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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

親鸞聖人が教えられたほんとうの「大往生」 [なぜ生きる]

親鸞聖人が教えられた
      ほんとうの「大往生」

浄土真宗では毎年、親鸞聖人のご命日(11月28日)を
中心に「報恩講」が開かれます。
誰もが知りたい「なぜ生きる」の答えを、
明示してくだされた聖人のご恩に報いる集まりです。
真宗の年間行事でも、特に大事なご法縁ですから、
古来、篤信(とくしん)な人は、他の用事を差し置いても
必ず参詣していました。
今日、平成の私たちが聖人の深きご恩を知り、
感じ、報いるには、まず教えをよく知ることが大事です。
今回は報恩講をご縁に、
聖人の教えを聞かせていただきましょう。

●死ねば誰でも
     「往生」できるのですか?

世界的なヒット曲『上を向いて歩こう』(歌・坂本九)
の作詞者として知られる永六輔さんが、
7月に亡くなりました。
永さんといえば、約20年前、
200万部超えのベストセラーとなった『大往生』が有名です。
その執筆動機を、「まえがき」にこう述べています。
かつて回答者を務めていたラジオの
子供電話相談室」で、
「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの」と質問され、
絶句したことがある。
その子の疑問に答える本にしたい、と。
そして本の最後に、
「人は死にます
必ず死にます
その時に
生まれてきてよかった
生きていてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを
大往生といいます」
と記しています。
“生まれてきてよかった”という喜びと感謝で
人生を終えるのが「大往生」であり、
質問した子への答えだと言いたかったのでしょう。

●「往生」の誤解いろいろ

それほど売れた『大往生』ですが、
20年たった今も、往生の本当の意味を知らない人がほとんどです。
例えば、「隣のお婆さん、今朝往生したそうな」
「台風で電車が立ち往生した」
「車が突然、故障して、往生した」
など、「死ぬ」「動けなくなる」「困る」の意味で
使う人が少なくないのです。
本来「往」にも「生」にも、
そんなマイナスな意味はありません。
「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ「往(ゆ)」き、
仏に「生」まれること。
これは親鸞聖人の教えの重要なキーワードですから、
よく知っていただきたいと思います。

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終末期患者の心のケアの重要性を、
8月下旬、NHKの『クローズアップ現代+』が
「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
というタイトルで特集していました。
死に直面すると、
「死んだらどうなるのか」
「私の人生の意味は?」
という切実な問いが、患者の心に湧き起ってきます。
これを「スピリチュアルペイン」といいます。
「生命の根元にかかわる深い痛み」であると、
本誌2月号で、真野鋭志医師のコメントとともに取り上げました。
この深刻な「スピリチュアルペイン」を、
患者はこれまで、“家族に心配をかけたくない”
“医師の手を煩わせたくない”などの理由で、
なかなか口に出せなかったといいます。
それが今、人生の最も重要な問題として、
正面から取り上げられつつあるのです。
仏教では「死んだらどうなるか分からぬ心」を、
「無明の闇」とか「後生暗い心」といわれ、
苦しみの根本と教えられています。

真の往生は、この暗い心が破られ、
「後生明るい心」にならなければできません。

番組では、このような終末期患者の心を専門的にケアする
「臨床宗教師」の取り組みを通して、
すべての人に宗教が必要であると訴えていました。
しかし、患者の死後のイメージに同調することで、
死の不安や恐怖を和らげることはあっても、
肝心の“どうすれば往生できるのか”に、
明らかな答えは示されませんでした。

●「往生」は今、定まる

これについては親鸞聖人は、
こう断言されています。
“どんな人でも、大宇宙最尊の本願に救い摂られれば、
必ず無量光明土(極楽浄土)に往生できるのだよ”と。
阿弥陀仏とは、大宇宙にまします
諸仏方の本師本仏(先生)である仏さまのこと。
本願とはお約束のことで、
阿弥陀仏は、次のように誓われています。

「すべての人を
   必ず絶対の幸福に助ける」

「絶対の幸福」とは、現在ただ今、
いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)と
ハッキリ定まった大安心のこと。
浄土に往生するのは肉体の死後ですが、
往生が確定するのは、この世で弥陀の本願に救い摂られた時なのです。
それを親鸞聖人は、
「信心の定まるとき往生また定まるなり」
             (末灯鈔)
と教示されています。
この阿弥陀仏の本願を聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、
「難度海を度する大船」と仰っています。

●荒波絶えぬ人生の海

「難度海」とは、苦悩の波の絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人が、荒波の絶えない海に例えられたお言葉です。
人生、苦悩の波間から、こんな嘆きの声が聞こえてきます。
「10年前に妻をガンで亡くし、65歳で退職、今は独り暮らしです。
2年前に私も宣告を受けました。
手術は成功しましたが、余命は少ないので、
趣味があってもむなしく、毎日の食事、ガランとした自宅にも嫌気が差し、
マンションから下を見れば飛び込みたい気持ちになることも・・・」
「人間関係、親子関係、孫の教育などで、
胃が痛くなるほど苦しく、パニックになりそうです。
『なぜ生きる』と考えると涙が出ます」
私たちは生まれると同時に、
空と水しか見えない大海原へ放り出されたようなもの。
30年以上、助産婦を務めたある女性が、こう語っていました。
「赤ん坊が生まれて、私たちがまずするのは、
お母さんの体内から出たばかりの赤ちゃんの顔を覆っている
ヌルヌルのものをきれいに拭き取ること。
そして息ができるようにするのです」
ヘソの緒を切ると、母親から酸素が来なくなりますから、
赤ん坊は自分で呼吸しなければならない。
オギャーと泣きながら、赤ん坊は必死に呼吸し、生きようとする。
荒海を泳ごうとしているのです。
しかし、どこへ向かって泳ぐのか。
どんなに一生懸命に泳いでも、方角の立たぬまま、
むやみやたらに泳いでいれば、
やがて心身ともに力尽き、土左衛門になるのは明らかです。
ここで、映画『なぜ生きる』の蓮如上人のご説法をお聞きしましょう。

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蓮如上人「みなさん。私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です。
少しでも元気がないと『頑張って生きよ』と、
励ますでしょう。
だが、少し考えてみれば、おかしなことです。
やがて必ず死なねばならないのに、
なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。
おかしな話ではありませんか。
この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、
親鸞聖人なのですよ。
親鸞聖人はね。どんなに苦しくても、生きなばならぬのは、
私たちには、とっても大事な目的があるからだと、
懇ろに教えられています。
その肝心の、生きる目的を知らなければ、
生きる意味がなくなるではありませんか、みなさん」

●「あなたの生きる目的は?」

ここで蓮如上人が仰る、
生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる
とはどんなことなのでしょう。
そもそも私たちは、何を目的だと思って生きているでしょうか。
「あなたの生きる目的は?」
と聞かれたらどう答えますか。
例えば子供なら、学校に通って勉強するとか、
友だとと遊ぶことだと思っているでしょう。
中にはいじめられて、学校に行きたくない、いっそ、
「早く卒業したら幸せになれる」と思って
ガマンしている子も少なくないようです。
現在、不登校は全国で12万人に上るといわれています。
“子供は無邪気”“気楽でいいよな”と大人は思っていますが、
子供は子供なりに苦しみ悩みながら生きているのです。
ようやく学校を出て、青年になると、
関心は「異性」に向く。
勉強、趣味、遊び、どんな時も、
男は好きな女の前ではカッコよくふるまいたくなる。
多くの小説やドラマが恋愛をテーマにしているのも、
誰もが
恋人ができたら幸せになれる」
と思っているからでしょう。
適齢期になると、いよいよ「婚活」に力が入る。
「結婚したら幸せになれる」
と金剛のごとく信じ、気の合う相手を求め、
“キミと一緒なら、金も財産も、何も要らない”
とのろけてプロポーズ。
結婚して子供が生まれれば、今度は育児中心の人生に。
母親だけでなく、育児能力の高い父親「イクメン(育児男子)」
が最近は増えました。
「子供が立派に育ったら幸せになれる」
と夫婦で一心に我が子の成長を願い、
子育てに手間、ヒマ、お金をかける。
教育費のために仕事に励み、マイホームを夢みて今度は、
「家が持てたら幸せになれる」
と、さらに仕事に熱中していきます。
そうして家族や会社に身をささげて退職。
加齢で身体が衰えると、
健康維持や病気の快癒に心を砕くようになる。
健康になったら幸せになれる」
とリハビリに精を出す。
いよいよ最後は、
「子孫に財産を遺せたら、オレの人生も意味があったのかな」
と、一生を総括しようとする。

●人生には
    いろんな「坂」がある

このように人生が進むにつれ、
「生きる目的」と思っているものも変わってきますが、
求める苦労は坂道を上るように続くと、
都はるみさんは「夫婦坂」で歌っています。

「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」

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人生にはいろいろな坂がある。
その都度、上り切った満足や安心はありましょうが、
喜びは一時のもので、すぐまた新たな急坂を、
ヨロメキながらも上っていかねばなりません。
どこまで頑張って坂を越えたら、
本当の幸せが待っているのでしょうか。
キリのない登坂の人生を古歌に、

「越えなばと 
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり」

と歌っています。
このように、時の経過とともに変化するものは「生き方」「生きる手段」であって、
人生の真の「目的」ではないと、仏教では教えられます。
難度海でいえば、丸太や板切れを求める「泳ぎ方」の問題なのです。
蓮如上人が先のセリフで、
「私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。
泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です」
と喝破されているのはこのことです。
本当の生きる目的は「なぜ生きる」の答えを知らぬ私たちが、
常に問題にしているのは、より大きな丸太に
“どうたどり着くか”坂なら“どう上るか”、
人生なら“どう生き延びるか”の方法・手段なのです。
その生き方の指南役が、政治や経済、科学や医学、
芸術やスポーツなどといえましょう。
人は皆、「どう生き延びるか」に全知全能を傾けているのです。

●生きることは
     “ムダな抵抗”か

しかし、私たちが忘れてならないのは、
すべての人は、どんな生き方をしても、
やがて必ず死なねばならぬということです。

立て籠もり犯の周囲を取り囲んで、刑事が説得する。
「おまえは包囲されている。
無駄な抵抗はやめて出てきなさい」
もう逃げ場はない。早くアキラメて投降せよ、と。
私たちの営みは、つまるところ「生き延びる」ための努力ですが、
勝ち切ることのできない、必ず「死」によって敗北する闘いです。
この厳粛な事実にぶち当たった時、
冒頭で紹介した子供の質問、
「必ず死ぬのに、なぜ生きるの?」
に、大人も絶句するのです。
苦労して坂道を上り続けた人生の終末が、
「ああ、苦労の連続だったなぁ。報われない人生だった」
で幕が下りては、何と悲しいことでしょう。

それは人生の「目的」と「手段」を取り違えたがゆえの悲劇です。
では真の人生の「目的」とは何か。
この問いに、明らかな解答を示されている方が、
親鸞聖人なのです。

 「大悲の願船に乗じて
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、
衆禍の波転ず」
    (教行信証)

聖人の顕示された大悲の願船(阿弥陀仏の本願)に、
今、乗せていただき、「ああ、なんと素晴らしいことなのか」
と生命の歓喜を獲得する。
これが「なぜ生きる」の答えであり、唯一絶対、
万人共通の人生の目的なのです。

この目的を知って初めて、
「生きる」という手段に意味が生じますから、
映画の中で蓮如上人は
「肝心の、生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる」
と仰っているのです。

●願うべき未来は「浄土往生」

はかない人生の実相が身にしみて知らされた人は何を感ずるか。
蓮如上人は『御文章』に、こう仰せです。
「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつの間にかは年老の積るらんとも、覚えず知らざりき。
然るに、其の中には、然りとも或いは、
花鳥・風月の遊びにも交わりつらん、
また歓楽・苦痛の悲喜にも遇いはんべりつらんなれども、
今にそれとも思い出すこととては一もなし。
ただ徒に明し、徒に暮らして、
老の白髪となり果てぬる身の有様こそ悲しけれ。
されども、今日までは無常の烈しき風にも誘われずして、
我が身ありがおの体をつらつら案ずるに、
ただ夢の如し。
今に於いては、生死出離の一道ならでは、願うべき方とては、
一もなく、また二もなし」
             (御文章4帖目4通)

目指すは「生死出離の一道」のほかにありません。
死ぬことを「旅立つ」「他界する」とよくいわれます。
今生の旅を終え、後生(来世)へ旅立つことです。
仏教では、私たちの肉体はこの世限りだが、
三世を貫いて流れている不滅の生命があると説かれています。
「三世」とは過去世、現在世、未来世のこと。
過去世は親、現在世は私、未来世は子供という三世代の意味ではなく、
私たち一人一人の生命が三世を貫いているのです。
日頃は、“来世などあるものか”と言っている人も、
いよいよ死が近づくと、とても無になってしまうとは思えず、
死後の世界を否定できないのは、
深い人間性からくるものです。
来世を認めぬはずの共産思想家の周恩来が臨終、
肉体の苦痛にあえいでいると、
盟友の毛沢東が見舞って励ました。
周は、“今は苦しいが、もうすぐマルクスに会える”
と言ったといいます。
自らの信条に従えば、出ようのない言葉ですが、
死の巌頭に立ち、後生を予感して、
こう言わずにおれなかったのでしょう。
私たちが人間に生まれてきた目的は、
この世だけでなく、三世にわたって変わらぬ多生の目的なのです。

「噫(ああ)、弘誓の強縁は多少にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし」
            (教行信証)
(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、
多生億劫の永い間、求め続けてきた
歓喜の生命を得ることができた。これは
全く弥陀の強いお力によってであった)

かつて体験したことのない驚きと歓喜を、
「噫」と感嘆されています。
「弘誓の強縁」とは、“すべての人を絶対の幸福に救う”
熱烈な弥陀のお力をいいます。
弥陀の救いは、この世、一生だけの問題ではなかった、
過去無量劫、果てしなく生死生死を繰り返し、
未来永遠に流れていく不滅の生命の根本解決であったと知らされるから、
「多生にも値(もうあ)いがたし」「億劫にも獲がたし」と言われているのです。
これは決して夢物語ではない。
弥陀の強縁によって、誰もがその身に救われるのだと、
聖人ご自身が大悲の願船に乗じられて仰ったお言葉を、
最後にもう一度、お聞きしましょう。

「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍に波転ず。
即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、
大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべし」
             (教行信証行巻)

大悲の願船に乗せていただいたら、
つらく苦しい人生が、千波万波きらめく光明の広海に浮かぶ人生に、
ガラリと転じ変わった。
一念で無明の闇(死んだらどうなるかハッキリしない、後生暗い心)
が照破され、後生明るい心になって、
一息切れると同時に、無限に明るい極楽浄土に往生し、
弥陀同体の仏になるのだ、と仰っています。
この世で絶対の幸福に救われた人だけが、
本当の「大往生」ができるのです。

その身に早くなるよう、
真剣に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

それが親鸞聖人の深いご恩に報いる真の報恩講となるのです。


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