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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

すべての命が“金メダル” [なぜ生きる]

9月にブラジル・リオデジャネイロで
開催されたパラリンピックでは、
多くのアスリートが自らのハンデをも力に変え、
熱戦を繰り広げました。
パラリンピックの金メダルを獲得できるのは、
ほんの一握りの選手だけですが、
お釈迦さまは、
「生まれ難い人間に生まれてきた、
そのすべての命に金メダルとは
比較にならぬ価値があるのだよ」
と仰せです。
どういうことでしょうか。
お聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「唯我独尊」
    全人類へのメッセージ

仏教を説かれたお釈迦さまは、
今から2600年前、インドで活躍なされました。
そのお釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされて
天上天下 唯我独尊
と宣言されたといわれています。
これはどんな意味なのでしょう。

まず「天上天下」とは、天の上にも、
天の下にも、この大宇宙広しといえども、
ということです。
次に「唯我独尊」。
これは一般に大変誤解されている言葉で、
「この世でいちばん偉くて尊いのは、
ただ私一人である」
とお釈迦さまが威張られているお言葉だと
思っている人が多いようです。
だから他人を見下げてうぬぼれている人を、
「あいつは、唯我独尊的なヤツだ」
などと言います。
しかし、お釈迦さまのような方が
そんな思い上がったことを仰るはずがありません。
「我」とは、お釈迦さまだけのことではなく、
私たちすべての人間のことをいわれているのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命、という意味です。

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ですから「天上天下 唯我独尊」とは、
私たちすべての人は、人間に生まれなければ決して果たせない、
たった一つの聖なる目的があって生まれてきたのだ

と教えられているお言葉なのです。
老いも若きも、男も女も、貧しい人・富める人、
健常者・障害者、賢愚を問わず、
この世に生まれた目的は、万人に共通してただ一つである。
その尊い使命を果たすべく生まれた人命はすべて
「地球より重い、尊厳な命なのだ」と明らかにされたのが
仏教なのです。

●役に立たない命は
      意味がないの!?

ところが「唯我独尊」の誤解からも分かるように、
お釈迦さまの教えを正しく知る人はなく、
人命軽視の痛ましい事件が相次いでいます。
中でも人々に大きな衝撃を与えたのが、
今年7月、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件でしょう。
重度の障害を抱える19名の命を奪った元職員の男は、
「障害者は社会を不幸にする。いなくなればいいと思った」
と犯行の動機を語っています。
こんな彼の考えには、当然、メディアも有識者も、
世間中が反発しました。
「すべての命に意味がある」
「いらない命などない」
私たちの社会は、この前提で一応、成立しているからです。
ところが、正面切って
「では私たちの命にどんな意味があるの?」
「なぜすべての命が尊いと言えるのか?」
と問われると、説得力のある答えを示すことはできるでしょうか。
たちまち窮してしまうのではないでしょうか。
男の暴論をきっかけに議論が煮詰まることもなく、
間もなく始まったリオ五輪のニュースで
事件はかき消されてしまった感があります。

それどころか、インターネット上では、
男の主張に賛同する声が少なからず上がっていました。
それらの意見に共通するのは、命の価値を
「社会の役に立つか、立たないか」の尺度だけで見ている点です。
寝たきりや重度の障害でどんな生活活動にも従事できない
“社会の役に立たない人”は、他人の手を煩わせてまで生きる意味があるのか?
いなくなったほうがいい、と考えているのでしょう。
「皆、精一杯生きているのだから、
その命を奪ってはならない」
と反論してみても、
心から納得させることはできないのではないでしょうか。

●自分自身に突きつけられる大問題

男の主張に「何とひどい!」と憤慨している人も、
同じ心が全くないと言い切れるでしょうか?
現在、ロングラン上映中の映画『なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上』で、
主人公の青年・了顕が、そんな私たちの姿を見せてくれています。

了顕は、寝たきりの母・キヌと、
身重の体で義母を介護する妻・千代との3人暮らし。
やがて生まれる子供を生きがいとしていましたが、
不幸な事故で突然、妻子を失ってしまいます。
薄暗い部屋で、母親を横目にため息をつく了顕。
「かわいそうにね。千代も、おなかの子も・・・」
息子を心配して優しく声をかける母に、
「おっかぁなら、よかったのにな」。
吐き捨てるように言い残し、外へ出ていった。

“なぜ寝たきりの母親ではなく、
未来ある妻子が死なねばならなかったのか・・・”
彼の胸に去来したであろう思いを、
私たちは他人事として流せるでしょうか。
了顕も私たちも、重大な事実を見落としがちです。
それは、今は「若い、健康だ」と言っていても、
いつ事故や病で不自由な体になるか分からない、
ということです。
朝、元気でハツラツだった人が、
夕方には寝たきりの病人や障害者になって他人の世話になる。
たとえ寝たきりや重い障害を抱えるまでにはならずとも、
「年寄笑うな、行く道じゃ」。
“明日はわが身”で、誰しも年を重ねれば、
肉体は若い頃のようには動かなくなり、
社会の第一線から退くことにもなります。
本誌読者からも、こんな声が寄せられています。


「70歳でリタイアして、これからの人生をどう生きるかと
真剣に考えた時、全くお先真っ暗で、
何を目的にしたらよいか分からず、
悶々としていました。
情けなく、苦痛でなりません。
そんな状態が何ヶ月も続きました。」
          (72歳男性)


「年を取り、体力も衰え、少し農作業しても疲れ、
病院も内科、眼科、歯科、泌尿器科等々、
定期的に受診していますが、
健康や家庭など将来のことを考えると不安ばかり」
            (84歳男性)


「若いときから看護師として一生懸命働き、
人様のお世話をすることが大好きで、
それを生きがいとしてきました。
でも今は体力もなくなり、体も不自由になり、
皆さんのお世話になっています。
何もできなくなった自分のふがいなさが悲しく、
寂しい思いをしています」
            (86歳女性)


「老人介護の仕事をしています。
お年寄りが『生きていても仕方がない』『生きる意味がない』
などと寂しくなるようなことを時々言われるのですが、
よい励ましの言葉が見つからず悩んでいます」
             (57歳女性)

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社会に貢献できなくなり、年金や医療費をもらうばかりの立場になった時、
「私の生きる意味とは何なのか?」
そう問う内なる声に驚かされる。
そんな時、「役立たず、早く死ね」と言われて承服できるでしょうか。
この無慈悲なヤリは、必ず自分自身にも突きつけられるのです。

ある人は、事件をこう指摘しています。
「容疑者は障害者施設に入ったことで
『人間とは何か』『生きる意味とは何か』という根本的な問いを
突きつけられたのではないか。
そして、その問いを乗り越える説明を
手に入れることができなかったのではないか」
たとえ他人の手を借りねば生きられなくなったとしても、
私たちの生きる意味とは何なのでしょうか。

●私たちの「独尊」とは?

冒頭で示した、
「天上天下 唯我独尊」
というお釈迦さまのお言葉は、老若男女、
賢愚美醜、貧富、健常者・障害者の差別なく、
万人に共通な目的のあることを教えられています。
ではお釈迦さまが「独尊」と言われる、
たった一つの目的、「なぜ生きる」の答えとは何か?

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

如来所為興出世 唯説弥陀本願海
(如来世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんとなり)

釈迦がこの世に生まれられた目的は、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説くためであった。

と断言なされています。
釈迦は阿弥陀仏の本願一つを説くために生まれられた。
そして、私たちすべての人は、この弥陀の本願一つを聞くために
生まれてきたのです。

弥陀の本願において、釈迦と私たちの出世本懐(人生の目的)は
一致しています。
では阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。
映画『なぜ生きる』で、蓮如上人のお弟子になった主人公・本光房了顕が
法友とこんなやり取りをしています。

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女性A「本光房さま。阿弥陀さまとお釈迦さまは、
    同じ仏さまさまなんでしょう?」
了顕 「いやいや、全く違う仏さまなんですよ」
男性A 「ありゃ、そうか?わしゃ今まで、てっきり同じ仏さまと
    ばかり思っておったが・・・」
了顕 「蓮如上人が今日、懇ろに教えてくださったじゃありません  か。大宇宙には大日如来とか薬師如来とか、たくさんの仏さまがおられるが、それらの本師本仏が阿弥陀如来さまなんだと」
女性B 「ということは、本光房さま、お釈迦さまも阿弥陀さまのお弟子さんというわけですね」
了顕 「そのとおりです」

“ありゃ、私も今まで阿弥陀さまとお釈迦さまは
同じ仏だと思っていた”という方もあるかもしれません。
地球上に出現された仏さまは、お釈迦さまお一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
それぞれの世界に仏さまがおられる。
その諸仏方の先生が阿弥陀如来であり、
大日如来や薬師如来、釈迦如来は皆、
阿弥陀仏のお弟子だと教えられています。

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その本師本仏の弥陀如来が、十方衆生(すべての人)を
相手に誓われたお約束が「阿弥陀如来の本願」です。


それは、

「どんな人も 必ず絶対の幸福に救う」

との内容で、十方衆生(すべての人)を、
どんなことがあっても変わらぬ絶対の幸福に救い摂り、
来世は必ず弥陀の浄土へ生まれさせる、
という命を懸けたお約束です。

この阿弥陀仏の救いについて、親鸞聖人は『正信偈』に
こう仰っています。

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
(凡・聖・逆・謗斉しく〈ひとしく〉廻入すれば、
衆水〈しゅうすい〉の海に入りて一味なるがごとし)
 
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人生の目的を完成した人は、
才能の有無、健常者・障害者、人種や職業、貧富の違いなど関係なく、
万川の水が海に入って一味になるように、
すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ。

「凡聖逆謗」とは、凡夫(凡)も聖者(聖)も、
五逆(逆)の罪人も法謗(謗)の極悪人も、
の意味で、「すべての人」のこと。
「斉しく廻入すれば」とは、阿弥陀仏の本願に救われたならば、
ということで、
「衆水」は、あらゆる河川の水です。
万川には、大小、清濁、いろいろあるが、
ひとたび大海へ流れ込めば、
海水の一味に溶け込むように、
一切の分け隔てなく弥陀は万人を救い摂ってくださるのだよ、
と仰っているのです。
このことを室町時代の蓮如上人は『御文章』に次のように仰せです。

抑、その信心をとらんずるには、
更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、
男子も女人もいらず、(略)されば安心という2字をば、
『やすきこころ』と訓めるはこの意なり。
更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、
極楽に往生すべし。
あら、心得やすの安心や。
又、あら、ゆきやすの浄土や
」(御文章2帖目7通)

ここで「安心」や「信心」」と言われているのは
弥陀より賜る「他力の信心」のことです。
他力の信心を獲るには、全く何の条件もなし。
この他力の信心を獲て、本願のとおりに絶対の幸福に救われ、
永久の迷いを断ち切っていただくことが、
私たちが人間に生まれてきたたった一つの目的(独尊)なのだと
教えられています。

●同じものを頂くから、同じ幸せになれる

知恵や才能、学問や体力などは十人十色、
一人として同じ人はありません。
そんな千差万別、億差丁別の人のすべてが、
一味平等の世界に救い摂られるのはなぜなのでしょう。
それは、弥陀より賜る「信心」が同じだからです。
例えていえば、財布と紙幣のような関係です。
西陣織の金襴の財布と100円で売っている木綿の財布があり、
それぞれ一万円札が入っているとします。
金襴の財布は高級感にあふれ、木綿の財布は粗末なものですが、
中身の一万円札の価値は少しも変わりません。
同じ日銀発行の紙幣だからです。
財布は、人それぞれ異なる知恵や学問などを例えたもの。
親鸞聖人や蓮如上人は金襴の財布、
そんな知恵や才能もない私は木綿の財布です。
しかし阿弥陀仏より賜る他力の信心(南無阿弥陀仏)は、
どんなに受け取った人の知恵や学問に相異があっても、
全く変わりはありません。

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阿弥陀仏は、
「すべての人を平等に絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土へ生まれさせる」
という本願を果たすために、
「南無阿弥陀仏」の名号を創られました。
だから、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
万人を救う偉大なお力があります。
私たちには、弥陀よりこの南無阿弥陀仏を賜って、
絶対の幸福(往生一定)に救い摂られるのです。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も、
浄土真宗の正しい御本尊は南無阿弥陀仏の名号だと教えられ、
生涯、御名号しか本尊となさいませんでした。
根本に尊ぶべきは、名号・南無阿弥陀仏なのです。

●最後の一瞬まで、
     全員にチャンスあり

阿弥陀仏の救済の対象は十方衆生(すべての人)ですから、
差別は一切ありません。
それだけでなく、臨終の迫った寝たきり状態の人をも救うために、
「聞く一念に救う」と誓われている。
これを、「一念往生」といいます。
「一念」とは1秒より短い時間の極まりです。
覚如上人(親鸞聖人の曾孫)は、こう教示されています。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって本願とせば、
いのちの一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす

             (口伝鈔)

阿弥陀如来の本願は、今、臨終という最も短命の人を
救うことに焦点を当てられている。
もし3秒かかるような救いでっは、1秒しか命のない人は助からない。
一念の救いこそが、弥陀の本願の最も大事な特徴なのだ。

こんな一念の救い(一念往生)は、
大宇宙で弥陀の本願にしかありません。
この一念往生こそが、弥陀の救いの「肝要」であり
「淵源(えんげん)」だと覚如上人は言われています。
「肝要」も「淵源」も、仏教で最も大事なことを表す言葉です。
このように阿弥陀如来の救いは極速の一念ですから、
手遅れということは絶対にないのです。
“私は物覚えが悪いから、足が不自由だから、
耳が聞こえないから、年を取ってしまったから、
こんなに重病だから、阿弥陀様に救っていただけないだろう”
と思っている人もあるかもしれませんが、
とんでもない。
どんな難聴者も、最後の一息まで永久の幸福に
救い摂られるチャンスは尽きませんから、
決してあきらめてはなりません。
弥陀の不可思議の願力によって、
聞即信の一念に南無阿弥陀仏を賜れば誰もが、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
「地球より重い“尊厳なる生命”を今、獲得せり」
と生命の大歓喜を味わうことができるのです。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
一切の計らいを捨てて、弥陀の本願を聞信いたしましょう。


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