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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

仏説阿弥陀経に学ぶ! [経典]

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お盆の法要や葬儀でなじみ深い『仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏のことばかりが
説かれています。

お盆特集の第2部は『仏説阿弥陀経』について学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●お釈迦さまが自ら語りだされたお経

約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に書き残されています。
これを「一切経」といいます。
お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自答」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、
この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。

本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれた目的)であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。

その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。

「一時、仏、舎衛国の衹樹給孤独園に在して、
大比丘衆千二百五十人と倶なりき」
(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国の衹樹給孤独園におられました。

「舎衛国の衹樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「衹園精舎」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれていました。

「爾時(そのとき)、仏、長老舎利弗に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて極楽と曰う。
其の土(くに)に仏有(ましま)す。
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう」
(その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法をしていらっしゃる
のだ、と)

お釈迦さまは、宇宙には、この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。

仏教では宇宙について
「地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大千世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界という」
と説かれています。
これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが二千六百年もの古に釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。

この宇宙観に基づいて、
「十万億の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。

●阿弥陀仏と釈迦仏の関係

阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。

「彼(か)の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障礙する所無し、
是(こ)の故に号して阿弥陀と為す」
「彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧衹劫なり、故に阿弥陀と名く」

『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。
阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならない
のだ、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる、
限りないお慈悲の仏さまである
ということです。

仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。

しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏教は全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。

お釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。

お二方の関係について、お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。

「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
         (二帖目八通)

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。

その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。
『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏など、たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。
阿弥陀仏がそれらの仏方の本師本仏であるとは、
十方諸仏の師であり先生である
、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。

●釈迦出世の大目的

弟子の使命とは、何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。
ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。
そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、こう明言されています。

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」
(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)

「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、ただ一つのことを説かれるためであった、
ということ。
七千余巻のお経、45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。

たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99パーセント読んでも、こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれているか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。
私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。

ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、親鸞聖人は仰っています。

●阿弥陀仏の本願

弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、この弥陀の本願以外になかったのです。
しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。

大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。

だから『阿弥陀経』には、
「われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ」
という諸仏の言葉が説かれています。

「舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿しゅくび仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、
妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、
各其の国に於て、広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆いて、
誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと」

舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、あしゅくび仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏
・妙音仏、このようなガンジス河の砂の数ほどの無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至るところで、
“全ての人々よ、まさにこの不可思議な弥陀の本願を信ずる以外に
救われる道はないのだ”
と真実の説法をしておられるのだ

これは東方のみならず、南方、北方、上方、下方の六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが続いて説かれています。
これが有名な「六方諸仏の証誠」です。

先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存知だったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。
また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々想念」とか「唯仏与仏の知見」といわれる仏智の働きによって
仏さま同士が互いに通じておられるから、分かられたことです。

●すべての仏さまが
    たたえるのはなぜか?

その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。

十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、万人に褒められることはないでしょう。
「過去にも、今にも、未来にも
 皆にて謗る人もなく
 皆にて褒むる人もなし」
       (法句経)
ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が異口同音に
褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他の仏にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。

「舎利弗、彼の仏の光明は無量にして
十方の国を照らすに障碍する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す」
(舎利弗よ、彼の仏の光明<智慧・お力>は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである)

「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、親鸞聖人は讃嘆なされています。

「仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ」
     (浄土和讃)
*大応供(だいおうぐ)・・・「応供」とは供養を受けるにふさわしい方、仏のこと。大応供とは最もすぐれた仏のことで阿弥陀仏のこと

阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。
阿弥陀仏を光炎王仏とお呼びするのだ。
その光明は三塗の黒闇<無明の闇>を破るお力があるから、
大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい

最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は「三塗の黒闇(無明の闇)」をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。
そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。

大宇宙広しといえども、我々の三塗の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外
ありませんから、
一切の諸仏が称賛するのです。

では、三塗の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、という不安な心」をいいます。
死に直面すると、黒いというか、暗いというか、
真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。

先のお盆の項でも書きましたが、
死は万人の確実な未来ですが、死ねばどうなるか分からぬまま、
私たちは日々を生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。
そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、救ってくださるのです。

『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、

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と説かれています。
この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、無明の闇が破られ、後生明るい心になります。

いつ死んでも弥陀の浄土、限りなく明るい無量光明土に
生まれることがハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。
「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、
ただ今、決定いたします。
生きてよし、死んでよし、いつでもどこでも大安心大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。

全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、この無上の幸福に救われてもらいたい」
大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されているのが
『仏説阿弥陀経』なのです。


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そうだ、お盆には仏教を聞こう。 [なぜ生きる]

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“お盆”は仏教なの?
日本の夏といえば「お盆」。
古来、この季節には先祖の霊が帰ってくるといわれます。
お盆とは仏典の『仏説盂蘭盆教』から転じた言葉です。
各地に残っている迎え火や送り火、
墓参りや盆踊りなど種々の風習も、
仏教から出たものと考えられており、
日本人の仏教観にも大きく影響しています。
お盆とはどんなことか、
私たちはどう過ごせばいいのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・
ある人からこんな話を聞きました。

毎年、お盆の前には父に連れられて、
先祖代々の墓に家紋入りの灯篭を立てに行きました。
「お父さん、何でこれ立てるの?」
「わが家の墓はここだぞ、という目印だ。
死んだじいさんや、ばあさんの霊が迷わんようにな」
「ふーん」
そんなもんかと思って聞いていました。
お盆の間、灯篭は明々とともり、
終われば、また片付けに行ったものです。

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お盆の前には迎え火をたき、
最終夜は盆踊りや送り火をする。
地方によってスタイルや呼び名は違いますが、
こんなやり取りが、日本の夏の風物詩となっているようです。
それらの慣習の根底には、先祖や死者の霊が、
お盆の期間中は帰ってくる、という考えがあります。
そして“これが仏教”と多くの人は思っています。
ところが、お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人の教えを聞かせていただくと、
こうした風習と仏教の教えとは、
相いれない部分があると分かってきます。

事実、前記のような慣習は、
浄土真宗には本来ありません。
なぜなら、平生、弥陀に救われている人は、
死ねば必ず浄土へ生まれて大活動するから、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
(親鸞、死ねば弥陀の浄土に還る)
と聖人も御臨末に仰って、
墓の下には戻ってこないのだ、と教えられています。
また、弥陀に救われていなければ、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、
まいた因に応じた結果を、後生、
永く受けなければなりません。
ですから親鸞聖人や蓮如上人は、
死者の霊が墓に帰ってきたり、
また出かけて行ったりできるものでは絶対ないと、
これらの俗信を打ち破っていられるのです。

●無常を念ずる勝縁に

ならば墓参りは一切不必要で、無意味なのかといえば、
心構えさえ正しければ故人をしのび、
自身の無常を念じる得難いご縁となりますから、
弥陀の救いに値う勝縁となりましょう。

この「無常を念ずる」とは、どんなことでしょうか。
「無常」とは「常が無い」と書き、
絶えず変化することをいいます。
私や私を取り巻く一切は、
一時として常住しないものばかりです。
五月に話題になった「金環日食」は
数百年に一度、見られるか否かの天体イベントでしたが、
太陽をはじめ宇宙が刻々と変動している証でしょう。
外界のみならず、私の肉体も心も、同様に無常ですが、
とりわけ生きている私の最大の変化は「死」ですから、
無常の「死」の意味で使われるのです。

●切々たる無常観

「死」を、自己の確実な未来とみていく無常観は、
仏法の原点です。
室町時代に活躍された蓮如上人は、
有名な『白骨の御文章』に、
人の世の無常を切々と訴えられました。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
(浮草のような人間の一生をよくよく眺めてみると、
人生とは何と儚く、幻のようなものか)

人の一生を、まず「浮生(浮いた草)」と仰っています。
根っこのない浮き草が
風に流され漂っているようなものということです。
この世のどんな成功者も、
財や物に恵まれている人も、
人生の本質は皆浮生だと教えられます。
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空言・たわごと・真実あることなし」
有名な『歎異抄』の親鸞聖人の仰せです。
「火宅」とは火のついた家。
隣から出た猛火が、まさに自宅のひさしに燃え移った時、
のんびり晩酌しながらテレビを見ていられるでしょうか。
人生が火宅のような不安に覆われているのは、
一切が無常だからです。

健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
私たちが日々求めている全ては、
今日あって明日なき幸せ。

太陽や月が刻々と動いているように、
絶えず変転しています。
手に入れた瞬間から、滅びに向かっていくものばかりですから、
「万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無し」とも
「浮生」ともいわれるのです。

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今なお、毎年多くの交通事故死があります。
京都で無免許運転の少年が居眠りして
通学中の子供の列を襲い、
格安高速バスの運転手が早朝、
居眠り運転で壁に突っ込む。
多くの命が犠牲となりました。
思わぬ自然災害も起きています。
5月、茨城で突然竜巻が発生し、
自宅にいた中学生が亡くなりました。
コンクリートの基礎ごと巻き上げられた家が、
逆さまに地面にたたきつけられたといいます。
自宅にいてさえも、突発的に命を落とす。
まさに「朝に紅顔、夕に白骨」で、
この世のどこに、100パーセント安全な場所がありましょうか。

●後生の一大事
    心にかけよ

誰もが逃れがたい無常を教えられた『白骨の章』の最後を、
蓮如上人はこう締めくくられています。

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

(死は万人に訪れる。だから、何人<なんびと>も早く、
後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いを頂きなさい

仏法を求める目的は、実にこの「後生の一大事」の解決にあり、
それは万人共通の問題なのだよと示されています。

では、「心にかけよ」と言われる
「後生の一大事」とはどんなことなのでしょうか。

人生を飛行機の旅に例えるならば、
誕生した時が離陸の時。
二十歳の人は20年前に、六十歳なら60年前に飛び立ったということです。
ひとたび飛び立った飛行機は一刻も止まらず、
猛スピードで飛び続けねばなりません。
では、人生という飛行機はどこへ向かって飛んでいるのでしょう。

「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」
禅僧・一休は女性の一生をこう詠んだ。
若くて楽しい娘時代。
箸が転んでもおかしい年頃ですから、
女偏に良いと書きます。
やがて見初められて花開く結婚、
家に入って嫁となります。
子を産み、どっしりたくましくなれば、
鼻高々と嬶です。
婆さんを待たずに病死や事故死する人もありますが、
幸せに生き延びても、必ず死を迎えることは変わりません。
男も呼び方が違うだけで、誰もが同じ道をたどります。
生きるとは、死に向かっていくということにほかならず、
飛行機なら必ず降りねばならぬ、ということなのです。

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ところが、そんな飛行機に乗っている私たちは、
「いずれ降りねばならないことは、分かっているけど・・・」
と言いながら、どこに向かい、どこに降りるのかハッキリせぬまま、
人生のフライトを続けています。
「差し当たり今は公私ともに順調。
そこそこ快適だし、このまま飛んでいけばいいんじゃないの?」
ところが、そんな快適な旅の最中に、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
皆様、当機は現在、上空1万メートルを航行中です。
しかし、目的地は分からず、着陸地も見当たりません。
燃料はあと5時間でございます。
それまでの間、皆様、映画やお食事、ゲームやショッピングなど
快適な空の旅を、ゆっくりお楽しみください・・・

こんなナンセンスな飛行機に、誰が乗り込むでしょう。
しかし、どこに向かって生きるか分からない人生は、
こんな不条理な飛行機の旅と、どこが違うでしょうか。

この「どこに向かって生きるか分からぬ不安」を
後生の一大事といいます。

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「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
        (徒然草)
(死の時期は順番を待たない。
死は前からだけ来るのではない。
いつの間にか背後に迫っているものだ。
人は皆、自分もいずれ死ぬと知りながら、
そうとは思わぬうちに、突然死んでいかねばならないのである

兼好法師が言うように、死は前後だけでなく、
上からも下からも、いつどこから襲ってくるか分かりません。
「あと○日」と余命宣告を受けた人だけが死んでいくのではありません。
生に酔いしれている私たちが、思っていないとき、
突然ドカドカと土足で座敷に上がり込んでくるのが死というものなのです。

●釈迦の結論は?

降りる場所のない飛行機のような不安を抱えた私たちが、
真に救われる道を、お釈迦さまはどう教えられているのでしょう。

それが仏教の結論である
「一向専念 無量寿仏」
の教えです。

「無量寿仏」とは、大宇宙の諸仏方に
本師本仏と仰がれている阿弥陀仏のこと。
その阿弥陀仏は、
「全ての人を、いつ死んでも
往生一定(必ず浄土往生できる身)に救う」
と誓われています。

この弥陀の本願(お約束)によらねば、
我らの後生の一大事助かる道は二つも三つもないのだ。
だから弥陀一仏を信じよ、とお釈迦さまは勧められているのです。

阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代不善の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つもあるべからざるものなり

         (御文章二帖)
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖)
阿弥陀仏をたのめば、どんな罪悪深重の者でも
必ず浄土往生できるのです。

そこで、肝心の「阿弥陀仏をたのむ」とは、
どんなことなのでしょう。

「たのむ」は今日「お願いする」の意味で使われますが、
「御文章」の「たのむ」は、
そんな祈願請求の意味ではありません。
「憑む」と書いて「あてにする」「たよりにする」「うちまかせる」
という意味なのです。

「私の後生の一大事、助けてくだされる方は、
大宇宙でただお一人、阿弥陀仏だけであった」
と自力のはからいを全て捨てて、
弥陀にまかせ切ったことを、「阿弥陀仏をたのむ」といわれているのです。

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、
皆ことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり」
           (御文章五帖)
朝から晩まで、はからい満足のために欲に追い回されて、
静かに自己の脚下を見る時がない。
忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要です。
一年に一度、静かにお盆の墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、必ず死なねばならぬのか」
と、生死の一大事に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
酔生夢死で終わってはならぬ。
必ずこの法を聞き抜くぞ、と、
聞法の勝縁とするならば、有意義なお盆となるでしょう。


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阿弥陀仏の本願 [阿弥陀仏]

IMG_20150524_0046.jpg-1.jpg(平成10年6月号『とどろき』より載せています。) 

都会の人は可哀想である。
満天に、無数にきらめく星空を、
スモッグのためになかなか見られないからだ。
そこへゆくと、このチューリップ企画本社ビルのある
富山県大島町などはよい。
見上げれば、雄大な世界に吸い込まれるかのように思える。
わずかな土地を奪い合い、裁判沙汰になったり、
戦争まで起こしている人間社会がバカらしくなるではないか。
大宇宙から見れば、地球は星クズの一つに過ぎず、
その中にうごめく人間は、なんと表現したらよいのだろう。
かまびすしく鳴くセミも、
地上へ出て一週間で死ぬと言われる。
日本人ならば人生八十年、しかし宇宙の生命と比べれば、
それがどうした。
セミよりもはかない、一瞬のできごとではないか。

「悠々たるかな天壌
遼々たるかな古今
五尺の小軀をもって
この大をはからむとす。
ホレーショの哲学、
ついに何等の
オーソリティに
価するものぞ。
万有の真相は
唯一言にして悉す。
曰く『不可解』。
我この恨みを懐いて煩悶
ついに死を決す」

明治36年5月22日、日光・華厳の滝に投身自殺した、
藤村操の遺言である。

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旧制一高で西洋哲学を学んでいた18歳の藤村操が、
巌頭の大樹の幹を削り、書き残したので、
「巌頭の感」と言われる。
二ヶ月後、滝壺で遺体が発見されると、
一大センセーションが巻き起こった。
明治初期、「デカンショー、デカンショーで半年暮らす」
とうたいはやされるほど、
西洋哲学は熱狂的に受け入れられた。
「デカンショー」とは、デカルト(仏)、カント(独)、
ショーペンハウエル(独)という高名な哲学者の名前から
作られた言葉である。
彼らの哲学を学んで半年、残りの半年は寝て暮らすという、
当時の学生気質だった。
ところが、西洋哲学を学んだ天才青年の結論は、
どうだったか。

「悠々たるかな天壌」
人間の存在に比べれば、あまりにも大きな天地自然。
「遼々たるかな古今」
はかない人間の寿命に比して、宇宙の歴史は悠久である。
「五尺の小軀をもってこの大をはからむとす」
五尺の身体で人生の意義を考えてみた。
「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」
西洋哲学は、私に何も教えてくれなかった。
「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』」
結論はただ一言、「人生は不可解」である。
この一瞬の人生、何のために生まれてきて、
なぜ生きるのか、生きねばならないのはなぜか。
「生きる目的は不可解である」と、
藤村操は言いたかったのだ。

以後、人生に悩む青年が後追い自殺を繰り返し、
4年間に185人もが、華厳の滝へ投身している。
「哲学を学ぶと自殺する」とまで言われ、
親は子に哲学をさせないようにしたという。

●伝染する自殺

藤村操の例からもわかるように、自殺は伝染する。
ペスト(黒死病)は、ネズミを媒介として大流行した。
自殺はマスコミが媒介する。
報道が自殺志願者を駆り立て、実行へ走らせるのだ。

昭和61年に、アイドル歌手だった岡田有希子が、
18歳で7階建てのビルから飛び降りたときも、
後追いと見られる遺書を残し、
少年少女が次々と自殺した。
この年の日本の自殺者は、2万5000人を突破している。

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さらには今年五月、人気ロックバンドのメンバーの自殺でも、
後追いが見られた。
それだけ、自殺志願は多いのだ。
1日65人に上る自殺者の陰で、
その4倍とも10倍とも言われる未遂があり、
さらに機会あらば自殺したいと思っている、
危険性の高い(ハイリスクの)人がいる。
これらの人が、有名人などの自殺を聞き、
「私も同じ場所で・・・」と思うと、
たちまち自殺の名所ができてしまう。
報道各社も、気を使っているようだが、
「『なぜ生きるか』が不透明」という、
人間存在の根底にあるテーマに、
斬りこむジャーナリストはいない。

●自殺者は大バカ者
    死後に待つ地獄の苦

仏教では、自殺者は愚か者と言われる。
ある日、釈尊が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりはばかりながら一人の娘が、
袂(たもと)へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。
「お恥ずかしいことですが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと、
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま、見逃してくださいませ」
泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思われながらも、
厳然と仰せられた。
「お前は何というバカ者なのか。
お前には譬えをもって教えよう。
ある所に、毎日荷物を満載した車を引かねばならない牛がいた。
牛はなぜ、こんなに苦しまねばならぬのか、
オレを苦しめるものは何かと考えた。
そのとき、この車さえなければ苦しまなくてもよいと
思い当たったのだ。
ある日猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまった。
ところが牛の使用人は、
やがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだった。
今までの車の何百倍、何千倍も重い。
牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。

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お前は、肉体さえ壊せば楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からぬだろうが、
地獄の苦は、この世の苦しみぐらいではないのだ」
釈尊は諄々と、地獄の苦しみを教えられた。

娘は初めて知る真実の仏法に驚き、
仏門に入って救われたという。

●星空の説法
    真に意義ある人生に

私たちの後生にも、
「必堕無間」
の一大事が待っている。

「必ず、無間地獄という苦しみの世界に堕つる」
と仰有った。経典のお言葉だ。
これを「後生の一大事」という。

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのか。
それは暗い心で、悪のタネまきしかしていないからである。
仏教の根幹は、因果の道理。
道理とは、三世を貫き(いつでも成り立つ)、
十方を普く(どこでも成り立つ)真理をいう。
何万年前も、何万年後も、
また宇宙のどこへ行こうとも、
因果の道理は正しいのだ。
因果とは、原因と結果のことで、
原因なしに現れる結果はありえない。
結果に対しては、必ず原因を追求するのが仏法である。
原因と結果の関係は、
善因善果 
 悪因悪果 
 自因自果

と釈尊が仰る。
善い行いをすれば必ず、善い結果が返ってくるが、
悪い行いには、必ず悪い結果が引き起こる。
自分のやった行為は、善きも悪きも、
自分に結果をもたらすから、
自業自得とも言われるのだ。

一息切れた後、堕ちねばならぬ地獄という悪果は、
間違いなく、わが身がまいたタネの結果である。

そして、後生の一大事を解決することが、
人間に生まれてきた目的だ。

いかに苦しくとも、自殺してはならない理由も、ここにある。
国会議員も日銀理事も、自殺してしまう。
銀行の貸し渋りで経営破綻に追い込まれれば、
妻子を残して中年男が3人、そろって首吊りしたではないか。

すべてこれらは、
「なぜ生きるか」の人生の目的を知らぬからである。
「天上天下、唯我独尊」
「天の上にも天の下にもこの大宇宙で、
唯、私たちに、たった一つの尊い目的がある」と、
釈尊は道破せられた。
私たちも同じように、生きる目的を持っている。
後生の一大事を解決し、
絶対の自由の世界に生かされることだ。
宇宙の真理である因果の道理に従って、
悪しかできぬ自己を徹見せねばならない。
後生の一大事の解決という大目的に向かってこそ、
一瞬の人生が、真に意義あるものとなる。
美しい星空が、悠遠な彼方より全人類へ、
生きた説法をしているのだ。

●2600年前、驚異の仏知見
    仏教の大宇宙観

古来、人々が夜空を見上げ、
輝く星々に思いをはせてきた大宇宙は、
我々の想像をはるかに絶する広大さである。
現在なら小学生でも知っているような銀河や銀河団などの知識も、
決して、昔からあったものではない。
概して言えば、近代科学が誕生した
16世紀以降の天文学者らによって得られたものだ。
だが、この天文学的知識を、
2600年前の昔に知見されていた方があった。
物理学者や天文学者らが驚嘆するような卓越した宇宙観を、
釈尊はすでに展開されていたのだった。

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ここで仏教の宇宙観を述べる前に、
人類の歴史を少し顧みよう。
近代科学は、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイらが
活躍した16世紀のヨーロッパで生み出された。
当時の西洋世界は、
キリスト教が人も思想も支配する社会であった。
当時の宇宙観は天動説(地球中心説)に立脚していた。
すなわち地球は宇宙の中心であり、
太陽などは、その周囲を回るという考えである。
この説は、『聖書』の字句に合致する理由で、
多くのキリスト教に信じられてきた。
ところが、科学が進歩し、望遠鏡が発明されると、
地動説を唱える天文学者が現れはじめ、
教会は、権力で彼らを徹底的に弾圧した。
コペルニクスの唱えた地動説に深く傾倒したジョルダノ・フルーノは、
宗教裁判のかけられ、7年間、投獄された後、
焚刑に処せられている。
同様に、宗教裁判で、ガリレオ・カリレイは地動説の放棄を命じられた。
しかも、残る生涯をフィレンチェ郊外アルチェトリにある自宅で
幽閉の身となって過ごさなければならなかった。
このように、教会の激しい抵抗を受けたのである。
しかし、今では、誰も地動説を疑う人はいない。

●天文学者も驚嘆

次に、仏教の宇宙観を示そう。
仏教では、人間の生息する世界(地球のような惑星)を、
須弥世界という。
その須弥世界が、千(無数の意)集まった世界を、
小千世界という。
その小千世界の千集まった世界が中千世界であり、
中千世界の千集まった世界が大千世界である。
これら小千世界、中千世界、大千世界を、
三千大千世界と称するのである。
さらに釈尊は大宇宙を、十方微塵世界と説かれている。
略して、十方世界ともいう。
例えば、
「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏
悉く咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ」
           (大無量寿経)
「光明偏く十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
         (観無量寿経)
などと用いられる。
ここで十方とは何か。
東西南北の四方に、北東、北西、南東、南西を加えて八方、
さらに上方と下方を加えると十方となる。
一般的に、東西南北上下四唯と呼んでいるものだ。
次に、微塵とは、文字通りに、微かな塵の意。
つまり、大宇宙は、東西南北上下四唯の十方に、
前述の三千大千世界が、
空中に塵が浮くように存在していると説かれているのだ。
何とも広大なスケールではないか。

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ここで対比のため、現代天文学による宇宙観を述べよう。
太陽の回りを、水星、金星、地球、火星などが、
それぞれの周期で回っている。
これを太陽系宇宙という。
太陽系は、自ら光を放って位置を変えない太陽のような恒星、
地球のように、その回りを公転する惑星、
さらには惑星の周囲を回る衛星(月)などで構成されている。
太陽系を直径200メートルの円とすれば、
地球は1ミリに満たぬ粒に過ぎない。
人類は、月に氷があるらしいとようやく分かったり、
せいぜい火星の表面を撮影しているに過ぎず、
太陽系さえも、未知なる世界である。
ところがさらに、地球109個分の直径をもつ太陽を
直径1センチの球とすると、
最も近い恒星(隣の太陽)ケンタウルス座アルファ星までの距離は、
約290キロ(東京~名古屋間)になる。
これだけでも、宇宙がいかに果てしないか、分かるだろう。
この広大無辺な宇宙空間で、
星は、一様に分布していない。
無数の星々が集まり、銀河と呼ばれる集団を作っている。
大宇宙には、アンドロメダ銀河や大マゼラン雲のほかにも、
無数の銀河が存在する。
我々の太陽系が属する銀河系も、その中の一つだ。
我々の銀河系は、直径10万光年で、
その中には、太陽のような恒星が2000億個ある。
さらに、銀河は集まって銀河団を作っている。
また、銀河群より大きな銀河集団の名称として、銀河団がある。
これら銀河群や銀河団は集合して、
直径3億光年ほどの超銀河団を形作っている。
しかしながら、150億光年といわれる大宇宙の広がりには、
まだほど遠い。
現代天文学は、仏教の宇宙論に酷似していると知らされる。
釈尊が、この大宇宙について説かれたとき、
当時、何人が理解できただろうか。

今日、目覚ましい観測機器の発展で、
ようやく十方微塵世界の概念が認識できたかどうかと思われる。
物理学者や天文学者が、
仏説の深遠さを驚嘆せざるを得ない理由は、ここにある。

●釈尊の師
   阿弥陀如来

次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、
無数の惑星があり、我々と同じような生命が存在と説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの仏がましまして、
真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来、仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類史上最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。
本師本仏の阿弥陀仏は、悪因悪果で必堕無間の十方衆生を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。

●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
       (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感涙なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3200万年の五倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。
親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで
落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる」
と仰せられたという。

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阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
御恩に報いようと恩徳讃の心になる。

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
      (親鸞聖人)
インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、中国では曇鸞大師、
道綽禅師、善導大師、日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も親鸞聖人と同じく
「弥陀五劫思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた歴史の生き証人である。

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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず

では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べておられる。
「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)
「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我等十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩に喘ぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら生きている衆生が限りなくいる。

これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。
そんな我々を大宇宙にまします無数の諸仏が
大慈悲心を起こして何とか助けてやりたいと
立ち上がってくだされた。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、十方衆生である。
諸仏は我々の「屍の心」にアキレテしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かってはウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。

●法蔵菩薩の願い

ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置していけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。
「しからば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられらる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
         (御文章二帖八通)
阿弥陀如来は、十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、大慈悲を起こして、
十方衆生救済に立ち上がってくだされたのである。

そのために、仏の位から、菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に自らの願いを申し出られた。
「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、
無常を無常とも思わず、悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走を見せて逃げているのだ。

そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、
十方衆生は、永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんなに苦難に身を沈めても後悔致しません。
どうか、助けさせてください」
法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人の人間が升でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を
体を濡らさずに取ってくるほどに難しいことだ。

しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まぬならば、
必ず、その目的を果たしとげ、
如何なる願いも成就せぬものはないであろう」
大海の水を汲み干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べられておられる。

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助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。
ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。

●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳

世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3200万年、五劫思惟とは、
その5倍の年月、考えに考え抜かれたということだ。

「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさずに手に入れる」
それを実行すれには、どうしたらよいか。
聞いただけで「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。
五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。

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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を完成してくだされたのである。
それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、
それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一段に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
          (正信偈)
と仰せられる。

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さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。

29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
      (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称不可説不可思議の大功徳」とは
勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。
「功徳の大宝海に帰入すれば」
         (正信偈)
「功徳の大宝海」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
          (執持鈔)
と、本願の名号と、行者が一体になった喜びを記しておられる。

妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
「頭叩いても南無阿弥陀仏、
手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、
お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏、
立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、
本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。
釈尊一代の仏教は、畢竟この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
      (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、唯
弥陀の本願海を説かんとなり)

●万人の終帰、弥陀の本願海

ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。
深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。
終帰・・・山の頂上に降った雨水は、渓流を下り、
湖に流れても、やがて川を下って大海に流れ込む。

苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに救いを求めるが、
真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。
弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。

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法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それには、どうすればよいのか。
「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」
      (親鸞聖人)
真剣な聞法あるのみである。


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蓮如上人にまた叱られる [蓮如上人]

(平成10年のとどろきより載せています)

本年(H10)は蓮如上人の500回忌とあって
大変な蓮如上人ブームである。
しかし、蓮如上人があれほど徹底して説かれた
「後生の一大事」について、
詳しく解説する人は皆無に近い。

それでは蓮如上人の御心に反することになる。
もし蓮如上人が現状を見られたら、
「なぜ、わしが教えたようにまず後生の一大事、説かないのか」
とお叱りを受けることになるだろう。

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                                (蓮如上人)

●後生の一大事を心にかけて   
       死んだらどうなるか?

とにかくすさまじいばかりの蓮如上人ブームである。
映画館ではアニメ『蓮如上人物語』(五木寛之原作)が上映され、
週刊誌『サンデー毎日』では
小説『蓮如上人ー夏の嵐』が連載中である。
新聞では「京都新聞」「北国新聞」「富山新聞」が
蓮如上人の生涯を描いた小説『此岸の花』の連載を終了し、
単行本として出版されている。
ところがこれらの中でも
「後生の一大事」という大事な仏語がほとんど出てこない。

残念なことである。
蓮如上人がいかに後生の一大事を力説されたか、
上人のみ教えが凝縮された『御文章』(御文)で確認してみよう。

蓮如上人が親鸞聖人のみ教えを
お手紙で分かりやすく伝えられた「御文」は今日、
五帖に編集されている。
一帖から五帖まで、五冊あるのだが、
真宗門徒のお仏壇には大抵、
「末代無智の章」から始まる五帖目が備えられている。
五帖目には二十二通が収められているが、
その中、十三通に「後生の一大事」
または「後生助けたまえ」と記されている。
具体的に引用してみよう。

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五帖目二通
「・・・弥陀如来、今度の後生助けたまえ、と深くたのみ・・・」
三通
「・・・後生助けたまえと申さん人をば・・・」
六通
「・・・後生助けたまえ、と申さん者をば、
必ず救いまします・・・」
七通
「・・・後生助けたまえ、と思う心一にて・・・」
八通
「・・・後生助けたまえ、と申す意なるべし・・・」
九通
「・・・阿弥陀仏後生助けたまえ、
と一向にたのみたてまつる意なるべし・・・」
十二通
「・・・後生を助けたまえ、とたのみ申せば・・・」
十四通
「・・・今度の一大事の後生助けたまえ、
と申さん女人をば、
あやまたず助けたまうべし・・・」
十六通
「・・・誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみ・・・」
十七通
「・・・一心に後生を御助け候えと、
ひしとたのまん女人は・・・」
十八通
「・・・阿弥陀如来後生助けたまえと、
一念にふかくたのみ・・・」
十九通
「・・・その他には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず・・・」
二十通
「・・・弥陀如来をひしとたのみ、
後生助けたまえ、と申さん女人をば、
必ず御助けあるべし・・・」

このように「後生」「後生の一大事」と
五帖目だけでもこれほど徹底して説かれた方が蓮如上人なのだ。

我々が阿弥陀仏に助けていただくのは病気や経済苦ではない。
後生の一大事が分からなければ
蓮如上人のみ教えは全く理解できない。

●誤った一大事の解釈

何が「後生の一大事」なのかを明らかにする前に、
世間に横行する解釈を列記してみよう。

大阪大学名誉教授A・O氏はこう言っている。
「死後に三途の河があるとか地獄があるとかいうことを
現代人はもはや信じない。
この世しかないと思っているからである。
しかし、たったひとりで棺桶に入って無に落下することは、
まさしく地獄に落ちることではないのか。
『後生の一大事』は依然として、
現代の我々を放していないのである」
死後は無であり、そこへ落下することが
「後生の一大事」だという。
死後、未来世の実在を信じられない知識人がよく陥る誤りである。

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同様な考えのもとに
「釈尊は死後を説かれなかった」などと主張する人もいる。
無責任にもほどがある放言である。
過去世、現在世、未来世の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説くところに仏教の特色があるのだ。
未来世を否定してしまったら仏教にならない。

当然、釈尊は経典中の至る所で三世の実在をご教示なされている。
一例を挙げよう。
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」 
              (阿含経)

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前述の教授や唯物論の共産主義のように
死後を無とする思想を釈尊は「断見外道」として
徹底的にその誤りを正しておられるのだ。

もし、断見外道が正しく死後が無であるならば、
それは永遠の眠りと言い換えてよい状態であり、
苦しい思いをして生きるよりも死んだ方がよほどよいことになる。
「世の中に 寝るより楽はなかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
という狂歌があるとおりである。
一大事でも何でもない。
断見外道がはこびると安易に自殺をする者が多くなってゆく。
後生の一大事の別な解釈に、
「後生の一大事とは今生の一大事、
それは今の一大事」
などと言う人もいる。
やはり死後を認めたくない気持ちからであろうが、
後生はあくまで「現世」「今生」に対しての言葉であるから、
「明日は今日である」「来月は今月である」
「女は男である」と言っているようなもので、
まるで意味不明になってしまうのだ。

●全人類は愚かな旅人
     足下に迫る一大事

では仏教で「後生の一大事」とはいかなることか。
後生とは我々の死後のことである。
一大事とは大事件、取り返しのつかない大変なことをいうのだ。

全人類の死後に何があるのか。
釈尊にお聞きしよう。

釈尊は一つの有名な譬で教えておられる。
ある旅人が野原で飢えた虎に遭遇して、
必死に逃げたところが、断崖絶壁に出てしまった。
崖には松の木が生えていたが、
登っても無意味、虎は木登りができる動物だ。
幸い松の根元から一本の藤蔓が垂れ下がっており、
旅人はそれにぶら下がって何とか虎の難から逃れられた。
下はどうなっているのだろう、
と足下を見た旅人、思わず悲鳴をあげた。
足下には怒濤さかまく深海、
しかも波間から三匹の毒龍が大きな口を開けて
旅人の落ちてくるのを待っているではないか。
上に虎、下に龍、絶体絶命である。
ところがさらに悪いことが起きた。
藤蔓の根元に白黒二匹のネズミが現れ、
旅人の命の綱の藤蔓をかじっているのだ。
そのネズミを追い払おうと藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは依然としてガリガリかじり続ける。
藤蔓を揺すったとき、何かが滴り落ちてきた。
手に取ってみればおいしそうな蜂蜜である。
上の蜜蜂の巣からこぼれてきたのだ。
密の甘さに旅人はたちまち、
虎や龍、ネズミのことなど忘れ、
蜂蜜のことばかり考えるようになってしまった。

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この旅人こそ万人の姿だと釈尊は言われる。
飢えた虎とは恐ろしい死、
我々はそれから逃げようと
必死に病院や薬を求めて逃げ回っている。
崖の松の木は財産や地位だが、
億万長者も大統領も死の虎からは逃れられない。
細い藤蔓とは我々の寿命のことだ。
まだまだ死なんぞ、とぶらさがっている。
白黒のネズミは昼と夜。
交互に寿命を縮めている。
寿命の藤蔓が切れた先が後生の一大事である。

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人間死んだらどうなるのか。
釈尊は、全人類が怒濤の深海、
毒龍の餌食になると説かれている。

まさに一大事だ。
怒濤の深海に譬えたれたのは暗黒と大苦悩の無間地獄である。
なぜそのような世界に堕ちるのか。
三匹の毒龍がそれを生み出すと釈尊は仰せられる。

欲、怒り、愚痴という三毒の煩悩のことだ。

●悪逆非道な人間

人間は生きるためには仕方ないと悪を造り続ける。
例えば「殺生罪」。

仏教では人間も他の動物、生き物も同じく衆生である。
人間が健康で長生きしたいと思っているように、
牛も豚も鶏も殺されて食われたいと思っていない。
人間が無理やり暴力で彼らの命を奪っているのだ。
ちょうど我々が家族で平和に暮らしている所へ
独裁権力者が土足で上がり込み、
家族を皆殺しにして、五体をバラバラにしてしまうようなものだ。
そのような仕打ちを受けたら、
我々はどれほど相手を恨むかしれない。
ヒットラーはユダヤ人を六百万人殺害したといわれるが、
そんな男は地獄に堕ちて当たり前だろう。
動物の側から見れば、
我々の一人一人が血も涙もない悪逆非道な存在なのである。

殺生といっても自分で直接殺す場合と、
他人に依頼する場合がある。
肉屋で牛肉、豚肉を買うのは、
消費者である我々が、業者に殺して肉を分けてくれと
頼んでいるのである。

自分が殺したと同じ殺生罪である。
毎日、三度の食事をとるたびに殺生罪を重ねている。
これまで、何万、何十万の生き物の命を奪ってきたことか。
それは何万、何十万の殺人をしたのと同じ罪なのだ。
毎日、何回も殺人しながら平然と生きているのと
同様の極悪人が我々の実態だ。

そのすさまじい罪悪が未来の地獄を生み出すと
釈尊は教えられる。

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後生の一大事は足下に迫っている。

今日死ねば、今日から恐るべき大苦悩を
受け続けなければならない。

しまった、と後悔しても取り返しがつかないのだ。
ところが旅人はすべてを忘れて蜂蜜ばかりを求めていると
釈尊は言われる。
蜂蜜とは食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲をいう。
全人類は朝から晩まで五欲の満足を求めて東奔西走である。
死ねば大変な後生の一大事の起きることを知らないのだ。

●後生の一大事の解決を
     一心に弥陀に帰命せよ

釈尊は全人類に後生の一大事の有ることと、
その解決は、「一向専念無量寿仏」以外にないと教えられた。

最高無上の仏、阿弥陀仏の本願力に極重悪人のまま救いとられて、
いつ死んでも弥陀の浄土に往生できる、
信心決定という身にならなければならないのだ。

これを蓮如上人は『御文章』に、
「後生ということはながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定(けつじょう)すべし」
と教えられたのだ。

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大意「後生の一大事とは、罪悪深重の我々が、
死後、必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間、
大苦悩を受け続けることだ。
ゆえに急いで後生の一大事の解決を求め、
弥陀の本願に救われ、浄土往生間違いない、
信心決定の身にならねばならない」

死後、無になるのが一大事とか、
今生の一大事だなどということが
いかに狂った解釈か分かるであろう。

また、こうも教えられる。
「此の一流のうちに於て、
確々(しかじか)とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というは是れなり」
       (御文章一帖目五通)

大意「真宗の中には信心決定している人が少ない。
信心を獲得していない人はどうして弥陀の浄土に往生できようか。
それどころか、死ねば直ちに無間地獄におつるのだ。
後生の一大事とは、このことである」
法然上人や親鸞聖人は
比叡山で徹底的に仏道修行をなされたのは
ひとえに後生の一大事の解決のためであった。

そして法然上人は四十三歳で、
親鸞聖人は二十九歳の御時、
阿弥陀如来の本願に救われ、信心決定の身となられて以来、
後生の一大事、一心に弥陀に帰命せよと勧めてゆかれたのだ。

蓮如上人もただひたすら後生の一大事とその解決の道、
弥陀の本願の救いを説き続けてくだされた。
それを知らねば、蓮如上人ブームも空しいことになってしまう。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
        (御文章二帖目二通)

大意「信心獲得しなければ極楽には生まれられず、
無間地獄に堕ちる後生の一大事があるのである」
後生の一大事とその解決の道を、
蓮如上人にハッキリ教えていただこう。

●「皆々信心決定あれかし」
    すでに助かっているのか?

全人類の後生に、大苦悩の地獄へ堕ちねばならない一大事がある。
阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外に、
後生の一大事を解決する方法はない。

ところが、「阿弥陀さまはお慈悲な仏さまじゃから、
十劫の昔から我々は助かってしまっている。
それを感謝して、お念仏の日暮らしをいたしましょう」
と公言してはばからない人が、
浄土真宗門徒に見られるようだ。
一劫とは、四億三千二百万年なので、
その十倍の長年月が十劫である。
ずっと昔に助かってしまっているという誤りを、
「十劫安心の異安心」と言うのである。
「異安心」とは、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった
善知識方の信心とは違う信心をいう。
信心が異なっていては、
善知識方と同じ浄土に生まれることはなく、
地獄へ堕在せねばならない。

●信心の有無で決する
    地獄行きと極楽往き

確かに阿弥陀仏は、十劫の昔に、
すべての人を本当の幸せに助ける、
「南無阿弥陀仏の六字のご名号」を完成なされた。
だが、それがそのまま、私たちが助かったことにはならない。
「六字のご名号」は譬えれば、
重病人を完治させる特効薬である。
いかにもよく効く薬ができあがり、
薬局に並んでいても病人が、それを購入して服用せねば
病気は治らないのは当然だ。

このような誤解は、今日だけでなく、
蓮如上人時代にもあったようである。
「『十劫正覚の初より、我等が往生を定めたまえる弥陀のご恩を、
忘れぬが信心ぞ』といえり。これ大なる過りなり」
           (御文章一帖目十三通)
「いかに十劫正覚の初より、
われらが往生を定めたまえることを知りたりというとも、
われらが往生すべき他力の信心の謂われをよく知らずば、
極楽には往生すべからざるなり」
           (御文章二帖目十一通)
「十劫正覚」とは、阿弥陀仏が、
六字名号を完成なされて仏のさとりを成就されたときを言われた。
そのときに助かっている(往生が定まっている)ならば、
生まれたときから救われていることになる。
もしそうなら、これほど結構なことはない。
それどころか、「苦しい人生、死んだ方がよい」となり、
自殺を肯定する危険思想である。
この世に現在生きている人の中に、
助かっている人と、いまだ助かっていない人があるのだ。
それは次のお言葉で明らかである。
「この御正忌のうちに参詣をいたし、
志を運び、報恩謝徳をなさんと思いて、
聖人の御前に参らん人の中に於て
信心を獲得せしめたる人もあるべし、
また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり」
          (御文章五帖目十一通)
「御正忌」とは、毎年秋に行われる、
浄土真宗最大の行事・報恩講のことだが、
仏法を聞かせていただこうと思って、
ご法話会場(報恩講)へ集まっている人の中に、
信心を獲得して、後生の一大事を解決できた人と、
信心をまだいただけずに、
死ねば地獄行きの人と、二通りあるのだと仰有ったのだ。
仏縁ある人々にすら、蓮如上人はこう仰っている。
まして、聞く気もなく、それどころか、
キリスト教やイスラム教、雑多な新興宗教の信者も含め、
すべての人が生まれたときから救われていると言うに至っては、
蓮如上人の仰せを反故にした暴言と言われねばならない。
「信心決定」「信心獲得」していなければ、
後生の一大事は助からないのである。

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●聞法の目的は信心獲得

「信心決定」とか「信心獲得」とは、
阿弥陀如来の本願に救い摂られ、
絶対の幸福にこの世から生かされた驚天動地の体験を言う。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
生涯の師・法然上人から阿弥陀如来の本願を知らされ、
信心獲得の身になられた。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第1部)
に描かれているので、見ていただきたい。

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また蓮如上人は、
「毎月両度(二回)の寄合(法話)の由来は、
何の為というに、更に他の事にあらず、
自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり」
           (御文章四帖目十二通)
「あわれあわれ、存命の中に
皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」

           (御文章四帖目十五通)
と、仏法を聞く目的である信心獲得を繰り返し示された。
さらには、前述の通り、
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」

           (御文章二帖目二通)
と厳しい。
先ほどの薬の譬喩にあてはめれば、
薬を飲んで病気の治った体験が信心獲得である。
薬はどれだけあっても、飲まねば病気は治らない。

●往き易くして人無し
      矛盾のような仏語の真意

次に、仏法を聞いている人のうち、
信心獲得した人はどのくらいあるのか、
蓮如上人から教えていただこう。
「蓮如上人の御時、志の衆も御前に多く候とき、
『このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、
一人か二人か有るべきかな』と御掟候とき、
各『肝をつぶし候』と、申され候由に候。
          (御一代記聞書)
御前に参詣した、多くの人を前に蓮如上人が、
「この中で、信心獲得しているのは、
一人かな、二人かな・・・」
と仰有ったので、救われたつもりでいた人々は、
驚いて二の句を継げなかったのである。
信心獲得していなければ、後生は一大事だからだ。

誰でも簡単に浄土へ往けるならば、『大無量寿経』に、
「易住而無人」と仰るはずがない。
「阿弥陀如来の浄土へは、往きやすいけれども、
往っている人が少ない」
と一見、矛盾したようなことを釈尊は仰っている。
弥陀の浄土へ往くことが易しいならば、
多くの人が往っているはずだし、
浄土へ往っている人が少ないのが本当ならば、
往きにくい浄土だと仰るはずである。
これを蓮如上人は、『御文章』二帖目七通に、
「『安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし』と言えるは、
この経文の意なり」と解説された。
阿弥陀仏の浄土へ往き易いのは、
この世で信心獲得の身に救われた人である。
ところが、そんな人ははなはだ稀なので、
「人無し」と仰有った。
信心獲得こそが、もっとも大事だと知らされる。

●「世間のヒマを欠きて聞け」
    聞き歩かなくてよいのか?

遠路を厭わず、間断なく聞法する人に、
「そんなに聞き歩かんでもよい」
と言う人がいる。
蓮如上人は、しかし、こう教えられた。
「仏法には世間のヒマを欠きて聞くべし。
世間のヒマをあけて法を聞くべきように思うこと、
浅ましきことなり。
仏法いは明日ということはあるまじき」
          (御一代記聞書)

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「世間のヒマ」とは、仕事を指す。
仕事よりも優先して聞かねばならぬのが仏法だと、
仰有っているのだ。

「それでは、生きてゆけんじゃないか」
と思うかもしれないが、イヤな上司に叩かれ、
後輩からは突き上げられながらも、
あくせく生きているのは、何のためだろうか。
徳川三百年の礎を築いた家康は、
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし」
と、苦しみの連続だった生涯を告白している。
はたして私たちに、家康ほどの事業ができるだろうか。
たとえできたところで、夢幻と化す、
苦渋に満ちた人生ならば、哀れである。
生まれがたい人間に生まれてきたのは、
仕事をするためでもなければ、家を建てるためでもない。
地位を得るためでも、財を築くためでもない。
仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
絶対の幸福になるためだと、蓮如上人は、示しておられるのだ。
「今日仕事をして、明日聞こう」
と思っても、明日は後生かもしれぬのが、
私たちである。
無常の風に、頭叩かれて驚いては手遅れだから、
聞けるあいだに聞きぬかねばならぬのだ。

●仏法に独断は禁物
     阿弥陀仏の願いを聞く

絶対の幸福に救われるには、
阿弥陀仏の願いをよく知らねばならない。

他人を喜ばせたければ、相手が何を願っているかを
知らねばならないのと同様である。
太郎君が、憂鬱そうな花子さんを喜ばせようと、
全財産の百万円を与えた。
ところが、花子さんは少しも喜ばない。
それもそのはず、花子さんは、大資産家の令嬢だったのだ。
大変辛い思いをしながら、
太郎くんの苦労は水の泡となってしまったのである。
そんなときは、花子さんが何を望んでいるのか、聞けばよい。
「何かあったの」
花子さんは、言った。
「かわいがっていた猫のミイちゃんが、
行方不明なの」
さっそく友達と手分けして探すと、
その猫は隣家の猫と仲良く遊んでいた。
花子さんは大喜び。
百万円どころか、一銭も使わずに喜ばせることができたのだ。

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結婚式の引き出物でも、最近は、もらう人がカタログを見て、
品物を自由に選択できる方式がはやっているそうである。
いくら高価なものでも、
もらった本人にとって不要なら、
物置のスペースをとるだけのガラクタになってしまうからだろう。
苦労すればさえよいのではないのだ。
相手の願いをよく聞き、熟知することは、
人間相手でさえ、重要なのである。
まして、未来永劫の魂の浮沈がかかった
弥陀の救済にあずかるには、独断は禁物。
阿弥陀仏の願いをよくよく聞かせていただかねばならないのである。

●火中突破の覚悟で

親鸞聖人は、
「たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏のみ名をきくひとは
ながく不退にかなうなり」
       (浄土和讃)
と仰有った。

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火の海かき分けて、命がけで聞かずにおれなくなった人が、
永久に崩れぬ絶対の幸福になれるのだ、
との意である。

蓮如上人は、また、
「火の中を分けても法は聞くべきに、
雨・風・雪はものの数かは」
と厳しい聞法を勧めておられる。
火中突破の覚悟で聞かねばならぬ仏法なのに、
「今日は雨が降っているから、やめておこう」
「今日は風が強いので、また次の機会に」
「雪が積もっているこんな日に、聞かんでもよかろう」
と、聞法をおろそかにしていないか。
雨・風・雪は、ものの数ではないのだ、
と仰るのである。

浄土真宗の先哲は、聞法の心構えを分かりやすく、
四つに分けて教えてられている。
①骨折って聞け
②衣食忘れて聞け
③間断なく聞け
④聞けないときは思い出せ

苦労して真剣に聴聞せよ、とのご教導である。

暑ければ説法中でも扇子を使い、
足が痛めばいつでも投げ出す。
のみたくなればたばこをのみ、
眠たくなれば前後不覚に船をこぐ。
近くに法座があれば参るが、少し遠方だと参る気がなくなる。
こんな聞法では、真剣に聞いているとは言えない。

●一座一座のご縁を大切に

蓮如上人は、また、『御一代記聞書』に、
こう教えられている。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、
水よく石を穿つ。
『心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん』
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり」
昔、明詮という僧が、真剣に仏道修行に励んでいた。
三年たってもいっこうに魂の解決がつかず、
「私のような者に、求めきれる道ではない。
今はこれまで」と、永遠のおいとまを願いでた。
師僧は思いとどまるよう説得したが、
明詮の決意は堅く、慰留をあきらめ、これを許した。
しかし、苦楽をともにした法友と別れるのは、
さすがにつらい。
明詮は泣きながら寺を出た。
ところがそのとき、にわかに大雨が降ってきたので、
やむなく山門の下に腰をおろし、
雨の晴れるのを待っていた。
何気なく、山門の屋根から落ちる雨滴を見ていた明詮は、
雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
「こんな堅い石に、どうして穴があいたのだろう」
まぎれもない、それは雨滴の仕業ではないか。
「このやわらかい水滴が、堅い石に穴をあけたのか。
何と言うことだ。
私は二年や三年の修行でへこたれて、
断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。
たとえ水のような力のない自分でも、
根気よく求めてゆけば、
必ず魂の解決ができるに違いない。」

奮然として、その場を立った明詮は、
水から受けた大説法を師匠に話し、
深く前非をわびて努力精進し、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったのである。
何事も、真剣に続けるほど大切なことはない。
マッチ一本で灰になる家屋でも、
一日や二日の努力で完成するものではない。
それ相当の長年月の粒々辛苦の結果である。
途中でその努力が断たれれば、
完成した家屋は楽しめない。
後生の一大事の解決をめざす仏法においてをや、である。
「聞き歩かんでもよい」どころか、
一座一座のご縁を大切に、真剣に求める人にこそ、
弥陀の呼び声が徹底し、
足下に安養の浄土が開かれると知らねばならない。

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