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真実の仏教を説く先生は数百年に一人ですが、現在その先生が富山におられます。先生の書物によって皆さんに仏縁を結んでもらい、後生の一大事の解決の入り口になればと思います。

このブログは、作り話を載せているのではありません。
死ねばどうなるか、ハッキリしていませんよね。
もしかしたら、死後は苦しみの世界になるのではないかと
誰もが考えることはあると思いますが、
お釈迦さまは『大無量寿経』で、ズバリ、「必堕無間(地獄)」と教えています。
我々には想像できないほどの大苦悩を受ける世界に
気の遠くなるほどの長年月、堕ちねばならないと説かれているのです。
それは何故か、そしてどうすればそれを解決できるのかを教えるために、
お釈迦さまは地球にお出ましになられました。
このブログは読み飛ばさないことをお勧めします。
無知ほど恐いものはないのです。
(弥陀の本願を知らない、求めないこと自体、あまりに危険です。
人間として生まれて来た意味もわからないまま、畜生と同じ一生を終えますか!?
畜生は仏教を理解する知恵がないから六道輪廻し、永遠に苦しまなくてはなりませんが、
我々人間は弥陀の本願を聞思し、救われて極楽往生できる道があるのです。
だから人間として生まれたということはものすごいことであり、
ボーとして求めるものを求めずに過ごしてしまったら取り返しのつかないことなのです。)

           

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私とは、何ものか [阿頼耶識(我々の本当の心)]

私といっても肉体以外になく、死んで消滅すれば、
私も無くなると思っていましたが、
肉親を亡くした時、「無」になったとはとても思えませんでした。
一体、「私」とは何なのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
医学の進歩はめざましく、
さまざまな人工臓器の移植が実現されつつあります。
やがて心臓の患者は、障害のある心臓をあれこれ治療することは止めて、
新品の人工心臓に取りかえて元気になるでしょう。
胃腸の悪い人も、手足が動かなくなれば、
これまた新品の手足と取りかえます。
もちろん濁った血液は、清浄な血液と入れかえもできるといった具合に、
ちょうど機械の部品が故障すると、
新品に替えたり補強されたりするように、
私たちの肉体もなるかもしれません。
将来は、人体組織のすべてが交換自由になるでしょう。
さて、そのようになった場合、一体、
生来の私というものは、どうなるのか、
ということが問題になります。
肉体の全てが替わってしまった時でも、
私という根源的主体性というものには、
全然影響が及ばないのでしょうか。

●肉体は別人、
    でも私は私?

肉体は別人であっても、
意識は依然として私であるという面白いことがおきます。
肉体のすべてが変わっても、
私そのものは変わらないとすれば、
その私とは一体、何者でしょうか。
これは決して、これからの医学を仮定しての問題ではありません。
すでに、私たちの肉体は約六十兆の細胞からできていることは
周知のことです。
しかもその細胞は、絶えず新陳代謝して、
おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
されば、7年前の私と7年後の私とは物質的に全く別人ということです。
ですが、実際は別人の感じはなく、
やはり同一人であることに間違いないのです。
してみれば、7年前の自分と今の自分との間には、
物質以外に何か一貫して変わらないものがあると
思わなければなりません。
これを統一的主体といわれます。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と、
年配者は言います。
統一的主体としての自己が、
肉体の老化とは関係なくあまり変わらないからでしょう。
これを仏教では、
永遠に亡びざる生命の流れである阿頼耶識と説かれています。
これが明らかにならなければ、
私が行方不明になります。
この永遠の生命の実相が説かれているのが仏法ですから、
本当の私と対面するところまで聞きましょう。


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大人のための『正信偈』入門 [親鸞聖人]


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「きみょうむりょうじゅーにょーらい」
で始まる、親鸞聖人の『正信偈』。
編集部には毎月、『正信偈』に引かれて
仏教を学びたくなったという声が
多く寄せられます。
七文字百二十行の『正信偈』の中には
何が教えられ、私の人生にとって
どんな意味を持つのでしょうか。
初めて触れる方も、よく親しんでいる方も、
ぜひ知りたいことでしょう。
今月は「正信偈」という名前の意味から、
その答えをひもといてみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

家事や仕事に追い立てられ、
毎日が慌ただしく過ぎゆく。
同じことの繰り返しの中で、
ふと気がつけば、人生のたそがれが目前に迫っている。
あなたは何をするために、
人間としてこの世に生を受けられたのでしょうか。
ただ“食て寝て起きて金ためて”子育てのに励むためなのか。
心の底から「生まれてきてよかった」という生命の歓喜を
味わうことができる人生とは、
どうすればよいのでしょうか。
最近、仏前で心静かに『正信偈』を拝読する人が増えています。
この朝夕の「勤行(おつとめ)」は、
人としての「日々のたしなみ」です。

昔は食事の前に家族そろって勤行する家庭も多く、
「勤行しないと、ご飯を食べさせてもらえなかった」
と懐かしむ方もあるでしょう。
一方で、あるきっかけで『正信偈』を読み始める人が多いのです。
それは「大切な人との別れ」です。

本誌読者の園田ヨシコ(仮名)は、
3年前の秋、、50年連れ添った最愛の夫を亡くした。
医師として多忙だった夫を支える園田さんの周囲には、
いつも多くの人の出入りがあった。
だが葬式が終わると、サーッと引いて、
急に独りぼっちになった。
「ドカーンと、落ち込みました」
音がないと心が沈む。
見もしないテレビをつけ、
自分が吹き込んだ歌をテープレコーダーでかけ、
部屋を音で満たして気を紛らわそうとした。
「独りぼっちになっても寂しくないように、
と続けてきたお茶やお花も、孤独な心には、
何の役にも立たないことが分かりました」
ほとんど出歩くことができぬまま、
仏前で『正信偈』をあげる毎日が続く。
半年が過ぎた頃、新聞折込で仏教勉強会の案内を目にした。
「何かある」と直感し、会場へ足を運ぶ。
仏教のイロハからの分かりやすい解説に
「ひび割れた土がグングン水を吸収するように、
続けて聞かずにおれなくなりました」。
以来、光に向かって、聞法人生を歩み始めた。

園田さんと接した講師は、
その心情をこう語っています。
「大切なご主人を亡くされ、お仏壇の前に座る。
『喪失』という言葉を超えた寂しさを埋める方法は、
それしかなかったのでしょう。
しかし、ただ座っていることは耐えられない。
そこで『正信偈』を読み始めました。
そして生きながら死んだような状態から、
少しずつ、少しずつ心が力を取り戻していかれたのです」
お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、
この世に変わらないものはないと教えられました。
「大切な人も死ぬことがある」と、
頭では理解していても、
身近な人の死ほど受け入れるのは容易ではありません。
妻を亡くし、「残りの人生は供養のみ」
と語る中高年男性も多くありますが、
実は供養しているのは
「最も大切なものを失った亡骸のような自分」ではないか

と言う人がありました。
愛する人は自分の一部であり、
伴侶の死は、自分の一部が死んだも同じ。
「このつらい経験は、私にとってどんな意味があるのか」
皆、その答えを求めて仏前に座るのでしょう。
そして、その答えにたどり着いた時、
初めて人は迷える自分自身の追悼を終える、
といえるのかもしれません。
「この『正信偈』の中に答えがあるかもしれない」
そんなせつない、すがるような思いが、
阿弥陀如来のご方便となって、
多くの人を仏法へと向かわせるのでしょう。
『正信偈』に、明らかな私たちの生きる道が
説かれていると知った園田さんは、
「夫を失った悲しみは今も癒えないけれど、
光に向かう道に導かれたこと、感謝せずにおれないのです」
と語っています。

●『正信偈』には
     何が教えられているのか

『正信偈』とは「正しい信心のうた」という意味です。
「信心」と聞くと、無宗教の自分には関係ないと思う人がありますが、
神や仏を信じるだけが信心ではありません。
心で何かを信じていれば、それは、その人の信心なのです。
「信じる」とは、言葉を換えれば、
頼りにし、支えにし、愛すること。
何かを信じなければ、人は生きてはいけません。

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生きるとは、信ずることですから、皆、
必ず何らかの信心を持っているのです。
例えば「明日も明後日も、家族みんな、元気でいられる」
と思って生きています。
それは「自分の死」や「健康」「家族」を
「信じている」ということです。
家や貯蓄、持てる才能や技術を、
あて力にしている人もあるでしょう。
「信じている」という自覚さえないほどに私たちは、
それらに頼り切って生きています。
それが如実に知らされるのは、その幸せが揺らいだ時です。
東日本大震災から5年が過ぎた4月14日、
熊本や大分を中心に、九州全域を襲った地震では、
不気味な余震が千回以上も続き、
倒壊の危険のある自宅に戻れず、
多くの方が避難所生活を余儀なくされました。
昨日までの平穏が一夜にして暗転し、
どれだけの方が、信じ、支えにしていた幸福に裏切られ、
肩を落とし、今も苦しんでおられることでしょう。
「私の住む地域は地震がないから大丈夫」
と思っている方も、他人事ではありません。
「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」
と言った人がありますが、人生は、
「まさか、こんなことに・・・」
という驚きの連続でしょう。

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初孫を抱き上げようとしたら腰の辺りに激痛が走り、
リハビリ生活、「まさか、ギックリ腰に・・・」
かわいい息子が助けを求めてきたと思って
大金を振り込んだら、実は振り込め詐欺だった。
「まさか、自分が・・・」
何でもハイハイ従う、おとなしくていい妻だと思っていたら、
定年後に三行半を突きつけられて熟年離婚。
「まさか、俺の女房が・・・」
健康診断でガンが見つかった人が、
足下が崩れるようなショックを受けるのも、
信じていた健康に裏切られたから。
子供に虐待されて苦しむのは、
命として信じて育てたわが子に裏切られたからです。
「2年前に突発性難聴になり、片耳が聞こえなくなりました。
さらに母がガンで余命3ヶ月の宣告を受け、
受け入れられず、苦しんでいます」
「息子に『金だけ残して死ね』と言われ、
ウツになりました。何のためにいきるのか、
毎日考えています」
こんな愁嘆の声が、世の中にはあふれています。
私たちの苦しみの悩みは、どこから起きるかといえば、
自分が信じ、支えにしているものに
裏切られる時に起きるのです。
「私は別に苦しみなんてないよ」と言うのは、
幸いにもまだ信心が崩れていないからでしょうが、
遅かれ早かれ、その時はやってきます。

無防備に深く信じていればいるほど、
その衝撃は大きくならざるをえないでしょう。

だからこそ、本当に幸せになろうとする時には、
今の私は、何をどう信じているかをよくよく吟味し、
絶対変わらない、裏切られないものを信じなければならないと、
仏教では教えられるのです。

●絶対裏切られない信心
   “浄土往生に碍りなし”

しかし、この肉体さえ焼いて滅びていくのに、
そんな不滅の幸福など、どこにあるのか。
親鸞聖人は「一切の滅びる中に、滅びざる幸せが、
ただ一つだけある」と教えられました。

それこそが、阿弥陀仏の本願に誓われている「絶対の幸福」です。
この弥陀より賜る絶対不幸の幸せ「正しい信心」といわれ、
それを明らかにされたのが『正信偈』なのです。
この正しい信心を獲得した時、
「人間に生まれてよかった・・・。
このための人生だったのか」
と、どんな人もハッキリいたします。
では、絶対の幸福とはどんな幸せでしょうか。
想像もできぬその世界を、親鸞聖人は、
かの有名な『歎異抄』に、「無碍の一道」と喝破されています。

「念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず。
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々」
                (歎異抄七章)
“弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りにならぬ絶対の幸福者である”

ここで言われる「念仏者」とは、
ただ口で「南無阿弥陀仏」と称えている人のことではなく、
弥陀に救われ、お礼の念仏を称えずにおれなくなった人のこと。
すぐ後に「信心の行者」と言い換えられていることでも
明らかでしょう。
「碍りだらけのこの世にあって、
弥陀に救い摂られた人は、
一切が碍りとならぬ絶対の幸福者になれる」
親鸞さまの断言です。
澄み渡る無碍の一道の爽快さを、
「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
と仰っています。
神といえば、普通は私たちがおそれて頭を下げるもの。
ところが弥陀より信心を賜った者には、
天地の神々が敬って頭を下げ、
幸せをぶち壊す悪魔や外道の輩も一切、
妨げることができなくなるのだとの確言です。
ここで「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、
「浄土往生の碍り」のこと。
弥陀に救い摂られれば、たとえいかなることで、
どんな罪悪を犯しても、
“必ず浄土へ往ける金剛心”には全く影響しないから
「罪悪も業報を感ずることあたわず」。
この世のいかなる善行を、
どんなに励んだ結果も及ばぬ幸せだから
「諸善も及ぶことなし」と、宣言されています。

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それでは、この世の苦しみや悲しみは一切なくなるのか。
どんな目に遭っても、誰を失っても笑っている人間になるのか、
と思われるかもしれませんが、そうではありません。
無碍の一道に出たならば、
この世の災禍がいかに襲ってこようとも、
浄土往生は微塵も変わらず、苦しみがそのまま楽しみに転ずる。
つらい事実も幸せの種に変わるという、
全く常識破りの世界です。
「私ほど不幸な者はない」
と他人に恨み世を呪っていた人が、
その涙の種が幸せ喜ぶ種となり、
逆境に微笑し、輝く世界が拝める不思議。
「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」
流れた苦しい年月も過去形で語れる至福です。
これを「転悪成善」の幸せといいます。
転悪成善の不思議さを、聖人はこんな例えで説かれています。

「罪障功徳の体となる
水と氷のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し」(高僧和讃)
(大きな氷ほど、解けた水が多いだろう。
罪や障りの氷が多いほど、
幸せよろこぶ水が多くなるのだ)

ひとたび弥陀より絶対の幸福を賜れば、
渦巻く現実のままが光明の広海と転じ、
泣いても曇らず、笑ってもふざけず、
富んでもおごらず、貧しくても卑屈にならず、
憎まれてもすねず、ウラミと呪いの人生を、
感謝と法悦で乗り切らせていただく魂の自由人となるのです。
29歳の御時、この弥陀の救いにあずかられた聖人は、

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」。(恩徳讃)

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こんな広大無辺な世界に救いたもうた阿弥陀如来の大恩は、
身を粉にしても報いずにおれないぞ。
お釈迦さまはじめ、この弥陀の救いを伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いてもお返しせずにおれない。
どんな悪人も不可思議な弥陀の本願力で、
今ハッキリ絶対の幸福になれるから、
あなたも早く弥陀の本願を聞信し、
親鸞と同じ心になってくれよ!と念じて筆を染められたが、
『正信偈』百二十行となったのです。

この親鸞聖人の教えを聞き求め、ともに無碍の一道、
絶対の幸福に向かって進ませていただきましょう。
正しい信心を獲得した時、悲しみも苦しみも、
全て通らねばならぬ道だったと知らされ、
如来のご方便に感謝せずにいられなくなるでしょう。
あなたの大切な方も、きっとそれを願っていられるはずですよ。


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ご遺言にあふれる恩徳讃の心 [親鸞聖人]

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
       (親鸞聖人・恩徳讃)
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親鸞聖人の「恩徳讃」は、熱火の法悦にあふれ、
強い決意に満ちています。
終生変わらず、この恩徳讃そのままのご活躍をなされた方が
親鸞聖人でありました。
「身を粉にしても、骨を砕きても」
と、大変なご苦労の中、伝えてくだされた真実によって、
私たちは本当の幸せを知り、永久に崩れぬ幸せになれるのです。
今回も、この「恩徳讃」の御心をお伝えいたしましょう。

●報恩一つに生き抜かれた波乱万丈のご生涯

「阿弥陀如来の大恩と、
その救いをお伝えくだされた師主知識の深恩は、
身を粉に骨砕きても相済まぬ。
受けし恩徳限りなく、返す報謝はやむことなし」
親鸞聖人の真情を知れば、
阿弥陀仏の救いがいかに不可称不可説不可思議で、
どれほど広大無辺かが知られます。

もし弥陀の救いが死後ならば、
この「恩徳讃」はありえません

世に粉砕砕身の形容詞はありますが、
不治の難病を治してもらってでさえ、
「ご恩返し、この身、砕け散っても」とは思えぬもの。
ところが、聖人90年の「恩徳讃」は、
全く形容詞ではありませんでした。
親鸞聖人の生きられた平安末期から鎌倉初期は、
源平の合戦や干ばつの大飢饉で天下は麻のごとく乱れ、
養和の都の死者は43000人を超えたと『方丈記』は記しています。
かかる不穏な社会情勢の中、仏意を鮮明にせんと聖人は、
大変なご苦労をなされました。
31歳、すべての人が煩悩あるままで救われる
弥陀の本願を身をもって明らかにされるため、
僧侶に固く禁じられていた肉食妻帯を断行。
堕落坊主、破戒坊主、悪魔、狂人との世間中の非難も
甘んじて受けられています。
34歳、法然上人の元で、法友たちと激しい論争を三度もなさったのも、
弥陀の本願の聞き誤りを正されるためでした。
35歳の越後流刑は、阿弥陀仏以外に私たちを救ってくださる方はないと
死刑覚悟で徹底的に叫ばれたからです。

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流罪のご苦労は5年に及び、その後、関東に赴かれた。
仏法嫌いの日野左衛門の門前で、極寒の中、
石を枕に雪を褥に休まれ仏法に導かれたのも、
剣をかざし、聖人を殺しに来た山伏・弁円に、
「御同朋、御同行(友よ、兄弟よ)」
とかしずかれ、親しく弥陀の本願を説かれたのも、
弥陀の大恩に報いるため以外にはなかったのです。
そして、生まれ故郷の京都へ帰られた後、
84歳の老聖人に、さらなる人生の怒涛が待っていた。
関東に残してきた長男の善鸞が、
事もあろうに仏法をねじ曲げていると知られたのです。
何度もいさめの手紙を出されましたが、
善鸞は一向に改めようとはしませんでした。
わが子のために多くの人を迷わすことはできぬと、
断腸の思いで義絶。
親子の縁を切ってまで聖人は、
弥陀の本願を護り抜いてくださったのです。

●「御恩報謝やむことなし」とのご遺言

親鸞聖人をかくも雄々しく前進させたのは、
利害得失でもなければ名聞利養でもありませんでした。
「深い阿弥陀仏のご恩を思えば、
世間の悪口や非難などで逡巡(しゅんじゅん)してはおれない」

(逡巡・・尻込みすること)

誠に仏恩の深重なるを念じて人倫のろう言を恥じず
                (親鸞聖人)

ひとえに如来大悲の恩徳に感泣し、
じっとしていられぬ衆生済度の報恩行だったのです。
それでもない「ご恩返しは相済まぬ」のお気持ちを遺言なされ、
『御臨末の御書』として今日に残されています。
そのお言葉を心静かに聞かせていただきましょう。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり
            (御臨末の御書)

これが、弘長2年11月28日、
京都で90年の生涯を閉じられた聖人のご遺言です。
「我が歳きわまりて」とは、
「私の寿命もいよいよ尽きることとなった」ということ。
言うまでもなく、聖人だけが「歳きわまる」のではありません。
生ある者は、必ず死す。
地震や津波に遭わずとも「我が歳きわまる」時が、
100パーセント訪れます。
しかしそれは「今日とも知らず、明日とも知らず」
と蓮如上人が『白骨の御文章(御文)』に言われるとおりで、
すべての人にとって「死ぬ」ことほど確実なものはなく、
「いつ死ぬか」ほど不確実なものはないのです。
ところがどうでしょう。
何百年に一度の事故や災害には、
「万が一」と保険に入って備えるのに、
例外なく訪れる「万が万」の自分の死には
全くの無防備ではないでしょうか。

そして、今日もあくせく、目先の幸せに走り回っています。

しかし、死の巌頭に立たされた時、
それまで明かりとしてきたものは、皆、光を失って、
色あせたものになってしまいます。

「今までの人生、何だったのか」
と愕然とし、それまで軽く考えていた、
「死んだらどうなる」
の問題が、グウッと重い問題となるのです。

ある哲学者はこう書いています。
「死が全く人間の予測や思考の枠を超えた存在であり、
死後の世界が不安と謎に満ちたブラックホールなのである。
死んだらどこへ行くのか、死んだら自分はどうなるのか、
という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とは
まったく次元の異なる恐怖をよび起こす」

受験生は、合格発表を聞くまで落ち着きません。
行く先がハッキリしていないからでしょう。
被災地の方は「この先どうなるか、先が見えない」
と口々に訴えられます。
誰しも未来がハッキリしなければ不安なのです。
しかし、最も不安で分からないのは、
「死んだらどうなるか」という後生です。

チラリとでも死が脳裏をかすめると、
生の土台が根本から揺らぎ、全く心の安定をなくしてしまいます。
これ以上の大問題はありませんから、
これを仏教で「生死の一大事」とも「後生の一大事」ともいわれるのです。

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●後生明るくなった一大宣言

次に、親鸞聖人が『御臨末の御書』に
「安養の浄土に還帰す」と言われていますのは、
「安養」とは、安養仏のことで、阿弥陀仏の別名です。
阿弥陀仏のましますところを安養界ともいわれます。
「安養界」は『正信偈』にも
「至安養界証妙果(安養界に至りて妙果を証す)」
と出てくる言葉で、安楽浄土の世界、極楽浄土のこと。
「妙果」とは、仏のさとりのことです。
ですから、「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰す」とは、
「命尽きたら、この親鸞、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くぞ」
の一大宣言です。
このように、いつ死んでも極楽往生間違いない身になったことを
「往生一定」といいます。
「往」は弥陀の浄土へ往くこと。
「生」は仏に生まれる。
「往生」とは、弥陀の浄土へ往って阿弥陀仏と同じ仏に生まれることです。
「一定」は「一つに定まる」ことですから「ハッキリする」。
いつ死んでも浄土往生間違いなし、とハッキリしたことを
「往生一定」といわれるのです。
暗い後生が明るい後生に転じ、
未来永遠変わらぬ大満足に生かされますから
「絶対の幸福」ともいわれます。
聖人は29歳の御時、阿弥陀仏の本願力によって、
一念で「いつ死んでも浄土往生間違いなし」
と後生明るい心に救い摂られました。
だからこそご臨末に、ためらいなく「安養浄土に還帰す(弥陀の浄土へ帰る)」
「往生一定」と明言なされているのです。
今死ぬとなった時、果たして私たちは同じ断言ができるでしょうか。
もし、後生暗いままなら、極楽浄土へ往けませんから、
親鸞聖人のみ教えを口伝えに聞かれた曽孫(ひまご)の覚如上人は、
こう教えられています。
「浄土へ往けるかどうか(往生の得否)は、平生の一念で決まる。
今、往生一定の身になっていなければ(不定の念に住せば)、
浄土往生できない(かなうべからず)」

然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず  (執持鈔)

「現在、往生がハッキリしていない不定の心では、
極楽往生はできませんよ。
早く、往生一定の身になってもらいたい。
阿弥陀仏のお力で、どんな人でも必ずその身になれるのだから」
との御心です。
このように、阿弥陀仏の本願力によって、
一念で「往生一定」に救われ、
絶対の幸福に生かされることこそ、私たちの生きる目的であり、
人生の決勝点であると親鸞聖人は教えられているのです。

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●無限の報謝

では親鸞さま、極楽へ往かれたらどうされるのですか?
とお聞きすると、
「一度は浄土へ往くが、寄せては返す波のように、
すぐ戻ってくるぞ」

和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

と仰っています。
「和歌の浦曲の片男浪」とは、
万葉の昔から美しい海の代名詞になっている
和歌浦片男波海岸(和歌山県)のこと。
あれだけのご布教をされた親鸞聖人が、
「今生だけではとてもご恩返しは相済まない。
いまだ苦しんでいる人を見捨てて、極楽で一人楽しんでなどおれぬ。
苦しみ悩める人が一人もいなくなるまで、親鸞は無限に戻ってくる。
衆生済度は今からだ」
と仰るのです。
これは、阿弥陀仏より賜る「還相廻向」の働きによる、
と親鸞聖人は教えられています。

他力の信をえん人は
仏恩報ぜんためとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし (正像末和讃)

阿弥陀仏より他力の信心を賜って救い摂られた人は、
弥陀の大恩に報いるために、弥陀から二つの贈りもののあることを、
漏らさず伝え切らねばならない。

弥陀の二つの贈りものとは
「往相廻向(弥陀の浄土へ往く働き)」
「還相廻向(浄土から娑婆に還来して、すべての人を救わねば止まぬ働き)」
の二つである。

この「還相廻向」の働きを聖人は、
「寄せかけ寄せかけ、無限に、この娑婆へ帰ってくる」
と表されているのです。

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●いつも側に親鸞がいるからね

一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり    (親鸞聖人)

私たちが生死の一大事に驚き、聞法に燃え、
往生一定に生かされるのも、
救い摂られたその時から報恩の活動に突き動かされるのも、
全ては阿弥陀如来の広大なお働きによると
明らかにしてくだされた方が親鸞聖人です。
私たちは今、深い因縁で人間に生まれ、
等しく弥陀に照育され、無上道を歩んでいます。
うれしい時も、悲しい時も、決して一人ではありません。
「はらからよ、ともに無上道を進もうぞ」と、
いつも聖人が寄り添い、手を引いておられるのです。

永久の闇より救われし
身の幸何にくらぶべき   (真宗宗歌)

「無量の過去から苦しみ続け、泣き続けた永久の闇から、今、救われた」
とハッキリする時が、必ずあります。
一人居て喜ばは二人と思えと言われても、
“それは往生一定になった人のこと”
と、一人寂しく泣くことはありません。
「一人居て苦しまば二人と思うべし、
二人居て悩まば三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
衆生苦悩我苦悩(人々の苦しみは我が苦しみ)。
悩める人にこそ心をかけてくだされるのです。
苦しんでいる人を放置されるはずがないではありませんか。
喜びも悲しみも、聖人はともにあるのです。
光に向かう人生に、恐れるものは何もない。
無量光明土に向かって、日々、力強く前進させていただきましょう。
最後に「恩徳讃」の御心あふれるご遺言を、
もう一度、聞かせていただきます。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり     (御臨末の御書)

「間もなく私の、今生は終わるであろう。
一度は弥陀の浄土へ還るけれども、
寄せては返す波のように、すぐに戻ってくるからな。
一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。
うれしい時も悲しい時も、決してあなたは、
一人ではないのだよ。
いつも側に親鸞がいるからね」


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