So-net無料ブログ作成

真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

阿弥陀仏とはどんな仏さま? [阿弥陀仏]

阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。

一般には阿弥陀仏、お釈迦さまと、呼び名こそ違っても、
仏さまといえば、皆、同じだと思っている人が多いようです。
仏教では、
「阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
              (御文章)
“阿弥陀仏は大宇宙のすべての仏方の先生、
指導者である”と教えられています。

後で詳説しますが、
お釈迦さまも「三世十方の諸仏」の一仏であり、
阿弥陀仏とは違う仏です。

この違いが分からねば、
仏教は決して分かりませんから、
まずよく知っていただきたいと思います。

EPSON182.jpg-2.jpg

たくさんの仏さまが大宇宙にまします

仏教では、大宇宙には地球のような世界が
無数にあると説かれています。

今日の天文学でも、生命を持ちうる惑星が
銀河系だけで億単位に上るというのが定説です。
宇宙全体で考えれば、どれほど膨大な数になるか
想像も及びませんね。
それをお釈迦さまは、「ガンジス河の砂の数」と表現され、
その宇宙観を2600年前に説いておられるのです。
地球にお釈迦さまが出られたように、
十方世界、大宇宙には、
数限りもない仏さまがおられます。

大日如来や薬師如来、
奈良の大仏として有名なビルシャナ仏、
お釈迦さまも、皆、「三世十方の諸仏」の一仏なのです。

EPSON183.jpg-1.jpg

阿弥陀仏は諸仏の先生

阿弥陀仏は諸仏の「本師本仏」といわれています。
「本師」も「本仏」も先生のことですから、
阿弥陀さまは諸仏の指導者であり、
諸仏方は、阿弥陀仏の弟子、生徒ということです。
私たちの地球に現れた唯一の仏、お釈迦さまは、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、生涯、先生である阿弥陀仏のことばかりを
説いておられます。

それを親鸞聖人は、
如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を
説かんがためなり
」  (正信偈)
とおっしゃっています。
弟子の使命は、師の御心を多くの人に
伝える以外にないからです。

EPSON183.jpg-2.jpg

阿弥陀仏は最尊第一の仏

では、なぜ阿弥陀仏を本師本仏と尊敬するのでしょう。
それは阿弥陀仏の能力がズバ抜けて素晴らしいからです。
お釈迦さまは、
無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)
とおっしゃって、
大宇宙で最も尊い仏が阿弥陀仏であり、
諸仏の力は足下にも及ばない。

だから「諸仏の王」ともいわれています。
その最尊第一阿弥陀仏が、私たち一人一人と、
崇高なお約束をなさっている。
それが阿弥陀仏の本願といわれるものです。
どのような内容か、次回で明らかにしましょう。

EPSON184.jpg-1.jpg

EPSON184.jpg-2.jpg


nice!(77)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

不平等な運命を、仏教ではどう教えられているのですか? [因果の道理]

(質問)不平等な運命を、仏教では
              どう教えられているのですか?

「人はみな平等だ」といわれますが、
とてもそうは思えません。
裕福な家に生まれ、
容姿端麗でスポーツも勉強もできる優秀な人と、
貧しい家庭に育ち才能もない自分とは、
明らかに差別があります。
努力してもどうにもならぬことがあるように思いますが、
これも運命とアキラメるしかないのでしょうか。
こういうことについて親鸞聖人は、
どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
人間は平等であることを福沢諭吉は喝破しました。
白人も黒人も有色人も、
富豪も大臣もホームレスも、
一皮はいだら同じ人間であることに、
なんら違いはありません。

けれども現実は、人間ほど、
不平等、差別の激しいものはありません。
生まれながらの賢愚美醜、強弱貧富などの差別や、
各人の身に起きる様々な事象など、
千差万別、億差兆別、実に複雑怪奇であることは
認めざるをえない事実です。

金持ちの家に生まれる者もあれば、
手から口へのその日暮らしの家に生まれる者もあります。
頭の良い人、悪い人、健康な者、病弱な者、
同じ学校を出ても大學の教授になる人、
会社の部長、家業を経営する人、職業を転々と変わる者、
事業に失敗して自殺する者、妻を亡くする人、
交通戦争の犠牲になる人など雑多です。

このようにすれば、間違いなく、
こうなるだろうと思ってやったことが、
とんでもない結果になって、
この後どうすればよいか、
途方に暮れることもしばしばあるでしょう。
いくら真面目に仕事をしているからといっても、
必ず成功するというものでもないし、
悪人だからといって、必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、
悪人の成功者も少なくありません。

●正直者はばかを見る?

中国の顔回(がんかい)は、
孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折(ようせつ)しました。
盗跖(とうせき)という大泥棒は、
悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死にました。

この2人の人生を対照して孔子は、
「ああ、天われを亡ぼせり、天われを亡ぼせり」
と嘆息しています。

EPSON002.jpg-1.jpg
このようなことは、
私たちの身辺にもいくらでもあって、
「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」
と、自暴自棄になる人やら、
「これはどうにもならない運命なのか」
と、アキラメ主義になる人もいます。
また、自分が不幸になると「あいつが悪い」から、
「社会が悪い」からと、
それらを怨む人も多いのです。

むろん、本人の注意や努力、環境や社会機構なども、
大いに私たちの運命に関係を持っています。
世の中の仕組みを変えることによって、
少なくすることもできるし、
無くすることのできる悲運もあるでしょう。

しかし、持って生まれた知能指数や性格など、
どうすることもできないものも多々あります。
なぜ、障害を持って生まれなければならなかったのか。
なぜ日本に生まれたのか。
なぜ昭和に生まれたのか。
なぜ、この親の子供として生まれなければならなかったのか、
なぜ、こんな子供を産まなければならなかったのかと、
悲運の原因を模索していますが、
結局は「分からない」とアキラメてしまいます。

三世を知るか否か

ここに仏教は、過去、現在、未来の三世の実在を説き、
それを貫く因縁果の大道理を示します。

私たちの現実は、限りなき時間と限りなき空間の上に成り立ち、
因縁果の道理に従って、過去、現在、未来と続くのですが、
現世だけしか知らない人間の目の届く範囲は
ごく限られています。
だから、現世だけの結果を見ただけでは、
原因のつかみようがないのです。

ただ、間違いないことは、
蒔かぬタネは絶対に生えぬということです。
結果があれば、必ず、
そうなる因と縁とがあってのことなのです。

頼山陽(らいさんよう)は、
釈迦と孔子と相撲をとって負かされている画を描いて、
仏教者の雲華院大含(うんげいんだいがん)に
「この絵に、賛をしてくれ」
と依頼した。
すると大含は、しばらく考えて、
孔子、三世を知らず、
釈迦顛倒(てんどう)して、これを笑う

と揮毫(きごう)したといいます。

人生を、今生だけにとらえて、
道徳倫理生活のみを強調する人も、
親鸞聖人の教えよりすれば、
無知蒙昧(むちもうまい)といわざるをえないでしょう。

EPSON001.jpg-1.jpg


nice!(82)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

三願転入とはどんなことか [Q&Aシリーズ]

私のブログに何度も来られている方は、
もうそろそろ、本師本仏の阿弥陀仏のお約束が、
本当にあるのではないか、と思われた方がいいですよ。
いつまでも作り話のように読んでいたら、
臨終は恐怖ですよ。
お釈迦さまは、“因果応報なるが故に、来世なきにあらず”
と言われ、死んでもなくならないとハッキリ教えています。
後生(死後)があるのですよ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。

十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。


因果の道理は宇宙の真理、
善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。

知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。


二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。


そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。

また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。
法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。


十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようそこ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。


無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。

その体験を三願転入というのです。


nice!(82)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

後生の一大事とは!? [Q&Aシリーズ]

(質問)後生の一大事とは、どんなことか

蓮如上人の『御文章』を拝読しますと、
後生の一大事といっても一つではないように
思われますが、
後生の一大事とは、どんなことなのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

EPSON038.jpg-1.jpg
(答え)
「後生の一大事」という意味から説明しましょう。
仏教では、来世を後生といいます。
誰しも、やがて死なねばなりませんが、
死ねば来世であり後生です。

死ねばどうなるか、“後生はどうなるか”は、
万人の大問題ですから、一大事といわれます。

その「後生の一大事」について、
阿弥陀仏の救いの前・後によって大きく分かれます。

往生浄土の一大事

弥陀に救われている人の「後生の一大事」は、
来世「弥陀の浄土に往き、仏に生まれる」という
一大事をいいます。

この後生の一大事が書かれている『御文章』のご文は、
次のようなものです。

他力の信心ということを詳しく知らずは、
今度の一大事の往生極楽は、
真に以てかなうべからずと、
経・釈ともに明らかに見えたり

         (『御文章』二帖)

今生で弥陀に救われねば、
来世に弥陀の浄土に生まれるという
一大事は成就できないが、
平生、弥陀に救われれば、
必ず、後生は極楽浄土に往生できると、
どの経典や経釈にも明らかに説かれている

EPSON039.jpg-0.jpg

信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
諸共(もろとも)に今度の一大事の往生を、
よくよく遂ぐべきものなり

          (『御文章』一帖)
平生に弥陀に救われて、皆にも、
弥陀の不可思議の救いを伝えて、
ともに極楽浄土へ往き、
仏に生まれる一大事を成し遂げねばならない

これらのご文は、
今生で弥陀に救われた人の後生(来世)の
一大事を言われたものです。

阿弥陀仏を深くたのめ

もう一つは、弥陀に救われていない人の
「後生の一大事」を
『御文章』のご文で挙げますと、
次のようなものです。

後生という事は、ながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定(けつじょう)すべし

               (『帖外御文』)

後生の一大事とは、
未来、永く地獄に堕ちて苦しむことだから、
急いで一大事の解決を心にかけて、
阿弥陀仏の救いに値わねば(あわねば)ならない

EPSON039.jpg-1.jpg

この「後生の一大事」について蓮如上人が、
切々と詳述されているのが有名な「白骨の章」といわれる
『御文章』です。

その最後に、こう慈誨(じかい)されています。
されば、人間のはかなき事は
老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」 (『御文章』五帖)


nice!(74)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

仏法を聞くって大事なの? [Q&Aシリーズ]

1.仏法は何のために聞くの?

仏法と聞くと葬式や法事を思い浮かべ、
死んでから用事のあるものと思っている人が
多いようですが、それは誤解です。
仏法の目的は「抜苦与楽」。
生きている今、私たちの苦しみを抜き、
幸せを与えることにほかなりません。
人生は、苦しみの花咲く木といわれます。
借金、離婚、病苦、肉親との別れ・・・、
一つの悩みを解決してやれやれと思う間もなく、
別の苦しみがやってくる。
それら苦しみの元を断ち切り、
人間に生まれた本当の喜び、
満足を与えてくださるのが仏法です。

では、そんな幸せにどうすればなれるのでしょうか。

EPSON142.jpg-1.jpg

2.正しい教えを聞くことが大切

本当の幸せになる道は、「聴聞よりほかにない」
と、お釈迦さまは説かれています。

聴聞とは「聞く」ことですが、
落語や漫才を聞くのではありません。
仏法を聞かせていただくことです。
親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。

昔は365日、朝昼晩と説法があった寺も少なくありません。
真宗の盛んな地域では、
「仏法聞けよ、仏法聞けよ」
と言われて育った人も多いでしょう。
もちろん、ただ聞けばよいのではありません。
正しい教えを正しく聞くことが大切です。

EPSON143.jpg-0.jpg

3.どんな気持ちで聞けばよいか

また仏法は、居眠り半分、
あめ玉なめなめ聞ける教えではありません。

親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとい、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、必ず不滅の幸せに輝くのだ

とおっしゃり、蓮如上人もまた、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは」
と、真剣な聞法を勧められています。

EPSON143.jpg-2.jpg

4.命懸けで聞き聞きすると・・・

ある人が有名な布教使を訪ね、
「ご面倒ですが、後生の一大事、
一言お聞かせください」と言うと、
大喝一声、
後生ほどの一大事、一言や二言で聞かせられようか。
自力の仏法者は、無量永劫、
修行しても解決できぬと泣いているのに、
一日や二日聞いて、助からぬという横着な心だから
信じられぬのじゃ。
変わったことを聞くのではない。
同じことを命懸けて聞き聞きすると、
聞こえてくださるのじゃ
」と答えたといいます。
このような聞法の大切さから、
弊社でも毎月、「聞法のつどい」を開催しています。

EPSON144.jpg-0.jpgEPSON144.jpg-1.jpg


nice!(93)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

あなたはなぜ仏教のすごさに気づいていないのか!? [仏教はどう評価されているのか]

あなたはなぜ気づかなかったのか
 世界中の人がほめたたえる東洋思想(仏教思想)のすごさに
日本人はなぜ気づいていないのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

気づかなかった理由①
「要するに葬式だと思っている」

今日の仏教は、葬式仏教となり、
本来の姿とかけ離れたものになっています。
あなたはそれが仏教と思ってはいませんでしたか?

葬式って仏教と関係ないの?

仏教と聞くと、多くの人は葬式・法事・先祖供養と
イメージします。
しかしそれは、実は江戸時代くらいから固まってきた
日本の風習で、仏教とは関係ありません。
ですから、「今のお寺に仏教はない」
と言われるほどです。

そればかりか、葬式などの迷信を徹底的に打ち破られたのが、
実は仏教を説いたお釈迦さまなのです。

お釈迦さまが葬式を否定

ある時釈迦に、一人の弟子が尋ねました。
「死人のまわりで有り難いお経をとなえると、
死者がうかばれるという人がありますうが、
本当でしょうか」
その時釈迦は、黙って小石を拾い、
近くの池の中に投げました。

EPSON043.jpg-0.jpg
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さして、
次のように言われました。
「そなた、この池の回りを、石よ浮かび上がれ、
石よ浮かび上がれ、と言いながら回ったら、
あの石が浮かんでくると思うか」
「お釈迦さま、そんなことで石が浮かぶはずがありません」
「そうだろう。石は石の重さで沈んで行ったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだ。
お経で死んだ人間が救われるはずがないではないか。」

このように、葬式やお経で死者が救われるという迷信は、
もともと仏教にはなかったのです。
「釈迦仏教は、もともとお葬式とは無関係です。

大乗仏教が中国に入ってきて、
やがてお葬式と付き合う宗派ができて、
そこから葬式仏教は始まったのです。」

           (村井幸三『お坊さんが困る仏教の話』)
お経というのは、実は、生きている人に対して、
あるすごいことを教えられたものです。

その秘められた内容こそすごいのです。
西洋の偉人たちも、次のようにたたえています。


SFの父、イギリスの作家、H・G・ウェルズ(1866~1946)は、
私は公平に、どの点から見ても、
世界で最大の偉人は、仏陀釈迦牟尼世尊である

ドイツのハイラー教授は
仏陀釈迦は、世界の最も偉大な宗教家であり、
世界の光である

このように絶賛されるお釈迦さまは、
一体何を教えられたのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


気づかなかった理由②
「占い等、何か神秘的なものだと思っている」

結婚式は、大安とか仏滅。
くじを引くと、吉とか凶。
何か神秘的で、非科学的なものと
ごっちゃにしてはいないでしょうか。


仏教は非科学的?

二番目に、仏教と聞くと、寺で現世利益を神や仏に
拝んだり祈ったり、あるいは祈祷をしている
非科学的なものではないかという印象があります。 
  

ところが、これも仏教とは関係なく、
むしろ仏教では、否定されています。

如来の法の中に吉日良辰をえらばず」(涅槃経)  

天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、
吉日日を視ることを得ざれ
」  (般舟三昧経)
天を拝んではいけません。
死んだ畜生や人間の霊を神とする「鬼神」を
まつってはいけません。
大安や仏滅などの日の善し悪しを見てはいけません。

占相を離れ、正見を修習し、
決定して深く罪福の因縁を信ずべし

          (華厳経)
占いをやめ、ものごとを正しく見て、
深く因果律を信じなさい。


このように、
「拝んだりまつったり、占ったりしてはいけませんよ。
『因果律』を信じて、頑張りなさい」
というのが、本来の仏教なのです。

ですから仏教は、拝んだらお金が儲かり、
成績があがるというような、宗教的なものを否定し、
因果律により、お金が欲しければ働きなさい、
成績を上げたければ、勉強しなさいと教えられているのです。

では『因果律』とは?

まずは、『すべての結果には、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、万に一つもない』
ということです。

EPSON044.jpg-1.jpg-1.jpg

これを『因果の道理』と言われますが、
因果の道理を根幹として説かれているのが仏教です。
一切法(万物)は因縁生なり。(大乗入楞伽経)
仏教は因縁を宗とす。 (維摩経)」

『因縁』って?

ところが、それだけではありません。
仏教では、直接的な原因の『因』だけではなく、
間接的な原因の『縁』を考え、因と縁がそろって初めて
結果が現れるということです。
因だけでは結果は現れないし、
縁だけでも結果は起きません。

これがすごいのです。
例えば米がとれるという結果が現れるには、
もみだねという因が必要です。
しかし、いくらモミだねを床の上や
北極にまいても米はとれません。
温度や水、空気など、色々な縁がそろって、
はじめて米がとれるのです。

EPSON044.jpg-2.jpg

因果の道理のすごさ

この因果の道理について、放射線防護学、
平和学などの立命館大学名誉教授、
安斎育郎(あんざいいくろう 1940~)氏は、
非常に科学的だと言っています。

仏教の大事な考え方に、“因縁因果の思想”がある。
“因”は直接原因、“縁”は周縁的・背景的・間接的条件
を意味する。 
だから、“因縁因果の思想”とは、
“物事は、直接的原因と間接的条件が重なって起こる”
という非常に科学的な考え方にほかならない。
原因もなく超常現象が起こることを容認する
“超能力志向”とは明らかに違う。
なんと合理的な考え方ではないか。

さらに、この『縁』まで考えることのすごさを、
東大教授で比較思想学会を設立したパイオニア
中村元(なかむらはじめ 1912~1999)によれば、
科学の因果律は、原因と結果のみですが、
仏教ではあらゆる縁も考える所から、
科学では偶然としか思えなかったことも、
すべて結果を生み出す縁として、
積極的に意味づけされると、説明しています。

文明開化が速やかにできたのは、
日本人が親しんでいた仏教のおかげとしています。
日本人は、釈尊の教えを通じて
このような総合的因果論に親しんでいたので、
明治以降、欧米の科学思想が入ってきたとき、
仏教と対立することなく科学思想を受け入れることができました。
近代ヨーロッパにおける科学とキリスト教との対立を考えると、
日本人はこの点で一歩進んでいたといえるでしょう。
これは仏教のおかげです
。」

そして、仏教は、科学と対立しないだけでなく、
さらに進んで、科学で幸せになれない理由も
明らかになっているのです。

せっかく日本におりながら、これを知らないとことは、
まるで宝の山に入って、手ぶらで帰ってくるようなものだ
とさえ言われています。 
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


気づかなかった理由③
「寺も神社も結局一緒だと思っている」

海外では、仏教は無神論なので、
宗教ではないと思われています。
神も仏も一緒と思っているのは、
多くの日本人の特徴です。
これは大変危険です。

あなたの宗教は?

海外で「あなたの宗教は何ですか?」
と聞かれたら、何と答えるでしょうか。

「無宗教」

と言ったら原始人かと思われてしまいますので、
「仏教」と答える人が多いのではないでしょうか。

日本では、12月25日はクリスマス、大晦日に除夜の鐘を聞き、
元旦には初詣に行く人が数多くあります。
たいていは日本の神も、キリスト教の神も、
仏教の仏も宇宙の真理を表しているのだろうから、
呼び名が違うだけで一緒だと
思っているからではないでしょうか。 

ところが、
「仏教はどんな教えですか?」
と聞かれて、ちゃんと説明をはじめると、
「それって本当に宗教?」
と思われてしまいます。

なぜ仏教は宗教でないと思われるの

その理由は色々ありますが、一番は、
仏教に「神」が出てこないからです。
キリスト教にはゴッド、イスラム教にはアラー、
ユダヤ教にはエホバ、というように、
名前や性格は違うのですが、世界宗教には、
「万物の創造主」であり「全知全能」であるような
神が必ず出てきます。        
一方、仏教には、そういう神は出てきません。
「仏」はさとりの名前であり、神とは違います。

西洋では、仏教は無神論だから
宗教ではないとさえ思われています。

洋書売場に行くと、「宗教」コーナーには
ほとんどキリスト教の本しかありません。
仏教の本は「東洋哲学」とか、
東洋思想の棚においてあるのです。

日本人に危機が迫っています。

ところが日本人は、宗教的に全く無知で、
このような仏と神の違いを知る人すらほとんどありません。
テレビでは、宗教は100パーセント
危ないものとして出てきます。

生化学者・日本生化学会頭、
水原舜爾(みずはらしゅんじ 1915~)
仏教は、往々にして、宗教という言葉から受ける、
神秘的・非科学的イメージとはかけ離れた、
非常に知性的な宗教です。
奇跡や、おかげ話とは、なんの関係もありません。

マスコミの宗教関係の報道には、
必ず、奇跡や、神秘や、おかげ話がつきまといますが、
やめてもらいたいものです。
“本物の宗教”にとって迷惑千万です。『科学時代の仏教』

と言っています。


小室直樹(こむろなおき 1932~)氏は、
宗教に関する無知は、大変危険だと指摘しています。
宗教がないからカルト教団は簡単に人を殺して
勝手に金を奪う。
こんなにたやすくカルト教団がはびこれる国は他にない

これなら違いがわかる。

では、宗教に何か違いはあるのでしょうか。
アインシュタインは、宗教に3段階あるとしています。
1つは、恐れの宗教。
日照りが続いたりするのは
森の神、山の神が怒っているから、
生け贄を捧げよう、というもので、
一番原始的です。
日本の八百万の神などがあたります。
ちなみに、神社の神は、死んだ人間や動物の霊が
そこに留まって生きている人間に
禍福を与えるとされるものです。

2つ目は倫理的宗教。
この世を支配する人間のような神がいるというもの。
キリスト教の神がこれにあたります。

3つ目はごくわずかにあるのが、宇宙的宗教。
これには神というのは一切出てきません。

アインシュタインは次のように言っています。
宇宙的宗教の要素がはるかに強くなっているのは、
仏教である。

このことを特に教えられたのは、
ショーペンハウエルのすばらしい著作においてであった。」

ところが、実は日本の文化、言葉、考え方など、
私たちが生まれる前から仏教の影響を受けています。

そう。あなたはもう、仏教的なのです。
(続きはまた載せます)

EPSON046.jpg-1.jpg   


nice!(78)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

西洋文明はお釈迦さまの手のひらの上をうろうろしているに過ぎない [仏教はどう評価されているのか]

西洋の文明の、物理学、哲学、心理学、経済学など、
どれほど進歩しても、2600年前にお釈迦さまの説かれた
仏説を証明するだけで、
今後進歩すればするほど、仏教に近づくだけであることが
書かれています。
孫悟空がキント雲で世界の果てを目指しても、
結局、お釈迦さまの手のひらの外へは
抜け出せないのです。
仏教は、お釈迦さまが仏智を体得し、
宇宙の真理を説かれたものです。
つまり、三世十方(いつでもどこでも)を貫く真理を
説かれたものということであり、
信じる信じないの一宗教的なものではないということなのです。
そのお釈迦さまは、我々の後生に一大事があると言われています。
一息切れれば、気の遠くなるほどの長期間、
苦しみのた打ち回る世界に堕ちると言われているのです。
因果応報なるが故に、来世なきにあらず。
と言われ、死んでもなくなることはないのです。
恐るべき後生があるのです。
このブログは皆さんに警鐘乱打するためのものです。
他のブログとは全く違うものなので、
読み飛ばさないことをお勧めします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

①東洋の世界観
世界はどうなっているのか~物理学~

「まさか物理学より広い世界観はないでしょ?」
とあなたは思っていませんか?
天才的な物理学者たちは、
驚くべきことを発見しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

●2000年前に物理学を先取り
20世紀の爆発的な科学の進歩によって、
ミクロの世界から大宇宙まで、
物理学は急速に自然のしくみを解き明かしました。
その現代物理学の柱が2本あります。

■相対論
まず一つ目は、時間と空間の関係を解明し、
現在はカーナビなどに使われている『相対論』です。
光に近い速度では、時間がゆっくり進み、
空間はゆがんでしまうという想像を絶する理論です。

たった一人で作りあげた天才、アインシュタインが、
何と、物理的な考えを究極に突き詰めていくと、

仏教に説かれる概念と、
酷似したものがあると言っているのです。

さらに、次のようにも言っています。
現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものが
あるとすれば、それは仏教です。

■量子論
もう一つは、ミクロの世界を解き明かし、
パソコンや携帯電話、半導体などに使われ、
現代生活になくてはならない『量子論』です。
その内容は、
「すべての物質は波であり、粒子である」という、
これまた想像を絶するものでした。

ところが、量子論をつくった代表的な3人、
ボーアと、ハイゼンベルク、シュレーディンガーも、
東洋思想を学んでいます。

量子論の父、ノーベル賞物理学者
ニールス・ボーア(1885~1962)
原始物理学論との類似性を認識するためには、
われわれは仏陀や老子といった思索家が
かつて直面した認識上の問題にたち帰り、
大いなる存在のドラマのなかで、
観客でもあり演技者でもある我々の位置を
調和あるものとするように努めねばならない。

波動方程式によって
ミクロの世界を
波として説明したシュレーディンガー(1887~1961)
は著書の中で、波動方程式が、
東洋の哲学の諸原理を記述していると語り、
次の言葉も有名です。
西洋哲学へは東洋思想の輸血を必要としている。


ミクロの世界を、粒子として説明した、
ドイツのノーベル賞物理学者
ハイゼンベルク(1901~1976)は、
日本のすごさの原因を次のように考えています。
過去数十年の間に、日本の物理学者たちが
物理学の発展に対して
大きな貢献をしてきたのは、
東洋の哲学的伝統と、「量子力学」が、
根本的に似ているからなのかもしれません。


その代表、中間子論により日本初のノーベル賞を受賞した
湯川秀樹(1907~1981)は仏教から多くを学んでいます。

素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、
仏教には多くを教えられた。

世界初の原爆を開発した責任者、
語学の天才オッペンハイマー(1904~1967)
は語学に堪能で、仏教も学んでいました。

「原子物理学の発見によって示された人間の理解力は
必ずしもこれまで知られていなかったわけではない。
また、べつだん新しいというわけでもない。
我々の文化にも先例があり、仏教やヒンズー教では
中心的な位置を占めていた。
原子物理学は、いにしえの智慧の正しさを例証し、
強調し、純化する。

「ブーツストラップ(靴ひも)理論」により、
素粒子「クオーク」を用いず、
最新の実験結果を説明した
カリフォルニア大学物理学科長
ジェフリー・チェ(1924~)
は、仏典の説く宇宙モデルと、
自分の理論が同じ概念であると知り、
愕然としたと言います。

1969年のことです。
当時、「東洋哲学」の勉強をしていた高校生の息子が、
大乗仏教について私に話してくれたときの驚き、
悔しさはいまでも鮮明です。
私は、仏教とはおそろしく非科学的な感じの概念と
思っていましたから、
私の理論との結びつきにひどく狼狽しました。
それから、ずいぶん時間はかかりましたが、
当初の狼狽や当惑は、
やがて、畏怖(いふ)の念に変わっていきました。


その他、微分積分学のライプニッツも
どうやら仏教を学んでおり、
一つの電子軌道に3つ以上の電子が入れない、
「パウリの排他律」で有名なパウリや、
コンピューターを開発した天才数学者ノイマンも、
量子物理学の究極の真理の中に、
数多く共通した仏教の哲学があることを
発見していました。


また、素粒子の世界だけではありません。
1980年代後半に生まれた『複雑系』の研究をし、
シュレーディンガーの主著の日本語訳でも知られる
中村量空(なかむらりょうくう 1948~2001)は、
私が仏教の縁起に関心をもったのは、
複雑な世界の実態を説く縁起(因縁果の道理)の世界観が、
現代の複雑なシステムの理解に強いインパクトを
与えるだろうと思ったからである。

人や物の結びつきを説くこの世界観に立てば、
何らかのパースペクティブ(見通し)が得られるにちがいない。
そこから現代科学の探究する複雑なシステムを見れば、
どんなイメージがわいてくるだろうか。
縁起のアイデアを現代科学に生かそうという試みは、
むしろ新鮮な刺激を
サイエンスに与えてくれるような気がする。」
と述べています。

物理学だけではありません。
もともと数学はインドが強く、
ゼロもインドで発見されたのですが、
数学者の中にも、『三平方の定理』の名付け親で、
当時の重鎮だった東大の
末綱恕一(すえつなじょいち 1898~1970)
は仏教を取り入れた数学論を展開しています。
科学技術の進歩をよく方向づけることのできるのは
仏教ばかりであろうと、
私は絶大な期待をかけている。
キリスト教にはいくつかのドグマ(宗教上の教義)があって、
到底今日の科学と相容れないところがありますが、
仏教は科学を包容することができるはずであります。

この貴重な仏教を、
我々が滅亡させてはならないのであります。


生化学者では、日本生化学会会頭
水原舜爾(みずはらしゅんじ 1915~)氏
仏教は、現代科学にちっとも矛盾しないばかりか、
これから科学が進みゆく究極のところを
先取りした感があります。

逆に、宗教学から科学を眺めると、
東大宗教学教授、
岸本英夫(きしもとひでお 1903~1964)は、
世界に数ある宗教の中でも、仏教ほど、
近代的な科学思想と手をたずさえて、
摩擦の少ないものはまれであろう。

と考えています。
では、これらの学者達は、
仏教の何を評価しているのでしょうか。
それこそ、この後2章で紹介する、
仏教の根幹であり、すべての仏典を一貫して流れる
『因果の道理』です。

●釈迦の手のひらでうろうろする孫悟空

最新の物理学でさえ、
2600年前のお釈迦さまに勝てないのか、
次のように言う専門家もあります。

現代の日本における最高の理論宇宙物理学者
池内了(いけうちさとる 1944~)氏は、
様々な発見をしてきた物理学だが、
物理学者は未だに仏の掌をうろうろしている
存在でしかないのである。

東大理学部学科卒のサイエンスライター
竹内薫(たけうちかおる 1960~)氏は、
最先端の宇宙論も、
キント雲で世界の果てをめざしても
お釈迦さまの手のひらからは外へは
抜け出せない孫悟空の物語と
同じように、仏教的な世界観に通じてしまうのだから
仕方がないかもしれない。

          『アタマにしみこむ現代物理』


・・・・・・・・・・・・・・
②東洋の人間観1
「私は誰?」本当の私。~心理学~

「さすがに心理学より深い人間観はないでしょ?」
と思っていませんか?
心理学こそ、仏教には遠く及びません。


●心理学をはるかに先取り
「人間と生まれて一生の間に、
どうしても出会わねばならぬ人が、一人いる。
それは自分自身だ」
と言われるように「自分探し」といえば、
どんな年代もいつか誰かが問題にしています。
今日、心理学関係の、神経科学、行動科学、
認知科学のような、色々な分野の考え方を総動員すると、
人は自分で思っているほど、自分の心を分かってはいない
という結論が出てきます。
「これが自分の心だ」と思っている心は、
「意識」と呼ばれるもので、
その下に、私を動かしている「無意識」とよばれる心が
発見されているのです。

ですが「無意識」は、名前の通り、
意識できない心ですから、
西洋で学問的に論じられるようになったのは、
フロイトが1900年に『夢判断』を出版してからです。  
ところが仏教では、心を八つに分け、
意識や無意識といわれるもののもっと奥にある
「阿頼耶識(あらやしき)」が本心だとされています。 
 


東大の比較思想学の権威
中村元(なかむらはじめ 1912~1999)も、
次のように言っています。
心理学者のユング(1875~1961)が到達した認識は、
実は仏教やインド哲学では既に2000年以上前から
説かれていたものであったということが
よく知られています。

実際、深層心理学という新たな学問体系を開いたユング自身、
著書に中国仏教について次のように記述しています。
私の患者には、一人の中国人もいなかったのですが、
彼らの心的発展を研究して得たものは、
何千年来東洋の最もすぐれた精神の持ち主たちが苦労して
切り開いた教えと実によく対応していました。

『戦争と平和』で有名なロシアの文豪
トルストイ(1828~1910)は、
仏説譬喩経の『人間の実相』の物語を知り、
あまりに自分の心をズバリ言い当てていることに、
次のようにショックを受けています。
「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた。
これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。
単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ。」

また、今日の脅迫性障害治療の世界的権威、
ジェフリー・M・シュウォーツの
『心が脳を変える脳科学と心の力』
によれば、今日の脳科学によっても、人の心は、
この世の物質(脳の化学反応など)によって
決定されるのではないことが明らかになるつつあり、
「仏教哲学では、人の選択は物理的世界の
何ものによっても決定されない。これが真理だ。」

2000年以上も前に、
心が世界を生み出すと教えた仏教が
強いインパクトを与えています。

日本の心理学の第一人者、
河合隼雄(かわいはやお 1928~2007)
も次のように言います。
仏教はふつういうところの宗教ではない。
それは言ってみれば、『知恵』なのである。

そういうことは、これまでもよく言われてきた。

③東洋の人間観2
えっ?人工知能にまで?ロボット工学

物理学と心理学の両方に関連し、
人工知能やロボット工学でも、仏典の、
深く精緻な心理分析が活躍しています。

●ロボット工学でも息をのむ活躍
ロボット工学に近づく程、
人の心を論理的に学ぶ必要に迫られてきました。
その際、なんと仏典を研究している学者は
一人や二人ではありません。

ロボットコンテストの開催を最初に提唱した
東京工業大学名誉教授 
森政弘(もりまさひろ 1927~)氏は
次のように驚いています。
唯識仏教では八識(八つの心)に基づいて
心理の詳細巧妙な解析を展開しており、
その精緻さには驚くべきものがある。


人工知能の開発者、「人工知能の父」と言われる、
マサチューセッツ工科大学教授
マービン・ミンスキー(1927~)は
人工知能の開発には、当然、
人間の心の構造の研究が大切になる。
ところが、現在の心理学は、十分に教えていない。
そこで、心を専門とする宗教の中に、
人間の心の構造を解明した宗教はないかと調べてみた。
結果、キリスト教やマホメット教も、
ほとんど心のしくみを教えていない。
ところが、仏典には詳しく説かれていた。
釈尊は実に優れた心理学者だ。
コンピューター開発に、仏典が比類なきテキストになる


ソニーでロボット犬アイボや
二足歩行ロボットキュリオをつくった
土井利忠(どいとしただ 1942~)氏は、
次のように述べています。
従来は、宗教と科学というと、
両極端にあり、対立するもの、
そして相容れないものと考えられてきた。
たしかに、「ニュートン力学」のレベルの科学は、
宗教とは相容れない。
そして、一般の人が心の中に持っている
「科学」という概念は、
実はほとんどの場合
「ニュートン力学」のレベルにとどまっている。
だから、宗教と科学が対立して見えるのだ。
20世紀に入ってから、科学は大きな変容を遂げた。
アインシュタインの「一般相対性理論」や、
素粒子の物理学である「量子力学」など、
従来の「ニュートン力学」の概念を
大幅に塗り替える理論が確立したからだ。
とくに「量子力学」は、少し深く読むと
宗教的な概念と決して矛盾しないような
解釈が可能になってくる

慶応義塾大学理工学部工学科 
ロボティックスの前野隆史(まえのたかし 1962~)氏は
文明全般の流れについて
次のように実感しています。
実存主義は近代哲学よりも釈迦に少し近づいた。
もともと私は科学技術に携わってきたので、
考え方の基本は西洋流の論理であった。
しかし、心や意識について考えれば考えるほど
東洋流のやり方を取り入れることの重要性を
痛感せざるを得なかった。

歴史は、東洋の時代から、西洋の時代へ、
そして地球を一周して東洋の時代へという、
大きな流れだと実感するようになった。


④東洋の哲理
哲学者はどう思っているの?~哲学~

「仏教より西洋哲学の方がすぐれている」
と思っていませんか?
特に西洋の有名な哲学者たちに聞いてみましょう。

●ハイデッガーも絶句
西洋哲学で、存在と時間は切り離せないと
考えられるようになったのは、
20世紀最大の哲学者の一人、
ハイデッガー(1889~1976)の頃からです。

でも、仏教では常識。
ハイデッガーは、仏教書『正法眼蔵』で
一番有名な「有時(うじ)の巻」を知り、
驚いてしばらく絶句したと伝えられています。

なぜかというと、「有時」とは、「有(存在)は時なり」
ということだからです。

一方、ハイデッガーの主著の題名は、
今は『存在と時間』と訳されますが、
『有と時』ということです。
仏教の存在論、時間論は、
西洋哲学を2000年先取りしていたのです。

●驚異の言語学も東洋では常識

ソシュール(1857~1913)は言語学を研究し、
言葉と物事の結びつきについて解明し、
当時の西洋人に、大きな衝撃を与え、
考え方の大転換を引き起こしました。
ただ、その内容は仏教では2000年前から常識でした。

実存主義の代表者の一人、
カール・ヤスパース(1883~1969)は、
著書、大哲学者たちに仏陀とナーガルジャナを取り扱い、
次のように述べています。
「仏教の賢者は、もはや水に湿ることのない鴨のように、
世間をつらぬいて進み行く」


仏教の哲理「空」については、
社会学者であり、評論家の小室直樹(こむろなおき 1932~)
氏は、次のように言っています。
仏教の『空』は、人類が到達した
最深、最高の哲理であろう


このように、多くの人たちがほめたたえる東洋思想を、
ぜひ一度、学んでみて欲しいと、
西洋の哲学者たちからも次のようにオススメです。

仏教を人生哲学の基礎の一つにすえ、
近代の西洋に仏教を紹介した
アルツール・ショーペンハウエル(1978~1860)
はこう言い、
私は他のすべてのものより
仏教に優位を認めずにはいられない。

私は一介の案内者にすぎない。
人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教を
ひもといて見つけてほしい。」


世界一やさしい哲学書・ベストセラー『ソフィーの世界』
をあらわしたノルウェーの
ヨースタイン・ゴルデル(1952~)氏も、
日本人に対して、次のように述べています。
「大切なのは疑問を持つことです。
『ソフィーの世界』は読者がそれぞれ大切なものを
見つけるための本です。
いわば哲学の入り口にすぎません。
しかし、この本には、西洋哲学のことしか書いてありません。
日本の若い人たちには
仏教や東洋の哲学を学んでほしいと思います


⑤すぐれた実践
いくら何でもお金は儲からないでしょ。~経営~

仏教といえば、お金に淡白で、貧しくとも清らかなイメージを
持ってはいませんか。
それでは、お金持ちの皆さんに聞いてみましょう。


仏教は、高度な哲学を含んでいますが、
日常生活と離れない、とても実践的な教えなので、
普段の人間関係でも、
すぐれたコミュニケーション能力を発揮します。

例えばビジネス書なら、スティーブン・コヴィー氏の
『七つの習慣』は、
全世界史上最高の大ベストセラーとなりました。
そのキモである第六の習慣『相乗効果を発揮する』は、
人と人との団結によって、
人々に内在する大きな力を
奇跡的に引き出すことだそうですが、
これは、他のすべての習慣の目的であり、
人生において最も崇高な活動と評価しています。
ところがコヴィーは、
『これを仏教では中道と呼ぶ』と言い、
実は他の習慣にも、
東洋的アプローチがとられています。

特に第四から第六の習慣は、
仏教では、相手を幸せにするままが
自分が幸せになる「自利利他」ということです。

EPSON042.jpg-1.jpg

だから相手の立場に立つこと『自利利他』を心がけて、
巨万の富を築いている人が沢山あります。

有名な高島屋は、『自利利他』を心がけています。
「高島屋が発展した鍵「自利利他」は、
昔から変わらぬ当店の家風であります。」
                (高島屋二代目)
 


京セラの創始者、稲盛和夫(いなもりかずお 1932~)
氏などは、次のように言っています。
私は、いつも簡単な仏教の本をもって歩き、
飛行機のなかであろうと、どこであろうと、
閑があれば読んでいます。
そのくらい繰り返しよんでいても、
すぐに忘れてしまい、なかなか実行できません。
それでも、そうでなければならないと思い続けること、
毎日心がけることが大切だと私は思っています。
(六度万行)普通の人間が生きるための知恵として、
ぜひ取り入れるべきだと私は信じます。

六度万行とは、
布施(ふせ)・・・・・・・・・親切
持戒(じかい)・・・・・・・・言行一致
忍辱(にんにく)・・・・・・・忍耐
精進(しょうじん)・・・・・・努力
禅定(ぜんじょう)・・・・・・反省
智慧(ちえ)・・・・・・・・・修養

また、100年ほど前の自己啓発の古典、
ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」に、
仏教は明らかに影響を与えていると言われていますが、
アメリカでは800万部の大ベストセラーになった
「小さいことにくよくよするな」
を書いた臨床セラピスト・心理学者の
リチャード・カールソン(1961~2006)
も、仏教を学び、取り入れています。
仏教の教えでは、苦難は人の成長と
心の平和に欠かせない要素だとみなされている


また米国PR会社日本法人社長
田中慎一(たなかしんいち 1955~)氏は、
コミュニケーションについて、次のように語っています。
「欧米人の頭の中には、
そういった禅とか仏教的な思想は入ってないから、
もっと科学的に考えてしまうんですね。
どちらかというと。
相手と一緒になれるわけがないじゃないかと。
あとは無限大の発想でいわゆる無限に近づいていくと
説明するのがギリギリのところでしょうね。
でも、東洋的にはよくあるでしょう。
禅の修業であの山と一体になれとか。
『ラストサムライ』なんかが向こうで流行るのも、
そういった東洋思想的な不可思議さに
ひかれ始めている証拠なんでしょう。
コミュニケーションというのは、
相手の立場に立てればこれほど強いものはないんです。
この辺は圧倒的に東洋思想のほうが強いですね。
案外、コミュニケーションの分野では
日本が世界をリードしていっても
おかしくないと実は思っているんですよ。」

●仏教経済や「共生」
このように個人的な成功哲学はもちろん、
社会全体としても、
たとえばイギリスの有名な経済学者
シューマッハ(1911~1977)は、
世界的ベストセラー『スモール イズ ビューディフル』で、
再生不可能な資源に立脚するのは愚かであり、
再生可能な資源によって小さな範囲で自己循環する
『仏教経済』を提唱しています。
「正しい経済成長の道は、唯物主義者の無頓着と
伝統主義者の沈滞の間の中道、
つまり八正道の『正しい生活』を見出すこと。」


六本木プリンスホテル(東京)、パシフィック・タワー(パリ)、
ゴッホ美術館 新館(オランダ)
クアラルンプール新国際空港(マレーシア)
などを作った世界的建築家の黒川紀章
(くろかわきしょう 1934~2007)
は、仏教を元に『共生』という言葉を作りました。
私が1960年につくった新しい概念である
“共生の思想”の原点には、
大学で学んだ「唯識思想」があります。
仏教思想として4世紀にまとめられたもので、
「二元論」と違って、善と悪を超え、
すべてを一つのものとして扱うことが感動的でした。

明治以降の日本は合理的精神に基づく二元論、
つまり精神と肉体、理性と感性、都市と自然、
科学と芸術、個と全体と対比させる考え方のもとに
発展してきました。
確かに日本が近代化を進めるなかで、
科学技術や経済の発展には必要な思想でした。
ですが、私にはそれだけでいいのか
という思いがありました。
すなわち、対立、矛盾、あるいは
厳しい競争関係にある二者、
または複数の相手がそれでもなお、
相手を互いに必要とする関係がある。
それは単純な二元論ではなく東洋的な哲学です。
互いに相携えることで
新しい時代を切り開くことができると考えたのです。」

ではなぜ、あなたは、こんなにも身近に
そんなすごいものがあるのに気づかなかったのでしょう。
(つづきの第2章はまた次回載せます)


nice!(93)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

我々は死刑前夜のパーティで浮かれている。 [阿弥陀仏]

  (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。
読み飛ばさず、せめて大きい字だけでも、
一部だけでも読んで
少しでも理解してください。
お釈迦さまはものすごいことを教えられているのです。)
 

重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
                    (親鸞聖人・正信偈)

今回は、この一行について学びましょう。
これは、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
と読みます。
「重ねて誓う」とは、
「阿弥陀仏が、重ねて約束なされている」
ということです。

本師本仏の阿弥陀仏は、
「すべての人を
平生に必ず助ける
絶対の幸福に」
と、凄いお約束をなされています。

これを「阿弥陀仏の本願」といわれます。
「本願」とは「誓願」とも言われるように、
「約束」のこと。
『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願」と言われているのも、
この「阿弥陀仏の本願」のことです。

約束には、必ず相手がありますが、
阿弥陀仏の約束の相手は、「十方衆生」。
すべての人と、誓われているのです。
この中に入らない人は、一人もありません。

今、キリスト教を信じている人も、
イスラム教の人も、ユダヤ教の信奉者も、無宗教の人も。
アメリカ人、イギリス人、日本人、
中国人、アフリカ人も、すべて。
相手構わず、一切差別のない
「弥陀の本願」ですから、
『歎異抄』には、

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第一章)

と説かれています。
男も女も、老いも若きも、慈善家・殺人犯、
頭の善し悪しなどは、まったく関係ない。
阿弥陀仏は、古今東西の全人類と、
約束されているのです。
しかも、その内容が凄い。
「死んだらお助け」ではありません。
「現在ただ今」救い摂る。

どんな極悪人も、平生の一念に、
「絶対の幸福」に助け切る、
という、とてつもないことを誓われています。
こんな約束のできる方は、
大宇宙に無数の仏方ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏だけ
ですから、
親鸞聖人は「弥陀の本願」を「無上殊勝の願」とか
「希有の大弘誓」と、『正信偈』に絶賛されています。

生きるのは、変わらぬ幸せになるため

ここで、「必ず救う」と弥陀が誓われている、
「絶対の幸福」とは、どういうことでしょうか。
生きる目的は幸福だとパスカルも言います。
自殺するのも楽を願ってのことであり、
政治も経済も、科学、医学、すべての営みは、
幸せのほかにはありえません。
これに異論を唱える人はいないでしょう。

ドラマでも、事件が落着してようやく
娘の家庭に平穏が訪れた時、
親父さんが娘の両手を握って、
「いいか、○○子、この幸せ、離したらアカンで!!」
と語るシーンがありました。

人は皆、不幸や災難を厭い、
安心や満足を求め、手にした幸せは
いつまでも続いて欲しいと願って、
生きているのです。

EPSON007.jpg-1.jpg


ところが、私たちの追い求める喜びは、
変わり通しで、やがては苦しみや悲しみに変質し、
崩壊、無に帰することさえあります。
恋のトキメキや結婚の喜びは、どれだけ続くでしょう。

相手がいつ病や事故で倒れたり、
変心して破鏡の憂き目にあうかも知れません。

幸せは、指の間から砂がこぼれ落ちるように消えていく。
最愛の人との突如訪れる離別や死別。
生涯かけて築いた家もマッチ一本で灰になり、
昨日まで団欒の家族の家庭も、交通事故や災害で、
「まさか、こんなことになろうとは・・・」
天を仰いで茫然自失。

辛い涙の現実が溢れてはいないでしょうか。

中国四川省の大地震は、深刻な被害をもたらしました。
崩壊した校舎の瓦礫を前に、
見つからぬ我が子の名を呼び続け、
泣き叫ぶ母親の映像に、
誰もが胸ふさがる思いをしたでしょう。

岩手・宮城内陸の震災でも、
「何もかも無くなってしまいました」
と嘆く被災者が映し出されていましたが、
決して他人事ではありません。
瓢箪の川流れのように、
今日あって明日どうなるか知れぬ幸福は、
薄氷を踏む不安がつきまといます。

たとえしばらく続いても、死刑前夜のパーティーで、
総崩れの終末は、悲しいけれど避けられません。

まことに死せんときは、
予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ 

                    (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。
財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、
日頃、あて力にしている妻子や財宝も、
いざ死ぬときには何一つ頼りになるものはない。
一切の装飾ははぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、
一体、どこへゆくのだろうか

蓮如上人の警鐘乱打です。

風前の灯火のような幸せ求めて、
今日も人はあくせく苦しんでいる。
悲劇の滝壺に向かっているすべての人を、
阿弥陀仏はご覧になられて、
「なんとしても助けてやりたい。
絶対に崩れぬ大安心・大満足の身に、必ず救い摂ってみせる。
若し平生に、真っ暗闇の心を、
絶対の幸福に生まれ変わらせることができなければ、
この弥陀は仏のさとり(正覚)を捨てる」
(若不生者不取正覚)
と、「平生の救い」に命を懸けて誓われているのが、
「弥陀の本願」です
から、
親鸞聖人は「若不生者のちかい」とも讃嘆されているのです。

この誓いを果たすために、
阿弥陀仏が大変なご苦労をなされて完成されたのが、
「南無阿弥陀仏」という六字の名号です。

重ねて誓われたのは、疑心を晴らすため

阿弥陀仏は、こう誓われています。

「すべての人を絶対の幸福にする力のある
『南無阿弥陀仏』の名号を、必ず作ってみせる。
私の完成する名号の素晴らしさを、
大宇宙にただ一仏でも、
褒めない仏さまがもしあるならば、
私は仏のさとりを捨てる」

大宇宙のすべての仏(十方諸仏)が褒め称える「名号」とは、
十方諸仏が“助けることができない”と見捨てたすべての人を、
助ける力のある「名号」のこと。

釈迦も、大日如来も、薬師如来も、
ビルシャナ如来も作ることができない「名号」、
十方諸仏の誰も成就できない、
そんな「南無阿弥陀仏」を完成させてみせると、
弥陀は命を懸けて約束されているのです。

ところが、そう聞いても、迷いの深い私たちは
「本当だろうか、そんなことができるのだろうか」と疑う。
そこで阿弥陀仏は重ねて、
「必ず、名号を作ってみせる。間違いなく完成させるぞ」
と誓っておられる
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「重誓名声(みょうしょう)聞十方」
(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と)
と教えてくださっているのです。

「名声(みょうしょう)」とは、
「南無阿弥陀仏」の名号のこと。
「十方に聞えん」とは、
「その名号の素晴らしさを、大宇宙のすべての仏に、
褒め称えさせる」ということです。
それは、大宇宙のすべての人(十方衆生)に
名号の大功徳を聞かせ、受け取らせて、助けるため。
ですから、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
とは、
阿弥陀仏は、十方諸仏の褒め称える『南無阿弥陀仏』を、
必ず作ってみせる、
と命を懸けて約束されているのだ。
『絶対に間違いない、必ず完成させる。
そして苦しみ悩むすべての人に、その功徳の宝を与えて、
絶対の幸福に救ってみせる』と、
重ねて誓われているのだよ」
と仰っている、親鸞聖人のお言葉です。

名号は、すでに完成されている

では、阿弥陀仏は、約束されているとおりの「南無阿弥陀仏」を、
もう完成されているのでしょうか。
お釈迦さまは、こう証言されています。

十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の
威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう

            (大無量寿経)

大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほど沢山の仏方が、
異口同音に、阿弥陀仏の作られた『南無阿弥陀仏』に名号の、
想像できない大功徳を褒め称えておられるのだ」
このとおり、すでに阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」
を完成されていることが分かります。

お釈迦さまのお言葉ですから、間違いありません。
親鸞聖人は、弥陀が完成なされた、
私たちを一念で絶対の幸福に救い摂る、
この「六字の名号」の大功徳を、
「功徳の大宝界」とか「本願の大智海」とも
『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、
こう詳解されています。

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功徳のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

                (御文章)

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする
絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである

医者が薬を作ったのは、患者に与えるため

ところが、いくら素晴らしい「南無阿弥陀仏」が完成されていても、
私が受け取らねば、私は助かりません。

ちょうど、どんな病気でも治す力のある薬がすでに完成していても、
患者がそれを飲まなければ、病気は治らないのと同じです。

医者が薬を作るのは、それを患者に与えて、
患者の病気を助けるためだからです。
阿弥陀仏が、無上の宝である「南無阿弥陀仏」
を作られたのは、私たちに与えて、
「絶対の幸福」に救うためです。

では、どうすれば、私たちは「南無阿弥陀仏」の大功徳を、
阿弥陀仏から受け取らせていただけるのでしょうか。

それ一つを説かれたのが仏教であり、
仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人です。

『正信偈』には、その聖人九十年の教えが、
圧縮されています。
次号、解説を続けましょう。

EPSON008.jpg-1.jpg


 


nice!(69)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

南無阿弥陀仏って何だろう? [南無阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。
読み飛ばさず、せめて大きい字だけでも、一部だけでも読んで
少しでも理解してください。
お釈迦さまはものすごいことを教えられているのです。)

「南無阿弥陀仏」って何だろう?

Q1.念仏とは何ですか?

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

Q3.「南無阿弥陀仏」はどなたが、何のために、
   創られたのですか?

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか

Q5.どうすればいただけるのでしょうか

Q6.どのように聞けばよいのでしょうか?

親鸞聖人といえば
「念仏」(南無阿弥陀仏と称えること)を
連想する人が多いでしょう。
「お念仏の声を子や孫に」
「お念仏の喜び」などのフレーズが、
まるで浄土真宗であるかのように
語られているからです。
これでは誰もが
「念仏称えたら極楽へ往ける」と
誤解するのも、当然かもしれません。

では、そもそも念仏って、何なのでしょうか?
厄除け?それとも何かのマジナイ?
まずは次のページのアンケート結果をごらんください。

『とどろき』のメールマガジンを
購読されている皆さんを対象に、
「南無阿弥陀仏」とは何だと思いますか、と、
下記のような内容でアンケートを実施いたしました。

EPSON012.jpg-1.jpg

普段から何気なく称えておられる方も多いでしょうが、
一体どんなことなのか、まずは各自の思いをお聞きしました。

『とどろき』で出会うまでは、
何も考えずに称えていました。
父親の真似をして・・・。

自分の思いがかなえてもらえるように、とか、
自分に嫌なことが起こらないように祈る時、
称えていました。

「南無阿弥陀仏」とは、亡くなられた方への供養、
亡くなられた方への栄養と思っていました。
お仏壇にお参りするときは、「南無阿弥陀仏」と称え、
残っている家族の健康を願っていました。

称えれば災いから逃れられるのかなぁ、と、
気休めのまじないのように思っていました。

よく心霊番組で、悪魔ばらいにお経を称えている光景が
映し出されていましたので、
その影響を受けていました。
墓の近くを通った時や夜中に怖くなった時に、
「なむあみだぶつ」と称えていました。

救われたお礼と聞いて、
「救われている実感がないのになぜお礼するの?」
と思いましたが、言葉が先で、
実体は後からついてくるということなのかと、
今は思っています。

「あぁ、私もそう思ってた」と共感されたり、
あれっと思われたり、いろいろでしょうが、
では親鸞聖人は、「念仏」について
どのように教えておられるのでしょうか。
次ページから問答形式で学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q1.念仏とは何ですか?

「念仏」とは、「口で南無阿弥陀仏と称えること」です。
「口声(くしょう)の念仏」とも、
「称名念仏」ともいわれます。
先に述べたように、
「念仏さえ称えていれば、誰でも極楽へ往ける」
というのは大きな誤りで、

500年前の蓮如上人の時代にも
同じ誤解が蔓延していたのでしょう、
こう糾(ただ)されています。

まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束(おぼつか)なきことなり

             (御文章三帖)

このような『御文章』は枚挙にいとまがありません。
蓮如上人はここで、
「『南無阿弥陀仏』とは何のことか分からず、
ただ称えている」のを「何の分別もなく」と誡められ、
それでは助かりませんよ、
早く「南無阿弥陀仏のいわれ」
を知りなさいと勧められておられるのです。

EPSON004.jpg-1.jpg


そこで「南無阿弥陀仏」とはどんなことか。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示を頂きましょう。

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

「南無阿弥陀仏」とは何か、
蓮如上人は平易に明らかにされています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

       (御文章五帖)
南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、
我々を最高無上の幸せにする
限りなき広大な働きがあるのだ

「南無阿弥陀仏」を「六字の名号」と言われます。
この六字の中には、とてつもない働きがあることを
蓮如上人は、
「無上」「甚深」「広大なること極まりもなし」
と、表現を変え言葉を尽くして絶賛されているのです。

あまりにも凄すぎてピンとこない人もあるかもしれませんので、
具体的に比較して考えてみましょう。

日本には現在、個人金融資産は千四百兆円あります。
さて、かりにこれが全部自分の物になったら、どうでしょう。
まずはローン完済してスッキリ重荷を下ろしたい。
それから我慢していた海外旅行へ。
豪華客船で世界一周。
しかも高級スイートルームで。
それでもせいぜい数千万ですから、
さらに料亭通いでもしますか。
銀座で毎晩、100万円散財し、田園調布に豪邸、
軽井沢に別荘。
ヨーロッパ旅行に親族300人を連れて
何億円も“大人買い”する、
アラブの石油王をマネてみても、
まだまだ大丈夫。
考えてみると少し気が遠くなってきますが、
「南無阿弥陀仏」の真価は、
そんな金額に換えられるようなものじゃない、
と蓮如上人はここで仰っているのです。

EPSON006.jpg-1.jpg
「無上甚深の功徳」ですから、
世界中のお金も貴金属もダイヤも、
全部かき集めたよりも桁違いに凄い値が、
この六字の名号の中にあるのだ、ということですが、
そう聞いて、「なるほど、よく分かりました」
と素直にうなずけるでしょうか。

そんなバカな、たった6つの字に、何で?
と訝る(いぶかる)私たちの心を見透かされて蓮如上人は、

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずか六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう

とズバリ指摘されているのです。

だがそれは、猫に小判、豚に真珠、
あなたに「南無阿弥陀仏」の真値を知る知恵がないからだ、
実は「南無阿弥陀仏」の六字は、
大宇宙の万善万行の結晶なのだと、
讃嘆されているのです。

親鸞聖人は、朝晩拝読する『正信偈』に
「功徳の大宝海」と褒め称えておられます。
両聖人とも、釈迦が教えておられることを、
「その通りであった」と知らされてのことです。

お釈迦さまが仏の大雄弁をもって
「南無阿弥陀仏」の功徳一つを説かれたのが、
7000余巻の一切経ですが、
それでも晩年に、

若し広説(こうせつ)せば
百千万劫にも窮め尽くすこと能(あた)わじ
             (大無量寿経)

「『南無阿弥陀仏』の功徳は、
何億年かかって説いても説き尽くせない。
80年の生涯では、大海の一滴も説けなかった。

と仰っています。
不可称・不可説・不可思議の功徳と言われて当然でしょう。

Q3.そんな「南無阿弥陀仏」を、
どなたが、何のために、創られたのですか?

それほど功徳のある「南無阿弥陀仏」の名号を、
では一体どなたが、何のために、創られたのでしょうか。

それについて釈迦や親鸞聖人は、
阿弥陀仏という仏が、苦しみ悩む私たちに
与えて助けるために、創ってくだされたのだよ

と仰っています。
幸せ求めて生きているのに、
なれずにいる私たちを見捨てておけず、
立ち上がってくださったのが、
阿弥陀仏という仏さまなのです。

地震や津波がまた来ないか。
株は暴落しないか。
就職できるのか。
会社が倒産するのでは。
将来、年金はちゃんともらえるのだろうか。
未来が不安で皆苦しんでいます。

これらの大事は、放っておけぬと私たちは必死です。
しかし、最も大きなものが「死後、どうなるかハッキリしない」
不安ですから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
嫌じゃ嫌じゃといいながら、
墓場へ向かって、皆行進している。
一日生きたとは、一日死に近づいたこと。
意識しようとしまいと、それが真実なのです。

死は100パーセント確実な未来であり、
今晩かも知れぬ大事です。
災害や事故で、一瞬で命が失われていく。
生と死は、つねに隣り合わせ。
今生と後生は、一息一息触れ合っています。
その後生が暗い「無明の闇」が、
今の生を暗くしているのです。

阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそ
私たちの苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、必ず浄土へ往ける
大安心の身に救ってみせる」
と、命を懸けて誓約されています。
これが有名な「阿弥陀仏の本願」であり、
この誓願を実現するために、
阿弥陀仏が創られた大功徳の結晶が
「南無阿弥陀仏」なのです。

いわば、私たちが「無明の闇」という
恐ろしい心の病で苦しんでいるのを、
阿弥陀仏という医師が
「何とかして治してやりたい、必ず助ける」
と誓われた、その熱願から創られた妙薬といえましょう。

だから、この六字の名号には、
“すべての人を幸福に救い摂る、
広大無辺の力があるのだ”
と親鸞聖人は、こう道破されています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

阿弥陀仏の創られた名号(南無阿弥陀仏)には、
果てしなき過去から我々を苦しめてきた無明の闇を破り(破闇)、
どんな人をも永遠の幸福にする(満願)働きがある

EPSON007.jpg-0.jpg

本師本仏の阿弥陀仏が、
私一人を絶対の幸福に救うために、
五劫の思惟の末に本願を建てられ、
その願を果たすために兆載永劫のご修行をされた、
その大変なご苦労によって成就なされたのが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号であり、
これら経緯の一切を「名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」というのです。

そう聞いても、分析して価値を認めようとする
科学万能主義では、
荒唐無稽でしかないも知れませんが、
19世紀のイギリスの大化学者ファラデーは
学生たちにこう説いたといいます。

“母親の涙も、化学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、その涙の中には化学も分析し得ない
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ
”と。

EPSON007.jpg-1.jpg


名号はわずか「南無阿弥陀仏」の六字だけれども、
「すべての人を絶対の幸福にしてやろう」
という阿弥陀仏の大慈悲心(仏心)の顕現なのです。

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、
      どうなるのでしょうか。

弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを
「信心獲得」というと、
蓮如上人は説示されています。

信心獲得すというは、第十八願(阿弥陀仏の本願)
を心得るなり。

この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり 

           (御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。
聖人はこう仰せです。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

       (高僧和讃)
どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、
心も言葉も絶えた幸せが、
その人の身に満ち溢れるのである。

蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念に、
永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、
こう言われています。

この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す
我等衆生に回向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

          (御文章)
過去・現在・未来の三世を通して
苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、
弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を
頂いた一念でぶち破られて、同時に、
絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである

正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、
等正覚ともいわれます。

事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、
壊れない、裏切らない幸せですから、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

EPSON008.jpg-1.jpg

弥陀の救いは、信心一つ

「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」
とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」
と教えていかれました。

ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも
「唯信独達の法門」ともいわれます。

蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候

親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、
信心獲得ひとつであったのだ

と明言されています。

念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、
断じて親鸞聖人の教えでもなければ
浄土真宗でもないことが、
このご文一つでお分かりでしょう。

そこで初めの質問に戻りますが、
では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」
「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの
「念仏」は、救いたもうた弥陀への
感謝報恩(称名報恩)である
ことを、
聖人は『正信偈』に、

唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
他力の信心を獲た上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである

と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、心得べきなり

弥陀に救われてからの念仏は、
浄土往生が決定した大満足の心から、
その御恩に報いる念仏である

と明らかにされています。

この「信心正因、称名報恩」こそが、
親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。

ここまでの話をまとめましょう。

【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。

それは五劫という気の遠くなるような長期間、
熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、
聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、
広大なご恩徳に感泣さなれています。

【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願とは、
兆歳永劫の修行によって、
十劫の昔にすでにでき上がったものが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。

【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、
病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。

EPSON009.jpg-1.jpg


【念仏】
病気を治して頂いたら、治してくださった医師に
対して出るのがお礼の言葉です。
そのお礼が「称名念仏」です。

顔中に飯粒をつけていても、
食べなければ腹は膨れず、餓死してしまいます。
何万遍礼を言っても、薬をのまずしては、
病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、
その上の御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、
「信心」一つで決するから、

蓮如上人はこう仰っています。

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一つに限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)
親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。
浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、
知るか、否かで決するのである

仏教で「肝要」とは、“これ以上大事なものはない”
という極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一(ひとつ)」
「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を
四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿(うが)っての懇ろな教導に、
間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』
は浄土真宗ではない、
『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、
聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を
感ぜずにおれないではありませんか。

Q5.ではどうすれば、
その名号を頂けるのでしょうか。

お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に
我々に満入する」
と説かれています。
「聞く一つ」で頂けるように、
阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。

EPSON010.jpg-.jpg

Q6.どのように聞けば
      よいのでしょうか。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれても、
その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、
不滅の幸せに輝くのである

尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、
蓮如上人はこう細説されています。

りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん

といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

        (御一代記聞書)

EPSON011.jpg-1.jpg
至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』
と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、
聴聞に身も心も打ち込めば、
限りなく深い弥陀のお慈悲によって、
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である

これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、
信心獲得してお礼の念仏を称える身と
ならせていただくのです。
それこそが、親鸞聖人の最も喜ばれる
真の750回忌となりましょう。
(平成23年5月号のとどろきです)


nice!(63)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

源信僧都、母への臨終説法! [源信僧都]

(源信僧都)

10035625444_ba3949a81c.jpg


今回は、源信僧都について書かれた記事を
載せたいと思います。

「釈迦の説かれた一切経に
いかにすごい弥陀の誓願が説かれていても、
正しく伝えてくださる方がなかったならば親鸞、
弥陀に救い摂られることはなかったであろう。」

親鸞聖人はインド、中国、日本の七人の高僧のお名前を挙げて、
その広大なご恩に感謝しておれらます。
そのお一人が、日本の源信僧都です。

七高僧とは、
①龍樹菩薩(インド)
②天親菩薩(インド)
③曇鸞大使(中国)
④道綽禅師(中国)
⑤善導大師(中国)
⑥源信僧都(日本)
⑦法然上人(日本)

源信僧都の幼少期

源信僧都は、平安時代の中頃に、
大和国(現在の奈良県)に生まれられ、
幼名を千菊丸(せんぎくまる)といった。
千菊丸、七歳の時のことである。

10035740366_76d48eedd2_n.jpg


一人の旅の僧が、村に托鉢に訪れた。
昼になり、川原の土手に腰を下ろして、
弁当を食べ始めた。
いつの間にか、周囲の村の子供たちが集まり、
物欲しそうな眼差しで、僧を見つめている。
子供たちの格好はいかにも貧乏そうで、
ボロ着に荒縄の腰ひも、
髪の毛は汚れて乱れたまま
無造作にもとどりを結わえてある。
浅黒い顔に鼻汁を垂れている者もいる。
中に一人だけ、鼻筋の通った、
いかにも利発そうな子がいるのに気がついた。
千菊丸である。

やがて食事を終えた僧侶は、
川原で弁当箱を洗い始めた。
前日からの雨で、水が濁っている。
構わず洗っていると、
千菊丸が近づいて言った。
お坊さん、こんなに濁った水で洗ったら、汚いよ。
わずか六、七歳の子供に、
もっともらしく注意されて、
“何を生意気な”と内心思ったが、
あらわにするのも大人げない。

平静を装って、こう諭す。
坊や、浄穢不二(じょうえふに)ということを知ってるかい。
世の中には、きれいなものも、穢いものも、ないのじゃよ。
それをこれは浄い、これは穢いと差別しているのは、
人間の迷いじゃ。
仏の眼からご覧になれば、
きれいも穢いも、二つのことではない、浄穢不二なのだよ。

そう聞いて千菊丸、即座に反問した。
浄穢不二なら、なぜ弁当箱を洗うの?
当意即妙とはこのことだろう。

僧侶は二の句を継げず、あぜんとした。
“こざかしい小僧!”
わずか七つの子供に、
自分の持ち出した仏語を逆手にとられ、
何とも気持ちが治まらない。
一方、千菊丸は何事もなかったように、
すぐ川原に行っては、
他の子供たちと石投げをして遊んでいる。
“あんな子供に!”
何とか一矢報いてやらねば立ち去れぬ。

“よし、これだ!” と一策を思いついた僧は、
無邪気に戯れている千菊丸に近づいていった。
おい坊や、お前さんは大層利口そうだが、
十まで数えられるかい

うん、数えられるよ、お坊さん
それなら数えてごらん
いいよ、一つ、二つ、三つ、・・・九つ、十
僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
坊や、今おかしな数え方をしたな。
一つ、二つと皆、
つをつけていたのに、
どうして十のときだけ十つと言わんのじゃ

と底意地の悪い質問をした。

“どうじゃ、今度は答えられんじゃろ”
と内心ほくそえんだ次の瞬間、
そりゃ坊さん、五つの時に、
イツツとツを一つ余分に使ったから、
十のときに足りなくなったんだよ。

“なんと・・・・、”
またしても完敗である。
あまりにも鮮やかな反撃に、
もはや憎らしいの思いは失せていた。

惜しい。こんな優れた子を田舎に置いておくのは。
出家させたらどれほどの人物になるかも知れぬ。”

とすっかり千菊丸の才気に惚れ込んでしまった僧侶は、
「そなたは大層賢いのぉ。
ご両親にお会いして、ぜひとも頼みたいことがある。
案内してもらえんか。」

すでに千菊丸には父はいないということなので、
村はずれのあばら屋に母親を訪ね、懇願した。
私は比叡山で天台宗の修業をするもの。
今日たまたま会ったお子さんの、
あまりに利発なことに驚きました。
失礼ながら、これほどの才能を田舎に埋もれさせてしまうのは、
いかにも惜しくてなりません。
どうか私に預けてくだされませんか。
出家の身となられれば、
さぞや立派な僧侶となられることでしょう。」

結果、千菊丸は、
その僧侶の師・良源の弟子になる決心をして、
九歳の時に、比叡山に入った。

以来、閑静な仏教の聖地・叡山にて、
千菊丸、後の源信は、
一心不乱に天台教学の研鑽に励まれるのである。

叡山時代

元来、才知卓抜な源信が、
よき環境に包まれて学問修業を
続けられたのだから、
その上達ぶりは目覚ましたかった。
全国から俊秀が結集した叡山においても、
なお頭角を現し、
十五歳のころには
叡山三千坊に傑出した僧侶として、
源信の名を知らぬ者はないほどになった。

そのころ、時の村上天皇から叡山に勅使が下り、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、講釈を聞きたい」
という天皇の意志を伝えてきた。
当時の仏教界は、
国家権力の手厚い保護のもとに発展を
約束されていたから、
天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の動向に
連なっていた。

ために、
派遣すべき僧侶の人選は慎重を極めたが、
一山の首脳の衆議の結果、
白羽の矢が立ったのが、源信であった。

源信は光栄に感激しつつ、
全山の期待を担って村上天皇のもとに赴いた。
そして群臣百官の居並ぶ前で堂々と、
『称讃浄土経』(阿弥陀経の異訳本)を講説したのである。


10035749513_225c7b0975.jpg


年若い源信の、豊かな才覚と巧みな弁舌に
感嘆した村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたはいくつか」
と尋ねたが、十五と聞いてさらに驚嘆した。

美として、七重の御衣や金銀装飾の香炉箱など、
多くの物を与えられ、
さらに「僧都」という高位の称号を受けられたのである。

使命を全うして帰山する源信に、
叡山は惜しみない賛辞を送った。
一躍僧都となり、
天下に名声を博した源信の喜びと得意は、
察するに余りあろう。
母を思う源信は、自身の出世をどんなにか
喜んでくださるに違いないと、
早速、事の始終を手紙にしたため、
褒美の品々とともに郷里へ送った。

ところが、である。
しばらくしてから荷物が、
封も切られないまま突き返されてきた。
しかも、添えられた母の歌は、
実に意外だった。

後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
             世渡る僧と なるぞ悲しき

源信は、母の心が瞬時に分かった。
「お前を仏門に入らせたのは、苦悩の人々に、
後生救われる道を伝える僧侶になってもらいたい。
それ一つのためでした。
ところが今のお前はどうでしょう。
名利を求め、処世の道具に仏法を使うとは、
何と浅ましい坊主に成り果ててしまったことか。
天皇とて仏の眼からご覧になれば、
迷いの衆生。
そんな者に褒められて有頂天になっているとは、
情けない限りです。
なぜに仏に褒められる身にこそ、
なろうとしないのですか。」
浮かれる心を見透かされた母君の、
恐ろしいまでの叱責に、
迷夢から覚める思いであった。

道を踏み外したわが子を悲しまれる
鉄骨の慈愛に、
翻然として己の非を悟った源信は、
たちどころに褒美の品々を焼却し、
僧都の位をも返上したのである。
名利を求める心を固く戒めて、
決意新たに後生の一大事、解決を求めた。

いつの世も、子供の社会的な成功を願い、
実現して家や車をプレゼントされようものなら、
泣いて喜ぶ親が多いのではなかろうか。
出世を誇るわが子を、
心を鬼にして叱りつけた母。
その母心に敏感に猛省した源信。
いずれにも驚かずにはいられない。

「この母にして、この子あり」とは、
これを言うのだろう。

弥陀の誓願のみ

死に物狂いで魂の解決に向かった源信が、
峻烈な修業を重ねるほどに思い知らされてくることは、
その厳しさに自惚れる恐ろしい心、
煮ても焼いても食えぬ、
お粗末な自己の本性だった。

身につけた天台の教学は、
良源門下三千人の中でも他の追随を許さず、
主な聖教は暗誦するほどであったが、
学問を極めるほど、
その深さをひそかに誇るという有り様。
捨てたはずの名利の心は、
少しもやむことはなかった。
無常迅速のわが身、悪業煩悩の自己、
理においては充分すぎるほど分かっていながら、
本心においては少しも後生の一大事に驚く心がない。
愚かというか、アホというか、
迫り来る一大事を前にしてなお、
仏法を聞こうという心を持ち合わせていない。
その悪を懺悔する心もない。
こうなればただの悪人ではなくて、
極重の悪人というべきか。
道心堅固な聖者には進みえても、
私のような頑魯(がんろ)の者には
とても後生の解決は達せられない。

※頑魯・・・頑固で愚かな者

どうすればいいのか。
ついに源信僧都は、
叡山北方の森厳たる谷間の地、
横川の草庵にこもって、
極重悪人の救われる道を、
求めるようになったのである。

横川の草庵においても、
源信の煩悶の日々は続いた。
来る日も来る日も、
寝食忘れて経典やお聖教をひもとき、
一大事の解決を求めた。
(後生の一大事とは、死後必ず地獄に堕つること
読んでいる皆さん、あなたの後生も地獄だとお釈迦さまは
教えているんですよ

やがて歳月は容赦なく流れ、
四十歳を過ぎたころ、

たまたま目にした中国の善導大師の著書に、
深い感銘を受ける。
大師のご指南に従って、
阿弥陀仏の本願こそが、
万人の救われる唯一の道であることを知らされ
ついに、弥陀の誓願不思議に救い摂られたのである。


母への臨終説法

母にもこの真実を伝えたい。
すぐさま故郷の大和国(やまとのくに)を
目指して旅立った。
ところが、すでに母は年老いて病床の身となって、
明日をも知れぬ容体であった。

使いの者より母の病状を知り、
夜を日に継いで家路を急いだ。


10035716975_bc903187e5_n.jpg


ようやく三十年ぶりのわが家へ
たどりついた源信僧都は、
今まさに臨終を迎えようとしている母に、
精魂込めて説法する。
母上、どうかお聞きください。
後生救われる道は、
本師本仏の阿弥陀仏に一心に帰命するより
他はないのです。
後生暗い心をぶち破ってくださる仏は、
阿弥陀仏しかましまさぬのです。

やがて母君も、弥陀の本願を喜ぶ身となり、
浄土往生の本懐を遂げたといわれている。

源信僧都は、母の往生に万感極まり、
こう述懐されている。

我れ来らずんば、恐らくは此の如くならざらん。
嗚呼、我をして行を砥(みが)かしむる者は母なり。
母をして解脱を得しめし者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。これ宿契なり。

※宿契・・・遠い過去世からの不思議な因縁

母の野辺送りのあと僧都は、
横川の草庵に帰り、
母の往生を記念して一冊の書物を著された。
世に有名な『往生要集』である。

以後、源信僧都は、
『往生要集』とともに浄土仏教の先達として、
後世にも多大な影響を与え、
七十六歳にて生涯を閉じられたのである。


コメント(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び