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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

そもそも仏教って何ですか? [Q&Aシリーズ]

仏教とはそもそも何ですか?

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①仏教とは仏の説かれた教え

仏教とは、仏の教えと書くように
「仏さまが説かれた教え」をいいます。
では、この仏とは、どなたのことでしょうか。
世間では、「死ねば皆、仏」だと思い、
亡くなった人のことを「仏さま」と呼んでいますが、
もし仏=死人なら、仏教は、「死人が説いた教え」
になってしまいます。
死んだ人が、教えを説けるはずがありませんから、
これは大間違い、と分かりますね。
仏とは、
「仏のさとりを開かれた方」
をいうのです。

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②最高のさとりを仏覚という

一口にさとりといっても、低いさとりから高いさとりまで、
五十二の位があり、これを
「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから上は大関、
横綱までいろいろあるように、
さとりにも、ピンからキリまで全部で五十二の位があり、
それぞれ名前がついています。
その五十二のさとりの、最高の位を仏覚(仏のさとり)といい、
これ以上のさとりはありませんから無上覚ともいわれます。

さとりが一段違っても、
人間と虫けらほど境界(きょうがい)の差が
あるといわれますから、
五十二段の仏覚がいかに尊いものか、
分かるでしょう。

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③さとりとは何をさとるの?

さとりとは何をさとるのかといえば、
大宇宙の真理です。

真理といっても、数学的真理や科学的真理ではなく、
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
物は豊かになり、暮らしはずいぶん変わりましたが、
私たちは幸福になったでしょうか。
昔は大家族が多く、嫁と姑が人間関係の苦しみの代名詞でした。
今は核家族化が進みましたが、
職場や育児のストレスなどでやはり苦しんでいます。
平和な日本の空の下、イラク戦争より多くの人が毎日、
自殺しています。
これら苦しみの根本を解決し、
本当の幸せになれる道をさとられた方が、
仏さまです。

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④地球上でただ一人の仏さま

さとりを開くことを山登りに例えますと、
一合目より二合目、二合目より三合目と、
登れば登るほど見える景色は広がっていき、
最後、頂上まで登り詰めた時、
辺り一面を見渡すことができるように、
仏覚まで到達した方だけが、
大宇宙の真理すべてを体得できます。

今日まで、仏のさとりを開かれた方は、
この地球上ではお釈迦さましかおられません。

約2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳で仏のさとりを開かれてから
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれるのです。

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念仏はお礼であって、称えても救われない! [信心決定]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時必定に入る、)
唯能常称如来号(唯能く常に如来の号を称して、)
応報大悲弘誓恩(大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。)
           (親鸞聖人・正信偈)
親鸞聖人が、尊敬する七高僧の第一、
龍樹菩薩の教えを述べておられるところです。

「弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然(じねん)に即の時必定に入る」とは、
「阿弥陀仏の本願を信ずれば、
弥陀のお力によって、一念で必定に入る」
ということです。
これを蓮如上人は、
「一念発起・入正定之聚」 (聖人一流の章)
“一念で正定の聚(じゅ)に入る”といわれています。
一念とは、弥陀に救い摂られる、
アッともスッとも言う間のない短い時間のことです。
「必定に入る」とは、必ず仏に成ることに定まること。

「正定聚に入る」も、間違いなく仏のさとりを
開くに定まった人たちの仲間入りをすることです。

弥勒菩薩と肩を並べる身に

それは、弥勒菩薩と肩を並べる身になることであり、
いつ死んでも浄土に往生できる大満足の身になることだよ、
と親鸞聖人は『教行信証』に教えられています。

その驚くべきお言葉を聞いてみましょう。

真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、
龍華三会(りゅうげさんえ)の暁、
まさに無上覚位をきわむべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証す

              (教行信証)
「本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、
親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

「真に知んぬ」とは、
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びでありましょう。
弥勒大士」とは、仏のさとりに最も近い、
等覚というさとりを得ている菩薩のことです。

仏教では、凡夫が仏覚に到達するまでに、
五十二段のさとりの位があり、しかもその間、
三大阿僧衹劫の長い修練が必要だと説かれています。

一位から四十一位までに第一阿僧衹劫、
四十一位から四十八位までに第二阿僧衹劫、
そこから五十二の位に成るまでに第三阿僧衹劫かかるとあります。

阿僧衹劫(あそうぎこう)とは
億兆よりも数十桁高い桁の名ですから、
大変な長期間です。

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その五十一段まですでに上り、
釈尊の次に仏のさとりを開いて現れる、
釈迦の後継者といわれるのが弥勒菩薩です。

そのため今でも弥勒信仰の人は決して少なくありません。

ところが驚くことなかれ。
親鸞聖人は、弥陀の本願を憶念した一念で、
その弥勒と同等になったとおっしゃっているのです。

「念仏の衆生」とは、弥陀の本願を憶念した人であり、
聖人ご自身のことを言われています。
「横超の金剛心をきわむる」とは、
他力によって一念で五十一段高とびさせられ、
正定聚不退転の身に救われたことを言われます。
金剛心とありますように、
何ものにも壊されることのない、
絶対の幸福になりますから、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
という生命の歓喜は、生涯、変わりません。

しかも、それだけではないのです。
弥勒菩薩が無上覚を開き、
龍華三会という法座で初の説法をするのは、
五十六億七千万年後であると経典に説かれていますが、
弥陀に救い摂られている念仏の衆生は、
「臨終一念の夕」、つまり死ぬと同時に、
「大般涅槃を超証す」、弥陀の浄土へ往って
弥陀同体のさとりを開かせていただけるのです。

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アッと言う間もない一念で弥勒と肩を並べ、
命終われば“弥勒お先ごめん”と仏のさとりを開く。
これひとえに、
弥陀の威神力不思議によってのほかありません。

こんなとてつもない救いを、だれが想像できましょう。
事実、江戸時代、有名な比叡山の学僧だった鳳潭(ほうたん)は、
この『教行信証』を読んで狂人の書だと、
唾棄して庭に投げたといいます。

念仏はお礼の言葉

弥陀の本願は信ずる一念で救い摂るお約束、と聞くと、
では念仏は何のために称えるのか、
と疑問に思う人もあるでしょう。

それについてハッキリと、
「唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし」
と教えられています。
「ただ如来の号を称えなさい」
とは、阿弥陀如来の御名、念仏を称えなさいということです。
それは、大悲弘誓の恩に報いるためだと言われています。
大悲とは大慈悲心。
弘誓とは弥陀の本願のこと。
ですから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
口に称える念仏は、
弥陀の本願によって、
絶対の幸福の身に救われた御恩報謝であると、
親鸞聖人は明らかにされています。

つまり念仏称えたら助かるのではない、
念仏は救われたお礼であるということです。

救いは信心か、念仏か
    信行両座の諍論

これは昔も今も、大変よく誤解されているところです。
そのため親鸞聖人は34歳の時、
法友と大論争までなさっています。
有名な信行両座の諍論です。

ある時、聖人は法然上人の御前で手を突かれました。
「お師匠さま。私は何の宿縁でか、
無二の善知識にお会いすることができました。
そのうえ、380余人の法の友達も持たせていただきました。
皆過去世からの、深いご縁のある方ばかりでございます。
ところでお師匠さま。
この世だけの友達では、寂しゅうございます。
未来永劫の友達が、何人おられるか、
親鸞、心にかかります。
お許しいただければ、この親鸞、皆さんの信心を
一度お尋ねしとうございます。
いかがなものでございましょうか」
「親鸞、そなたもそのことを案じ煩っていたのか。
この法然も常に心にかかっていたことだ。
しかし信心は心の問題だからなあ。
どのようにして確かめようとするのか」
「私に一つの名案がございます。
私に任せていただけましょうか」
「けっこうなことだ。それこそ、まことの友情というもの。
そなたの思うとおりやってみるがよかろう」
こうして師の許しを得られた親鸞聖人は、早速、
信の座と行の座を設定し、法友380余人を集めて、
厳かにおっしゃいました。
「本日は御師・法然上人の認可を頂き、
皆さんにぜひお尋ねしたいことがございます。
ごらんのとおり今ここに、行不退の座敷と信不退の座敷と、
2つの座敷に分けました。
いずれなりと、皆さんの信念に従って
お入りいただきたいのです」

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ここで「行」とは念仏のこと、
「信」とは信心のことですから、分かりやすく言えば、
「弥陀の本願は、念仏称えれば助けるという
お約束だと思っている人は行の座へ、
信心一つで救う誓いだと心得ている人は
信の座へ入ってください」
という問いかけです。

親鸞聖人の投じられた問題は、
法然門下380余人を驚かせ、戸惑わせるに十分でした。
果たして、決然と信の座に着いたのは、
信空、聖覚法印、熊谷蓮生房の3名のみ。
やがて、親鸞聖人も信不退の座に進まれ、
最後に380余名注視の中、法然上人も、
「それではこの法然も信の座に入れていただこう」
と、信の座に着かれています。

こうして、弥陀の本願は、
信心一つで救いたもうお約束であると、
聖人は争いまでして明らかになされたのでした。

蓮如上人のご教示も

これを受けて蓮如上人も、
「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
               (聖人一流の章)
と、信心一つで救われることを明示されています。
そして、念仏さえ称えておれば救われるという誤りを、
至るところで破られています。

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、
おおようなり。それは極楽に往生せず

           (御文章三帖)
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは大に覚束なきことなり

           (御文章三帖)
「念仏称えなさい。救われる」というのは、
断じて浄土真宗の教えではないのです。

念仏は、

「かくの如く決定しての上には、
寝ても覚めても命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり」
           (御文章五帖)
「その上の称名念仏は、如来わが往生を
定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり」
           (聖人一流の章)

とありますように、信心決定した人が、
阿弥陀如来の御恩徳に感泣し、
そのうれしさのあまり、お礼の心で称えるものが、
他力の念仏だと説かれています。

報謝で浄土へ詣りょうか

ここは大変間違えやすい所なので、
蓮如上人は替え歌まで作って、
その誤りを正しておられます。

巡教中の蓮如上人が、
茶店の娘の奇妙な子守歌を耳にされた。
「泣いて呉れるな
    泣かしはせぬぞ
 泣けば子守の身が立たぬ。
    昔々に武士は
      箒(ほうき)と刀を間違えて
 箒で敵が討たりょうか」
この風変わりな歌の訳を尋ねられると、
“ある侍が、親の敵を探して旅をしていたところ、
ちょうどこの茶店で、
目の前を馬に乗って行く敵を見つけた。
あまりに慌てた侍は、刀とほうきを間違えて、
ほうきを手につかんで、
「敵待てい」と追いかけた”と言う。

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興味深げに聞かれていた上人は、
幾度もうなずき、
替え歌を作り供の者に与えられたという。
堕ちて呉れるな
    堕としはせぬぞ
 堕とせばこの弥陀
    身が立たぬ。
 昔々の同行は
  信と報謝を間違えて
 報謝で浄土へ詣りょうか

このように親鸞聖人・蓮如上人のご教示で明らかなように、
信心一つが浄土へ生まれる正しい因であり、
称える念仏はお礼ですから、
「信心正因、称名報恩」
といわれ、これが浄土真宗の骨格であります。
つまり信心決定できたかどうかで、
往生の可否を決するのです。

皆々信心決定あれかしと、
そればかりを善知識方が念じ続けられるゆえんです。


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他力とはどんなことか!? [阿弥陀仏]

自然即時入必定(自然に即の時必定に入る)
         (親鸞聖人・正信偈)
「自然」と書いて、仏教では“じねん”と読みます。
「自然に」と聞くと、
日光に照らされて洗濯物がいつの間にか乾くように、
仏法を聞いているうちに、
いつとはなしに救われていくのだと思いがちですが、
そうではありません。

親鸞聖人が「自然」と言われたのは、
「願力自然」のことで、他力、
すなわち阿弥陀如来の本願力を表します。

誤解、「他力=他人まかせ」

親鸞聖人といえば他力本願、
と多くの人が真っ先に思い浮かべるほど、
広く知られている言葉ですが、
この「他力」こそ、最も誤解されている
仏語の一つではないでしょうか。

二、三例を挙げましょう。

平成14年、サッカー・ワールドカップが開催されましたが、
日本チームが負けた試合について東京都知事が、
「だれかが出て行くだろうという、
安易な他力本願の希望的な結果」
と語っていました。
「三日坊主から抜け出そう」「大樹の陰から抜け出そう」
などの言葉を並べ、「他力本願から抜け出そう」
で締めくくったのは、某光学機器メーカーの広告です。
昨年の大手新聞スポーツ欄には、
「他力他力タカ(ダイエー)M1」の見出し。
他のチームの負けによって優勝が決まる状況を、
「タカ」に「他力」を引っかけて書いたのでしょう。

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このように他力というと、
「他人まかせ」や「無気力」という意味だと思っています。

いわゆる、「他人のふんどしで相撲を取る」ことや、
「他人の提灯で明かりを求める」ことのように
誤解している人が少なくありません。

そして他力の教えを聞く人といえば、
現実から目をそらし、
何かに依存する弱々しい人間を想像します。

他力の本当の意味は

しかし、無気力退嬰的姿勢と、真の他力とはまるで異なります。
それどころか正反対であることは、
他力に生かされた親鸞聖人のご生涯を知れば明らかでしょう。
聖人の肉食妻帯は有名ですが、
「堕落坊主」、「仏教を破壊する悪魔」
と嵐のような非難を浴びながら、

「すべての人が、ありのままの姿で救われるのが、
真実の仏法であることを知らせる縁になれば、
どんな苦もいといはしない」
と微笑していかれました。

権力者の無法な弾圧で流刑にまで遭われながらも、
人類救済の一本道、「一向専念無量寿仏」を叫び続けられ、

剣をかざして押しかけてきた山伏弁円にも、
「私が弁円の立場にいたら、同じく殺しに行くに違いない。
殺すも殺されるも、恨むも恨まれるも、
ともに仏法をひろめる因縁になるのだ」
と、手に数珠一連で会われた偉大な信念。
宗教を否定する共産主義者までも、
「たくましき親鸞」と脱帽せずにおれない
力強いものだったではありませんか。
あの聖人の、厳しさと自信、何者をも恐れぬ勇気。
その源泉こそが、他力であったのです。

では他力とはどんなことでしょうか。

「『他力』と言うは如来の本願力なり」 (教行信証)

と親鸞聖人が明言なされているとおり、
阿弥陀如来の本願力のみをいうのです。

他力の語源は仏教なのですから、
仏教の意味に従わねばなりません。
他力の「他」は弥陀に限るのです。

誤解、「他力=他人の力や天地自然の力」

ところが今度は、他人の力や天地自然の働きを、
阿弥陀如来の力と同一視する人もあります。

いわゆる太陽の働きや、雨や風や空気、
その他自然の働きや、
自分以外の人間の力などすべてを弥陀のお力、
他力と心得ている人です。

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しかし考えてみてください。
もしそれら自然現象を他力としますと、
弥陀が時によって、干ばつで人間を苦しめたり、
地震によって私たちの生命を奪ったり、
台風で人命を脅かしたり、財産を失わせたりする、
のろうべき悪魔になることがあることになります。

また、「年金とは他力なり」と講演した僧侶までいるそうですが、
もしそうなら、年金制度が変更されて困る人があれば、
阿弥陀さまに苦しめられるということになりましょう。
それらは自然の力であり、
人間の力と言うべきものであって、
他力と思うのは大きな間違いです。

もちろん、仏教では「恩」というものを教え、
私たちは、有情(人間や動物など心あるもの)・
非情(水・石・木・太陽など心を持たぬもの)
のご恩に生かされているのだから、
それらに感謝することが大切だと教えられています。
食料や衣服、住居を造る人があってこそ生きられます。
日光や空気、水など、なくてはならぬものに違いありません。
しかしそれらを他力としてはならないのです。

他力、それは無明の闇を破る力

では弥陀の本願力とは、どんなお力なのでしょうか。
親鸞聖人は和讃に、
無明長夜の闇を破し、衆生の志願をみてたまう」力であると、
鮮明に教えられています。

無明長夜の闇とは、
私たちの苦悩の元凶である暗い心のことです。

皆、苦を嫌い幸せを求めながら、
なぜ苦界の人生に沈むのか。
根本原因は「無明の闇」であると、
仏教で教えられています。

何のために生まれてきたのか、生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
分からぬまま冥土の旅を続けている私たちが、
死に直面すると真っ暗な心が現れます。

かの自然主義文学の闘将・田山花袋氏は、
「独り往くのかと思うと淋しい」
と言い、夏目漱石氏は、
「今死んでは困る」
と訴えています。
名作『金色夜叉』の尾崎紅葉氏の、
死に臨んだ『断腸の記』には、
微塵の明かりも見当たりません。
無心論者を自負した正宗白鳥氏は臨終に、
「アーメン」と叫んで周囲の人を驚かせ、
熱心なクリスチャンだった国木田独歩氏は、
「祈らずとも助くる神なきや」
と泣いて死にました。
海外では、有名なドイツのゲーテも、
「光が欲しい、光が欲しい」
と臨終につぶやき、フランスの無心論者ヴォルテールは、
「奈落が見える、恐ろしい恐ろしい」
と一点を凝視して息絶えています。
苦より苦に入り、冥より冥に入る」
の仏説のとおり、現在の延長が未来。
暗い心のまま死ねば、
後生は間違いなく真っ暗な一大事です。

生きている現在ただいま、この無明の闇をぶち破り、
明るい日本晴れの大安心にするお力こそが、
弥陀の本願力(他力)なのです。

衆生の志願をみてたまう力

衆生の志願をみてたまう」
とは、食いたい飲みたい楽がしたいの、
私たちの欲望を満たすと言われているのではありません。

永遠に変わらぬ幸福にしてやりたいという、
弥陀の崇高な志願を衆生の上に満たす、
ということなのです。

ですから、弥陀の本願力に救い摂られたならば、
生死の苦界が光明の広海と転じ、
苦しみの人生が歓喜あふれる人生に
大転換させられるのです。

人間に生まれたのはこれ一つであったと、
人生の目的が完成し、矢でも鉄砲でものファイトがわいて、
たくましい人生が開けます。

他力とは、この弥陀の威神力不思議をいうのであり、
それを「自然(じねん)」といわれているのです。

弥陀の救いほど速いものはない

「即時」とは、一念のことです。
親鸞聖人が、
「『一念』とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕す」
                (教行信証)
とおっしゃっているように、
弥陀の本願力によって無明の闇が晴れわたり、
大安心大満足に救い摂られる、
何億分の一秒よりも短い時間を一念といわれます。

昔、ある寺でのこと。
「弥陀の救いは一念です。
アッという間もない。
何億分の一秒よりも短い時間で
救い摂ってくださるのです」
若い布教使の情熱あふれる説法のあと、
一人の同行が控え室に暴れ込んだ。
「さっきの話じゃが、ありゃ間違っとる。
そんなアッという間に助かるだなんて、
親鸞さまはどこに言われておるかね。
仏法聞いているうちに、
だんだん喜ぶ身に育てられていくのが信仰じゃ!
正信偈に書いてあるでないか。自然即時入必定。
しぜんに、いつとはなしに助かると」
布教使は、
「じゃあ、自然(じねん)がいつとはなしだったら、
即時はどうなりますか」
と静かに尋ねる。
お同行、初めて「即時」と書いてあるのに気がつく。
「いつとはなしに、即の時・・・。
うーん・・・。こりゃどういう意味じゃろう」
弱り果てて、頭をかき始めた。
「いつとはなしに一念で助かる。
まるで意味の通らぬ文章になりますよ。
そんな訳の分からぬ文章を、
親鸞聖人が書かれるはずがないでしょう」
「うーん・・・」
「これは世間で言われる、いつとはなしに、
自然にそうなったということではないのです」
仏教で自然とは、阿弥陀如来の本願力をいうのです。
だから正信偈の『自然即時入必定』とは、
阿弥陀如来のお力によって一念で救われるのだ、
ということなのですよ」
諄々と教えられ同行は、
「自然」の本当の意味を初めて知ったという。

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ここは間違いやすいところですから、
注意しなければなりません。

自然(じねん)・・・・弥陀の本願力
即時・・・・一念で

では、どんな身に救われるのか。
「必定に入る」と教えられていますが、
これは次回解説しましょう。


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まことなのは、弥陀の本願だけ! [親鸞聖人]

印度西天之論家(印度西天の論家)
中夏日域之高僧(中夏・日域の高僧)
顕大聖興出正意(大聖興世の正意を顕し)
明如来本誓応機(如来の本誓、機に応ずることを明かす)

これは親鸞聖人が、
“インド、中国、日本の正しい仏教の先生方のおかげで、
親鸞、お釈迦さまの教え、阿弥陀如来の本願を
聞かせていただけた”
とお喜びになっているお言葉です。

そして「親鸞、更に私なし」
と90年の生涯、弥陀の本願をそのまま伝えていかれたのが
親鸞聖人でありました。

驚くべき聖人の信仰告白

このように聞くと、こんな誤解をする人があるようです。
“お釈迦さまは遠い昔の方、
ましてや弥陀の本願と言われても、
私たちには信じ難い。
だから、信頼できる仏教の先生の言葉を信ずる。
これが信仰というものだ”

“親鸞さまも、お師匠さまの法然上人が、
「弥陀の本願に間違いはないぞ」と言われるから間違いない、
と信じておられたのだろう”
ところが親鸞聖人は、全く逆の、
驚くべき信仰を表白(ひょうはく)なされています。

有名な『歎異抄』第2章の、次のお言葉で聞いてみましょう。

「弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、
善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せ、
そらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、
また以て虚しかるべからず候か」

            (歎異抄二鈔)
弥陀の本願がまことだから、
それ一つ説かれた釈尊、善導、法然の教えに
間違いがあるはずがない。
これらの方の教えがまことならば、
そのまま伝える親鸞に、
どうしてウソ偽りがあると言えるのか

聖人帰京後、関東に起きた動乱

このお言葉は、どんな時に、
どんな人におっしゃったものでしょうか。
20年間、関東で布教活動された聖人は、
還暦過ぎて故郷の京都へ帰られました。
ところが、その後の関東では、
聖人の教えを聞く人たちの信仰を惑乱する、
種々の事件や問題が起きました。

その一つが日蓮の問題です。
日蓮は、後の日蓮宗を開いた人物ですが、
この男ほど仏法をそしった者はないでしょう。

念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)
と触れ回り、
「念仏称える者は無間地獄に堕ちるぞ、
禅宗の者たちは天魔じゃ、
真言宗のやつらは国を亡ぼすぞ、
律宗は国賊じゃ」
当時盛んであった仏教の宗派を、
片っ端から攻撃したのです。

仏教では、仏法をそしる謗法罪は、
大恩ある親を殺すよりも重罪であると教えられます。

真実の仏教をねじ曲げ、
そしることは、すべての人の救われる唯一の道を破壊し、
幾億兆の人々を地獄にたたき堕とすことになるからです。

もちろん、お釈迦さまの一切経のどこにも
「念仏無間」などという言葉は出てきません。
それどころか釈尊は、
臨終の父王に念仏を勧められています。
「念仏無間」は日蓮の造語にすぎません。


しかし“デタラメだ”と、
初めは相手にしていなかった関東の同行たちも、
日蓮があまりに熱狂的であったため、
「ウソも百ぺん言えばホントになる」で、
次第に信仰が動揺してきました。
“もし日蓮の言うことが本当なら大変だ”
“いやいや、念仏の教え、弥陀の本願しか助かる道はないと、
親鸞さまはいつも仰せだった。
親鸞さまに限って間違いない”
“そう信じてはいるが・・・”
“本当のところを、確かめたい”
“じかに聖人さまに、お尋ねするしかない”

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かくして関東の同朋たちは、
親鸞聖人一人を命として、京都へ向かったのです。

事は後生の一大事

当時、関東と京都の往復は60日かかったといいます。
道中、箱根の山や大井川など、
旅人の難所は幾つもありました。
盗賊や山賊もウロウロしている。
まさに命懸けの旅路であったに違いありません。

しかし、事は後生の一大事。
(お釈迦さまは、因果応報により人間は死んだら
無間地獄に必ず堕ちると教えられています。
それを解決するには弥陀の本願に救われるしかありません。
読んでいる皆さん、他人事ではないんですよ!)

長生きしたところで、死なぬ身になったのではありません。
必ず飛び込まねばならぬのが後生です。
吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
一息切れた後生、浮かぶか沈むかの一大事を解決し、
いつ死んでも極楽参り間違いなしの
大安心・大満足の身になることこそ、
“なぜ生きるか”の人生の目的であると、
親鸞聖人は教え続けていかれました。

この世、50年か70年、“どう生きるか”にさえ、
命をすり減らして、
朝から晩まで走り回っているではありませんか。

捨ててはおけぬ後生の一大事に、関東の同朋たちは、
弥陀の本願が本当に救われる道なのかどうか、
これ一つ聞きたいと、命懸けの旅を決行したのです。

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弥陀の本願がまことだから

それに対する聖人のお言葉は、
意外なものだったと言えましょう。

弥陀の本願がまことだから、
それ一つ説かれた釈尊、善導、
法然の教えに間違いがあるはずがない。
これらの方の教えがまことならば、
そのまま伝える親鸞に、
どうしてウソ偽りがあると言えるのか

これでは話が逆さまではないか、
とクビをひねる人もあるでしょう。
なぜかといえば、「弥陀の本願(念仏)に疑いが起きて、
言われるとおりに「本願」が“まことかどうか”
を確かめに来ている人たちに、
「弥陀の本願」は「まことなのだから」という大前提で
語られているからです。

この大胆な逆説的な断言は、何を意味し、
どのような体験からなされたものなのでしょうか。

まことなるかなや、歓喜の叫び

親鸞聖人は29歳の時、法然上人のお導きによって、
信心決定なされました。
信心決定とは、弥陀の本願に救い摂られたことをいいます。
弥陀の本願とは、
「後生の一大事を解決して、“極楽へ必ず往ける”
大安心・大満足の身にしてみせる」
という、本師本仏の阿弥陀如来のお誓いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある男が表を通りかかると、
道ばたの家で自分のうわさをする者がいる。
「あの男は怒りっぽくて、手が早くてね。
それが彼の欠点だよ」
「へえ、それは本当か」
男は、いきなり家に飛び込んで、
「何でオレが短気で手が早いもんか。
でたらめ言うな」
とみんなの頭をポカポカ殴りつけた。
なるほどうわさにたがわぬ男だと、
一同ハッキリしたといいます。

友人に貸した大金が返った時に、
“彼の誓約は本当だった”と、
それまでの疑いは晴れるように、
弥陀のお約束どおり、“必ず浄土へ往ける”
と大満足の身になられた聖人は、

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
             (教行信証)

と仰っています。
「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、
ともに弥陀の誓願のことですから、
このお言葉は、
まことだった!本当だった。
弥陀の本願にウソはなかった”
という、弥陀の本願に、
ツユチリほどの疑心もなくなった聖人の、
真情あふるる歓喜の叫びなのです。

さらに、こうも断言されています。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無きに、
ただ念仏のみぞまことにて在します(おわします)」

             (歎異抄)

いつ何が起きるか分からない火宅無常の世界に住む、
煩悩にまみれた人間のすべてのことは、
そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。
ただ念仏(弥陀の本願)のみがまことなのだ

聖人には、弥陀の本願のほかに、
まことはありませんでした。

「念仏のみぞ、まことにて在します」は、
「本願のみぞ、まことにて在します」
を言い換えられただけです。
弥陀の本願以外に、この世に確かなものは何もない、
鮮明不動の世界に出られた聖人には、
「弥陀の本願はまことだから・・・」と、
何のためらいもなく言えたのでしょう。

「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の信仰の原点であり、
大前提なのです。

●信前・信後で、大間違い

ところが、関東の同行にとっては、
最も間違いないのが親鸞聖人、
いちばん信じられないのが弥陀の本願。

まるっきり反対です。

弥陀に救われる前、信前は、
本願ではなく人を信じているのです。
だから、その人に間違いがあれば、
信心が全部崩れてしまいます。

関東の同行は、
“親鸞さまのおっしゃる弥陀の本願だから、間違いなかろう”
と信じているから、
「念仏無間じゃ!おまえらは親鸞にだまされているんだ」
と言われると、信仰が動揺したのです。

それに対して、弥陀に救い摂られたあと、
信後の心は、絶対に間違いない弥陀の本願の上に
立っていますから、崩れることがありません。

親鸞聖人は、
“法然上人が間違いないと言われる弥陀の本願だからまことだ”
と信じ教えられたのではありません。
法然上人のご教導を通して、
そのまま救う
という阿弥陀如来のじかの呼び声を聞き
「まことなるかな!弥陀の本願」
と、不倒の仏地に心を立てられたのです。

だから、かりに、お釈迦さまが実在の人でなかったとしても、
善導大師が間違い者だと立証されても、
法然上人はうそつきだと非難されても、
何がどのようになろうと、
弥陀の本願に対する疑心は、
兎の毛(うのけ)の先で突いたほども出ることがないのです。

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金剛の信心を獲得せよ

これを金剛の信心といわれます。
金剛石といえばダイヤモンド。
これ以上硬いものはありません。
硬いということは変わらないということ。
金剛心とは、何があっても微動だにしない心です。
迷った人間の言葉ぐらいでぐらつくような信心では、
臨終のあらしの前に吹き飛ぶのだぞ。

だが、日蓮を縁に、金剛の信心でなかったことが
知らされたのは喜ぶべきことだ。
ニセの信心を破り捨ててこそ、
真実の信心獲得まで進ませていただけるのだから、
そこまで求め抜きなさいよと、
親鸞聖人はご教示になっています。

聖人のお言葉に従い、
永遠不滅の「弥陀の本願まこと」に心を立て、
金剛不壊(こんごうふえ)の信心を
獲得させていただけるよう、
聞法精進させていただきましょう。


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