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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

仏教でいわれる5つの不思議とは!? [Q&Aシリーズ]

(弥陀に救われ、真実の仏法を叫んでおられる先生の書かれた
「とどどろき」より載せています。)

●仏教に5つの不思議が説かれていると聞きましたが、
どこにどんなことが不思議と説かれているでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5つの不思議は、特に弥陀の本願力不思議をたたえて
龍樹菩薩が説かれたもの。

「衆生多少不可思議」

多くの生き物が生まれ続いて尽きない不思議をいったもの。
少は意味のない助字。

「業力不可思議」

善悪の業力によって、引き起こされる果報に、
寸分の狂いもないことの不思議。

「龍力不可思議」

気象の変化の不思議なこと。

「禅定力不可思議」

聖者が修行によって永い寿命を保ったり、
現す神通の不思議をいったもの。

「仏法力不可思議」

これこそ弥陀願力の不思議で、
道理理屈を離れた摩訶不思議の境地は、
仰げばいよいよ高く広く、
虚空のごとく、心は十方世界に遍満する。

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●親鸞聖人が懐かしい

絶対の悪が絶対の善に救済されてみれば、
生死の苦海のままが光明の広海と転じます。
「不可称・不可説・不可思議の信楽」と、
叫ばれた親鸞聖人が懐かしい。
富も地位も、名誉も権勢も、しばしの間の装飾です。
払い落とせば自性の妄念しかありません。
悪に向かえば光る目も、善に向かえば眠ってしまう。
世間話は夜を徹するが、仏法の話はイヤになる。
夢の世といいながら、執着は微塵も離れず、
ツユの命と知りながら、真剣に報謝する気もない。

三悪道はい出しのやつは、
極楽を嫌って地獄を慕っています。

●底なしの慈悲

正定聚不退の現在も、蛇蠍かん詐、
我執我慢、放逸無慚の曲者で、
どこどこまでも地獄一定すみかぞかし。
こんなやつを大好きだとは、弥陀の慈悲には底がない。
堕つる私が弥陀の正客、聖者そこのけ善人後回し。
うれしい思いを頼りにもせず、悲しい心が心配にもならぬ。
称えた念仏を当てにもせず、忘れた失敗が障りにもならぬ。
信に信功なく、行に行功なし。
仏前で称えた念仏も、トイレで称えた念仏も、
無碍の世界に上下なく、円満である。
カラの念仏は、なお有り難い。
忘れがちの称名を、常念仏の行者とは、
身の置きどころもなく恥ずかしい。
泣いている。苦しいからではない。悲しいからでもない。
悪鬼羅刹が恵まれて、生かされるご恩に感じて泣くのが不思議。
楽して楽知らず、恩を恩と感じない逆謗の屍が、
横超の直道を猛進する時、善も欲しからず悪を恐れず、
苦しても苦知らずとは、不思議の中の不思議です。
まことに業海深きがゆえに願海深し。
われらの業海に名利の大山を映すがごとく、
弥陀の大願海に浄土の荘厳を映す。
月は降らずして水に浮かび、水は昇らずして月を宿す。
月は月にして水に宿り、水は水にして月を宿す。
求めたのやら求められたのやら、捨てたのやら捨てられたのやら、
取ったのやら取られたのやら、
信じたのやら信じられたのやら、
あるといえばある、ないといえばない。
何ともないが何とかある。
何とかあるが何ともない。

「餓鬼は、水を火と見候が、あわれに候。
自力執心の人が他力を知らぬが、悲しく候」
         (法然上人)
同じ事件の当事者でも、悲しむ者と踊る者、怒る人、泣く人、
喜ぶ人、立場によって見方が変わる。
世間は無料の人生劇場です。

他力不思議の世界へ出さえすれば、
「渋柿の シブこそよけれ
 そのままに かわらで変わる 味の甘さよ」
と逆境に微笑し、涙の中に輝く世界が拝めるのです。
「いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり」
      (高僧和讃)
親鸞聖人の驚嘆です。

「仏が仏にお成りになるのが何が不思議ぞ。
極悪人が弥陀タノム一念にて、無碍の一道に生かされ、
仏に成ることこそ不思議というものだ」
不可思議の仏智に生かされたうれしさには、
法雷の下、法剣をかざし、法鼓をたたいて武士の戦場に臨むがごとく、
真実開顕に、獅子吼せずにはおれないのです。

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後生の一大事を解決するには何が一番大事か! [信心決定]

『御文章』の、「一心一向に弥陀たのめ」
      とはどんなことか

●後生の一大事を解決し、
絶対の幸福を求めている私たちにとっては、
最も大切なことですから、
親鸞聖人は、往生の肝腑、自宗の骨目といわれ、
蓮如上人は分かりやすい比喩まで挙げて
ご教示になっています。

『御文章』二帖目九通に、

「忠臣は二君につかえず、
貞女は二夫をならべず」

という外典の言葉を引かれて、

「一心一向というは、阿弥陀仏に於て、
二仏をならべざる意なり」
と明示なされています。

「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」
という言葉は中国の『史記』という本に出ています。
仏教の経典以外の書ですから、
蓮如上人は外典と言われております。

●自殺した王蠋

その『史記』には次のような有名な話があります。
昔、中国の斉(せい)という国の王様が、
おごりに長じて酒色にふけって
大事な政治を怠っているのを嘆いて、
忠義な王蠋という大臣が
たびたび王に諫言(かんげん)しましたが、
いつも馬耳東風で一切聴きいれてくれなかった。
そこで王蠋は、身の不徳を嘆いて
役職を辞退して画邑という所へ隠居してしまいました。
王蠋のいなくなった斉の国は
崩壊を待つばかりの状態であったので、
隣国の燕王(えんおう)が今がチャンスと
楽毅(がっき))という人を総大将にして、
斉の国に攻め込んできました。
斉はひとたまりもなく崩壊しました。
その時、燕の大将。楽毅はかねてから
王蠋の賢徳手腕を高く評価していたので、
燕の高官に迎えたいと幾度も礼を厚くして勧めましたが、
王蠋は頑として応じようともしませんでした。
それでも楽毅が勧誘をあきらめなかったので、
最後にその使者に向かって、
「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」
と喝破して庭先の松に縄を掛け、
自ら首をくくって死んだとあります。

蓮如上人はこのことを思い出されて、
わずか娑婆一世の主従でさえ、
忠臣は二君に仕えずと言って死んで、
心の潔白を表しているではないか。
ましていわんや、未来永劫の一大事の解決を求めている者が、
二仏を並べていてどうして一大事を解決できようか。
私たちの一大事の後生を救い切れるお方は、
本師本仏の阿弥陀仏しかないのだから
弥陀一仏に一心一向になれよと、
お諭しになっているのです。

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「間男見つけたり」

讃岐の庄松同行がある時、法友の家を訪れると、
どうしたことか奥の間の床に神棚を祭り、
シメ縄を飾ってあるのを見て、
「間男見つけたり、間男見つけたり」
と大声で叫んで
弥陀一仏に一心一向になるように背いているのを戒めたのも、
「貞女は二夫をならべず」の言葉から出た言い草でありましょう。

もちろんこのことは、さかのぼれば釈尊出世の本懐である、
「一向専念無量寿仏」のみ教えであります。
親鸞聖人はこれを、

「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」
                (御伝鈔)
と言われています。

今の行者、錯って(あやまって)観音勢至につかうることなかれ、
ただちに本仏をあおぐべし

               (御伝鈔)
と教え、

「聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、
吉日・良辰をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、
これは外道なり、これはひとえに自力をたのむものなり」
             (一念多念証文)
とまで断定なされています。

このように、私たちの後生の一大事の解決には
諸神諸仏の力も及ばないし、
余行余善も間に合いませんから、
それらを一切投げ捨てて、ひたすらに弥陀一仏に一向専念せよ

と最も厳しく教えられたのが親鸞聖人でありましたから、
世間の者たちは、親鸞聖人の教えを
一向宗とまでいうようになったと
蓮如上人はおっしゃっておられます。

無上仏の声なき声

これらのことによってもいかに親鸞聖人や蓮如上人が、
強く厳しく弥陀一仏に一心一向になれよと
教えられたかがお分かりになると思います。

ところがうぬぼれ強くて真実の自己を知らない私たちは、
これらの必死の善知識の仰せにも従えず、
諸神や諸仏に心をかけたり、
諸善万行を力にして流転を続けております。
それがやがて調熟の光明に照育されて、
罪を罪とも分からず、悪を悪とも感ぜず、
地獄行きを地獄行きとも知りえない、
三世の諸仏に見捨てられても
何とも思わぬ地獄一定の悪性の底を知らされ、
棒にも、はしにもかからぬ魂一つが
業に引かれて無間のドン底へ投げ込まれた時、
久遠劫から追いかけてきたのは、
その持ちも提げもならぬ、
諸仏菩薩に捨てられた心と一体になるためぞ!
の声なき声に貫かれ、
阿弥陀さま!こんなこととは知りませなんだ、
五劫思惟の本願はこの私一人のためでございました、
南無阿弥陀仏、阿弥陀仏、弥陀一仏に打ち任せた時を
一心一向に弥陀たのむというのです。
どうかどこまで、聞き抜かせていただきましょう。


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