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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

死を解決して100パーセント明るい未来を! [後生の一大事]

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まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。
このゆえに人間に生まれることを喜ぶべし

               (源信僧都)

人間に生まれたことは大いなる喜びである、
と仏教では教えられています。

ところがせっかく人間に生を受けながら、
私たちはどれほど喜んでいるでしょう。
それどころか“なんで生まれてきたのだ”
と恨んでみたり、“つまらない人生、サッサと生きて、
サッサと死にたい”と思っている人も多いようです。
生まれたことを心から喜べないのは、
喜べなくさせているものがあるからです。
それは一体、何なのでしょうか。

●老後より確実な未来

PPKってご存じですか。
ピンピンと元気に老いて、病まずにコロリと死ぬ。
略して“ピンピンコロリ”という、
こんな言葉が、はやっています。
少子高齢化に伴い、このように考える人が増え、
年を取っても健康でいるための食生活や運動に、
注目が集まっています。
年金や医療制度については、国会でも喧々囂々の議論がなされ、
制度に対する国民の不審が選挙結果を大きく左右します。
4月に始まった「後期高齢者医療制度」なるネーミングが不評で、
「長寿医療制度」と名前を変えても、
国民の不安はなくならず、
「高齢者の切り捨てだ」
「年を取ったら死ねと言うことか」
と猛反発の声が上がりました。
納めた年金が本当にもらえるのか、
現行の制度で将来に対応できるのか、
誰もが関心を持っています。
老後の生き方を論じる書も多く出版されました。
最近は、独身者だけでなく、
既婚者も伴侶と死別すれば最期は独り、
ということで、死を迎えるまでの独りの生活に
関心が高まっているようです。

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ところが、その先はどうでしょう。
何も語られていません。

たまに死後に言及しているかと思えば、
遺品や遺骨の後始末のこと。
あたかも、電車を降りる時、
座っていた席をだれに譲るか論じているようなものです。
でも、電車を降りる人にとっての一番の問題は、
降りた自分がどこへ行くのか、ということではないでしょうか。

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若死にすれば老後はないが、
死は、すべての人にやってくる100パーセントの未来です。

室町時代の禅僧・一休は、

“門松は 冥土の旅の 一里塚
    めでたくもあり めでたくもなし”

と言いました。
「冥土」とは死後の世界で、
生きるということは、冥土へ向かって旅をしているようなもの。
一日生きれば一日死に近づく。
万人共通の厳粛な事実。

人生の全体が、何か黒々とした闇の中に、
否応なしに引きずり込まれていくような感覚を持っている人は
どれだけあるでしょうか。

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硫化水素の自殺者が後を絶ちません。
きっかけは、インターネットで、
楽に死ねる方法として紹介されたことでした。
しかし、硫化水素自殺を図り、
途中で外に飛び出した29歳の女性は、
「ネットに書いてあったのとは逆で、
本当に苦しかった。死ぬことが急に怖くなった」
と告白しています。

また、読者のMさんも、
仏法に出遇う前の体験を次のように記しています。

ネクタイで輪を作り、天井から下げました。
これでもう楽になれると、
輪の中に首を入れたとき、急に「死んだらどうなる?」
と真っ暗な心が出てきたのです。
考えもしなかった恐怖心でした。
「これは死ねない!」と思った瞬間、
体の重さでネクタイがちぎれ、
床にドスンとたたきつけられました。

想像していた死と、眼前に迫った自己の死は、
動物園で見ているトラと、
山中で出くわしたトラほどの違いがあります。
「死んだら楽になれる」と言っている“死”は、
頭で想像している死であり、
襲われる恐れのない檻の中のトラを見ているに過ぎません。
山中で突如バッタリ出会った猛虎ではないのです。

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死を遠くに眺めている時は「死は休息だ」「永眠だ」
「恐ろしくない」と気楽に考えていますが、
いざ直面すると、死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのか全く分からない。
最も重要なことを、実は最もおろそかにしていたことに
愕然とし、お先真っ暗な状態にうろたえます。

仏教では、この「死後どうなるか分からない心」を
無明の闇とか、後生暗い心といわれるのです。

●今の私を暗くするもの

すべての人の苦しみの根元は、
この後生暗い心であると仏教では教えられています。


なぜでしょう。
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。
三日後に大事な試験を控えている学生は、
今から心が暗くなります。
テレビでお笑いを見ていても、
“こんなことをしている場合じゃないのに・・・”
と落ち着かない気持ちになります。
五日後に生死にかかわる大手術を控えた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうや」
と言っても無理でしょう。
逆に一週間後に楽しい旅行が待っているとなると、
今から心がウキウキします。
毎日の仕事や家事は変わらなくても、
楽しい気分でやっているうちに、
いつも以上にはかどった、という人もあるでしょう。

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未来が暗いと現在が暗くなる。
現在が暗いのは、未来が暗いからです。
死後の不安と現在の不安は、
切り離せないものであることが分かります。
後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がありません。

明るい太陽の下、視界がハッキリ開ける時は、
安心して車を走らせることができますが、
前方が深い霧に包まれていると、
だれでも走るのが不安になります。
高速道路のカーブの手前で、
スピードを上げる人はないでしょう。
曲がった先に何が待ち受けているか分からないからです。
後生暗い心とは、今が暗い心です。
確実な未来が分からぬ不安が、
現在の私を覆っているのです。

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『千の風になって』という歌が流行し、
「死別の悲しみが慰められた」
「死に対するイメージが変わった」
と言う人もあります。

しかし、私たちの感じ方で
後生の実態が変わるわけではないでしょう。

葬式でこの歌を流し、
一言の説法も無く終わった寺があったそうですが、
これでは仏教になりません。
たとえ一時、悲しみが薄らぎ、慰められたとしても、
必ず来る自己の大問題に対する解決にはなっていないのです。

現世でいいことをやれば魂のステージが上がって、
死後、今よりいい所へ行けると言う人もありますが、
本心から、そう思えるでしょうか。
だれかから言われて、そうかな、と信じているだけでは、
後生の不安はなくなりません。
あなたの心は本当にスッキリ晴れわたっていますか。
「死ねばどうなるのだろう」
「人生をリセットして、また人間に生まれ変わりたい」
「念仏称えているから、極楽へ往けるに間違いない」
「悪いことばかりしているオレは、
どうも地獄へ行く気がする」
後生ハッキリしない心は皆、後生暗い心です。
晴れたかどうか分からないのは、
まだ晴れていないからです。

●後生明るい心になる

この後生暗い心を破り、未来永遠の幸福にしてみせる、
と誓われているのが弥陀の本願であり、
その弥陀の本願一つを説かれたのが仏教なのです。

弥陀の本願とは、
本師本仏と仰がれる阿弥陀仏のなされているお約束のこと。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
とおっしゃっています。
「無碍の光明」とは阿弥陀仏のお力。
弥陀のお力は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、
後生を明るくする、智慧の太陽なのです。

弥陀の光明によって無明の闇(後生暗い心)がブチ破られて、
“必ず弥陀の浄土に往生できる”と心が一つに定まったことを、
「往生一定」
と蓮如上人は言われています。

いつ息が切れても浄土往生間違いなしと
「後生明るい心」が生まれるのです。

合格発表までの受験生は、大丈夫だろうか、
ダメだろうかと千々(ちぢ)に乱れて定まりませんが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものです。
弥陀の救いは、
決してぼんやりしたものではありません。

また、人の話を聞いて納得し、
「もう助かっているんだ」「死んだら極楽に連れていってくださる」
と自分で信じることでもありません。
「今こそ明らかに知られたり」
と躍り上がる明らかな体験です。

「一念の信心定まらん輩は、
十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし」
         (蓮如上人)

仏法を聞き求め、一念の信を獲て、
現在も未来も真に明るい人生を歩ませていただきましょう。

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すべての人を等しく救う弥陀の本願 [聖道仏教と浄土仏教]

   

顕示難行陸路苦(難行の陸路の苦しきことを顕示し)
信楽易行水道楽(易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう)

これは龍樹菩薩の教えられたことを、
親鸞聖人が明らかにされているお言葉です。

大意はこうです。
“「難行」の教えでは誰も助からない。
すべての人の救われる道は、
阿弥陀仏の本願しかないのだから、
早く弥陀の本願を聞きひらき、
無上の幸福に救われてもらいたい。
龍樹菩薩は我々に、かく勧められているのである”

今回は、この2行について学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●難行道と易行道

まず「難行」「易行」と言われているのは、
「難行道」の仏教と「易行道」の仏教のことです。

「難行道」の仏教とは、“捨家棄欲”といって、
妻子家族を捨てて深山幽谷に入り、
欲や怒りの煩悩と闘う難行苦行によって、
仏のさとりを得ようとする教えです。

現在も日本にある宗派でいえば、
天台宗、真言宗、禅宗、華厳宗などで、
聖道諸宗ともいわれています。

例えば比叡山の天台宗は、
『法華経』の教えに従って戒律を守り、
さとりを開こうとする宗派で、
今日でも「千日回峯行」といわれる荒行があります。
真夜中の零時前に起床して、
山上山下の行者道を30キロ歩くのです。
この間、堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など
約300カ所で所定の修行。
無論、雨風雪、病気になってもやめることはできない。
もし途中で挫折した時は、
持参の短刀で自害するのが山の掟になっています。
初めの3年間は毎年100日、次の2年間は毎年200日、
その翌年は100日、最後は200日間、
休まず修行しなければならず、とりわけ大変なのが、
最後の年に100日続ける「大回り」です。
山を下りて京都の修学院から一乗寺、
平安神宮、祇園と1日84キロを、
17、8時間で回る生死関頭の苦行です。
最澄が叡山を開いてより今日まで、
やり遂げた人は数える程で、文字通り命がけの修行です。
それでも、仏のさとりにはほど遠い、
初歩の段階といわれます。

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このように「行ずることが難しい教え」
ゆえに「難行道」と言われているのですが、
これは龍樹菩薩が身をもって知らされたことでした。

●龍樹菩薩でさえ

今日まで、52段のさとりの最高位である仏覚に到達された方は、
2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまお一人です。
その釈迦に次いで高いさとりを開かれた方が、龍樹菩薩です。
面壁9年で手足腐るほど修行に打ち込んだ、
あの達磨大師でも30段そこそこであったと言います。

中国天台を開いた智者(天台大師)も臨終に、
「ただ五品弟子位(10段に満たない位)あるのみ」
と告白しています。

これらと比較しても、
自力難行によって41段のさとりを開かれた龍樹菩薩が、
いかに人並み外れて優れた方か、知られましょう。

今日も仏教の諸宗派から尊敬され、
「小釈迦」とか「八宗の祖師」と仰がれているのも分かりますね。
ところが、です。その龍樹でさえも、
「『難行』の教えは険しく苦しい道だから、
とても仏覚まで到達することはできない。
意志薄弱、ねい弱怯劣の私ごとき者の進める道ではなかった

と知らされ、真に魂の救われる道を探し求め、
ついに「阿弥陀仏の本願」によって
絶対の幸福に救い摂られたのです。

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「本願」とは「誓願」とも言われ、お約束のこと。
大宇宙にまします無数の仏方の師(本師本仏)である阿弥陀仏は、
「どんな罪悪深重の者も
平生の一念に必ず絶対の幸福に救い摂り、
死ぬと同時に浄土で仏のさとりを開かせる」

と、とてつもない約束をなされています。

欲や怒り、妬みそねみ一杯の私たちが、
この世も未来も無上の幸せに救われるのっは、
ひとえにこの本願力不思議、弥陀の独り働きによってですから、
弥陀の救いを「易行道」と龍樹菩薩は言われているのです。

●陸路と水道

この「難行道」と「易行道」との違いを、
分かりやすく「難行の陸路」「易行の水道」と仰っています。
目的地に行こうとする時に、
テクテク歩いていく「陸路」の道は、
山あり谷ありで、石につまずいてケガをしたり、
雨に打たれて難儀したりと、つらい苦しい道となります。

それに対して、船に乗って船頭まかせ、
重荷を下ろし、風に吹かれて
海や河川の水面を滑るように進む「水道」は、
大変楽しい道でしょう。

同様、難行苦行の教えでは一人も助からないのだよ、
すべての人を安楽無上の幸せに生かして下さるのは、
阿弥陀仏の本願しかないのだから、
弥陀一仏に向け、弥陀のみを信じなさい。
このように龍樹菩薩が、非難迫害の嵐の中、
熱烈に布教して下された
おかげで親鸞、
弥陀の本願を知らされ、救われることができたのだ、
なんと有り難いことなのかと、
厚きご恩に合掌感泣されているお言葉が、
「難行の陸路の苦しきことを顕示し、
易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう」
の2行です。
これはそのまま、仏教を説かれたお釈迦さまの真意でした。

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●仏教は、弥陀の本願一つ

釈迦が、80年の生涯、説いていかれた教えを今日、
仏教といわれます。
その教えのすべてが書き残されているのが、
七千余巻の一切経。
仏教とはどんな教えかを知るには、
その一切経を読まねばなりませんが、
漢字ばかりで、しかも一字一句に深遠な意味がありますから、
誰でも彼でも読めるものではありませんし、
正しく理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、
その一切経を何度も読破されて、
『正信偈』にこう断言されています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

この意味は一言で、
釈迦が仏教を説かれたのは、
阿弥陀仏の本願一つを明らかにするためであったのだ」
と仰有ったお言葉です。
簡潔に言えば、
「仏教=阿弥陀仏の本願」
ということ。
「阿弥陀仏の本願以外に、仏教はない」
と断定されている、親鸞聖人のお言葉なのです。
そして、
決してこれは、親鸞の独断ではない。
インド・中国・日本の七高僧方が、明言されていることなのだ

と、同じく『正信偈』に、

印度西天之論家
中夏日域之高僧
顕大聖興世正意
明如来本誓応機

インド・中国・日本に現れられた七高僧方は皆、
“仏教を説かれた釈迦の本意は、
どんな人も救う弥陀の誓願一つであった”
と明らかにされている

と仰っていることも、繰り返しお話をしてきました。

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続いて、その七高僧の筆頭である「龍樹菩薩」が、
弥陀の本願を明らかにされ、
勧めておられることを聖人は、
「顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽」
と仰有って、
釈迦の真意は、捨家棄欲の難行道ではないのだよ。
出家も在家も等しく救う弥陀の本願一つが仏教なのだ。
みな人よ、早く弥陀の本願を聞信し、
浄土で仏になれる身になってもらいたい」

と教示されているのです。

これでお分かりのように、弟子である釈迦が、
本師本仏の阿弥陀仏の御心を、生涯、
明らかにされているのが仏教なのです。
分かりやすく言えば、こういうことです。
阿弥陀仏がお釈迦さまに、
「釈迦よ、私の心を、地球の人たちに伝えてきなさい」
と命じられた、その通りに釈迦がこの世に現れられて、
弥陀の御心ひとつを説かれた。

されば「仏教=阿弥陀仏の本願」であり、
「弥陀の本願以外に、釈迦の教え・仏教はない」ことも、
当然と知られるでしょう。


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葬式・法事で助かるのか!? [後生の一大事]

今日、仏教界には、ひいきのひき倒し、というか、
親鸞聖人が現世の救いを説かれたことを強調するあまり、
「釈尊や親鸞聖人は、死後のことは説かれなかった」
という人がいる。
確かに親鸞聖人にみ教えの真髄は、
「この世で救われる」ところにある。
これを、「平生業成」「不体失往生」「現生不退」という。
弥陀の本願に救われ、この世が「心は浄土の遊ぶなり」
「光明の広海」となることは間違いない。

だからと言って、「死後を説かれなかった」と脱線することは許されない。
釈尊や親鸞聖人は未来世の実在を認められての上で、
現在の救いを教えられたのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教の根幹は因果の理法であり、
因果の道理を離れて仏教はありえない。

一切の現象には原因がある。
原因なしに生ずる結果は万に一つもない。
この因果の法則は科学を初め、
あらゆる学問の大前提になっているが、
仏教では我々の生命に過去、現在、未来の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説く。

これを三世因果の教えという。
これこそ他宗教に対する仏教の旗印といっても過言ではない。
我々の生命に三世があることについては、
否定する者も肯定する人もあるだろう。
来世を無とする説は唯物論、共産主義などで、
仏教では「断見外道」、または「無の見(むのけん)
」という。
一方、霊魂が不滅だから来世ありとする説は、
キリスト教やマホメット教など、
ほとんどの宗教の説くところであり、
仏教では「常見外道」、または「有の見(うのけん)」という。
仏教は無霊魂説である。
釈尊は固定不変な霊魂の実在を認めず、
業の不滅を説かれた。

即ち『阿含経』にある如く、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、
無我なるが故に常有に非ず」

と説かれ、「死後はない」とする断見外道も、
「死後には霊魂が存続する」とする常見外道も否定しておられる。

インドで小釈迦、八宗の祖師とうたわれた龍樹菩薩も常見外道(有の見)と、
断見外道(無の見)を徹底的に破られ、
業の不滅を明らかにされた。
親鸞聖人は龍樹菩薩の大活躍を『正信偈』に、
「悉能摧破有無見」
(龍樹菩薩は悉く能く有の見、無の見を打ち砕かれた)
と讃えておられる。
親鸞聖人も同じ立場に立っておられるのだ。

●不滅の業と来世

では、業が不滅だから来世があるとは、
いかなることであろうか。

業とは中国の語で、サンスクリット(古代インドの言語)でカルマといい、
元来(行為)の意味である。
行為は残る。一種の勢力となって残る。
その業力が因となって果を結ぶ。
善因には善果、悪因には悪果あり。

ここに厳粛なる因果業感の理法が成り立つ。
我々は日々、口、体、そして心で
数え切れない程の行為(業)を重ねている。
その無数の業は目に見えない業力となって存続する。
業は物質でも精神でもない。
今生の身心は離散しても業は残る。
この業は次生の身心を生み出す。

今生の身心と次生の身心とは同一のものではないが
業が両者を連鎖している。

玉突きの時、白玉の速力とその方向は
必ず赤玉の動く方向と速力を決定する。
だから赤玉と白玉とは同一のものではないが
その間に密接不離の関係があるようなものである。

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仏教では、業力は「阿頼耶識」という識に蓄えられる、
と教える。

「蔵」という意味であるから、阿頼耶識を「蔵識」ともいう。
天親菩薩は阿頼耶識を、
「暴流(ぼうる)の如し」と言われた。
「暴流」とは滝のことだ。
遠方から見れば滝は一枚の白い布を垂らしたように見えるが、
接近してみれば、激しい水の落下で時々刻々と変わっている。
かくて不滅の業力は、流れ流れて、
因果相続して窮まりなく、
今生の果報尽きても来世の新たなる果報を引き、
幾度も生死輪廻止むことがないのである。

万物は輪廻する。
車輪の果てしなく繰り返すようなものである。
仏教では、人間は生まれ変わり死に変わりすると説く。
それも犬や猫や馬になったりするのだが、
それは本当かという質問をたびたび受ける。
我々は過去ではいろいろのものに生まれ変わったと思う。
犬や猫の気持ちがよく分かる。
言葉こそ通じないがその気持ちはよく知られる。
彼らの気持ちがよく分かるのは、
自分もいつの世にか、犬や猫であった証拠ではないか。
そう考えると牛の気持ちも分かるし、馬の気持ちも分かる。
蜻蛉や蝶の気持ちも分かるし、
カタツムリやトカゲや蛇の気持ちさえ分かるような気がする。
我々は過去で何にでも生まれていたと思われるのである。

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今日の生物科学では人間受胎の現象を詳細に説明しているが、
なぜに私が、特定の父母の間に生まれ、
男女、貴賎、賢愚、美醜などを持たねばならなかったかという
本質問題になると沈黙する。
いわんや父母未生の以前の世界のことなどは研究することもできない。
仏教は、ここに峻厳な因果の大道理に立脚して永遠不滅の業があると説き、
その不滅の業が内因となり、
父母を外縁として我々の存在を説明する。

ゆえに特定の父母に受生したのも、
偶然でもなければ神の命令でもない。

自業自得である。
即ち自己の立場を生み出したものは
かつて自己の意思によって造った業なのである。
同じ父母から生まれながら、
兄弟姉妹の相違するのも各自の過去の業因のためであり、
兄弟よく相似しているのは父母という外縁の同一によるものだ。

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●仏典を貫く教え

三世因果の教えは今日、誰もが純粋に仏説と認める
小乗経典の『阿含経』より始めて、
大乗経典の『涅槃経』に至るまで、仏教経典を一貫する。

したがって、前世、あるいは来世の存在もまた、
仏説であることは勿論である。

『応報相応円珠経』には、
その時、世尊、諸々の比丘に告げたまわく、
若し殺生の人多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも必ず短寿を得ん。
不与取を多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも銭財に多難あらん

ここでは、十不善行と十善行の三世因果が明白に示されている。
『雑阿含経』には、
若し、命終の時、この身は若しくは火焼せられ、
若しくは塚間に棄てられ、風に飄され、
日に曝さるるとも、久しくして塵末となるとも、
心意識は久遠長夜に正信に薫ぜられ、戒、施、聞、慧に薫ぜられる

とある。
肉体が滅んでも、心意識が久遠長夜に続いてゆくと説かれているのだ。

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●親鸞聖人と三世因果

かかる釈尊の教えをそのまま、
生涯かけて明らかにされた方が親鸞聖人である。

聖人が三世因果の教えに立脚して
弥陀の本願を説かれたのは、
当然すぎるほど当然のことだ。

『教行信証』などから、親鸞聖人が、
三世について書かれたものを列記してみよう。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴せん

        (教行信証総序)
ひとたび人身を失いぬれば、
万劫にもかえらず

        (教行信証行巻)
「昿劫」「万劫」ともに、
果てしない未来世を表している。
「この逆を犯す者は、身壊れ、命終えて、
必定して無間地獄に堕し」
        (教行信証信巻)
「身壊れ、命終えて」の後に、
つまり死後に「必定して無間地獄に堕し」
と言われている。
死後の地獄である。
未来世の浄土往生についてもハッキリと言われている。
「この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
         (末灯鈔)
「地獄、極楽はこの世のこと、
と親鸞聖人は教えられた」
と主張する人は間違いである。

今日、真宗の人々が最も読む『歎異抄』においても、
死後の実在を前提とした親鸞聖人のお言葉が多い。
一切の有情は皆もって世々生々の父母・兄弟なり。
いずれもこの順次生に仏に成りて助け候べきなり

            (歎異抄第五章)
名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、
力なくして終るときに、彼(か)の土へは参るべきなり

           (歎異抄第九章)
来生の開覚は他力浄土の宗旨、
信心決定の道なるが故なり

         (歎異抄第十五章)
「『浄土真宗には、今生に本願を信じて、
彼土にして覚を開くとならい候ぞ』とこそ、
故聖人の仰せには候いしか」
         (歎異抄第十五章)
『歎異抄』に記されている「順次生」「彼(か)の土」「来生」
いずれも「未来世」のことであることは明らかだ。
釈尊や親鸞聖人が業の不滅を説き、
三世の実在を教えておられたことは以上の通りである。

●過去と未来を知見

では、かかる三世が如何なる因果関係によって
成立しているのだろうか。
そのことについて釈尊は、
『因果経』に明らかにご教示しておられる。
即ち、「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、
後世の果を知らんと欲せば現在の因を見よ
」。
いわゆる現在世の苦楽、禍福などは、
過去世の善悪の業報であり、
現在世の善悪の業はまた、未来世の苦楽禍福を生み出す。

個人の禍福は偶然でもなければ神の摂理でもなく、
まったく自業自得である。
よって三世因果の理法は、過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因より発するのだから、
現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来とを
知見できることを教えている。

では我々の未来に何が待っているのか。

●死後は地獄か極楽か
     厳然たる後生の一大事

死後の世界は、厳然としてある。
釈尊も親鸞聖人も、明確にそう説いておられることを、
前章で述べた。

それは、希望に満ちた明るい「極楽浄土」であろうか、
暗黒の苦しみの「地獄」だろうか。
「地獄」とは、中国の言葉である。
サンスクリットで釈尊は、「ナカラ」と仰有った。
それを中国で「地獄」と翻訳したが、
「苦界」(苦しみの世界)という意味である。
「ジゴク」は、この世にも死後にもあると教えられるのが仏教だ。
インドネシアの暴動や、ドイツの超特急事故の現場は、
多くの遺体が横たわり、さながら地獄の様相であったろう。
悲惨で救いようのない様子を、この世のジゴクと言う。
また、借金地獄に堕ちている人もあれば、
受験地獄に苦しんでいる学生もある。
不安な暗い心で、生きる目的のない日々を送っている人も皆、
ただ今からジゴクへ堕ちている人である。
「私ほど業な者はいない」
と他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸が絶えないから、ほとんどの人は、
すでにジゴクへ堕ちていることになる。
『大無量寿経』には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)

と説かれ、今が苦悩の絶えない人は、
必ず死後も地獄の苦を受けると教えられた。

未来は、現在の延長である。
現在が闇の生活なら、
死後もまた闇の地獄へ堕ちて苦しまねばならない。

では、死後の地獄とはどんな世界か。
『賢愚経』に釈尊は、
「如何なる喩をもってしても、地獄の苦は説けない」

と仰有った。強いて、
「教えたまえ」
と願いでた仏弟子に、
朝と昼と夜と、
それぞれ百本の槍で突かれる苦しみをどう思うか」
と尋ねられた。お弟子は、
「一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」。
そのとき釈尊は、豆粒大の石を御手にとられ、
「この石と向こうの雪山と、どれほど違うか」
とお尋ねになった。
「雪山」とは、ヒマラヤ山である。
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子たちに、
「一本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
ジゴクの苦はあの雪山の如し」
と仰有っている。

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大衆に地獄の実在を教えることは、
魚に火煙を知らせる以上に困難であり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難だったと思われる。

こんなこととは知らずに、虎皮のフンドシの鬼や、
地獄の釜をそのまま事実と思って嘲り、
疑っているのは、幼稚な仏教観である。

●“冥福を祈る”心理
    感情は死後の世界を肯定

「ご冥福をお祈ります」
の「冥福」とは、仏法の言葉である。
「冥土の幸福」を略したものだが、
「元旦や、冥土の旅の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし」
という一休の歌にもあるように、
「冥土」とは、死後の世界を言う。
「冥」には、「かたあかり」という意味がある。
スダレのように、片側からはよく見えるが、
反対側からは見えないことを表す。
死後の世界からは、
この世の我々の様子は手にとるようにわかるが、
私たちには、死後の世界のありさまがわからないから、
冥土と言われる。

「冥福を祈る」とは、故人の死後の幸福を祈ることになるから、
肉親や知人・友人が亡くなったとき、
すべての人が使う言葉と言ってよかろう。
平生は、死後の地獄なんかあるものかと、
せせら笑っている人でも、肉親や知人が亡くなると、
たちまち殊勝そうな顔で、
「ご冥福をお祈りします」
と言い出す。

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共産主義を信奉している国の人たちは、
死後の世界を認めないはずだが、
大統領などが死去すると、半旗を掲げ、
国葬をとり行うではないか。
クレムリンの「赤の広場」の裏手には、
旧ソ連の歴代書記長の墓があり、
花がそなえられているという。
死後がないなら、死体はただの肉塊となり、
墓も葬式もいらない。
思想的矛盾と言わねばならぬ。
自他ともにインテリと認める人は、
概して死後の世界を否定し、
またそれが知識人の証明であるかに思っていることが多い。
科学者には、その傾向が顕著であろう。
しかし、ひとたび肉親などの死にあうと豹変して、
平生の信念はどこへやら、
「心から、ご冥福を・・・」
と弔辞を読んでいる。

あるいは泣きながら、
「静かにお眠りください」
と言う人もある。
生前、その人の好きだった食べ物や酒などを墓に供え、
語りかけている光景も目にする。
周囲の人も、何の不審も持たない。
死後がなければ、「冥土の幸福」を祈る理由もなく、
まったくナンセンスになってしまう。

「安らかに眠る」ものもなく、墓も必要ない。
これは、死後の世界を否定し切れない感情が
私たちにあるからであり、しかもその世界は、
暗く苦しいものであると、予感しているのである。

死んで極楽浄土に往っている人の、冥福を祈るだろうか。
暗い世界に沈んでいるのではないかと思うからこそ、
「幸せになってください」と願うのである。
一片の知性によって、死後の苦界を否定してみても、
死んだ親などが苦しんでいるのではと思うのは、
そう思わずにおれなくする実存があるからという平凡な真理を、
かみしめねばならぬだろう。

地獄があるかないかは、知識の問題である。
死んだ後が恐ろしい、助かりたいという気持ちは、
人間の問題である。

死後の地獄を恐れる心は、
「地獄なんてないだろう」という知識くらいで
清算されるワケがないのだ。

●必堕無間の一大事

一歩、後生と踏み出すと、真っ暗な心が出てくるではないか。
今晩死んでも、覚悟はよいか。
いやーな思いになるのを、「後生暗い心」という。
その心を抱えて死ねば、地獄である。

釈尊は、
「必堕無間」
と説かれ、「必ず無間地獄へ堕ちる」と仰った。
中国の善導大師は、
ひとたび泥犂(でいり・地獄)に入りて
長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う

と説かれている。
親鸞聖人が、
「もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん」
と仰ったのは、暗い心(疑網)を抱えたまま一息切れれば、
気の遠くなるほど長い間、
苦患に沈まねばならぬという意味である。

これを、「後生の一大事」という。
「後生」とは死んだ後。
取り返しのつかない大事件が惹起するから、一大事だ。
人生の目的は、この一大事の解決以外にない。
ではどうすれば、後生の一大事は解決できるのか。
それは、仏法を聞き、
阿弥陀如来の本願に救い摂られるしかないのである。

ゆえに釈尊は、仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
と説かれ、親鸞聖人も、
「一向専念の義は、往生の肝腑、
自宗(仏教)の骨目なり」
と仰った。

仏教は何のために聞き、何を達成するのか、
よく知って、一日も早く、
目的を完遂させていただかねばならない。

●成仏と読経の関係は?
    池に石を投ぜられた釈尊

少し前の資料だが、国民生活センターによれば、
平均の葬儀費用は、249万円で、
内訳は次のようになっている。
葬儀社へ・・・87万円
寺へ・・・48万円
飲食費・・・31万円
香典返し・・・72万円
その他・・・11万円
(平成10年9月号のとどろきより載せています)
盛大な葬式を求める背景には、
死者への追善供養を重視する考え方がある。
死んだ家族の「霊」は、どこへ行ったのか。
一般には、極楽とか天国と思われているが、
そんな楽しい世界へ行っているなら、
霊を慰める必要はまったくない。

生きている人間の方が、
慰めてもらいたいくらいだろう。
やはり何となく、死者は暗黒の世界で苦しんでいるように思うのだ。
それで、お金をかけた葬式をしなければ、
「死者は成仏できないのでは」と考え、
張り込んで、できるだけ長いお経を読んでもらおうとする。


あるとき釈尊に、一人のお弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、
死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、
本当でしょうか」
と、尋ねた。
釈尊は、黙って小石を一個拾われ、
近くの池の中に投じられる。
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さし、釈尊は、
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながらまわれば、
石は浮いてくるであろうか」
と、反問されている。
お弟子が、
「石は浮いてきません」
と答えると、
「そうであろう。石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
だから、どれだけ周囲の者が『浮いてこい』と繰り返しても、
浮かび上がるはずがない。
人間もまた同様だ。
人はそれぞれの罪悪の重さによって、
死後に生まれる世界が定まるのだ。
この世の者が、経文を読んでも、
死人の運命が変わるはずがない」
釈尊は、読経や儀式で死者が救われるのではないと
教えられたのだった。

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●追善供養されなかった聖人

「さらに親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来(釈尊)の教法を、われも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」
と、無我に仏教を相承なされた親鸞聖人は仰っている。
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏一遍にても
申したること未だ候わず」
         (歎異抄第五章)
“この親鸞は、死んだ両親の追善供養のために、
一度の念仏を称えたことはない”
と言われるのである。
念仏も称えたことがない、とは、もちろん、
孝養のための読経をしたり、線香をたてたり、
花を供えることもなかったということだ。
それでは、親鸞聖人は不孝な方であったのか。
そうではない。
4歳で父君、日野有範卿と別れられ、
8歳で母君、吉光御前と死別なされた聖人は、
人一倍、親恋しいお心が強かったに違いない。

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また、「恩を知らざる者は畜生に劣る」
と知恩、感恩、報恩を厳しく教えられる仏教を求められ、
阿弥陀仏に29歳で救い摂られ、
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
と、恩徳讃を歌われた聖人である。
深重なる仏恩、広大なる師恩に感泣なされた聖人が、
阿弥陀如来、善知識・法然上人についで、
大恩を感じておられたご両親の魂の行く末を案じられないわけがない。
読経や念仏で、ご両親を救えるなら、
どれだけでもなされただろう。
しかし、それは救いにならないという、
釈尊のご教導に従われ、聖人は追善供養を一切、
なされなかったのだ。

そもそも経典は、釈尊が苦しみ悩む人に説かれた教えを、
お弟子方が書き遺したものである。
死人に説法なされたはずがない。
あくまでも、現在、生きている苦悩の衆生を
真実の幸福に導くための経典なのだ。

○葬式・法事を勝縁に

では、葬式や法事や読経はまったく無意味なのだろうか。
それは、勤める人の心にかかっている。
厳粛な儀式で、わが身を反省して罪悪と無常を観ずれば、
有り難い勝縁となる。

また法事も、よく分からない読経のみで終わっては所詮がない。
そのお経に説かれている真実の教えを聞かせていただいたり、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』を皆で聴聞して、
ますます信心決定せねばならぬと知られてこそ、
意味があるのである。

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ。
御心得あるべく候」
       (御文章一帖目六通)
蓮如上人のお言葉を深くかみしめ、
葬式、法事も勝縁に、人生出世の本懐に向かわねばならない。

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●肉体より魂の葬式を
     「賀茂河にいれて魚に与うべし」

「親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」(改邪鈔)
賀茂川は、京都に流れる有名な川である。
京に生まれ、京で晩年を過ごされた親鸞聖人には、
馴染みの深い川であっただろう。
その賀茂川に入れて、
自分の亡骸を魚に食べさせてやってくれよと、
聖人は仰っている。
驚くべきお言葉だ。

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遺骨を大切にしたり、葬式や法事に力を入れる風潮と
正反対だからである。

このお言葉は、種々に味わうことができるが、
まず一番は、遺体の後始末や肉体の葬式よりも、
魂の解決こそ急がねばならないのみ心であろう。

我が祖師・親鸞聖人は、阿弥陀仏に救い摂られた一念をもって、
魂の臨終であり、心の葬式だと教えられた方である。
『愚禿鈔』には、
「信受本願 前念命終、
即得往生 後念即生」
と仰せられている。
「信受本願 前念命終」とは、
弥陀の本願を信受した一念に、
迷いの命(昿劫より流転を重ねてきた自分の心)が
死んでしまうことである。だから、
「命終」である。
覚如上人は、この体験を
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
           (執持鈔)
と喝破なされている。
平生のとき、善知識のお言葉に導かれ、
阿弥陀仏に帰命した一念に、娑婆の終わり、
心の臨終を体験させられる。

だから、生死の断頭台に
生首を突き出す覚悟で聞かねばならぬときが、必ず来る。


そのとき、「南無阿弥陀仏」の仏心をいただいて、
「あら尊(とうと)
   地獄の底が
 極楽の
   門であったか
      涙こぼるる」
と、生まれ変わる。

親鸞聖人は、この「六字のまこと」をいただく体験を、
「即得往生 後念即生」と仰っているのである。
迷いの心が死んだとき、往生を得る。
この世の往生だから、不体失往生といわれる。
その時に、即ち生まれる。
一念で生まれるから、「後念即生」という。
「信受本願 前念命終」「即得往生 後念即生」とは、
文章に表せば前後ができるが、
体験は一念同時。
これを、信心決定、信心獲得というのである。
この魂の臨終、心の葬式こそ大事であり、
信心決定した人は、もう葬式は、終わっているから、
肉体の葬式は、もはや問題ではなくなる。

二番目は、深信因果。
仏教の根幹は、因果の大道理である。
一切は、みな因果の道理に従って成立し、変化する。
蒔かぬ因は生えぬが、蒔いた因は必ず生えるのである。
阿弥陀仏に救い摂られた聖人は、仏智により、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理
狂いなしと知らされた。
だから、「賀茂河にいれて魚に与うべし」のお言葉には、
「なんと今まで多くの殺生をしてきたことか、
食うたら食われるのが因果の道理、
せめて死んだら食べてもらおう」
という深信因果もあったに違いないと思われる。

●罪悪感と大慈悲心

三番目には、徹底した罪悪感が窺える。
一生造悪、曽無一善で出離の縁有ることなしの親鸞に、
葬式や墓などとんでもない、
勿体ないという深い懺悔もあったであろう。

最後に、親鸞聖人の大慈悲心がくみ取れる。
信心決定した人は皆、宇宙最高の功徳である
「南無阿弥陀仏」の名号と一体になる。
親鸞聖人が、
「五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」
       (正像末和讃)
と言われ、蓮如上人が、
「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主に成るというは、
信心を獲ることなり」
       (御一代記聞書)
と仰せになっている通りである。
親鸞聖人には、「この『南無阿弥陀仏』と
一体の肉体を食べて、いずれの世にか、
魚にも仏縁あれかし」の度衆生心もあっただろうと拝察される。

人間のみならず、衆生一切の救済を念じられる
親鸞聖人の大慈悲心を彷彿とさせられるではないか。
それにつけても、葬式や墓番を任務のように心得ている仏教もあるが、
この金言を何と味わっているのであろうか。
親鸞聖人の悲憤が聞こえてくるようだ。


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人間の臨終には三段階ある! [後生の一大事]

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●三位の臨終

釈尊は我々に八つの心があると教えられた。
八識と言う。
眼識・・眼の心
耳識・・耳の心
鼻識・・鼻の心
舌識・・舌の心
身識・・身の心。体が触れたものを判断する。
意識・・思考、記憶等の心
末那識・・悪の根源の心
阿頼耶識・・我々の本心。後生へ流転していく

ここから、仏教では、人間の臨終には三段階あると教えられている。
これを三位(さんみ)の臨終と言う。

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●(第一段階)心明了位の臨終
   目、耳、鼻、舌、身の心が死ぬ

第一段階を、心明了位(しんみょうりょうい)の臨終と言う。
眼、耳、鼻、舌、身識、これらの前五識が、
まず、死を迎える。

しかし、意識はまだ、生きている。
母親の臨終で例えれば「ハハキトク」の電報を受けた、
東京に嫁いでいる娘が、懸命に実家に駆けつけ、
枕元で、「おかあさん」と大声で呼ぶ。
だが心明了位の臨終にある母親は、
耳識が臨終を迎えているから、
耳元で叫ぶ娘の声も、遠くで誰かが、
かすかに叫んでいるようにしか聞こえない。
「誰の声だったかな、聞いた覚えのある声だが・・・」
と思うが、ハッキリしないのだ。
眼識も臨終だからカーッと目を見開いても、
娘の顔はボーッとカスミがかかったようでハッキリしない。
目が死ぬ。耳が死ぬ。
鼻が、舌が、身が死んでゆく。
もう見ることも発声も、体も動かせない。
このように前五識がまず死んでゆく。

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●(第2段階)身体愛法位の臨終
          意識が死ぬ時

次が、第2段階、身体愛法位の臨終である。
これは、意識の臨終だ。
それまで、ハッキリしていた意識が死ぬ時である。
この時、3つの執着により、苦しむ。
これを三愛という。
いろいろなものに対する執着心から、
大変な3つの苦しみが生ずるのだ。


では、三愛とは。
①境界愛
自分の愛し続けてきた、妻子や家財等に対する執着である。
それらと別れることは大変つらい。

蓮如上人は仰る。
「まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、
ただ一人こそ、ゆきなんずれ」
           (御文章一帖十一通)
人間、死に際しては、それまで命がけに求めてきた財も
宝も何一つ持っていけない。
守り続けてきた妻子も、誰一人、連れてはいけない。
全く独生独死、独去独来、独り死んで行かねばならないのだ。
突然の火事で家屋や家財道具を失えば、
悲嘆に暮れるであろう。
しかし、土地はまだ残っている。
銀行に預金があり、家族も無事となれば、
再起も可能だ。
臨終は、それら一切を一時に失ってしまうのだ。
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然だ。

②自体愛
自分の身体ともいよいよ別れていかねばならない苦しみ。

③当生愛
死後どうなるか分からず、暗黒の世界に堕ちてゆく不安、
後生に対する恐れ。

身体愛法位の臨終では、これらの苦痛に攻められ、
七転八倒する思いなのだが、
心明了位の臨終が過ぎてしまっているから手足を動かせず、
声も出せない。

だから、本人は塗炭の苦にあっても、
外見から見れば、安らかな臨終にみえる。
表面上、あくまで静かに息を引きとったように見えるので
「うちのお婆さんは眠るが如く死んでいかれたから、
きっと極楽往生間違いないですよ」
などと言う。
外見だけから判断して、そう言う人が多いが、
実に無責任極まる発言で、
本人はキリキリ舞いをして苦しんでいても、
それが表現できないだけと知るべきだ。

●火の車、臨終に現れる
    自分の業が産み出したもの

仏教では、人間の臨終に、「火車来現」があると教えている。
火の車が、現れ来たる、というのだが、
この火の車とは、自己の業が産み出したものだ。
故に「火の車、造る大工はなけれども、
おのが造りておのが乗りゆく」
と詠まれている。
火の車を造る大工が地獄にいるのではない。
自分の業、が産み出したものに、
自分が乗ってゆくのだ。
ところが、火車来現も外部に伝える手段がない。
しかし例外的に、心明了位の臨終の終わり切らないうちに、
火車来現に出会う人がいる。

体が動き、声を発することができる時に、
火の車を体験するとなると、臨終の様相は一層、
悲惨になる。

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●M氏の体験

平成の現代にも火車来現を叫んで死んだ叔父の姿を通し
仏法を求めるようになった人がいる。

岐阜県在住のM氏である。
M氏の家庭は、熱心な真宗門徒で、
M氏が幼少の頃から父親、祖父が真剣に聞法していた。
M氏は成長するにつけ、仏法よりも、
立身出世、金儲けを生き甲斐とし、
働きバチのような日々を送っていた。
M氏の叔父に大の仏法嫌いがいた。
その人は、M氏の家族を誹謗し続けた。
「仏や、阿弥陀仏など、いない。
地獄や火の車など、おとぎ話だ。
この忙しい時に、M一家は、富山、滋賀まで仏法を聞きに行く。
何のために行くのだ。
仏法など聞いていても生きてゆけんぞ。
仏法など、クソ喰らえだ」
口汚く謗法罪を作り続けたその叔父が、
ガンで病床につき、急速に悪化した。
夜中に電話を受け、もう命が危ないと言う。
M氏と父親、祖父が病院に駆けつけた。

●断末魔の叫び

病室に入るなり、M氏の目は、
ベッドの上の叔父の異様な姿に釘付けになった。
叔父は、やせ細った両足を交互にふり上げ、
目は振子のように、何か恐ろしい物を見ている必死の形相で
「火が来た。熱い。熱い。
オレを隠してくれ。オレを隠してくれ」
と絶叫していたのである。
M氏は30分以上もそのような断末魔の叔父を
為す術もなく見つめるだけだった。
手で虚空をつかみながら、
あらん限りの声で「火が来た」と叫び続ける叔父の姿に、
「仏語に虚妄なし」仏説まことを知らされたと、M氏は言う。

声が枯れ、何とも言えない恐怖の形相で息をひきとった叔父の姿は、
余りにも強烈であった。
それ以来、仏法を求めずにおれなくなったと言う。
臨終の心相を釈尊は『大無量寿経』に説いておられる。
「大命、将に終わらんとして、悔懼(けく)交至る」
人生の最後には、生涯への後悔と、
未来への恐れが、交互に迫り苦しむ。

しかし、必死に叫ぼうとしても、叫ぶ力のないのが、
身体愛法位の臨終だ。

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●(第3段階)心不明了位の臨終
         阿頼耶識が次の世界へ

身体愛法位の臨終で意識が死に、
次に心不明了位の臨終に進む。

これは、阿頼耶識が次の世界に転生する。
これがまさに死の瞬間だ。

阿頼耶識の転生する迷いの世界は六つあり、
六道という。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界である。
源信僧都の『往生要集』に詳述されている。

●上の心と下の心
     聞法により知らされる

さて、仏教学者は、学問の積み重ねで、
我々の心の解明を目指すが、
仏法者は、聞法により、自己の本心を知らされる。
八識は、大別すれば、意識と阿頼耶識の2つの心に分けられる。
前五識は意識に従属し、
末那識は、阿頼耶識に支配されるからである。

仏法をきくことを聴聞というが、
聴聞を重ねていくと、
我々には二つの心があることが感じられてくる。
上の心と下の心、である。

上の心は、我々が、普通、「心」と言っているものであり、
仏教語で言えば「意識」である。
下の心とは、意識のはるか底に潜む心であり、
意識をもコントロールしている我々の本心、
「阿頼耶識」である。

そんな心の存在を現代人は知らない。
今日の心理学は、意識の下に潜在意識があり、
その更に下に深層心理があると教えている。
潜在意識すら、なかなか分からないので、
深層心理となれば、一層、難しい。
釈尊が2600年昔に説かれた我々の本心「阿頼耶識」を、
現代の心理学者はようやくつきとめ「深層心理」と名付けて
必死の研究を重ねているのだ。

ここでも仏智の深遠さが知らされる。

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「聴聞」の「聴」とは、
上の心、意識が、善知識の法話を聞くことをいう。
いわば人間の声を「聴く」のである。
真宗は「きくひとつで助かる教え」と言われるが、
この「聴く」ではない。
上の心でいくら仏法を聴いていても、
いよいよ臨終となれば、意識は肉体と共に亡んでしまうのだ。
本心、阿頼耶識が聞かなければ救われないのだ。

下の心が聞くことを「聞」と言う。
「聴」は千座、万座、何回でもできるが、
「聞」はただ一度。
「聞」とは阿弥陀仏の直のお呼び声を心のどん底に聞くことだが、
その時、心が大転換するから「廻心」という。
廻心の体験は、ある人で、一生涯にただ一度だ。
「一向専修の人においては、
廻心ということは、ただ一度あるべし」
        (親鸞聖人)
心のどん底の本心に聞かせるためには、まず、
その存在自体を知らねばならない。
それには、上の心で「聴」を重ねていくことだ。
下の心は、丁度、毛布を何百枚もかぶって昼寝しているような状態。
「聴」を重ねることによって毛布は一枚、また一枚とはがされていく。

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●我々の本心
    下の心の素顔

やがて、下の心がみえてくる。
みえてくる顔を表現すれば、テレーッ、キョロン、キョトン、
ポカン、ボーッと言う状態で、
上の心が真剣に聴いている時でも、
朝寝坊が目を覚ましたようなボーッとした顔だ。


「お前、そのまま今晩死んだら地獄へ堕ちるぞ」
と言われても、皿一枚割った程の驚きもない。
「救われたら地獄だぞ」と言っても、
千円札一枚もらったほどにも喜ばない。

「無常の世の中ではないか。今晩死んだらどうするのだ」
と無常観に迫られても、
「まだまだ死なん」とはねつける。

「生き物を殺して食べ、心中眺めれば、美しい女性を思い浮かべ、
浅ましいことを思い続けいるではないか。
憎む相手を心で切り殺しているではないか。
罪悪のかたまりが、お前の正体だ」と言われても
「殺して食べて何が悪い」と反発する。
地獄ときいても驚かず、極楽ときいても喜ばない。
仏法に向かえば、何の反応もなく、
死体にお灸をする如くである。
ウンともスンとも言わない。
親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰有った。
逆は親殺しを意味する五逆罪、謗は、仏法を誹謗する謗法罪。
我々の本心は、自分に都合は悪ければ、
大恩ある親でも「死んでくれたらよい」と心で殺してしまう。
五逆罪を造る。
仏法に向かえば、「地獄も極楽もあるか、火の車など、お伽噺だ」
と謗法の大罪を犯す。
まさに逆謗の屍である。
仏法に向かえば屍だが、世間事なら徹夜も厭わない。
飲みたい、食いたい、寝たい、楽したい、金儲けの話なら、
一晩中でも起きている。
そんな本心が、腹底にあるのだ。
仏法が有り難い、というのは上の心が感情的に喜んでいるのだ。
下の心は少しも有り難いと思っていない。

寺は照る照る
 道々曇る
  家に帰れば雨風だ

寺で有り難い話を聴いて、
涙を流して喜んでいる。
ところが、家路へ向かえば、そんな喜びはだんだん薄れ、
到着して、憎い嫁の顔見たら「あいつめ、こいつめ」
と怒りの煩悩一杯で、喜ぶ心など、
どこかへ飛んでいってしまう。
それを「家に帰れば雨風」という。
そんな繰り返しで、漠然と寺参りしているうちに、
たちまち老齢、たちまち棺桶だ。
聴とはきけても「聞」が難しい。

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○遇い難き法とは知れど
     この法を
 極難信と知るはまれなり
○善知識に遇うことも
教うることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
       (親鸞聖人)
よく「聞く」ことが難しいのだ。
しかし、必ず、「聞く」ことはあるのだ。

●雨だれの説法

『蓮如上人御一代記聞書』に
石に水で穴をあける教訓が語られている。
「いたりて堅きは石なり、
いたりて軟なるは水なり。
水よく石をうがつ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道、
何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、
聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候あいだ信を獲べきなり。
只仏法は聴聞にきわまることなり」

昔、音羽の明詮という僧がいた。
ある師について仏道修行に打ち込んだが、
どうしても、目的が達成されない。
悲観して師に暇乞いを申し出た。
ひきとめようにも決心は固い。
やむなく師は了解し、明詮は長年、修行した寺を辞した。
ところがその時、にわか雨に襲われ、やむなく、
山門の下に雨宿りをした。
その時である。
屋根から滴り落ちる水滴が、庭石の一点に続けて落ち、
見事に固い石に穴をあけていたのだ。
あのやわらかい水が、石に穴をあけるとは、
ああ、自分は間違っていた。
たとえ自分のような非才な者でも、
たゆまず修行を重ねれば、石に穴があくように、
目的達成できるのだ

雨だれから受けた説法を胸に師のもとに帰った明詮は、
一切を打ち明け、再び、精進し、
遂に音羽の明詮といわれる大徳になった。

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●屍を生まれさせる
     阿弥陀如来の本願力

我々の本心は、確かに「屍」。
この世もジゴク、未来も地獄の罪悪の固まりだ。

しかし必ず救われる。
なぜならば、阿弥陀仏の、
「若不生者 不取正覚」のお約束があるから。
「もし生まれずは、正覚を取らじ」と、
仏の命である正覚を担保に、阿弥陀仏が、
屍を生まれさせる、と誓っておられる。

その本願がまことだから、屍の心が、
大安心、大満足の絶対の幸福に生まれる時があるのだ。

阿弥陀仏の「そのまま助けるぞーっ」のお呼び声に
「ハイ」と返事をする時が「聞」と聞いた時である。
「こうにも聞こえにゃ、聞かぬがましか」と聞かん心に泣いて求めた、
山口県六連島のおかる同行も、
「たった一声聞いたのが
その一声が千人力
四の五の言ったは昔のことよ、
そのまま来いの勅命に
いかなるおかるも
    頭が下がる」
と、本心に弥陀の勅命が届いた喜びを述べている。
心のどん底、阿頼耶識が救われた体験を
信心決定といい
いつ死んでも浄土往生間違いない身となれるのだ。
ここに、全人類の救われるただ一筋の道がある。


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