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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

生きる意味(2) [なぜ生きる]

我々は、生きがいを生きる目的だと勘違いしてしまいがちです。
政治も経済も科学も医学も、
個人的なものであれば、妻子、財宝、お金、 趣味など
すべて生きがいであり、生きる手段です。
それを人生をかけてやる、人生の目的だと勘違いしてしまうから、
あっという間に人生は終わり、
こんなはずではなかった、求めるのが間違っていたと
泣いて死ななければならないのだと、
親鸞聖人は警告しています。
前回より、長南 瑞生著『生きる意味109』より載せていますが、
お釈迦さまの生涯教えていかれたことを、
親鸞聖人のご教導なされたことを、
分かりやすく解説してくださっていますので、
それを読んでいただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、③と④を載せています。

よくある間違い③
「他の誰かのために生きる」
       という考え

次の「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「人の役に立つため」などともいわれます。
ほとんどの人が自分のことばかり考えている中、
他の誰かのために生きようということですから、
「生きるのは成長するため」より
さらに素晴らしい考え方といえるかもしれません。

他の誰かというのは、具体的には、家族や子供のためとか、
まずは身近な人が思い浮かびます。
それがさらに、能力や徳がある人ほど、
身内以外の人のことも考え始め、
友人のため、会社のため、日本のため、
世界人類に貢献するためと、スケールが大きくなります。
一人の人の人生でも、
子供の時には自分のことしか考えていなかったのが、
成長して社会人となれば、その社会の一員として家庭を築き、
仕事や地域の集まりなどで、努力に応じて
社会に貢献する割合も大きくなっていきます。
素晴らしいことです。

ところが現実問題としては、60歳にもなれば、
子供も社会人として独り立ちし、
自分の主たる仕事も終わることがほとんどです。
さらに年齢を重ねていくと、だんだんと衰え、
やがてどちらかというと貢献というより、
社会や家族に世話になるようになっていきます。
それはとりもなおさず、「他人のために生きている」
とはいえなくなってくるということです。
『60歳からの「生きる意味」』という本には、
こう書かれています。

子孫を残すという生物本来の役割が終わっている以上、
「あなたは何のために生きているのですか?」と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。

現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。

「社会に役立たない人は生きる意味はない」とはいえません。
どんなすごい人でも、
やがて死ぬまでには周りの世話になるでしょうから、
「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「何のために生きるのか」の答えにならないことが分かります。
では百歩譲って、優れた人の中には、
それでも何らかのすごい力で、
家族や社会に貢献できる人もあるかもしれません。

では、そのあなたが貢献した相手は
何のために生きているでしょうか?
もし特に意味を持たない人のために生きてしまうと、
自分の意味もなくなってしまいます。

子供であれば、子供は何のためにいきているのか。
子供はそのまた子供のために生きているとすれば、
そのまた子供は何のために生きているのか・・・、
そのまたまたまた子供は何のために生きているのか?
分からないまま、子々孫々までずっと続いていってしまいます。
社会に貢献するなら、社会というのは人間のあつまりですから、
その人たちは、何のために生きているのか。
社会は、そこに生きている人が、
よりよく生きるためにあるのですから、
そうやってみんなで協力し、
助け合って生きていくのは何のためかが問題なのです。
このように、誰か他の人のために生きるとか、
社会に貢献することは、大変素晴らしい「生き方」ではありますが、
「生きる目的」ではない、ということです。

ここまでの3つは、最初の「①生きるため」よりは
「②成長するため」のほうが克己心が必要となり、
さらに「③誰か他の人のため」は利他心も必要になりますから、
だんだん立派な考え方になってきたのですが、
それでもいずれも「生き方」の問題であって
「何のために生きるのか」という問いの答えにはなっていませんでした。
次からは、一応、答えているものを見てみましょう。

よくある間違い④
「愛のために生きる」
      という考え

(最後は自分か相手のどちらかが死んで、
別れていかなければならない)

まず、「愛のために生きる」というのはどうでしょうか。
誰しも人生で一度は大恋愛を夢みますから、
「人を愛するため」といえば、子供から大人まで、
いちばん人気がありそうです。
これはかなり「生きる意味」の答えになる可能性が
高いのではないでしょうか。
自分だけではあまり意味が感じられない場合でも、
好きな相手から愛されれば、
自分の存在に大きな意味を感じることができます。
そんな心情をドイツの文豪ゲーテは、
このように描いています。

ロッテは愛している!私を愛している!
あのひとが私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値あるものとなったことだろう。
             (『若きウェルテルムの悩み』ゲーテ)

あの人に愛されたい!
そのためなら献身的な努力も惜しみません。
そうして自分のすべてを捧げて愛する人と一心同体になれれば、
夢のような陶酔感にひたれます。
その幸福感は、哲学者・伊藤健太郎氏の著書『男のための自分探し』に、

誤解を恐れずに言えば、「結婚」は人生の唯一にして最大の幸福です。
              (『男のための自分探し』伊藤健太郎)
とあるほどです。

ところがそんな幸せも、長くは続きません。
1970年、アーサー・ヒラー監督の名作『ある愛の詩』は、
不滅のロマンス映画として歴史にその名をとどめています。
大富豪の一人息子で、勉強もスポーツも万能のオリバーは、
ハーバード大学時代、図書館で知り合った貧しいお菓子屋さんの娘、
ジェニーと恋に落ちます。
あまりの身分の違いに、
卒業したら音楽を学びにパリへ行くというジェニーを、
オリバーは引き留め、父親の反対を押し切って、卒業と同時に結婚。
仕送りは打ち切られますが、音楽の夢をあきらめたジェニーが
小学校の先生をして学費を稼ぎ、
オリバーはハーバードの法科大学院に進学します。
食うや食わずの毎日で、時には大げんかをしてジェニーが
出て行ったこともありますが、最後には戻ってきて、
「愛とは決して後悔しないこと」と夫にほほえみかけます。
2年間の苦学の末、ついにはオリバーは3位の優秀な成績で卒業、
ニューヨークの法律事務所に高給で迎えられました。
喜んだ2人は、子供の名前を話し合うなどして、
これから始まる新生活を思い描きます。
ところがニューヨークへ来てすぐ、
ジェニーは白血病で、余命幾ばくもないと分かったのです。
オリバーは次々入るやりがいのある仕事を断って、
必死に看病しますが、ジェニーはみるみる弱っていきます。
その年の冬の、ある寒い日、ジェニーが病気だと知り、
オリバーの父親がかけつけた時には、
ジェニーは息を引き取った後でした。
「なぜ言わなかった!私が力になったのに」
父親の言葉を、うつろな目をしたオリバーがさえぎり、
「・・・愛とは決して後悔しないこと」
とつぶやくと、一人、ジェニーとの思い出の場所に行き、
じっと座り込みます。
家を捨て、家族を捨て、莫大な財産をも捨てて、
ただ愛のために大変な苦労をしてきたのに、
思いがけず、その愛する妻を失ってしまいました。
今までの苦労は何だったのでしょうか・・・。

「結婚」が人生最大の幸福であればあるほど、
それが崩れてしまった人に、
「続かないからこそ美しいんだよ」と言ってみても、
全く慰めになりません。

世界的な文豪・シェイクスピアは、
その厳しい現実を、実に美しく言い表しています。

やっと想いをとげたとなると、戦争とか、
死とか、病気とか、きっとそんな邪魔がはいる。
そして、恋はたちまち消えてしまうのだ、
音のようにはかなく、影のようにすばやく・・・
そうなのだ、夢より短く・・・
あの闇夜の稲妻よろしく、
一瞬、かっと天地の全貌を描き出したかと思うと、
「見よ!」と言う間もあらばこそ、
ふたたび暗黒の腭(あぎと)に呑み込まれてしまう、
それと同じだ、すばらしいものは、すべてつかのまの命、
たちまち滅び去る。
             (シェイクスピア)

このことを、仏教では、「会者定離」と教えられます。
出会った者は、必ず別れなければならないということです。
好きであればあるほど、ずっと一緒にいたいのですが、
必ず別れの日がやってきます。
別れの日は、事前に分かるときもありますし、
突然やってくる時もあります。
その時、愛する気持ちが強ければ強いほど、
別れの時の悲しみも大きくなります。

それは男女の間に限りません。子供でも同じです。
母親の子供を思う心は、この世で最も誠実で崇高だといわれます。
そんな子供も、やがて成長し、
20年もすれば必ず巣立つ時がやってきます。
今まで命のように育ててきた子供が自分の元を離れると、
心にぽっかり大きな穴が開いてしまいます。
空の巣症候群とまではいかなくとも、
すっかりがっかりしてしまうのです。
フロイトとともに、初期の精神分析に貢献した心理学者シュケテールは、
このように言います。

子供を挫折した人生の目的に置き換えることはできない。
われわれの人生の空虚を満たすための材料ではない。
             (シュケーテル)

たとえどんなに一緒にいることができたとしても、
最後は自分か子供のどちらかが必ず死んで、
別れていかなければなりません。
たいていは自分のほうが先ですが、
子供に先立たれる親もたくさんあります。
愛する子供に死なれた悲しみはどれほど大きなものでしょうか。

江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ちこがれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、
生まれて一年も経つと、他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、
あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれています。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、
天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、
さとはどんどん衰弱し、あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、
一茶はこう詠んでいます。

露の世は つゆの世ながら さりながら
            (小林一茶)
露の世は、露のようなはかないものと聞いてはいたけれど・・・。
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできない
むせび泣きが聞こえてくるようです。

このように、会者定離ということからすれば、
相手が子供であれ男女間であれ、
とても愛が生きる目的とは言ってはいられないのです。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思わざりけり」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次回は内容を変更します。
続きを読まれたい方は、
書店にて長南 瑞生著『生きる意味109』をお求めください。
出版社名は、一万年堂出版です。


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生きる意味(1) [なぜ生きる]

(『生きる意味109 長南 瑞生著』より載せています) 

●生きる意味とは、生まれてから死ぬまでに、
これ一つ果たせば人間に生まれてよかったと
大満足できる「生きる目的」といっても同じです。

●すべての人に共通する人生のプロセスは、
一休が「門松は冥土の旅の一里塚」と詠んでいるように、
冥土への旅であり、死へ向かう行進です。
もし生きる意味や目的がなければ、
苦しんで死ぬだけの報われない人生になってしまいます。

●ところが仏教では
「生まれ難い人間に生まれたことを喜びなさい」
と教えられています。
それは、人間に生まれた時にしか果たせない、
尊い目的が存在するからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(主な内容)

生きる意味について、よくある7つの間違い

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう。

①生きるために生きる
(アニマルな生き方では、
あっという間に人生は終わってしまう。)

②成長するために生きる
(頑張って苦しみを乗り越え、
どこへ向かって成長するのか)

③他の誰かのために生きる
(子供が独立し、定年を過ぎても、そういえるのか。)

④愛のために生きる
(愛する気持ちが強いほど、
別れの時の悲しみは大きい)

⑤自己実現のために生きる
(やりたいことには限りがないが、
命には限りがある。)

⑥生きたあかしを残すために生きる
(人生かけて何かを残しても、やがて必ず消えてしまう。)

⑦生きること自体が大事
(人生マラソンを走っていくと、やがて見えてくるのは崖っぷち)

今回は序章と①と②について打ちたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「生きる目的が分からない人」よりも、
「間違った目的を信じ込んだ人」のほうが、
幸せから遠ざかってしまう

では、人間に生まれてよかったと大満足できる、
本当の生きる目的とはどんなものなのでしょうか?
人生を真面目に考えている人は、
誰に言われるともなしに、
生きる目的の大切さに気づく場合がほとんどです。
あなたもすでに、
自分なりに考えたことがあるのではないでしょうか。
ところが人生の目的を考える時、
そこには間違いやすい落とし穴がたくさん待ち受けています。
それらの落とし穴は、一度落ちると、
間違った生きる目的を信じ込んでしまい、
なかなか抜け出すことができません。
そうなると「目的地がわからない」より、
名古屋から京都に行きたい時に、
「東京」を京都だと思いこんでしまったら、
どうなるでしょうか?

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逆方向ですから、今より目的地から遠ざかってしまいます。
車なら、下道ではなく高速に乗ったほうが、
より速く遠のいていきます。
ローマの政治家であり哲学者であるセネカが、

道が反対の方向に進みでもすれば、
急ぐことすらその間の距離をいよいよ大きくすることの原因になる。

と言っているとおりです。
名古屋から京都へ向かう場合には、
たまたま同じ方向の「大阪」を京都と思いこんだ場合でも、
京都の近くを素通りして大阪に行ってしまいますので、
やはり本当のゴールにたどりつくことはできません。
いかに正しい目的地の把握が大切かが分かります。
同じように、正しい「人生の目的」を見つけることが
難しい人の特徴として、
すでに自分で誤った結論に達し、信じ込んでいるため、
他人のアドバイスを聞けないことが多くあります。
自惚れ強い私たちは、東京を京都だと思っているのに、
それを間違いだとは言われたくありません。
もしそれが大間違いだと分かると大混乱しますし、
場合によっては「もう東京が京都なんだ!
名前だって似ているじゃないか!」
などと押し通したくなりますが、
それでは単なる愚か者で、自爆するだけです。
その間違った方向性は数え切れないほどあるのですが、
特に危険なものは、大きく分けると次の7パターンとなります。

あなたも、このうちのどれか、
もしくは複数を考えたことがあるのではないでしょうか?
これらはどれも、突き詰めていくと「どうもおかしいな」
と分かりますので、まず何を言わんとされているのか、
それが自分の人生では何を意味するのか、
よくご理解いただきたいと思います。
では、一般的に、「生きる目的」について
どんな間違いが多いのでしょうか?

よくある間違い①
●「生きるために生きる」
        という考え
  (アニマルな生き方では、あっという間に人生は終わってしまう)

「何のために生きていますか?」
と聞いてまず簡単に出てくる1つ目は、
「生きるために生きる」
というものです。
それは例えば、
「生きるのは何のため?
そんなことは考える必要ないんじゃないかな。
生きること自体が大事なんだよ。
人は生きるために生きているんだ」
といった具合に出てきます。
このように「生きるために生きる」というと、
何か深いような響きがありますが、
実際には何も考えていなかった人が急に聞かれて、
焦って出てきた答えにありがちです。
これに似た考え方としては、
「生きるためには、お金を稼がなければならない。
そのためには、仕事をしなけれなならない」
と、生きるために仕方なく働いて生きている人、
食べるために生きている人も、
結局は生きるために生きているということになります。
ところが、この「生きるために生きる」では、
実は、生きる目的に答えたことになりません。
それは、「受験勉強は何のため」と聞かれて、
「受験勉強のため」
と言ったり、
「科学の目的は?」と聞かれて
「科学の進歩のため」と言ったりしても、

答えにならないのと同じです。
それに気づいた人は、
「生きる目的なんか、考えなくても生きていけるよ」
と言うこともあります。
確かにそのとおり、
生きる目的なんか考えなくても生きていけます。
現に、生きる意味を考えている人も、
考えていない人も、みな生きています。
何も考えず働いて、お金を稼ぎ、子供を生んで育てます。
そんな人生のすがたを一休は、

人生は 食て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる
            (一休)
と詠いました。
毎日、食べては出し 食べて出し、起きて寝て、
台所と便所の往復、布団の上げ下ろし、
毎日が同じことの繰り返しです。
その間、人それぞれいろいろな仕事をして、
趣味やスポーツ、旅行などで楽しみますが、
本質的には食べては出し、起きては寝ての同じことを
繰り返しているだけです。
その間に、子供があっという間に成長して親となり、
その子供もまたあっという間に親となり、
その間に自分は年を取って死んでしまいます。

ところが、そんな食べては出し、
子供を育てるだけの人生なら、動物でもやっています。

動物というのは、本能的に生きています。
本能的というのはつまり、
欲を満たすためだけに生きているということです。
欲の心は人間にもありますので、
仏教では、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の
5つの代表的な欲を五欲といいいます。

EPSON167.jpg-1.jpg
人間も、何も考えず、五欲を満たして喜んでいるだけの
本能的な生き方なら、生きる意味も目的も、
特に必要ありません。
それでも生きていけますし、現代は、
そんな人が増えているともいわれます。
ところがそんな刹那的な快楽を満たすだけの
アニマルな生き方では、心からの安心も満足もないまま、
あっという間に人生は終わってしまいます。

それでは生まれ難い人間に生まれたかいがありません。
このように「生きるために生きる」というのは、
生きる目的を考えていないということですので、
さすがにこの本を読まれる方に、
そんな方はめったにいないと思いますが、
このような人生のすがたをありのままに見つめて、
初めて生きる意味、目的が問題になってくるのです。


よくある間違い②
●「成長するために生きる」という考え
  (頑張って苦しみを乗り越え、どこへ向かって成長するのか)

人生論を読んでいくと、「生きるのは成長するため」
というものに出会います。
例えば「人生は苦しみや悩みを通して
成長するための学校のようなものだから、
苦しみ悩みにも意味がある」
というものです。
この「成長」というのは、大体において、
肉体よりも、内面的な成長、人格形成といったものです。
ところが、少し考えると、何だかおかしいことに気づきます。
せっかく成長しても、やはりだんだん衰えて、
最後は死んでしまいますので、
「肉体の成長のために生きている」とか
「健康のために生きている」のと同じで、
その目的は達成できません。
最後は完全に崩れ去ってしまいます。
そこで、この問題を解決するためか、
スピリチュアルなどでよくあるのは、
死んでも何か魂のようなものが続くとして、
生きるのは「魂を磨くため」「魂の成長のため」
という考え方に行き着きます。
それが肉体であれ、精神であれ、
放っておいて成長するものではありません。
やはり、頑張ったり、努力したりする必要がありますから、
「生きるのは成長するため」というのは
「何も考えずに生きるために生きる」よりは、
ずっと立派なことです。
それは、「一生懸命生きる」とか、「ひたむきに生きる」
「前向きに生きる」「プラス思考で生きる」
「道を切り開いて進む」など、いろいろな表現でいわれます。

では、そうやって、頑張って苦しみを乗り越え、成長するのは、
どこへ向かってなのでしょうか。
確かに、一生懸命、何か目的に向かってひたむきに走っている人の方が、
のろのろ走っている人よりも魅力的です。
ところがそのひたむきに走っている人は、
何のために走っているのかが問題です。
野球やサッカーなら、確かに素敵でしょう。
しかし、あなたの鞄をひったくって、
捕まらないように前向きに一生懸命ダッシュしているとしたら、
素敵でしょうか?最悪です。
できる限り、のろのろ走ってほしくなります。
一生懸命ひたむきに走っている姿だけ見たら、
素敵だと思いますが、一体どこへ向かって、
どういう意味があって走っているのかが大事だということです。
同じように、弁護士としての成長と聞くと、
かっこいい感じがしますが、
悪の軍団のお抱え弁護士として成長されても、
一般庶民には困ります。
科学者としての向上も、普通は期待したいところですが、
目標が、安くて効果的な凶悪兵器の開発のためでは、困ります。
人に迷惑な、変な物は作らないでほしいのです。
ですから、ただプラス思考で、頑張ればいいのではありません。
頑張って何をするのかという目的が、
いちばんの問題なのです。

究極的には、それが生きる目的なのですが、
これまでのところ、ほとんど論じられていないのが現状です。

目的地が存在しないのは、スピリチュアル系でも同じです。
例えば「魂の成長」を唱える、飯田史彦氏の説を聞いてみると、
魂が成長していくと、どんどん苦しい試練がやってきて、
最後は学校の卒業試験のような、
最も苦しい試練がやってくると言います。
それを卒業すれば、また宇宙の別の場所で
成長のための試練を受け続けます。
一体どこに、そんな根拠があるのかと思ったら、
よりどころは催眠状態の人の証言でした。
なぜそれが根拠になるのか分からないので、
ある程度教養のある人には一蹴されそうです。
ですがここでは目をつぶって、
なぜ宇宙のいろいろな所で試練を受け続けなければならないのか
耳を傾けてみましょう。
するとかろうじて「宇宙自体が自らを成長させるため」
と説明します。
では最終的に、宇宙はなぜ成長したいのでしょうか?
飯田氏はこう言います。

なぜ、宇宙が「成長した」と願うのかといえば、
そこに理由などありません。
        (『生きがいの創造』飯田史彦)

これにはさすがの催眠状態の人も、答えられなかったようです。
このように「魂の成長」説を、誠実に聞いてみたとしても、
苦しい目に遭っても成長を求める理由や目的は、出てこないのです。
これでは結局、意味も分からず苦しみ続けなければなりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まとめ

生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、②まで打ちました。
次回は③から読んでいただこうと思います。


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弥陀の救いは「破闇満願」 [南無阿弥陀仏]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
        (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことであると、
繰り返し述べてきました。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
“どんな人も 必ず絶対の幸福(往生一定)に救う”
という誓いです。
善人も悪人も、老若男女問わず、
絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
この阿弥陀仏の救いを表した仏語が「破闇満願」です。
「破闇」とは、闇を破ること。
闇とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」であり、
「疑情」といわれます。
この「疑情」こそが、苦悩の根元であると親鸞聖人は
『正信偈』に、こう教えられています。

還来生死輪転家  生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止  決するに疑情を以て所止と為す

「生死輪転」とは、「流転輪廻」ともいわれ、
安心、満足というゴールのない円周を、
際限もなく回り続け苦しんでいるさま。

私たちは家を離れて生きられないように、
苦しみから離れ切れず、迷い続けているので、
「生死輪転の家」といわれているのです。

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「還来」は、生死輪転(際限ない苦悩)の家を
行ったり来たりすることですから、
「終わりなき苦しみ」を表しています。
「生死輪転の家に還来することは」
とは、一言で、
「人生を苦に染める元凶は何か」
ということであり、親鸞聖人は、
次のように一言で答えておられます。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「決するに」とは、「これ一つ」という強い言葉。
「疑情ひとつ」が苦悩の根元であるとの断言であります。

●苦悩の根元、疑情とは?

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。

命懸けであなたを助けようと力尽くされている阿弥陀仏に、
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「阿弥陀仏は本当に私を救ってくださるのか」
「欲を起こしたり、腹立つ心を減らさないと、
助けてもらえないのだろう」
と、疑っている心が、疑情です。
この心一つが流転の元凶であり、
「無明業障という恐ろしい病」
とも言われます。

無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病
           (御文章二帖目十三通)

誰もが幸せを求めながら、
なぜ、心から生きる喜びが味わえないのか。
何をどれだけ手に入れても本当の幸福になれないのは、
「無明業障」という心の病にかかっているからだと、
蓮如上人は明らかにされています。

「心の病」といっても、
心療内科などで診断されるものではありません。
治療する精神科医も、自覚なしにかかっている病です。
この病気にかかっていない人は一人もありませんが、
これは、仏教をよくよく聞かなければ毛頭分かりません。

●無明業障の病が恐ろしい二つの理由

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる理由が二つあります。
○三世を迷わす苦悩の根元だから。
○自覚症状がないから。

一つ目の理由からお話しましょう。
この病は、「無始よりこのかた」と言われますように、
始めのない始め、過去無量劫からの魂の病です。
それは未来永劫にわたる大問題でもあります。
ですから蓮如上人は「無明業障の病」を『御文章』に、
「三世の業障」とも言われています。

闇=疑情=無明業障の恐ろしき病=三世の業障

「三世の業障」とは、三世を通し、私を苦しめているもの。
「三世」とは、過去世・未来世のことで、私たち一人一人に、
人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、
死んだ後の未来世あるのだよと、
仏教では教えられます。
年でいえば、去年なしに今年はないし、
今年なしの来年もありえない。

去年の今頃何があったのか、たとえ忘れてしまっても、
なかったのではない。
必ず、過去があって現在があり、未来へと続くのです。
おととい食べた物さえすっかり忘れている私たちは、
人間に生まれる前の過去世など知る由もありませんが、
釈尊は厳然と三世の実在を説かれています。
肉体の苦しみなら、せいぜい百年ほどですが、
「三世の業障」は、生まれる前から現在も、
そして死んだ後も苦しめる、全人類の永遠の生命の病なのです。
この「三世の業障・無明業障の恐ろしき病」を
治せる方はおられるのでしょうか。
蓮如上人は、こう仰せです。

ありがたの弥陀の光明や。
この光明の縁に値いたてまつらずは、
無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の
癒る(なおる)ということは、
更に以てあるべからあるものなり。
          (御文章二帖目十三通)

阿弥陀仏のお力(光明)によらなければ、
無明業障の恐ろしき病が治ることは絶対にないと教えられます。
無明業障の病を治せる方は、
大医王であられる阿弥陀仏しかましまさぬのです。

阿弥陀仏は、私たちを無明業障の病から
何とかして助けようとして、
南無阿弥陀仏という大妙薬をつくられました。

すべての人は、阿弥陀仏のつくられた、
この南無阿弥陀仏の妙薬を賜った一念で全快し、
絶対の幸福に救われます。

一念とは、一秒よりも短い時で、
時剋の極促をいいます。
蓮如上人は、
「阿弥陀仏から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えていただいた一念に、
過去、現在、未来の三世を通して苦しめる
無明業障の恐ろしき病は全快し、
同時に、絶対の幸福(正定聚・等正覚)に救われるのだ」
と、こう教えておられます。

この大功徳(南無阿弥陀仏)を、
一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向(与える)しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位(絶対の幸福)また等正覚の位なんどに
定まるものなり
                (御文章五帖目六通)

「南無阿弥陀仏」には、私たちの苦悩の根元を、
一念で断ち切るものすごい力がある。

その大功徳は人間の想像を絶すると蓮如上人は、
こう説かれています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり
             (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、
「たった六字の南無阿弥陀仏に、そんなに功徳や、
効能があるとは誰も思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六字だけでは心もとなく思えてしまう。
そんな迷いの心をお見通しの上で、こう続けられます。
「だが、南無阿弥陀仏の六字には、
最高無上、甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、底を見れば深さが知れぬ。
名号六字の大功徳は広大無辺で極まりがない」
偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
猫に小判、豚に真珠で、
私たちに名号の値を知る知恵がないからです。
正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の万善万徳がおさまっていることは明らか。
ですから、お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何憶年かかっても説き尽くせない」と言われ

親鸞聖人は、『正信偈』に「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海(大きな宝の海)」と言われています。
そんなすごい大功徳だからこそ、
三世にわたる苦悩の根元を一念で解決できる。
無明業障の恐ろしき病(三世の業障)を治す特効薬、
それが「南無阿弥陀仏」なのです。

●ハッキリする救い

この特効薬は、阿弥陀仏が与えてくださいますから、
「我等衆生に廻向しまします」と言われています。
「廻向」とは、「与える」という意味です。
南無阿弥陀仏の大妙薬を頂いた一念、
病は全快し、同時に正定聚(絶対の幸福)の身になります。
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことです。
いつ死んでも極楽往生に往って、
仏に生まれることがハッキリしますので、
往生一定とか往生治定ともいわれます。
阿弥陀仏の願いは、
私たちを正定聚(絶対の幸福)にすること以外にありませんから、
正定聚になった時、阿弥陀仏の願いが私たちの身の上に満たされます。
これを「満願」といいます。

○闇を破る(破闇)
=疑情を晴らす=無明業障の病(三世の業障)を全快させる
○願いを満たす(満願)
=正定聚(等正覚)にする=往生一定(往生治定)にする

このように「疑情を晴らし正定聚にしてみせる」
という弥陀の願いが、私たち(衆生)の身の上に満たされたことを、
「破闇満願」というのです。
私たちは苦しむために生まれてきたのでもなければ、
生きているのでもない。
「なぜ生きる」の答えは「破闇満願の身になるため」
一つです。

私たちは、そのために生き、働いています。
政治も経済も科学も医学も全ては、このためにあるのです。
苦しみの根元「疑情」を一念で晴らし、
この世から未来永遠に変わらぬ幸福を与える教えが仏教なのです。

●自覚症状なき病

無明業障の病が「恐ろしい」といわれるもう一つの理由は、
自覚症状がないからです。

肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。
例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、
放置する人が少なくありません。
しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に
さまざまな合併症を起し、命に危険を及ぼします。
「ガン」も、自覚症状がないことが多くあります。
特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、
気づいた時には手遅れというケースをしばしば耳にします。
早期発見・早期治療がなされれば治る病も、
自覚症状がないと手遅れになります。
同じように無明業障の病も(疑情)も自覚がありません。
まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると
思っている間は無明の病も分からず、
医者も薬も問題になりません。

「無明業障の病を治してくださる方は、
大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」
と勧める言葉も耳に入らない。

仏教の結論・一向専念無量寿仏
(「阿弥陀仏一仏を信じよ」という釈迦の金言)
も自分とは関係ないと思っているのです。

それがいよいよ心の臨終になると分かってきます。
念々に迫る無常に驚き、地獄一定の罪悪が知らされてくると、
後生の一大事助かりたい、という心があらわになり、
弥陀一仏に向くのです。

そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、
疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、
無明業障の恐ろしき病が全快、
この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、
薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、
「誠なるかなや、弥陀の本願」とハッキリするのです。

●どうすれば破闇満願の身になれるか

では、どうすれば破闇満願の身になれるのでしょうか。
親鸞聖人は
「聞思して遅慮することなかれ」。
仏教を聴聞(聞思)しなさいとご教示くださいます。
蓮如上人も、こう指南されています。

陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は
早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。
されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、
遅く開くる人もあり。
兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞するべきなり
                 (御一代記聞書)

陽の当たるところの花は速く咲き、
日陰の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、
弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。
聞法を怠れば日陰の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明に遇っても、
救われるのが速い人と遅い人があるのは、
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、
ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

一日も早く、破闇満願の身となり、
生命の大歓喜がわき上がるまで、聞法精進いたしましょう。


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死んで極楽に往生するには、聞き開かねばならない! [極楽に往生するには]

4通りの「きく」とは

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。
弥陀の救いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「まことだった!」と言われている
「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏が、
本当に願っていられる御心で、
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
お約束です。
弥陀の願いに背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも
追いかけ、追い詰めて、“無上の幸せに摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われています。

大宇宙に2つとない大誓願だから、
「超世希有の正法」とも称されます。
この阿弥陀仏の救いにあずかる道はただ一つ。
「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は明言されています。
「聞思」とは「聴聞」。
「聴」も「聞」も、ともに「きく」ということです。

●4通りの「きく」

一口に「きく」といいましても、次のように、
四通りあると教えられます。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最初の「聞き閉じる」人とは、
尊い法を聞かせていただきながら、
ボーッとしたり、居眠り半分になってしまい、
休憩時の世間話は元気いっぱいでも、
説法が再開するとまた眠くなるような人です。
聞法しながらも他のことばかり考え、
ただ体が座っているだけ、
という人も同じこと。
湯のみに例えるならば、引っくり返った状態で、
どれだけ高級なお茶を注いでも、はじいてばかり。
このように、心を閉じて、法が入っていかないのは、
「聞き閉じる」きき方です。

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次が「聞き流す」人。
漫然と聞いて、少しも心に聞きとどめようとしない人です。
「覚えてこいとはおっしゃらん」
と忘れるのを自慢げに語る人さえあります。
また、「それも聞いた」「これも知ってる」「この話は3回目だ」
と、粗末に聞く人も同様です。
世間でも、「『分かったつもり症候群』に注意!」といわれる。
この症状につける薬は幾つかありますが、
「聞いたことを、誰かに分けるように説明してみる」
「学んだことを実践に移す」
の2つがお勧めです。
“分かったつもり”でも、
いざ他人に話そうとすると「あれ、これは何の例えだったかな」
「話がつながらなくなった」「このお言葉、どう説明されてたかな」
と、驚くほど聞けていないものです。
話が空中分解したり、2時間かけて聞いた話を
説明すると5分で終わってしまったという経験は
誰にでもあるのではないでしょうか。
同じ話を、常に初事として聞き求めねばならぬのが仏法と、
蓮如上人は、こう、戒めておられます。

人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、
何度、同じことを聴聞しても、
初事と聞かなければならない

一つことを幾度聴聞申すとも、珍しく、
はじめたるようにあるべきなり
         (御一代記聞書)

珍しい話を聞きたい心は、敵。
弥陀の御心一つ分からないから助からないのです。
皮相をなめただけで、分かった気になり、
仏法を軽く見ていては、信仰は進みません。

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三番目は「聞き覚える」人。
親鸞聖人の教えを真剣に聞いて、理解しよう、
覚えようとする人です。
他人事と流さず、教えの通りに忠実に実践しようと
努める人でもあります。
「分かったことは、実行すること」
どれだけ物知りになっても、
仏教で勧められる挨拶すらしない人は、
「聞き流している」と言われてもしかたないでしょう。

頭でっかちになって相手を見下し、
批評や批判ばかりでは足元がおろそかになり、
つまずいて転んでしまいます。
「和顔愛語」を「わがおあいご」と間違って読んだ人に、
「こんな言葉も読めんのか!」と、
恐ろしい形相でとげとげしく注意をしていた人がありましたが、
そんな時こそ、笑顔で優しい言葉をかける
「和顔愛語」を実践してほしいもの。
真実の教えを一つでも覚え、理解し、
できることから実行しようとする努力が尊いのです。
しかし、ここでとどまってしまっては、また大変。
覚えたのが他力の信心ではない。
他人に話せるようになったのが、
弥陀の救いではありません。
分かろう、分かろうとするのは「分かって助かろう」
としている自力の心です。
いろんな知識を増やすための聞法では、
いつまでたっても助かりません。

どれだけ合点を積み重ね、理解を深めても、
それで極楽往生はできません。

あながちにもろもろの聖教を読み、
物を知りたりというとも、
一念の信心の謂(いわれ)を知らざる人は徒事なりと知るべし
             (御文章五帖目二通)
一切の聖教は、私たちに弥陀の救いを知らせ、
一念の信心を獲させるために書き残されたものですから、
大いに学び、教えの理解を深めねばならないのは当然です。
しかし、どれだけ詳しく聖教を学び、知識を増やしたとしても、
一念の信心を獲得し、弥陀の救いにあわねば、
弥陀の浄土へは往けませんよ、
と蓮如上人は戒められているのです。

●弥陀の本願「聞き開く」

最後の、「聞き開く」とは、
「弥陀の本願まことだった」と聞いたことをいいます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し
               (教行信証信巻)

阿弥陀仏の本願に“疑心あることなし”と聞く、
一念の信心のことです。

こんな話があります。
中国へ出張中のこと。
風邪を引いてしまった。
いつもなら持参の薬を3日ものめばスッキリ治ったのに、
中国のウイルスは違うのか、
一週間のんでも咳が止まらず苦しんだ。
そんな時、「中国の風邪の特効薬だ」
と同僚が赤い小箱を持参した。
聞いたことも見たこともない薬を手にして、
“本当に効くのかな”と疑いながらのんでみた。
ところがなんと翌日、ウソのように症状が消えているではないか。
一気に「特効薬だった」と疑いが晴れたという。

もう一つ疑い晴れる例。
飛行機が乱気流に突っ込んで激しく振動し、
しばしば機長のアナウンスが流れる。
「大丈夫です。ご安心ください」
それでも起きる不安や疑心は、
無事着陸した時に消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破れます。
「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなる。
“摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”
という弥陀の約束(本願)への疑いは、
「摂取不捨の利益」を私が受け取った時に晴れるのです。
このように、弥陀の本願(誓願)に
露チリほどの疑いもなくなった「聞」を、
「聞き開いた」といいます。

しかも聖人は、ただ「疑心なし」とは言われずに
「疑心あることなし」と言い表されています。
一体「疑心なし」と「疑心あることなし」とは、
どう異なるのでしょうか。
例えば友人に、
「百万円、貸してくれないか」
と頼んだ時、
「とんでもない、百万円などオレにはないよ」
と断られた。
こんな友人なら5年か10年後には、
ひょっとしたら借りられるかもしれません。
今はなくても、その友人に将来、
どんな大きな収入があるか分からないからです。
しかし、「オレに百万円なんか、あることなしだ」
と断られたら、何十年たっても可能性はゼロとなります。
「あることなし」では、永久に「ありっこない」のですから
「なし」とは大違い。
「弥陀の本願に疑心あることなし」と聞き開いた人は、
金輪際、本願に疑いが出てくることは二度とありません。

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●聞き開けば“こころは浄土に遊ぶ”

聞き開いた一念に、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救われ、
いつ死んでも極楽参り間違いない身にさせていただけます。
親鸞聖人は、こう和讃されています。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり
       (帖外和讃)
「弥陀の本願まことだった」と聞き開き、
絶対の幸福に救い摂られた時から我々は、
迷いの人間ではなくなるのだ。

欲や怒りの煩悩は少しも変わらないままで、
心は弥陀の浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快である

超世の悲願とは、世の常識を超えた、
大慈悲の弥陀の本願のことで
「超世希有の正法」ともいわれます。
その本願に疑い晴れたことを
「超世の悲願ききしより」と言われています。
これは、聞き開いた、「ききし」です。
弥陀の本願、聞き開くと「生死の凡夫かは」、
迷いの人間ではなくなる。
では、迷いの衆生でなくなったのならば、
何が変わって何が変わらないのか。
「有漏の穢身はかわらねど」の有漏の穢身とは、
欲や怒りの煩悩に汚れた肉体のことですから、
弥陀に救われても、我々の煩悩は全く変わらないのです。
救われたら、少しは煩悩が減るのだろうと、
誰しも思うでしょうが、そうではありません。
弥陀の救済は、煩悩あるがまま。

煩悩具足の凡夫が、弥陀の正客です。
煩悩が変わらないままで救われたら、
では何が大変わりするのか。
親鸞聖人は「こころは浄土にあそぶなり」と言われています。
欲や怒りの煩悩は、減りも無くなりもしないままで体験できる、
驚くべき幸福のあることを、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞は、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、明るく愉快なのだ」
という一大宣言です。

●『真宗宗歌』にも

『真宗宗歌』には、こう歌われています。

ふかきみ法にあいまつる 身の幸何にたとうべき
ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん

「ふかきみ法(のり)」とは、
釈尊の説きたもうた阿弥陀仏の本願のこと。
古来、幾多の宗教がありましても、
人生究極の目的を説き切り、
万人を真実の幸福に導くみ教えは、
仏教以外にありません。

しかし、深い仏縁がなければ、弥陀の本願という大法には遇えない。

稀にも受け難きは人身、値い難きは仏法なり。
如来の本願に値いたてまつらずは、いたずらごとなり。
然るに、今既にわれら弘願の一法(弥陀の本願)に
遇うことを得たり
               (御文章三帖目四通)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法に巡り遇えたことは、
どれほど喜んでも足らない、
と蓮如上人は仰せです。

無二の深法に巡り遇えたこの上は、
“雨風雪はもののかずかは”
と聞き求めずにはおれません。
「ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん」
阿弥陀仏の本願を聞き開いたならば、
まことの南無阿弥陀仏を一念に賜り、
大安心、大満足に生かされます。
その身になるには、「聞く一つ」。

山に籠もって修行したり、断食したり、
座禅を組んで助かるのではありません。

「仏教は聴聞に極まる」
ほかに道なし、であります。

ここで四通りの「聞き方」をおさらいしてみましょう。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最終目的は、「聞き開く」。
知った覚えた、の合点でとどまっていてはなりません。
まずは一歩踏み出してみましょう。
聞法の場へ足を運んで親鸞聖人のみ教えを
真剣に聞かせていただくことが、浄土への第一歩です。


 


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仏教は私の真実の姿を見せてくれる鏡である。 [人間の実相]

仏教は
 「ありのままの私」を
     映す鏡


「ありのままの 姿を見せるのよ
ありのままの 自分になるの」
と高らかに歌うヒロイン
今年大ヒット映画『アナと雪の女王』の
劇中歌です。
この歌が多くの共感を得たのは、
今の私は「ありのまま」の自分じゃない、と
感じている人が多いからでしょう。
「毎日毎日、他人の目を気にして自分を取り繕っている」
「本当はありのままの私を愛してほしい」
と思っても、現実はとても「ありのまま」では
受け入れてもらえないから、
他人の目によく映るよう、
涙ぐましい努力を重ねています。
ところが仏教は、
“ありのままで真実の幸せになれる”道を
教えられているのです。
果たして、どんな教えなのでしょうか。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・
●演じなければ
    生きられない?


私たちは「他人からどう見られるか」
と常に気を遣い、
朝から晩まで神経をすり減らしてはいないでしょうか?
朝起きたら顔を洗い、髪を整える。
出掛ける前にはヒゲをそったり、
化粧をしたり、服やネクタイを入念に選ぶ。
「いつもステキね」と褒められたい、
少しでも若く見られたい、できる奴と思われたい、
そして一目置かれたい。
いや、そこまででなくても、せめて恥をかかぬよう、
笑い者にならないように、と思うからです。
さっきまでガミガミ子供に当たっていたお母さんが、
電話に出るとたちまち、
「はい、もしもし。
・・・まぁ、オホホホホ」。
声が一オクターブ高くなり、
大女優顔負けの演技をするのも、
少しでもよく見られたいからでしょう。
人は幾つもの仮面をつけて生きている、
と言われます。
会社では有能な社員になり、家庭に帰れば良き夫や妻になる。
子供の前で見せる親の顔、飲み屋で友人に見せる顔、
井戸端会議で近所の奥様方に見せる顔も、
また違う。
子供も子供で、友達によく見られたいと
“いい友達”を演じています。
ある男性読者(30代)は、
自身の学生時代をこう述懐しました。

    ※      ※
私が何より大事にしたのは、人間関係でした。
他人の目を気にして、衝突しないように、
「どこに行くか」「何をして遊ぶか」は、
皆が決めたとおりにしました。
空気を読む、顔色を見る、気の利いたことを言う。
誰に教わったわけでなく、「嫌われない人」になるために
身につけた術は、「自分の思いを言わないこと」でした。
そんな努力が実を結び、友達に恵まれ、
いわゆる「人気者」でしたが、
本当の自分を知られたら誰もいなくなる気がして、
放課後もできるだけ友達の家に行かず、
自宅にも呼びませんでした。
ボロを出さないよう、心はいつも平穏ではなかったのです。
高校3年の時、クラスで文集を作り、
その中のアンケートで、「あこがれる生き方の人」
「将来、大物になっていそうな人」の一位に選ばれました。
うれしい結果でした。
しかしこれは、他人の目に映った「私」であり、
そんな人間でないことは、
自分が一番分かっていました。

    ※        ※
常に仮面をつけて“いい人”を演じ続けているうちに、彼は、
「どれが本当の自分か分からなくなった」
と語っています。
一体、ありのままの自分とは、何者なのでしょうか。

●最も身近で、
最も分からない「自分」


「ありのままの私」と聞くと、
“それは自分が一番よく分かっている”
と思いがちですが、
「知るとのみ 思いながら 何よりも
知られぬものは 己なりけり」
(いちばん知っているようで、
最も分からない者が自分自身である)
の歌に、思い当たる節が多々あります。

メガネを額にのせたまま、メガネを探して家族に笑われる。
鳥インフルエンザが発生した養鶏場で、
何万羽もの殺処分っが決まった。
「ニワトリがかわいそう・・・」
とニュースを見ながら食べていたのは、
鶏のから揚げだった。

やはり、自分のことはなかなか分からないのが本当のようです。
自分の幸せを求めながら、その自分自身が分からないでは、
幸せになれる道理がありませんから、

古代ギリシャの時代から、
「汝自身を知れ」
と言われてきたのでしょう。
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なぜ私に「私」が分からないのか。
近すぎるからです。

私たちの目は、いろいろなものを見ることができます。
今、目の前で開いている本誌も、
夜空に映える名月も、近いものも、遠いものも、
よく見える。
ところが、目のすぐ隣にある眉や顔が、
直接見られない。
あまりに近すぎるからです。
「目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることあたわず」
どんなに視力のいい人でも、
自分の目を直接見ることはできない。
どんな名刀も、その刀自身を斬ることは不可能。
はるか宇宙の構造を解明した科学者も、
自分の顔についた飯粒には気づかないようなもので、
どんなに頭のいい人でも、
本当の自分は分からないものなのです。

では近すぎる自己を見るにはどうすればいいのか。
私たちは鏡を使います。
古来、自己を知る「鏡」に、
「他人鏡」
「自分鏡」
「法鏡」
の3枚あると教えられています。

鏡で大事なことは、
私の姿を正しく映すかどうか。
実際より太って見えたり、痩せすぎだったり、
有るものが映らなかったり、無いものを映す鏡では、
困ってしまいます。
果たしてこれら三枚の鏡は、
「本当の私」を映し出してくれる鏡なのか、
詳しく検証してみましょう。


●他人鏡・・・他人の目に映る私

第一は「他人鏡」。
これは他人の目に映る私の姿です。
日々「他人鏡」に少しでもよく映るよう努力しているのは、
それだけこの鏡に大きな信頼を寄せているからです。
皆、他人の言葉に一喜一憂し、振り回され、
きゅうきゅうとしていますが、
果たして他人は私を正しく評価しているのでしょうか。
こんな話を通して、考えてみましょう。
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ある奥さんが帰宅すると、泥棒とバッタリ鉢合わせになった。
そこへタイミングよく、巡回中の警察官が通りかかる。
「助かった、地獄で仏とはこのことだわ。
なんて頼もしいお巡りさん」
ところが翌日、その奥さんが、
路上に駐車していた車に乗ろうとすると、
違反の張り紙が。
取り締まっていたのは、昨日助けてくれた警察官であった。
だが、「見逃して」と幾ら頼んでも、
警官は首を横に振るばかり。
「融通の利かない人ね。キライ!」
と腹を立てるのであった。

    ※      ※

この警察官は、一日で人格が変わったわけではありません。
奥さんの「都合」で評価がガラリと変わったのです。

「正も邪も 勝手に決める わが都合」
誰もが、その時々の都合で他人を評価しますから、
同じ人間が善人にも悪人にもなるのです。

このようなことは茶飯事ですから、
禅僧・一休は、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも うその世の中」
と笑っています。
実際は、
「ブタは褒められてもブタ
ライオンはそしられてもライオン」で、
人の評価はそう簡単に変わるものではないはずです。
見る人の都合でコロコロ変わる「他人鏡」が、
変わらぬ本当の私を映す鏡でないことは、
認めざるをえないでしょう。


もちろん、「他人鏡(他人の評価)など、どうでもいい」
ということではありません。
他人の意見に耳を傾け、欠点を克服する努力は大事ですから、
例えば同じことを3人以上から指摘されたら、
改めるよう努めていきたいものです。

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●自分鏡・・・自己の良心

三枚の鏡の第二は「自分鏡」。
道徳的良心であり、自己反省のことです。
「一日三省」というように、自己を振り返ることは大切です。
反省がなければ進歩も向上もなく、
同じ失敗を繰り返すばかりでしょう。
しかし、いかに厳しくしようと努めても、
自己反省は往々にして
自分かわいい「欲目」によって甘くなるものです。

それは生んで育てたわが子にもしかり。
万引きをした子供の親に連絡すると、
第一声は決まって
「うちの子に限って・・・」
だそうです。
本当はわが子が首謀者であっても、
親はそう思いたくないし、思えない。
「自分の」子だからです。

子供にさえ欲目を離れられないのだから、
わが身となればなおさらで、
鏡の前で増えた白髪に一時は驚いても、
「年下のあの人よりはマシ」
と他人を引っ張ってきて上に立つ。
私は顔の色は黒いけれど鼻が高いから。
色も黒いし鼻も低いが口が小さいから。
口は大きいけれども色白だ。
しまいには、
「何にもできんが、素直な奴と皆から言われている」
と自分のことは何でも美化してしまう。
うぬぼれ心が私たちの本性だからです。
「自分鏡」も、自己の真実を歪めて見せる鏡にほかなりません。

●法鏡

他人鏡は都合で曲がり、自分鏡は欲目で曲がる。
一体、「ありのままの私」を映してくれる真実の鏡は
どこにあるのでしょうか?

お釈迦さまは、
「仏教は法鏡なり。
汝らに法鏡を授ける」
と遺言なされ、私たちに、
真実の姿を映す鏡を与えてくださいました。

「法」とは、真実であり、三世十方を貫くもの。
三世とは、過去・現在・未来で「いつでも」、
十方とは、東西南北上下四唯で「どこでも」ということ。
時代や場所に左右されず、
いつでもどこでも変わらないものだけを、法といいます。
仏法を聞くとは、法鏡に近づくことですから、
仏法を聞けば、今まで気づかなかった自己が見えてきます。
もちろん、鏡から離れていれば分かりません。
肉体を映す鏡でも、遠目には“まんざらでもない”
とうぬぼれていますが、近づくにつれて“あら、ここにシワがある。
こんなところにアザが。
随分白髪が増えたなあ”と、実態に嘆く。
同様に、法鏡に近づくほど“こんなわが身であったのか”
と、思いも寄らぬ自己の姿に驚くのです。


●ありのままに見る
     蓮如上人と一休


大切なのは自分をそのままに見ることです。
こんな話があります。
EPSON160.jpg-1.jpg

時は、室町時代。
七曲がり半に曲がった一本の松の木の前に
人だかりができていた。
そこへ蓮如上人が通りかかられる。
「一体、何の騒ぎか」
「これはこれは、蓮如さま。
実は、あの一休和尚が“この松を真っ直ぐに
に見た者には、金一貫文を与える”と、
立て札立てたので、賞金目当てに集まっているのです」
なるほど、ある者は松の木にハシゴをかけ、
ある人は寝転がり、またある人は逆立ちしたりと、
それぞれに工夫を凝らして松を見ている。
だが、真っ直ぐに見たという者がいない。
事情を聞かれた上人は、
「また一休のいたずらか。
わしは真っ直ぐに見たから、一貫文をもらってこよう」
と事もなげに言われたので、
一同仰天した。
「おい、一休いるか」
気心知れた仲だから、呼びかけも屈託ない。
「あの松の木、真っ直ぐに見たから、
一貫文もらいに来たぞ」
出てきた一休さん、
「ああ、蓮如か、おまえはあかん。
立て札の裏を見てこい」
と答える。
実は立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのだ。
戻られた上人に気づいた人たちが、
「蓮如さま、一体どうやって真っ直ぐに見られたのですか?」
と身を乗り出して尋ねると、
蓮如上人はこう答えられた。
「曲がった松を、『なんと曲がった松じゃのー』と見るのが、
真っ直ぐな見方だ。
曲がった松を真っ直ぐな松と見ようとするのは
曲がった見方。
黒いものは黒。
白いものは白と見よ。
ありのままに見るのが正しい見方なのだ」
「なるほど!さすがは蓮如さま」
一同、感服したという。

●法鏡に映れる
    真実の自己


では、法鏡に映し出された、ありのままの自己とは、
いかなる姿でしょう。

お釈迦さまは、
「人間の真実の相は煩悩具足である」
と教えられておられます。

煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、
百八つあります。
具足は塊、ということだから、
煩悩具足とは、“煩悩の塊”ということです。
その百八の煩悩の代表格である
貪欲・瞋恚・愚痴の三つについて
順番にお話しいたしましょう。

貪欲とは、金が欲しい、物が欲しい、男が欲しい、
女が欲しい、褒められたい、認められたい、
楽がしたいという欲の心。
根底には、「何でも自分の思い通りにしたい」
という自己中心的な思いがあります。
これを仏教で“我利我利”といい、
「我さえよければ、他人はどうなってもいい」
というあさましい心です。
ところが「思うままにはならぬ世の中」で、
種々に欲は妨げられる。
すると、イライラ、カリカリ、怒りの炎が燃え上がる。
この怒りの心が「瞋恚」です。
NHKの番組『あさイチ』が行ったアンケート調査によると、
夫婦ゲンカの原因は、家事(炊事・掃除・洗濯)のしかたや、
ちょっとした物の置き場所など、
ささいなきっかけが多いという。
ところが、注意のしかたと受け答えの悪さが
互いの感情を逆なでし、
最後はすっかり大きなものになってしまう。
「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」
といわれるとおりです。
露骨に怒れなかったり、腹立ちの相手が目の前にいなければ、
堰を切ったように愚痴が噴き出します。
「いちばん早く年を取るもの、
それは感謝の心」
とはギリシャのことわざですが、
「してくれて当然」と感謝を忘れると、
恨み呪いの心が出てきます。
先日、ファミリーレストランで食事をしていると、
中年女性が友人に愚痴をこぼしている。
「最近、うちの旦那臭いのよ。
帰ったら入浴してほしいのに。
先に食事するから汗臭いったらありゃしない。
それもよ、脱いだカッターシャツでわざわざ靴下をくるむのよ、
どう思う?シャツがますます臭くなるじゃない!」
その臭い旦那の給料で、
昼間からクーラーの効いたファミレスにいながら、
汗水流して働いているであろう夫をボロクソだ。
「それによ、ソファーに長々と座るから臭いがしみ込んじゃうの。
もっと頭にくるのは、座る場所を変えるから
被害が広がって、もう許せない!」
知らぬところで散々言われている夫も哀れなら、
恨みの黒鬼と化している妻も愚か。
でも、私たちも口にしないだけで、
すぐにカチンときたり、イラッとしたり、
不平、不満をこぼしたりと、
五十歩百歩が実態でしょう。

「さるべき業縁の催せば、
如何なる振る舞いもすべし」  
         (歎異抄)
(縁さえ来れば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ)

との告白は、万人共通の実相に違いありません。
切羽詰まると何をしでかすか分からないのが
自己の本性ではないでしょうか。
その真実の相を知らされ、親鸞聖人は、
こう懺悔されています。

「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり」
       (悲歎述懐和讃)
(悪はやめがたく、心はヘビやサソリのように恐ろしい)

親鸞さまでさえそうならば、
私たちも言わずもがな。
日々、報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、
これ皆、心に巣食う貪欲の青鬼、瞋恚の赤鬼、
愚痴の黒鬼の成せる業だと、
仏さまはスッパ抜かれているのです。

●聞き間違えてはならない

法律、道徳レベルなら、善人・悪人がありますが、
仏の眼からごらんになると、
人間は皆、極悪人となります。

レントゲンの前では、美人も、醜女(しとめ)も、
富める者も、貧しい者も、
老若男女の違いなく、皆、骨の連鎖であるように、
法鏡に照らし出されると、
煩悩よりほかにない自己と知らされます。

「ならば善に励もうと努力するのは無駄か」
「善はしなほうがいい」
と聞き間違えてはなりません。
そんな誤解をすれば、たちまち悪果に見舞われ、
この世の“自業苦(じごく)”が現出するのは当然のこと。
光に向かわなければ、幸せになれないと、
お釈迦さまは教えていかれたのです。

●ありのままで救う
      弥陀の本願

煩悩具足の私たちは、
真実の自己を法鏡に照らし抜かれた一念、
煩悩具足の私をそのまま救ってくださる
阿弥陀仏の本願に遇わせていただくのです。

蓮如上人はこう教えられています。
「それ十悪・五逆の罪人も
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば
弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』
という超世の大願を発して」
           (御文章)

(大宇宙の一切の仏方〈十方三世の諸仏〉から「救い難き者」と
見捨てられたのがすべての人〈十悪・五逆の罪人〉である。
そんな者を諸仏の師・阿弥陀如来がただお一人、
「私が助けよう」と立ち上がられ、
崇高な超世の誓いを掲げられた)
大宇宙の諸仏があきれて逃げた、十方衆生(すべての人)を、
本師本仏の阿弥陀仏だけが「救わずにおかぬ」
と奮い立ってくだされた。
そんな偉大な阿弥陀仏でも、悪業煩悩の塊を、
どうしたら助けられようか、五劫という気の遠くなる間、
考え抜かれました。

親鸞聖人は弥陀に救われた一念に、
広大な仏恩を信知させられ、こう仰っています。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」
             (歎異抄)

弥陀が五劫という永い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
全く親鸞一人を助けんがためだったのだ。
こんな無量の悪業を持った親鸞を、
助けんと誓い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことか


むろんこれは、聖人だけのことでなく、
一人一人が自己の真実を照らされ、救われた時、
「私一人のための弥陀のご本願であった」
と躍り上がるのです。
見聞知の阿弥陀仏は、私も知らない私を、
骨の髄までお見通しです。


小指のない障害者として生まれてきた五歳の男の子。
親の前でもいじらしく、しきりにその手を隠す。
子供が悩む前から誰よりも、苦しんでいるのは親なのだ。
どんなに隠してもおまえのことは生まれたときから
隅から隅まで分かっている。
何もかも知っている親と早く分かってくれよと、
どれほど親は泣いていることか。
弥陀は「煩悩具足の極悪人」と私をお見抜きのうえで、
「我にまかせよ、そのまま救う」
と誓っておられるのです。
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この「ありのままの弥陀の救い」を明らかにされるため、
親鸞聖人は、31歳の時、「肉食妻帯」を断行されました。
公然と僧侶が肉食妻帯する。
当時それは世間でも、また仏教界でも大問題。
ために聖人は、「堕落坊主」「破戒坊主」
「仏教を破壊する悪魔」「狂人」「色坊主」と、
八方総攻撃を受けられたのです。
しかし、色と欲から生まれた人間に、
色と欲を断てという無茶な教えでは誰一人助からぬ。

どんな非難も覚悟で断固なされた理由は、
ひとえに、すべての人間が、
ありのままで絶対の幸福に救われる「真実の仏法」を
明らかになされるためでした。
アニメの中の聖人はご内室の玉日様に、
こう仰っています。
僧侶も在家の人も、男も女も、
ありのままで、等しく救いたもうのが阿弥陀如来の本願。
その真実の仏法を、今こそ明らかにせねばならぬのだ。
阿弥陀如来の広大なご恩を思えば、
どんな非難も物の数ではない

“ありのままの私を、そのまま救ってくださる方は、
天にも地にも、弥陀よりほかになかった”
と摂取されるまで仏法を聞かせていただきましょう。

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