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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

私とは、何ものか [阿頼耶識(我々の本当の心)]

私といっても肉体以外になく、死んで消滅すれば、
私も無くなると思っていましたが、
肉親を亡くした時、「無」になったとはとても思えませんでした。
一体、「私」とは何なのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
医学の進歩はめざましく、
さまざまな人工臓器の移植が実現されつつあります。
やがて心臓の患者は、障害のある心臓をあれこれ治療することは止めて、
新品の人工心臓に取りかえて元気になるでしょう。
胃腸の悪い人も、手足が動かなくなれば、
これまた新品の手足と取りかえます。
もちろん濁った血液は、清浄な血液と入れかえもできるといった具合に、
ちょうど機械の部品が故障すると、
新品に替えたり補強されたりするように、
私たちの肉体もなるかもしれません。
将来は、人体組織のすべてが交換自由になるでしょう。
さて、そのようになった場合、一体、
生来の私というものは、どうなるのか、
ということが問題になります。
肉体の全てが替わってしまった時でも、
私という根源的主体性というものには、
全然影響が及ばないのでしょうか。

●肉体は別人、
    でも私は私?

肉体は別人であっても、
意識は依然として私であるという面白いことがおきます。
肉体のすべてが変わっても、
私そのものは変わらないとすれば、
その私とは一体、何者でしょうか。
これは決して、これからの医学を仮定しての問題ではありません。
すでに、私たちの肉体は約六十兆の細胞からできていることは
周知のことです。
しかもその細胞は、絶えず新陳代謝して、
おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
されば、7年前の私と7年後の私とは物質的に全く別人ということです。
ですが、実際は別人の感じはなく、
やはり同一人であることに間違いないのです。
してみれば、7年前の自分と今の自分との間には、
物質以外に何か一貫して変わらないものがあると
思わなければなりません。
これを統一的主体といわれます。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と、
年配者は言います。
統一的主体としての自己が、
肉体の老化とは関係なくあまり変わらないからでしょう。
これを仏教では、
永遠に亡びざる生命の流れである阿頼耶識と説かれています。
これが明らかにならなければ、
私が行方不明になります。
この永遠の生命の実相が説かれているのが仏法ですから、
本当の私と対面するところまで聞きましょう。


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