺でのこと。
「弥陀の救いは一念です。
アッという間もない。
何億分の一秒よりも短い時間で
救い摂ってくださるのです」
若い布教使の情熱あふれる説法のあと、
一人の同行が控え室に暴れ込んだ。
「さっきの話じゃが、ありゃ間違っとる。
そんなアッという間に助かるだなんて、
親鸞さまはどこに言われておるかね。
仏法聞いているうちに、
だんだん喜ぶ身に育てられていくのが信仰じゃ!
正信偈に書いてあるでないか。自然即時入必定。
しぜんに、いつとはなしに助かると」
布教使は、
「じゃあ、自然(じねん)がいつとはなしだったら、
即時はどうなりますか」
と静かに尋ねる。
お同行、初めて「即時」と書いてあるのに気がつく。
「いつとはなしに、即の時・・・。
うーん・・・。こりゃどういう意味じゃろう」
弱り果てて、頭をかき始めた。
「いつとはなしに一念で助かる。
まるで意味の通らぬ文章になりますよ。
そんな訳の分からぬ文章を、
親鸞聖人が書かれるはずがないでしょう」
「うーん・・・」
「これは世間で言われる、いつとはなしに、
自然にそうなったということではないのです」
仏教で自然とは、阿弥陀如来の本願力をいうのです。
だから正信偈の『自然即時入必定』とは、
阿弥陀如来のお力によって一念で救われるのだ、
ということなのですよ」
諄々と教えられ同行は、
「自然」の本当の意味を初めて知ったという。

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ここは間違いやすいところですから、
注意しなければなりません。

自然(じねん)・・・・弥陀の本願力
即時・・・・一念で

では、どんな身に救われるのか。
「必定に入る」と教えられていますが、
これは次回解説しましょう。


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阿弥陀仏とはどんな仏さま? [阿弥陀仏]

阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。

一般には阿弥陀仏、お釈迦さまと、呼び名こそ違っても、
仏さまといえば、皆、同じだと思っている人が多いようです。
仏教では、
「阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
              (御文章)
“阿弥陀仏は大宇宙のすべての仏方の先生、
指導者である”と教えられています。

後で詳説しますが、
お釈迦さまも「三世十方の諸仏」の一仏であり、
阿弥陀仏とは違う仏です。

この違いが分からねば、
仏教は決して分かりませんから、
まずよく知っていただきたいと思います。

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たくさんの仏さまが大宇宙にまします

仏教では、大宇宙には地球のような世界が
無数にあると説かれています。

今日の天文学でも、生命を持ちうる惑星が
銀河系だけで億単位に上るというのが定説です。
宇宙全体で考えれば、どれほど膨大な数になるか
想像も及びませんね。
それをお釈迦さまは、「ガンジス河の砂の数」と表現され、
その宇宙観を2600年前に説いておられるのです。
地球にお釈迦さまが出られたように、
十方世界、大宇宙には、
数限りもない仏さまがおられます。

大日如来や薬師如来、
奈良の大仏として有名なビルシャナ仏、
お釈迦さまも、皆、「三世十方の諸仏」の一仏なのです。

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阿弥陀仏は諸仏の先生

阿弥陀仏は諸仏の「本師本仏」といわれています。
「本師」も「本仏」も先生のことですから、
阿弥陀さまは諸仏の指導者であり、
諸仏方は、阿弥陀仏の弟子、生徒ということです。
私たちの地球に現れた唯一の仏、お釈迦さまは、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、生涯、先生である阿弥陀仏のことばかりを
説いておられます。

それを親鸞聖人は、
如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を
説かんがためなり
」  (正信偈)
とおっしゃっています。
弟子の使命は、師の御心を多くの人に
伝える以外にないからです。

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阿弥陀仏は最尊第一の仏

では、なぜ阿弥陀仏を本師本仏と尊敬するのでしょう。
それは阿弥陀仏の能力がズバ抜けて素晴らしいからです。
お釈迦さまは、
無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)
とおっしゃって、
大宇宙で最も尊い仏が阿弥陀仏であり、
諸仏の力は足下にも及ばない。

だから「諸仏の王」ともいわれています。
その最尊第一阿弥陀仏が、私たち一人一人と、
崇高なお約束をなさっている。
それが阿弥陀仏の本願といわれるものです。
どのような内容か、次回で明らかにしましょう。

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我々は死刑前夜のパーティで浮かれている。 [阿弥陀仏]

  (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。
読み飛ばさず、せめて大きい字だけでも、
一部だけでも読んで
少しでも理解してください。
お釈迦さまはものすごいことを教えられているのです。)
 

重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
                    (親鸞聖人・正信偈)

今回は、この一行について学びましょう。
これは、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
と読みます。
「重ねて誓う」とは、
「阿弥陀仏が、重ねて約束なされている」
ということです。

本師本仏の阿弥陀仏は、
「すべての人を
平生に必ず助ける
絶対の幸福に」
と、凄いお約束をなされています。

これを「阿弥陀仏の本願」といわれます。
「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願」と言われているのも、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。

約束には、必ず相手がありますが、
阿弥陀仏の約束の相手は、「十方衆生」。
すべての人と、誓われているのです。
この中に入らない人は、一人もありません。

今、キリスト教を信じている人も、
イスラム教の人も、ユダヤ教の信奉者も、無宗教の人も。
アメリカ人、イギリス人、日本人、
中国人、アフリカ人も、すべて。
相手構わず、一切差別のない
「弥陀の本願」ですから、
『歎異抄』には、

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第一章)

と説かれています。
男も女も、老いも若きも、慈善家・殺人犯、
頭の善し悪しなどは、まったく関係ない。
阿弥陀仏は、古今東西の全人類と、
約束されているのです。
しかも、その内容が凄い。
「死んだらお助け」ではありません。
「現在ただ今」救い摂る。

どんな極悪人も、平生の一念に、
「絶対の幸福」に助け切る、
という、とてつもないことを誓われています。
こんな約束のできる方は、
大宇宙に無数の仏方ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏だけ
ですから、
親鸞聖人は「弥陀の本願」を「無上殊勝の願」とか
「希有の大弘誓」と、『正信偈』に絶賛されています。

生きるのは、変わらぬ幸せになるため

ここで、「必ず救う」と弥陀が誓われている、
「絶対の幸福」とは、どういうことでしょうか。
生きる目的は幸福だとパスカルも言います。
自殺するのも楽を願ってのことであり、
政治も経済も、科学、医学、すべての営みは、
幸せのほかにはありえません。
これに異論を唱える人はいないでしょう。

ドラマでも、事件が落着してようやく
娘の家庭に平穏が訪れた時、
親父さんが娘の両手を握って、
「いいか、○○子、この幸せ、離したらアカンで!!」
と語るシーンがありました。

人は皆、不幸や災難を厭い、
安心や満足を求め、手にした幸せは
いつまでも続いて欲しいと願って、
生きているのです。

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ところが、私たちの追い求める喜びは、
変わり通しで、やがては苦しみや悲しみに変質し、
崩壊、無に帰することさえあります。
恋のトキメキや結婚の喜びは、どれだけ続くでしょう。

相手がいつ病や事故で倒れたり、
変心して破鏡の憂き目にあうかも知れません。

幸せは、指の間から砂がこぼれ落ちるように消えていく。
最愛の人との突如訪れる離別や死別。
生涯かけて築いた家もマッチ一本で灰になり、
昨日まで団欒の家族の家庭も、交通事故や災害で、
「まさか、こんなことになろうとは・・・」
天を仰いで茫然自失。

辛い涙の現実が溢れてはいないでしょうか。

中国四川省の大地震は、深刻な被害をもたらしました。
崩壊した校舎の瓦礫を前に、
見つからぬ我が子の名を呼び続け、
泣き叫ぶ母親の映像に、
誰もが胸ふさがる思いをしたでしょう。

岩手・宮城内陸の震災でも、
「何もかも無くなってしまいました」
と嘆く被災者が映し出されていましたが、
決して他人事ではありません。
瓢箪の川流れのように、
今日あって明日どうなるか知れぬ幸福は、
薄氷を踏む不安がつきまといます。

たとえしばらく続いても、死刑前夜のパーティーで、
総崩れの終末は、悲しいけれど避けられません。

まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ 

                    (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。
財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、
日頃、あて力にしている妻子や財宝も、
いざ死ぬときには何一つ頼りになるものはない。
一切の装飾ははぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、
一体、どこへゆくのだろうか

蓮如上人の警鐘乱打です。

風前の灯火のような幸せ求めて、
今日も人はあくせく苦しんでいる。
悲劇の滝壺に向かっているすべての人を、
阿弥陀仏はご覧になられて、
「なんとしても助けてやりたい。
絶対に崩れぬ大安心・大満足の身に、必ず救い摂ってみせる。
若し平生に、真っ暗闇の心を、
絶対の幸福に生まれ変わらせることができなければ、
この弥陀は仏のさとり(正覚)を捨てる」
(若不生者不取正覚)
と、「平生の救い」に命を懸けて誓われているのが、
「弥陀の本願」です
から、
親鸞聖人は「若不生者のちかい」とも讃嘆されているのです。

この誓いを果たすために、
阿弥陀仏が大変なご苦労をなされて完成されたのが、
「南無阿弥陀仏」という六字の名号です。

重ねて誓われたのは、疑心を晴らすため

阿弥陀仏は、こう誓われています。

「すべての人を絶対の幸福にする力のある
『南無阿弥陀仏』の名号を、必ず作ってみせる。
私の完成する名号の素晴らしさを、
大宇宙にただ一仏でも、
褒めない仏さまがもしあるならば、
私は仏のさとりを捨てる」

大宇宙のすべての仏(十方諸仏)が褒め称える「名号」とは、
十方諸仏が“助けることができない”と見捨てたすべての人を、
助ける力のある「名号」のこと。

釈迦も、大日如来も、薬師如来も、
ビルシャナ如来も作ることができない「名号」、
十方諸仏の誰も成就できない、
そんな「南無阿弥陀仏」を完成させてみせると、
弥陀は命を懸けて約束されているのです。

ところが、そう聞いても、迷いの深い私たちは
「本当だろうか、そんなことができるのだろうか」と疑う。
そこで阿弥陀仏は重ねて、
「必ず、名号を作ってみせる。間違いなく完成させるぞ」
と誓っておられる
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「重誓名声(みょうしょう)聞十方」
(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
と教えてくださっているのです。

「名声(みょうしょう)」とは、
「南無阿弥陀仏」の名号のこと。
「十方に聞えん」とは、
「その名号の素晴らしさを、大宇宙のすべての仏に、
褒め称えさせる」ということです。
それは、大宇宙のすべての人(十方衆生)に
名号の大功徳を聞かせ、受け取らせて、助けるため。
ですから、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
とは、
阿弥陀仏は、十方諸仏の褒め称える『南無阿弥陀仏』を、
必ず作ってみせる、
と命を懸けて約束されているのだ。
『絶対に間違いない、必ず完成させる。
そして苦しみ悩むすべての人に、その功徳の宝を与えて、
絶対の幸福に救ってみせる』と、
重ねて誓われているのだよ」
と仰っている、親鸞聖人のお言葉です。

名号は、すでに完成されている

では、阿弥陀仏は、約束されているとおりの「南無阿弥陀仏」を、
もう完成されているのでしょうか。
お釈迦さまは、こう証言されています。

十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の
威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう

            (大無量寿経)

大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、
異口同音に、阿弥陀仏の作られた『南無阿弥陀仏』に名号の、
想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ」
このとおり、すでに阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」
を完成されていることが分かります。

お釈迦さまのお言葉ですから、間違いありません。
親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、
私たちを一念で絶対の幸福に救い摂る、
この「六字の名号」の大功徳を、
「功徳の大宝界」とか「本願の大智海」とも
『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、
こう詳解されています。

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功徳のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

                (御文章)

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする
絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである

医者が薬を作ったのは、患者に与えるため

ところが、いくら素晴らしい「南無阿弥陀仏」が完成されていても、
私が受け取らねば、私は助かりません。

ちょうど、どんな病気でも治す力のある薬がすでに完成していても、
患者がそれを飲まなければ、病気は治らないのと同じです。

医者が薬を作るのは、それを患者に与えて、
患者の病気を助けるためだからです。
阿弥陀仏が、無上の宝である「南無阿弥陀仏」
を作られたのは、私たちに与えて、
「絶対の幸福」に救うためです。

では、どうすれば、私たちは「南無阿弥陀仏」の大功徳を、
阿弥陀仏から受け取らせていただけるのでしょうか。

それ一つを説かれたのが仏教であり、
仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人です。

『正信偈』には、その聖人九十年の教えが、
圧縮されています。
次号、解説を続けましょう。

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弥陀の光明に2つあり! [阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)
                  (親鸞聖人・正信偈)

帰命無量寿如来
南無不可思議光

この有名な冒頭二行は、
親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました

と読み、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ。
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ

と叫ばれている聖人の告白です。

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阿弥陀如来については蓮如上人が、
ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり
」(御文章)
と、分かりやすく教えられています。
阿弥陀如来は、大宇宙のすべての仏方を指導する、
先生である

と言われているお言葉です。
大宇宙の仏方は、阿弥陀如来のお弟子なのです。
お釈迦さまも含めて大宇宙の仏方が皆、
阿弥陀如来のことを「本師本仏だ、われらが先生だ」
と尊敬し絶賛するのは、自分たちにはないお力を、
阿弥陀如来だけが持っておられるからです。

そのいろいろなお力に応じて、
阿弥陀如来にはたくさんのお名前があります。

中でもよく言われているのが、
「無量寿如来」と「不可思議光如来」
です
から、
親鸞聖人はこの二つのお名前を
『正信偈』の最初の二行に出されて、
「無量寿如来の阿弥陀如来に救われたぞ。
不可思議光の阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返されているのです。
同じことを二回言われているのは、
何度言っても言い足りぬ、どれだけ書いても書き尽くせぬ、
弥陀に救われた歓びの広大さを表されています。


では、その弥陀の救いとは、どんなことか。
救われる前と、救われた後とでは、
どう変わるのか。

それを親鸞聖人が教えられているお言葉が、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行です。

摂取不捨の利益

「摂取」とは、「摂取不捨の利益」のこと。
「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”をいいます。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を
「摂取不捨の利益」と言われるのです。

「絶対の幸福」といえるでしょう。

私たちは、健康から、子供から、恋人から、
友人から、会社から、金や財から、名誉や地位から、
捨てられはしないかと、毎日ビクビクしてはいないでしょうか。
彼女にフラれるんじゃないか。
メールの返信しないと仲間はずれにされるんじゃないか。
やっともらえた内定、取り消されたらどうしよう。
定年退職した途端に妻から離縁状を突きつけられたら大変だ。
病院から再検査の通知が来たが大丈夫かなあ。
うちの子が事故や事件に巻き込まれたらどうしよう、

薄氷を踏む不安にいつもおびえています。
楽しみも夏の夜の夢、幸せもつかの間の幻、
浜辺の砂に指で書いた文字のように
儚いものだと知っているからです。

たとえしばらくあったとしても、
やがて、すべてと別れる時がきます。

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まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
ただ一人こそ行きなんずれ

             (御文章)

いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、
いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りにならぬ。
誰もついては来てくれぬ。
すべてから見放され、独りぼっちでこの世と別れて、
いったい、どこへゆくのだろうか

咲き誇った花も散る時が来る。
死の淵に立てば、必死にかき集めた財宝も、
名誉も地位も、何もかもわが身から離散し、
一人で地上を去らねばなりません。

こんな悲劇の結末に向かっている私たちに、
死が来ても崩れない「摂取不捨の幸福」のあることを
明示されているのが、親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)

“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、
誰もが求める人生の目的なのです。

阿弥陀如来の光明に、二つあり

次に「心光」とは、阿弥陀如来のお力のこと。
「光明」ともいわれるのですが、
阿弥陀如来の光明の働きに、大きく分けて二つあることを、
よく知っていただかねばなりません。

「遍照(へんじょう)の光明」と「摂取の光明」
の二つです。

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「遍照の光明」とは、“遍く(あまねく)照らす”
とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている
阿弥陀如来のお力です。

アメリカ人にも中国人にもアフリカの人にも日本人にも、
古今東西の人々すべてに働いている。
またキリスト教を信じている人も、
イスラム教者も天理教の信者も。
みんなを照らしておられる阿弥陀如来のお力を、
「遍照の光明」と言われるのです。
この光明に照らされていない人は、一人もありません。

次に「摂取の光明」とは、「摂取不捨の幸福」に
救い摂る弥陀のお力をいわれます。

政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなど
あらゆる人間に営みは、幸福の追求以外にありません。
ストレスに耐えて働くのも、
資格取得や大学受験に励むのも、
スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、
いろんな健康法やダイエットを試したり、
合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや
食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、
よろこびや満足を求めてのことでしょう。
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しかも私たちは決して、“夢のまた夢”と
消える幸せのために生きているのではない。

一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福こそ、
私たちの願いであり、人生究極の目的です。


その「摂取不捨の幸福」に
一念で救い摂る阿弥陀如来のお力、
人生の目的を果たさせるお力を「摂取の光明」といわれ、
『正信偈』のここでは「摂取の心光」と言われているのです。

「一念」とは、何兆分の一秒より短い時間のこと。
弥陀の「摂取の光明」によって
「摂取不捨の幸福」に救い摂られるのは、
アッという間もない一瞬であると、
親鸞聖人は教えられています。

2つの光明の違い、分かれ目

この「一念の救い」に遇わせるまで、
何としても導かんと、
大宇宙のすべての人を照らして、
押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと
種々に働いてくだされている弥陀のお力が、
先に述べた「遍照の光明」です。

これを「調熟の光明」ともいわれます。
「調熟」とは、一念で人生の目的を果たすところまで、
私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくださること。

例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか・・・」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に・・・」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、
といえましょう。
シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、
どうしても要るのです。

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阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」
を与えることができるかと、種々にご苦労なされています。
仏(ぶつ)とも法(ほう)とも知らなかった私が照育されて、
無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、
仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。
そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、
私たちの心を調えてくださる、
その弥陀のお働きを「調熟の光明」といわれ、
これは大宇宙すべての人に
差別なく平等にかかっているお力ですから、
「遍照の光明」といわれるのです。

このように阿弥陀如来の光明には、
「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、
二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。

その違いを知らないと、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行が正しく読めないからです。

二つの光明の違いを一言で言えば、
「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、
「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。
ここが、まったく違うところです。

要の中の要

次に「常照護」とは、「常に照らして、護ってくだされる」こと。
一念で阿弥陀如来の「摂取の光明(心光)」に救い摂られた後、
弥陀のお力は途切れることなく、
ずっと護ってくだされるのだよ、といわれているのです。

これは「摂取の光明」に遇い
「摂取不捨の利益」に救い摂られた人(=信後)のことであって、

弥陀に救われていない人(=信前)のことではありません。

言葉を換えれば、親鸞聖人はここで、
弥陀の光明の働きを「遍照」と「摂取」の二つに分けられて、
その中の「摂取の光明」のことをおっしゃっている、ということです。
「摂取の心光(=摂取の光明)は、常に照護したまう」
と言われているのですから、明らかですね。
ゆえに、「平生の一念に摂取されたか、どうか」
こそが大問題なのだ
と蓮如上人も、こう断定されています。

たのむ一念のところ、肝要なり(御一代記聞書)

たのむ一念」とは、「弥陀に摂取された一念」
「人生の目的を完成した一念」のこと。

「肝要」とは「要の中の要」の意であり、
これ以上大事なものはないことをいわれます。

この「たのむ一念」こそ、地獄と極楽の分かれ目であり、
信前・信後の水際であり、自力と他力の分岐点であるから、
仏教で最も重い言葉を使われているのです。

ところが、この肝要がすっぽり抜けると、
例えば、「阿弥陀さまのお力は今ここに届いている。
だからみんな助かっている」などと誤る。
これは「遍照の光明」と「摂取の光明」との区別がつかず、
一緒くたにしているのです。
大事なところですから、重ねて申しましょう。
「遍照の光明」に照らされていない人は一人もありませんが、
「摂取の光明」に遇わねば「摂取不捨の利益」は頂けず、
死後、弥陀の浄土へも往かれません。
「誰でも彼でも死ねば浄土に往ける」のではない。

だからこそ親鸞聖人は、朝晩の勤行(おつとめ)で、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
とおっしゃって、
早く弥陀の『摂取の光明』に遇わせて頂きなさいよ。
平生の一念に、未来永劫の浮沈が決するのだからね」
と、現在ただ今の救いを強調されているのです。


 


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阿弥陀仏とお釈迦さまの関係とは!? [阿弥陀仏]

本師本仏の阿弥陀仏

「阿弥陀仏」といわれる仏さまは、どんな方でしょうか。
世間ではお釈迦さまといっても阿弥陀仏といっても、
レッテルが違うだけで、
同じ仏さまだろうと思っている人があります。
しかし、それは大変な間違いです。
お釈迦さまと阿弥陀仏とは、全く違う仏なのです。
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんので、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、今から約2600年前、
インドで活躍された方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の悟りを
開かれてから、
80歳でお亡くなりになられるまでの45年間、
教えていかれたみ教えを、
今日、仏教と言われます。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏の悟りを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しにきたのだよ」と、
私たちに教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまです。


(蓮如上人:親鸞聖人の教えを一器の水を一器に移すかのごとく、
一切自分の考えを入れずに正確に日本中に伝えられた高僧
親鸞聖人は、真実の仏教である「弥陀の本願」を誰よりも鮮明に教えられた方)

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阿弥陀仏とお釈迦さまとの関係について、
蓮如上人は『御文章』に次のようにおっしゃっています。

ここに弥陀如来と申すは、
   三世十方の諸仏の本師本仏なれば

お釈迦さまは、地球上ではただ一人の、
仏のさとりを開かれた方ですが、

大宇宙には地球のようなものが
数え切れないほどあります。
その大宇宙には、数え切れないほどの
仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。

よく知られているのは、大日如来とか、薬師如来とか、
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
それらの仏も皆、十方諸仏の一人です。

「本師本仏」とは、本師も本仏も先生ということですから、
この大宇宙の仏方の先生だということです。
これはお釈迦さまがおっしゃっていることなのですが、
親鸞聖人も明らかにされ、
蓮如上人もこのように言われているのです。

「阿弥陀仏は十方諸仏の先生である」ということは、
「大宇宙の仏方は皆、阿弥陀仏のお弟子」
ということです。

諸神の上が、弥勒や観音、地蔵菩薩などの菩薩であり、
その菩薩の上が諸仏ですが、

それらは皆、阿弥陀仏のお弟子です。

地球上では三大聖人、二大聖人といっても
常にトップに挙げられるお釈迦さまも、
十方諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦の関係は、師匠と弟子、
阿弥陀仏を先生をするなら、
お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方が、
阿弥陀仏のことを、
「偉大な仏さまだ、尊い仏さまだ、われらの先生だ」
と讃めたたえて、
手を合わせ、拝んでおられるのです。


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●仏教=弥陀の本願

仏教の教えのすべては、今日、
一切経といわれるものに書き残されています。
それは七千余巻という膨大なお経の数です。
仏教に何が教えられているかを知るには、
この一切経を余すところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。
ところが難しい漢字ばかりのお経ですから、
誰でも全部読めるものではありませんし、
理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれています親鸞聖人は、
その一切経を何回も読み破られ、
「お釈迦さまの教えていかれたことは、
これ一つなんだよ」と、
『正信偈』に次のように書かれています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

「如来、世に興出したまう所以は、唯、
弥陀の本願海を説かんがためなり

と読みます。
「如来」とは、釈迦如来、すなわちお釈迦さまのこと。
「世に興出したまう所以は」とは、
「お釈迦さまが、この地球上に現れて
仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、
「ただ一つのことを説かれるためであった」
ということです。

七千冊以上のお経があり、
四十五年間教えられた、と聞くと、
「お釈迦さまは、いろいろなことを説かれたのだろう」
と思う人もあろうが、そうではない。
お釈迦さまの教えられたことは、
たった一つなのだと、
親鸞聖人は断言なされています。

一切経の99パーセント読んでも、
こんな断言はできません。
後の1パーセントに何が書かれてあるか
分からないからです。

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私たちは釈迦が教えられた、
そのたった一つのことを聞けば、
仏教すべてを聞いたことになり、
仏教のすべてを知ったことになるのです。
だから釈迦のただ一つ説かれた、
そのことほど大事なことはありません。
親鸞聖人は、それこそ「弥陀の本願」である、
とおっしゃっています。

弥陀の本願とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
阿弥陀仏という仏さまが本当に願っていられる御心は、
大変広くて深いので、
海に例えて「本願海」と言われています。
弟子の使命は、先生の御心を正確に、
一人でも多くの人にお伝えすること以外ありません
から、
お釈迦さまも45年間、
自分の先生である阿弥陀仏の本願以外、
教えていかれなかったのだと
断言されている親鸞聖人のお言葉に、
深くうなづかずにはおれません。

お釈迦さまが、阿弥陀仏の本願一つを
明らかにされたように、
親鸞聖人の九十年の生涯も、
阿弥陀仏の御心以外には、
教えられたことはありませんでした。

では、その「本願」とは、どういうことでしょうか。


(世界の光・親鸞聖人アニメより)

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弥陀の本願とは

「本願」とは、「誓願」ともいわれるように「約束」のこと。
ですから「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。

阿弥陀仏は、次のように誓われています。

(弥陀の十八願)

設我得仏 十方衆生
至心信楽 欲生我国
乃至十念
若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法

我を信じよ
どんな人も必ず救う
絶対の幸福に

約束には必ず相手があります。
弥陀のお約束の相手を、「十方衆生」、
すなわち「すべての人」とおっしゃっています。

この中に入らない人は一人もありません。
男も女も、老いも若きも。
才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、
どんな人とも約束する、と誓われているのです。

では、どのような約束をなされているのでしょうか。
約束で一番大事なのは、その内容。
金銭の貸借で言えば、金額に当たります。
阿弥陀仏は、「絶対の幸福に、必ず救い摂る」
と誓っておられます。

「絶対の幸福」とは、「歎異抄」には「摂取不捨の利益」とか、
無碍の一道」と書かれているように、
絶対に崩れない大安心、
色あせない大満足のことです。

その絶対の幸福に、平生ただ今、
必ず救い摂ってみせると誓われているのが、
弥陀の本願なのです。

私たちは、何のために生まれてきたのか、
どこへ向かって生きているのか、
なぜ苦しくても生きねばならないのか、
全く分かりません。
親鸞聖人は、
「この世で阿弥陀仏の本願により、
絶対の幸福に救い摂られ、
死ねば弥陀の浄土へ往って、
弥陀と同じ仏に生まれることである。」
と教えています。


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阿弥陀仏のご念力(光明)とはいかなるものか [阿弥陀仏]

『正信偈』の冒頭、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」の二行は、
阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!

という聖人の魂の叫びです。

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同じことを繰り返されているのは、
二回、三回だけではない、
何万回言っても言い尽くせぬ歓喜の表明なのです。

では聖人が、「救われたぞ!」と叫んでおられるのは、
何のことでしょうか。

無限に言わずにおれないほどの喜びとは、
いったいどうなったことなのでしょうか

世の中にうれしいことはいろいろあります。
オリンピックで金メダル、世界の栄誉ノーベル賞、
宝くじで3億円が当たる。
いずれも狂喜乱舞することでしょうが、
聖人の歓喜は、それらとは全く質が異なります。
「親鸞、弥陀に救い摂られたぞ!」
と踊躍歓喜されているのは、平生の一念に、
「後生の一大事を解決された」ことなのです。

「後生の一大事」とは、どんなことなのでしょうか。

仏教の目的・・・後生の一大事

4歳でお父さま、8歳でお母さまを亡くされた聖人は、
今度死ぬのはオレの番だ、死ねばどうなるのか”
と驚かれ、9歳で仏門に入られました。

死後がハッキリしない。
どれだけ考えても分からない。
真っ暗がりの後生を、仏教では「後生の一大事」といわれます。

“後生暗い心のまま一息切れたならば、
暗い世界に堕ちねばならぬ、
なんとしても後生明るくなりたい”と、
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
のお歌とともに聖人が出家されたのは、
9歳の御時でした。

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私たちは皆、「明日がある」と思っています。
だからこそ、明日はこうしよう、
明後日はあれをしよう、来年は留学しよう、
などと計画を立てているのです。

さらに、20年後はこうして、
30年後はああなって、と夢を描いている、
これが「明日ありと思う心」です。
ところが、今晩死ねば今晩から後生、
「明日はなかった」ことになる。
「明日ありと思う心」は、必ず裏切られるのです。

(平成20年のとどろきより載せています)
先日も、大阪・ミナミの個室ビデオ店の火災で
16人は亡くなりました。
夜中の2時、放火による一酸化炭素中毒でした。
犠牲者の一人は、5年程前、介護福祉士を目指して
大阪市内の介護サービス会社に入社。
知人らに「一生を介護にささげる」
と意気込みを語っていたそうです。
同僚の男性は、
「お年寄りの入浴など体力が必要な仕事も
進んで引き受けてくれた。
一緒に飲みに行き、夢を語っていたのに信じられない」
と沈痛な表情を浮かべたといいます。
思い描いていた明日の夢が、
一夜で絶たれた悲しい事件でした。
今日も、交通事故や災害、病気で亡くなる人が、
どれだけあるか分かりません。
老少不定で、年齢は関係ないのです。
これを書いている私も、読まれている皆さんも、
遅くとも百年のうちには、
「明日がない」という「今日」を迎えねばなりません。
それがいつかは分かりませんが、
早ければ今晩かもしれない。
ということは、「明日がある」と思う心は、
まったく当てになりません。

これを聖人は「あだ桜」といわれ、
“咲き誇る満開の桜も、夜中に一陣の嵐で散ってしまう。
その桜より儚いのが私の命。
明日とは言ってられません、どうか今、出家させてください”
と、切迫した心境を歌われているのです。

親鸞聖人が仏道を求められた目的は、
富や名声を得ることでもなければ、
学問や地位のためでもない、
「後生暗い心」の解決一つであったことが、
お分かりになるでしょう。

そのために29歳まで20年間、
比叡山で血のにじむ修行に打ち込まれました。

救いたもう仏は、弥陀一仏だけ

ところが、どれだけ求めても、
暗い後生に明かりを灯すことはできませんでした。

泣く泣く下山され、どこかにこの一大事、
解決の道を説かれる方はないか、
導きたもう高僧ましまさぬのかと、
京の街をさまよっておられた聖人が、
やがて「阿弥陀如来の本願」を説かれる
明師・法然上人に巡り遇われたのです。

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釈尊がこの世にお出ましになられたのは、
阿弥陀如来の本願一つを説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、
救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、
比叡での難行・苦行も、京都・奈良で学んだ、
華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、
なりませんでした。
泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、五回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が光明輝く心に救い摂られたのです。
その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。
よくよく聞いてください


法然上人の一言一言は、甘露の法雨となって
渇き切った魂を潤していく。
雨の日も風の日も聖人はひたすら、
法然上人から「弥陀の本願」を聞き求められました。
そして29歳の御時、
“この親鸞を救いたもうお方は、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀如来ただお一人であった”
と、往生一定の「後生明るい心」に救い摂られた大満足を、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!」
と叫ばれているのが、
『正信偈』の最初の2行なのです。

闇に泣き、光を求めて20年。
待って待って待ちわびた「弥陀の救い」に、
ようやく遇えた大歓喜の告白です。

「弥陀に救われた」とは、だから、
生きている現在、「後生暗い心」がぶち破られて、
“いつ死んでも浄土へ往ける”
大安心の身に救い摂られたことであることが、
お分かりになるでしょう。

これを「後生の一大事の解決」といわれます。

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では、どうして阿弥陀如来は、
現在ただ今ハッキリ救うことができるのか。
「後生の一大事」を解決して下さる弥陀のお力とは、
どういうものなのか。

それについてはお釈迦さまが
『大無量寿経』に説かれていることを、
親鸞聖人は実体験され、

『正信偈』に褒め称えておられるのが、

「十二光」といわれるものです。
「光」とは、仏さまのお力、ご念力のこと。
「光明」とも言われます。

阿弥陀如来の光明(お力)を、
十二に分けて教えられているのです。
今回は「無辺光」「無碍光」「無対光」「光炎王光」
について述べましょう。

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無辺光

「無辺光」とは、阿弥陀如来のお力には
「ほとりがない」こと。
阿弥陀如来のお力の届かぬ所はない、
どんなところにも、働いてくだされている。
ここには阿弥陀如来のお力がかかっていない」というところは、
地球上にも、大宇宙にもどこにもない。

ですから、「いつでも助かる」ということです。
畑仕事している時でも、風呂に入っている時でも、
出張している時でも、病院のベッドにいる時でも、関係ない。
「ここにいる時でないと助からない」とか、
「あそこにいては救われない」ということは、
一切ない。
弥陀の救いは、いつ、どこで、ということは決まっていません。
その阿弥陀如来のお力を、
「無辺光」と言われているのです。

●「無碍光」の「碍」は障碍、さわりということですから、
「無碍光」とは、「遮るものがない」阿弥陀如来のお力のこと
阿弥陀如来のお力は、遮蔽するものがない。
妨げるものが何もありません。

「無碍光」ですから、
私たちを「無碍の一道」に出させてくださるのです。
「無碍の一道」とは、欲や怒り、
ねたみやそねみなどの煩悩も、
浄土往生の碍りとならない大安心のこと。

親鸞聖人は、この不可思議な世界に雄飛せられた体験を、
『歎異抄』には、
「念仏者は無碍の一道なり」(第七章)
と高らかに宣言されています。

無対光

「無対光」とは、「対するものがない」
阿弥陀如来のお力のこと。

他に比べるものがない。
大宇宙のすべての仏方が束になっても到底及ばぬ、
もの凄いお力である
ことを、
お釈迦さまは、

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり 
 
  
           (大無量寿経)
諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無限なり

           (大阿弥陀如来)

とも説かれています。

大宇宙の仏方に見捨てられた極悪の私たちを、
「我一人助けん」
とただ一仏奮い立たれて、
「無碍の一道」に助け切ってくだされる
のが
阿弥陀如来ですから、その無類の光明を「最尊第一」
「最明無極」と言われ、
「無対光」と絶賛されて当然でしょう。

光炎王光

仏教では、“私たちが人間に生まれるには、
五戒といわれる色々の戒律を持たね(たもたね)ばならない”
と教えられている
のですが、
法の鏡に照らされて自分の姿をよくよく見れば、
とてもそんな戒律を持って(たもって)きた殊勝な者とは思えない。

では、どうしてそんな私が、人間に生まれることができたのか。
人界受生の難しさを知れば、
なおさらそう思わずにおれないでしょう。
源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に
比ぶべからず  
  
         (横川法語・よかわほうご)

まず、人間に生まれることはいかに有り難く、
喜ぶべきことかを、地獄・餓鬼・畜生界といわれる
苦しみの激しい三つの世界と比較して、
分かりやすく教えておられるお言葉です。


では、その人間に生まれたのは何のためでしょうか。
仏法を聞くためなのだと、
親鸞聖人は断言されています。

仏法を聞いて「後生の一大事」を解決し、
「人身受け難し、今已に受く」
“人間に生まれてよかった”
という生命の大歓喜を獲るため、
一切の碍がさわりとならぬ
「無碍の一道」へ出るための人生なのだよと、
親鸞聖人は生涯教え続けていかれました。

その仏法を聞くことができるのは、
六道の中で人間界だけですから、
阿弥陀如来が私たちを、なんとか仏法を聞かせて
「無碍の一道」に出させるために、
その人間界に生まれさせてくだされた絶大なお力を、
「光炎王光」と言われているのです。

(※六道とは、苦しみの絶えない6つの世界。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界をいう)


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