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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

遇いがたき師主知識のご恩 [善知識]


如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
       (親鸞聖人・恩徳讃)
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法話の最後に歌われる親鸞聖人の「恩徳讃」。
短いお言葉に、私たちの人生を左右する
大切なメッセージが込められています。
その「如来大悲の恩徳(本師本仏の阿弥陀如来のご恩)」について、
昨年の11月号からお話ししてきました。
では、「師主知識の恩徳」とは、どういう意味なのでしょう?
すべての人にとって、とても大事なことですので、
今回から学んでいきましょう。

●師主知識とは?

「師主知識」の「知識」とは、“健康の基礎知識”といわれるような
「知識」ではありません。
この「知識」は仏教用語で、
「仏教を伝える先生」という意味です。
親鸞聖人が、師主知識に巡り遇えた感激を、
みずみずしく詠い上げられた、このような『和讃』があります。

真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき(親鸞聖人)

苦しみの根元は“疑情”と説く、
真の仏教の師(師主知識)に遇うことは、
難しい中にも難しい

「正しい仏教の先生・師主知識」にお遇いすることは、
希の中にも希であると、親鸞聖人は言われています。
こう聞かれると
うちの町にも坊さんはいる。
なぜ遇うのが難しいのだろう?」
と首を傾げるかもしれません。

確かに、日本の寺院数はコンビニの2倍、
約7万6000か所といわれます。
僧侶と名のつく人は、ほとんどの町にいるでしょう。
しかし問題は、
その人たちが、どのようなことを教えているか、です。
実態はどうでしょう。

●なぜ遇い難い、真の知識

数年前、NHKの『クローズアップ現代』で、
最近の寺について次のようなことが語られていました。
「お坊さんも世襲になってきて、
家業になってしまっている。
本当に仏教のことを信じているお坊さんは、
そんなに多いのだろうか」
「葬式、法事が『商品』のように扱われるようになったと思う」
「『生き残れるか仏教』というテーマで講師をやって、
さあ、皆さんどうですかとお坊さんたちに聞くと
『いやー、うちの寺の経営が』とか、
『檀家さんが少なくなってきて』と、
寺の経営のお話しをまず第一にします。
けれども、我々からすると、
『生き残れるか仏教』というのは寺が潰れるかどうかの話ではなくて、
これだけ苦しみの多い現代社会で、
果たして仏教は我々を救ってくれるのだろうか
(ということが問題なのです)」

また、このような統計も紹介されていました。

○仏教に良いイメージを持っている人・・・約90%
○寺に良いイメージを持っている人・・・・約25%
○僧侶に良いイメージを持っている人・・・約10%

そして、こう語られていました。
「(この統計結果を)一言で言えば、
お寺とかお坊さんは
仏教をやってないんじゃないかということですよね。
仏教にはいいイメージがあるわけだから」

実際、仏教と聞くと、何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事・読経ばかりの葬式仏教、ゴマを焚いたり、
柱にスリスリ触れば幸せになれるというゴ利益仏教、
数年に一度のご開帳と宣伝して伽藍や仏を見せ物にする観光仏教、
信仰より社会事業を重視して、
学校や幼稚園経営に奔走する事業仏教、
境内を駐車場に貸し、学校教師などになって衣食する二股仏教、
祖師や中興の法要にかこつけて、金集めする遠忌仏教などなど。

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もちろん、それらは論外ですが、
欲や怒り、ねたみそねみの煩悩を苦しみの元と教え、
それらにどう向き合えばよいかを説く僧は、
今でも少しはあるでしょう。
しかし、親鸞聖人は、
「真の知識とは、
『流転輪廻のきわなきは、疑情のさわりにしくぞなき』と、
説かれる先生のことである」

と明言されています。

実は、葬式を生業としたり、
倫理道徳を語るだけの僧侶は、
真の知識とはいわれないのです。
では、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
とは、どういう意味なのでしょう。

●きわなき流転輪廻

「流転輪廻」とは、同じところをグルグル回り、
果てなく迷い苦しむこと。
“真の安心・満足”というゴールなきレースが人生なら、
誰しも、死ぬまで苦闘を続ける悲劇で終わります。
室町時代の禅僧・一休は、こう歌いました。

「人生は
喰て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる」

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一生を煎じ詰めれば、台所で食べ、
便所で出す、寝たり起きたりのフトンの上げ下げにすぎぬ。
やがて子が親となって死んでいく。
「結婚や出産は人生のイベントにすぎなかった。
終わったら単調な日々が繰り返されるだけ」
「楽しいのはほんのしばらく。
スグに色あせ、幸福はすぐに、“スタートに戻る”」
と、
500年後の現代人からも、
変わらぬ「流転輪廻」の嘆きが聞こえてきます。
着実に重ねたのは年齢。
けれど、いまだに人生のゴールは見えてこない。
「『日暮れて、道遠し』とはこのことか」
と実感している人も少なくないでしょう。
ある新聞に、こんな記事が載っていました。
「特別に楽しいことも悲しいこともなく、
平々凡々に生きてきて、疲れもたまっているが、
子供の手も離れ、ようやくこれから私の人生に・・・
というところで、舅に先立たれた姑が家族に加わった。
手に入れたマイホームには、
ローンと積み増された『老い』だけが残された」
そしてこの主婦は、決意して12日間のヨーロッパ旅行に行ったが、
旅が終われば、また日常のため息に逆戻りしたといいます。

急速な科学の進歩により、生活は大きく変わった。
部屋には冷暖房、飛行機に乗れば7時間でアメリカへ。
無料の国際電話サービス。
トイレに行けばウォシュレットが心地よい。
昔と比較にならぬ豊かさと快適さを手にした。しかし、
「マリーアントワネットも馬車で移動したのに、
私は車だなんて、とっても幸せ」
「始皇帝はウチワで涼んでいたのに、
クーラーがある僕は何と幸せ者だろう」
と喜ぶ人がどこにあるでしょう。
かつての王妃や皇帝以上の幸せを手にしても、
今日は全て「当たり前」で、
幸せ感がどこにもありません。
まさに「有無同然」の仏説どおりなのです。

何ごとも原因を間違えれば大変で、治る病気も助からない。
腹痛も、胃潰瘍か、ガンか、神経性か、はたまた、
ただの食べ過ぎか、正しい診断がなければ、
的確な治療は望めず、苦しみは除かれません。
胃ガンを潰瘍と誤診したら命取り。
治療の先決問題は、だから原因の究明でしょう。

人生にむなしさや苦しみを感じる私たちも同じです。
趣味に没頭しても、自己啓発セミナーに通い詰めても、
成功を手にしても、なぜか底知れぬ寂しさ、
むなしさがなくならない。
「人間に生まれてよかった」
の生命の歓喜がないのはなぜか。
どんなに文明文化を進歩させても、幸せは進歩せず、
人類は、原因不明のまま、暗い森をさまよっているのです。

しかも、その迷いの深さは私たちの想像を超えています。
お釈迦さまは、
「人は皆、生まれては死に、生まれては死に、
果てしのない過去から生死流転の迷いを重ねてきたのだ」
と教えられています。

迷いの世界は大きく分けると6つあると説かれ、
これを六道とか、六界といわれます。
次の6つの世界です。

①地獄界・・最も苦しみの激しい世界。
      八大地獄が説かれている。
②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず、
      飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。
③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
      弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界。
④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。
⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
      迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。
これらの世界を、際限なく回る車輪のように、
私たちは輪廻してきたのです。

ここまでくると、どんな哲学者も思想家も、
苦悩の謎の解明はお手上げでしょう。
そんな中、親鸞聖人は、苦しみやまぬ相(すがた)
を、
「きわなき流転輪廻」と一言されたうえで、
その元凶を鮮明にされ、未来永遠の幸福になれる法を
説き開かれたのです。

一体、私たちの苦しみの根元は何だと、
親鸞聖人は教えられているのでしょうか。

●まったく意外な苦悩の根元の正体

私たちが最も知りたい、知らねばならない苦悩の根元を、
親鸞聖人は、こう断言されています。
「疑情のさわりにしくぞなき」(疑情一つである)
疑情とは「阿弥陀仏の本願を疑う心」のことです。

では阿弥陀仏の本願とは何でしょう。
大宇宙最尊の阿弥陀仏は、
「煩悩具足の者を絶対の幸福(往生一定)に一念で救い摂り、
来世は必ず極楽浄土へ生まれさせる」
と誓われています。
これが世に聞こえた「阿弥陀仏の本願」です。

「本願」とは「誓願」ともいわれ、
三大古文に数えられる『歎異抄』は
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
と書きだされています。
「煩悩」とは、あれが欲しい、これも欲しいという貪欲、
カッと腹立つ瞋恚、うらみねたみの愚痴などをいいます。
「具足」とは、100パーセントということですから、
「煩悩具足」とは、煩悩100パーセント。
煩悩でできているのがすべての人だ、
と阿弥陀仏は見抜かれ、
そんな「煩悩具足の者を救う」と誓っておられるのです。

親鸞聖人は、この阿弥陀仏の本願を大船に例えられ、
その大船に乗せていただいても、
私たちの煩悩は全く変わらない、と仰っています。
仏法を聞いたら、欲が減ったとか、腹が立たなくなった、
と思っているのは自分の本当の姿を知らないのです。
「煩悩は臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」
と親鸞聖人が仰るように、死ぬまで減りもしなければ、
なくなりもしない。
だから人間は「煩悩具足」、煩悩の塊と言われるのです。
「かわいそうだなぁ、せっかく人間に生を受けながら、
生命の歓喜を知らぬとは。
罪悪深重の己の実態も知らず、罪を重ねて、
またしても苦患に沈もうとしている。
とても放っておけぬ。見捨てておけぬ。
何としても助けてやろう」
と、大宇宙でただお一人立ち上がってくださったのです。

そして
「煩悩具足のそのままで、一念で大船に乗せて(絶対の幸福)、
必ず極楽往生へ連れてゆくぞ」
と誓われたのです。
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例えていえば、私たちは100トンの石。
そのままならば必ず水に沈む。
しかし阿弥陀さまは、その大石をそのまま大船に乗せ、
重さ100トンのままで水に浮かばせ、
向こう岸(極楽浄土)に渡してくださるのです。
この弥陀の願船に乗せていただけば、
この世から「往生一定」の身になる。
往生一定とは、いつ死んでも、極楽浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏に生まれるとハッキリした(一定)ことです。
大船に乗せていただけば、苦しみの六道から出離し、
2度と迷わぬ身になれるのです。

ところが、こう聞きましても、私たちは、
自分が煩悩具足とは毛頭、思えない。
そんな者が、煩悩具足のままで往生一定に救われるとは信じられません。
この「阿弥陀仏の本願を疑う心」のみを「疑情」といいます。
この疑情が晴れぬ限り、何が、どんなに恵まれても、
人生苦の根本はなくなりません。
弥陀の本願を疑っている限り、
自分が死んでどこに行くのか、さっぱり分からず、
生死流転を繰り返すからです。

そのことを親鸞聖人は
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
と仰っているのです。
これは、
「真の知識にはめったに遇えないそうですよ」
と他人事のように言われたのではありません。
「幸いにも親鸞、弥陀の誓願不思議を説き切られる師主知識、
法然上人にお遇いできた。
弥陀の広大な救いにあずかることができた。
ああ、なんと幸せ者なのか」
とのお言葉なのです。
誰しも、際もなき流転の真因を知り、
取り除いていただいてこそ、永久に輝く生命が開けます。
「仏法は聴聞に極まる」
仏法は「苦悩の根元は疑情」と説く真の知識(師主知識)から、
真剣に聞かせていただかなければなりません。


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無常こそ阿弥陀仏に救われる縁となる! [なぜ生きる]

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読者の皆さんからのアンケートによると、
伴侶や肉親、友人知人の無常が本誌購読のきっかけ、
という方が大変多く見られます。
「年を重ねていく自分。
母、弟と死別した悲しみや、二人はどうしているかという心配、
自身が来世に旅立つ不安がありました」
           (愛知県 60代女性)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、
まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。
今回は、まず、わが子との痛切な別離を乗り越え、
人生の喜びを見いだした読者を紹介しましょう。

●「あの子が身をもって
       導いてくれた」
     愛息との突然の別れ

石川県かほく市の黒田まゆみ(仮名)さんは、
10年前、最愛の子息を15歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています。」
と述懐する別れとは、どんなものだったのでしょうか。

異変は突然訪れた。
中学3年の秋、部活動を引退し、
受験を目前に控えた長男は、原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると、すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから、
大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。
血液検査の数値が異常に高いと医師は、
難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して2日目まで意識があったが、
その後、昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、
10日後、息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーも、あんなに努力して、
頑張っていたのに、なぜこんなことに・・・
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと、毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で、祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにはおれなかった。

●『なぜ生きる』
  タイトルに引かれ


心の傷は癒えぬまま、数年後、
今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日、
心は優れず、“やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”
の問いが胸につかえていた。
そんな黒田さんに年若い主治医が、
「本でも読まれませんか」
と持ってきた書物の中に、
『なぜ生きる』のタイトルがあった。
心引かれ、“ぜひ読みたい”と手に取ると、
中には、幼少時から親しんだ親鸞聖人の教えが詳しく説かれていた。
続いて『歎異抄をひらく』を手にする。
『歎異抄』がどんな書物かも知らなかったが、
これも親鸞聖人の教えであり、
「生きる意味」が教えられていることに驚いた。
一層詳しく聞きたいと、退院後、勉強会に参加し、
どんな人も救われる弥陀の本願を知らされた。
「息子が身をもって仏法に導いてくれたと思います。
あの子のためにも真剣に求めたいと思っています」

●真の人生の意義とは

「夢の世を
あだにはかなき 身と知れと
教えて還る 子は知識なり」
(知識・・・弥陀の本願を伝える教師)
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に、
人生の意味を問い、
仏法を求めて救われてみれば、
夭逝のわが子は善智識である、と歌っています。
古来、逆縁に泣く親は数知れず、
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に、
愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が
次女を死なせて(略)
この度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)
特に深く我心を動かしたのは、
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中(こちゅう)の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、
此処には深き意味がなくてはならぬ、

人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる

では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。

今回はそれを、室町時代の蓮如上人が書かれた
『白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。

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冒頭の一文、
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり

からお聞きしましょう。

●苦しみ漂う人生

まず“人間の浮生なる相をよくよく見てみると”
と仰っています。
「浮生」とは「浮いた生」と書くように、
水面に漂う浮草のような一生のこと。
人間の実相をこう表現されているのです。
どこから来て、どこへ行くのか、
生きる意味も分からぬ根無し草。
何を手に入れても、どこかしら不安で、
私たちはひょうたんの川流れのように根拠のない生を、
フワフワと日々、過ごしているのではないでしょうか。
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気楽な人生はどこにもなく、皆、生きることに必死です。
果たしてどこへ行くのでしょう。
全国紙の人生相談には毎日、
さまざまな人生模様が描き出されています。
“50代のシングルマザー。
寄り道して仕事の帰りが遅くなると、
同居の母が嫌味を言う。母から自由になりたい。”
“40代主婦。幼少時から人見知りの激しい中3の次男が、
学校に行きたがらない。
高校受験も近いのにどうしたら・・・”
など、人の数だけ苦悩があることが知らされます。
50代の独身女性からはこんな相談も。
「母と弟を相次いで亡くし、一億円以上の遺産を相続した。
だが大金を得たと喜ぶより、
人生の指針を失ったように感じて戸惑っている。
どんな心持で暮らせばいいのですか」
“私なら諸手を挙げて歓迎するのに”
と思う人も多いでしょうが、大枚を手にすれば、
自身も周囲も平常心ではいられない。
好事魔多しで、思いもかけぬ事態に襲われることもある。
宝くじの高額当選で人生を誤る人が多いのも、
生きる目的が分からず、本当の金の使い道を知らないからでしょう。

続いて、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり
」。
「始中終」とは始め、中、終わりのこと。
人生まだ始まったばかり、と思っていたのが、
すぐに中程に差しかかり、あれよあれよと終盤へ。
人の一生は幻のようだ、と仰せです。

40代男性の、こんなつぶやきがありました。
「10代の頃、応援していた同い年の女性アイドルが、
久しぶりにCM出演していたので、
オッと思って見てみると、なんと<白髪染め>のCM。
そうだよな、彼女もデビュー30年。
気だけは若いけど、オレも・・・」

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●夢の如く過ぎ去る時間

「一生過ぎ易し」
人生の速さを、古今の人々はさまざまに表現しています。
有名な能の『邯鄲』は中国の古典に題をとった演目。
「一炊の夢」ともいわれる故事です。

田舎の青年・盧生が人生に迷い、
有名な僧侶を訪ねて教えを請おうと旅に出た。
途中、邯鄲という町の宿屋で休憩していると、
女主人が仙人からもらったという枕を出して、
粟の炊ける間に一休みするように勧めた。
やがて、眠りかけた盧生を楚国の役人が迎えに来る。
どうしたわけか、帝が彼に譲位したいという。
驚きつつも彼は王位に就く。
有為転変も味わいながら、栄耀栄華を極め、
気づけば50年の歳月。
波乱万丈の一生だったなあ、と思ったその時、
女主人に起こされた。
粟飯がようやく炊き上がったということだった。

●終幕・・・・・行く道

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず

5月下旬、俳優の今井雅之さんが54歳の若さで亡くなりました。
演劇に情熱を傾け、男気ある言動が人気でしたが、
死の一カ月前、ガン闘病を告白する記者会見には、
やせ衰えた彼の姿が。
かつての精悍な風貌は消え、人前もはばからず
「悔しい、悔しい」と涙を流すインタビューが胸を打ちました。
若い終幕に惜しむ声は絶えませんが、
遅かれ早かれ、皆行く道であります。
しかも人間は貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ、そねみ)
の三毒の煩悩にまみれ、生きるためとは言いながら、
数限りない殺生を繰り返している。
誰もが抱え切れぬ悪業を背負って生きているのです。

人生、夢幻の如し。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と知らされれば、
「私の後生はどうなるのか?」
と問わずにおれなくなるのです。


●弥陀を一心にタノメ

この『御文』の最後に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり

と、蓮如上人は、真の生きる目的を教えられています。
「誰の人も」とはすべての人のこと。
「はやく」は、明日なき命の私たちだから、
一日も片時も急げと言われています。
「後生の一大事」とは、生ある者、必ず死す。
死んでどこへ行くのか、ハッキリしないこと。
後生とは無関係な人は一人もありません。
万人共通の一大事であり、
これを生死の一大事ともいいます。

この生死の一大事を解決し、
「どんな人も、必ず極楽浄土に往生させてみせる」
と誓われているのは、大宇宙最高の仏さま、
無上仏ともいわれる阿弥陀仏だけなのです。


その阿弥陀仏の誓いを、蓮如上人はこう教えられています。

「弥陀仏の誓いましますようは、
『一心一向にわれをたのまん衆生をば、
如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』
といえる大願なり」    (御文章二帖目九通)
「すべての人よ 一心に我をたのめ
どんな悪人も
必ず絶対の幸福(往生一定)に救い摂る」


との偉大な誓願であります。
蓮如上人が『白骨の章』の最後に
「阿弥陀仏を深くたのめ」
と言われているのは、私の生死の一大事は、
この阿弥陀仏の本願によらねば救われないからなのです。

弥陀たのむ一念に往生一定、絶対の幸福に救い摂られたならば、
来世は必ず極楽浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることができる。

これこそ人界受生の本懐(人生の目的)なのだから、今、
真剣に仏教を聞けよ、と教導されているのです。


●タノム=あてにする 力にする

では肝心の「弥陀たのむ」とはどんなことか。
蓮如上人の『御文章』には、至る所に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
と仰っています。
これは大変重要な、しかも誤解されているお言葉です。
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀をタノミ」
をほとんどの人は、他人にお金を借りに行くときのように頭を下げて、
「阿弥陀さま、どうか助けてください」
とお願いすることだと思っています。
ところが蓮如上人の教えられる
「弥陀をタノメ」
は、全く意味が異なりますから注意しなければなりません。
古来、「タノム」という言葉に「お願いする」
という祈願請求の意味は全くありませんでした。
今日のような意味で、当時、
この言葉を使っている書物は見当たりません。

それが「お願いする」という言葉に使われるようになったのは
後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、
「あてにする、憑(たの)みにする、力にするということ。

蓮如上人の仰る
「弥陀をタノム」
は、阿弥陀仏をあてにする、憑みにする、力にする、
という意味なのです。

もし蓮如上人が
「阿弥陀仏にお願いせよ」
と仰ったのなら、
「弥陀にタノム」
と書かれるはず。ところがそのような
『御文章』ば一通もありません。
常に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは
言われていません。これらでも明らかなように、
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
は、祈願請求の意味ではないのです。

浄土真宗で「タノム」を漢字で表す時は、
「信」とか
「帰」で表します。
「信」はお釈迦さまの本願成就文の「信心歓喜」を表し、
「帰」は天親菩薩の『浄土論』の「一心帰命」を表したものです。
阿弥陀仏に信順帰命したということは、
弥陀の本願が「あてたより」になったことです。
ゆえに親鸞聖人は、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる、
これを『唯心』という」    (唯信鈔文意)

(本願他力があてたよりになって、
自力の心のなくなったのを、唯心という)

と仰せになっています。蓮如上人も、
「一切の自力を捨てて、弥陀をタノメ」
と仰っています。
「弥陀をタノメ」
とは、自力の計らいを捨てよということです。
一切の計らいが自力無功と照破され、
「弥陀の五劫思惟は私一人のためだった」
と明知したのを、
「弥陀をタノム」
と言われているのです。
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蓮如上人の
「自力を捨てて、弥陀をタノム」
は、曠劫流転の迷いの打ち止めであり、
他力永遠の幸福に輝くときです。
だから他力になるまで他力を聞くのだと教えられています。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
弥陀をタノム一念に本願を聞きひらいて、
往生一定の身にさせていただきましょう。


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大原問答と大無量寿経 [法然上人]

印度西天之論家 (印度西天の論家)
中夏日域之高僧 (中夏日域の高僧)
顕大聖興世正意 (大聖興世の正意を顕し)
明如来本誓応機 (如来の本誓、機に応ずることを明かす)

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「印度西天の論家、中夏・日域の高僧」
とは、インドの龍樹菩薩・天親菩薩、
中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、
日本の源信僧都・法然上人の七名のことです。
親鸞聖人は、これら七高僧の功績を、
「大聖興世の正意を顕し」
“釈尊の出世の本懐を明らかにされ”、
「如来の本誓、機に応ずることを明す」
“阿弥陀如来の本願は、
どんな人をも救い摂る真実の法であることを明らかになされた”
と称讃なされています。

●いろいろな宗派があるのは?

“お釈迦さまの教えは一つのはずなのに、
なぜ仏教はいろいろな宗派に分かれているのだろう。”

だれしも疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。
それは、膨大な一切経の中で、
どれが釈尊出世の本懐経(本心が説かれているお経)かで
意見が分かれるためです。

『華厳経』が釈迦の本心だというのが華厳宗であり、
いや『大日経』こそ釈尊の正意だと考えているのが真言宗です。
法相宗では『解深密教』だと言い、
天台宗や日蓮宗では『法華経』と主張します。
また、禅宗のように『涅槃経』などを用いながら、
特に所依(よりどころ)の経典を立てないものもあります。

親鸞聖人は、
「それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」

              (教行信証)
と、『大無量寿経』こそが、
釈尊出世の本懐経だと断定なされています。

「正」という字は「一に止まる」と書くように、
釈尊の正意は一つしかありません。
果たして、真実の経は何か。
後生の一大事の解決を求める仏法者にとって、
捨ててはおけぬ問題です。

それで、過去から幾たびも法論がなされてきました。
法論とは、仏法上の争いのことで、
経典のご文を根拠にして、
どちらが正しい仏意かを論争することです。

●『大無量寿経』か『法華経』か

中でも古来、最も問題になってきたのが、
『大無量寿経』と『法華経』です。

この二つは、ともに「深法」といわれる大事なお経です。
一切経の中でも、深法とあるのはこの二つだけでしょう。
しかし、どの時代でも『法華経』に軍配が挙がったためしはなく、
常に『大無量寿経』が勝利を収めています。

その結論は、
「法は互角、機で大経」
と言われます。
「法」、つまり教えそのものの深さでは互角。
優劣はないのですが、その教えによって救われるのはだれか、
という「機」の問題になると、がぜん、
『大無量寿経』こそが真実と鮮明になるのです。

●深智に説かれた『法華経』

仏教は対機説法(機に対して法を説く)といわれるように、
経典にはそれぞれ、説かれた相手があります。
『法華経』には、

「この法華経は深智の為に説く、
浅識はこれを聞いて迷惑して悟らず、
一切の声門及びびゃく支仏は、この経の中においては、
力及ばざるなり」
              (譬喩品)
とあります。
声門やびゃく支仏といった、
私たち凡夫とは比較にならぬ優れた人たちでさえ、
助からぬと説かれているのです。

また、『法華経』を行ずる人が、
必ず守らねばならぬ三つの規則「室・衣・座の三軌」があります。

○室・・・一切の人々に大慈悲をもって接すること。
○衣・・・いかに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
○座・・・一切のものに対する執着を断つこと。

いかに実践が困難極まるものか、分かるでしょう。

●千日回峯行

比叡山(滋賀県)は、『法華経』の教えにしたがい
修行しようとする天台宗の山です。
今は観光地になっていますが、
それでも千日回峯行なる荒行が残っています。
起床は真夜中の二時。
頭には蓮華笠をかぶり、白い麻の装束に草鞋履き、
山上山下の行者道を約三十キロ、飛ぶようなスピードで移動します。
この間、約三百ヶ所で所定の修行をし、
五時間ほどで戻ってくるのです。
むろん、悪天候でも、病気やケガをしても休むことはできません。
もし途中で挫折したら持参の短刀で
自害するのが山のおきてになっていました。
江戸時代には多くの修行僧が自害しています。
途中の七百日の中には、
九日間の断食、断水、不眠、不臥という過酷な行もあります。
さらに、八百一日目から百日間は「大回り」をやります。
山を下りて京都の修学院から一乗寺、
平安神宮、祇園と一日八十四キロを
十七、八時間で回る生死関頭の苦行です。
千日間で踏破する距離は、およそ地球一周。
開山以来約千二百年間、この難行を完遂した者は
三百人に満たず、戦後はわずか八人。
文字通りの命がけの修行です。
しかもなお、仏覚にはほど遠い初歩なのです。

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●すべての人に説かれた『大無量寿経』

『法華経』には、この経は「最第一」であるなど、
極めて大切な教えであることが説かれています。
しかし、どんな高尚な教えがあっても、
私たちが真に救われえるものでなければ、
絵に描いたもちになってしまいます。
それに対して、『大無量寿経』に説かれている
阿弥陀如来の本願の相手は「十方衆生」です。
十方衆生とは、大宇宙のすべての生きとし生けるもののこと。
相手構わず、どんな人をも救い摂る法なのです。

まさに、機に応ずる弥陀の本願と知られましょう。
親鸞聖人も、九歳で出家されてより二十年間、
比叡山で仏道修行に打ち込まれましたが、
天台法華の教えに絶望なされ、
「救われる教えにあらず」と下山され、
弥陀の本願に救い摂られています。
聖人でさえ、かくのごとしです。
では、なぜだれも実行できないような教えを、
釈尊は説かれたのでしょうか。

自分はやろうと思えば何でもできるとうぬぼれている心が
自力の本性であり、迷いの親玉です。
自力無功を知らせ、真実の救いに導くために
方便の教えが必要だったのです。

法華経を信じえない者の為には、
如来の余の深法を教えよ

         (法華経ぞく累品)
このお言葉からも、『法華経』は、
『大無量寿経』真実へ送り込むための方便経であることが
ハッキリいたします。

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●法然上人の大法論「大原問答」

すべての人が救われる法、弥陀の本願を明らかにするため、
七高僧のご苦労は並大抵ではありませんでした。
一例を挙げましょう。

親鸞聖人の師・法然上人は、
我が国始まって以来の大法論をなされています。
場所は京都大原の勝林院。
世に名高い「大原問答」です。
どのような法論であったのか。
法然上人の伝記には、
「聖道門と浄土門、いずれが真実か。
日本国中の学者が集まり、火花を散らしての問答」
とあります。

釈迦一代の仏教を、大きく分けると、
聖道門と浄土門の二つになります。
聖道仏教は自力の修行で仏になろうとする教えで、
天台宗、真言宗、禅宗などを指します。
これに対し、阿弥陀如来の本願以外に、
我々の救われる道はないと教えるのが、
浄土仏教です。

聖道門側は、比叡山、高野山、京都、奈良の
名立たる僧侶380余人が論陣を張り、
それらの弟子僧二千余人が勝林院を埋め尽くしたといいます。
対する浄土門側は、法然上人ただお一人。
身の回りのお世話をする弟子が、
わずかに同行しただけでした。
「もし、お師匠さまが一言でも詰まられたら・・・」
と、ガタガタ震える弟子たちに、
上人はニッコリほほえまれ、
「この法然は幸せ者じゃ。
今日一日の問答で、天下の学者たちを弟子にできるとは。
弥陀の本願を明らかにする、またとない好機だ」
とおっしゃったといいます。
43歳の時に、他力金剛の信心を獲得された法然上人は、
大自信にあふれておられました。

●救われる唯一の道は、弥陀の本願

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まず、聖道門側から切り出す。
「浄土門が、聖道門より優れているとは、どういうことか」
釈尊の教えに優劣はないが、
法は何のために説かれたものか。
衆生の迷いを転じて、仏覚に至らすためである。
衆生を救う点において、浄土門のほうが優れておる

二千余の学僧がどよめく。
「これは聞き捨てならぬことを」
法然上人は、静かに答えられた。
聖道門は、人を選ぶではないか。
経典を学ぶ知恵のない者、
修行に耐える精神力のない者は求められない。
欲や怒りのおさまらぬ者は、救われないということだ

「いかにも・・・」
さらに、厳しい戒律がある。
完全に実行できる人はどれだけあるのか。
大衆のほとんどは、救われないではないか

「・・・・・」
しかし、浄土の法門は違う。
欲のやまない者も来い、愚者でも智者でも、
善人悪人。男も女も、全く差別がない。
平等に救われるのだ。
なぜならば、阿弥陀如来が、すべての人を、
必ず救い摂ると、本願を建てておられるからじゃ。
しかも、末法の今日、聖道門の教えで救われる者は一人もないのだ

「何を、たわけたことを」
末法の今日、自力の修行では一人もさとりを得る者はないと、
釈尊は説かれている。
これに対し、『大無量寿経』に説かれている弥陀の本願は、
いつの時代になっても、しじゅう変わらず、
一切の人々を救うと説かれている。
されば、すべての人の救われる道はただ一つ、
浄土の一門のみであることが明らかではないか

「・・・しかし、阿弥陀如来以外の仏や菩薩に向くなとは、
言い過ぎではないか」
釈尊は、『大無量寿経』に、
一向専念無量寿仏と説かれている。
これは、あらゆる諸仏、菩薩、諸神を捨てて、
一向に専ら、阿弥陀仏を念ぜよ、ということである

「ううむ・・・」

    ・     ・      ・
問答は一昼夜に及びましたが、
法然上人は、いかなる難問にも、
よどみなく答えられ、すべての学者を論破されたのです。

聖道門の学者たちは、心から法然上人の高徳に伏し、
「知恵第一の法然房」「勢至菩薩の化身」とたたえたといいます。
阿弥陀如来の本願の素晴らしさを知らされた二千余の大衆は、
異口同音に念仏を称え、三日三夜、その声がこだましたといわれます。
法然上人、54歳の出来事でした。

法然上人のみならず、善知識は皆、
全人類の救われるただ一本の道、
弥陀の本願徹底に生涯をささげられたのです。


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