So-net無料ブログ作成
検索選択

真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

前の3件 | -

疑謗破滅、盛んな悪世 [一向専念無量寿仏]

五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅(ぎほうはめつ)さかりなり
       (正像末和讃)
これは親鸞聖人が書き記されたご和讃の一つです。
和讃とは、仮名交じりの4行詩で教えを説かれたものをいいます。

最初の「五濁」とは、「五濁悪世」のことで、
四方八方愁苦に満ちた世の中の、
古今東西変わらぬ実態をいわれたものです。
今日も、地震や津波、台風、洪水などの自然災害は絶えず、
テロや大事故、親殺し、子殺しが、日々報じられています。

今年の7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設で、
19名が死亡、26名が重軽傷を負う戦後最悪の殺人事件が起きた。
寝静まった深夜に施設に入り込み、
障害者を刃物で次々と切りつけた元職員の男は
「障害者なんていなくなればいい」と語っていたという。

フランスのニースでは7月14日に、
花火大会の観光客を狙ったテロ事件が発生。
犯人は、大型トラックで花火見物の群衆に突っ込み、
約2キロにわたって次々とはね飛ばした。
未成年者10名を含む84名が亡くなり、
負傷者は200名を超えた。

アメリカのフロリダ州では6月12日、
アメリカ史上最悪となる銃乱射事件で49名が亡くなり、
53名が負傷する大惨事が起きた。

不安を除き、生活を豊かにするために、政治や経済、
科学や医学は努めてきましたが、人々の苦悩は絶えることがなく、
2600年前のお釈迦さまの時代も、親鸞聖人の800年前も、
今日も、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」の現実は少しも変わりません。
「道俗ともにあらそいて」とは、「道(どう)」は僧侶、
「俗」は俗人(在家の人)のことですから、
「道俗」で世間中の人々という意味です。
世間中が一緒になって、「念仏信ずる人」を激しく「疑謗破滅」してくる、
と聖人は仰っているのですが、一体、どういうことなのでしょうか。

●「念仏信ずる人」とは

まず「念仏信ずる人」についてお話ししましょう。
ここで「念仏」といわれているのは、「南無阿弥陀仏」のことです。

「南無阿弥陀仏」とは何か。
蓮如上人は『御文章』に、次のように教えられています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり   
(御文章五帖目十三通)

(南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、
そんなすごい力があるとは誰も思えないだろう。
だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、
南無阿弥陀仏(六字の名号)の真価を知る知恵がないからである。
本当な南無阿弥陀仏の六字の中には、
どんな人をも無上の幸福にする、
釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである。)

「南無阿弥陀仏」とは、五濁悪世で苦悩にあえぐ
私たちを絶対の幸福に救うために、
本師本仏の阿弥陀仏が完成された、
大宇宙の功徳(宝)の結晶なのです。

そして、私たちを助ける力があるのは、
大宇宙広しといえども、阿弥陀仏の創られた
南無阿弥陀仏(名号)以外にないことを、
蓮如上人は『御文章』に次のように仰っています。

それ十悪・五逆の罪人も、ー乃至ー空しく皆十方・三世の諸仏の
悲願に洩れて、捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、ー乃至ー弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり

                 (御文章二帖目八通)
(すべての人は三世・十方の諸仏から、
「助ける縁なき者」と捨てられた極悪人である。
そんな私たちを本師本仏の阿弥陀如来のみが、
ただ一人「私が助けよう」と奮い立たれて崇高な大願を建てられた。
そして、自身の誓いを果たさんがため、
どんな極悪人も助ける力のある名号(南無阿弥陀仏)を完成し、
万人にその名号を与えて救う準備は、
すでに完了されているのである。)

では、“念仏(南無阿弥陀仏)を信ずる”とは、
どういうことなのでしょうか。
それは、南無阿弥陀仏の大功徳を阿弥陀仏から受け取ったことで、
これを「信心獲得」といわれます。
蓮如上人はこのことを、

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり

              (御文章五帖目五通)
と教示されています。

南無阿弥陀仏の偉大な働きを以前に詳説したように、
この六字の名号には、私たちを絶対の幸福に助ける無限のお力があります。
ですから、私たちが南無阿弥陀仏を弥陀より賜った一念に、
最高無上の幸せになれるのです。
もちろん、死んでからのことではありません。
現在ただ今の救いですから、弥陀の救いを「平生業成」といわれるのです。

「念仏信ずる人」と親鸞聖人が仰っているのは、
弥陀より名号を賜って、絶対の幸福に救い摂られた人のことであり、
「弥陀より他に我々を助ける力のある仏はなかった」と信知させられ、
「一向専念無量寿仏」を伝える人のことです。
それは、聖人ご自身のことでもあります。

●仏教の結論「一向専念 無量寿仏」

「一向専念無量寿仏」とは、お釈迦さまのお言葉です。
無量寿仏は阿弥陀仏のことですから、
阿弥陀仏以外に助けてくださるお方はないから
弥陀に一向専念せよ、必ず絶対の幸福に救われると釈迦は、
仏教の結論として教えられたのです。
ゆえに、親鸞聖人の「一向専念無量寿仏」のご布教は、
徹底したものでした。
なぜなら、死んで浄土に往生できるか否かは、
「生きている今、弥陀に一向専念するか、否か」で決するからです。

そのことを、
一向専念の義は、往生の肝腑(かんぷ)、自宗の骨目なり
とズバリ喝破されています。

また、次のようにも仰せです。

かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
 (悲歎述懐和讃)

(なんと悲しいことか、国中の僧侶も在家の者も、
外面は仏法者を装っているが、内心は天地の鬼神を敬っている)

僧侶は、衣を着て寺に住まいをして、仏法者の格好だけはしている。
門徒も家には仏壇があり、葬式は寺で勤め、
仏教信者のようにふるまっている。
しかし実態はどうか。僧俗ともに、「一向専念無量寿仏」の教えに背いて
鬼神を信仰し、敬い頭を下げて、現世利益を祈っている者ばかり
であるこを嘆かれています。

浄土真宗が世間から「一向宗」とまでいわれるようになったのも、
親鸞聖人がこのように、一向専念の教えを徹底していかれたからなのです。
その「念仏信ずる人」を、世間中が激しく疑謗破滅してくる、と
言われているのが、
「念仏信ずるひとをみて、疑謗破滅さかりなり」
の聖人のお言葉です。

「疑謗破滅」とは、「疑」は疑う、「謗」は謗る、
「破滅」とは妨害・迫害すること。
今日は「世界の光」と仰がれる親鸞聖人ですが、当時、
どのような疑謗破滅を受けられたのでしょうか。

●親鸞さまの受けられた疑謗破滅

親鸞聖人は、29歳の御時、法然上人に巡り会われ、
本当の仏教、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになりました。
そして、弥陀の本願によって絶対の幸福(往生一定)に救い摂られたのです。
すぐに法然上人のお弟子となられた親鸞聖人は、
「一向専念無量寿仏」の布教活動に挺身(ていしん)されています。

31歳の肉食妻帯は、すべての人を救い切る弥陀の大願の、
破天荒の布教でありましたが、それは「狂人」「悪魔」「堕落坊主」と、
世間中から集中攻撃の的となっていった。

また当時、弥陀一仏の救いを説かれる京都吉水の法然上人の元へは、
農民、町民、武士や貴族など、あらゆる人々が群参し、
法然上人の信奉者が急増。
ところが法然一門の急速な発展に恐れを成した南都(奈良・興福寺)や
北嶺(比叡山・延暦寺)などの仏教各派は、
強い危機感を抱き、やがて聖道諸宗が一丸となり、
前代未聞の朝廷への直訴となった。
その結果、承元元年(1207)2月、念仏は停止、
「一向専念無量寿仏」の布教は禁止、吉水の法然門下は解散。
法然上人は四国の土佐(高知県)へ流刑、
お弟子四人が死罪、親鸞聖人を含む7人が遠流となっています。

IMG_20161212_0007.jpg-1.jpg

親鸞聖人には、初め死刑の判決が下りましたが、
関白九条兼実公の計らいで、辛くも流刑となった。
聖道諸宗と権力者が結託しての日本仏教史上かつてない大弾圧は
「承元の法難」と今日いわれています。
聖人35歳の時のことでした。
流刑の地、越後(新潟県)で5年を過ごされた聖人は、
40歳を過ぎてから関東へ。その関東布教も、
吹きすさぶ逆風の中の20年でした。

還暦を過ぎてから生まれ故郷の京都に戻られた晩年の聖人にも、
疑謗破滅は止むことはなかった。
84歳の老聖人に、ご長男の善鸞を義絶せねばならぬという
悲しい事件が起きたのです。
信頼して関東に残してきた長子・善鸞が、事もあろうに
「一向専念無量寿仏」の教えを破壊していると知られた聖人は、
何度もいさめの手紙を出されました。
しかし、善鸞は一向に改めない。
今はこれまで。わが子のために大衆を地獄へ堕とすことはできぬと、
断腸の思いでついに義絶。
親子の縁を切ってまで聖人は、
弥陀の本願の真実を護り抜いてくださったのです。
悲憤の涙でつづられた義絶状にも、世人の嘲笑罵倒が湧き上がった。
「家庭を破壊して、何の仏法か」
「わが子さえ導けぬ親鸞に、人が導けるか」
仏法を家庭円満の道具のように誤解し、
弥陀の本願を知らぬ人たちには、
格好の攻撃材料だったに違いありません。
聖人90年の波乱万丈で、最もつらい非難だったでありましょう。

●蓮如上人への非難攻撃

激しい疑謗破滅は、親鸞聖人のみならず、
500年前の蓮如上人にも襲いかかりました。
「一向専念」について、蓮如上人は『御文章』に
次のように教えられています。

心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし

              (御文章五帖目一通)

阿弥陀仏以外に私たちを助ける力のある仏はないのだから、
弥陀一仏に向き、信じなさいよ、と懇切にご教示くださっています。

蓮如上人が43歳で法主に就任された当時の本願寺は、
本堂はわずか三間四面、比叡山延暦寺の末寺として、
辛うじて存続を許されている状況だった。
親鸞聖人のみ教え徹底に立ち上がられた蓮如上人は、
本堂から天台色を一掃され、親鸞聖人のみ教えどおり、
阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神の木像、絵像を撤廃し、
「南無阿弥陀仏」の名号のみを御本尊とされた。

その後、上人の卓越したご布教により、本願寺は急速に発展。
一方の天台宗・延暦寺は、支配地が次々に浄土真宗に変わって
収入が減り、不満が鬱積していった。

IMG_20161212_0009.jpg-1.jpg

寛正6年(1465)、ついに暴徒化した叡山の僧兵らが本願寺を襲い、
完全に破壊した(寛正の法難)。
辛うじて難を逃れられた蓮如上人は、その後、
畿内各地を転々と布教される。
僧兵たちは執拗に上人のお命を狙い続けた。
ご説法中の襲撃も数知れない。
橋の下や洞窟に身を隠されたり、
農家がもみ殻やぬかを捨てる穴に潜まれることもあった。
「蓮如の首を取った者には、賞金を与える」
比叡山は、こんな高札をほうぼうに立てて、
村人にまで上人を狙わせた。
滋賀県山間部の日野町に、次のような話が伝えられている。

蓮如上人が、日野町の正崇寺へご布教に赴かれた時、
賞金に目がくらんだ豪族が、
上人殺害を企てているとの知らせが入った。
上人は、お弟子の誘導で、6キロ山手の寺に避難されたが、
間もなく敵が追ってきたので、再び3キロ先の寺に行かれた。
そこにも敵が迫り、さらに5キロ先の険しい山奥へと入られた。
夜も更け、蓮如上人も大変お疲れになっている。
お休みいただく所はなかろうかとお弟子が山中を探すと、
炭焼き窯があった。
山肌に大きな穴が開いたような窯の中へ上人は入られ、
お弟子が炭焼き人に変装して、明け方まで窯の前で見張りをし、
お護りしたという。

IMG_20161212_0010.jpg-1.jpg

生命の危機が迫りながらも、蓮如上人は各地を布教に歩かれ、
熱烈に弥陀の本願を徹底していかれたことが、
アニメ映画『なぜ生きる━蓮如上人と吉崎炎上』に描かれています。

このように、「弥陀の本願以外に助かる道なし」と
一向専念無量寿仏を徹底して伝える人に、
激しい非難攻撃のあることを、釈迦は2600年前に既に教えられ、
親鸞聖人も、
「お釈迦さまの仰せのとおりであったなぁ」
と、ご和讃に、
五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅さかりなり

と仰っているのです。

しかし聖人は、どんな非難中傷も恥とせず、
弥陀の本願宣布を妨げる一切を、斬り捨てられ、
ひたすら一向専念の道を突き進まれました。

唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず(教行信証)
(ただただ深き阿弥陀仏のご恩が知らされ、世間の非難中傷など、
気にしておれない。)

いかなる苦難にも屈せず、ひとえに、限りなき阿弥陀如来のご恩に
感泣される親鸞聖人の聖容(せいよう)が彷彿とするではありませんか。


nice!(12)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

だまされて地獄に堕ちても後悔しない [親鸞聖人]

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(
親鸞聖人・恩徳讃)

(阿弥陀如来の洪恩は身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた師主知識のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ)

法然上人からお受けした大恩は、
命懸けても返し切れませぬとまで仰った聖人の御心を、
今回は、有名な『歎異抄』第二章の次のお言葉に学びたいと思います。

たとい法然聖人にすかされまいらせて、
念仏して地獄に堕ちたりとも、
さらに後悔すべからず候

(法然上人になら、だまされて地獄に堕ちても、
親鸞、さらに後悔はしない)

「あの人にならだまされても後悔しない」
と言い切れる人は果たしてあるでしょうか。
いくら借金を頼まれても、不正直な者には、
とても貸せません。
「この人は、だますような人ではない」
と信ずればこそ、私たちはお金を貸すのですが、
深く信用して貸した相手に大金をだまし取られたら、
後悔どころでは済まないでしょう。
「だまされても後悔しない」
という信じ方は、この世にありえないことなのです。
法然上人への信頼と尊敬の念は、
かくも強く、深いものであったのか、
と驚かずにはおれません。

●暗い後生に驚き、出家なされた聖人

では、親鸞聖人のこの確言は、どこからなされたものなのでしょうか。

聖人は、幼くして両親を亡くされ、
真っ暗なわが身の後生の解決一つを求めて、
わずか9歳で比叡山・天台宗の僧侶となられました。
それから20年間、血みどろのご修行は、
ひとえに後生の一大事解決のためでした。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』第一巻には、
「人間は煩悩に汚れ、悪しか造れない。
だから後生は地獄と釈尊は仰る。
私の心の中にも、欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り、
ネタミ・ソネミの心がとぐろを巻いている。
どうすれば、この煩悩の火を消し、
後生の一大事を解決することができるのか」
とひたすら修行に打ち込まれる場面が描かれています。

IMG_20161127_0001.jpg-1.jpg

人間は、欲や怒り、ネタミ・ソネミなどの煩悩で日々、
悪の造り通しだから、自業自得で一息切れた後生、
苦患に沈む一大事が引き起こるとお釈迦さまは仰せです。
この地獄の解決のために聖人は、
比叡山で煩悩と格闘する修行を20年間も続けられたのです。

しかし、いかに難行苦行に身を投じられても、
全く明かりの見えぬ後生に、ついに下山を決意。
京の町を当てもなく徘徊され、絶望の淵に沈んでおられた聖人が、
阿弥陀仏の本願一つを説かれる法然上人にお会いして、
ついに後生明るい心に救い摂られたのです。
聖人、29歳の御時のことでした。

「地獄に堕ちたくない」と、青春の全てをかけて
後生の一大事の解決を求められた親鸞聖人が、
「法然上人にだまされて、地獄に堕ちても後悔はない」と、
何のためらいもなく言い放たれたのは、なぜか。

例えば、知人が「必ず返すから、一千万円お借りしたい」
と言ってきた。
信頼の置ける知人なので貸しはしたが、
「本当に返してくれるだろうか」の疑念は一千万円が返済されるまで
晴れることがない。
そのまま持ち逃げされれば“だまされた”と後悔する。
しかし、約束の期日までに利子をそろえて返済されたら、
「約束は本当だろうか」の疑いは一切なくなる。
約束は果たされたのだから、もう“だまされようがない”でしょう。

IMG_20161127_0002.jpg-1.jpg

●「弥陀の本願まこと」の大宣言

親鸞聖人は、法然上人から
「どんな人も、煩悩あるがままで、必ず往生一定の絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の本願を開かれました。
本願とは、誓願ともいい、お約束のことです。
比叡山で20年間、煩悩と格闘され続けた聖人にとって、
煩悩あるがままの弥陀の救いは
青天の霹靂ともいうべき衝撃であったに違いありません。

「阿弥陀仏のお約束は、本当だろうか」
この弥陀の本願を疑う本願疑惑心は、
約束どおり絶対の幸福に救われた一念で金輪際無くなります。
二十九歳で弥陀の本願に救い摂られた親鸞聖人は
「本願まことだった」と、次のように宣言なさっています。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証総序)
(まことだった、まことだった!
弥陀の本願、本当だった!)

それは、煩悩あるがままの弥陀の救いであることを、
聖人は次のようにご和讃に仰っています。

超世の悲願聞きしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土にあそぶなり
(帖外和讃)
(弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。
欲や怒り、ネタミ・ソネミの煩悩は少しも変わらないけれども、
心は極楽で遊んでいるように、明るく愉快だ)

有名な『歎異抄』第九章では、
煩悩の他に何もない私たちを助けんがための弥陀の本願であった、
と疑いなくハッキリ知らされ、

仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり

(阿弥陀仏は、とっくの昔から私たちを
“煩悩の塊”とお見抜きになっている。
弥陀の本願は、このような煩悩以外に
何もない私たちのためだったと知られて、
いよいよ頼もしく思えるのだ)

と、弥陀の救いにあわれた慶喜を仰っています。

このように、“弥陀の本願まこと”とツユチリも疑いもなく
ハッキリ知らされた心こそ、親鸞聖人が一生涯、
明らかにしていかれた「真実の信心」なのです。

親鸞聖人の教えを最も正確に、
最も多くの人に伝えられた蓮如上人は『御文章』に、

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
                 (聖人一流章)
(親鸞聖人が一生涯、教えられたことは、ただ信心一つであった)

と仰っています。
ここで「信心」といわれているのは、
仏や神にゴリヤクを祈念することや、
神仏を深く信じて疑わないように努める
世間一般の信心とは根本的に異質のものであることを
知らねばなりません。
一般に「信じる」とは、疑わないことだと思われていますが、
疑いがあるから私たちは信じなければならないのです。
疑いようのない明らかなことならば「知っている」と言います。
「信じている」とは言いません。
「夫は男だと信じている」と言う妻はないでしょう。
疑いようがないからです。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に晴れます。
「必ず絶対の幸福に救う」という約束の疑いは、
「絶対の幸福になった時」に晴れるのです。

IMG_20161127_0003.jpg-1.jpg

●露チリの疑いもなくなった真実の信心

聖人が「信心」と仰るのは、
この「弥陀の本願(約束)に露チリほどの疑いもなくなった心」です。
私たちが、裏切られたらどうしようと、
不安な心で疑うまいと努める「信心」とは全く違いますから、
聖人は「真実の信心」と仰るのです。

真実の信心についてお約束には、

信心という二字をばまことの心と読めるなり、
まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり

と説かれています。
弥陀の本願に疑い晴れた信心とは、
「まことのこころ」だから、まことなき私たちの
持ち合わせていない心です(凡夫自力の迷心に非ず)。
それは、阿弥陀仏から賜った仏心(南無阿弥陀仏)なのです。
阿弥陀仏から、この真実の信心(仏心)を頂いた一念に
“本願まこと”と疑い晴れ、
絶対に裏切られることのない絶対の幸福になるのです。

IMG_20161127_0004.jpg-1.jpg

「弥陀の本願まことだった」と真知させられた親鸞聖人にとって、
その本願を伝えてくだされた恩師・法然上人の仰せも
また疑いようのない“まこと”でありました。
阿弥陀仏と法然上人とが一直線上にあった親鸞聖人ゆえに、
「法然上人になら、だまされて地獄に堕ちてもさらに後悔はない」
と言い切られたのです。

●一貫して変わらぬ「恩徳讃」の御心

終わりに、聖人のご生涯を一貫して変わらぬ「恩徳讃」の御心について、
主著『教行信証』の最後のお言葉に学びましょう。

慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良に(まことに)師教の恩厚を仰ぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(乃至)
唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず
  (教行信証後序)

「心を弘誓の仏地に樹て」とは、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救い摂られ、
“本願まこと”が明らかに知らされたこと。
「念を難思の法海に流す」は、苦悩渦巻く煩悩一杯が、
大満足の不思議な世界に生かされたことを言われています。
「如来の矜哀」とは、阿弥陀如来の大悲、
「師教の恩厚」「至孝」とは、弥陀の大悲を正しく
伝えてくだされた釈迦・七高僧方のご恩のことです。
「悲しきかな」「慶喜いよいよ至り」と仰っているのは、
色あせることなき無上の幸福に救われた大歓喜の表明です。
そして、「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」
のお言葉は、「この阿弥陀如来の大恩を念う時、世の人々の嘲笑、
罵倒、非難攻撃など物の数ではない。
命懸けてもこの親鸞、本願のまことを伝え抜くぞ」と仰っているのです。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
(親鸞聖人)

親鸞聖人が、この「恩徳讃」そのままに全身全霊
伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を
“誠なるかなや、弥陀の本願”と明らかに知らされる一念まで、
真剣に聞かせていただきましょう。


nice!(8)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

「有無同然」と苦しみの根元 [苦しみの根源]

お釈迦さまが、生涯説かれた仏教の目的は、
漢字四字で、
抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)」
といわれています。
ここで「抜」くといわれる「苦」とはいかなる苦しみか。
「与」えられる「楽」とはどんな幸せなのでしょう。
仏教は、私たちの人生を苦しみに染める根本の原因を
抜き取り、本当の幸せを与える教えなのです。
今回はそれについてお聞きしましょう。


仏教は
    「魂の根本治癒」を説く

........................................

●「人はなぜ不安なのでしょう?」

以前、新聞の人生案内に、四十代女性のこんな相談が
掲載されたことがあります。

「数年前に離婚し、母と2人暮らし。
幸せな人生とは何なのか考えています。
母は高齢で、亡くなった父は、
いずれ一人になる私を心配していました。
年老いて、一人で生きる自分を想像すると不安に駆られます。
婚活もしていますが、好きでもない相手との結婚は考えられません。
それでも人生に後悔はしたくない。
こんな私に活を入れてください」

作家の回答はこうでした。

「将来の不安は誰にもあります。
不安のない人間がいたら珍しい。
不安を克服して生きていくことが、
幸せと考えればよろしいのです」

あらゆる不安を根本から克服できれば、
私たちは真の安心を得て幸せになれるでしょう。
問題は、その不安の根本はどこになるのか、
ということです。
そこで、まず私たちが何を苦しみの原因と見ているか
考えてみましょう。

親鸞聖人は私たちの人生を「難度海」とか「生死の苦海」と仰って、
苦しみの海に例えられています。
その苦海の波間からは、しきりにこんな嘆きが聞こえてきます。
「金さえあれば」「子供が欲しい」「有名になりたい」
「管理職になれればなあ」「家を持ちたい」「恋人が欲しい」
などなど。
悩みを克服するために、私たちは自分に無いもの、
不足しているものを手に入れようと「無から有へ」の努力を、
日々続けています。
無いのは不幸、あれば幸せと思っているからでしょう。
それが本当に正しい努力ならば、金や物、名誉や地位などに
恵まれた人生は、喜びに輝くに違いありません。

IMG_20161121_0001.jpg-1.jpg

ギリシャの有名な実業家アリストテレス・オナシス(1906~1975)は、
商才を生かして成功し、海運王とうたわれた。
彼は結婚さえもビジネスの手段とし、
一度目は資産家の娘・アシーナと、
後にケネディ大統領の未亡人・ジャクリーンと再婚している。
そんな結婚生活の一方で、オペラ歌手のマリア・カラスを長年、
愛人とするなど、財力で思いのままの人生を生きた。
彼の死後、三歳の孫が相続した遺産の総額は一兆円ともいわれている。
最期の言葉はこうである。
「私の生涯は、黄金のじゅうたんを敷き詰めた
トンネルの中を走ってきたようなものだ。
トンネルの向こうには幸せがあると思い、
出口を求めて走ったが、走れば走るほど、
トンネルもまた長く延びていった。
幸福とは遠くに見える出口の明かりなのだろう。
だが黄金のトンネルからそこには、たどり着けないのかもしれない」

金や財、名誉や地位の無いのが苦悩の元凶ならば、
オナシスの一生は大満足のはずですが、
彼の言葉からは、そうは感じられません。

●欲望の追求が幸せか?他に道があるのか?

江戸時代、京都の紀伊国亦右衛門(きのくにまたえもん)は、
商才に恵まれ、経済的成功に向かっていましたが、
欲望のまま生きるのは、本当の幸福ではないと、
人生半ばで気づきました。

亦右衛門(またえもん)は、大きな商家で働く若い頃から、
才気豊かで利口だったので、大変かわいがられた。
ある時、主人が亦右衛門を呼んで言った。
「おまえは商才を持っている。金百両を与えるから、
思う存分好きな商売をやって一千両にしたら帰ってこい」

喜んだ亦右衛門は、早速、商売に出掛けた。
初めから大商いをしては失敗するかもしれぬ、
確実に利益をあげていこうと、
まず紙くずを買ってちり紙にすき直して売った。
3年間で三百両、5年間で千両の財産を作った。
「先年、頂きました百両で、千両の資本を作りました」
帰って挨拶すると主人は感心し、激励した。
「才能があると見込んではいたが、驚いた奴だ。
今度はその千両で一万両、作ってみよ」
5、6年後で彼は、千両を一万両にした。
主人が“今度は十万両に”と言ったので、
3年後にそれも成し遂げた。
欲が深まってきた主人は、さらにそれで百万両を、
と命じると、
「十万両を百万両にするのは、
百両を一万両にするよりたやすいことですが、
命あっての金であります。
どれだけあっても金は、これで十分とは思えません。
人間の欲には限りがない。
限りなき欲の奴隷に、私はなりたくはありません」。
亦右衛門は、キッパリ断って仏門に入っている。

●有る者は“金の鎖”、
      無いものは“鉄の鎖”で苦しんでいる

「無い」不安や苦しみを克服し、「有る」ようになっても、
そのことでまた新たな悩みが生じる。
経典にはお釈迦さまのこんなご教導があります。

田なければ、また憂(うれ)いて、田あらんことを欲し、
宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。
田あれば田を憂(うれ)え、宅あれば宅を憂う。
牛馬(ごめ)・六畜・奴ぴ・銭財・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ)、
また共にこれを憂う。有無同じく然(しか)り

          (大無量寿経)
(田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
その他のものにしても、皆同じである)

金、財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことを苦しみ、
有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”
につながれているようなもので、材質がなんであれ、
縛られ、苦しんでいることに変わりはない。
有無同然」と、これを言われるのは、
不安や苦悩の根本原因を見誤っているからなのだ、
とお釈迦さまは教示されているのです。

釈迦の説かれた『観無量寿経』をアニメーションにした
『王舎城の悲劇』でも、お釈迦さまは、
この有無同然の説法をされています。

IMG_20161121_0002.jpg-1.jpg

物語の主人公は、釈迦在世中のインドで最強を誇った
マガダ国のビンバシャラ王とイダイケ夫人。
この王様夫妻は、世継ぎの無いことに悩んでいたが、
後にようやく太子・アジャセが誕生すると、
今度は彼の暴力によって苦しむようになる。
この家庭悲劇を縁として、二人は初めてお釈迦さまの法話を
聴聞するのです。

IMG_20161121_0003.jpg-1.jpgg

人々よ。
心の頭を垂れて、我が言葉を聞くがよい。
人は苦を厭い、幸せを求めている。
だが金を得ても、財を築いても、常に苦しみ、悩んでいる。
王や貴族とて、皆同じである

お釈迦さまの説法を大衆は静かに聞いている。
王夫妻もじっと聞き入る。
釈迦はこう続けられた。
それはなぜか。苦しみの原因を正しく知らないからである。
金や名誉で苦しみはなくならぬ。
無ければないで苦しみ、有ればあるで苦しむ。
有無同然である。
毎日を不安に過ごしている。例えば、子供のない時は、
ないことで苦しみ、子供を欲しがる。
しかし、子供があればあったで、その子のために苦しむ

家庭を振り返り、ハッとする王とイダイケ。
この苦しみの原因はどこにあるのか。
それは己の暗い心にある。
熱病の者はどんな山海の珍味も味わえないように、
心の暗い人はどんな幸福も味わえないのだ。
心の闇を解決し、苦しみから脱するには、
ただ仏法を聞くよりない。
この法を求めよ。心の闇が破れ、真の幸福が獲られるまで。
たとえ大宇宙が火の海原になろうとも・・・

IMG_20161121_0003.jpg-2.jpg

ここでお釈迦さまは、苦しみの原因を「己の暗い心」「心の闇」と
仰っています。
これは仏教で「無明の闇」といわれている心で、
これこそが苦しみの根元だと断定されています。

「無明の闇」とは、「死んだらどうなるか分からない、
死後に暗い心」のこと。
なぜこの心が苦悩の根元なのでしょう。

●人は死にゆく存在 
   その先は?

まず、死とは何か、見てみましょう。
新年が明けて今年の旅が始まり、はや一月。
(とどろき平成28年2月号より載せています)
年始とは一つ年を取って、死に近づいた一里塚のようなもの、
と有名な禅僧・一休は歌っています。

「門松は
冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし」
         (一休)

彼は人間を「冥土への旅人」だと言っています。
「冥土」とは「死後の世界」。
私たちは一日生きれば一日、死に近づきますから、
人生は冥土への旅に違いありません。
世界中の時計を止めてもそれは止まらず、
粛々と時は刻まれる。
万人共通の厳然たる事実です。

最も確実な行く先である「死」を、
私たちはどう捉えているでしょう。
「休息だ」「無だ」「恐ろしくない」と言う人もありますが
実際はどうか。
“いざ鎌倉”となると、誰もが“死に行く先はどうなるか”
だけが大問題となります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死を目前に「スピリチュアルペイン(魂の痛み)」が現れる

ガンなどの病気で終末期に至った患者には
「スピリチュアルペイン」という苦しみの起きることが、
最近の医学研究で解明されています。
多くの人を看取ってきた医師に聞いてみましょう。
本誌読者の内科医師、真野鋭志先生です。
例えば、ガンが進行した人には、
さまざまな苦痛に対応する緩和ケアが行われます。
終末期医療の進歩は著しく、
専門トレーニングを受けた医師や看護師が増えています。
ガンになっても痛みさえなくしてくれたら
死ぬのは何ともないよと言う人がありますが、
そんな簡単なものではありません。
ガンを告知された人には、身体的苦痛、精神的苦痛、
社会的苦痛があるといわれてきました。
しかしそれだけではなく、多くのガン終末期患者の観察研究により、
「スピリチュアルペイン」と呼ばれる苦痛があることが分かってきました。
スピリチュアルペインとは、魂の奥底から噴き上がってくる心の叫びです。
精神的苦痛には、抗うつ剤や抗不安剤が効果的ですが、
スピリチュアルペインは、生命の根本にかかわる深いレベルの痛みであり、
効果的な薬はありません。
次のような苦しみです。

○私は何のために生まれてきたのだろうか(生きる意義に対する問い)
○どうせ自分はもう長いことはないのに、
頑張っても仕方がない(希望がないという訴え)
○こんな私を誰も助けてはくれない(孤独感の訴え)
○私は死んだらどうなるのか(死後の問題)

などの悲嘆として現れます。
身体的ケア、精神的ケア、社会的ケアだけでなく、
今日の医学では、このスピリチュアルペインの必要性が
強調されています。
治療者は患者に寄り添い、本人が、ガンとともに生きる意味を
見つけられるようギリギリいっぱいまでサポートしますが、
しかし、おのずと限界があり、根本的な解決にはなりません。
そして、この魂の叫びは、ガン患者だけではなく、
また死を目前にした人だけでもなく、自覚はしていませんが、
生きているすべての人が本来抱えている問題なのです。

IMG_20161121_0005.jpg-1.jpg

●現在と未来は切り離せない

誰にも等しく訪れる死が、いかに人の心をさいなむか。
この真野医師の話からも知られましょう。
未来が暗いと、現在が暗くなることを、
私たちは日常的に経験しています。

全国紙の人生相談には、こんな悩みも寄せられています。

「居住する団地の班長の役目が、3年後に回ってくるが、
自分は務まりそうにない。
自治会費を集めるくらいはできそうだが、
気の小さい自分には、団地の除草や清掃の手配などできそうにない」
                  (60代男性)
「間もなく姑を引き取って介護することになっている。
気性が荒く、暴言を吐く姑にはこれまでも苦しめられてきた。
夫は昼間は仕事だから、姑と2人きりで過ごさねばならないと
今から憂鬱」
                  (50代女性)

これらは、いずれも未来に対する不安です。
こんな悩みに“起きてもいないことをあれこれ悩んでも仕方がない”
と思う人もあるでしょう。
しかし、私たちが今を心から幸せに生きるには、
将来の安心が絶対の幸福に必要なのです。
「最近、体調が思わしくなくて、検査したら早期ガンだと言われた。
一週間後に手術なんだけど、完治できるのか今から不安で・・・」
未来に心配のタネがあると、今の心が暗い、
現在と未来は決して切り離せないものだと分かります。
自分を大切にする賢明な人ほど、
未来への準備を怠りなくしたいと考えます。
だから、
「一週間後に大事なテストがあるけど、とりあえず、
それまでは思い切り遊ぼう」
とはならないのです。
大事な未来があればあるほど、その準備に集中するでしょう。
すべての人の最も確実な未来が死です。
それに例外はありません。
「死ねばどうなるか」は、だから、すべての人の大問題。
無視できることではありません。
後生がハッキリせず、暗いままで、
明るい現在を築こうとしても、できる道理がないのです。

IMG_20161121_0006.jpg-1.jpg

●「後生暗い心」が“今”破られ
         無限に明るい未来へ

後生ハッキリしない不安を仏教で
「生死の一大事」とも「後生の一大事」ともいわれます。
仏教の目的である「抜苦与楽」の「苦」とは、
この「後生の一大事」の苦しみをいい、
「抜苦」とはこの一大事を解決することです。

「与楽」とは、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏の本願力によって、
未来永遠に変わらぬ絶対の幸福にしていただくことです。

この抜苦与楽の身になることが私たちの人生の目的なのです。
先の真野医師もこう述べています。

私は、スピリチュアルペインは、仏教で教えられている
無明の闇(後生暗い心)の表出と理解しています。
スピリチュアルケアの重要性を説く人々は、
それがケアできるという前提に立っていますが、
仏教では、後生の不安は人間の力でどうにかなるものではなく、
平生に阿弥陀仏のお力によって解決していただく、
と教えていただいています。
ケア(一時的癒やし)ではなくキュア(治癒)。
弥陀は、「無明の闇」を生きている時に破り、
後生の苦しみを完治させてくださるのです。

大宇宙のすべての仏が師と仰ぐ阿弥陀仏は、
「全人類の無明の闇を破り、絶対の幸福に必ず救う」
という本願(お約束)を建立なさっています。
絶大なるこの本願力によって、平生の一念に無明の闇が破られ、
後生明るい心に救われますから、
“すべての人よ、早く阿弥陀仏に助けていただきなさいよ”
とお釈迦さまは、一切教の結論として、
一向専念無量寿仏
(弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ)
を説かれました。
これは地球のお釈迦さまだけのことではありません。
すべての諸仏や菩薩も皆、弥陀一仏を褒めたたえ、
早く無明の闇を破っていただき、必ず浄土へ往く身になりなさいと
教え勧められているのだよ、親鸞聖人はこう和讃に仰っています。

無明の闇を破すゆえに
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり
」(浄土和讃)
(阿弥陀仏を、一切の諸仏や菩薩たちが
「智慧光仏」と絶賛するのは、苦悩の根元である後生暗い心を破るお力が、
阿弥陀仏にのみあるからである。


nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び
前の3件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。